ショーペンハウアー『読書について』

 ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値をもつ。ただ少数の思想のみが、読者の反響を通じて働き続ける力をもつ。言い換えれば、書きおろされた後にも読者の関心をうばう力をもつ。

 しかしそういう場合でも真に価値があるのは、一人の思想家が特に自分自身のために思索した思想だけである。つまり一般に思想家を、特に自分のために思索する者と、いきなり他人のために思索する者との二つに分類することができるが、第一のタイプに入る人々が真の思想家であり、二重の意味で自ら思索する者である。それは彼らが真の哲学者、知を愛する者だからである。すなわち第一に彼らのみが真剣に自分を打ちこんで事柄を知ろうと努めており、第二にまたこの知を得る努力、言い換えれば思索にこそ彼らの存在の楽しみも幸福もかけられているのである。
 第二のタイプの思想家はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。その真剣な努力はこのように他人本位である。さて一人の思想家がこの二つのタイプのいずれに属するかは、その挙措動作をくまなく見ればただちに明らかである。リヒテンベルクは第一のタイプに入る典型的人物で、へルダーとなるとすでに第二のタイプに入ってしまう。

 著書は著者の思想の複製品にほかならない。ところで思想の価値を左右するのは素材、つまり著者が試みた思索の対象であるか、あるいは素村に与える形式、素材にほどこす加工、つまり著者が対象についてめぐらした思索であるかのいずれかである。思索の対象は多種多様をきわめ、それが著書に与える利点、美点も同じように多様をきわめている。あらゆる経験的素材、したがってあらゆる歴史的事実、あるいは自然的事実は非常に広い意味では、本来多様きわまりない思索の対象である。取り上げる対象が特に問題になる場合、その著書の固有の特色は客観にあるわけで、そのためその著者がだれであるかということに関係なく、その著書は重要な意味をもつことができる。
 これに反して著者がその対象についてめぐらした思索が特に問題になる場合には、その著書に固有の特色は主観にある。取り上げる対象はだれにでも近づける、だれにでもわかるものであってかまわないのであって、著者が対象を把握する形式、すなわち著者が対象についてどう考えるかということが、この場合著書に価値を与えるのであり、その形式、思索の独自さは主観にあることはもちろんである。したがってある著書がこのような点から見て、比類ないほど卓越しているとすれば、その著者もまたそうである。 一人の著作家が読むに値するものをものする場合、材料に依存する度合が少ないほど、その功績は大きく、またそれどころか利用する材料が世間周知の陳腐なものであるほど、一段とその功績が輝きをますのも、今のべたような事情によるのである。このようなわけで、たとえばギリシアの三大悲劇詩人はいずれも同じ素材に加工したのである。
 そこで、ある本が有名な時には素材のためか、形式のためかをよく区別すべきである。全く晋通の凡庸な人々でも、その材料のおかげで、非常に重要な著書を公けにすることができる。そういう材料に迫ることができるのは、全く彼らだけだからである。たとえば遠い国々や自然現象についての記述、実験を試みてその結果をまとめた記述、目撃した出来事の記述、あるいは史料の調査研究に努力と時間を費やした上でまとめた歴史的事件の記述などは重要な意味をもつ。これに反して、素材がだれにでも親しみやすく、だれにでもわかりきったものであるため、形式に重大さがかかり、そのためただこの素材について何を考えるかということだけが、著作に価値を与え得る場合には、ただすぐれた頭脳の持ち主のみが読むに値するものを世におくることができる。普通の人たちというものはいつもただ、ほかのだれでもが考えそうなことしか考えないからである。彼らはわざわざ自らの精神の複製品を世におくる。だがだれでもそういう精神の原型ぐらいはそなえているのである。
 けれども一般読者の素材に向ける関心は、形式に向ける関心よりもはるかに強く、彼らの教養の発達がおくれるのも実はそのためである。最も滑稽なのは詩人の作品に接しながら、このような傾向を明らさまに示すことで、作品を生み出すきっかけとなった実際の出来事や、詩人の私的環境を探り、さらにすすんでついには作品そのものよりも、そういうことにより強い興味を見せ、ゲーテではなくてむしろそういう類のことを記した文献を通読し、作品「ファウスト」よりもファウスト伝説の方に熱をいれて研究するというのがもっぱら彼らの仕事になるのである。すでにビュルガーにも「彼らは小説のヒロイン、レノーレがいったい実在の女性のだれであったかという問題について学問的研究を試みるであろう」という言葉があるが、ゲーテの場合となると、この言葉は文字通り事実となって現われている。すなわちファウストならびにファウスト伝説の学問的研究が既に我々の前に山積している。こういう研究はいつも素材的で変わりばえもないものである。このように形式をきらい、素材を偏愛するのは、美しいエトゥルスクの壷の色調を化学的に研究するため、この形やディザインを無視する者の態度を思わせる。
 この悪しき傾向に支配され素材にたよった作品を世に問おうとする企ては、作品の価値を明らかに形式におくはずの領域では、したがって詩の領域では絶対に禁物である。だがそれにもかかわらず素材で劇場を満員にしようと努める低劣な劇作家はあとをたたない。たとえば彼らは有名な人でさえあればだれでも舞台の主人公にし、その人の生涯に劇的な事件が全く欠けていることも問題にしないし、時には主人公の周囲の人たちが存命中であるという事実にも少しも考慮をはらわないのである。
 さて素材と形式を区別すべきであるというこの原則は、会話の場合にも充分通用する。すなわち一人の人の会話の才を決定する要素は、第一に知性、判断力、活潑な機知というようなもので、それはおよそ会話に形式を与える要素である。第二にはもちろん会話の素材、相手と話を交じえる時の話題、つまりその人の知識も要素として重視されるであろう。その人に知識が乏しければ、話題はいきおいだれも承知の世間のことや空模様などに落ち着かざるを得ないので、彼の話に価値を与えるのはただずば抜けた機知や知性、すなわち今、上に述べた形式的能力のみであろう。これとは全く逆に形式的能力に欠けている者は、何らかの知識によって会話に価値を与える。だがそうなると全く素材にたよることになって、次のようなスペインの諺どおりになる。「愚者も自分の家の中では、異国に出た賢者より物知りなり。」

 文体は物神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。他人の文体を模倣するのは、仮面をつけるに等しい。仮面はいかに美しくても、たちまちそのつまらなさにやりきれなくなる。生気が通じていないためである。だから悪この上ない顔でも、生きてさえいればその方がまだましということになる。そのためラテン語で書く著作家も、古人の文体を模倣するかぎり、実際何と言っても、仮面をつけた人間同然である。つまり、彼らの言葉は聞こえて来る。だがさらにその言葉に必要な彼らの顔つき、すなわち文体は見えないのである。もっとも、そういう模倣に安んじなかった独立の思索者、たとえばスコトゥス・エリウーゲナ、ベトラルカ、ベーコン、スピノザなどのラテン文の著作には、それそれ独特の文体があることはもちろんである。

 こういう事情をひそかに察知しているため、凡庸な著者にかぎってだれでも、自分に特有な自然の文体に偽装を施そうとする。そのためまず第一に、素朴さ、素直さをすべて放棄しなければならないことになる。その結果、文章作成上のこの美徳は、常に、卓越した精神の持ち主、平生自分の値打ちを自覚して、自信に満ちている人間だけに許される。つまり凡庸な頭脳の持ち主たちには考えるとおりに書くという決心が、全くつかないのである。それというのも、そういう調子で書けば、書き上がったものが全くつまらないものになりかねない、という予感におびえるからである。しかしそれでも、それはそれなりにものになっている場合もあるはずである。つまり彼らが誠実な態度で仕事に着手し、彼らが実際考えたわずかなことや平凡なことを、考えたとおりに伝えようとすれば、でき上がったものも結構読めるであろうし、そればかりではなく彼らにふさわしい専門の領域では、有益なものも書き上げるであろう。しかし、実情はこれと逆である。

 しかしものを書こうとして作文技術にばかりこだわる連中のやり方は、ある種の金属匠のやり口に近い。すなわち、金は比類のない金属で、永遠にその代用品を作り出すことが不可能なのに、さまざまの合金を沢山つくって何とか代用品にしたてようとする試みに近いのである。だが筆を執る者はむしろそれとは全く逆の態度にでるべきであろう。彼が最も心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないことであろう。そういう努力を試みればかえって、精神がほとんど零なのではないかという疑惑を、読者の胸によびさますだけだからである。いったい人間というものは自分が現に所有していないものに限って、それを所有しているかのように偽るのが普通であるから、この読者の疑惑も当然と言えるだろう。率直素朴な著者であるという批評の言葉が、そのまま一つの賛辞となるのも、ちょうど、今上にのべたような事情のためである。つまりその言葉は、恐れることなく自分の自然の姿を示す著者の態度を指しているからである。一般に素朴なものは人をひきつけ、不自然なものは人をしりぞける。さらにまた真の思想家はだれでも、思想をできるだけ純粋明瞭に、確実簡潔に表現しようと努めている。したがって単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもある。文体は美しさを思想から得る。似面非思想、の場合のように、思想を文体によって美しく飾ろうとしてはならない。文体とは所詮、思想の影絵にすぎないからである。ものの書き方が不明瞭、もしくは拙劣であるということは、考えが曖昧であるか、もしくは混乱しているということなのである。


最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。

面と向かって率直に発言する相手は、名誉心ある穏健な人物だ。そういう人物なら、お互いに理解し合えるし、うまく折り合い、和解することができる。これに対して、陰でこそこそ言う人間は、臆病な卑劣漢で、自分の判断を公言する勇気すらない。自分がどう考えたかはどうでもよく、匿名のまま見とがめられずに、うっぷんを晴らし、ほくそ笑むことだけが大事なのだ。

 気取りすましてものを書く者は、下賤な者と間違われないため、ぴかぴかの美服をまとう者に似ている。ジェントルマンたる者は、いかに粗末な衣服を身にまとっても、そういう危険なまねは決してしない。だからある種のけばけばしい服装、留めピン四つの入念な化粧は賤民の印であるように、気取った文体は知的賤民の印である。
 だがそれにもかかわらず、話すとおりにものを書こうとするのは、誤った努力である。むしろいかなる文体も碑文的文体の面影を、幾分でも留めているべきである。碑文にそなわる文体こそ一切の文体の祖である。だから話すとおりに書こうとする努力は、その逆の努力、つまり書くとおりに話そうとする努力と同じように否認さるべきである。ものを書く調子で話せばペダンティックに聞こえもするし、難解な印象を与えもする。

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