母の日という、儀式。
母の日には日頃の感謝を込めて。
母に。
手紙を書いたり。
プレゼントをしたり。
する。
毎年、している。
母親とは。
合わない。
生き方、とか、考え方、とか。
全く違うって思う。
もし親子じゃなかったとして、
どこか違う場所で知り合ったとしたら。
友だちにはならない。
そんな気がする。
思考が違いすぎる。
だが。
親なので。
友だちにはならないが、家族ではある。
私は、シングルで子を育ててきた。
実家が近くにあり、いざというときに頼りにできる。
その存在のありがたさは、本当に身に沁みている。
会社員である私が。
二度の離婚を経てもなお、正社員としての働き方を維持できているのは、実家=母親が、私の子育てを助けてくれたからだ。
子どもが熱を出したときは、私が仕事をしているあいだ、母に病気の子を預け。
「お熱が出たのでお迎えをお願いします」と保育園から連絡が来れば、その代理をお願いし。
子どもが入院したときは、私が仕事のあいだは私に代わって病院に詰めてくれた。
母と合う、とか、合わない、とか。
そういうことは超越して。
自分が幼い頃の母の狂気じみた姿、とか。
そういうことは超越して。
母親が日常的に、ヒステリックに私を罵った事実、とか。
そういうことは超越して。
私がシングルで子どもをここまで育ててこられたのは。
母がいてくれたから。
母の存在無しでは、私は母親という役割をこなせなかっただろうと思う。
それだけ私の人生において重要な役割を果たしてくれた母親を。
いくら性格が合わなくとも。
いくら幼い頃に嫌な思いをしたとも。
いくら納得できない話を無理矢理呑み込まされた過去があろうとも。
感謝の気持ちを抱かないわけがない。
いや、むしろ。
・・・。
感謝の気持ち「しか」ない。
でも、それは。
母と。
娘である私が、作り上げたことなのだ。
私も担った。
だから後悔もない。
これが、私たち母娘の、姿なのだ。
「花ばっかりもらっても困る」
と。
母の日に花を持参した私に言い放つような母だ。
何を持っていっても気に入らないのだろう。
そう思って、プレゼントを選ぶ。
花は、もう、買えない…。
それで。
お菓子屋さんでマカロンを買った。
好きか嫌いなのかも、わからない。
でも。
プレゼントなんて、自己満足だ。
あげたいモノをあげればいい。
「お菓子ばっかりもらってもねぇ」
と言うかもしれない母を妄想しながら、マカロンを抱えて母のモトへ。
「母の日なのでプレゼントです。いつも、ありがとう」
口頭で伝える。
メッセージカードはナシ。
いつも通り。
「あ、ありがとう」と、素っ気なく言われ終わるのだろう。
と思っていたら。
「嬉しい!高くて自分では買えないんだよ!私ひとりで食べちゃおうっと。いい?」
あ。
そういうことも言えるようになったんですね。
妙に冷静に評価する、娘51歳。←私。笑
母の日に、母に感謝の気持ちを伝えるのは。
自己満足のため。
自分が後悔しないため。
でもさ。
それでもいーよ。
それでもいいじゃん。
本当の気持ちなんて、多分最後まで、お互いに、わからない。
でも、それでいい。
私(娘)は、母親に、感謝の気持ちを込めて、プレゼントをする。
この図式があれば。
だれも、嫌な思いをしないのだ。
欲しくない花を届けても。
欲しているプレゼントがわからなくても。
「母の日にプレゼントを渡した」
この事実が。
きっと、私たち母娘を救う。
必要な儀式なのだ。
母の日。
毎年、プレゼントを渡す。
「贈った」ことで私は満足し。
「もらった」ことで母は満足する。
別に、あげてもあげなくても良いのだけれど。
どちらかが死ぬときに後悔しないように。
欠かさず、贈り物をする。
母の日には、そんな儀式が執り行われる。
そうして、なんとなく、幸せっぽい気持ちになる。
それで、良い。