ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値をもつ。ただ少数の思想のみが、読者の反響を通じて働き続ける力をもつ。言い換えれば、書きおろされた後にも読者の関心をうばう力をもつ。
しかしそういう場合でも真に価値があるのは、一人の思想家が特に自分自身のために思索した思想だけである。つまり一般に思想家を、特に自分のために思索する者と、いきなり他人のために思索する者との二つに分類することができるが、第一のタイプに入る人々が真の思想家であり、二重の意味で自ら思索する者である。それは彼らが真の哲学者、知を愛する者だからである。すなわち第一に彼らのみが真剣に自分を打ちこんで事柄を知ろうと努めており、第二にまたこの知を得る努力、言い換えれば思索にこそ彼らの存在の楽しみも幸福もかけられているのである。
第二のタイプの思想家はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。その真剣な努力はこのように他人本位である。さて一人の思想家がこの二つのタイプのいずれに属するかは、その挙措動作をくまなく見ればただちに明らかである。リヒテンベルクは第一のタイプに入る典型的人物で、へルダーとなるとすでに第二のタイプに入ってしまう。