ドストエフスキー『悪霊』

「ときに、神の存在を信じないで、悪霊の存在だけを信じることができるでしょうか」スタヴローギンはこう言って笑いだした。
「おお、いくらでもできますな、いつもそういうものですて」チーホンは目をあげて、にっこり笑った。
「すると、あなたはそういう信仰のほうがまったくの無信仰よりもまだ尊ぶべきだと思っておいでなのですね……」スタヴローギンは大声で笑いだした。
「それどころか、まったくの無神論のほうが、俗界の無関心よりも尊ぶべきものですて」見受けたところさも愉快そうに、すなおにチーホンは答えたが、同時に用心ぶかく不安そうに客の顔を見つめていた。
「ほほう、そうお考えですか。いや、あなたにはまったく驚かされますね。」
「完全な無神論者と申すものは、なんと言ってもやはり、いま一歩でもっとも完全な信仰に達するばかりの高みに立っておりますからな(最後の一歩を踏み出すか否かは別として)。ところが無関心な人は、愚かな恐怖以外いかなる信仰も持ちませぬ。それとても、感じやすい人の場合ほんのときたま感じるぐらいで」
だがな、キリスト教はどんな環境にあっても責任というものを認めておる。よいかな、神はあなたにも忘れずに知恵を授けなすった。もしあなたが心のなかで、《自分は自分の行為に対して責任を負うているのか、負うていないのか》という質問だけでも発することができれば、すなわちそれであなたはすでに必ず責任を負うておられる。《誘惑がこの世に現われぬわけにはいかぬが、誘惑が現われる手引きをなすものはわざわいなり》じゃ。もっとも、この……あなたの過失について申すならば、同じ過失を犯す者は多いが、彼らはそれを若き日の避けえぬ過失とさえ考えて、おのれの良心を安んじ平穏に暮らしておる。なかにはすでに墓の匂いを放ちながら、同じ過失を犯してなお慰めやたわむれを味わう老人もおりますのじゃ。この世はこうしたあらゆる恐ろしいことでみちみちておる。ところがあなたは少なくとも罪の深みを十分に感じられた。そこまで到達するのはきわめて珍しいことですて」
僕はあなたには赦してもらいたいと希望しています。あなたと、ほかに二、三人の人には。しかしそのほかは、万人に――万人にぜひとも憎悪してもらいたいのです
「ひどく退屈な話ですね。 そのことなら僕は知っています。何百回となくくり返し言われていますからね……」とスタヴローギンがさえぎった。
「しかし、それでは目的を達することはできますまいな」といきなりチーホンが切り込んだ。「法律的にはあなたはほとんど傷を負うてはおられませぬ。そのことをまず人は指摘してあざけりましような。それから疑惑が生じる。だれがこの告白の誠実な動機を理解してくれましょうかな。第一 、人は故意に理解したがりませぬ。なぜならば、人はこのような偉業を恐れておる、不安をもってこの偉業を迎える、この偉業ゆえに憎悪し復讐をする。なぜならば、俗世の者はおのれの不浄を愛しておって、その不浄をゆすぶられることを嫌いますからな。それゆえに人はむしろ笑い飛ばそうとする。なぜならば、彼らのあいだにおいては嘲笑によって人を滅ぼすことが何よりもたやすいからですて」
「もしあなたが自分で自分を赦すことができると信じておられて、その赦しをみずからの苦しみで得ようと求めておられるならば、あなたはすでにすべてを信じておられるわけですじゃ」と彼は嬉しそうに叫んだ。「それなのにあなたは、どうして神を信じないなどと言われたのですかな」
 スタヴローギンは答えなかった。
「神はあなたの不信を赦してくださりましょう。なぜならば、あなたは知らぬまに聖霊の真実(まこと)に従って敬うておられるのですからな」
「僕には神の許しは得られません」とスタウローギンは陰気な声で言った。「あなた方の書物にも、≪この小さき者のひとり≫に侮辱を加えるほど大きな犯罪はない、またありえないと書かれているではありませんか。ほら、その本のなかに!」
 彼は福音書を指差した。
「それに対して喜ばしい知らせをお話し申そう」とチーホンは感動をこめて口をひらいた。「もしあなたが自分で自分を赦すという境地に到達しさえすれば、キリストもお赦しくださろう。……おお、いや、これは間違うた、私は冒涜の言葉を口にいたした。いや、たといあなたが自分との和解や自分への赦しを得られないとしても、そのときでもキリストは、あなたの心がけや大いなる苦しみのゆえにお赦しくださろう。……なぜならば、人間の言葉のなかには小羊のあらゆる進路や機縁を言い表すための言葉も思想もないからじゃ。『その道はいまだわれらに明らけく開かれたることなし』ですて。だれがそのかぎりなきものを抱き取ろうぞ、だれがすべて終わりなきものを会得しようぞ!」
「あなたは受難と自己犠牲の欲求に打ち負かされておられる。この欲求に打ち勝つことじゃ。文書やあなたの意図のことは忘れることじゃ、そうしてこそあなたはすべてに打ち勝つことでござろう。自分の誇りだの、心に巣食う悪霊だのをぞんぶんに辱めてやるがよろしい。最後にはあなたは勝利者となって、自由を得られましょうぞ……」
「あなたはこの僕に出家してその僧院へはいれとおっしゃるのですね」と彼はたずねた。
「あなたは僧院へはいる必要はござらぬ、出家なさる必要もな。ただ隠れたる、隠密の修行僧になるまででござる。そのまま俗界に暮らされてもかまいませぬ……」
「やめてください、チーホン神父」とスタヴローギンは気むずかしくさえぎって、椅子から立ちあがった。チーホンも腰をあげた。
「どうなさったのです?」とつぜんスタヴローギンは、ほとんどおびえたようにチーホンの顔をのぞき込みながら叫んだ。相手は手を前に組んだまま、彼の前に立っていたが、一瞬、恐ろしい驚愕におそわれたかのように、病的な痙攣がさっとその顔を走ったかに見えた。
「どうなさったのです、どうなさったのです?」とスタヴローギンは、相手を支えようと駆け寄りながらくり返した。相手がいまにも倒れそうな気がしたのだ。
「私には見える……ありありと見える」チーホンは魂を貫くような声で叫んだ。激烈な悲しみの表情が浮かんでいた。「いまだかつておんみは、哀れな破滅せし若者よ、いまこの瞬間ほど近々と、新しい、さらに強烈な犯罪に向かって立たれたことはござらぬぞ!」
「落ち着いてください」とスタヴローギンは相手の様子にぎょっとして必死に頼んだ。「僕はたぶん延期します。……あなたのおっしゃるとりです、……僕は文書を公表しません、……落ち着いてください」
「いや、公表したあとではないわ、公表する一日前に、大いなる一歩を踏み出すたぶん一時間前に、おまえは結着を求めて、新しい犯罪に飛びつくのだ。おまえがいま執拗に言い張っておるこの文書の公表を避けんがために、ただそのために、新たな犯罪を犯すのだ」
 スタヴローギンは憤怒とほとんど驚愕のためにぶるぶるふるえはじめた。
「いまいましい心理学者め!」とつぜん彼は狂気にかられてさえぎると、あとをも見ずに庵室から出て行った。

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