レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン1』

論理と倫理は基本的に同じであり、
それらは自分自身に対する責務以外のものではない。
オットーワイニンガー『性と性格』

Ⅰ 1889─1919

1 自己破壊の実験室

「ウソを言うことに利点がある場合になぜ本当のことを言わ
なくってはならないの。」
 これが最初のルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの哲学的省察として記録されていることである。八歳ないし九歳の頃、彼は戸口に立ち止まり、その問題について考え込んだ。満足のいく答えを見つけることができないで、彼は、結局はそのような場合には嘘をつくのは悪くないという結論を与えた。後ほど彼はその出来事を「私の将来の生き方に決定的なものとなったと言えないとしても、ともかくその当時の私の在り方を特徴づけた体験」と書いている。
 ある観点では、このエピソードは彼の全生涯の特徴を示している。以前に懐疑としか思われなかった点に確実性を見出そうと希望をもって哲学へ向かったバートランド・ラッセルとは違って、ウィトゲンシュタインは、強迫的に取り憑かれる傾向によって、このような問題に突き当たり、哲学へ魅かれていったのだ。哲学が彼のところにやってきたのであって、彼が哲学を求めたのではない、と言えよう。このジレンマは、彼には歓迎できないものであったが、満足のいく解決を与えなければ、毎日の生活ができなくなるまでに、彼を強い虜とした不可解な力として体験されたのであった。
 けれども、この特殊な問題へ与えた若き日のウィトゲンシュタインの解答は、他の点からみれば格別深いものではない。嘘をこのように安易に受け入れたことは、基本的には大人になってウィトゲンシュタインが称讃され、また恐れられてもいた、真理に対する容赦のなさとは首尾一貫していない。それはまた恐らく彼が哲学者であるという感覚そのものと矛盾するものでもあろう。「ボクを真理の探究者と呼んで」と、彼はかつて姉への手紙に書いた(彼女は彼宛の手紙のなかで、彼を偉大な哲学者と呼んでいる)、「そうしたらボクは満足する。」
 これは見解の変化ではなく、性格の変化であることを示している──危機の折々になされ、危機の源は彼自身であったという確信からなされたのであるが、その一連の変身によって特徴づけられる彼の生涯において、多くの変身のうちで最初のものである。彼の生涯は、自分自身の本性と絶えず格闘しているかのようであった。彼が何かを成し遂げた場合には、それには通常彼の本性との闘いの感覚が伴っていた。彼の究極的な努力は、この意味において自分自身を完全に克服することにあった──哲学それ自体を不要なものとする変身にあった。
 後年、ある人が、G・E・ムーアの子供のような無邪気さは彼の長所だと言ったとき、ウィトゲンシュタインは異議を唱えた。「私には理解できない」、と彼は言った。「それはまた子供の長所だというのなら話は別であるが。きみは闘いとって身につけた無邪気さについて話しているのではなく、生まれつき人を誘惑することができない無邪気さについて話しているからだ。」
 この発言は自己評価のことを言っている。ウィトゲンシュタイン自身の性格──彼の友人たちや学生たちによって書かれた彼についてのたくさんのメモワールに回想されている、自分の思っていることを人に強制し、人と妥協の余地のない、人に優位になろうとするパーソナリティー──は、彼が闘わなければならないものであった。子供の頃、彼は柔和で、従順な子だった──気に入られようとし、すすんで言うことを聞く子だった。そしてすでにみてきたように、真実を曲げることも厭わない子だった。彼の生涯の最初の一八年の物語は、とりわけ彼の内に宿している力とそのような変身へと駆り立てた彼の外の力との格闘の物語である。

〔…〕

 ふたりの兄弟の自殺にいたるまでに、ルートウィヒには彼と同世代のウィトゲンシュタイン家の人々にかかった、自己破壊の流行病の気配はまったくなかった。幼年時代の多く、彼は異常な血には最も関係の薄いひとりとみなされていた。彼は早熟な音楽的、芸術的、あるいは文学的才能を発揮しなかった。それどころか四歳になってようやく話し始めたほどであった。家族の他の男性たちの特徴であった反抗心も強情さもなく、彼は幼少の頃から、実際的な技能とか技術的なものに熱中した。それらは、父親が彼の兄たちに熱心に吹き込んだが失敗に終わったものであった。残されている写真で、いちばん幼い頃の一葉の写真を見ると、彼はかなり真面目そうな子で、自分の旋盤を楽しそうに直している。もし何ら特殊な天賦の才能を示さなかったとしても、彼は少なくとも応用力があり、かなり手先が器用であった。たとえば、十歳のとき、木屑とハリガネで裁縫ミシンの実用模型をつくっている。
 十四歳になるまで、彼は天賦の才能をもっているというよりはむしろ天賦の才能を授かっている者に囲まれていると感じることで満足していた。後年、彼は朝の三時にピアノの音で起こされたときのことを語っている。彼が階段を降りていくと、ハンスが自分で作曲した曲を奏いていた。ハンスの集中力は狂的であった。彼は汗をかきながら、すっかりそれに没入していて、ルートウィヒがいることもまったく気づいていなかった。そのイメージが天賦の才能をもっている者のパラダイムとしてルートウィヒに焼き付いてしまった。
 ウィトゲンシュタイン家の人々が音楽を崇拝した、その度合いを今日理解することは私たちには恐らく困難であろう。恐らく現代ではこのような崇拝の形態を取ったものと対比されるものはないのは確かだろう。この崇拝はウィーンのクラシックの伝統ときわめて密接に結びついていた。ルートウィヒ自身の音楽の趣味──それは、私たちが判断する限り、彼の家族に典型的であったものであった──は、後ほどのケンブリッジの多くの同時代の人たちにひどく保守的だという印象を与えた。彼はブラームスより後の音楽に耐えられなかった。さらにブラームスでさえも、「機械の音を聞いているようなものだ」、真の「神の子」はモーツァルトとベートーヴェンである、と彼はかつて語ったことがあった。
 家族の人々に行きわたっていた音楽性の基準はほんとうに特別なものであった。ルートウィヒの年齢にいちばん近い兄弟パウルは、非常に成功を収め、著名なピアニストとなることになった。第一次世界大戦で彼は右腕を失った。しかし驚異的な意志力で、左手だけを用いて独りで練習し、演奏家としての生涯を送ることができるまでに熟達した。ラヴェルは、彼のために一九三一年に有名な「左手のための協奏曲」を書いた。世界に認められたにもかかわらず、パウルの演奏は家族の人々には称讃されなかった。彼らは、その演奏は趣味に欠けていると考えた。それは無駄なジェスチャーが多すぎるということであった。ルートウィヒの姉ヘレーネの洗練された古典的に控えめな演奏のほうが彼らの趣味に叶っていた。母親ポールディはとくに厳しい批評家であった。恐らく家族のなかでグレーテルが音楽の才能がいちばんなかったようで、彼女があるときふざけて母親とデュエットをしようとしたが、歌い出してまもなくポールディは突然やめて、「おまえはまったくリズム感がない!(Du hast aber kein Rhythmus!)」、と金切り声を上げたのだった。
 このように二流の音楽に耐えられないということが、恐らく神経質なルートウィヒに三十歳代になるまで楽器をやろうという気持ちさえ起こさせないことになったであろう。三十歳代になって、彼はクラリネットを習ったが、それが教師になるために課せられる一部だったからである。子供のとき、彼は他の方法で褒められ、愛されよう──道を外れない礼儀のよさ、他人への気配りのよさ、進んで責務をはたすこと──と努めた。ともかくも、技術に関心を示している限り、に彼はいつも父親の奨励を受け、是認されることが分かっていたので、安心していられた。
 後年になって彼は子供のときの不幸を強調していたが、家族の者には不満のない、快活な少年という印象を与えていた。この食い違いこそ、前に引用した彼の少年時代に正直についての思い巡らしが最も重要な問題であったことを明らかにしている。彼が考えていた嘘は、たとえば盗みを認めて、その後でそれを否定するような悪さをするということではなく、もっと微妙なもので、たとえば何かを言うのはそれが本当であるからというよりは、むしろそう言うことが期待されているからであるということである。彼と兄たちとの相違は、一部にこの種の形の嘘に彼が進んで屈服してしまうということにあった。少なくとも彼は後年にはそのように考えた。彼の記憶に残った一例は、病気で床に臥していた兄のパウルのことであった。起きたいのか、もっと寝ていたいのかと尋ねられて、パウルは静かに寝ていたいと答えた。「私が同じ状況にあったとき」、とルートウィヒは思い起こして言った。「私は自分の周りのものに悪く言われるのが恐かったので、本当ではないこと(起きたいということ)を言った。」
 他人の悪口への敏感な反応のもう一つの例が彼の記憶に残っている。彼とパウルはウィーンの体育クラブに入ろうとしたが、それは〈アーリア〉系の人たちに制限されていた(当時はそういうクラブはたいてい同じであった)ことが分かった。彼は入会を認めてもらうために、自分たちのユダヤ人の素性について嘘を言おうとしたが、パウルはそうしなかった。
 基本的にこの問題は、あらゆる場合に真実を語るべきかどうかということではなく、むしろ真であることを無視していいような責務があるのかどうか、他の仕方で振る舞うとプレッシャーがあるにもかかわらず、あえて自分自身のことを強調すべきかどうかということであった。パウルの場合、この問題はハンスの死後カールの気持ちに変化があったので、容易に解決された。彼はギムナジウムに入れられ、そして彼の自然の性向にかなった音楽の道一筋の生涯を送った。ルートウィヒの場合、事情はもっと入り組んでいた。他人の欲求に従うようにという彼に課せられたプレッシャーは外的にも内的にも大きくなった。これらのプレッシャーの重みを背負い、父親の好みの職業に就くために、自分の自然の適性が技術的なものにあり、それを鍛錬するのだと人々に思わせた。個人的には彼は自分には工学への「好みも才能もない」と考えていた。このような次第で、家族の者が彼にはその両方があると考えたのはもっともなことであった。
 したがって、ルートウィヒはパウルが入ったウィーンのギムナジウムではなく、それよりも技術的でアカデミックではない、リンツの実業学校に入れられた。彼がギムナジウムで課せられた入学試験には合格しないであろうと懸念されたことも事実であるが、何よりも技術的な教育のほうが彼の関心によりふさわしいという思いやりからであった。しかしながら、リンツの実業学校は、将来有望な技師や実業家になるための基礎的な訓練を約束するような学校として名前は残っていない。名前が知られているとすれば、アドルフ・ヒトラーの世界観(Weltanschauung)を育成したところとしてである。ヒトラーは事実ウィトゲンシュタインと同じ時期にそこに在籍していた。そして(『『わが闘争』』に書かれていることが信頼できるとすれば)、その学校には歴史の教師レオポルト・ペッシュがいた。彼はまずヒトラーにハプスブルク帝国を「退廃した王朝」と理解し、そしてハプスブルク王朝に忠誠である人たちの希望なき王朝愛国心と、汎ドイソ主義運動のフェルキッシュ(民族主義的)ナショナリズムに訴えることとを区別することを教えた。ヒトラーはウィトゲンシュタインとほぼ同じ歳であったが、学校では二年遅れていた。ヒトラーが成績不良で退学させられる以前の一九○四─五年のあいだだけ、彼らの在学は重なった。彼らに何らかの関係があったというような証拠は何一つない。
 ウィトゲンシュタインは一九〇三年から一九〇六年までの三年間その学校で過ごした。彼の成績簿が残っていて、彼は概してかなり成績の悪い生徒であったことを示している。その学校でなされた五教科の評価をAからEまでの評価に直してみると、在学中にAがたった二度あっただけである──二度とも教科は宗教であった。たいていの教科はCあるいはDの評価で、英語と自然史が時々Bにまであがった。化学が一度Eまでさがったこともあった。彼の成績にパターンがあるとすれば、総じて彼は人文科学系の教科よりも科学や工学の教科が弱かったことである。
 成績の悪かったのは一部に彼が学校に合わなかったことにあろう。彼が恵まれた家庭環境から離れて生活したのは生まれてはじめてだったし、しかも大多数の労働者階級出の生徒たちのなかでは、友だちを容易につくることができなかった。最初に彼らに目を向けたときから、彼は彼らの粗暴な振る舞いにショックを受けた。「屑だ!(Mist!)」というのが彼の第一印象だった。彼らには彼は見知らぬ世界からきた者(彼らのひとりが後ほど彼の姉ヘルミーネに話した)にみえた。ルートウィヒは彼らに「あなた(Sie)」という敬称で話すように求めた。そのことがかえって彼らとの溝を深めることになった。彼らは、「ウィトゲンシュタインが逆風を受けて悲しそうにウィーンへ向かう」(Wittgenstein wandelt wehmütig widriger Winde wegen Wienwarts)と、彼の憂いと学校の他の生徒たちとの距離を取り扱った、Wの韻を踏んだはやし唄を歌って彼をからかった。友人をつくろうと努力したが、クラスメートたちに「裏切られ、だまされた」と受け取った、と彼は後になって語っている。
 リンツでの彼のひとりの親友はペピーという少年であった。ペピーは彼の下宿していたシュトリクル家の息子であった。学校での三年間を通じて、彼はペピーと青春に典型的に付きまとう友愛や裏切り、喧嘩や仲直りなどを体験した。
 この関係とクラスメートとのさまざまな苦労の体験から、幼児期にすでに潜んでいた、物事に疑問を抱く、懐疑的性向がいっそう強まっていったようである。宗教の知識がいい成績であったのは、学校教師と比べて牧師がかなり点が甘かったということばかりではなく、彼自身の根本的な問題との取り組みが深まっていくことの反映でもあった。リンツで過ごしたあいだ、彼の知性は学校で教えられたいかなるものよりも、これらの懐疑を刺激として開化されていった。この時期、彼に与えた最も大きな知的な影響は教師の誰かではなく、姉のマルガレーテ〈グレーテル〉)であった。グレーテルは家族のなかでインテリとして認められていた。彼女は芸術と学問の同時代の展開に詳しく、つねに最新の考え力を取り入れ、年長者のものの見方に挑戦したのであった。彼女は早くからフロイトの擁護者であり、自ら彼に精神分析を受けた。彼女は後ほど彼の親友となり、「}併合《アンシュルス》」〔ナチによる独墺併合〕後、(後に危険に晒された)フロイトがナチから逃亡するのを手助けした。
 ウィトゲンシュタインが最初にカール・クラウスの作品を知ったのは、グレーテルをとおしてであったに違いない。クラウスの諷刺雑誌『ディ・ファッケル(炬火)』は最初一八九九年に出た。出版当初からウィーンでの知的不満分子たちのあいだで大成功を収めた。当時の政治的ならびに文化的風潮を理解しようとする者なら誰もが、この雑誌を読んだ。また前に挙げた、アドルフ・ロースからオスカー・ココシュカまでのすべての大人物たちに実際に計り知れない影響を与えた。最初からグレーテルはクラウスの雑誌の熱狂的な読者で、彼が書いたほとんどすべてに熱烈な共鳴者であった。(クラウスの見解が多種多様であったことを考えれば、彼の言ったことすべてを真に受けて共鳴するのは、ともあれ不可能なことと言えるのだが。)
 『ディ・ファッケル』を創刊する前には、クラウスは主に『シオンの冠』という表題の反シオニストの小冊子の著者として知られていた。それはテオドール・ヘルツルの諸見解をは反動的で、不和を引き起こしている、と嘲笑したものであった。クラウスは、ユダヤ人にとっての自由は、それらの完全なる同化からのみ得られる、と主張した。
 クラウスは社会民主党員であったから、発刊の最初の数年間(一九〇四年頃まで)、彼の雑誌は社会主義者の見解を代弁するものとみなされていた。彼の諷刺のターゲットは、大部分社会主義者の攻撃の的と見ているものに向けられた。彼はバルカンの民族の処遇に当たってのオーストリア政府の偽善、汎ドイツ主義運動の民族主義、『ノイエ・フライエ・プレッセ』紙によって提唱された自由放任主義の経済政策(たとえば、カール・ウィトゲンシュタインのその新聞への論評)、そして政府ならびに大企業の利益に進んで仕えるウィーンの新聞の堕落を攻撃した。彼はとくにオーストリア支配体制の性に関する偽善に反対して情熱的にキャンペーンをした。その偽善は売春婦の法的迫害とホモセクシャルの社会的非難に示されているものである。「性道徳を取り扱う裁判は」、と彼は述べている。「個人的な不道徳から一般的な不道徳へ審議するステップである。」
 一九〇四年以降、彼の攻撃の的は政治的よりも道徳的なものとなった。彼の諷刺の背後にはオーストリア - マルキストたちのイデオロギーとは異にした精神的価値への関心があった。彼は偽善と不正とを暴き立てることに関わった。それは元来プロレタリアートの利益を擁護しようとする欲求からではなく、むしろ真理は高尚であるという本質的に貴族的理想を全うすることを擁護しようとする者の見地に立っていた。そのため彼は左派の友人たちから批判された。そのひとり、ロベルト・ショイは、崩壊しつつある旧い秩序を支持することを選択するのか、それとも左派の立場を支持することを選択するのか、と彼に単刀直入に迫った。「もし私が二つの悪のうちより少ない悪を選択しなければならないなら」、とクラウスは格調高く答えた。「私はどちらも選択しないであろう。」政治は、「人が自分の本当の姿を隠すためになすものであり、自分自身では分かっていないものをなすことにあある」、と彼は述べた。
 この言葉は、大人となったウィトゲンシュタインの視点がクラウスの視点と多くの点で一致していることを示す一例を要約している。「ただきみ自身を改善しなさい」、とウィトゲンシュタインは後ほど多くの友人たちに語った。「それがきみが世界を改善するためにできるすべてだ。」政治問題は彼にはつねに人格の誠実性の問題とくらべて第二義的であった。八歳のとき彼が自分自身に尋ねた問題は、カントの定言命法のようなものによって解答が与えられた。つまり人は真実を尽くすべきである。それは、「なぜ」という問いは不適切であり、それには答えられないものである。むしろ、他のすべての問いはこの固定された点──自分自身に対して真実であるべきだという侵すべからざる義務──において尋ねられ、答えられなければならないのであった。
 「自分が何であるのか」を隠さないという決定がウィトゲンシュタインの全視点の中心となった。後年彼が正直でなかったたびに、彼を一連の懺悔に強制的に駆り立てたものの根はここにあった。リンツの学校にいたとき、彼は自分自身の最初の告白を企てている。彼はそのとき長姉ヘルミーネ(〈ミニンク〉)にいくつかの告白をした。それがどういうものであったのかは分からないが、後でその告白について彼が非難していたことだけは分かっている。彼は「私が優れた人間であると思われるように何とかやってのけた」告白であったと記している。
 ウィトゲンシュタインの宗教的信仰の喪失は、彼が後ほど語っていることによれば、リンツの生徒であったときであった。それはこの激しい真実を貫こうとする精神の所産であった、と推測される。言い換えれば、彼は自分の信仰を失ったのではなく、そのときに何も信仰をもっていないことを認め、キリスト教徒たちが信じているとされている事柄を信ずることができないと告白せざるをえなくなったというのであった。これが彼がミニンクに告白した事柄の一つであった。確かに彼はそのことをグレーテルと議論した。彼女は信仰の喪失に関する哲学的省察の手助けをするために彼にショウペンハウアーの本を薦めた。
 ショウペンハウアーの超越論的観念論は、彼の代表作『意志と表象としての世界』にあらわされているように、ウィトゲンシュタインの最初期の哲学の基礎となった。この本は、多くの点で宗教的信念を失い、それに代わるものを求めている青年を魅了させるものである。というのは、ショウペンハウアーは「人間の形而上学への欲求」を認める一方で、宗教的教説の文字通りの真理を信ずることは、理知的で真摯な人間には必要でもないしできないと強調もしている。ショウベンハウアーによれば、そうした人間に宗教的真理を信ずるベきだと期待することは、巨人に小人の靴を履くことを求めるようなものなのである。
 ショウペンハウアー自身の形而上学はカントの形而上学の特殊な適用である。カントのように、彼は日常の世界、感覚の世界をたんなる現象とみなすが、(本体界は不可知的であると主張する)カントとは違って、彼は倫理的意志の世界を唯一の真の実在とみなした。それは先に述べたカール・クラウスの姿勢と形而上学的にぴったりと合う理論である──「外的な」世界で起こっていることは、〈人間とは何か〉という存在論的な「内的な」問いよりも重要ではないという見解の哲学的正当化である。ショウペンハウアーの観念論をウィトゲンシュタインが捨てたのは、彼が論理学を学び始め、フレーゲの概念的実在論を取り入れることに説得させられたときになってであった。しかしその後でさえも、彼は『論考』の作成の重要な段階でショウペンハウアーに戻った。そのとき彼は観念論と実在論とが一致した点に達したと確信したのであった。

 それを極端に取れば、「内的なもの」が「外的なもの」に優先するという見解はソリプシズム〔独我論〕、つまり自分自身の外に実在があることを否認することになる。自我についてのウィトゲンシュタインの後期の哲学的思考の多くは、きっぱりこの見解の亡霊をふり払おうという企てである。生徒のときに彼が読んで、後の彼の発展に影響を与えた本のなかに、オットー・ワイニンガーの『性と性格』があるが、そこにはこうした見解がきわめて驚くべき表現をとって示されている。

ウィトゲンシュタインがリンツで最初の学期を過ごしているあいだに、ワイニンガーはウィーンで熱狂的崇拝の的となった。一九〇三年十月四日に彼の死体がシュバルツシュパニアシュトラーセにある家の床の上で見つけられた。そこはベートーヴェンが死んだところであった。二十三歳のときに、自意識の強い、象徴的な意味深長な振る舞いをして、彼は自分が天才のうちで最も偉大な天才と考えた男の家でピストル自殺をした。『性と性格』はその前年の春に出版され、概してかなり評判は悪かった。『性と性格』の著者の死というセンセーショナルな事情がなければ、この本は恐らく大きな影響力をもたなかったであろう。しかし実際にはこのことがあっにてから、十月十七日にアウグスト・ストリンドベルクからの手紙が『ディ・ファッケル』に掲載され、それにこの本は「驚異の書、この書は恐らくすべての問題の最も困難なものを解決している」と書かれた。このようにしてワイニンガー崇拝が生まれたのであった。
 ワイニンガーの自殺は、多くの人たちに彼の本の議論の論理的帰結であると思われた。そしてこのことが主として戦前のウィーンで彼を著名にした原因(cause célèbre) となった。彼の自殺は、受難から臆病にも逃れたということではなく、悲劇的結末を果敢に引き受けた倫理的行為だとみなされた。それは、オスヴァルト・シュペングラーに従えば、「精神的格闘」であり、その格闘が「最近の宗教性によってこれまで示された最も高貴なる光景の一つ」を与えたのであった。そのようなことで、それを真似たたくさんの自殺を招いた。実際にウィトゲンシュタイン自身もあえて自殺しないでいるのを恥じるべきで、この世において余り者(de trop)であるという暗示を無視してきたことを恥じるべきだ、と考え始めたのであった。この思いは九年間続き、バートランド・ラッセルに彼が哲学の才能があることを確信してもらってようやく克服されたのであった。彼の兄ルドルフの自殺は、ワイニンガーの自殺のちょうど六か月後であり、すでにみたように、同じように芝居がかったやり方でなされた。
 ウィトゲンシュタインが他の誰よりもワイニンガーの影響を受けたと認めていることは、彼が育った環境と生涯および業績との結びつきを示している。ワイニンガーは生粋のウィーン人であった。彼の本のテーマは、彼の死に方と併せて、ウィトゲンシュタインを育んだ世紀末ウィーンの社会的、知的、道徳的緊張についての潜在的シンボルを表現しているのである。
 その本全体にウィーンそのものの近代の崩壊に取り憑かれたさまがまざまざと描かれている。クラウスと同じく、ワイニンガーはこの崩壊を科学と産業の勃興と芸術と音楽との衰退に帰しており、それを本質的に貴族的な態度でもって、卑小さが偉大さに勝利したと特徴づけている。一九三〇年代に。ウィトゲンシュタインが自分の哲学の著書のために書いた序文において回想している箇所で、ワイニンガーは現代をつぎのように非難している。

……芸術が粗悪な塗料で描くことで満足し、動物的戯れに芸術衝動の源を求める時代、正義や国家に対して何ら感受性を示さない皮相的なアナーキーの時代、歴史観のなかで最も愚かな唯物史観の解釈をとる共産主義的倫理の時代、資本主義とマルキシズムの時代、歴史、生、科学がすべて政治的経済と技術的教育に過ぎないとする時代、天才が狂気の一形態だとされる時代、偉大な芸術家も偉大な哲学者もいない時代、独創性が欠けているが、それでも独創性を最も愚かな形で渇望している時代。

 またクラウスのように、ワイニンガーも、彼が最も嫌った現代文明のさまざまな様相をユダヤ的なものとみなし、男性と女性との性の両極によって、当時の社会的、文化的風潮を記述した。しかしながら、クラウスとは違ってワイニンガーはこれら二つのテーマに取り憑かれて、ほとんど狂気と言えるさまで強調している。
 『性と性格』は、ワイニンガーの女性嫌いと反ユダヤ主義を正当化する意図で入念に仕上げられた理論によって書きあげられている。この本の中心点は、序文に書かれているが、「男と女とのすべての対比を単一の原理から言及すること」にある。
 この本は、〈生物学的 - 心理学的〉なものと〈論理的 - 哲学的〉なものとの二部からなっている。第一部で、彼はすべての人間が生物学的に両性的であること、つまり雄と雌との混成体(両性具有)であることを確立しようとしている。その割合だけが異なり、それは彼がホモセクシャルの存在を認明する仕方である。同性愛は女性的男性か男性的女性かのどちらかである。この本の科学的部分は、解放された女性たちという章で終わっている。そこで彼は女性運動に反対するためにこの両性の理論を用いている。「女性の解放の欲求と資質は」、と彼は主張する。「女性のなかにある男性的要素の割合と直接関係している。」それゆえ、そのような女性たちは一般的にレズビアンであり、そのようなものとしてたいていの女性よりも高いレベルにある。これらの男性的な女性には自由が与えられるべきであるが、女性の大多数を彼女たちのようにさせるというのは重大な間違いである。
 第二部は、一部よりもかなり量的に多いが、生物学的カテゴリーとしてではなく、プラトンのイデアのようなものを想想定した〈心理学的タイプ〉として男と女を論じている。現実の男女はすべて雄雌の混成体(両性具有)である。男女はプラトン的形態以外には存在しない。それにもかかわらず、私たちは心理学的にはすべて男か女かのどちらかである。奇妙にも、ワイニンガーは、生物学的に雄であるが、心理学的に雌である人間は可能であるが、その逆は不可能であると考える。それゆえ、解放され、レズビアンである女性でさえ心理学的に女性である。彼が「女性」について語っているすべては、すべての女性と一部の男性に適用されることになる。
 彼に従えば、女性の本質はセックスに自分を熱中させてしまうことにある。女性はセックスそのものである。男性はペニスを所有しているが、「女性はワギナを所有している。」女は完全にセックスに取り憑かれているが、男はそれ以外の多くのことに関心をもつ。たとえば、戦争、スポーツ、社会的出来事、哲学と学問、仕事と政治、宗教と芸術に関心をもつ。ワイニンガーは彼の〈ヘニーデ〉〔ギリシア語 henide に由来し、単一を意味する〕という概念に基づく特殊な認識論でこのことを説明している。ヘニーデは観念になる以前のある種の精神的な所与である。女性はヘニーデにおいて考える。それが女性にとって考えることと感じることとが同じだという理由を説明する。女性は、明瞭にしかも分節した観念で自分の所与(ヘニーデ状態)を明瞭にし、女性のヘニーデを解釈するために、考える男性を求める。それが女性が、自分たちよりも賢い男性とだけ恋をする理由である。このようにして男女間の本質的な相違は、「男は意識的に生きるが、女は無意識的に生きる」、ということにある。
 ワイニンガーはこの分析を驚くほど広範囲に及ぶ倫理的問題へと適用させる。自分自身のヘニーデを明瞭にする能力がないので、女性は明瞭な判断ができないし、真と偽の区別は女性には無意味である。それゆえ女性が救いがたいほど真実には盲目なのは当然である。女性はこの理由から不道徳的なのではない。女性はまったく道徳の領域に入らない。女性は端的に正邪の基準をもたないのである。そして女性は道徳的命法とか論理的命法をまったく分からないので、魂をもっていると言うことができない。つまり女性には自由意志が欠けているのである。ここから、女性は自我、個性、品性をもたないということが導かれる。倫理的に女性は行為する基盤をもっていないのである。
 認識論と倫理学から心理学へと向かって、ワイニンガーはさらに二つのプラトン的類型、つまり母親と娼婦のタイプに分けて女性を分析している。各々の女性はその二つのものの結合であるが、しかしそのどちらかが優勢的である。二つのあいだには道徳的に相違はない。女性の子供に対する母性愛も女性が出会った男性なら誰でも愛しようとする娼婦の欲望もともに思慮分別がない。(ワイニンガーは社会的、経済的条件に基づいた売春の説明をいっさいしようとはしていない。彼は、「女性の本性には生来」「売春の性向」があるので、女性は娼婦である、と言っている。)その二つのタイプの主な違いは、女性たちがセックスに取り憑かれるその形態にある。母親はセックスの対象に取り憑かれており、娼婦は売春行為そのものに取り憑かれている。
 母親であろうが娼婦であろうが、すべての女性は単一の特性──「まったく女性だけにしかない特性」をもっており、それは結ばれようとする本能である。男女の結合を見ようとするのがすべての女性がつねにもち続けている欲望である。確かに、女性は何よりも自分自身の性生活に関心をもっている。しかしそれはまったく女性の「唯一の重大な関心事」──「性の結合がおこなわれるという関心、つまり可能な限り多く、誰であれ、どこであれ、いつであれ、性の結合を欲求するの特殊な事例である。」
 ワイニンガーは女性の心理学的研究の補足として、ユダヤ主義の一章を設けた。繰り返すが、ユダヤ人はブラトン的観念であり、心理学的タイプである。それはすべての人間にある可能性(あるいは危険性)であるが、「ユダヤ人たちのあいだだけでもきわめて顕著な在り方で現実になっている。」ユダヤ人には「女性性が浸透している。」──「最も男性的はユダヤ人は最低の男性的アーリア人よりも女性的である。」女性のように、ユダヤ人は対になることへの強い本能をもっている。ユダヤ人は個人性の感覚に乏しい。それゆえ自分の民族を保持しようとする強い本能をもつ。ユダヤ人は善悪の感覚も魂ももたない。ユダヤ人は非哲学的であり、まったくもって非宗教的である。(ユダヤ人の宗教は「たんなる歴史的伝承」である。) ユダヤ主義とキリスト教とは反対である。後者は「最高の信仰を最大に表現」しており、前者は「臆病者の最も極端」な例である。キリストはすべての人間のなかで最も偉大な人間である。その理由は、彼が「彼自身にある最大の否定である、ユダヤ主義を克服し、最強の肯定であり、最も直接的なユダヤ教の反対であるキリスト教をつくった」からである。
 ワイニンガー自身はユダヤ人でありホモセクシャルでもあった(そしてそれゆえに、たぶん心理学的に女性タイプであった)、そして彼の自殺が何らかの形で「解決」であったという見方は、それゆえに最も通俗的な反ユダヤ主義、あるいは女性嫌いという見解に易々と取り込まれることとなろう。たとえば、ヒトラーは、かつてつぎのように言ったとされている。つまり「ディートリッヒ・エックハルトが彼の全生涯においてひとりの優れたユダヤ人を知った、それは、ユダヤ人が人々の破滅をもたらすということを悟ったその日に自殺したオットー・ワイニンガーであった、と私に話した。」そして女性解放、とりわけユダヤ人の女性解放についての怖れは、世紀の変わり目にあったウィーンで行きわたっていた風潮であったという事実は、この本がたいへんに俗受けしたことをかなりの程度説明するに違いない。この本は後ほどナチの宣伝放送の都合のいい材料となったのであった。
 しかしウィトゲンシュタインはなぜこの本をあれほど称讃したか。彼はそれから何を学んだのか。事実、それが科学的生物学であるという主張は明らかに偽物であるとなると、その認識論も明らかにナンセンスであり、その心理学も幼稚であり、そしてその倫理的規範も非難されるべきである。そうだとすれば、彼はそれから何を学ぶことができたのであろうか
 これを理解するために、私たちはワイニンガーの女性の心理学から離れ──まったく否定的になって──、それに代わって彼の男性の心理学をみなければならないと考える。それをたどることによってはじめて、偏執と自己軽蔑以外の何かを、つまりティーンエージャーのときの(そして実際にはその後の生の)ウィトゲンシュタインの思索の中心であったテーマと共鳴する何かを、さらに、ウィトゲンシュタインがこの本に見出したと思われる称讃に関して少なくともヒントを与えるような何かを、私たちは見出すであろう。
 女性とは違って、ワイニンガーに従えば、男性は選択する。男性は、雄と雌、意識と無意識、意志と衝動、愛と性とを分けて選択できるし、しなければならない。これらの対になっているそれぞれのうちの前者を選択することがすべての男性の倫理的責務であり、これを実行する度合いに応じて、最高そのもののタイプの男性に、つまり天才に近づく度合いが異なるというのである。
 天才の意識は、ヘニーデの段階から最も遠く離れている。「それは最も偉大で、最も明晰判明なものである。」天才は、最もよく発達した記憶、明晰な判断を下す最も優れた能力をもち、それゆえに真偽、正邪の区別について最も洗練された感覚をもっている。論理と倫理は基本的に同じである。つまり、「それらは自己自身に対する責務以外のものではない。」天才は「最高の道徳である、それゆえ、天才はすべての人たちの責務である。」
 人間は魂をもって生まれたのではない、魂をもつ可能性のあるものとして生まれた。この可能性を現実化するために、人間は自分の現実のより高次な自我を見出さなければならないし、自分の(非現実的な)経験的自我の制限から脱しなければならない。この自己発見の一つの通路が愛であり、愛をとおして「多くの人間ははじめて自分自身の真の本性を知るようになり、魂をもっていることを確信させられるのである。」

 あらゆる愛において男性は自分自身しか愛さない。自分の経験的な自我ではなく、弱く、卑小なものではなく、自分が外側に示した欠点とか偏狭さではなく、自分が欲するすべてを、自分がすべきであるすべてを、日常に要求されているあらゆる足枷から解放され、世俗の腐敗から解放され、自分の最も真なる、最も深遠なる知的本性を愛するのである。

 当然にも、ワイニンガーはここでプラトニック・ラブについて語っている。事実彼にはプラトニック・ラブだけが存在する。というのも、「その他の愛と言われているものはどれも感覚の領域に属する」からである。愛と性欲はけっして同じものではない。それらはたがいに対立している。これが結婚後の愛の観念が偽りであることの理由である。性的魅惑は肉体の接近によって増大するが、愛は愛している人が不在であれば最も強くなる。実際、愛を保持するには、分離、一定の距離が必要とされる。「世界のどこへ旅しても、どんなに長い時間を経緯してもできなかったことが、偶然に意図せずに、相手と肉体的に接触したことで成し遂げられる。そうすることによって、性的衝動が喚起され、愛を一瞬のうちに駄目にしてしまう。」
 女性の愛は、それが男性のうちにより高次な本性を喚起することはできても、最後には不幸になるように定められているか(女性の無価値さについての真実が分かった場合)、あるいは不道徳に陥ってしまうように定められているか(女性の完全さについての嘘がばれていない場合)どちらかである。無限の価値をもつ唯一の愛は、「絶対的なものに、神の観念に結びついている。」
 男は、女ではなく自分自身の魂、自分自身のうちにある神的なもの、「私の内奥に住まう神」を愛すべきである。このようにして男は女と対になるという本能に抵抗し、女性からの強制があってもセックスから自分自身を解放しなければならない。この提案が余すところなく採り入れられるなら、人類が滅亡してしまうという反対見解に対して、ワイニンガーは、それはたんに肉体的生の死になるだけであり、それに代わって「精神的生の完全な展開」となるであろうと答えている。さらに彼はつぎのように語っている。「自分自身に正直なものなら、誰もが人類を存続させることが責務であるとは感じていない。」

人類が存続すべきであるというのはどんな理由からしても関心がない。人類を永続させようするものは、人間誕生の問題とその罪悪を、ただその問題とその罪悪だけを永続させようとしているのである。

ワイニンガーの理論が提出している選択は侘びしく、すさまじい。天才か死かの選択である。もし人がただ「女性」として、あるいは「ユダヤ人」として生きるだけであれば──すなわち人が肉欲とか世俗の欲望から自分自身を解放することができなければ、──そのとき人はまったく生きる権利をもたなくなる。生きるのに価する唯一の生は精神的生である。
 性欲と愛とのこのような厳密な区別、天才のやること以外はすべてが無価値であるというこの妥協の余地のない見解、そして性というものは天才が求める正直さと矛盾するというこの確信、これらはワイニンガーの著作に多くみられるが、これらはウィトゲンシュタインが生涯をとおして繰り返し表現している姿勢と重なり合っていると言える。それだけにいっそう、彼が青春時代に読んだすべての本のなかで、ワイニンガーの本は彼のものの見方に最大の、しかも最も永続した衝撃を与えた、と自信をもって言えよう。
 とくに重要なことと言えば、恐らくワイニンガーがカントの道徳法則に与えた特有な解釈であろう。その道徳法則は、このために誠実であることを侵すべからざる義務であると課しているばかりでなく、またそれを課すことによって、すべての人間が、どんな天賦の才能をもつにしても、自分自身のうちに発見する道を示しているのでもある。この見解に従えば、天才であろうとすることは、たんに高貴な大望であるばかりではない。それは一種の定言命法のようなものである。一九〇三年と一九一二年とのあいだに周期的にウィトゲンシュタインを襲った自殺の思いと、ラッセルが彼の天才を認めた後にこれらの思いがはじめて断ち切れたという事実は、彼がこの命法を怖るべき厳格さをもって受け入れていたことを物語っている。

生徒としてのウィトゲンシュタインの知的発展に関しては、みてきたように、それは主として哲学的思索によって鼓舞され、そして(グレーテルの導きで)哲学者や文明評論家の本を読むことによって、エネルギーを蓄えたのであった。しかし彼の工学面の発展について──彼に対して選ばれた職業を継ぐに必要な技術と知識における進展については、どうだったのか。
 この点に関して私たちは驚くべきはどほとんど何も知らない。彼が十代のときに読んだ科学者の著書──ハインリッヒ・ヘルツの『力学原理』とボルツマンの『講演集 』──は興味を与えたが、その興味は力学的工学になかったし、またとくに理論物理学にすらなく、むしろ科学哲学にあった。
 両者(前に述べた著書と同様に)は、基本的にはカントの自然観と哲学の方法を信奉していた。『力学原理』において、ヘルツはニュートン物理学において用いられている〈力〉という神秘的概念をいかに理解するのかという問題を取り扱っていた。ヘルツは、〈力とは何か〉という問いに直接に答えるかわりに、この問いは基本概念として〈力〉を用いないでニュートン物理学を再記述することによって取り扱われるべきである、と提案している。「これらの面倒な矛盾が取り除かれたとしても」、と彼は書いている。「力の本性に関する問いには答えられないであろうが、ただ私たちの精神は、もはや悩まされなくなり、不当な問いを問わなくなるであろう。」
 ヘルツのこの言葉をウィトゲンシュタインは文字通り一つひとつ理解していき、しばしば彼自身の哲学諸問題の概念およびそれらの問題を解決する正しい方法を記すために、それらを援用した。これまでみてきたように、彼の場合の哲学的思索は「面倒な矛盾」との取り組みから始まった。(確実な知識を求めるラッセル的欲求との取り組みからではない。)彼の哲学的思索の目的はつねにそれらの矛盾を解決し、そして混乱を明瞭さに置き換えることにあった。
 彼がボルツマンの『講演集』を読み、ヘルツに惹かれていったことはうなずける。この本は一九○五年に出版されたボルツマンのかなり通俗的な講演からなっていた。この講演は同様にカントの科学論を取り扱っており、そこでは実在についての私たちのモデルが私たちの経験の世界へ適用させられ(経験主義の伝統が述べてきたように)経験の世界に由来しているのではないと述べているものである。この見解は、ウィトゲンシュタインの哲学的思索に非常に深く刻み込まれ、彼に経験論者の見解を考えることを困難にさえさせたのであった。
 ボルツマンはウィーン大学の物理学教授であった。ウィトゲンシュタインは学校を出た後に、彼と大学での勉強のことについて相談したことがあった。しかし一九〇六年、ウィトゲンシュタインがリンツを離れた年に、ボルツマンは学会のごたごた事件に巻き込まれ、絶望のあげく自殺したのであった。
 ボルツマンの自殺とは別に、ウィトゲンシュタインのそれから先の教育については、哲学と理論科学への彼の関心を伸ばしていくことよりもむしろ工学の知識を押し進めるべきだと決定されたようである。したがってリンツを出た後で、彼は──むろん父親に強いられて──機械工学を学ぶためにベルリンのシャルロッテンブルクにある工科大学に入れられた。

ベルリンでのウィトゲンシュタインの二年間については、ほとんど何も知られていない。大学の記録によれば、一九〇六年十月二十三日に入学が許可され、彼は三学期間講義に出て、学位課程を十分にこなし、一九〇八年五月五日に卒業証書を授与された。当時の写真は彼がハンサムで、一分のすきのない服装をした若者であったことを示しており、この若者一年後にマンチェスターにいたときとされているが──は、は「ご婦人たちのお気に入り」であったとされていることもうなずけるであろう。
 彼は彼が学んだ教授のひとりのヨレス博士の家庭に下宿した。ヨレスは彼を家族の「ウィトゲンシュタイン坊や」として受け入れた。ずっと後の第一次世界大戦後に、一九〇三─四年に体験したのと匹敵するような、恐らくそれよりもいっそう深刻な変化が彼に起こった。ウィトゲンシュタインはヨレスの家族の人たちとの親密な関係に悩まされ、ヨレス夫人から受け取った親しい、愛情のこもった手紙に対して四角四面な挨拶状で応じたこともあった。しかしベルリンにいるあいだと、そして彼が去ってからも何年にもわたり、彼は彼らの暖かい待遇に対して十分に感謝の念をもっていた。
 この時期は関心と責務とが葛藤していた時代であった。ウィトゲンシュタインは父親に対する義務感から工学の研究にとどまり、当時まだ日の浅い航空工学への関心をさらに深めていった。しかしこうした彼の意志と反するように、彼は日増しに哲学的諸問題に自分が惹かれていくことに気づいていくのである。ゴットフリート・ケラーの日記に刺激され、彼はノートに日付をつける形式で、哲学的省察を書き始めた。
 短期間、父親の望みが優位を占めた。ベルリンを去るとすぐに彼はさらに航空工学の研究をするためにマンチェスターへ行った。しかし長期的にみて、彼が価値があると考えられる唯一の生は、彼自身の負っているより大きな責務──彼自彼身の天賦の才能を遂行することに費やす生であるということは、恐らく彼にはもうすでに明白であった。
3 ラッセルの弟子

〔…〕

 一九一二年二月一日にウィトゲンシュタインはトリニティ・カレジの一員として入学が許可された。指導教官はラッセルであった。ウィトゲンシュタインが論理学では何も正式の指導を受けていなかったことを知り、それで彼のために受けた方がいいと考え、ラッセルはウィトゲンシュタインのために優れた論理学者でキングズ・カレジのフェロー、W・E・ジョンソンを「指導にあたる」教師に付けた。この取り決めは数か月しか続かなかった。ウィトゲンシュタインは後にF・R・リーヴィスに、「私は最初の時間で私に教えるものを何も彼がもっていないことが分かった」、と語っている。リーヴィスはまたジョンソンから、「最初に会ったときから、彼が私を教えていた」、という話を聞いている。この違いと言えば、ジョンソンの発言が嘲笑的で、ウィトゲンシュタインのはまったく本気であった、ということである。この取り決めを破棄したのは実のところジョンソンの方であった。衝撃を与えずに欠点をウィトゲンシュタインに指摘するために、ラッセルがあらゆる機転と感受性を駆使しなければならなかったことが数多くあったが、これがその最初の出来事であった。

私が講義の準備をしていたとき、ウィトゲンシュタインが非常に興奮してやってきました。というのは、ジョンソン(私が彼に指導するようにと勧めました)が手紙を書いて、もう彼を引き受けないと言ったからでした。それに実際に彼はよい子のように学ぶ代わりに議論ばかりしている、とジョンソンが言っているというのでした。彼が私のところにやってきたのは、ジョンソンの真意を知るためでした。そのとき彼は恐ろしく頑固でして、ほとんど一言も言うことを聞きませんでした。まったくうんざりしました。でも私はほんとうに彼が大好きなので、彼を怒らせずに彼にこれらの事態に対処するヒントを与えることができました。

〔…〕

 ラッセルはウィトゲンシュタインのすばらしいマナーのことを株護して書いている。しかしそれより一層称賛しているのは、「議論に夢中になっているあいだ、マナーのことを忘れて、彼が考えていることだけを語る」、ということであった。

ウィトゲンシュタインほど誠実である人間、あるいは真理を妨げるような虚偽の礼儀作法などを無視する人間は誰もいないでしょう。彼は自分の感情や情緒をはっきりとあらわします。それが人の心を暖めるのです。[1912.3.10]

たとえば、ウィトゲンシュタインがたまたま修道士であった学生に会ったときのことを、ラッセルはオットーリーンに大ははしゃぎで報告した。彼は「私よりもキリスト教徒に遥かに厳しいのです。」

彼は大学生の修道士Fが好きでした。ところが、彼が修道士であると知って厭になったのでした。Fは彼のところへお茶を飲みにきました。するとウィトゲンシュタインはただちに彼を攻撃したのでした──私が想像していたように、すっかり激怒してしまったのでした。昨日は彼は平静さを取り戻し、そして議論をしないで、ただ誠実さだけを説いていました。彼は総じて倫理と道徳を忌み嫌っています。彼が衝動の人であるのは故意にしたのであり、彼は人はそうあるべきであると考えています。[1912.3.17]

「私は彼の実践している道徳には答えたくありません」、とラッセルは締めくくっている。

 この見解は合っていない。それは彼がウィトゲンシュタインの議論の核心を誤解していることを示している。というのは、ウィトゲンシュタインが誠実さを説いていたとすれば、彼は明らかに不道徳性を認める意味で倫理を忌み嫌っていたのではないからである。彼は誠実に、自己自身に真であることに、自己の衝動に基づいて道徳性を論じていたのであった──規則、原理、義務によって外から課せられたものよりもむしろ自己自身の内からでてくる道徳性を論じていたのであった。
 ウィトゲンシュタインにとって、それは多くのことが寄りかかっている問題であった。哲学のために工学を捨てたことで、彼は自分の内に燃えていたものを追求するために、彼の責務とみなされていたものを捨てたのではなかったか。確かにそうかもしれなかった。しかしながら私たちがこれまでみてきたように──そしてラッセルにもともと尋ねたように──そのような決定には正当化が必要であった。つまり内に燃えていたものを追求したのは、たんに気まぐれにではなく、恐らく何か重要な貢献をできるような生き方を追求しているのだ、という正当化が、彼には必要とされたのであった。
 この点に関するラッセルの誤解が、来たるべき事態を暗示している。つまり彼の「理論的問題への情熱」とウィトゲンシュタインのそれとが、結局彼が思っていたのとは同じではなかったことである。学期の終わりには、ふたりの関係は、ウィトゲンシュタインがラッセルの著作について、好き嫌いをラッセルに語ることができると考えるほどになっていた。彼は『原理』の美について大いに感動して語り、それは音楽のようであると述べた恐らく彼ができた最大の賛辞であった。しかし彼は通俗的な著作を強烈に嫌った──とくに『自由人の信仰』と『哲学の諸問題』の最後の章にある「哲学の価値」を嫌った。彼は哲学が価値をもつという考え方そのものを嫌った。

……哲学を好きな人は哲学を追求しようとして、他の人は追求しようとしない、それだけのことだ、と彼は言っています。彼の最も強力な衝動は哲学に向けられています。[1912.3.17]

 ウィトゲンシュタインの姿勢が、ラッセルが示唆しているように、単純であったとは信じ難い。最終的にラッセルの弟子になる前の数年間、彼は哲学が自分の最も強い衝動であるというのが事実であると考えたが、そのことによって義務と衝動との葛藤に深刻に悩んでいた。彼は実際に人間は衝動の存在であるべきだと信じていた──彼の父親がそうであったし、兄のハンスもそうであったし、すべての天才たちがそうであるようにである。しかし彼はまたほとんど人を圧倒するような義務感をもっており、それがかえって周期的に自己懐疑に陥らせることとなった。ラッセルの奨励は必要であった。まさにそのお蔭で彼はこれらの懐疑を克服でき、好運にも自分の最も強い衝動に委ねることができたからである。彼の家族は、ラッセルに哲学の研究を奨励されてからの彼の急激な変化に驚いたのであった。この学期の終わりに、これまでで最も幸福な時間がラッセルの部屋のなかで過ぎている、と彼自らラッセルに話している。しかしこの幸福は、たんに彼が自分の衝動に身を委ねたことによってもたらされただけではるなく、彼にはそうする権利があるという確信──彼が哲学に非凡な才能をもっているので──によってももたらされたのであった。
 ラッセルがこの点から彼を理解することがウィトゲンシュタインには重要であった。つぎの学期の準備のために、ケンブリッジに戻ってきた日に、彼のテーマは新たになった。ラッセルはつぎのように見ていた。彼は「まったく私が考えていたとおりに……よくやっています。私は彼が妙に興奮しているのに気づきました。」それでラッセルは、気質の面では自分たちには基本的な違いがない、とまだ理解しようとしていた。「彼は私と同じようにひどく興奮状態にあって、ほとんどじっと座ったり、本を読んだりできる状態ではありませんでした。」 ウィトゲンシュタインはベートーヴェンについて語った。

……ある友だちが書いていることですが、彼がベートーヴェンの戸口の所に行って、彼が自分の作曲した新しいフーガを「罵ったり、努号したり、歌っている」のを聞いていました。まる一時間経ってから、ベートーヴェンがついにドアのところにやってきました。彼はまるで悪魔と闘っているような様子でした。三六時間何も食べていませんでした。というのは、彼がどなり散らすので、料理人とメイドが逃げてしまったからです。こうした類の人間はこうしたものなのです。

ところで、これはまさに誰かが「罵ったり、努号したり、歌っている」のではない。この全力を尽くした、このようにすさまじい没入によってありふれた作品しかできなかったとしても、ウィトゲンシュタインはこれを「こうした類の人間のすること」と考えたのであろうか。ここで言われているのは、もし最も強力な衝動が作曲するのであれば、そしてその衝動に完全に身を委ねることによって崇高な作曲ができるのであれば、そのとき人は衝動的に振る舞う権利をもつばかりではなく、そうする責務がある、ということである。
 同様に、ラッセルはウィトゲンシュタインに同じように自由に振る舞うようにさせた。ラッセルは彼のなかに天才の資質を認めたからであった。彼は後にウィトゲンシュタインをつぎのように書いている。

……恐らく伝統的に考えられている、情熱的で、深遠で、熱烈で、卓越した天才として、私がこれまで知った天才のなかで恐らく最も完全な天才の実例であろう。

彼はすでにこの夏学期の初めにはウィトゲンシュタインのなかにこれらの資質を見ていた。四月二十三日のオットーリーンへの手紙で、彼はつぎのように語っている。「その課題を彼が取り上げている限り、私が捨てたことでその課題をなおざりにしているとは思いません。」そしてまるでその課題を果たすのに必要な才能の持ち主というのはこういう者であるという実例を挙げるかのように、つけ加えている。「彼はたいへん興奮していて、今日私の部屋の調度備品を全部壊してしまうのではないかと思いました。」
 ウィトゲンシュタインは、ラッセルとホワイトヘッドが『原理』をどのように終わらせるのかと尋ねた。ラッセルは、ふたりには結論はないと答えた。その本は、「どんな言葉であろうと最後につければ」まさに終わりとなろう。

彼は最初驚いたようでした。その後それが正しいと分かりました。恐らくなくてすむ言葉が一語でも含まれていれば、その本の美は損なわれると私には思えます。

本の美に対するこの姿勢は、疑いなくウィトゲンシュタインに共感をもって受け入れられたことであろう。彼はここでラッセルによって提出された禁欲的な美学を新たな高みへともたらし、『論考』を言葉少ない文体で綴ることとなった。
 すでにこの夏学期の初めには、ふたりの関係は変わり始めていた。ラッセルは公的にはまだウィトゲンシュタインの指導教官であったけれども、ウィトゲンシュタインを是認することに次第に不安を募らせていった。イースターの休みのあいだ、ラッセルは「物質」に関する論文の執筆にとりかかった。それはカーディフ大学の哲学会で講演されることになっていたものであった。それが新たな活力を証明する仕事となるよう彼は望んでいた──「ヒューマンな感情をまったく無視した、最も骨の折れる結論を与える、冷たい熱情的な分析のモデル。」冷たくそして熱情的とはどういうことか。ラッセルは説明している。

私はこれまで物質について取り扱うだけの十分な勇気はありませんでした。しかしそれほど懐疑的であったのではありません。私の敵たちが「実在論の破産」と呼ぶような論文を書きたいのです。人に冷たい洞察を与えるための熱情ほど必要とされるものはありません。私の最良の研究はたいてい自責の念からなされていますが、どんな情熱でもそれが強力でさえあれば、成し遂げることができるでしょう。哲学は厄介な女王なのです──人はただ情熱の手に握られた冷たい剣でもってしか彼女の心に入っていけないのです。

「情熱の手に握られた冷たい剣」──この句は、ウィトゲンシュタイン自身の厳格な論理的精神と、衝動的で取り憑かれる性格との完全な一体化を想い浮かべさせる。彼はラッセルの哲学的理想像の人間化そのものであった。しかしながらラッセルはその企てに対してのウィトゲンシュタインの反応に失望させられることになるのであった。彼はその全課題を「些細な問題」として片付けてしまった。

彼は物質が存在しなければ、自分以外の何も存在しないことを認めています。しかし物理学、天文学、その他のすべての科学が依然として真であると解釈されうるのだから、そうだとしても問題はない、と彼は言っています。

数日後に、ウィトゲンシュタインが実際にその論文の一部を読んだとき、ラッセルは彼の心変わりを知り、救われた思いをした。ウィトゲンシュタインはその徹底性に感激したのであった。ラッセルは、哲学者たちによってこれまでなされてきた物質の存在の証明についてのすべての論証は端的に誤謬だった、という大胆な書き出しで論文を始めた。これはラッセルがなした最大のことである、とウィトゲンシュタインが強調した。その論文の残りの部分を読んだとき、彼はふたたび心変わりをして、ラッセルに結局それを好きではないと話した。藁にもすがりつくように、「しかしただ」、とラッセルはそのことをオットーリーンに話した。「それは見解の相違ということで、出来が悪いというのではありません。」ラッセルがもともと非常に高い希望を抱いて書いた論文であったが、出版されなかった。

〔…〕

 休日を一緒に過ごすことに招待される以前は、週に二、三回これらの実験に参加する以外に、ピンセントとウィトゲンシュタインとの交際はラッセルの催した水曜日の夕方の〈スカッシュ〉に限られていた。五月三十日この〈スカッシュ〉が終わった後で、彼はウィトゲンシュタインが「たいへん面白い」人間であることが分かったと記している。

……彼はこの地で哲学の本を読んでいる。しかし体系的に読み始めたばかりだ。彼はいままで知らないで、ただ崇拝していたすべての哲学者たちが結局は愚か者で、不誠実で、嫌悪感をもよおす間違いを犯していることにきわめて素朴な驚きを示している。

 しかしウィトゲンシュタインの思いがけない招待の後に親密な友情が交わされていった。翌日、ふたりは一緒にコンサートに行った。その後でウィトゲンシュタインの下宿先に行き、彼らは十一時三十分まで話し込んだ。ウィトゲンシュタインは「とても話好きで、私に自分のことをたくさん語った。」そのとき、ラッセルが哲学することを奨励してくれたことが彼の救いであって、それまでは自殺の思いに駆られた孤独と苦悩の九年間であった、と彼はピンセントに語った。ピンセントはつぎのようにつけ加えている。

ラッセルが彼を高く買っているのは知っている。ラッセルはは彼から誤りを直され、自分が哲学の一ないし二点で間違っていることを認めさせられた。そしてここではラッセルひとりだけがウィトゲンシュタインに間違いを指摘されている指導教官なのではない。ウィトゲンシュタインにはほとんど趣味といったものはない。それがかなり彼を孤独にさせている原因となっている。人はケンブリッジの優等生たちのように、目立ち、重要なものばかりを追い求めて成長していくわけにはいかない。しかし彼はほんとうに面白く、楽しい人間だ。いまでは彼は、病的な憂鬱さをすっかり克服してしまったと思いたい。

 この後ウィトゲンシュタインとピンセントはおたがいに理解を深め、ケンブリッジ大学の音楽クラブのコンサートへ行ったり、ユニオン(学生クラブ)で一緒に食事をしたり、おたがいの部屋でお茶を飲んだりした。ウィトゲンシュタインは、ピンセントの発表を聞くためにわざわざカレジの礼拝堂での礼拝式にさえ出たのであった。
 以前には彼はラッセルによってキリスト教徒に「厳しい」と書かれたことがあったが、実際はそれほどではなかったのかもしれない。実は同じ頃、彼は、「もし全世界を手にしたとしても魂を失うことになったら、いったいどんな利益を得るのか」、という聖書の言葉をどれほど称賛しているか、と突然言ってラッセルを驚かせた。

[彼は]それから魂を失わない人間がいかに少ないか、と話しました。それはそれにふさわしい大きな目的をもつかどうかによる、と私が言うと、それよりも苦悩とそれに耐える力によると思う、と彼は言いました。驚きました──そうしたことを彼から聞くなど思ってもみませんでした。

ここで示されているストイシズムはウィトゲンシュタインが晩年にノーマン・マルコムに話したことと関係しているようである。ウィーンの家で過ごしたある休暇中に、オーストリアの戯曲家で小説家ルートウィヒ・アンツェングルーバーの作品『クロイツェルシャイバー』という演劇を見てから、彼は以前に示していた宗教への軽蔑的態度を変えてしまった*。それはごく普通の演劇であったが、そのなかで登場人物のひとりが、たとえ世界で何が起ころうとも自分には悪いことは何も起こらないであろう、という人生観を述べている。彼は運命と環境とを超越していた。このストイックな人生観がウィトゲンシュタインに強烈な印象を与えた。このように彼はマルコムに語り、彼ははじめて宗教の可能性をみていたのであった。

 * この出来事があったのは、一九一〇年か一九一一年の初めの頃、およそ二十一歳のときである、とウィトゲンシュタインはマルコムに語っている。しかしウィトゲンシュタインの宗教への態度の変化について、一九一二年の夏にラッセルが記しているので、その日付はその年のイースター休暇中のエピソードであると考えたい。

 その後の生涯をとおして、彼は、宗教的体験の範例は「絶対的に安全」だという感情であると言い続けた。上述のラッセルとの会話の数か月後に、彼がウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』を読み、ラッセルに話している。

この本は私に多くのよいことを教えてくれます。私がまもなく聖者になるなどと言うつもりはありませんが、非常に多くのことを改善したいと思っている方向へとこの本が私を導かないことはないと確信しました。つまりこの本はゾルゲ(不安 Sorge)から私を救ってくれるのに役立つと思います。(ゲーテが『ファウスト』の第二部でその言葉を用いた意味においてです。)

 魂を失うことと保持することについて議論をした二日後に、ラッセルとウィトゲンシュタインは他のことで議論を交わしたが、そこでふたりの倫理的見解の相違の根となっているものが示されている。それはディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』の議論に見られる。ウィトゲンシュタインは、コパフィールドがリトル・エミールと逃走するためにスティアフォースと喧嘩したのは彼の間違いだと主張した。ラッセルは、同じ環境にあれば、自分も同じことをしていたであろうと答えた。ウィトゲンシュタインは「たいへん感情を傷つけられ、そのようには考えられないと拒否しました。そして彼は、人は友人にはつねに忠実で、しかも友人を愛し続けることができるし、そうでなければならないと考えている」というのであった。
 ラッセルはそのときもし彼がある女性と結婚し、その女性が他の男と駆け落ちをしたら、どう考えるかとウィトゲンシュタインに尋ねた。

[ウィトゲンシュタイン]は、怒りも憎しみも感じないが、ただまったく惨めだろう(彼がそう言ったと信じます)と言いました。彼は根っからの善人なのです。それこそ道徳の必要性が彼に分からない理由なのです。私は最初はまったく間違っていました。彼は情熱をもってあらゆることにあたるでしょうが、けっして冷血非道なことはしないと思います。彼の見解はたいへん自由で、原理とかそういったものは彼にはナンセンスなようです。といいますのは、彼の衝動は強力で、けっしていかがわしいものではないからです。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインは自分で最も根本的に確信していることを人と議論するような人間ではなかった。彼との対話は、相手がそれらの確信を共に分かち合う場合に限って可能であった。(だから、倫理的問題に関するラッセルとの対話はまもなく不可能となった。)彼と根本的な見解を共に分かち合わなかった者には、彼の発言は──論理に関するものであれ、倫理に関するものであれ──恐らく理解できなかったであろう。こうした彼の性向がラッセルを煩わせ始めた。「私は恐ろしく心配です」、彼はオットーリーンへ語った。「彼が何を書くのか、その核心が誰も分からないのではないか、ということなのです。というのも、彼は異なった見解に対して議論をしようとはしないからなのです。」ラッセルが彼にたんに自分が考えていることを述べるだけではなく、それの論証をもすべきであると話したとき、ウィトゲンシュタインは論証はその美を損なうと答えた。〔論証することを〕泥だらけの手で花を汚しているように感じていたのであった。

私はそれに反対する気持ちはないし、論争をするなら、そのための奴隷を雇ったほうがいいと彼に言いました。

〔…〕

 事実ケンブリッジでの一年目の終わりに、ウィトゲンシュタインをラッセルの後継者にする下準備がなされていた。夏学期の終わりに、ヘルミーネがケンブリッジを訪れて、ラッセルに引き合わせられたとき、彼女は「私たちはあなたの弟さんが哲学でつぎの大きなステップを踏まれることを期待しています」、と彼に言われて驚いている。
 夏休みの初めにウィトゲンシュタインはG・E・ムーアの旧いカレジの部屋を提供された。それまで、彼はローズ・クレセントの下宿に入っていたが、ムーアの提供を喜んで受け入れた。その部屋はヒューウェル・コートの最上階にあって、トリニティ・カレジの素晴らしい見晴らしをもった、彼には申し分のないものであった。彼はその塔の最上階に住むのを好み、後ほどフェローとして、さらに後に教授としてケンブリッジに戻ってきたときにも、もっと大きく豪華な部屋に住む権利があったが、この同じ部屋で暮らしたのであった。
 ウィトゲンシュタインは細心の注意を払って部屋の家具を選んだ。ピンセントが手伝った。

私は出かけていろいろな店で彼がたくさんの家具を見て歩くのを手伝った。彼はつぎの学期にカレジに引っ越すことになっていた。これはかなり楽しかった。彼はもの凄く好みが難しく、店員をさんざん手こずらせた。店員が私たちに見せたものの九〇パーセントに対して、ウィトゲンシュタインは、「駄目だ──ひどい!」と絶叫した。

ラッセルもまたこの件でウィトゲンシュタインの慎重さに興味を引かれ、かなり大げさだと受け取った。「彼はたいへんな凝り性です」、と彼はオットーリーンに話した。「昨日は何も買ってきませんでした。彼は家具がどうあるべきか、と私に講釈してくれました──彼は家具に付いているあらゆる余計な装飾を嫌っています。といって、そんな簡素なものは一つも見つからないのです。」結局ウィトゲンシュタインは家具を自分の好みに合わせて特別に作らせた。家具が届けられたとき、ピンセントの判定によると、それは、「かなり風変わりであったが、悪くはなかった。」
 ピンセントもラッセルも、この件に関するウィトゲンシュタインの凝り性をよく理解できなかった。デザインと工芸に対する彼の関心を評価しようとすれば、実際に彼の家具製作のことを経験してみなければならないであろう。数年後につぎのようなことがあった。彼のマンチェスター以来の友人工クルズがウィトゲンシュタインの意に沿って自分の設計したいくつかの家具デザインを彼に送り、そして周到に熟慮された返事を受け取り、その判決を有難くお受けすることになったのであった。
 余計な装飾に対するウィトゲンシュタインの強烈な反感を理解するには──それが彼にとって重大な倫理的問題であったことを評価するためには──、私たちは当時のウィーン人になり、カール・クラウスやアドルフ・ロースと同じような実感をもたなければならないであろう。彼らは、かつてのハイドンからシューベルトに至る、世界のどこの文化にも優った高貴なるウィーンの文化が、十九世紀末以来、パウル・エンゲルマンの言葉を引用すると、「偽って称せられた、卑しい文化──高貴なる文化とは反対に、装飾と仮面に誤用された文化」へと衰退していった、と実感していたのであった。

九月の第一週にロンドンでピンセント(彼の両親はアイスランドの休暇旅行を許した)に会うことを約束して、七月十五日にウィトゲンシュタインはウィーンに帰った。ウィーンの家での生活はくつろぐことができなかった。父親は癌にかかっていて、何度も手術を受けていた。グレーテルに赤ちゃんが産まれたが、難産であった。彼自身もヘルニアの手術を受けた。それは兵役検査のさいに分かったものであった。このことを彼は母親に知らせないでいた。彼女は病人の父親の看病ですっかり取り乱していた。
 ウィーンから彼はラッセルに手紙を書き、「私はふたたびすっかりよくなりました。そして全力を尽くして哲学をしてい います」、と伝えた。彼の思索は、論理語(ラッセルの記号では、‘v’, ‘~’, ‘⊃’ 等)の意味の考察から、「私たちの問題は原子的命題へ辿ることができる」、という決定にまで進展した。しかしこのラッセルへの手紙では、彼はこの進展がどういう論理的記号論になるかに関しては暗示を与えるにとどめていた。
 「モーツァルトとベートーヴェンの伝記を読まれることをお薦めいたします」、と彼はラッセルに書いた。「彼らはまさしく神の子なのです。彼はトルストイの『ハッジ・ムラート』を読んだ喜びをラッセルに語っている。「あなたは読まれたことがありますか。もしなければ、ぜひ読むべきです。それは素晴らしい本です。」
 九月四日にロンドンに着いてから、彼はベリー・ストリートにあるラッセルの新しいフラット住宅に彼のゲストとして滞在した。ラッセルは彼がブルームズベリとは違った新鮮な気持ちになっている様子を書いている──「スティーヴンとかストレイチーとかの、自称天才とは大違いです。」

私たちはただちに議論に突入し、大議論となりました。彼には何がほんとうに重要な問題であるかを理解する非常に偉大な能力があります。
 ……彼は、私がこれまでひとりでしていた難しい思考の全部門を彼に任せることができると、うれしい、怠惰な気分にさせてくれます。専門研究を人に任せることは私を気楽にさせてくれます。ただ彼の健康だけがたいへん気がかりです──彼は生活がとても不安定な人間のような感じを人に与えます。それに耳が遠くなっているようです。

ウィトゲンシュタインの聴覚の問題に触れているのは恐らく皮肉であろう。ともかくも彼が聞こえなかったということはありえなかった。ただたんに聞こうとしなかっただけである──とくにウィトゲンシュタインが哲学の問題をすべて解決してから、はじめて書くというようなことのないようにとラッセルが「哲人ぶって忠告」したときにはそうであった。そんな日はけっして来ないであろう、とラッセルが彼に言った。

このことが突然の爆発を引き起こすことになりました──彼は完全なものを生み出すか、あるいは何も生み出さないかのどちらかだという芸術家気質の人間です──私は彼が不完全なものを書くようにしなければ、学位を得たり教えるようになれない、と説明しました──こういったことすべてが彼をますます狂暴にさせてしまいました──最後には、たとえ彼が私を失望させたことがあっても、見捨てないでほしい、と私に懇願する始末でした。

 ビンセントは翌日ロンドンに着き、ウィトゲンシュタインと会った。彼はピンセントをタクシーに乗せてトラファルガースクエアにあるグランドホテルに行くと主張した。ピンセントはそんな豪華なホテルではないところにしたい、と言ったが無駄だった。ウィトゲンシュタインは聞こうとはしなかった。ピンセントの日記に記されているように、どうみても旅費の節約とは言えなかった。ピンセントはホテルでそのときその金額の支払いのことで彼から言われた。

ウィトゲンシュタインは、いやむしろ彼の父親が私たちふたり分を支払うと言った。彼はかなり気前よくしてくれると思っていた。しかし彼は私の期待を遥かに越えていた。紙幣で一四五ポンドを私に手渡し、自分でも同じ額の紙幣をもっていた。それにまたおよそ二○○ポンドの預金証書ももっていた!

 ロンドンからふたりは汽車でケンブリッジへ行った(「私たちがファースト・クラスで行ったことは言うまでもなでい!」)、そこでウィトゲンシュタインは彼の新しいカレジの部屋のことで行かなければならない用件があった。それをすませた後で彼らはエジンバラに行き、そこで船旅行に出る前の晩泊まった。エジンバラでは、彼は十分な衣服をもってこなかったと言って、ピンセントをあちこちと買い物に連れ回した。

……彼は十分着るものをもって来たかどうかで大騒ぎをしている。彼自身は三つの旅行鞄をもっていた。それで私のたった一つのトランクに大いにうろたえているのだ。彼はケンプリッジで私に二つ目の膝掛けと今朝エジンバラではいくつか小間物を買わせた。私は大いに抵抗した──とくにこのように自分が使っているのは自分のお金ではなかったのであるから。でも、私は仕返しに彼がもって来なかったオイルスキンを買わせた。

 九月七日に、彼らはリース港から「スターリング号」に乗って出発した。その船は普通の渡航の蒸気船のようで、ウィトゲンシュタインはたいへんうんざりしたようであった──彼はもっと豪華なものを期待していた。彼らが甲板にピアノを見つけたとき、ウィトゲンシュタインは落ち着きを取り戻した。ピンセントは、シューベルトの歌集をもってきていて、他の乗船客たちに熱心に勧められ、ピアノを弾いた。五日間の船旅でかなり海が荒れていた。ピンセントもウィトゲンシュタインもそれに悩まされた。ピンセントは、ウィトゲンシュタインが大部分の時間を自分の船室で寝て過ごしたが、それでも少しも船酔いをしなかったことを不思議がって記している。

 彼らは九月十二日にレイキャビクに着いた。ホテルを予約するとすぐに、彼らは内陸旅行をするためにガイドを雇い、翌日出発した。ホテルでは彼らは最初の議論──パブリックスクールについて──をした。その議論はすっかり白熱化し、おたがいに誤解していることが分かるまで続いた、とピンセントは記している。「彼は、残酷さとか苦難に対する〈ペリシテ人的(俗物的)〉態度と彼が呼んでいるもの──すべてに冷淡な態度──をひどく嫌っていて、そうした態度をとっているキプリングを非難した。そして私がその態度に共鳴していると考えた。」
 一週間後に「ペリシテ人的」態度についての話題が新たに取り上げられた。

ウィトゲンシュタインは「ペリシテ人」について、折にふれて多くを語った──それは彼が嫌いな人すべてに対してつけた名前であった!(九月十二日木曜日の日記を見よ(vide supra)。) 私が表明したいくつかの見解はいくぶんペリシテ人的見解((哲学に関してではなく)──実際的なことに関して──) たとえば過去の時代よりも現代に優位を見る等──のように彼には思われた。そして彼は、私をほんとうにペリシテ人とは考えなかったので、かなり困惑していた──彼が私を嫌っているとは思わない! 彼は私がもう少し年を取れば考え方も変わるだろう、といって自分で満足していた。

これらの議論にみられる、ウィーン人の不安アンクストのペシミズムと英国人の無神経さのオプティミズムとの対比は興味をそそる。(少なくとも、第一次世界大戦が「過去の時代よりも現代が優れている」という英国人の信条さえ弱めてしまうまでは、そうであった。)しかしもし事実そうであったとしても、そのとき、彼を理想的な友人ともしていたウィトゲンシュタインの文化的ペシミズムを分かち合うことがピンセントにはできなかったのは、まさにピンセントのうちにある資質であった。
 しかしながら、陽気で穏やかなピンセントでさえも時折ウィトゲンシュタインの神経質に緊張させられた──ピンセントは、それを彼の「大騒ぎ癖」と呼んだ。レイキャビクでの二日目に、彼らは帰りの船部屋を確かめるために汽船会社の事務所へ行った。そこでふたりの言っていることを分かってもらうのに、いろいろと苦労をした。問題は結局は解決した。少なくともピンセントには満足であった。

しかしウィトゲンシュタインはそのことで大騒ぎをし、私たちは帰れないと言い出した。私はすっかり彼に苛立ってしまった。結局は彼はひとりで出かけ、銀行から通訳をする人を探してきて、汽船会社の事務所でふたたびその問題をぶり返した。

ピンセントがわずかでも上機嫌でなくなると、そんなにしょっちゅうはなかったにせよ、ウィトゲンシュタインは大いに当惑した。九月二十一日の日記にはつぎのように記されている。

ウィトゲンシュタインは夕方じゅう少々不機嫌であった。私が些細なことでわずかでも苛立つと──今夜私がしたように──、彼は非常に神経過敏となる。私は何をしたのか忘れている。彼は落ち込んで、夕方じゅう黙り込んでしまった。彼はいつも私にいらいらしないでくれと言う。私は最善を尽くした。ほんとうに今度の旅行ではそれほどしょっちゅう私は苛立ってはいないと思う。

 休暇のうち一〇日間はポニーに乗っての内陸の旅であった。ここでも費用の節約はなかった。一行はウィトゲンシュタイン、ピンセント、彼らのガイドで、それぞれがポニーに乗った。先頭には二頭の荷物を運ぶポニーと予備用の三頭のポニーを引き連れていた。日中彼らは馬に乗って、田園を散索した。日が暮れるとウィトゲンシュタインがピンセントに数学的論理学を教えた。ピンセントはそれに「すこぶる興味をもった」──「ウィトゲンシュタインは非常に優秀な教師になっていた。」
 ときには彼らは徒歩で田園を散索し、ロッククライミングさえ企てた。ロッククライミングはどちらも上手とは言えなかった。それがウィトゲンシュタインを「ひどく神経質に」させた。

彼の大騒ぎ癖がここでもまたもや起こった──彼はいつも命を危険に晒さないでほしいと私に懇願している!  彼がそんなことをするのは滑稽だった──その他のときは彼はまったくのよき旅の道連れであるからだ。

彼らが歩いているあいだ、たいてい論理学について会話を交わし、ウィトゲンシュタインはピンセントに論理学をずっと教え続けた。「私は彼からたくさんのことを学んでいる。彼は はほんとうに驚くほど賢い。」

私は彼の推論にどんな小さな間違いもまだいちども見つけられないでいる。しかも彼は、いくつかの論理の課題に関する私の考え方をまったく変えてしまった。

 アイスランドの田園の旅が終わり、レイキャビクのホテルに戻ってきたとき、ピンセントは、ちょうど着いたばかりの「とても素敵な無作法者」と軽く言葉を交わした。それが「そういう人々」についての長い議論へと点火した。「彼はまったく彼らと話そうとしないが、実は彼らはなかなか面白い、と私は思っている。」翌日「ウィトゲンシュタインはたいへんな大騒ぎをした。」彼はピンセントの「素敵な無作法者」をひどく嫌って、同じテーブルで食事することを考えるのも拒否した。こういう事態がまったく起こらないように、彼はどの食事にさいしてもホテルの定食時よりも一時間早く自分たちに食事を出すように命じた。昼食時間を忘れてしまったとき、ウィトゲンシュタインは無作法な連中に出会うよりはと、ピンセントを外に連れだし、レイキャビクで何か食べるものを探しに出かけた。何も探せなかった。そこでウィトゲンシュタインは自分の部屋でわずかばかりのビスケットを食べた。ピンセントはホテルの定食を食べにいった。その夕方ピンセントはウィトゲンシュタインが「まだ昼食のことでかなり不機嫌」なのに気づいた。しかし彼らは取り決めていたように一時間早めて夕食を取り、シャンペンも飲んだ。「それで少しばかり彼は元気になり、最後にはすっかり正常になった。」
 ビンセントは旅行のあいだ終始彼を鷹揚に受け入れ、快活に振る舞った。帰りの船ではウィトゲンシュタインは彼を工ンジン室に入れ、エンジンの作動の仕方を説明した。彼はまた彼のしている論理学の研究も説明した。「私は彼が何か素晴らしいことを発見していたとほんとうに確信している」、とビンセントは自分の意見を記している──残念ながら、それがどんなものであったのかについては触れていない。

 旅から帰ると、ビンセントはウィトゲンシュタインにバーミンガムの実家に一泊するようにと説得した──彼はウィトゲンシュタインに両親にぜひ会ってくれるように頼んだ。その誘いとして市公会堂のコンサートのことを彼に話した。そのときのプログラムは、ブラームスの『レクイエム』、シュトラウスの『サロメ』、ベートーヴェンの『第七シンフォニー』、バッハのモテト『恐れないで』であった。ウィトゲンシュタインはブラームスを聴いたが、シュトラウスのときは会場に入ることを拒否し、ベートーヴェンが終わるとすぐにそのホールを出てしまった。夕食のとき、休暇中ウィトゲンシュタインがピンセントに教えた論理学についていくつかのことを、ピンセントは父親のためにウィトゲンシュタインに説明してもらった。彼の父親は的確な印象をもった。「父は興味をもったと思う」、と彼は書き、そして──とくに躊躇はすることもなく──「もちろん彼はその後でウィトゲンシュタインが実に賢明で鋭敏であるという私の意見に同意した。」
 ピンセントにはこの旅行は、「私がこれまで過ごした最も素敵な休暇!」であった。

田舎の新鮮さ──お金の心配からまったく解放されて──刺激的であり、なにもかも素晴らしく──万事が私がこれまでした最も素晴らしい体験となった。それは私にほとんど神秘的で、ロマンティックな印象を刻みつけた。というのは、最的高のロマンスは新鮮なる感情──新鮮なる環境等々に宿っており、それらが与えたものは何であれ、すべて新鮮であるからである。

ウィトゲンシュタインにはそうではなかった。彼の記憶に残ったものはふたりの相違であり不一致であった──恐らくそれらはピンセントの日記に記されている──ピンセントの時折の苛立ち、彼の「ペリシテ主義(俗物性)」についての暗示、そして「無作法者」との出来事がそうであった。ウィトゲンシュタインは後ほど、「おたがいに何でもないふたりができる限りのことをしたのだから」、その旅は楽しかったとピンセントに語っている。



4 ラッセルの先生

もし私たちがいま天賦の才能をもった人間にとりかかるとすれば、私たちは彼らの場合では愛がしばしば自己禁欲、屈服、抑制とともに始まっているのを理解するであろう。道徳的変化が起こり、潔めの過程は愛する対象から放射されるようにみえる。
ワイニンガー『性と性格』

 ウィトゲンシュタインは動揺し、苛立った状態でピンセントと過ごした休暇からケンブリッジに戻った。数日も経たないうちに、ラッセルと最初の大仲違いをした。ウィトゲンシュタインのいないあいだ、ラッセルは『ヒバート・ジャーナル』に「宗教の本質」という論文を発表していた。それは、彼が破棄した本、『監獄』から取られ、「私たちの生の無限の部分」についての見解を中心においた「観想の宗教」を示したもので、オットーリーンに啓発された企てであった。それは「ある見地から世界をみるのではなく、曇りの日の海に拡散した光のように世界を遍く照らす」というものであった。

有限の生とは違って、それは偏りがない。この偏りのなさが思想に真理を、行為に正義を、感情に普遍的な愛を導く。

 多くの点で、この論文は、とりわけ一方ではスピノザ主義的な「有限な自我からの自由」(『論考』では永遠の相の下の(sub specie aeterni)世界の観想と呼ばれているもの)を提唱することにおいて、そして他方ではラッセルが「私たちの理想がもう世界において実現されるであろうという切実な要求」(『論考』六・四一と比較せよ)と呼んだものを否認することにおいて、ウィトゲンシュタイン自身が『論考』を押し進めることになる神秘的な教説を予想させるものであった。しかし『論考』とは違って、ラッセルの論文は、この神秘主義を明確に表現することに、たとえば厳密に言えば何ら意味のない方法で、ためらいなく〈有限〉と〈無限〉という言葉を用いている。ともあれ、ウィトゲンシュタインはこの論文を嫌い、ケンブリッジに戻って数日のうちに、自分の感情を知らせるためにラッセルの部屋へ怒鳴り込んでいった。彼はオットーリーンへの手紙を書くのを中断された。

ここまで書いたところでウィトゲンシュタインがやってきました。ヒバートに出した私の論文に恐ろしく傷つけられたのです。彼がそれを嫌っていることは明白でした。私は彼のせいで手紙を書くことを中断しなければなりません。

数日後にラッセルはウィトゲンシュタインの激昂の理由を明確に書いている。「私が正確さを信条とする人間へ裏切り行為をしたということ、またそうした事柄はあまりにも個人の内奥の問題で印刷には向かないと彼は考えたのでした」、「私は非常に気にしています」、と彼はつけ加えている。「といいますのは、私は半分はウィトゲンシュタインの言うとおりだと思っているからです。」さらに数日間、彼はこの非難のこと彼とで考え込んだ。

ウィトゲンシュタインの批判は心の奥底から私を悩ませました。彼は私のことをよく考えようと心から願って、不幸になり、思い悩み、深く傷ついたのでした。

彼はウィトゲンシュタインを自分の当然の後継者としようとする気持ちが増大していったので、ますます気になったのであった。論理学の分析においてなした彼自身の努力はますます気乗りがしなくなっていた。「論理学とは何か」、という題の論文の最初の原稿を書き出したが、彼はその先を続けられないのに気づき、「それをウィトゲンシュタインに任せようという気持ちにすっかりなってしまいました。」
 ムーアもまた、十月の最初の数週間、ウィトゲンシュタインの率直な批判に説得力を強く感じていた。ウィトゲンシュタインはその学期からムーアの心理学の講義に出席していた。「彼は講義にたいへん不満でした」、とムーアは手紙に書いている。「というのも、心理学は、主題では自然科学とは違わないが、ただ見方において違っている、というウォードの見解を論評することに私は多くの時間を費やしていたからでした。」

彼は、私にそれらの講義はたいへんまずく──私のすべきこはとは、私が考えたことを話すべきであり、他人が考えたことを論ずるべきではない──と話し、それからはもう私の講義──に出なくなりました。

ムーアはつぎのことをつけ加えた。「今年彼と私はずっとラッセルの数学の基礎に関する講義に出席していました。しかしウィトゲンシュタインはまた彼と論理学の議論をするために、よく夕方数時間もラッセルの部屋に行っていました。事実、ウィトゲンシュタインは──明らかにワイニンガーが書いた、自己 - 禁欲と道徳的変化の過程にあった──論理学と同じだけ自分自身を論じてそれらの時間を費やしたのであった。ラッセルによれば、彼は、「三時間も興奮した状態で何もしゃべらず、野獣のように私の部屋を歩きまわった。」そのときラッセルは尋ねた。「きみは論理学について考えているのか、それともきみの罪のことについて考えているのか。」「両方」、とウィトゲンシュタインは答えて、歩きまわり続けた。
 ラッセルは彼がいまにも神経症になってしまうのではないかと考えた──「彼は自殺の思いから逃れることなく、自らを惨めな生きものと意識し、罪に苛まれ」、そしてラッセルはこの神経を消耗させる疲労を「その意気消沈させられている厄介な事態に対して、絶えず極度に自分の精神を緊張させている」ためだ、と受け取っていた。医師も同じ意見であった。ウィトゲンシュタインはめまいの発作が起こり、仕事ができなくなるのを非常に心配して、医師の診察を受けた。医師は、「そのことすべては神経過敏から来ている」と診断した。それゆえ、道徳的に治療を受けたい、とウィトゲンシュタインは真面目になって申し出たが、ラッセルは身体的に治療をすることを主張し、もっとたくさん食べること、そして乗馬をすることを勧めた。オットーリーンはココアを送り、応分の協力をした。「私はその使用法を覚えておきます」、とラッセルは彼女に約束した。「そしてウィトゲンシュタインに、それを用いるように勧めます──しかし彼はきっと受け入れないと思います。」
 ところが、ウィトゲンシュタインは乗馬をするようにというラッセルの忠告を受け入れた。その学期の残りのあいだ、彼とビンセントが週に一、二度馬を雇い、ピンセントが「おとなしい」と言った乗馬(つまりジャンプをしないで乗馬すること)をして、船道に沿ってクレー・ハイズへ、あるいはトランピントン・ロードに沿ってグランチェスターへと乗馬をした。もしこれがウィトゲンシュタインの気質に何らかの効果があったとすれば、自分自身と他人の道徳的欠陥に対して彼が突然の怒りを爆発させるようなことが多少はなくなったことである。
 十一月九日に、ラッセルはウィトゲンシュタインと一緒に散歩することを約束していた。ところが、その日に彼はホワイトヘッドの息子ノースの出るボートレース競技を観戦する義務感に駆られた。そこで彼はウィトゲンシュタインをその川へ連れていった。そこで彼らふたりはノースがそのレースで負けたのを見た。ラッセルによれば、これが「熱烈な午後」となった。ラッセルの方はそのレースの「興奮のさまと世になされている重大事」に苦々しさを感じた。ノースが「負けてひどく気にしていた」のでいっそうそのように思われたのであった。他方ウィトゲンシュタインはその事態全体を実に忌々しいと感じたのであった。

……闘牛を見た方がましだと言いました(私自身もそう思いました)、なにを見てもくだらないなどと言いました。私はノースが負けたので気が立っていました。ですから、私は平静になることが競技には必要なのだと説きました。とうとう私たちは話題を変えました。私はその方がいいと思いました。しかし彼は突然じっと立ち止まり、私たちの午後の費やし方は、あまりにも下劣で、そんな私たちは生きるに価しない、少なくとも彼は生きていくべきではないということ、偉大な仕事をすること、あるいは他人の偉大な仕事を享受すること以外には何一つ耐えられないこと、彼がまだ何も成し遂げていないばかりか、これからもできないであろうということを説いたのでした。このことすべてはほとんど人を打ちのめしてしまうような勢いがありました。彼をみているとめそめそ泣いている小さな女の子のように感じます。

 数日後、ラッセルにはこうしたことはもうたくさんであった。「私は昨日ウィトゲンシュタインにあまりにも自分自身のことを考えすぎると話しました。そしてもし彼がまた繰り返すなら、彼がほんとうに絶望していると私が思えない限り、彼の話を聴くのはお断りだと言ってやりました。彼はいまは自分のためになる範囲で自分のことを語っています。」
 こうしたことがあったにもかかわらず、十一月の終わりに、ラッセルはふたたびウィトゲンシュタインについて彼との議論に引き込まれた。

私は彼の欠点について話してあげました──彼は自分が評判がよくないということを悩んで、その理由を私に尋ねました。それは一時間三〇分も続いた長くて面倒で熱烈な(彼の方の)会話でした。そんなわけで私はかなり寝不足です。彼にはたいへん苦労していますが、それに価します。彼は少しばかり単純すぎます。それを改めるためにあまりひどく彼に言うと、優れた才能が損なわれるのではないかと心配です。

 ウィトゲンシュタインが「少しばかり単純すぎる」(そしてまたたぶんいわゆる彼の評判の悪さの原因)についてラッセルが何を言っているのかは、ピンセントの日記に書かれていることから推測できる。ウィトゲンシュタインの例の川岸での「熱烈な午後」のあくる日の夕方に、彼とピンセントはケンブリッジ大学の音楽クラブのコンサートに出席し、その後でウィトゲンシュタインの部屋に行った。ラッセルが前に述べていた大学生の修道士のファーマーがやってきた。ピンセントはつぎのように記している。彼は「ウィトゲンシュタインが嫌い、不誠実な心をもったと信じきっている人間であった。」

……[ウィトゲンシュタインは]ある精密科学に関する優れた本を読み、そして誠実な考えとは何かを理解するようにファーマーに勧めているうちに非常に興奮状態に陥った。明らかにそれはファーマーのためになる──しかしそれはまた誰に対してもためになる──本であろう。しかしウィトゲンシュタインはたいへん高圧的になり、彼がファーマーをどう思っているのかを思い知らせ、まるで自分が彼の研究の指導教師であるかのように語った! ファーマーはとても上手に対応した──明らかにウィトゲンシュタインが精神異常者であると確信していたのだ。

 自分の評判がよくないというウィトゲンシュタインの罪意識について、ある程度の保留が必要であろう。この学期間、神経の苛立ちがまさに頂点にあったとき、彼はいくつかの新しい、大切な友情関係を結ぶのに成功している。とくにジョン・メイナード・ケインズの尊敬と愛情を獲ちえた。彼はウィトゲンシュタインの生涯の重大な事柄において、貴重で、支えとなる友人となることになった。ラッセルは十月三十一日にはじめてふたりを引き合わせた──「しかしそれは失敗でした」、と彼は伝えている。「ウィトゲンシュタインは調子が悪くてきちんと議論できませんでした。」しかし十一月十二日にはケインズがダンカン・グラントに手紙を書いている。「ウィトゲンシュタインはとても素敵な人物です──この前あなたに会ったとき、彼について私が話したことはまったく間違っていました──彼は特別にいい奴です。私は彼と一緒にいるのがこのうえもなく好きです。」
 ケインズの擁護は強力であって、リットン・ストレイチーが使徒団の会員としてのウィトゲンシュタインの適性をなお疑問としていたが、その疑問を晴らすのに十分であった。彼がウィトゲンシュタインの天才について意見を表明すると、その問題は解決された。残された唯一の疑問はウィトゲンシュタインが会員になることを望むかどうか──他の会員と論するために定期的に会に出ることをほんとうに自分に価値あることと彼が考えるかどうかであった。使徒団の立場からすれば、まったく異例のことであった。「あなたは聞いていますか」、とケインズはストレイチーに驚いて手紙を書いた。「この会が使徒的なことをしていないというのが、この会に対する唯一の異議だ、と私たちの新しい兄弟が唱えていることを。」
 ラッセルは、それに疑念を抱き、その話の出所を調べるのはに最善を尽くした。「明らかに」、と彼はケインズに書いた。

[ウィトゲンシュタイン]の立場からすれば、その会はたんなる時間の浪費にすぎないことになります。しかしたぶん博愛主義の立場からでしたら、彼に会員としてやっていく価値があると思わせることができるかもしれません。

〔…〕

「私は実在を言い当てたと確信しています」、と彼はオットーリーンに話した。「これからの数年間それに専念することになりそうです。」つまり、「物理学、心理学および数学的論理学との結合」が必要となり、「まったく新しい科学」の創設さえ必要となるというのであった。一九一三年一月の手紙に、ウィトゲンシュタインはその企画全体をやめるようにほのめかしている。「私はあなたの感覚所与から研究が前進していくとは考えられません。」

〔…〕

 彼は最終的に一月二十七日にケンブリッジに着き、その足でピンセントの部屋を訪れた。それからおよそ一週間後にピンセントは、ラッセルとウィトゲンシュタインとの違いのさらにもう一つの面を示す議論を記している。一九〇七年にラッセルは婦人参政権党の国会議員候補に立った。たぶんこのことに刺激され(ラッセルの講義の一つからちょうど戻っていたばかりのとき)、ウィトゲンシュタインとピンセントは婦人参政権について論争となった。ウィトゲンシュタインは「それに猛烈に反対した。」

……「彼が知っているすべての女性はたいへんな馬鹿者だ」ということ以外には特別な理由はなかった。マンチェスター大学で女学生たちは教授たちといちゃつくことに彼女たちの時間全部を費やしていると言った。そのことが彼をすっかりうんざりさせた──彼はあらゆる妥協的行為を嫌悪し、真面目でないものは何であれすべて否認するのだ。

ウィトゲンシュタインの論理学に関する研究は、政治問題に関する彼の思考の厳格さを何ら改善することには、明らかにならなかった。
 ラッセルがなした「偏狭で野蛮に陥る危険」があるというウィトゲンシュタイン批判も、恐らく彼の分析能力を世間一般の問題に向けることがこのようにできなかった──あるいは、そうすることを好まなかったと言ったほうがいいのかもしれない──ことにあろう。ラッセルはその矯正手段として、フランスのある散文を薦めた──これが彼に「激しい反論」を引き起こした。

彼は激怒しました。そして私はただにたにたと微笑んで、彼をますます苛立たせました。私たちは最後には仲直りをしましたが、彼はまったく納得がいかなかったようでした。私が彼に言っていることは、ちょうどあなたが私によく言っていること、つまりあなたが雪崩が起こることを恐れないとしても雪崩は起こるでしょう、ということなのです──そして彼の雪崩はまさしく私の雪崩を引き起こします!  私は彼が文明に欠けており、そして文明から被害を受けていると考えます──音楽がほとんど人々を文明化できないというのは奇妙なことです──音楽は言葉とはあまりにもかけ離れ、あまりにも激情的で、あまりにも遠くにあります。彼は十分に好奇心を広くもつとか、世界について広い眺望を十分にもとうとする気はありません。このことは論理学での彼の研究の妨げとはなりませんが、しかしそのために彼はいつも非常に視野の狭い専門家になってしまうか、あるいはむしろたかだか、ある小さな領域でのチャンピオンになるだけでしょう──それも最高の基準で判定された場合にですが。

 オットーリーンと彼自身の状況の比較に示されているように、ラッセルは漠然としているが、分析よりもむしろ総合を提唱している立場に自分をおいている。しかしこの時期には彼の哲学的問題への関心事でさえもそうした総合の方向に移っていた──論理的分析の「狭さ」から離れ、物理学、心理学、そして数学を広く総合するという方向に移っていたことを思い起こすべきであろう。結果としてウィトゲンシュタインとの論争は、彼の方が失望してしまい、棚上げにされた。

私は彼とは、もはや私の研究について話さなくなり、ただ彼の研究についてだけしか話さないことに気づきました。明確な論点がなく、ただたがいに釣り合いをとることが必要な未確定なものについての考察とか、たがいに比較してみて満足のいかない見解に関しては、彼はまったく駄目でした。彼は獰猛さでもって幼児のような理屈を言っています。それらの理屈は大人になってはじめてもちこたえることのできるものです。その結果として、私はすっかり無口になりました。研究についてもそう言えます。

 ラッセルの論理学のマントの着用者〔後継者〕(ウィトゲンシュタインがまだわずか二十四歳で、公的な身分はバチェラー・オブ・アートを目指す一大学生であったとは思い起こし難い)、ウィトゲンシュタインは『ケンブリッジ・レヴュー』に論理学のテキスト──P・コフィの『論理の科学』──の書評を求められた。これは彼がかつて出した唯一の書評であり、彼の哲学的見解を記した最初の公刊物である。そのなかで、彼はコフィが押し進めたアリストテレス論理学をラッセルの立場に立って否認した。そしてラッセルさえ凌ぐほどの強烈な自己主張をし、辛辣な言葉を用いた。

学問のどの部門においても、著者というのは、できる限りの哲学と論理学の側からの叱責を受けずに、真摯な探究の成果を無視するようなことは許されない。こういう事情は、コフィ氏の『論理の科学』のような書物の出版に起因している。今日の多くの論理学者たちの研究の典型的な例としてのみ、この書物は考察に価する。著者の論理学はスコラ哲学者たちの論理学であり、そして彼は彼らの犯したすべての過ちをしている──むろん通常のアリストテレスの論及に関してである。(アリストテレスは、その名前が今日の論理学者たちによってたいへんみだりに使われているが、非常に多くの論理学者が今日の論理学について、彼が二千年前に知った以上のことを何も知っていないことを知ったとすれば、墓場で嘆くことであろう。)この本の著者は現代の数学的論理学者たちの偉大な業績──論理学に前進をもたらした業績で、それは占星術から天文学を、錬金術から化学を生み出した前進とのみ比肩される業績──についてまったく目を向けていない。
 コフィ氏は、多くの論理学者と同様に、不明瞭な形で自己自身の考えを表現して、おおいに都合のいい結論を導いている。というのは、彼が「イエス」あるいは「ノー」と言っているのかどうかが分からなければ、彼に反対することも難しいからである。しかしながら、彼の曖昧な表現のなかにさえも、多くの重大な間違いが明瞭に認められるのである。そこで私は最も著しいもののいくつかのリストをあげ、そして論理学の学徒たちにこれらの間違いおよび他の論理学の本にみられるそれらの諸帰結をたどるように勧めたい。

 この後に間違いのリストがあげられているが、それらはたいてい伝統的(アリストテレスの)論理学の弱点をついたものであり、通常ラッセルの数学的論理学の支持者たちによって指摘されているものである──たとえば、それはすべての命題は主語 - 述語の形式をもっているという想定であり、コプラ〈である〉(〈ソクラテスは可死的である〉というように)と同一性をあらわす〈である〉(〈2の自乗は4である〉)とを混同に導く、等々である。「このような類の本が最悪なのは」、とその書評は結論を述べている。「分別のある人たちに論理学の研究に対して偏見をもたせてしまうことにある。
 「分別のある人たち」ということによって、ウィトゲンシュタインは、察するに数学と諸科学のある種の訓練を受けている人たちのことを言っていて、コフィ氏が恐らく(たいていの伝統的な論理学者たちと並んで)そうであったように、古典の訓練を受けている人たちと対比している。この書評では彼はラッセルの見解を受け継いでおり、それは前年の十二月、ラッセルがオットーリーンに宛てた手紙に示されている。

私は、ある種の数学者たちが哲学をするたいていの人々よりも遥かに哲学的能力があると確信しています。これまで哲学に惹かれてきた人たちはたいてい、大規模な一般化を愛好した人たちでした。そのような一般化は、すべて間違いであります、ですから精密な精神をもった少数の人たちしかその課題に取り組んでいませんでした。数学的に精神を働かせる哲学者の一大学派を創設することが長いあいだの私の夢の一つでありました。しかし私はそれを成し遂げることができるのかどうかは分かりません。私はノートンに期待していました。しかし彼は体力がありません。ブロードはその点はいいのではすが、基本的な独創性をもっていないのです。ウィトゲンシュタイン、むろんまさに私の夢なのです。

 これまでみてきたように、レント(春)学期間にラッセルはこの見解をいくぶん修正した。ウィトゲンシュタインは正確ではあるが、狭量である。彼は「世界を広く眺望しようとする欲求」があまりにも乏しく、幼児のような理屈をつけた正確さをあまりにも強調し、「不確かな考察」と「不満足な見解」にあまりにも忍耐力を示さなかった。たぶんウィトゲンシュタインの単純な気質を見せつけられて、ラッセルは、大いなる一般化への愛好が結局それほど悪いものではないと考えるようになった。
 ウィトゲンシュタインにとって、論理問題への没頭は完全であった。それらの問題は彼の人生の一部分ではなく、そのすべてであった。そのために、イースター休暇のあいだ、彼は一時的に自分がその気概に欠けているのに気づき、絶望に陥った。三月二十五日に彼はラッセルへ手紙を書き、自分が「完全に不毛の状態」にあると綴り、はたして新しいアイデアを獲得できるのかどうかを疑っている。

論理学について考えようとするたびに、私の思考はたいへん曖昧となり、まったく何も結実させることができません。半端な才能しかもたない人たちのすべての呪いが私に感じられるのです。暗い通路を明かりをつけて、人を連れていく人間のようで、その通路の真ん中に来たとき、ちょうど明かりが消えて、人ひとり取り残される、そんな感じです。

「哀れな奴!」、とラッセルはオットーリーンに自分の意見を述べている。「私は彼の気持ちがとてもよく分かります。シェークスピアやモーツァルトの才能のように、いつでも頼りにできる才能がなければ、創造的な衝動をもつのは恐ろしい呪いです。」
 ウィトゲンシュタインがラッセルから課せられた責任──「哲学におけるつぎの大きな前進」に対して──は、誇りと苦悩の両方の源泉でもあった。彼はそれをまったく真面目そのものになって引き受けた。彼はまたラッセルの数学的論理学の領域での一種の管理者の役割も引き受けた。それゆえ、フレーゲがジュアデンに手紙を書いて、彼の無理数論研究計画について語ったとき、ジュアデンがウィトゲンシュタインの名前を出して、フレーゲを批判しているのに気づくのである。

あなたは『算術の基本法則』の第三巻を書いていることを言っておられるのですか。ウィトゲンシュタインと私はあなたがそうされているのかもしれないと考えて、かなり当惑いたしました。といいますのは、無理数論 ──あなたがそれらに関してまったく新しい理論をもっておられるのでしたら別ですが──は、その矛盾が前もって避けられていなければならないと思われるからです。それに新しい基礎に基づいて無理数を扱っている部分は「数学原理プリンキピア・マテマティカ』においてラッセルとホワイトヘッドが見事に解決しています。

ラッセルによれば、ウィトゲンシュタインは、「ショック状態で──いつも陰鬱で、行ったり来たりしていて、人が彼に、八話しかけたときだけは夢から醒めた状態で」、イースター休暇から帰ってきた。彼は論理学が自分を狂気に駆り立てているとラッセルに話した。ラッセルは同情を寄せた。「私はその危険性があると考えました。そこで私は彼に論理学をしばらく放っておき、他のことをするように強く勧めました。」
 この期間にウィトゲンシュタインが他の何かをした記録はない──ただ、短期間であるが、思いがけない気晴らしをしていた記録がある。四月二十九日にピンセントはつぎのことを記している。「私はウィトゲンシュタインとテニスをした。彼は以前には一度もテニスをしたことがなかったので、私彼に教えてあげている。かなり手間どるプレーの仕方だ!」しかし一週間後には、「私はウィトゲンシュタインのところで一緒にお茶を飲んだ。そして五時に〈ニュー・フィールド〉へ行き、そこでテニスをした。彼は今日調子が悪く、結局は怒ってしまい、試合の途中で止めてしまった。」これがテニスについて聞く最後の記録である。
 ウィトゲンシュタインは、自分が必要としているのは気晴らしではなく、もっと強力な集中力であると考えるようになった。このためには彼は何でもやろうとした。催眠術さえした。そしてロジャーズ博士という人に催眠術をかけてもらった。「その発想といえば」、とピンセントは日記に記している。「人々が催眠術にかかっているあいだに筋肉に特殊な効力が得られるのは確かだと思う。それなら、また精神の効力を得られないことはないはずだ、ということであった。」

このようにして催眠状態にあったときに、ウィトゲンシュタインがまだ明瞭にしていないいくつかの論理学の問題──誰ひとりまだ明瞭にすることができないでいるいくつかの不確大な問題について、ロジャーズが彼にいくつかの質問をすることになった。ウィトゲンシュタインは、そうすれば自分が明瞭に理解できるようになるであろうと期待した。それはなんと乱暴な企てであったことか。ウィトゲンシュタインは二度催眠術にかけられた──しかし二回目のインタヴューが終わりにならないうちに、ロジャーズは彼を眠らせるのに成功した。といっても、彼が眠ったときにはぐっすりと眠ってしまったので、彼を完全に目覚めさせるのに三〇分かかった。ウィトゲンシュタインは自分はそのあいだずっと意識があった──彼はロジャーズが話すのが聞こえた──しかしまったく意志を表示したり精神力が発揮できなかった──何を言われたのか分からなかった──筋肉の効力を行使できなかったー彼はまるで麻酔をかけられたように感じた、と言っている。彼はロジャーズのところを去ってからも一時間ぐらい眠気が抜けなかった。まったく不思議な術だ。

それは不思議であったかもしれなかったが、役には立たなかった。
 ラッセルは明らかにこの企てについては何も知らなかったようだった。(もしそのことを知っていたなら、彼はこんなに面白い物語を、あれほど多くウィトゲンシュタインのことを記している回想録から、省かなかったであろう。)この頃までにビンセントはラッセルよりも信頼のおける腹心の友となった。ラッセルの〈スカッシュ〉の会の一つでは、彼らは「おたがいに語り合い、そして彼ら以外の何ものもいらない間柄」、と書かれた。たぶんピンセントは、ウィトゲンシュタインがリラックスできた唯一の人間であり、少なくとも一時であれ、論理学を忘れさせてくれる人であった。ピンセントと一緒であれば、ウィトゲンシュタインはケンブリッジの学生恒例のレクリエーションのいくつかを──乗馬、テニス、のときには「川で悪ふざけ」さえして──楽しむことができた。

……カヌーでウィトゲンシュタインと一緒に川を進んだ。私たちはグランチェスターの「果樹園」に上がっていき、そこで昼食をとった。ウィトゲンシュタインは最初は陰鬱な精神状態にあったが、しかし昼食後急に調子よくなった。(彼と一緒にいるといつもあることだが。)それからその上のバイロンズプールに行って水浴した。私たちはタオルも水泳パンツももっていなかったが、とても愉しかった。

 しかし彼らの最も強力な絆となったのは音楽であった。ピンセントの日記にはケンブリッジ大学のミュージック・クラブで数えきれないほどのコンサートに行ったことが記録されている。またときどき彼らは一緒に音楽を演奏し、ウィトゲンシュタインはシューベルトの歌曲の独唱部を口笛で吹き、ピンセントはピアノで伴奏をした。彼らは音楽では趣味が同じであった──ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト、とりわけシューベルトを愛好した。ウィトゲンシュタインはまたラボーアにも関心をもって取り組んだようである。ピンセントは、ウィトゲンシュタインがケンブリッジでラボーアの五重奏曲を演奏するのに骨を折ったときのことを語っている。彼らはまた、ピンセントの言う「現代音楽」というのが共に嫌いであった。たとえば、

……私たちはケンブリッジ大学のミュージック・クラブに行った。そこでリンドレーに会った。……彼とウィトゲンシュタインとが現代音楽について議論した。それはかなり愉快だった。リンドレーは現代の作品を好きでなかったが、しかし彼は堕落してしまった!  現代の演奏家たちはいつも結局ははこうなってしまうのだ。[1912.11.30]

ウィトゲンシュタインとリンドレーがお茶を飲みにやってきた。そのとき、現代音楽について大いに活気ある議論をした──リンドレーは私たちふたりに反対して現代音楽を擁護した。[1913.2.28]

私はウィトゲンシュタインと一緒に彼の部屋へ行った、その後まもなくマックリュアという男──音楽好きの学生が思いがけなく入ってきて、現代音楽に関して激しい議論になった──マックリュアはウィトゲンシュタインに、つまり私自身に反対した。[1913.5.24]

等々。ウィトゲンシュタインは音楽がまさに現代的である必要はないという主張をした。それらの日記の記載には、たとえばシェーンベルクと同じくマーラーが話題になったときも、どうやらまったく同じように言及されている。ラボーア以外に、ウィトゲンシュタインもピンセントも、ブラームス以降の作品を何一つ称讃した記録は残っていない。
 ウィトゲンシュタインはピンセントに他の休みに一緒に出かけないか、と話を持ちかけた。今度はスペインで、またウィトゲンシュタインが費用をもつということで、ピンセントの母が彼に、「あまりにもいい話なので断れない」と語ったような提案であった。疑いなく、息子の友人の気前よさにすっかり魅せられて、ピンセントの両親はウィトゲンシュタインの部屋でお茶の招待に応じた。それは例外的とも言える彼のよい作法がよい効果をもたらすのに用いられた一事例であった。お茶は化学の実験器具のビーカーに入れられて出された(「というのは、普通の陶器は彼にはあまりにも見苦しかったからであった!」)、そして「いくぶんホストとしての自分の義務に心が奪われていた以外は、「ウィトゲンシュタインは]非常に立派な態度だった。」
 ピンセントの両親が帰った後で、ウィトゲンシュタインは自分の性格について友人に講義を始めた。ピンセントが「あらゆる点で理想的」だ、と彼は言った。

……ただし彼[ウィトゲンシュタイン]は彼以外の人に対して、私が寛大な資質に欠けていることだけは心配していた。彼がとくに言っていたのは──彼自身に対してではないが──私が私の他の友人をそれほど寛大に扱っていないのではないかということであった。「寛大に」ということで、彼は通常よく用いられているような意味のことを言っていなかった共感する気持ちなどのことであった。

ピンセントはこのことすべてを非常に好意的に受け入れた。「彼はそのすべてに関してとても思いやりがあり、人を怒らせるような態度ではけっして話さなかった。」それにもかかわらず、ピンセントはウィトゲンシュタインの判断に異議を唱えたい気になった。つまりウィトゲンシュタインは彼の他の友人のことも彼らとの関係についても、ほとんど何も知らなかったのであった。しかしウィトゲンシュタインを他の友人たちとは違ったように扱っているというのは当たっているかもしれない、と認めた──結局ウィトゲンシュタインは他の人とは非常に違っていたので(「彼はどちらかと言えば少しばかり狂っている」)、彼を違ったように扱わなければならなかった

〔…〕

昨日お茶と夕食とのあいだ、私はウィトゲンシュタインとひどく不愉快なときをすごしていました。彼はやってきて、ふたりのあいだがうまくいっていないことを洗いざらい分析しました。それはおたがいが神経過敏になっているだけで、心の奥底では万事うまくいっていると思う、と私は言いました。そのとき、彼は私が本当のことを言っているのか、それとも社交的に言っているのかどうかがまったく分からないと言ったのでした。私は怒ってしまって、一言も言いませんでした。彼はお構いなくしゃべり続けました。私は自分の机に座り、ペンをとり、本を調べ始めました。しかし彼はなおも話を続けました。ついに私はつっけんどんに、「きみに欠けているのは、少しばかりの自制心なのだ」、と言いました。するとついに彼は大悲劇にでもあったような態度で出ていきました。夕方のコンサートに私を誘いましたが、来ませんでした。自殺のことが心配になりました。しかし後で彼が自分の部屋にいることが分かりました。(私はコンサートを出ましたが、最初は彼を見かけませんでした。)私は怒ってしまってすまないと彼に謝り、それから彼がどうしたら気を取り戻せるのかを静かに話しました。

 たぶんラッセルは自分が駄目にならないようにするのには、超然としている必要があったのである。しかしラッセルは、ウィトゲンシュタインの激しい個人攻撃に耳を塞ぐことができたけれども、ウィトゲンシュタインの哲学の議論の激しい攻撃力には立ち向かっていけなかった。この夏、ウィトゲンシュタインは哲学者としてのラッセルの進展に決定的な影響を与えた──主として彼の判断についての彼の自信を砕くことによってである。三年後にそのことを振り返って、ラッセルは、「私の生涯における第一級の重要な事件」で、それは「それ以来私がしてきたことすべてに影響を与えた」、と記した。

 あなたがヴィットツ[オットーリーンの医師]と会っていた頃に、知識論についてたくさんのつまらないものを私が書いていたのを覚えておられますか。それに対してウィトゲンシュタインはこれ以上ない手厳しい批判をしました。……彼が正しいことが分かりました。そして私は、哲学での基本的な研究をもうふたたびすることを望めないことが分かりました。私の哲学への衝動力は、防波堤に突き当たって砕ける波のように、粉々に砕けてしまいました。私はまったくの絶望感に襲われました。……私はアメリカでの講義の原稿を書かなければなりませんでした。しかし私は哲学におけるすべての基本的な研究は論理であると確信していましたし、いまもそうだと確信していますが、形而上学の問題をとりあげることにしました。私がそうした理由は、論理学で求められていることは私には難しすぎる、とウィトゲンシュタインが私を説き伏せたからです。そんなわけですから、論理の研究における私の哲学に対する衝動力には、生き生きとした満足感などまったくありませんでした。哲学は私を見捨てたのでした。それは戦争のせいよりも、ウィトゲンシュタインのせいなのです。

 「つまらない知識論」とラッセルは言っているが、それは実は彼が大作を望んでいた著作の最初の部分であった。それは彼の物質に関する科学から生み出され、またアメリカでのB講義の招待に刺激を受けて書かれたものでもあった。彼はすでにウィトゲンシュタインに話す以前にその第一章を書き上げていた。「すべて順調な滑り出しです」、と彼は陶酔にひたりながら五月八日にオットーリーンに宛てている。「私の頭のなかではすでにすべてのことが準備されていて、すらすらとペンの運びに応じて書き出されています。私は王様のように幸せに思っています。」彼の幸福感はウィトゲンシュタインに知られずに書いた期間しか続かなかった。彼はこのように書いてはいるが、実際にはオットーリーンへの手紙に書いているようには、自分の著述の価値に自信をもっていなかったようであった。ラッセルは、その著作が論理学的なもの」りはむしろ形而上学的な性格をもつようになる、とウィトゲンシュタインが反応することを直感的に分かっていたようである。確かにウィトゲンシュタインは、その着想そのものをはっきりと嫌っていた。「彼はこの著述が大衆小説シリング・ショッカーのようなものになると考えています。それを彼は憎悪しています。言ってよろしければ、彼は暴君なのです。」
 ラッセルは委細かまわず強行した。五月の終わりには、明らかにかなりの量になり、六章まで書いた。その後で、打撃を受け、執筆意欲が粉々に砕かれ、彼はもはや哲学の基本的研究ができないと思い込むようになった。その者に関する議論において、ウィトゲンシュタインは最初、ラッセルの、「判断論」に対してそれほど重要ではないと思われる異議を唱えた。初めのうちは、ラッセルはそれを乗り越えることができると自信をもっていた。「彼の言うとおりでした。しかし誤りを直さなければならないところは、それほど重要ではないと思います」、と彼はオットーリーンに書いた。しかしながら、ちょうど一週間後には、彼の研究の基盤そのものが削り取られたように彼は感じていた。

私たちはふたりとも激しい論争で苛立っていました──私は自分が書いていたもののうちで決定的に重要な箇所を彼に見せました。彼はどこに難点があるのかを示さずに、それが全部間違っていると言いました──彼は私の見解を吟味し、それがうまくいっていないことが分かった、と言うのです。私にはその反対理由が理解できませんでした──事実、彼はたいへん興奮し、はっきりと物を言える状態ではありませんでした──しかし私は彼が正しいに違いないこと、そして私が見逃している重要な何かを彼が分かっているのだということを、骨の髄から感知しました。もし私にもそれが分かれば、心配などはいたしません。しかし実際のところ、それが気がかりで、書く喜びはかなり砕かれています──私はただ自分が分かるものだけは書き続けることができますが、しかしそれでもそれがもしかしたらすべて間違っており、ウィトゲンシュタインがそれを書き続けることを不誠実で、破廉恥だと考えるのではないかと思ってしまうのです。やれやれ、もっと若い世代の人がドアを叩いています──機会をみて、彼のために部屋を明け渡さなければなりません。そうしなければ、私は厄介者になってしまうでしょう。しかしあのときには私はかなり苛立っていました。

〔…〕

 ピンセントは、休暇にスペインへ連れていってもらいたいという気持ちを伝えて、ウィトゲンシュタインに会う手配をした。しかしふたりが会ったときには、ピンセントは計画を変更したと言われた。スペインではなく(何も特別な理由はれなかたけれども)、アンドラ〔ピレネー山脈にある公園〕かアゾレス諸島〔大西洋にあり、現在ポルトガル領土〕か、あるいはノルウェイのベルゲンのどれかにしようということになった。ピンセントが選択することとなった──「彼はどこに行くにしても好みに偏りのない計画を立て、私が公平に選択するようにとしきりに頼んだ。」──しかしウィトゲンシュタインの選択は最初からノルウェイにあったのでピンセントはその方を選択した。(実際には、彼はアゾレス諸島を選びたかったが、ウィトゲンシュタインは、船でアメリカ人の旅行団体と会うのを嫌がった。「そのことを彼は我慢できないのだ!」)

こういう次第で私たちは結局は、スペインではなく、ノルウェイに行くことになった。ウィトゲンシュタインが最後になってなぜ突然に決心を変えたのかは分からない。しかしいずれにせよノルウェイでも大いに楽しむことができる、と期待している。

 出かける前に、ウィトゲンシュタインは、ラッセルとホワイトヘッドに新しい研究について説明するためにケンブリッジへ旅立った。ピンセントによれば、両者は熱烈に支持し、『原理』の第一巻は、たぶんウィトゲンシュタインが最初の十一章を書き直していたものと照らして、いまや書き改められなければならないことに同意した。(もしこのことが事実であれば、ホワイドヘッドが後ほど心変わりをしたに違いない。)「それは彼にとって素晴らしい勝利である!」

ラッセルの数学的論理学の将来に対する責任がますます増大すると受け取ったとき(あるいは受け取ったようであったとき)、ウィトゲンシュタインはこれまで以上に神経過敏に反応するようになった。彼らがハルからクリスティアニア(現在のオスロ)へ出航したときに、彼は異常なほど張りつめた心理状態になっていた。

船が出航した直後、ウィトゲンシュタインは突然にひどいパニック状態になって姿をあらわした──彼のすべての草稿が入っている旅行鞄をハルに置いてきてしまったと言った。……ウィトゲンシュタインはそのことでパニック状態に陥っていた。そこで私は電報を打とうとちょうど考えていたとき──他の誰かの船室の外側の通路で、鞄が見つかった!

 九月一日に彼らはクリスティアニアに着き、そこでベルゲン行きの汽車に乗る前に宿泊した。ホテルではウィトゲンシュタインは、前年アイスランドでの時折あった仲たがいのことを考えていたことは明らかで、ピンセントにつぎのように言った。「これまでのところ私たちは申し分なくやってきたのではないか、そうだね。」ピンセントは典型的な英国流の慎しみをもって応えた。「私はいつも彼の獰猛な爆発に応えることは極度に難しいと思っている。今回は本能的にそれを軽くかわそうとしたのだと思う──私はその種のことで熱狂的になるにはひどく慎重な性である。」彼の控え目さがウィトゲンシュタインを徹底的に怒らせた。彼はその夜ずっと一言も口を聞かなかった。
 翌朝も彼は依然として「まったく不機嫌で、ぶっきらぼう」であった。汽車に乗ると、ウィトゲンシュタインが他の旅客たちから離れたいと言ったので、そのときになって彼らは席を交代することとなった。

そのときとても温厚な英国人がやってきて、私に話しかけ、最後には彼の乗っている車両に──私たちの車両は禁煙車であったので煙草を吸いに来ないかと勧めた。ウィトゲンシュタインは断った。それでむろん私が少なくともしばらくのあいだ行かなければならなかった──断るのはひどく失礼なことであった。私はできるだけ早く戻ってきたが、そのときには彼が恐ろしい状態でいるのに気づいた。私はその英国人が風変わりな人だというようなことを話した──すると彼は振り向いて、「どうか私と一緒にずっと旅行してほしい」と言った。それから私は彼とずっと一緒にいた。最後には彼は正常で、穏やかな気持ちになった。

「彼がこうした不機嫌な発作に陥った場合には、私はものすごく気を配り、忍耐しなければならなかった」、とピンセントはつけ加えている。「彼は その激烈な感受性という面では──『アンナ・カレーニナ』のレーヴィンにたいへん似ていて、不機嫌なときには、彼は私をもっとも恐ろしいものと考えている──だが彼は後では非常に悔いている。」

彼がいまちょうどいつもよりずっと鋭敏な神経過敏状態にあるのが気がかりだ。これではまったく摩擦を避けるのは非常に難しい。ケンブリッジでは摩擦をいつも避けることができをる。おたがいにそんなに多く会わないからである。しかしいまのようにこれほど長く一緒にいれば、摩擦を避けることがいっそう難しくなり、際限がないことを彼はまったく分からないのだ。だから、そのことで彼はひどく悩んでいる。

 汽車での喧嘩は彼らの関係に一種の転換点を記したようであった。それからはピンセントの日記には、ウィトゲンシュタインは「ルートウィヒ」と記されている。
 ベルゲンに着くとただちに彼らは旅行会社に行き、ウィトゲンシュタインが望んでいるような場所を見つけることができるかどうかを尋ねた。フィヨルドの上にあり、快適な田園に囲まれ、旅行者がまったく来ないような小さなホテルという希望であった。つまりウィトゲンシュタインには邪魔されないで論理学を研究するのに完璧な場所であった。(これが旅行計画が土壇場で変わった理由であったことは、ここでもう明瞭になったに違いない。)彼はさっそくベルゲンのホテルで研究を始めた。「仕事をしているあいだ」、とビンセントは記している。「彼は(ドイツ語と英語とのちゃんぽんで)独り言を呟いていた、そして始終部屋を大股で行ったり来たりした。」
 旅行会社はそれらの条件すべてを満たす場所を見つけた──ハルダンゲル・フィヨルドの上にある、エィステーショと呼ばれる小さな村の小さなホテルであった。そのホテルでは彼らは唯一の外国人であり、他の一○人はノルウェイ人であった。あるときそこでふたりは短い散歩に出かけた。ピンセントはずっと写真のマニアであったので、カメラを携帯していた。「それがルートウィヒともう一つ喧嘩の原因となった。」

私たちはすっかり打ち解けていた──私が写真を撮るちょっのあいだ彼を独りにしておいた。そしてふたたび戻ってる、彼は黙り込んで不機嫌であった。私は三〇分も黙ったまま彼と散歩を続け、それからどうしたのかと彼に尋ねた。写真を撮ることに私が熱中していることが、彼をうんざりせたようであった──「散歩のあいだ──何も考えることのできないような奴は、この田園風景がどうしたらゴルフ場になるのかと考える奴だ。」私はそのことで彼と長いあいだ話し、最後には私たちはふたたび仲直りをした。彼は実にひどいノイローゼ状態にある。今晩彼は自分をひどく苛み、自分自身の惨めな状態をひどく嫌悪する言葉を吐いた。

皮肉にもウィトゲンシュタインと一致した比喩になるのだが、ピンセントは、「現在彼がベートーヴェンのような人たちと同様に劣悪な状態──(神経過敏な状態)──にあると言っても言い過ぎではない」、と述べている。ウィトゲンシュタインがベートーヴェンをまさに「そうした種類の人間である」とみなしていたことを、たぶん彼はウィトゲンシュタインから聞いていなかったのであろう。
 それからはピンセントはウィトゲンシュタインを怒らせたり苛立たせたりしないように十分に配慮し、残りの休暇は他の(不和の)シーンもなく過ぎた。彼らはすみやかにウィトゲンシュタインに完璧に合わせた日課を定めた。朝を研究にあて、午後早いうちには散歩したり船に乗ったりし、遅くなってからは研究し、晩にはドミノをした。ピンセントにとってそのすべてはかなり退屈であった──「うんざりしないようにするのが精一杯。」何も変わったこともなく、アイスランドの田園をポニーの行列で旅をしたようなロマンスもなかった。彼の日記には、ノルウェイの隔離された地での空のホテル(他の客たちはビンセントとウィトゲンシュタインが着いた後まもなく出てしまった)にはほとんど珍しいこともなく、ただぶらぶらせざるをえなかった──たとえばホテルの屋根に見つけたスズメバチの巣を取り除くことを何度かしたことぐらいしかなかった。
 しかしウィトゲンシュタインにはそこは完璧であった。彼は大いに満足した気分になり、ラッセルに手紙を書くことができた。

私は美しいフィヨルドの内側のここの小さな場所に座り、忌忌しいタイプ理論のことを考えています。……ピンセントはここにいる私にとっては計り知れない慰めとなってくれています。私たちはここで小さなヨットを借りて、それに乗ってフィヨルドのあたりに出かけます。というよりもピンセントはもっぱらヨットの漕ぎ手で、私はヨットのなかに座り、仕事をしています。

ある問題が彼を悩ませ続けた。

私は何かできるのでしょうか??! もしできなかったら恐ろしいことになりますし、私のすべての研究が駄目になってしまいます。……現在しょっちゅう、私の研究がすべてあれやこれやでまったく駄目になってしまうのが目に見えてくるような言いようもない感情に陥ります。しかしこうしたことはありえないのだ、と希望をもち続けています。

ウィトゲンシュタインの気持ちは──いつもと同じように──自分の研究能力のことで動揺していた。研究が進まず、意気消沈しているとき、彼を元気づけることがピンセントの役割となった。九月十七日には、たとえばつぎのように書かれている。

朝のあいだずっとと午後の大半、ルートウィヒはたいへん鬱で近寄り難かった──そのあいだずっと論理学に取り組んでいた。……私は何とかして彼を活気づけた:──彼の気持ちを正常に戻した──お茶の後で一緒に散歩に出た。(太陽の輝く晴れた日だった。)私たちはおしゃべりをして、今日一日中彼が憂鬱になっていたのは「タイプ理論」の大難問題と取り組んでいたからだ、と分かった。彼はタイプ理論をただす前に、それに彼の他のすべての研究も世に分かりやすいようにし、論理の科学に何らかの寄与となるようなものを書き上げる前に、死んでしまうのではないかと病的なほど恐れていた。彼はすでにたくさんのことを書いていた──ラッセルは、もし彼が死ぬことになれば彼の研究を出版する、と約束していた──しかしすでに書いたものは、彼の思考の実際の方法など──それはむろん彼がこれまで明らかにした成果よりもいっそう価値あるものである──を完全に明確にするまでには、十分に推敲されていないと思っている。彼はいつも四年以内に確実に死ぬと言っている──ところで、で二か月経った。

 自分の仕事を出版できないまま死ぬかもしれないというウィトゲンシュタインの思いは、ノルウェイの最後の週に激しさを増した。ラッセルに手紙を書き、「できるだけ早く、しかも私がいままでに成し遂げたものの全領域をあなたが調べるのに十分な時間を私のために割いてください。そしてできることならあなたの面前であなたのためにノートをつくらせてもらうために」、彼と会ってくれるかどうかをラッセルに尋ねた。「論理に関するノート」がこのときに書かれた。これはウィトゲンシュタインの思想を伝える、残っているものでいちばん最初の論文である。
 不安のただなかで、自分がまもなく死んでしまうかもしれないというこの思いは、彼がそのようにならざるをえないという揺るぎない確信となった。彼の言うことなすこと万事が、この想定に基づけられることになった。彼は死ぬことを恐れていなかった。彼はピンセントにつぎのように話した──「けれども、残されたごくわずかの生のひとときも無駄にしないようにとひどく心配しているのだ。」

彼がまもなく死んでいくということもすべては、まったく病的で、狂的な彼の確信からきている──なぜ彼が長く生きられないのかという明瞭な理由は私の理解する限りまったくない。しかしその確信も、あるいはそれについての彼の心配も、払いのけることは無駄でしかない。どうしようもない確信と心配──要するに彼は気違いなのだ。

それと関連したもう一つの心配は、彼の論理学の研究が恐らく結局は実際に役に立たないのではないかということであった。「それだから彼の神経過敏な性格から彼の人生は惨めなものになり、他人にひどく迷惑をかけているのだ──まったくどうしようもない。」
 ピンセントは、これらのどうしようもない不安に襲われているときでもウィトゲンシュタインの精神を支えるために、驚くほどの努力を──彼を激励し、自信をもたせ、一緒にドミノをしたりヨットに連れだしたり、とりわけ、たぶん音楽を一緒に演奏したりして──払ったようである。休日には彼らはレパートリーが四○ばかりあるシューベルトの歌すべてを一緒に演奏した。ウィトゲンシュタインが口笛を吹き、ビンセントが伴奏した。
 休暇についての彼らの理解が著しく違っていたとしてもたぶん驚くにはあたらないであろう。ウィトゲンシュタインは休暇がこれほど楽しかったことはなかったと言った。ピンセントは彼ほど熱狂的ではなかった。「私はかなり楽しくやっている。しかし現在ノイローゼ状態にあるルートウィヒとふたりだけで生活するのはいつもひどく骨の折れることだ。」十月二日に帰国すると、彼はウィトゲンシュタインとはもう一緒に出かけないと誓った。

休暇の終わりに、ウィトゲンシュタインは「突然きわめて人騒がせな計画を告げた」のであった。

それはつぎのようなものである。彼は自分を追放すべきであり、数年間彼が知っている人全員と離れて生活すべきである──たとえば、ノルウェイにおいてそうすべきである。彼がまったく独りで生活すべきであり──隠遁生活──論理学以外の何もすべきではないこと。彼がこうする理由は私にはたいへん奇妙だ──しかし彼はまったく本気であることは疑いえない。第一にケンブリッジよりもこのような環境のほうが遥かに多くの研究ができ、遥かに優れた成果をあげられると彼は考えている。ケンブリッジでは、彼はしょっちゅう中断と気晴らし(たとえばコンサート)に身を任せてしまいがちで、それは恐るべき障害となる、と言っている。第二に、彼は自分の性に合わないような世界(むろん彼にはごく少数の人たちだけしか性に合わない)──その世界では彼は絶えず他人に対して軽蔑の感情を抱き、彼の神経過敏な気質から他人を苛立たせてしまう──では、そういった軽蔑等々を何とせか正当化しなければ、生きる権利がないと思っている。こうするのが真に偉大な人間であり、真に偉大な業績を残す人間であると思っているのだ。

これはおなじみの議論である。たとえば、もし彼がベートーヴェンのように振る舞うなら、ベートーヴェンのように真に偉大な作品を生み出すべきである、と。新しいのは、ケンブリッジではそれができないという確信であった。
 ウィトゲンシュタインの心はまだこの計画を実行するのかどうかはっきりと決めかねていた。それゆえ彼は哲学の連続講義の準備を続けていた。彼はその講義をロンドンの労働者大学ですることに同意していた。その問題は最終的に帰国の途中、彼らがニューキャッスルに着いたときに決着がつけられた。そこでウィトゲンシュタインはグレーテルから手紙を受け取った。その手紙には、彼女と彼女のアメリカ人の夫、ジェローム・ストンボロウがロンドンに住むために来ていると書かれていた。それで問題は解決したようであった。もし彼がストンボロウ夫妻の訪問を頻繁に受けることになれば、英国に住むのに我慢できなくなる、と彼はピンセントに語った。
 論理学の研究のために結局ノルウェイに行くべきだ、と彼はピンセント──最初その考えが馬鹿げていると考えていた──に十分に納得させた。その理由は、「彼は多くの難題を解決したが、なお他に解かれていない難題がある」からであり、「彼の特殊な研究についての大きな困難──彼が論理学のすべての基礎をすっかり解決しなければ──は、彼の研究は世間ではほとんど価値がないものにすぎないからである、ということである。」このような理由から、「真に偉大な研究をすることと実際に何もしないことのあいだには何も違いがない」、というのである。
 その論法はストンボロウ夫妻が英国にいるという事実とは何ら関係がないし、ウィトゲンシュタインがなぜひとりでいなければならないのかの理由を説明もしていない。ピンセントがちょうど一週間前に受け入れた見解(ウィトゲンシュタインの方法が重要であり、結果ではないという見解)とは著しい対照をなしているが、ピンセントはこの論法を受け入れたようである。この論法は、実際にはワイニンガーによって提起されたひどい二分法──偉大かそれとも無か──を言い換えたものであるようである。しかしケンブリッジから遠ざかって生活するためのもっともらしい理由づけをするためには、恐らくワイニンガーのテーマをさらに二つ付け加える必要があろう。愛は偉大さを促進させ、性欲は偉大さに敵対し、そして「性欲は肉体の接近とともに増大する。愛は愛する相手がいないときに最も強力である。愛は分離を必要とする。愛を保持するためには、ある種の距離が必要である」、ということである。それゆえ、偉大になりうるには愛する相手との分離が必要なのである。



5 ノルウェイ

 予期されたとおり、ラッセルは二年間ノルウェイでひとりで生活するというウィトゲンシュタインの計画を無謀で、狂気の沙汰だと考えた。ラッセルはいろいろな反対理由をあげ、彼を思い止まらせようとしたが、そのすべてが無造作にはねつけられた。

私が闇になると言えば、彼は日の光が嫌いだと言いました。私が淋しくなると言えば、彼はインテリに話しかけるのは心の売春行為だと言いました。私が彼は気が狂っていると言えば、彼は神が自分を正気にならないようにしていると言うのでした。(神は確かにそうしています。)

〔…〕

 手紙の最後には、「私は気違いになっているとしばしば思います」、と書かれている。その気違い沙汰は二極を揺れ動はき、クリスマスが近づくと、それまでの数か月におよぶ躁状態に変わって、鬱状態になっていった。というのは、クリスマスに「不幸にもウィーンへ行かなければなりません」、ということになったからである。そこから逃れるすべはなかった。

実は、母がたいへん私に会いたがって、もし私が行かなければ悲しみですっかり感情を害してしまいます。彼女は昨年のちょうどこの時期に非常に嫌な思い出をもっているものですから、行かないわけにはいかないのです。

それでも「帰省のことを考えるとぞっとします。」一つの慰めは、彼の滞在が短く、程なくショルデンに戻るだろうということであった。「ここに独りでいることは私にはとてもよい結果をもたらしていますが、これから人々のあいだで生きていくことに耐えられるとは思えません。」
 出発する前の週に、彼は手紙を書いた。「私の日課は論理学、口笛を吹くこと、散歩すること、そして意気消沈してしまうことで過ぎていきます。」

もっと賢くなり、すべてのことが私にとって最終的に明瞭になるように神にお願いしたい──そうでなければ、これ以上生きる必要はありません!

 完璧な明瞭性、そうでなければ死──中間の道はなかった。もし彼が、「論理学の全体にとって基本的な問題」を解決できなければ、彼は生きる権利──あるいは、少なくとも生きようとする欲求──をもたないというのであった。いかなる妥協も許されなかった。

クリスマスに家族と一緒に過ごすことに同意するさいに、ウィトゲンシュタインは、母親に抱いた義務を果たすために自分自身の衝動に逆らって──妥協していた。いったん家族のもとへ行くと、さらにそれ以上の妥協は避けられないであろう。彼が首尾よく論理学へと向けたそのエネルギーはまたふたたび人間関係の緊張で消耗されることになってしまうであろう。彼は隠れたところでほんとうに没頭していたかったが、他方では母親やその他の家族のために、彼は孝行息子の仮面をつけた。それに最悪なことには、彼にはわざわざ違ったことをする強さとか、快活を装うこともできなかった。また彼は母親を悲しませて感情を害させるような危険になるようなことは一切できなかった。その体験が彼を麻痺的な混乱状態へ追い込んだ。論理学の分野において、完全な妥協の余地のない明晰さへいかに近づこうとも、彼の個人生活において──彼自身のうちでは──彼はこれまでと同様、論理の領域とはまったくかけ離れていることを思い知らされざるをえなかった。彼は反抗と諦めとの、激烈さと無感動とのあいだを動揺していた。「しかし」、と彼はラッセルに話した。

……私の魂の奥底では、間欠泉の底のように絶えず煮えたぎっています。そして私はいつも最後には決定的な噴出が生じるのを待ち望んでいます。そうなれば、私は別な人間になることができます。

 こうした状態で、彼はむろん論理学に関して何ら書くことができなかった。しかし苦悩のただなかで、彼は論理学と等しく、相互に関連さえする重要な一連の諸問題に取り組んでいたのではなかったか。「論理学と倫理は」、ワイニンガーは書いている。「基本的に同じである。それらは自分自身に対する責務以外のものではない。」これがラッセルへの手紙に反映されているウィトゲンシュタインの見解であった。そのことをウィトゲンシュタインはケンブリッジでのふたりの議論から分かったが、ラッセルはそれを同じ光で見ようとはしなかった。

恐らくあなたは私が自分のことを考えることは時間の無駄だとお考えでしょう──しかし私はまだ人間でないのに、どうして論理学者でありえましょう! 何よりも、私は自分に決着をつけなければなりません!

論理学と同じく、自分自身に関するこの問題への取り組みは、孤独のただなかで最もよくできたのであった。そこで彼はできるだけ早くノルウェイに帰った。「たいへん残念ながら」、と彼はラッセルへ書いた。「このたびもまた論理学に関する新しい情報をお伝えできません。」

なぜなら、ここ数週間私の状態がひどく悪かったからです。(ウィーンの休暇のせいです。)毎日、恐ろしいばかりの不安(Angst)と鬱状態とに交互に悩まされ、これらがなくなったときでさえ、非常に消耗しきって、研究のことはまったく考えられませんでした。このような精神的な懊悩が起こりうるとは、言語に絶するほど恐ろしいことです! 二日前からようやくまた理性の声を幽霊たちのざわめきから聞き分けられるようになり、ふたたび研究にとりかかり始めました。恐らくいまからよくなり、きちんとしたことができるようになるでしょう。しかし私は自分がかろうじて狂気の歩手前にいると感じることがどういう意味なのかを、まったく分かりませんでした。──最善のことをおたがいに期待しませんか!

 彼は、自分の人生において卑しい妥協をして生きることは金輪際しない、と決意して戻ってきた。そして自分の主人に精を出してもらうために犬を蹴ってけしかけてみるのと少しばかり似ていたが、彼はラッセルとの関係から始めた。最初の一撃は穏やかであった──穏やかに、感情を隠して、ラッセル自身の妥協する性向をたしなめようとした。

アメリカでのあなたの講義が万事うまくいきますよう! 恐らく講義は、いつも以上に彼らにあなたの思想を語り、そしてまさしく月並みな結果には終わらない、またとない格好な機会となることでしょう。そのことが、まさにあなたの聴講者たちにとって考えられる最大の価値をもつのだ、と思われます。月並みな結果ではなく、思想の価値を知らせることです。

 これがラッセルにはどういうことをもたらすことになるのかはほとんど予測できなかった。オットーリーンに書いているように、彼は「非常に激しい」態度で応えた。私たちは彼が実際に何を言ったのかは分からない。しかし彼は、来る講義についてのウィトゲンシュタインの辛辣な発言にかなりの忍耐を示し、ウィトゲンシュタインの完璧主義を(彼が過去にもしたように)批判し、不完全な研究を出版しようとする自分の意志を正当化したであろうと推測するのは、穏当なところであろう。
 事実はどうであれ、ウィトゲンシュタインにはラッセルとのあらゆる関係を断ち切る時期になったと確信するに──そのときの彼の意向では──十分であった。ラッセルに書く最後の手紙である、と彼がはっきりと意図して書いた手紙において、彼はつぎのように説明している。そこでは彼はふたりの関係について十分に考え、そして「私たちがおたがいにほんとうに合わないという結論に達した」、と説明している。

これは非難ではありません。あなたに対しても私に対してもです。しかしこのことは事実なのです。私たちは、あるテーマが問題となったとき、おたがいに不愉快な会話をもうすでに何度も交わしてきました。この不愉快さは、私たちふたりのうちのどちらかが不機嫌であったからではなく、私たちの根本的な性格に計り知れない相違があったからでした。私の切なる願いをお聞きいただきたいのです。どうか、私があなたを何らかの仕方で非難しようとしているとか、あなたにお説教しようとしているというようには考えないでください。結論をくだすために、私はただ私たちの関係をはっきりさせたいだけなのです──私たちのこの前の意見の衝突も、ただたんにあなたの感受性の強さとか私のわがままな振る舞いとかにあったのではないのは確かで、それにはもっと根深い理由がありました──私のあの手紙があなたに、たとえば学問の業績に関する評価についてですが、私たちの理解の仕方がいかに根本的に違っているかを示したに違いないという事実がそれです。あのときあんなにも長々とあなたに書いたのは、言うまでもなく私の愚かさのせいでした。といいますのも、このような本質的な相違が一通の手紙などでは取り除かれないということを、私は自分に言い聞かせておくべきでしたからです。そしていま申しあげましたことも数多くの相違の一つの例にすぎません。

ラッセルの価値判断が自分の価値判断同様に優れており根深いことをウィトゲンシュタインは認めていたが、しかし──まさにその理由で──ふたりのあいだにはいかなる真の友情関係もありえなかったのだった。

私が生きている限り、、、、、、、、、あなたに、、、、衷心から感謝いたし、、、、、好意を抱いて生きたいと思います、、、、、、、、、、しかし私はもうあなたにお手紙を出すつもりはありませんし、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ふたたびお会いするつもりもありません、、、、、、、、、、、、、、、、、、。あなたとふたたびわだかまった気持ちを拭ったいま、心穏やかに、、、、、あなたとお別れいたしたいのです。そうすれば、私たちは将来またおたがいに怒りの感情に陥ったり、敵対関係になるようなことも恐らくないでしょう。あなたのご多幸を心からお祈り申しあげます。どうぞお幸せに、私をお忘れになられないように、時折友情をもって、、、、、、私のことを思い起こしてくださいますようお願いいたします。さようなら!
いつまでも、、、、、あなたの友
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン

 「彼の気持ちはしばらくすれば、恐らく変わると思います」、とラッセルはオットーリーンにその手紙を見せた後で言った。「私は彼の言っていることを気にしていません。彼はただ論理学のためにだけこうしたのです。」けれども「私は本当は心配のあまり、事態がよく見えないのです。それが私の欠点なのです──私はあまりにも彼に厳しすぎました。」
 もう二度と手紙を書かない、というウィトゲンシュタインの決心を和らげるような返事を彼はどうにか出した。三月三日ウィトゲンシュタインは、ラッセルの出した手紙に応えて、つぎのように書いた。「(あなたのお手紙が)非常に善意と友情にみちていましたので、私にはそれに沈黙をする権利があるとは考えられませんでした。」しかしながら、ウィトゲンシュタインは、中心問題に関しては決意を変えなかった。「私たちの意見の衝突は、ただ外的な理由(神経過敏、過労はなど)からではなく、──ともかくも私の方では──非常に深いところから出てきています。」

私たち自身それほどひどく違ってはいないのではないかと言われますのは、おっしゃるとおりかもしれません。しかし私たちの理想はまったく異なっています。それゆえ私たちは、私たちの価値判断が問題となるような事柄については、偽善的に振る舞ったり口論したりせずに、おたがいに共に語り合うことがけっしてできませんでしたし、これからもできないでしょう。私はこのことは否定できないと確信いたします。このことはずっと以前からすでに気づいていました。それは私には恐ろしいことでした。といいますのは、私たちの関係はこのことによって泥沼にふたりともにはまり込んでしまったからでした。

 もし彼らが何らかの関係を維持していくとしたら、それは異なった基盤に基づけられなければならなかったであろう。それは「おたがいが相手を傷つけることなしに、まったく率直であることができるような」基盤でなければならなかった。しかし彼らの理想は根本的に和解できなかったので、これは不可能であっただろう。彼らが偽善や衝突を避けられるとしたら、「私たちの関係を客観的に確かめられる事実を伝えることに、そしてその他になお恐らくおたがいに友好的な感情を知らせ合うことに制限した場合」だけであった。

ところで、あなたはたぶん、「これまでかなりこのようにやってきたではないか、それなのになぜこれからもこれまでのようにやっていくことができないのか」、と言われることでしょう。しかし私はこれまでのような果てしなく汚らしい妥協の繰り返しにあまりにもうんざりしてしまいました。私の人生は、これまでは一つの塊のふしだらな人生でした──それをいつまでも続けていく必要があるのでしょうか。

そこで彼は一つ提案した。それは「もっと純粋な基盤」に立ってならふたりの関係を続けていくことができるであろう、という提案であった。

私たちはおたがいの仕事、健康などについて手紙を書きましょう。しかしどんなものであれ、価値判断を伝達することは避けましょう。

 これは、彼がそれ以降のラッセルとの文通に実行したプランであった。彼は「あなたの献身的な友」と署名し、これまで同様に自分のこと、仕事のことや健康のことを手紙に書いた。しかし以前には「音楽、道徳、そして論理学以外のたくさんのこと」についてふたりが語り合えたような親密さは失われた。知的な共感はこの中断にあっても続けられたが、それも第一次世界大戦によって彼ら両人に起こったさまざまな変化──彼らの本性からくる相違を強調し、際立たせた変化の結果、まったくなくなってしまうのであった。

ウィトゲンシュタインが繰り返し手紙で強調しているように、ラッセルと彼との友情は、ふたりの相違によって一年以上も緊張状態にあった──トラブルの原因はふたりが似ているからだ、というラッセルの思い違いにもかかわらずである。彼らの哲学的議論でさえも、ウィトゲンシュタインがノルウェイに行くずっと以前から、協調的な性格はもう失われていた。事実、ケンブリッジでの最後の年には、ウィトゲンシュタインは自分のアイデアに関してラッセルとまったく議論しなくなっていた──彼は自分のアイデアをただ報告するだけで、いわば論理学のニュース提供者にすぎなかった。前年の十一月の初め、彼はムーアに、自分の研究について議論をするためにノルウェイに来るよう、熱心に勧める手紙を書いた。そのなかで彼は自分とこの議論ができるものはケンブリッジには誰もいないと言っている──「まだ活気をもって、真にその課題に関心をもっている者」は誰もいません。

ラッセルでさえ──むろん年のわりには異常なほどにたいへん活気に溢れていますが──このことにはもう柔軟性はんあくなっています。

 ラッセルと彼との関係がはじめて断たれ、それから親しい間柄が薄れてくるにつれて、ムーアへのウィトゲンシュタインの呼びかけはいままでよりもいっそう執拗になった。ムーアは呼びかけられた訪問についていくぶん戸惑い、そして恐らく以前に引き受ける約束をしたことを後悔していた。しかしウィトゲンシュタインの要求は断る猶予を与えないものだった。「あなたは学期が終わるとすぐに来なければなりません」、と彼は二月十八日に手紙を書いた。

言葉で言い尽くせないほどあなたのおいでをお待ちしています! 私は論理学と他の事柄で死ぬほどうんざりしています。しかしあなたが来られる前に、私が死なないことを望んでいます。そうなったら、私たちは大いに議論できなくなるでしょうから。

ここで「論理学」というのは、恐らくウィトゲンシュタインがそのとき執筆中で、そしてBA〔バチェラー・オブ・アート〕の学位のために提出する意図で彼がムーアに見せようと計画していた著述を指しているのであろう。三月に彼は手紙を書いた。「いま私が考えているのは、この論理学は、もしそれがすでに論理学ではないとしても、ほとんど完成されているということです。」この間、ムーアは新たに口実をもちだした──彼は論文を書くためにケンブリッジにとどまる必要があったということ──けれども、ウィトゲンシュタインはまったく受け入れようとはしなかった。

あなたはいったいどうして、論文をこちらで書こうとしないのですか。あなたはまったくひとりで、素晴らしい眺めの部屋をもつことができます。好きなだけあなたをひとりにしておきましょう。(もし必要ならほんとうに一日中でも。)また私たちはふたりとも望んだときにはいつでも、おたがいにに会うこともできるでしょう。そして私たちはあなたのお仕事(それは面白いかもしれません)についても話し合いさえできるでしょう。それともあなたはとてもたくさんの本が必要ですか。お分かりのことと思いますが──私は自分ですることがたくさんありますので、あなたの邪魔を少しもいたしません。ぜひ船に乗ってください。船は十七日ニューキャッスルを出て、十九日にベルゲンに到着します。ここであなたの仕事をしてください。(あまり多く繰り返しはしませんが、私が仕事によい影響さえ与えるかもしれないのです。)

 ムーアは旅が辛いのを嫌がっていたのだが、──そしてひとりウィトゲンシュタインといるのはなおさら気が進まなかったが──ついにノルウェイ行きに同意した。彼は三月二十四日ベルゲンへ向かって発ち、二日後にそこでウィトゲンシュタインと会った。訪問期間は二週間であった。その間毎晩、「議論」に引き出された。ウィトゲンシュタインがしゃべり、ムーアが聞き役であった。(「議論するのはだ」、とムーは日記のなかで不平を述べている。)
 四月一日、ウィトゲンシュタインは論理学に関する一連のノートをムーアに口述し始めた。これらのものが「論理学」であると先に述べた著述の全部であったのか、それともたんに抜枠にすぎなかったのかどうか。私たちが少なくとも想定できるのは、それらが「論理学」の最も重要な部分を含んでいるということである。その中心点は、語ること示すこととのあいだの区別を強調することであり、それは前年ラッセルに口述したノートにはただ暗黙に示されていたものであった。そのノートはつぎのような書き出しで始まっている。

いわゆる論理命題は、言語の論理的性質を示す、それゆえに世界の論理的性質を示すが、何も語らない。

このノートは、彼が以前にラッセルに語ったことが達成されるために、この区別がいかになされなければならないか、その概略を述べている。つまり記号法の理論は、タイプ理論が余計であることを、示し、事物(対象、事実、関係等)に異なったタイプがあることは、語られえないが、シンボルの異なったタイプがあることによって示され、その違いは直接的に見れば分かるというのである。
 ウィトゲンシュタインは、以前ラッセルに口述筆記させたノートに基づいてその研究をかなり発展させ、少なくともそれはそのときにはその課題に関する彼の決定稿だと考えていた。彼はラッセルに手紙を書き、ムーアのノートを読むように勧めた。「私は現在疲労困憊の状態に陥っています。何ら仕事ができませんし、以前にしたことの説明もできません。」

しかし私は、ムーアが一緒にいて、多くのことを書き取ったとき、それを彼に詳細に説明しました。ですから、すべてのことを彼から聞きだすのがいちばんでしょう。そのうちの多くは新しいものです――あなたにムーアのノートをすべて分かっていただくには自分で読まれるのがいちばんよいと思います。私がこれからさらに何かを生み出すまでには、恐らくもう少し時間が必要と思います。

 ケンブリッジに戻ると、ムーアは──ウィトゲンシュタインに言われたので──「論理学」をBAの学位のテーマとしていいのかどうかを問い合わせた。このことに関して、彼はW・M・フレッチャー(トリニティでのウィトゲンシュタインの指導教官)に意見を求めた。ムーアはつぎのように言われた。つまりBAの学位論文規定に従えば、ウィトゲンシュタインの論文は現状では適格ではない。論文には前書きと註がつけられること、そしてその註にはどこから情報を得たかが示され、論文のどの部分がオリジナルで、どの部分が他の研究に依っているかが明記されることが必要とされる、ということであった。
 そこでムーアはウィトゲンシュタインにその事情を手紙に書いた。ウィトゲンシュタインは激怒した。彼の論文──「哲学においてつぎの大躍進となるもの」──が、BA学位を受ける権利がない!? その論文には学生奨学金に見合ったありきたりの付随品が付けられていない、というただそれだけの理由ではないか! これが論文の制約であった。それは豚に真珠を与えなければならないほどの意味しかなかった。真珠が拒否されたのは我慢のならないことであった。三月七日、彼はムーアに激怒した自分の感情を表わした、あてこすりの手紙を書いた。そのために、当分のあいだ、ムーアとの友情関係もケンブリッジの学位取得の希望も、共に途絶えてしまったのである。

親愛なるムーア
あなたのお手紙で私は悩みました。「論理学、、、を書いたとき、、、、、、私はその規定のことは念頭にありませんでした、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。それゆえ、それらの規定のことをそれほど念頭におかないで、あなたが私に学位を与えるなら、公平なことと思います! 前書きと註に関しましては、試験官たちには私がどれだけボーザンケト〔当時英国のヘーゲル主義者を代表する哲学者〕から剽窃したのかが容易に分かると思います。──もし私がつまらない、、、、、馬鹿げた些細なことにさえ、、、、、、、、私のためにあなたが例外を設けるに価しないとすれば、それなら私は直接に地獄へ行ったほうがましです。もし私がそれに価し、、、そしてあなたがそうしないなら、そのときには神にかけて──あなた、、、、が地獄へ行くでしょう。
 事柄全体があまりにも馬鹿げて、あまりにも鼻もちならないので、これ以上書き続けることはできません──
L・W

 ムーアを攻撃するのは筋違いであった。ムーアがその規定を作成したのでも、それらの規定を実施することが彼の仕事でもなかった──彼はただたんにそれらの規定に関してウィトゲンシュタインの場合にどうであるのかを彼に知らせただけだった。さらに、ムーアはそのような態度で言われることには慣れていなかったので、その手紙の語調にたいへん狼狽し、その語調の激しさのために彼は病気になった。彼の五月十─十五日付の日記には、ウィトゲンシュタインからの手紙を受け取った衝撃でずっとめまいが続いたことが示されている。彼は返事を出さなかった。
 二か月ほどたった七月三日に、いくぶん親しみのこもった、ほとんど悔恨に近い手紙を受け取ったときにも、ムーアは返事を出さなかった。その手紙はウィトゲンシュタインがウィーンで夏を過ごすために、ノルウェイを発った後で書かれたものであった。

親愛なるムーア
ショルデンを去る前に論文を整理していましたら、私をあんなにも粗暴にさせたあなたの手紙が目に入りました。それを繰り返して読んでみて、たぶん私があのようにあなたに書いたことに足るだけの理由はなかったのだと気づきました。(私がいまいくぶんかあなたの手紙が好意をもったというのではありません。)しかしともかくも私の怒りは鎮まりました。そして私はいまの状態でいるよりも、あなたとふたたび友だちになりたいと思っています。十分に苦悩し考えてのことです。といいますのも、私にはこうしたことを書くような人は多くいないからです。もしあなたの返事がなければ、私はふたたびあなたにお手紙をいたしません。

「返事するつもりはない」、とムーアは日記に書いている。「ほんとうに二度と彼に会いたくないからだ。」それから数年間、彼の決心はいくどもぐらつきそうになった。ウィトゲンシュタインの名前がラッセルとか、デズモンド・マッカーシーとの会話にでてくるたびに、ムーアは返事を書かないのがいいのかどうか迷うのであった。しかしウィトゲンシュタインが(間接的にピンセントを介して)彼と接触することを申し出ても、彼はそうしなかった。ふたりの友情関係の中断は、ウィトゲンシュタインが一九二九年ケンブリッジに戻ってきたときに、汽車のなかで偶然に顔を合わせるまで回復されなかった。しかし、これらの歳月をとおして、ウィトゲンシュタインのさまざまな思いが彼の脳裏につきまとい、彼は、「ウィトゲンシュタインについて感じること」、と日記に書こうかと考えたほどであった。

ムーアの訪問後、ウィトゲンシュタインは、みてきたように、極度の疲労困憊状態にふたたび陥っていった。その間、さらに論理学の研究ができなくなり、その代わりに彼はショルデンの村からおよそ一マイル離れたソグネ・フィヨルドに面したところの小さな家の建築に没頭した。それはおよそのところ永久的な住まい──あるいは、少なくとも論理学でのあらゆる基本的な問題を最終的に解決するまで住む場所とされたものであった。しかし家の建築は終わらなかった。七月にノルウェイでの観光シーズンを逃れるために、ウィーンに帰省したからであった。彼は夏だけそこから離れて、家族と一緒にオーストリアで過ごすか、ピンセントと一緒に休暇を過ごそうと考えていた。しかし一九二二年の夏になるまでノルウェイに戻ることができなくなった。そのときまでには、論理学の基本的問題は 少なくとも一時的には解決されたのであった。
6 前線の背後で

〔…〕

 ウィトゲンシュタインとエクルズは機能的なデザインを優先し、あらゆる種類の装飾を取り除くということでは一致していた。だが、ウィトゲンシュタインにはその問題は文化的、倫理的重要性さえもつものであったが、エクルズはそうではなかった、と言えると思う。若きウィーン(Jung Wien)の知識人たちにとって、不必要な装飾への嫌悪は、ハプスブルク帝国の退廃的文化の特徴であった空虚な状態と彼らがみなしていたものに対する広範な反対運動の中核となっていた。カール・クラウスの大衆文芸(Feuilleton)に対する反対運動、それにアドルフ・ロースの著名なミシュラープラッツに建てられた無装飾の建築は、同じ反対運動を代表する二つの様相のであった。ウィトゲンシュタインが、少なくともある程度までこの反対運動に同調していたことは、彼がそのふたりの主な提唱者たちの作品を賛美していたことから明白である。

ノルウェイにいたとき、送られてきたクラウスの『ディ・ファッケル』を読んでいて、ウィトゲンシュタインは、クラウスが書いたルートウィヒ・フォン・フィッカーについての評論を目にした。フィッカーはクラウス賛美の著述家で、『デァ・ブレンナー』というインスブルックで発行しているクラウス主義者の雑誌の編集者であった。七月十四日にウィトゲンシュタインは、十万クローネンの額を彼に付託する手紙を書いた。「資産のないオーストリアの芸術家たちに」フィッカーがその金額を配分するよう懇請したものである。「この件につきましてあなたの裁量にお任せいたします」、と彼は說明した。「といいますのは、あなたが私たちの最も優れた才能の持ち主たちの多くの方と知己であられ、どなたが最も支援を必要としているのかをご承知のことと推察いたしたからであります。」
 フィッカーは、まったく当然のことながらその手紙に唖然とさせられた。彼はウィトゲンシュタインと会ったこともなければ、彼のことを聞いたこともなかったし、このような巨額のお金(十万クローネンという額は、一九一四年では四千ポンドに、今日では恐らく四─五万ポンドに相当する)を彼の裁量に任せるというこの申し出は、調べる必要があると考えた。彼は、その申し出が冗談ではなく、正真正銘、真面目に受け取っていいのかを尋ねる手紙を書いた。「私の申し出は真心からであることをあなたに確信していただけるように」、とウィトゲンシュタインは書いた。「私のできることは、恐らく実際にあなたにその額のお金をお渡しする以外にない、と思います。このつぎに私がウィーンに参りましたさい、お渡しいたします。」彼は父親の死にさいして巨額の財産が入ったことを説明した。そして「このような場合には慈善のためにお金を寄付するのが慣わしです。」彼がフィッカーを選んだのは、「クラウスがあなたとあなたの雑誌について『ファッケル』に書いていましたし、あなたもクラウスについて書いたからであります*。」

 * クラウスはフィッカーの雑誌について書いた。「オーストリアの唯一の誠実な評論はインスブルックで発行されていることが、もしオーストリアにおいてでなければ、少なくともドイツにおいて知られてしかるべきであろう。ドイツの唯一の誠実な評論もまたインスブルックで発行されている。」『デァ・ブレンナー』(火口ほくち)は一九一〇年に発刊された。その名前は、クラウスの雑誌(『ディ・ファッケル』(炬火))の名前の影響を受け、クラウスの仕事の拡張を意図していることを表明している。クラウスがオーストリアに行きわたっている劣悪なものの考え方と著述を諷刺した場所で、フィッカーは劣悪さから解放された著述を出版した。彼の最大の成功は、そしてたぶん彼を有名にした最大の功績は、彼が詩人トラークルの天賦の才能を最初に認めたということであった。一九一二年十月から一九一四年七月まで、『デァ・ブレンナー』はトラークルの作品を載せなかったことはなかった。彼はまたヘルマン・ブロッホ、エールゼ・ラスカー = シューラー、カール・ダラゴ、テオドール・ヘッカーの作品も載せた。『デァ・ブレンナー』は、ウィトゲンシュタインがフィッカーに手紙を書いた頃にはすでに、ドイツ・アヴァンギャルドの指導的文芸誌の一つとして名声を博していた。

 この手紙を受け取り、七月二十六─七日にノイヴァルデッガーガッセでウィトゲンシュタインと会う約束をした後で、フィッカーはウィーンの友人たちから彼のことの聞き出しに努めた。画家マックス・フォン・エスターレから、ウィトゲンシュタインの父親がオーストリア帝国での最富豪〈コーレン = ユーデン〉(Kohlen-Juden)のひとりで、視覚芸術家たちの寛大なパトロンであったことを知った。ウィトゲンシュタインの申し出が本気であることを確認して、フィッカーは自ら彼と会い、金額の配分のことで話し合うためにウィーンへの旅立った。彼はノイヴァルデッガーガッセにあるウィトゲンシュタイン家に二日間泊まった。ウィトゲンシュタインは(と彼は一九五四年に出版したある回想のなかで述べている)、「一瞥しただけで孤独さを感じさせる人物」で、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャと『白痴』のムイシュキンのような人間を思い起こさせた。

〔…〕

 給付を受けたなかで三人に限っては、ウィトゲンシュタインが彼らの作品について知ってもおり、称賛もしていたということは確かに間違いない。ロース、リルケ、トラークルである。ここでも私たちは但し書きを付けなければならない。つまり彼はトラークルの作品のもつ気品を称賛したが、しかしそれを理解できないとはっきりと言い、またリルケの晩年の詩を嫌いになったこと、戦後ロースを大ぼら吹きだと非難したこと、など。
 それにもかかわらず、彼はリルケの礼状を「親切」で「気高い」と認めている。

[それは]私を感動させ、しかもまた心から楽しませてもくれました。気高い人間の感情であればすべて、私の揺れやまぬ生のバランスをとる支えとなってくれます。私は、この感情についての印と思い出を私の心のなかに刻み込んでくれたこの素晴らしい贈り物にはまったく価しない人間です。私の心からの最大の感謝と真摯の念をもって捧げますことをぜひリルケにお伝えいただければと存じます。

 トラークルの詩については、彼は恐らくフィッカーが詩集を送るまで何も知らなかった。彼は返事を書いた。「私は彼の時が分かりませんが、詩の調べが私を幸せにさせてくれます。それは真の天才の調べです。」

ウィトゲンシュタインとフィッカーがオーストリア = ハンガリー帝国の芸術家たちへの金額の配分を話し合った週末は、その帝国の運命を決定した週末であった。オーストリア = ハンガリー帝国のセルビアに対する最後通牒は七月二十三日に出された。その受け入れの最終期限は七月二十五日土曜日午後六時であった。受け入れは出されなかった。したがって、七月二十八日オーストリアはセルビアに宣戦布告した。

〔…〕

 フレーゲからも、彼は愛国者の最高の祝辞を受け取った。「あなたが志願兵として入隊されたことを」、フレーゲは十月十一日に書いた。

特別な満足感をもってお便りを拝読いたしました。しかもあなたが相変わらず学問の研究に身を捧げておられることに驚いています。ご健勝で戦争から戻られたときお会いし、そしてあなたとふたたび議論できますよう祈念いたしております。そのときには、きっと私たちはおたがいがより親密になり、よりいっそう理解し合えることと思います。

 しかしながら、彼の自殺を救ったのは、ヨレスとフレーゲから受け取った激励の手紙ではなく、彼が戦争に行って見出した、まさに個人的な変身であり、宗教的改心であった。彼は、いわば聖書に救われたのであった。ガリツィアでの最初の一か月のあいだに、彼は本屋に入り、そこでたった一冊しかなかった本、トルストイの『福音書書簡』を見つけた。その本が彼を捉えた。その本が彼の一種のお守りとなった。彼は行くところどこでもそれを携帯し、繰り返し繰り返し読んだので、その全文を暗記するまでになった。彼は「福音書をもった男」として仲間たちに知られるようになった。一時期、彼は──戦前にラッセルにラッセル自身よりも「キリスト教徒に厳しい」という印象を与えたが──信者になったばかりではなく、福音伝道者にもなり、悩んでいる者なら誰にでもトルストイの『福音書』を薦めた。「もしあなたがその本をご存じなければ」、と彼は後でフィッカーに語った。「それがどのような影響を人間に与えるのか想像もつかないでしょう。」
 彼の論理学と自分自身についての思索は、ただ一つの「自分自身への責務」の二つの側面であったので、この熱烈な信奉は彼の研究にも当然影響を与え、最終的にそのとおりになった──フレーゲとラッセルの精神に基づいた論理的記号法の分析から、私たちが今日知っているような、論理的理論と宗教的神秘主義とを結合した、奇妙な混合体といった研究へと変わっていった。
 しかしこうした影響は、もう数年待たなければ明らかにはならなかった。戦争の最初の数か月間に、トルストイの『福音書』を読んで得られた精神的な滋養は、彼に従えば、それが彼の外的な姿を照らし出し、「私の内的存在を乱されないままに」した、という意味で「彼を生き永らえさせた」のであった。
 つまりこの経験によって彼は『ディ・クロイツェルシャイバー』を二(あるいは三)年前に観劇しているあいだに浮かんだ考え──「外的に」どんなことが起ころうとも、彼には、すなわち彼の最内奥には何も起こりえないという観念──を実践できたのである。こういうわけで、日記にも、彼は「自分を失わないように」守ってくれるように繰り返して神にお願いしていることに気づく。このことは彼にとって生き残ることよりも遥かに重要であった。身体に何が起ころうと──あるいは、もう起こっていたと思っていたことは──どうでもいいことであった。「いま私の生が終わりになるなら」、と彼は九月十三日(ロシア軍が向かって前進を続けていると伝えられていた頃)に書いた。「自分自身の心に銘記して、よき死を死にたい。けっして自分自身を失ってはならない。」
 ウィトゲンシュタインにとって身体は「外的世界」にのみ属した──その世界には、彼が現在生きている、「粗野で、愚かで、悪意にみちた」義務不履行者たちも属していた。しかしながら、彼のはまったく異なった領域に住まなければならない。十一月に彼は自分に語りかけた。

ただ外的世界に依存してはならない、依存しなければ世界に何が起ころうと恐れることはない。……人間から離れるようになるよりは物から離れるほうが一〇倍も容易だ。しかしそのこともまたできなければならない。

 艦上での彼の任務は夜のサーチライト係であった。任務が独りなので、艦上ではいろいろと我慢しなければならないと考えていた仲間から離れていることはずっと容易だった。「そのことによって」、と彼は書いた。「私は仲間たちの邪悪さからうまく逃れることができた。」また外的環境から自分を引き離したい、という彼の強力な欲求が、恐らく論理学の研究にふたたび取り組みやすくもしたのだった。八月二十一日には、はたしてふたたび研究ができるのだろうかという思いに彼は襲われていた。

私の研究でのすべて考えたことがまったく「よそよそしいもの」になった。私にはまったく何も見えない!!!

〔…〕

 二月の初めに、ウィトゲンシュタインは工廠で鍛冶の任務を任せられ、これに付随した責任で哲学に集中することがいっそう困難となった。鍛冶仕事にさらに多くの時間をとられたうえに、監督官という彼の役割のために、仕事仲間たちとこれまで以上のトラブルが生じざるをえなかった。恐らく工学的技術に秀でていたので、彼にこの仕事が与えられたのであろう。しかしそれにしても、監督の役割は彼には難しかった。彼は、監督下にある職場の者たちとの多くのもつれを報告している。そのいくつかは大きなもめ事にまでなった。ある場合に、彼は若い士官と決闘寸前にまでなった。その士官は、位の下の者にあれこれと指図を受けるのを嫌ったと思われる。彼の地位に敬意を払うことも、彼の優れた知識の権威をも受け入れようとしない非妥協的な者に対して、彼は懸命に自分の意志を伝える努力をし、ほとんど限界まで神経を緊張させ、精魂尽きはててしまった。その仕事に就いてわずか一か月後に──彼はその間ほとんど何も哲学について書かなかった──ウィトゲンシュタインはふたたび研究がこれまでのようにできないことに絶望し、自殺の思いに取り憑かれた。
 「こんなことを続けられない」、と彼は二月十七日に書いた。明らかに何かが変わらなければならなかった。昇進するか他のポストに移るか、どちらかでなければならなかった。彼はギュルトに職場を変えてくれるように嘆願し始めた。しかし効果がなかったか、あるいは無視されたかで、ずっと長いあいだ何もなかった。この時期の日記には、「何も仕事をせず」(Nicht gearbeitet)という、決まり文句のリフレインに、「状況に変化なし」(Lage unverändert)という新しい言葉がつけ加わった。ウィトゲンシュタインの戦争体験についてヘルミーネが記憶していたのは、この時期に違いない。彼女は彼が前線に送られるように何度も努力したことについて、「彼が実際に求めていたのはもっと身に危険がふりかかるポストであったが、彼はもっと楽なポストにつこうとしていた、と彼の関係した軍の当局はいつも受け取っていたことから滑稽な誤解が生じた」と書いている。
 歩兵隊に入りたいというウィトゲンシュタインの懇請は誤に解されたというよりもむしろ無視されていたのではないか、そして彼は一般の歩兵隊としてよりも営繕補給工廠係の技能技術者として軍に務める方が役に立つと考えられていたのではないか、と私は思う。三月中ずっと、ギュルトに再三懇願はしたにもかかわらず、状況は変わらなかった。

〔…〕

 『論考』の構想の変化──ウィトゲンシュタイン自身のそれに伴う変化──は、その後に彼が英国の友人たちと関係が断たれた時期に起こった。それゆえ、戦後英国の友人たちが彼の言っていることを理解できるのかどうか、と彼が疑ったのも不思議ではない。彼のうちに変化を引き起こした事情について、彼らがどんなことを知り──何を知りえたというのだろうか。
 この変化の真相は、恐らくソカルでビーラーとの議論──ビーラーが「時折、あまりにも完全に熱中したので、私たちは時の観念も場所の観念も忘れてしまうほどであった」、と言っている議論のなかから予測ができよう。

私はある面白い出来事を覚えている。一九一五年の大晦日のことであった。ある部隊の司令官が新年を祝う将校会食会に私たち全員を招待した。夕食会が終わり、十時になろうとしていたが、私たちふたりは昨日の議論を続行するために、ウィトゲンシュタインの部屋に引き下がった。十一時頃に列車からやって来た将校たちが、パーティに間に合うように出かけなければならない時間だと知らせに来た。ウィトゲンシュタインは、どうぞ先に行ってください、私たちもすぐに行きます、と伝えた。私たちはすぐにその招待と時間のことを忘れてしまい、外から大きな声が聞こえてくるまで議論を続けた。それは私たちの司令官たちの声で、彼らは午前四時に陽気になって戻ってきたのだ──私たちはまだ真夜中になってのいないと思っていた。つぎの日、私たちは部隊の司令官にお詫びに行き、そして彼に時間遅れの新年の挨拶をしなければならなかった。

このような熱烈な議論がなされたのは、ウィトゲンシュタインのほうが熱中したからであったようである。しかしながら、これらの議論の主題は論理学ではなかった。ウィトゲンシュタインは、彼が以前にピンセントにしたように、彼の研究の成果をビーラーには教えようとはしなかった。その代わりに彼らはトルストイの『福音書』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について話し合った。ウィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を何度も繰り返して読んだので、全文を暗唱していた。とくに長老ゾシマの話を暗唱していた。ゾシマは、彼にとって力強いキリスト者の理想像であり、「他人の魂を直接に見通すことのできる」聖人であった。
 ウィトゲンシュタインとビーラーが一緒であったのは、東部戦線で最も平穏な時期の一つであった。それはウィトゲンシュタインにとって比較的慰安となったひとときであった。彼は士官ではなかったが、いろいろな点で士官の待遇を受けた。彼はひとりの従者さえ付けられた──コンスタンティンという名前で、近くの捕虜収容所からきたロシア兵であった。ビーラーは回想している。「コンスタンティンはいい青年で、たいへん熱心にウィトゲンシュタインの面倒をみた。ウィトゲンシュタインはたいへんよく彼を処遇し、短期間のうちに、痩せて虚弱で汚い捕虜は、全駐屯地のなかでいちばん体格のいい、いちばん清潔な兵士に変わった。」
 この比較的平穏であった時期も、フランスに圧力をかけ援助を求めたロシア軍のバルト海攻撃開始をもって終わった。一九一六年三月のことであった。同時に一年以上も遅れて、ウィトゲンシュタインの身分に関して、オーストリア軍当局の決定が通知された。彼は士官の称号も技術者の制服も保持できなくなり、長いあいだ特別に希望していた一兵卒として、前線への配置願いが認められた。ビーラーは、その決定が「私たちふたりにはひどい衝撃」であった、と述べている。ウィトゲンシュタインは、生きて帰る望みのないものと覚悟して、彼と別れた。

彼は絶対必要であるもの以外は他のすべてを残し、そしてそれを区分し、いくつかにまとめるように私に依頼した。このとき、彼はノルウェイのフィヨルドに面した家をもっていて、そこへ時折行って、研究を落ち着いてるような避難所にするつもりだったと私に話した。彼はいま私にこの家をプレゼントしたいと言った。私はそれを断り、代わりにウォーターマンの万年筆を受け取った。

ウィトゲンシュタインが荷物のなかに包んだ数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』であった。
 彼が前線から生きては戻らないと考えていたとすると、もとの姿では帰ってこられないことを彼ははっきりと覚悟していた。この意味で、彼にとって戦争がほんとうに始まったのは、一九一六年三月であった。
7 最前線で

〔…〕

 ロースが紹介した弟子は、パウル・エンゲルマンであった。彼は、そのままにしておけば、オーストリア = ハンガリー帝国のかなり文化的に不毛な辺境で終わってしまうところで、自己に目覚め、文化のオアシスをつくりあげた若者のグループのひとりであった。そのグループには、才能に恵まれたピ ピアニストで、後にベルリンの国立オペラ劇場での最初の指揮者になったフリッツ・ツヴァイク、彼の従兄弟で、法律を学んでいた学生で劇作家のマックス・ツヴァイク、法律を学んでいた学生で、後に弁護士として名を馳せたハインリヒ・グロアックがいた。グロアックは、エンゲルマンによれば、「私がこれまで会ったなかで最も機知に富むひとり」であった。エンゲルマンの弟も、また鋭い機知をもっていた──後に諷刺漫画家「ペーター・エンク」としてウィーンで有名になった──、ただこのときには彼とウィトゲンシュタインはたがいに気が合わなかった。エンゲルマン自身はアドルフ・ロースとカール・クラウスのふたりの弟子であった。軍隊を退役した後、彼はクラウスの反戦キャンペーンを積極的に援助し、そしてクラウスの諷刺のきいた反戦のプロパガンダのための資料となる新聞記事のスクラップを集め、協力した。
 ウィトゲンシュタインは一九一六年の十月のあるときにオルミュッツに着き、クリスマス間近までそこに滞在した。彼は最初オルミュッツの市庁舎の塔に宿泊することを望んだが、監視人にそこには泊まれないと言われ、町外れの借家アパートに一部屋をとった。そこに移ってまもなく、彼は腸炎にかかり、エンゲルマンの母親の助けを受け、エンゲルマンに健康を回復するまで看護してもらった。彼女はウィトゲンシュタインに軽い食事をつくり、それをエンゲルマンはこの病人のところへよく届けた。こうした親切な行為をした最初のとき、エンゲルマンはウィトゲンシュタインの部屋に行く途中でスープをこぼしてしまった。彼が入っていくと、ウィトゲンシュタインは大声で言った。「おお、親愛なる友よ、あなたは私に親切のシャワーを浴びせてくれている。」それに対してエンゲルマンは、コートがすっかりスープでまみれてしまったままで、それに応えた。「私の方がシャワーを浴びてしまって申し訳ない。」ウィトゲンシュタインが好意をもったのは、まさに素直な親切心であり、素朴なユーモアであった。このときの情景が彼の記憶から離れなかった。最前線に戻ったとき、彼はエンゲルマンに手紙を書いた。「しばしばあなたのことを思い起こしています。……そしてあなたが私にスープをもってきてくれたときのことを。しかしそれはあなたのお母さんにも過失があります! 私は彼女のこともけっして忘れないでしょう。」
 エンゲルマンの友人グループのお蔭で、ウィトゲンシュタインがオルミュッツで過ごした時間は、幸福であった。彼はモリエールの『気で病む男』の上演に参加し、フリッツ・ツヴァイクのピアノ・リサイタルを称賛して聴き、とくに文学、音楽、宗教について彼らの会話に加わった。とりわけエンゲルマンとは、そこへ来る前に彼が最前線で過ごした六か月間に浮かんだ着想のすべてを話し合った。エンゲルマンは、彼に共感し、彼と意見の合う聞き手であった。これらの会話は、しばしばエンゲルマンの家から町外れにある彼の部屋へ一緒に戻る道すがらに交わされたと、エンゲルマンは回想している。もし彼らが借家アパートに着いてもまだ議論に熱中した場合には、ウィトゲンシュタインがエンゲルマンをその足で送り、そのあいだも会話が続けられた。
 エンゲルマンはウィトゲンシュタインが英国を去った後の最も親しい友であった。ふたりの友情は、ふたりとも宗教的な目覚めを経験し、それをそれぞれ同じような仕方で解釈し、分析していた時期に出会ったことによるところが大きい。エンゲルマンは、彼自身の精神的苦悩について語ったとき、その事態をよく言い当てている。

……他のすべての人にとって謎めいていた彼の発言を、いわば内側から私が分かるようになったのは、私の精神的苦悩があったからであった。私にこのような理解があったので、当時の彼に私は欠かせなかったのであった。

ウィトゲンシュタイン自身はよくつぎのように言っていた。「私が文章に表現するのがなかなかできないでいると、エンゲルマンが鉗子をもってやってきて、私から文章を引き出したのであった。」
 このイメージは、ペンチでウィトゲンシュタインの考えを引き出すという、ラッセルの考えを思い起こさせる。そうだとすると、ここで『論考』の展開において、ウィトゲンシュタインの生において果たした役割についてエンゲルマンとラッセルとを比較せずにはおられない。エンゲルマン自身は、つぎのように書いたとき、その比較が念頭にあったと思われる。

私のなかに、ウィトゲンシュタインは予期しない人間に出会ったのだ。この人間は、他の多くの若い世代の人たちと同様に、あるがままの世界と、彼の光に従ったあるべき世界とのあいだの相違に激しく苦悩したが、また彼自身の外側よりも、むしろ内側にその食い違いの源になっているものを求める傾向があった。これは彼がそれまでどこにも出会ったことのなかった態度であった。そしてそれは同時に、彼の精神状態を真に理解するのに、あるいは彼の精神状態について有意味な議論をするのに、きわめて重要なものであった。

そしてラッセルの『論考』への序文については、彼はつぎのように述べている。

[それは]この本が論理学の領域で決定的な重要な出来事として今日まで認められているけれども、広い意味において哲学的著作としてなぜ理解されないできたのかを示す主要な理由の一つとみなされよう。ウィトゲンシュタインは、頼りになる彼の友人でもあったような傑出した人たちでさえ、『論考』を書いた彼の目的を理解できなかったことが分かって、深く傷つけられたに違いない。

〔…〕

 この本の有名な最後の言葉──「語りえないことについては、人は沈黙しなければならない」──は、論理的 - 哲学的真理と倫理的規範との両方を表現している。
 このことに関して、エンゲルマンが指摘しているように、この本の中心となるメッセージは、言語の誤用に由来する混乱した思考を嘲りの場に晒すことによって言語の純粋性を守ろうとするカール・クラウスのキャンペーンと提携している。ただ示されえるものだけを語ろうとすることから生じるナンセンスは論理的に擁護されえないばかりではなく、倫理的にも望まれえないのである。

〔…〕

 ヘンゼルが釈放後に教師になろうと希望していた捕虜たちに論理学の講義をしていたとき、ウィトゲンシュタインもそれに参加したことから、ヘンゼルと知り合いになった。これがきっかけで、ふたりは定期的に議論をすることになった。その間ウィトゲンシュタインは、記号論理学の基本からヘンゼルに教え、そして『論考』の主題を説明した。彼らはまた一緒にカントの『純粋理性批判』も読んだ。
 一九一九年一月にウィトゲンシュタインは(ヘンゼルとドロービルと一緒に)カッシーノにある他の収容所へ移された。そこで彼らは八月までイタリア軍の取引の人質として留まることとなった。
 カッシーノで拘留されているあいだに、ウィトゲンシュタインは、ウィーンに帰ったら小学校の教師になる訓練を受けようと決心した。しかしウィトゲンシュタインが捕虜収容所での短い友情を交わした作家フランツ・パラークによれば、ウィトゲンシュタインは聖職者になり、「子供たちと一緒に聖書を読む」のがいちばん似合うのではないかと言っていた、ということである。

Ⅱ 1919─1928

8 印刷されない真理

〔…〕

ラッセルの推薦書を受けとった後で、ブラウミュラー社はウィトゲンシュタインが印刷代と紙代とを払う条件でその本を出版すると申し出た。その申し出を受けたときには、彼はそのような費用に当てる金銭をまったくもっていなかった。しかしかりにもっていたところで、拒否したであろう。「それは見苦しいことと考えます」、と彼は言った。「このようにして本を世間──出版社もそれに含まれる──に押しつけることを。本を書くことは私の課題ですが、世間はそれを正常な仕方で受け入れるべきです。」

〔…〕

つまり私の著述は第一級の仕事なのか、それとも第一級の仕事ではないのかのどちらかです。後者の場合に──その可能性の方がありますが──、この場合には私の著述が印刷されないことに賛成です。そして前者の場合には、その印刷が二○年、あるいは一○○年早かろうと遅かろうと、まったくどうでもいいことなのです。なぜなら、たとえば『純粋理性批判』が書かれたのは千七百何年である、ということをいったい誰が問題にするでしょうか!

〔…〕

 ウィトゲンシュタインとエンゲルマンのふたりにとって、宗教は自己自身の欠陥の意識と切り離せなかった。事実、エンゲルマンにとってこうした意識は宗教的見解の中心であった。

私が現に不幸であっても、そして私の不幸が私自身とありのままの人生とのあいだの大きな食い違いから出ている、ということを分かっても、私には何一つ解決とはならなかった。その食い違いはありのままの人生の欠陥にあるのではなく、現にある私自身の欠陥にあるのだ、という究極的で決定的な洞察ができない限り、私は間違った歩みをし、自分の感情と思考の混沌から抜け出す方法をけっして見出せないであろう……

 こうした洞察をし、この洞察をしっかりと保持し、そしてそれを繰り返し実践しようと努力する人間が、宗教的なのだ。

この見解に基づけば、不幸は自己自身の欠陥を見出すことにある。人の悲惨さはその者自身の、「卑劣さと腐敗さ」の結果でしかありえない。宗教的であることは、自分自身の価値のなさを認識することであり、それをただすために責任を引き受けることである。
 これがウィトゲンシュタインとエンゲルマンとのあいだになされた会話と往復書簡の基本にあるテーマであった。それはたとえば、エンゲルマンが一月にウィトゲンシュタインに送った一連の宗教に関する発言にみられる。

キリスト以前に、人々は自分たちの外側のあるものとして神(あるいは神々)を体験した。
 キリスト以降、人々(すべての人々ではないが、神をとおして見ようとした人々)は神を自分自身のなかにあるものとしてみた。それゆえ、キリストをとおして神が人類のなかにもちこまれていると言うことができる……
 ……キリストをとおして神は人間となった。
 サタンは、神になることを欲した、だが神ではなかった。
 キリストは欲することなしに神となった
 このようにして邪悪なものは、それに価しない快楽を欲することになる。
 しかし人が快楽を欲することなく、正しいことをすれば、歓喜はひとりでに訪れる。

 ウィトゲンシュタインはこれらの見解に言及したとき、それらの真理性について異議を唱えず、それらの表現の十全さに疑いをさしはさんだ。「それらはまだ十分に明瞭になっていません」、と彼は書いた。「このすべてはもっと十全に表現できるに違いないと思います。(あるいは、いっそう適切に表現できないことはけっしてありません。)」たとえそれらの最も完全な表現が沈黙という形をとったとしても、それにもかかわらず、それらは真なのである。
 ウィトゲンシュタインはエンゲルマンを「人間が分かる者」とみなした。レクラムからの出版の企画が駄目になった後で、彼が情緒的にも精神的にも堕落したと感じていたとき、彼はエンゲルマンと緊急に話す必要を感じた。そして五月の終わりに「最低の状態」になり、絶えず自殺を考えていたとき、彼が助けを求めたのはエンゲルマンであった。エンゲルマンは自分自身の体験を手紙に長々と語り、彼を助けた。エンゲルマンは自分の仕事のモチーフについて、それらが慎しみのある誠実なモチーフなのかどうかについて最近悩んでいると書いた。彼はそのことを考えるために、ときどき独りで田舎へ出かけたが、最初の数日は満たされなかった。

しかしその後で私はあなたに話せるようなことができたのでした。あなたならそれを愚かなことなどとは受け取らないぐらいに、私のことをよく分かっているはずですから。私は一種の「告白」をしたのです。そのなかで、私はこれまでの私の人生でのさまざまな出来事を思い起こそうとしました。それも一時間という限られた範囲でできるだけ詳細に思い起こそうとしました。それぞれの出来事について、私はどのように振る舞うべきであったのかを自分自身に対して明らかにさせようと努力しました。このように自分のやったことをおおよそ振り返ること[Übersicht]によって、混乱していた像がかなり簡潔にされました。
 つぎの日、この新たに獲ちえた洞察を基にして、私は将来に対する自分の計画と意図を新たにしました。

「私にはまったく分かりません」、と彼は書いた。「同じようなことが現在のあなたにいいことなのか、必要なのかどうか。しかし恐らくこのことをあなたに話せば、いまのあなたが何かを見出すのに役立つかもしれません。」
 「あなたが自殺の思いを書いていることに関して」、とエンゲルマンはつけ加えた。「私の考えはつぎのようです。」

そのような数々の思いの背後には、他の思いにおけるのと同じように、恐らく高潔な動機といったものがあるのだと思います。しかしこの動機自体がこのような方法で示されること、つまり自殺の思いという形を取るというのは確かに悪いことです。自殺は確かに間違いです。生きている限り、人間はけっして完全には失われることはないのです。しかしながら、ひとりの人間を自殺に駆り立てるものは、その人間が完全に失われているという恐怖感なのです。すでに話されてきたことを考えてみますと、この恐怖感は根拠のないものです。こうした恐怖に陥ると、人間は自分ができる最悪のことをしてしまいます。その人間は、失うことが避けられるかもしれない時間を自分自身でなくしてしまっているのです。

「疑いなく、あなたは私よりもこのことすべてを十分よくお分かりでしょう」、とエンゲルマンはウィトゲンシュタインに説教していると思われないように気遣いながら書いている。「しかし人は自分が分かっていることをしばしば忘れるものです。」
 ウィトゲンシュタイン自身は、後ほど自分自身の人生を明確にするために告白をしたときに、このやり方を一度ならず用いることになった。しかしこの場合には、この手紙はウィトゲンシュタインに役立つ助言ではなく、たんにエンゲルマン自身のなした努力がどうであったかを綴ったものであった。「親切な手紙に感謝します」、と彼は六月二十一日に書いた。「非常にうれしかった。私の事例そのものに関しては、外か私はら私を救うことはできないのですが、恐らくこれによって少しは救われました。」

事実私はこれまでもしばしばあった非常に恐ろしい状態にあります。それはある特定の事態を乗り越えることのできない状態なのです。この状態がいかに哀れなものであるかは承知しています。しかし私が知る限り、この状態に対処するにはただ一つの手段しかありません。それはまさにこうした事態をなくしてしまうことです。しかしいまの状態は、泳ぐことのできない者が水中に落ちて、手足をばたつかせながら、もう浮かぶことができないと思っているときの状態なのです。いま私はこうした状態にあります。自殺がいつも卑劣なことは分かっています。人は自分自身を無に帰することをまったく望んではなりませんし、そして一度でも自殺という行為を思い浮かべた者は、自殺がいつも自分自身に不意に襲いかかるものであることを分かっています。自分自身にどうしようもなく不意に襲いかかることほど忌々しいことはありません。
 もちろん、それは私が信仰をもっていないということに起因しています!

不幸にも彼がここで語っているのがどんな事態かを知る手だては、断たれている。確かなことは、それが彼自身に関わることであり、そして宗教的信仰がその唯一の矯正法である、と彼が思っていることである。宗教的信仰なしには、彼の生は耐え難いものであった。彼は自分自身の死を望んでいたが、自殺することはできずにいた。彼はラッセルにつぎのように述べている。「たぶん私にとって最善なことは、ある夜、横わったまま、目が醒めなくなってしまう、ということです。」。
 「しかしたぶん私に残されているもっといいものがあるのだろう、と思います」、と括弧に入れて、彼は補足している。その手紙は七月七日に書かれ、その日に彼は教員免許書を受け取った。それはたぶん教えることに、彼が生きるのに価する何かを見出そうとしている、という意味だった。

ウィトゲンシュタインは予定通りに教員養成所の課程を修了した。しかし不安がなかったのではなかった。いま彼ができる最善のことは、彼はエンゲルマンに語っているが、教育の実践の場で子供たちに童話を読んであげることであった。「そのことで子供たちは喜び、私のストレスは解消します。」そのことは「いまの私の人生でまさにただ一つの善きことです。」
 彼は捕虜収容所以来の友人、ルートウィヒ・ヘンゼルから助けと激励を受けた。彼は教師で、ウィーンの教育運動のサークルでよく知られた人物であった。ヘンゼルによると、少なくとも一度は、彼と同僚の生徒たちとの関係が悪化して、彼は教員養成所を止めようと考えた。ヘンゼルは、鋭く見抜き、それをウィトゲンシュタインの慢性神経過敏症のせいとした。「あなたとあなたの同僚の生徒たちのあいだには壁などはありません」、と彼は書いた。「私の周りには厚かましい連中が取り巻いています。」
 教員養成所では、ウィトゲンシュタインは「学校教育改革運動」の原則に従った教育を受けた。その運動は、文部大臣オットー・グレッケルの指導のもとで、戦後の新しいオーストリア共和国の教育の再建が企てられていた。それは非宗教的で、共和主義的、社会主義的な理想に燃えた運動であり、善良な人たちを魅きつけ、多数の有名なオーストリアの知識人たちの参加さえあった。しかしながら、ウィトゲンシュタインの方はその運動にただちに共鳴できなかった。彼が教師になろうとしたのは、ある民主主義社会に生徒たちを適応させるという考えからではなかった。そのような社会的、政治的動機は、彼がエンゲルマンと共鳴した宗教的道徳とは基本的に疎遠であった。
 ヘンゼルもまた宗教的人間であった。まさにそうした理由から学校教育改革運動に反対し、「デァ・ブント・ノイラント」と呼ばれる保守 - カトリック組織での指導的役割を担うこととなった。その組織は、カトリック教会の影響を保持し、実際には増大するような教育改革を求めた。しかしながら、ウィトゲンシュタインはグレッケルの教育方針と同様に、この運動にも共鳴しなかった。戦後オーストリアの国民の生活を支配していた聖職権支持者と社会主義者とのあいだの闘争において、ウィトゲンシュタインは両面価値の立場に立った。彼はカトリック体制と一般的な平等主義を嫌うことで社会主義者に共鳴し、他方では社会主義者の非宗教主義と社会的政治的変革を信条とすることを拒否した。しかしながら、政治的に動乱し、両極化が進む一九二〇年代の世界において、このような両面価値的で、超然とした態度はいつも誤解されがちであった。保守的な聖職権支持者には、因習尊重に対する彼の軽蔑は、彼を社会主義者とみなすのに十分であった。他方、彼の個人主義と基本的に宗教的見解から、彼は聖職権支持の反動主義者であるとみなされていたのであった。ウィトゲンシュタインは当時グレッケルの教育方針に従って訓練を受ける一方、その教育方針プログラムの目標のいくつかから距離をおいていた。彼はその養成所の同僚たちに自分の立場をどう見られているのかですっかり不安になり、ヘンゼルにそこの講師たちが自分のことをどう言っているか聞いてくれるように頼んだ。ヘンゼルの報告によると、そこの全教師は口を揃えて彼を褒め、彼が真面目で、有能な教育実習生だとみており、彼らは彼が何をしているのかをよく分かっているというのであった。彼が受けた教科──教育理論、自然史、書き方、音楽を担当した教師たちはみな、彼の学習に満足していた。「心理学の教授は、高貴なウィトゲンシュタイン公をたいへん気に入っている、と自分でも大いにと満足して語っています。」。

〔…〕

 このようにして、その夏に教師としての訓練を終え、彼の本をラッセルに任せた後で、彼は自分にとって最も直接的な課題に集中した。つまり彼自身の不幸を克服するための闘争、幸福な人間の世界から彼を引きずり落とした「内なる悪魔」と闘うための闘争に集中した。この目的のために、彼はウィーン郊外のクロスターノイブルクの修道院で庭師として働き、その夏を過ごした。一日中の厳しい仕事が一種の治療になったようであった。「夕方に仕事を終えると」、と彼はエンゲルマンに書いた。「疲れてしまって、そのときには不幸だとは感じません。」それは、彼が実際的で、手先の仕事に慣れ、それに適性の生かせる仕事であった。ある日、そこの修道院長が通りかかったとき、彼は仕事中であった。彼は、「庭の仕事に知性が大切だと分かりました」、と説明した。
 しかしその治療は一時的な効き目しかなかった。「外的な」苦悩の原因は、ウィトゲンシュタインを「不幸な人間の世界」に閉じこめ続けた。「来る日も来る日も私はピンセントのことを考えています」、と彼は八月にラッセルに書いた。「彼は私の半分の生をもっていってしまいました。他の半分は悪魔が取りに来るでしょう。」夏休みが終わりに近づき、よそして小学校の教師として新たな人生に招かれたとき、彼は自分の将来について「不吉な予感」がした、とエンゲルマンに書いた。

私の生がたいへん悲惨なことにならないことはないとすれば、それはきっと悪魔のせいに違いないのです。



9 〈まったくの、田舎の環境〉

 グレッケルの教育方針の支持者たちの改革熱には心を動かされなかったが、ウィトゲンシュタインは依然として理想主義的志向と、それに田舎の貧しい人々のあいだで生活し、働きたいというかなりロマンティックでトルストイ的な発想で教職に就いた。
 およそのところ彼の倫理的世界観(Weltanschauung)に基づいて、彼は貧しい人々の外的状況を改善するのではなく、「内的に」彼らをよりよくすることを求めた。彼は数学を教えることによって彼らの知性を啓発し、ドイツ語の古典を紹介することによって彼らの文化的意識を高め、一緒にバイブルを読むことによって彼らの魂を良き方向へ導こうとした。彼らから貧乏をなくすことは彼の目的ではなかった。また彼は教育を都市での「よりよい」生活に従わせるための手段ともみなさなかった。むしろ自分自身のために知的に開発することの価値を彼らの心に刻みつけようとした──彼が後年、手先の仕事が本来的な価値をもつ、とケンブリッジの学生たちに銘記させたのとは、ちょうど逆である。
 実際の教育から生まれた彼の理想は、オーストリアの田舎であれ、あるいはケンブリッジ大学であれ、洗練された知性、深い文化的評価、信仰深い態度と結びついた誠実な労役、つまり収入が乏しくとも、豊かな内面生活をというラスキン的理想であった。
 田舎の貧困な地域で働くことが彼には重要であった。しかしながら、教員養成所の卒業生たちの慣例であったように、彼はゼンメリンクにあるマリア・シュルッツの学校へ教員見習い授業をおこなうために送り込まれた。それは小さな、心地よい、そして比較的に栄えた町で、巡礼の中心地として有名で、ウィーン南部の田舎にあった。その場所を少しばかり見回った後で、彼はそこはふさわしくないと決めた。彼はこの町には噴水のついた公園があることに気づいて、「ここは私には向いていません。私はまったくの田舎の環境を望んでいます」、と説明し校長を驚かせた。そのとき、校長は、近隣の丘の反対側の村、トラッテンバッハに行ったらどうかと薦めた。ウィトゲンシュタインはすぐに九〇分のハイキングに出かけ、そしてちょうど彼が思い描いていたような場所を見つけた。彼は大いに喜んだ。
 トラッテンバッハは小さく貧しかった。仕事をしている村人たちは、地元の織物工場か近所の農場かに雇われていた。ここの村人たちの生活はたいへんで、とくに一九二〇年代には恵まれない年が続いた。しかしながら、ウィトゲンシュタインは、(ともかく最初は)その場所に魅かれた。到着してまもなく、彼は当時中国にいて北京大学での客員教授として一年間の講義を始めたばかりのラッセルに手紙を書いた。彼は「L・W 教師、トラッテンバッハ」と誇りをもって彼の住所を教えた。そして新しい無名の地位にあることをはしゃいでいた。

私はトラッテンバッハと呼ばれる小さな村の小学校教師になっています。ここはウィーンの南から四時間離れた山のなかにあります。トラッテンバッハの小学校の先生が北京にいる教授と手紙のやりとりをするのはきっとはじめてのことと思います。

エンゲルマンには一か月後に、彼はもっと感激して書いている。彼はトラッテンバッハを「美しい、小さな住み家」、と書き、「学校での授業が愉しい」と伝えた。しかし彼は陰鬱になって、つぎのようにつけ加えた。「私は授業をすることがぜひとも必要なのです。そうでなければ、ただちに悪魔という悪魔が私のところにやってくるのです。」
 これらの最初の数か月のあいだ、ヘンゼルへの手紙も同様な快活な気分で書かれていた。彼は生徒たちが読む本を、たとえば、グリムの童話、『ガリバー旅行記』、レッシングの寓話、トルストイの民話など、たくさんの本を注文し、送ってくれるようにヘンゼルに頼んだ。ヘンゼルは週末には定期的に彼を訪ねた。アルフィト・シュエグレン、モーリッツ・ネーエ(ウィトゲンシュタイン家お抱え写真家)、ミヒャエル・ドドロービルも訪ねた。しかしこれらの訪問は、ウィトゲンシュタインと彼の同僚たちを含めて、村人たちとの明らかな違いを、いっそう強調することになった。まもなく彼は噂と憶測の対象となった。彼の同僚のひとりゲオルク・ベルガーはあるときウィトゲンシュタインとヘンゼルが職員室で一緒にいるところにやってきた。ウィトゲンシュタインはただちに、村で自分がどんなふうに言われているのか知りたいと迫った。ベルガーはためらった。しかし強要されてウィトゲンシュタインに話した。「村人たちはあなたをお金持ちの男爵だと思っている。」
 ベルガーは言わなかったけれども、ウィトゲンシュタインが風変わりな貴族とみなされていたことは確かだった。村人たちはよく彼を「よそもの(Fremd)」という言葉で呼んだ。なぜ、こんな裕福で教養ある人間が貧しい者のなかで生きることを選ぶことになったのか、と彼らは疑問に思った。彼が彼らの生活の仕方にほとんど同情を示さず、とくにウィーンの洗練された友だち仲間の方をあからさまに大事にしているときにはなおさらであった。なぜ彼はこんな貧しい生き方をすることになったのか、と。

最初ウィトゲンシュタインは「ツム・ブラウネン・ヒルシェン」というその土地の旅館の小部屋に住んだ。しかし彼は下からのダンス音楽の騒音があまりにも喧しいことに気づき、そこをすぐに出た。それから彼は学校の炊事場を泊まり場所とした。ベルガー(ウィトゲンシュタインについての村人の噂話の主な出所となったひとりだと疑われた者)によれば、彼はよく炊事場の窓際に何時間も座り、星を観察していたとのことであった。
 彼はまもなく自分を、精力的で、熱心で、かなり厳しい教師にしていった。姉ヘルミーネが書いているように、さまざまな点で彼は生まれながらの教師であった。

彼はあらゆるものに関心を示し、そこから何が最も重要であるかを引き出し、それを明晰にさせる術を知っていました。私自身幾度かルートウィヒが教えているところを見る機会がありました。彼が私の少年職業訓練学校で子供たちに何回かの午後の授業をしたとき、それは私たちみんなには稀にみる喜びでした。彼はただ授業をしただけではなく、質問をして子供たちに正しい答えを引き出すように試みていました。あるときには蒸気機関を作らせたり、それから黒板に塔の設計図を描かせたり、動いている人間の姿を描かせたりしました。彼が引き出した関心は数限りなくありました。素質がなくふだんは注意力散漫な子供たちでさえも、驚くほどすばらしい答えをしました。彼らは、答えたり証明したりする機会が与えられて、熱心になっておたがいに張り合っていました。

 「学校教育改革運動」に関する懸念にもかかわらず、教師をしていた時期にウィトゲンシュタインを最も激励し、支持をしてくれたのは、改革者たちのなかでは、たとえばプトレとその地区の視学官ウィルヘルム・クントであった。彼の教育方法は教育改革運動のいくつかの基本原則と共通していた。つまりその最も重要な原則は、教えられたことをたんに子供が繰り返すように教育すべきではなく、それに代わって子供が自分自身の問題として考えるようにさせるべきだというのである。それゆえ、実習が彼の教育では大きな役割を占めた。子供たちは解剖を猫の骸骨を集めることによって、天文学を夜空を観測することによって、植物学を田舎の道端にある植物を観察することによって、建築学をウィーンへ遠足に行ったときに建築様式を見分けることによって教えられた。教えたすべてのことに関して、ウィトゲンシュタインは、自分が関心をもち、魅かれていたすべてのことに対したのと同じ好奇心と探究精神とを子供たちに喚起させた。
 こうすれば当然にも子供たちのなかで優劣がでてきた。ウィトゲンシュタインは、彼が教えた子供たちの何人かにとくにいい成績をつけた。そして彼の好みの生徒たちの、主に男の子であるが、選ばれたグループに対して、彼は課外で特別の教育を課した。これらの子供たちには彼は一種の父親となった。
 しかし能力のない子供たちに対して、あるいは彼の熱意に関心を示すことができなかった子供たちに対して、彼は父親としての優しさを示さず、虐待者となった。数学の教育を重視して、彼はその授業を毎朝最初の二時間することにした。彼は代数を始めるのに早すぎることはないと確信して、子供たちの年齢で期待されているより遥かに高いレベルの数学を教えた。生徒のなかには、とくに女の生徒たちは、その日の最初の二時間の恐怖の思いをその後数年間も消すことができなかった。そのひとり、アンナ・ブレンナーは回想している。

算数の授業中に、代数をする私たちは第一列目に座らされました。私の友人のアンナ・フェルケーラーと私は、ある日いっさい答えないことに決めました。ウィトゲンシュタインは、「きみたちの答えはいくらだ」、と尋ねました。3 × 6 はいくらかという質問に対して、アンナは「分かりません」と答えたのでした。彼は私に一キロメートルは何メートルかと尋ねました。私は何も言いませんでした。すると横っ面を殴られました。その後でウィトゲンシュタインは、「もしきみが分からないなら、学校でいちばん下のクラスから分かるような生徒を連れてこよう」、と言いました。授業が終わると、ウィトゲンシュタインは私を職員室につれていき、そして尋ねました。「きみは[算数]をしたくないのか、それとも分からないのか。」私は言いました。「いいえ、私はしたいのです。」ウィトゲンシュタインは私に言いました。「きみはできる生徒だ。しかし算数に関しては……。それともきみは病気か。頭が痛いのか。」そのとき、私は嘘をつきました。「そうです!」「それでは」、とウィトゲンシュタインは言いました。「どうか、お願いだ、ブレンナー、私を宥してくれないか。」彼はこう言いながら、手を差し出し祈りました。私はたちまち嘘をついたことをたいへん恥ずかしく思いました。

 この説明が示しているように、ウィトゲンシュタインの方法がグレッケルの改革が薦めているのとは大きく異なっている一点は、体罰を用いているということであった。数学に弱かったもうひとりの女の子は、ある日ウィトゲンシュタインが彼女の髪の毛をあまりにも強く引っぱったので、後で髪をとかすときにたくさん抜けてしまったことを回想している。彼に習った生徒たちの回想は、彼らが彼の手で受けた「平手打ち(Ohrfeige)」と「髪引っぱり(Haareziehen)」の話でいっぱいである。
 この残酷さが子供たちの親の耳に入ったとき、それが彼に対する悪感情をつのらせることになった。村人たちは体罰に反対ではなかった。またそのような教育方法が、グレッケルの勧告に反してはいたが、異常であったというのでもなかった。そうではなく、始末に負えない男の子が、間違ったことをしたなら平手打ちも認めるが、代数を分からない女の子がそれと同じ扱いを受けるとはとんでもないというのであった。実際に女の子が代数を理解すべきであるとは予想外のことであった。
 村人たち(彼の同僚たちの何人かを含めて)は、ともかくこの貴族的で、常軌を逸したよそものを毛嫌いしていた。彼の奇妙な行動はときには興味をもたせたが、反面彼らを警戒させた。彼がよそものであること(Fremdheit)の逸話が語られ、繰り返し語られ、彼は一種の村の伝説の人物とまでなった。たとえば、彼がかつて彼のふたりの同僚と一緒にモーツァルト三重奏を演奏したときの話が残っている──彼はクラリネットを、ゲオルク・ベルガーはヴィオラのところをヴァイオリンで、校長のルーパート・ケルナーはピアノを演奏した。ベルガーは回想している。

何度も何度も私たちは初めからやり直さなければならなかった。ウィトゲンシュタインは少しも飽きた様子はなかった。とうとう私たちが中断してしまった! 校長のルパート・ケルナーと私はそのとき意図的ではなかったが、軽率にもダンスの曲を楽譜をみないで弾くぐらいな気持ちでいた。ウィトゲンシュタインは怒ってしまった。「まったくどうしようもない! どうしようもない!(Krautsalat! Krautsalat!)」、と叫んだ。それから彼は荷物をまとめ、出ていった。

 もう一つの話は彼がその地方のカトリック教会での教義問答に出席したときのことである。その地区の司教代理が出席していて、牧師が子供たちに質問しているのを彼は熱心に聞いていた。そのとき突然はっきりと聞こえるように、「ナンセンス!」と声をあげた。
 しかしいちばん驚異となった話──これはその村でいちばん記憶されている──は、彼がその地方の工場にある蒸気エンジンを修繕したときのことで、彼はどうやら奇跡的な方法を用いて修繕した。この話は、ウィトゲンシュタインの同僚のひとりの妻で、その工場で働いていたビシュルマイヤー夫人が話したものである。

エンジンがまったく動かなくなり、工場は作業を停止しなければならなかったときに、私は事務所にいました。当時蒸気に頼っていました。その後でたくさんの技師がやってきましたが、誰も動かすことができませんでした。私は家に帰って何があったのかを夫に話しましたら、彼はその話を職員室で話しました。するとウィトゲンシュタイン先生が彼に尋ねました。「私に見せてもらえますか。見せてもらうように手配してくれませんか。」それから夫は工場長に連絡をとり、彼がすぐにでも来ていいということでした。……そんなわけで彼は夫と一緒に行き、エンジン室へ入り、何も言わないで、歩き回り、あたりを見回しました。それから彼は言いました。「四人ばかり手をかしてくれますか。」工場長は承諾し、錠前屋ふたり、他にふたりの四人がやってきました。各人がハンマーをもち、そしてウィトゲンシュタインはひとりひとりに番号をつけ、それぞれ違った場所につけました。番号を呼んだら、彼らはそれぞれの箇所をハンマーで叩けというのでした。一、二、三、四という順序で……。
 このようにして彼らはその機械の故障を直しました。

この「奇跡」の報酬として、ウィトゲンシュタインにリンネル製品が贈られた。彼は最初断ったが、その後で学校の貧しい子供たちのために受け取った。
 しかしながら、村人たちのこの奇跡の恩恵は、彼がよそものであること(Fremdheit)に対する彼らの不信の増大の歯止めとはならず、秋学期のあいだ、彼と彼らの関係は徐々に悪化していった。この学期中、姉ヘルミーネは彼の新しい人生航路の歩みを注意深く、母親のような眼差しで見守り続けた。彼女はヘンゼルをとおして間接的にそうしなければならなかった。というのは、ウィトゲンシュタインがウィーンの友人たちの訪問を歓迎している一方で、彼の家族は彼に会わないこと、彼にけっして援助してはならない、と彼から厳しく言い渡されていたからであった。食べ物の小包は開かれないままで戻され、手紙にはいっさい返事がなかった。
 ヘンゼルは、ウィトゲンシュタインはいくらか緊張状態にあったけれども、第一学期をかなりよくやることができたと伝え、ヘルミーネを安心させた。十二月十三日に彼女はすっかり安心して彼に手紙を書いた。

あなたの親切なお手紙にほんとうにたいへん感謝いたしております。まず第一に、お手紙はルートウィヒがトラッテンバッハの人たちと彼らの好奇心に耐えている苦しみのことでは私を安堵させてくださいました。その当時の彼の手紙では、とても元気でやっている様子で、彼の簡潔な手紙の書き方からして、はっきりと伺うことができました。第二にですが、私は弟についてあなたが書かれましたことすべてに、それは実際には私自身が考えていることと同じなのですが、大いに喜んでいます。もちろん、あなたのおっしゃるとおり、たしかに弟が聖者になるのは容易なことではありません。それに「死んだ哲学者であるよりは生きた犬でありたい」という英国の諺にあやかって、不幸な聖者であるよりは弟には幸福な人間になってもらいたい、とつけ加えたいのです。

 皮肉にもこの手紙のわずか数週間後の、一九二二年一月二日に、ウィトゲンシュタインはエンゲルマンに、天空の星になることを選ばなかった自分を苛んでいる手紙を書いた。

クリスマスにお会いできなくて残念です。あなたがから逃れたいのではないかというおかしな思いに襲われました。それはつぎのような理由からなのです。私は一年以上も前から道徳的に完全に死んでしまったということです! このことから、私が元気にやっているのかどうかもあなたには判断できると思います。私は今日も恐らくそれほど珍しくない状線の一つに陥っています。私にはある課題がありましたが、それをやりませんでした。いまそのために堕落しているのです。自分の人生を善きことのために向けるべきでした。やっていたら、星座の一つの星になっていたのです。その代わりに、私はこの地上に留まり、いまや次第に破滅状態になっています。私の人生はほんとうに無意味になっており、それゆえ私の人生は余計なエピソードから成り立っているにすぎません。私の周りはもちろんこのことに気づいてはいませんし、また分かってもいないと思います。しかし私には根本的なものがが欠けていることが分かっています。ここに書いたことをあなたが分からなくても、あなたに喜びがありますよう。

〔…〕

 返事の手紙に、ウィトゲンシュタインはその補足について説明し、彼がこの本に入れるつもりだった訳文をオグデンに送った。このことで、結局はかなり難解な──そして短いに本を分かりやすくし、そして分厚くさせるようにするような補足がさらにあるかもしれない、というような魅惑的な可能性を、オグデンは思いついた。
 ウィトゲンシュタインはそれ以上送ることを断った。「それらを印刷にする考えはありえません」、と彼はオグデンに言った。「補足はまさに印刷されてはならないものなのです。それにそれらにはほんとうに明瞭になるものは一切含まれておらず、それゆえに補足は私のその他の命題よりは明瞭ではありません。」

この本の短さに関して、私は非常に残念に思っています。しかし私にできることは何でしょうか。もしあなたがレモンのように私から絞り取るとしても、あなたは私からはもう何一つ得られないことでしょう。あなたにその補足を印刷していただくことは何の救いにもならないのです。それは、あなたが指物師のところへ行き、テーブルを注文し、彼はそのテーブルの足を短くしすぎてしまって、その短さを補うために、テーブルに削りくずとおがくずや他のがらくたものを足につけたのをあなたに売るようなものなのです。(その本を分厚くするために、補足を入れて印刷するよりは、読者がその本を買って、分からないときに、読者が罵りの言葉を書けるように一ダースの白紙を入れるようにした方がましです。)

〔…〕

……ただ私の経歴については掲載する理由が分かりません。一般の批評家たちがなぜ私の年齢を知らなければならないのですか。そのようなことをするのは、とくにオーストリア軍の戦線であったに違いない騒音のただなかで、よりにもよって本を書いたような若者に多くのことは期待できない、と言っているのと同じではありませんか。もし一般の批評家が星か占術を信じているのを私が分かった場合には、私は私の生年月日をその本の表に掲載するようにお願いし、そしてその批評家が私のためのホロスコープ(星占い用の天宮図)をつくれるようにいたします。(一八八九年四月二十六日、午後六時生生まれ)、と。

〔…〕

 夏学期中、彼はラッセルと会う約束の日を大きな期待と楽しみをもって待ち望んだ。ラッセルは、弟と妻と過ごすためにスイスにある彼らの家で大陸を訪れる計画を立てていた。その計画はもともとウィトゲンシュタインのためであって、そこへラッセルの家族が同伴するというのであった。しかしこの計画はインスブルックでの一泊の会合に変えられた。この取り決めのために交わされた手紙の調子は、穏やかで友好的なものであり、出会うふたりのあいだには違いを予示させるものは何もなかった。彼らはヨーロッパの悲惨な状況について意見を交わし、会合をいかに待ち望んでいるかをたがいに書いていた。ウィトゲンシュタインは愛情を込めてラッセルの奥さんと赤ちゃんのことを尋ねている。(「息子は可愛らしい」、とラッセルは返事に書いた。「最初カントにそっくりだったが、いまは赤ちゃんらしく見える。」)
 けれどもその会合は両者ともに大きな失望となってしまった。そして実にこの会合はふたりが友人として会った最後の機会となった。ドーラ・ラッセルによると、「その会合をうまくいかない」ようにしたのは「時代の状況」であった。オーストリアでのインフレーションは当時最もひどかった。それで「全国各地は悪党や強欲な人たちで満ち、安い費用でオーストリア旅行を楽しもうとした旅行客が溢れていた。」

私たちはみな、泊まる部屋を探して街をあちこちと歩き回りました。ウィトゲンシュタインは自分の国の惨状に誇りを傷つけられ、そして何ら客をもてなすことができないことでひどく悩んでいました。

 やっとのことで彼らはシングル・ルームを見つけた。ラッセルの家族はベッドで、ウィトゲンシュタインは長椅子で寝た。「しかしそのホテルにテラスがあって、バーティー〔ラッセルの愛称〕がウィトゲンシュタインとどうしたら英国へ行けるのかを話し合っているあいだ、そこに座っているのも結構愉しいものでした。」彼女は、このとき彼らが喧嘩したことを激しく否定している。「ウィトゲンシュタインはけっして気安い人ではありませんでしたが、ふたりの相違といえば哲学的な考え方に関してであったに違いないと思います。」
 しかしラッセルの方はその違いは宗教的なものであったと回想している。彼はつぎのように述べている。ウィトゲンシュタインは、「私がクリスチャンでないことをたいへん憂いていた。」そしてそのとき彼は「彼の神秘主義的なものに熱狂して絶頂に」あった。彼は、「賢いよりも善いということが優れていると大真面目になって私に説いた。」それにもかかわらず(ラッセルはここでパラドックスを楽しんでいるようである)、彼は、「スズメバチにおびえたり、ゴキブリがいるという理由で、私たちがインスブルックで見つけた宿にもたう一晩泊まることはできなかった。」
 晩年にラッセルは、インスブルックでの会合の後で、ウィトゲンシュタインがラッセルをあまりにも邪悪で付き合うことができないと考え、それですべての接触を断った、というようなことを語っている。ラッセルは邪悪だと思われたことを愉快に受け取った。このことは、もちろん彼の記憶に最も鮮やかに残った、その会合の様子を伝えるものである。ウィトゲンシュタインは実際に彼の性的なモラルを非難しており、そしてインスブルックでの彼らの会合の前に、彼が読んだレッシングの『宗教的論難書』を薦め(ラッセルは聞き入れなかった)、宗教的観想へと彼を向けようとした。しかし彼らがインスブルックで会った後に、ウィトゲンシュタインがラッセルとの接触をすべて回避したというのは正しくない。彼は会合の後の数か月のあいだに少なくとも二通の手紙を書いその手紙はそれぞれ、「長いあいだあなたからの便りを頂いていません」、という書き出しになっている。
 それにはふたりのコミュニケイションを断ったのはラッセルだったと認められるような表現がある。たぶんその真相は、彼がウィトゲンシュタインの宗教的熱狂さにあまりにもうんざりさせられ、寛容になれなかったというのであろう。というのは、もしウィトゲンシュタインが「神秘主義的熱狂の絶頂に」あったことが本当なら、ラッセルが無神論的辛辣さの極みにあったことも等しく本当であったからである。オットーリーンによって鼓舞された「宗教の本質」と「神秘主義と論理学」の超越論はもうなくなってしまった。その代わりとなったのが激烈な反キリスト教であった。いまや大衆の前に立つ演説家と流行著述家の役割が身についたラッセルはそれを機会あるごとに表明し続けた。
 またそれと関連した、そしてたぶん、もっと根深い相違もあった。それは、エンゲルマンが大いに強調しているが、世界を改善しようとすることと自己自身を改善しようとすることとの相違であった。さらに言えば、ウィトゲンシュタインがより内省的で個人主義的になったというのではなく、ラッセルの方がよりそうではなくなったのであった。戦争がきっかけで彼は社会主義者になり、世界の統治の在り方を緊急に変革する必要があると彼は確信した。ラッセルには世界をより安全にするのが重要な関心事であって、個人の道徳の問題はその問題よりも重要ではなかった。この違いを最も鋭い形で例証したのがエンゲルマンが述べた話である。その話がきっとインスブルックの会合で触れられているに違いない。

二〇年代にラッセルが〈平和と自由のための世界機構〉のようなものを設立したり、そうしたものに参加しようとしたとき、ウィトゲンシュタインが厳しく非難したので、ラッセルは彼に言った。「それではあなたはむしろ戦争と奴隷制度のための世界機構を作りたいのだと受け取ります。」それに対してウィトゲンシュタインは激情的になって同意した。「そうです。そのほうがましです、そのほうがましです!」

 もしこのことが本当であれば、あまりにも邪悪でウィトゲンシュタインと付き合うことができないとみなしたのはラッセルであったと言っていいであろう。というのは、ウィトゲンシュタインが残りの人生の活動の基礎としていた倫理観を完全に拒否したということはまったくありえないからである。
 ともかくも、ラッセルはウィトゲンシュタインと交わろうとか、英国に来るように説得するような企てはもういっさいしなかった。もしウィトゲンシュタインがオーストリアの百姓たちの「非難と卑俗さ」から逃れることができるとすれば、それはケンブリッジでの彼の旧い教師をとおしてではなくなった。
トラッテンバッハで小学校教師としてのウィトゲンシュタインの呪文が効かなくなったのは、その大部分において彼がその職務にあまりにも献身的であったことにあった。彼の生徒に対する遠大な期待と彼らに力をつけさせるために取った厳しい方法は、少数の生徒たちは別にしても大多数の生徒たちを当惑させ、おびえさせた。彼は生徒たちの親の敵意を引き起こし、彼の同僚たちとさえうまくやっていけなかった。そしてラッセルに言われて認めざるをえなかったように、トラッテンバッハの人々がとくに悪いということは何もなかった──彼は恐らく他のどこへ行っても、同じような反応を受けたに違いない。
 もしもっと何かよいことを見つけていれば、彼はまったく学校で教えることを止めていたことを示すいくつかのことがある。彼はラッセルに英国へ戻ることを話していたし、また「ロシアへの逃亡」の可能性もエンゲルマンと話し合っていたのであった。どちらに行ったとしても、彼は何をしたらいいのか分からなかった。確かなことは、哲学はしないということであった──哲学について言いたいことのすべては本のなかで彼は語っていた。
 結局、一九二二年九月に彼はトラッテンバッハと同じ地域にある新しい学校でやり直しをすることとなった。今度はハスバッハという村の中学校であった。彼は何らの大きな希望も抱かずにそこに行った。そこへ発つ前に、彼は「そこの新しい環境(教師、教区司祭など)についてたいへん不快な印象」をもったとエンゲルマンに報告している。これらの人々は、「まったく人間ではなく忌々しい虫けらだ。」彼はたぶんは中学校の教師となら以前よりはうまくやっていけると思っていたのであろう。しかし実際には彼らが「専門の教育」をしているという気取った態度にまったく我慢できなくなり、そしてまもなく小学校へ戻ることを望んだのではないかと考えられる。彼はかろうじてそこに一か月とどまった。
 十一月に彼はプッフベルクの小学校に勤務した。その地はシュネーベルクの山間にある農村で、現在はスキー・リゾートとして知られている。またもや彼は彼の周りの人たちにどんな人間性も認めることが難しいと思ったのであった。事実、彼はラッセルに、彼らがけっしてまっとうな人間ではなく、四分の一動物で、四分の三人間にすぎないと話している。
 ついに出来上がった『論考』を受け取るずっと前に、彼はブッフベルクを去っていた。彼は十一月十五日にオグデンに手紙を書いた。「人々はほんとうによさそうにみえます。彼らの中味の方も外観の半分ぐらいよければと思っています。」ジョンソン──論理学に関する彼の三巻本の著述のうち、の頃最初の二巻が出版された──がその本を買うのかどうか疑問に思っていた。「がそれをどう考えるのかを知りたいそと思います。もしあなたが彼に会ったら、どうぞ私からよろしくと言っていたとお伝えください。」
 当然にもプッフベルクでは彼と哲学の議論ができる者は誰もいなかった。しかし彼は少なくともルドルフ・コーダーと音楽に情熱を分かち合うことができた。彼はたいへん有能な音楽家で、学校で音楽を教えていた。コーダーが「月光」ソナクを演奏しているのを聞くや否や、ウィトゲンシュタインは音楽室へ入り、自己紹介した。そのときからずっとふたりはほとんど毎晩クラリネットとピアノのデュエット──ブラームスとラボーアのクラリネット・ソナタとブラームスとモーツァルトのクラリネット五重奏曲──を演奏した。
 後ほど彼らはその村の合唱団のひとり、ハインリッヒ・ポスッルというその地方の炭坑夫からこれらの音楽のセッションに参加するように誘われた。ウィトゲンシュタインの良き友人で一種の子分ともなったポスッルは、後ほどウィトゲンシュタインの家族から門番および管理人に雇われた。ウィトゲンシュタインは何冊かの彼の好きな本──トルストイのの『福音書書簡』とヘーベルの『宝石小箱』──を彼に与えた。そして彼は自分の道徳的見解を彼に押しつけようとした。それゆえ、ポスッルがあるとき、自分は世界を改善したいと言ったとき、ウィトゲンシュタインは答えた。「あなた自身を改善するのがいい。それが世界をよりよくするためにあなたができる唯一のことなのですよ。」
 コーダーとポスッルの他に、ウィトゲンシュタインはプッフベルクの同僚や村人のなかに数人の友人をつくった。トラッテンバッハにおいてと同様に、生徒たちのうちの少数の者が彼に教育されなければ達成できないような高いレベルで教育されたが、それは家の仕事の妨げになると親たちに反対された。
ウィトゲンシュタインが小学校の子供たちを教えることに奮闘しているあいだ、『論考』は学者たちの世界では注目され、話題となっていた。ウィーン大学では数学者ハンス・ハーンが一九二二年にその本をゼミナールに用いた。さらに『論考』は後ほどモーリッツ・シュリックによって先導された哲学者たちのグループの注目も惹いた──そのグループは論理実証主義として有名なウィーン学団へと発展した。ケンブリッジでもまた、『論考』は特別研究員たちや学生たちの、小さいが影響力のあるグループの議論の的となった。ケンブリッジでその本について公の議論が最初になされたのは、たぶん一九二三年の一月であった。そのときリチャード・ブレイスウェイトが〈『論理哲学論考』にみられるウィトゲンシュタインの論理〉という題でモラル・サイエンス・クラブで発表した。
 一時はウィトゲンシュタインのケンブリッジとの唯一の接触はオグデンであった。彼は三月にウィトゲンシュタインに当時出版したばかりの自分の本『意味の意味』を送った。この本は詩人で文芸評論家 I・A・リチャーズと共著であった。オグデンはその本が『論考』においてウィトゲンシュタインが語った意味の問題の因果的解決を与えていると考えた。ウィトゲンシュタインはそれとは関係がないとみなした。「私は率直に告白すべきだと考えました」、と書いた。「あなたはたとえば──私が私の本において(私が正しい解決を与えたかどうかは別にして)提出した諸問題を捉えておられないと思います。」四月七日のラッセルへの手紙で、彼はさらに述べている。

少し前に私は「意味の意味」を受け取りました。それはきっとあなたにも送られたはずです。それはお粗末な本ではありませんか。哲学はあのように容易なものではありません! この本を見れば分厚い本を書くのがいかに容易かが分かります。最悪なのは文学博士、英国学士院会員、等々といったポストゲート教授の序文です。私はこんな馬鹿げたものを滅多に読んだことはありません。

これはインスブルックでのふたりの不運な会合以来、ウィトゲンシュタインがラッセルに書いた二回目の手紙であった。彼は返事を苛立ちながら待った。「いつか私に手紙をください」、と彼は懇願した。「あなたがどうされているのか、あなたの赤ちゃんがどのくらい成長しているのか。彼はもうすでにすらすらと論理学をやっているのかどうか。」
 ラッセルは返事を書かなかったようであった。ウィトゲンシュタインのオグデンの著作についての絶対的な拒否は恐らくラッセルを苛立たせたのであった。というのは、彼はその本にはほとんど非難すべきものはなかったからであった。『意味の意味』は、彼が『心の分析』ですでに述べたことを、いろいろな方法においてたんに再述したものであった。その後まもなく、ウィトゲンシュタインはその本について、「疑いなく重要である」というラッセルの好意的な書評が『ネイション』に載っているのを読んでショックを受けた。フランク・ラムゼイから、ウィトゲンシュタインはラッセルが『意味の意味』をほんとうに重要だと思っているのではなく、それを売れるように推奨しオグデンを助けたかったのだと聞いた──この説明によってウィトゲンシュタインの非難は増大し、ラッセルがもうまったく真摯ではないという彼の思いはますます確固たるものになった。一九三〇年代において、ウィトゲンシュタインは、ラッセルのしている哲学の業績に関心を一、二度示したことがあった(うまくはいかなかった)が、その後ふたたび友人としてラッセルに暖かい言葉をかけたことはなかった。

〔…〕

 ラムゼイは三月にウィーンに行った。彼はトーマス・ストンボロウと一緒に旅行した。旅行中に、彼はウィトゲンシュタイン家についてのいくつかの目立った事柄──ウィトゲンシュタインの三人の兄弟の自殺のこと、三人の姉と四番目の兄がいて、彼らはみなウィーンに住んでいることを彼から聞いた。トーマス・ストンボロウに会った後で、ウィトゲンシュタインが「たいへん貧しい」という彼の見方にいくぶん修正の必要がある、とラムゼイは分かったに違いない。パリでは、トーマスの父親、ジェローム・ストンボロウに紹介された。ラムゼイが彼の母親に話したことによれば、彼は「富めるアメリカ人の典型であった。」
 ウィーンではラムゼイはウィトゲンシュタイン家の富の大きさを自分の目で見た。彼がマルガレーテと知り合いになったとき、彼女は当時シェーンブルン宮殿に住んでいて、「彼女は途方もない富豪に違いない」、と彼は思ったのであった。彼は翌週の土曜日にその宮殿でのディナーパーティーに招待された。「私が認めた限りで、そのパーティーは、ウィトゲンシュタイン家の主な女性たち、教授、トミーの友人、その子息などの主な男性からなっていた。このように大多数は男性でした。」音楽はプロの弦楽四重奏団によって演奏され、最初はハイドン、それからベートーヴェンが演奏された。ラムゼイはハイドンの方が好みであったが、これは彼のために演奏されたのであった──「遅かれ早かれそうされることが避けられないと思って断りませんでした。」食後彼はパウル・ウィトゲンシュタイン──「彼は戦争で腕を失ったが、いまや片腕で演奏している有名なピアニストで、ルートウィヒの兄」、ライアネル〔ラムゼイ〕はルートウィヒとかかわりなく、パウルの評判をすでに聞いていた──と話し、そしてパウルとヘルミーネから昼食の招待を受けた。
 ウィトゲンシュタインの家族と会ってから、ラムゼイはウィトゲンシュタインのまったく自虐的な性格についていっそう理解できた。彼はケインズに「彼に何か愉しい生活をさせようとか、彼のエネルギーと頭脳をおかしなことに浪費することをやめさせようとするのは」たぶん無駄であろう、と説明している。

彼の姉のひとりと知り合いになり、家族の他の人たちと会って、このことがいまようやくはっきりと分かりました。彼らは非常に裕福で、何とかして彼にお金をあげ、彼のために何かをしようとしています。彼は彼らの勧めをすべて拒否しています。クリスマスの贈り物も、彼が病気になったときに病人用の食べ物の差し入れさえも、送り返しています。こういうことは、彼らが彼と親しくないというのではなく、彼が自分で稼いだ以外のお金をもとうとしないからなのです。ただ、たとえば英国に来て、あなたと再会するためというような、ほんとうに何か特別な目的がある場合は例外です。彼はお金を稼ぐために教えており、そしてもし彼がお金を稼ぐのに、他に好ましい方法がある場合にだけ、教えるのをやめると思います。その場合、ほんとうにお金を稼ぐことになるのでなければなりませんし、ほんの少しでも何か策略を用いていると思われるような仕事を彼は絶対に受け入れないでしょう。それは不愉快な憐れみなのです。

彼はその根拠として心理学的説明さえ持ち出した。「それは非常に厳しいしつけを受けたことからきているようです。彼の兄弟のうち三人は自殺をしています──彼らは父親から非常に厳しくしつけられました。一時八人の子供たちには二六人の家庭教師がつけられました。母親は彼らにまったく関与しませんでした。」

 ウィーンの最初の週末に、ラムゼイはウィトゲンシュタインと一日を過ごすためにプッフベルクへ旅立った。彼の心は主として彼の精神分析にあった。彼は数学の基礎に関する自分の研究についてウィトゲンシュタインと話すつもりはなかった。しかし彼はそうしようと何らかの努力をしたが、ウィトゲンシュタインの反応がなかったようである。「ウィトゲンシュタインは私には疲れているように見えました」、と彼にはに彼は母親に書いた。「病気ではありませんでしたが、研究について彼と話し合うことはまったく駄目でした。彼は耳を傾けようとはしませんでした。質問しても彼はその答えには耳を傾けようとはせずに、ひとりで何かを考え始めるのです。それはあまりにも険しい山道を登るようで、彼にはたいへんつらいことでした。」
 ブッフベルクを訪問した後で、ラムゼイはケインズに手紙を書いて、ウィトゲンシュタインが取り巻かれている敵対的な環境から彼を引き出すことが大切だと強調した。

……彼がいまの環境から離れ、それほど疲労のない状態で、私が彼を刺激すれば、彼はもっといい仕事をすることでしょう。そして彼は恐らくそれを目的にして英国に来ることになるかもしれません。しかしここで教えている限り、彼はたいしたことができるとは私には思えませんし、思考することは、まるで消耗しきってしまったように、おびえて、困難をきわめていることは彼には明白です。彼の夏休みのあいだ私がこ私がここにいて、彼を刺激するようにしたいと思います。

〔…〕

 他方では、彼はケインズに、もし英国で道路掃除とか靴磨きでいいから、何か仕事があれば、「私は大喜びで参ります」と語った。そのような仕事がなければ、彼にとって行くに値するただ一つのことは、もしケインズがもっともな理由で、彼に会いたい何かがあれば、ということであった。ケインズに再会することは素敵なことである、と彼は言った。しかし「部屋に滞在し、一日おきぐらいにあなたと一緒にお茶を飲むことでは、十分に快適とは思われません。」ラムゼイがすでに述べているように、親密な関係をふたたび結ぶように一に生懸命に努力することが、彼らには必要であった。

私たちは一一年間会っていません。この間あなたが変わったのかどうかは私は知りません。しかし私が恐ろしく変わったのは確かです。残念ながら、私は以前よりも少しもよくなっていませんが、しかし私は違っています。ですから、もし私たちが会えば、あなたに会いに来た男があなたが招待しようとした男とはまったく違っていることに気づかれるでしょう。かりに私たちがおたがいに理解し合うことができるとしても、一つや二つのおしゃべりでその目的を十分に達成することはないということ、そして私たちの会合が、あなたにとっては失望と嫌悪感に、私にとっても嫌悪と絶望に終わることは疑いえません。

実際には、このような悶着はまったく生じなかった。というのは、このような招待はすぐにはなかったからであった。ウィトゲンシュタインはその夏をウィーンで過ごした。
 この時期は比較的に幸福であったようだったが、彼はすでに一九二四年の夏学期がプッフベルクでの最後となると決めていた。ラムゼイは五月に彼を訪問したとき、ウィトゲンシュタインが以前よりも快活になっているようだと母親に報告している。「彼は教え子たちのためにネコの骸骨の標本作りで数週間過ごしていました。彼はそのことを楽しみにしているようでした。」「しかし」、と彼は書いた。「彼は私の研究には役に立ちません。」
 ラムゼイのウィトゲンシュタインに対する敬意は、どんなにしても薄れることはなかった。後ほど彼はつぎのように書いている。

私たちは確かに、アインシュタイン、フロイト、ウィトゲンシュタインのすべてと共に生き生きと、思想の偉大な時間のなかで生きています。(そして彼らすべては、文明の敵対者であるドイツまたはオーストリアで生きています!)

しかし夏中、彼はオーストリアに滞在したが、ウィトゲンシュタインに多く会おうとはほとんどしなかった。オグデンがその前年に議論した『論考』のテキストの訂正を欲しいとラにムゼイに手紙を書いたが、そのとき彼は英国に帰国する少し前の九月になるまで、ふたたびウィトゲンシュタインに会うにつもりはないと返事している。オグデンは明らかに新版に備えてその原稿を求めていた。しかしそのときには新版は望めそうもなかった。ラムゼイの手紙は「残念ですが、売れ行きはきわめて悪いのです」、と結んでいる。
 その夏、ラムゼイは精神分析の課程と彼の学位論文の執筆の完成に専念した。まだウィーンにいるあいだに、彼はケンブリッジに帰ると、二十一歳という異例の若さで、キングズ・カレジのフェローになるという知らせを受け取った。帰国前に、彼はもう一度だけウィトゲンシュタインを訪問した。彼はあらかじめ、「私は最近あまりやっていない数学については多く話したくありません」、と彼に話していた。
 このことは、どうやらウィトゲンシュタインが「エネルギーと頭脳とをこのおかしなことに浪費」し続ける限り、彼はラムゼイの研究には「何の役にも立たなく」なってしまうということを婉曲的な方法で言ったものと思われる。

オーストリアの田舎の子供たちの視野を高め、親たちや同僚の教師たちの敵意に抵抗する彼の最後の企てはどういった点にあったのか。ウィトゲンシュタインは、一九二四年九月にまた他の村の小学校で、今度はトラッテンバッハの隣村オッタータールの学校で、教え始めた。
 トラッテンバッハの経験を考えれば、彼がヴェクセル山岳地帯に戻ることを選んだのは不思議な気がする。しかし彼には同僚たちと以前よりもいい関係をもてるかもしれないという希望があったようである。少なくともヘルミーネはそう受け取っていた。ウィトゲンシュタインがオッタータールへ移るとすぐに、彼女はヘンゼルに手紙を書いて、彼が弟を訪問する予定があるかどうかを問い合わせている。「当然のことですが、私は」、と彼女は言った。「ルートウィヒがそこでどうしているのかを誰かが私に教えていただければとても幸せです。つまりその学校との関係がどうなっているのかということなのです。」

衝突がないことはまったくありえない、と思います。と言いますのは、彼の教育方針が他の教師たちのそれとはたいへん違っているからです。しかし少なくともその衝突が彼の命取りにならないように希望したいのです。

 オッタータールの校長ヨーゼフ・プトレとはウィトゲンシュタインはトラッテンバッハにいたときの親しい友人であった。プトレは社会主義者で、グレッケルの「学校教育改革運動」の熱狂的な支持者であった。ウィトゲンシュタインはそこで教えていた最初の二年間に、しばしば彼に助言を求めた。
 もちろん彼とプトレとのあいだには見解の違いがあった。とくに教育における宗教の役割について違いがあった。プトレは授業中に祈りをすることをよしとしなかったが、ウィトゲンシュタインは毎日生徒とともに祈りを捧げた。プトレがカトリック信仰が口先だけの祈りをしていることに反対し、それを無意味だと考えると言ったときに、ウィトゲンシュタインは「人々はおたがいにキスを交わしますが、それもまた口唇リップでなされます」、と応えた。
 彼のプトレとの友情にもかかわらず、ウィトゲンシュタインは一か月も経たないうちに、トラッテンバッハにいたときと同じようにオッタータールでもやっていくのは容易ではないことに気づいた。「ここではうまくいっていません」、と彼はヘンゼルに十月に書いた。「たぶんもう私の教師の経歴は終わりに近づいています。」

それは私にあまりにも難しいことです。ひとりではなく一ダースの力が私に立ち向かってきています。私は何者なのでしょうか。

 しかしながら、ウィトゲンシュタインがオーストリアにおける教育改革への最も長続きした、疑問の余地のない貢献──しかもグレッケルの方針の原則と完全に一致した──貢献を生みだしたのは、このオッタータールであった。それは彼の『小学生のための辞書』、つまり小学校で使う綴り方辞典である。こうした類の本を出版しようという気になった動機は、彼がヘンゼルに授業で使う辞書の値段を尋ねたことにあったようである。先に引用したヘンゼルへの手紙のなかで彼は言っている。

私は辞書がこんなに驚くほど高いなどいままで考えたことはありませんでした。もし私が十分に長生きをすれば、小学生のための小さな辞書を作ろうと考えています。それが私には緊急に必要なことと思います。

 こうした辞書が必要なのは、その筋の権威者たちによく認められていたことであった。当時利用できる辞書はわずか二冊で、両方とも生徒に綴りを教えるときの練習問題を解くために作られていた。一つは大きすぎ、しかもウィトゲンシュタインが教えているような田舎の学校で子供たちが使うにしては高すぎた。もう一つはとても小さく、子供たちがふだんは使いそうもない多くの外国語が入っていて、その一方で子供たちがよく綴りの間違いをするような語が多く省かれていた。プッフベルクではウィトゲンシュタインは生徒たちに自分たちの辞書を作らせて、この問題を克服した。国語の時間と天候が悪くて外で授業ができない体育の時間に、ウィトゲンシュタインは黒板に語を書き、子供たちにそれらを単語帳へ書き取らせた。これらの単語帳は、その後で綴じ合わせられ、厚紙のカバーをつけて、辞書ができあがった。
 ウィトゲンシュタインは出版した辞書の序文に、その問題にこのような解決へと至った経緯を述べている。

実際面に携わる教師はこの仕事の難しさを理解できるであろう。というのは、この成果は、ひとりひとりの生徒が間違いのない、そしてできる限り正しい辞書を受け取ることであり、その目標を達成するために、教師はひとりひとりの生徒が書いた語ほとんどすべてに目を通さなければならないからである。(例をあげるだけでは十分とは言えない。しかし私は訓練の問題については述べたくはない。)

彼は驚くほどの綴りの進歩をもたらした成果を説明しているが(「正書法の意識は呼び覚まされています!」)、彼には根気と努力が必要なことがはっきりしている作業を繰り返す気がなかったのは明瞭であった。その辞書は、彼自身と彼と同じ立場にある他の教師たちにも、その問題のこれまで以上の実践的解決になるともくろまれたものである。

〔…〕

見てきたように、オッタータールに到着後まもなく、ウィトゲンシュタインは敵対者に囲まれて教えることのプレッシャーに、もう長くは耐えられないとはっきり分かってきた。一九二五年二月に、彼はエンゲルマンへ手紙を書いた。

私は、私と一緒に住んでいる人間に、否、人非人にたいへん悩まされています。要するにいつもとまったく変わりません!

 以前のように、ウィトゲンシュタインは彼の好みの男の子のグループから熱烈な尊敬を受けていた。彼らは放課後特別な教えを受けるために残って、彼らのクリスチャンネームでウィトゲンシュタインに呼ばれる特別なグループをつくった。彼らは遠足にウィトゲンシュタインにウィーンへ連れていってもらったり、土地の田舎道を散歩したりした。そして彼らは彼らの通っている田舎の小学校で期待されていることよりも遥かに高い水準で教えられた。以前のように、彼らの教育への献身とウィトゲンシュタインの彼らへの献身は、親たちからの敵対を受けた。親たちは子供たちがギムナジウムで育を受けるべきだ、というウィトゲンシュタインの提案を拒絶した。また女の子たちは、とくに数学にみられるウィトゲンシュタインの非現実的な高い期待に、応えることができないか、あるいは快く思っていなかったので、ウィトゲンシュタインのやり方によりいっそう反抗的になっていたし、彼が髪の毛を引っぱったり、平手打ちすることに憤慨していた。
 要するに、こうしたことはまったくこれまでどおりであった。
 エンゲルマンもまた戦後のヨーロッパ生活に辛い思いをしていた。ウィトゲンシュタインと同じように、彼も自分が過去の世代に属していると考えた。しかしウィトゲンシュタインと違っていたのは、彼はその時代が本質的にユダヤ的(Jewish)であると特徴づけたことであった。回想録において、彼は「オーストリア - ユダヤ的精神」と「ウィーン - ユダヤ的精神」について語っている。これは彼自身とウィトゲンシュタインの両方が受け継いだものであった。ウィトゲンシュタインの理解は、後でたどるが、それとは違っていた。しかし両者はそれぞれ異なったやり方であったが、彼らのユダヤ人の意識は、ヨーロッパ人の反ユダヤ主義という流行病がますます広がっていくなかで高められた。エンゲルマンの場合には、このことが彼をシオニストにさせ、そして第一次世界大戦で破壊された国に代わる新しい祖国イスラエルの建設を期待することに導いた。生涯けっしてシオニズムに魅かれることはなかったけれども(パレスチナの宗教的連合はつねに彼には旧約聖書よりも新約聖書との関わりをいっそう深くもっているように思われた)、ウィトゲンシュタインは工ンゲルマンの聖地へ移住したいという希望を喜んで歓迎した。「あなたがパレスチナへ行くことを望んでいる」、と彼は書いた。「あなたの手紙に喝栄を送ります。その知らせは私に希望を与えてくれます。」

このことは恐らく正しいでしょうし、精神的な効果をもたらすことでしょう。私もあなたに加わりたい。私を一緒に連れていってくれますか*。

 * エンゲルマンは結局一九三四年テルアビブに向けてヨーロッパを去り、(一九四八年後、イスラエルの市民として)一九六三年の死までそこにとどまった。ウィトゲンシュタインが彼に付いていくという考えはもうどこにも述べられなかった。

〔…〕

ウィトゲンシュタインは八月十八日に英国に着き、エクルズに会いにマンチェスターへ行く前に、サセックス州、ルイスにあるケインズのカントリーハウスに滞在した。賢くなるよりも善くなることのほうがいい、と以前彼はラッセルに強調したが、それでも田舎の百姓を仲間にしていたのに代わって、ヨーロッパで最も明敏な頭脳の持ち主たちを仲間にすることになったことは、彼にはうれしいことであった。ルイスからにエンゲルマンへ手紙を書いた。

私は才知に富むということは善ではないと承知しています。それにもかかわらず、いまは私は才知に富んだ瞬間をもっては死ぬことができればと望んでいます。

〔…〕

十月に同じような調子で、彼はケインズに書いて、「私がこのように巻き込まれているトラブルが私には何かいいことになると思っている限り」、教師を続けるだろうと語っている。も

もし人が歯が痛むなら、お湯の入った瓶に顔をつければ効き目があります。しかし瓶の熱さが痛みを与える場合にのみ、それは効果があります。その瓶が私の性格を何かよくするような特定の痛みを私にもはや与えないと分かった場合には、私はその瓶を捨てるでしょう。つまりここの人々がそうなる前に私を追い出さない場合には、私はその瓶を捨てるでしょう。

〔…〕

 ハイドバウアー事件は、むろんこうした諦めが原因ではなく、ただたんに最終的にウィトゲンシュタインが辞職を避けられないものにした引き金にすぎなかった。この諦めそのものはもっと根深かった。その出来事の少し前に、ウィトゲンシュタインはオッタータールの校長のポストに応募していたアウグスト・ヴォルフに会って、つぎのように話した。

私はあなたの応募を撤回するようにお勧めするだけです。ここの人たちはあまりにも偏狭で何もすることができないでしょう。
10 荒地から出て

〔…〕

 グレーテルのための仕事をとおして、ウィトゲンシュタインはウィーンの社会へ復帰し、そして結局は哲学へ復帰したのであった。クントマンガッセの家は建設中であったけれども、グレーテルと彼女の家族はシェーンブルン宮殿の一階に住み続けていた。彼女の長男、トーマスは最近ケンブリッジから戻ってきて、いまやウィーン大学で博士の学位を取るために学んでいた。ケンブリッジで彼はマルガリート・レスピンガーという名のスイスの女性に会い、彼女をウィーンに招待した。彼女とウィトゲンシュタインとの交際が始まり、少なくとも結婚を約束する仲とみなされるまでになった。それは一九三一年まで続くことになった。彼女は、関係者の知る限り、彼が恋をしたただひとりの女性であった。

マルガリートは裕福な家に生まれ、活発な芸術家タイプの若い女性であり、哲学にはまったく関心をもたず、ウィトゲンシュタインが通常友情の前提に求めた献身的な誠実さをほとんど示さなかった。ウィトゲンシュタインと彼女との交際は、たぶんグレーテルに勧められたのであった。彼の他の友だちと親戚の何人かは、まごついて、その関係をむしろ好ましいと思わなかった。建築現場での事故があって、彼は足を怪我し、療養のためにグレーテルの家に滞在していた。そのときに、彼女はウィトゲンシュタインとはじめて会った。彼女は、彼のベッドの周りに集まり、彼が本を読むのを聴いた若者のグループに入っていた──そこにはトーマス・ストンボロウとシュエグレン兄弟、つまりターレとアルフィトが入っていた。彼はスイス出身の作家ヨハン・ペーター・ヘーベルの作品を読んだ。彼女はそのありさまを報告している。「私はまたくつろいだ気分になり、そしてたいへん深い理解力で読むのを聴いて感動しました。」アルフィト・シュエグレンがたいへん不機嫌だったので──たぶん嫉妬で──、ウィトゲンシュタインの注意は彼女に向けられた。同じようなことをしていたときに、彼は聴いている人たちにどういったものを読みたいのかと尋ね、そしてとくにマルガリートへ質問を向けた。「何を読もうとかまわないのだよ」、とアルフィトは不快そうに口をはさんだ。「どうせ彼女は分かろうとしないのだよ。」
 シュエグレンの不快をよそに、ウィトゲンシュタインとマルガリートはほとんど毎日会うようになった。彼女がウィーンにいるあいだ、マルガリートは美術学校に通い、そして授業後にはウィトゲンシュタインに会いにクントマンガッセの建築現場へ通った。それから彼らは一緒に西部劇を見に映画館へ行った。ふたりは一緒にコーヒー店で、卵、パンとバターそれに一杯のミルクといった簡単な食事をした。それは彼女には馴染みのないやり方であった。ウィトゲンシュタインは相変わらず、肘のところが擦り切れたジャケット、オープンシャツ、だぶだぶのズボン、重いブーツという身なりであったが、そんな男と一緒にずっといることは彼女のような品があり、粋な若い女性にはかなり勇気のいることであった。さらに、彼の年齢はおよそ二倍であった。彼女は時折トーマス・ストンボロウとターレ・シュエグレンのような若くて当世風な男を連れとするのを選んだ。このことがウィトゲンシュタインを悩ませ、また怒らせた。「なぜ」、と彼は聞きただした。「あなたはトーマス・ストンボロウのような若い奴と出かけたがるのか。」
 品のいい友だちがいっそう困惑したのは、ウィトゲンシュタインとマルガリートのふたりがなぜ一緒に出かけるのかということであった。彼女と一緒にやっていけなかったウィトゲンシュタインの親友は、アルフィト・シュエグレンだけではなかった。パウル・エンゲルマンもそうであった。マルガリートの方が彼を嫌った。彼は「好きではないタイプのユダヤ人」であった、と彼女は言っている。「世の中の人は」、ウィトゲンシュタイン家の人々なら恐らく我慢できたのであろう。それは、彼らが膨大な富をもち、彼らがウィーンの社会に融け込んでいたからであり、しかも彼らは宗教的にもまた「人種的にも」完全にユダヤ的ではなかったからであった。しかしエンゲルマンは端的にあまりにもユダヤ的であった。エンゲルマンとウィトゲンシュタインとの友情は、マルガリートと彼との関係が発展していった時期に悪化したということと、彼が彼女と恋に陥った時期にウィトゲンシュタイン自身のユダヤ性に対する態度が奥深い所で変わっていったことと何らかのつながりがありそうである。
 ふたりの関係を深めていったのは明らかにグレーテルであった。彼女はマルガリートの交際が弟を宥め、「正常化への」効果を与えると考えたからであった。これは正しかったようであったし、実際にマルガリートがこの効果に役立ったのは、彼女が知的な深さにあまりに欠けていたことにあったようである。ウィトゲンシュタインが、彼女に対して彼の内面の思索の世界を探ったり、その世界に入らないようにしたのは確かであった──彼女には願ってもない幸せな要望だった。
 マルガリートは、ウィトゲンシュタインがこの時期に彫塑した胸像のモデルとなった。ミヒャエル・ドロービルのアトリエで製作したその胸像は、マルガリートその人の肖像ではない。というのは、ウィトゲンシュタインの関心は本来的にその顔のポーズと表情にあったので、彼が表現しようとしていたのは彼女の現実の表情ではなく、彼自身が創作することに関心をもっていた表情であったからであった。ワイニンガーが『性と性格』において語っていること──恋をしているウィトゲンシュタインを表現するときにしばしば言えることであるが──が想い起こされる。

女性の愛は彼女の現実の諸性質を考慮しないときにだけ可能である。そしてそのようにして現実の身体をそれとは異なり、そしてまったく想像した像へ置き換えることができる。

 その胸像は出来上がると、グレーテルに贈られ、クントマンガッセの家に飾られた──その像にふさわしい家であった。というのは、それが美的にその家の一部と調和していたからである。ウィトゲンシュタインは自分の建築を回想して言っている。

……私がグレーテルのために建てた家は、決定的な耳ざとさと良き品性の産物であり、(文化などの)大いなる理解の表現である。しかしそれには存分に荒れ狂いたいという、根源的な生命、野生の生命が欠けている。それゆえ、それには健康さが欠けている。

彼の彫塑についても、またそれには「根源的な生命」が欠けていると言うことができよう。それゆえ、ウィトゲンシュタイン自身の語っている言葉で言えば、それは偉大な芸術作品であることに欠けている。というのは、「すべての偉大な芸術作品には、野生の動物が飼いならされている」からである。ウィトゲンシュタイン自身はその胸像をドロービルの作品を明晰化したにすぎないとみなしている。
 ウィトゲンシュタインが最も偉大な感情を抱いていた芸術である音楽においてすら、彼は、「存分に荒れ狂いたいという野生の生命」をあらわすよりもむしろ、とりわけ大いなる理解を示したのであった。この時期にウィーンでしきりに演奏したが、彼が他の人たちと音楽を演奏したとき、彼の関心はそれを正確に演奏することにあり、彼の鋭い耳ざとさをもって、仲間の演奏者たちにとくに表現の正確さを求めたのであった。彼は音楽を創造することに興味をもっていたのではなく、それを再生することに興味をもったとさえ言えよう。彼が演奏したとき、彼は自分自身を、彼自身の根源的な生を表現したのではなく、他人の思想、生を表現したのであった。この点において彼が自分を創造的ではなく、再生的であるとみなしていたことは、恐らく正しかった。
ウィトゲンシュタインは他の芸術への関心と感受性があったにもかかわらず、彼の創造性が真に呼び覚まされたのは哲学においてだけであった。ラッセルはずっと以前に気づいていでたが、哲学においてのみ、「存分に荒れ狂いたいという野生の生」が彼のなかにみられるのである。
 ウィトゲンシュタインが自分の特殊な天賦の才能を最大に表現できるようなものへと戻されたのは、彼がグレーテルの家の建設に携わっているときであった。またも、グレーテルは社交的手腕を振い、ウィトゲンシュタインをウィーン大学の哲学教授、モーリッツ・シュリックに引き合わせた。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインとの会合の後で、シュリックの妻は回想している。シュリックは「没我状態で帰ってきました。ほとんど何も喋りませんでした。私は何も尋ねてはいけないと思いました。」つぎの日ウィトゲンシュタインはエンゲルマンに話した。「私たちはおたがいに相手が気違いに違いないと思った。」この後ですぐにウィトゲンシュタインとシュリックは議論するために定期的に会合をもち始めた。エンゲルマンによれば、「ウィトゲンシュタインはシュリックが優れた理解力のある議論の相手であると受け取った。これは何よりも彼がシュリックの優れた教養のある人格を高く評価したからであった。」しかしウィトゲンシュタインはシュリックの〈サークル〉の会合に出席することには応じなかった。このサークルは哲学者と数学者たちのグループで、実証主義証的立場から哲学的諸問題と科学的世界観へアプローチすることで結ばれていた。彼らは数学と科学の基礎を議論するために水曜の夕方に会合した。そして後ほど彼らはウィーン学団へと発展していった。ウィトゲンシュタインは、「彼が許した」者とだけなら話し合っていい、とシュリックに伝えた。
 しかしながら、一九二七年の夏にはウィトゲンシュタインはあるグループと定期的に会合をもっていて、彼らとは月曜にの夕方に会合をもった。そのなかには彼とシュリックの他に、シュリックのサークルのメンバーのなかから慎重に選ばれた少数の者も含まれていた。フリートリッヒ・ワイスマン、ルドルフ・カルナップ、ヘルバート・ファイグルが含まれていた。これらの会合の成功はシュリックがその状況を鋭敏に把握して対応したことにあった。カルナップはそのことを回想している。

最初の会合の前に、シュリックは、私たちがそのサークルでやっていたような種類の議論を始めないようにしきりに私たちに警告した。というのは、ウィトゲンシュタインはどんな場合にもそのようなことを望んでいなかったからであった。私たちが質問するときでも、ウィトゲンシュタインは非常に敏感に反応し、直接に質問するとすぐに狼狽してしまうので、慎重にすべきであった。最もいい方法は、ウィトゲンシュタインに話をさせ、それから明瞭にするに必要なことだけを非常に慎重に尋ねることだ、とシュリックは言った。

 ウィトゲンシュタインをこれらの会合に出席するように説得することで、シュリックは、その議論が哲学的でなければならないことはない、つまり彼の好きなことはどんなことを話してもいい、と彼に確約しなければならなかった。時折彼の聴衆を驚かせたのは、ウィトゲンシュタインが彼らに背中を向け、詩を朗読したことであった。とくに──『論考』において彼が述べたことよりも、述べなかったことの方が重要であるということを、彼が以前にフォン・フィッカーへ説明したときのように、まるで彼らに対してそれを強調するかのように──、彼はラビンドラナート・タゴールの詩を朗読した。タゴールは当時ウィーンで大いに読まれていたインドの詩人で、彼の詩はシュリックのサークルの人たちとは正反対に神秘的な世界観を詠っていた。『論理哲学論考』の著者が彼らの期待していた実証主義者ではないということがすぐにカルナップ、ファイグル、ワイスマンには明白となった。「以前に」とカルナップは書いている。

私たちがそのサークルでウィトゲンシュタインの本を読んでいたとき、彼の形而上学に対する姿勢は私たちのと同じものである、と私は間違って考えていた。私は形而上学的なものについて、彼の本のなかの言明に十分な注意を払っていなかった。というのは、この領域での彼の感情と思想は私のものとはあまりにもかけ離れていたからであった。彼との個人的な接触だけがこの点に関して彼の姿勢を私により明瞭に理解する機会を与えた。

実証主義者にとって、明晰ということは科学的方法と一体化していた。とくにカルナップは、彼らが哲学的精密さと明晰性のパラダイムそのものとみなしたその本の著者が気質と方法の両方において決定的に非科学的であることが分かってショックを受けた。

人々と諸問題に対する彼の見解と姿勢は、たとえ理論的問題であったとしても、科学者の見解と姿勢というよりも創造的芸術家のものに断然近かった。つまり宗教的予言者のものとほとんど同じだと言えるであろう。彼がある特定の哲学的問題に関する自分の見解を定式化し始めるときに、その瞬間に彼のうちに生じた内的な葛藤を私たちはしばしば感知した。その葛藤によって彼は激しく、苦悩にみちた緊張のもとで暗闇から光へと突き進もうと努力した。その緊張した様は彼の最も表情に富んだ顔にありありと見えてきた。ときには長いあいだの激しい努力の後で、最終的に答えが浮かんだときには、彼の言明は新たに創造された芸術作品のように、あるいは神的啓示のように、私たちの前に発せられるのであった。彼は自分の見解を独断的に語ったのではなかった……しかし彼が私たちに与えた印象は、まるで神的霊感をとおしたかのように、彼に閃きが起こり、それについてのどんな真面目な合理的解釈とか分析も冒濱になるという感情にならざるをえなかった。

懐疑したり反対することによる議論が、観念を検証する最上の方法だとみなしていたサークルの人たちと対照的に、ウィトゲンシュタインは「一度閃きが霊感の働きによって得られると、他人からのどんな批判的な吟味にも耐えられなかった」、とカルナップは回想している。

私は時々、科学者の慎重で合理的な非情緒的な姿勢や「啓蒙」を支えるような類似のどんな観念もウィトゲンシュタインには気に入らなかった、という印象をもった。

 気質と関心事においてこうした差異があるにもかかわらず、ウィトゲンシュタインとシュリックのサークルのメンバーは、哲学的諸問題に関して多くの有益な議論をすることができた。それらのなかで関心をひいた一つの焦点はフランク・ラムゼイの最近の論文「数学の基礎」から与えられたものであった。ラムゼイはそれを一九二五年十一月にロンドン数学学会で講演し、それをその学会の「年報」に掲載した。
 これは、フレーゲの真実性を回復し、数学の基礎へのラッセルの論理主義的アプローチのために、論理学に関するウィトゲンシュタインの業績を用いようというラムゼイのキャンペーンの皮切りを意味した。一九三〇年に二十六歳で早死するまで、ラッセルの『数学原理』の理論的な欠陥を修復し、そのことによって論理主義的学派の優勢をふたたび確立し、そしてオランダの数学者、L・E・J・ブラウアーにより提者されたより急進的主張を未然に叩くことがラムゼイの最も主要な年来の目標であった。大まかに言ってその違いは、ラッセルは、すべての数学が論理学に還元されることを示し、それによって純粋数学者たちに受け入れられたすべての公理に厳密な論理的基礎を与えることができることを示そうとしたが、ブラウアー──数学と論理学との両方に関して基本的に異なった構想から出発しては、彼の体系の内部から証明可能な公理のみが受け入れられるような方法で、数学を再構成しようとした、ということにある。その残りのものは、多くの確立された公理を含んだものであったが、証明不可能なものとして破棄されなければならないというのであった。
 ラムゼイは、数学がトートロジーから(ウィトゲンシュタインの言う意味で)成り立つということ、それゆえ数学の命題がたんに論理命題にすぎないことを示すために、『論考』の命題論を用いようとした。これはウィトゲンシュタイン自身の見解ではない。『論考』において、彼は論理命題と数学命題とを区別している。つまり前者のみがトートロジーで、後者は「等式」である(『論考』六・二二)。
 このようにしてラムゼイの目的は、等式がトートロジーであることを示すことにあった。この企ての中心となるのは同一性の定義であった。それは、特別に定義された、論理関数Q(x、y)を x=y の表現の代わりに用いて、実際上、x=y はトートロジー(もし x と y が同じ値をもつなら)か、あるいはコントラディクション(x と y とが異なった値をもつなら)であると主張しようとしている。この定義に基づいて、ラムゼイが数学のトートロジー性を証明に用いることを望んだ関数論が作られた。「そのようにしてのみ」、と彼は考えた。「私たちはブラウアーとワイルのボルシェビキの威嚇からそれ[数学]を守ることができる。」
 その論文は、ラムゼイからコピーがシュリックに送られてさてきて、そしてシュリックをとおして、ウィトゲンシュタインの注目をひくこととなった。(ラムゼイは、一九二五年の夏に喧嘩別れになっていたので、ウィトゲンシュタイン個人には送らなかった。)ウィトゲンシュタインがその論文を熟読したことは明白であった。一九二七年七月二日に、彼はラムゼイに彼の同一性の定義を批判する手紙を長々と書き、そのようなすべての理論(同一性に関する表現をトートロジーか、あるいはコントラディクションかであると主張する理論)はすべて役に立たないという見解を示した。ウィトゲンシュタイン自身──ラッセルが一九一九年に肝をつぶすほど驚いたように──は、数学を論理学に基礎づける企てにはまったく関心をもたなかった。「これらのすべての困難から脱出する方法は」、と彼はラムゼイに語った。「〈Q(x、y)〉──それは非常に興味深い関数ではあるけれども──も、またどんな命題関数であっても、〈x=y〉に置き換えられないということを理解することである。」
 ラムゼイはウィトゲンシュタインの異議に対して二度手紙を書いた──一度はシュリックをとおして、つぎには直接ウィトゲンシュタインに対してであった。彼の弁護の主旨は、彼が同一性の定義を与えることを意図したのではなく、たんにそれが彼の理論のなかで同一性の命題の役割を果たし、そして彼が望んでいる論理的帰結をもたらすように定義されたもので、置き換えの機能を意図したということであった。
 このやりとりはウィトゲンシュタインとラムゼイとのあいだの違いを示すものとして、さらにウィトゲンシュタインがラムゼイを「ブルジョア」思想家と書いたのは、どういう意号味であったのかを示すものとして興味深い。というのは、ウィトゲンシュタインの異論がその事柄の核心を直接に衝き、そしてラッセル的な数学の基礎を再建しようとするラムゼイの全企てが哲学的に誤った方向に導いているということの証明を企てているのに対して、ラムゼイの答えは、彼の役割がもくろんだ課題を遂行するのかどうかということについて、ただ論理的で数学的問題にだけかかわっているからである。それゆえ、ウィトゲンシュタインに従えば、ラムゼイはつぎの意味において「ブルジョア」であった。

……彼はある特定の共同体の事態を秩序づけるという目的をもって考えた。彼は国家の本質を省察していない──あるいは少なくとも彼はそうすることが好きではなかった──、彼はこの国家が合理的にどのように組織化されるのかということを考えたのであった。この国家だけが一つの可能な国家ではない、という考えがあるときには彼を不安にさせ、他のときには彼をうんざりさせた。彼は──この国家の──基礎に関してできるだけ速やかに省察しようと欲した。これは彼が得意なことであったし、ほんとうに彼に興味をもたせたのであった。他方、真の哲学的省察は、その結果(ただ哲学的省察に結果があればであるが)を些細なものとして脇に残して置くだけで、彼を落ち着かせることがなかった。

もちろんこの政治のメタファーはブラウアーの「ボルシェビキの威嚇」についてのラムゼイの発言のことを暗に指しており、そしてこのメタファーを用いるにあたり、ウィトゲンシュタインが「真の哲学的省察」とボルシェビキ主義とを等しいとしていると考えられるかもしれない。しかしこれは違っている。ウィトゲンシュタインはこの国家の事態(ラッセル的論理主義)を組織化することに関心はなかった。しかしまた彼はそれを他のもの(ブラウアーの直観主義)と置き換えることにも関心はなかった。「哲学者はいかなる観念の共同体の市民でもない」、と彼は書いた。「そのことがまさに彼を哲学者にするのである。」
 ウィトゲンシュタインがついにケインズに手紙を書くことになったのは、恐らくラムゼイとのこのやりとりにあった。教職を去って以来、それは彼が書いた最初の手紙であった。(「私は湯の入った瓶にもはや我慢できない」、と彼は説明した。)彼はケインズに『ロシア管見』という贈られてきた本に礼を述べ、いま家の建築に携わっているが、その年(一九二七年)の十一月にそれが完成する予定であると伝え、そしてその後で、「もし英国で私に誰か会いたい人がいれば」、そちらへ行きたいと書いた。
 「あなたの本について、」とウィトゲンシュタインは書いた。「それを好きだと言うのを忘れてしまいました。その本は、天と地等々のあいだに多くの物が存在することをあなたが知っていることを示しています。」
 彼はソビエト・ロシアの概括が好きだという奇妙な言い方をしているが、その理由は、その本のなかでソビエト・ロシアが称賛に値するのは経済的革新にあるのではなく、新しい宗教にあるとケインズが強調していることにある。ケインズがレーニン主義の経済的側面を「それのバイブルとして、批判の許されない時代遅れの経済学のテキストに定められた教説で、私はそれを科学的に間違っているばかりではなく、現代世界にとって無益であるか、あるいは適用されないものであることを知っている」、と片付けている。しかしこの教説に伴っている宗教的熱情に彼は印象づけられた。

……宗教のない現代において、多くの者は、真に新しく、しかもたんに旧い宗教のぶり返しではなく、それの動因となっている力を明らかにしているどの宗教にも強烈な感情的な好奇心を抱かざるをえない。この新しい事態がロシアから生まれたのであるからなおさらである。つまりヨーロッパの家族のなかで美しく、そして愚かな末っ子の若者は、頭に髪をはやして、西欧の世界の禿頭の兄弟たちよりも地上と天空との両方により近くにある──この若者は、二世紀も後に生まれににてきたために若者の才気を失ったり、あるいは快楽を貪ったり、因習に溺れたりする前に、ヨーロッパの家族の他の中年の者たちの幻滅感を体験することができたのである。私はソビエト・ロシアに何か優れたものを求める人たちに共感している。

ソビエト信仰の特徴は、キリスト教と共通する一般の人に対して高揚した態度をもっているとケインズは述べている。しかしキリスト教と対照的な何かがそこにある。

……変わった形態と新たな背景のもとで、もし何らかの真の宗教があるとすれば、それが未来の真の宗教に何かの貢献をするであろう──レーニン主義は絶対的に大胆にも非越自然的でありその情緒的倫理的本質は貨幣愛に対する個人および社会の態度を中心としている

 このような言葉がいかにウィトゲンシュタインの賛同を獲ちえたのかは理解に難くない。またケインズが記している信仰が彼の敬意と、恐らくは彼の忠誠とをいかに獲ちえたのかも理解に難くない。ソビエト連邦への短期間の訪問後に書かれたケインズの本は、ラッセルの『ボルシェビキの実践と理論』と著しい対照をなしている。ラッセルの本は、一九二〇年の彼自身の訪問の後で出版された。ラッセルの本はソビエト体制への強い嫌悪以外の何ものも表現していなかった。彼もまたキリスト教と比較しているが、しかしまさに彼の軽蔑の念を表現するためのものであった。

自由な知性が人間の進歩の主要な推進力であるというのが私の確信であるが、そう確信する者は、ローマ教会に反対ではありえないと同様にボルシェビキに基本的に反対ではありえない。共産主義を信奉したいという希望は、主として山上の垂訓を信じる人たちと同様に称賛に値するが、しかし彼らは熱狂的で、しかも多くの害を与えるとさえみなされている。

 ソビエト・ロシアへのウィトゲンシュタイン自身の関心は、ラッセルの本の刊行の直後から始まっている──ラッセルがソビエトを非常に嫌っているのであれば、ソビエトには何か優れたものがあるに違いないとでも彼は考えていたかのようであった。一九二二年(この年に、彼は「ロシアへ逃亡したらどうか話し合ったこと」についてエンゲルマンへ手紙を書いた)以来、ウィトゲンシュタインは、ケインズの言葉で言えば、「ソビエト・ロシアに優れたものを求めた」人たちのひとりであった。そして彼は一九三七年までずっとソビエト連邦で生活し、働くという考えに魅せられていたが、その年の政治情勢でそうすることができなくなった。
 ケインズは、けっして超自然的信仰ではなく、熱烈に宗教的態度(たとえば、一般人の価値と金銭愛好の害悪に対する態度)が示されている信仰としてソビエト・マルキシズムを捉えるということでは、自分を信仰者ではないと表明していたが、ソビエト・ロシアにウィトゲンシュタインが見出そうとしていたものに彼は重要な糸口を与えたと考えられる。
ウィトゲンシュタインがケインズに一九二七年十一月までにはクントマンガッセの家が完成するであろうと言っているのは、すでにその理由を説明したように、実行不可能な楽観的な見方であり、実際に彼が英国行きの申し出を考えられるようになったのは一年後であった。
 この間、彼はラムゼイを困惑させた「ボルシェビキ威嚇」を自ら見、聴く機会をもった。一九二八年三月にブラウアーは、「数学・科学・言語」という題で講演をするためにウィーンに来た。その講演にウィトゲンシュタインはワイスマンとファイグルと一緒に出席した。その後で、三人は一緒にコーヒー店で数時間過ごした。ファイグルは報告している。

……その夜ウィトゲンシュタインを襲った変化を見ることになったのは魅力的であった。……彼は異常なまでに雄弁になり、そして彼の後期の著述の発端となった構想の概要を語り始めた。……その夜がウィトゲンシュタインの強力な哲学的関心と活動への復帰を記すこととなった。

 ファイグルの報告から、ウィトゲンシュタインが突然にブラウアーの直観主義に転向したと推測することは間違いであろう──ブラウアーの講演を聴いたことが彼に刺激を与えたことは疑いえないし、そしてその後の数年間に発展することとなった種子を植え付けられることとなったと言って差し支えないであろうが。ウィトゲンシュタインがブラウアーの思想を知っていたという証拠は、彼の初期の著述からは見出せない。ラムゼイが一九二五年の論文において彼について言及しているのが、ウィトゲンシュタインがブラウアーのことを聞いた最初であったと言えよう。しかしブラウアーへの言及は一九二九年以降なされている──一九三〇年にラッセルがウィトゲンシュタインの業績の報告を求められたときには、はっきりとなされており、ラッセルが明らかに有害な影響であるとみなしたものがそれである。

……彼は無限について多く語っています。それはつねにプラウアーが言ってきたことと同じになる危険にさらされていますし、そしてこの危険が明白になったときには、いつでもそうならないように引き留めなければなりません。

 しかしながら、その講演の後でのウィトゲンシュタインの興奮はプラウアーとの見解の一致にあったが、それと同じぐらい不一致に関わらなければならなかった、と言えるようである。その講演には、彼の初期と後期の仕事の両方において、ウィトゲンシュタイン自身の見解と一致しないものが多くあった。とくに直観主義の哲学的基礎となる「基本的な数学的直観」に関するカント的概念は、生涯のどの時期にも、ウィトゲンシュタインがまったく共鳴したことのないものであった。どちらかと言えば、実際には直観主義反対は時が進むにつれて強められた。数学の基礎に関する一九三九年の講義では、彼は「直観主義はすべてナンセンスである──完全にである」、と聴講生にきっぱりと言っている。
 それにもかかわらず、ブラウアーの見解にはウィトゲンシュタイン自身の見解と一致したいくつかの要素がみられ、それはとくにラッセルとラムゼイに提唱された見解に彼が異議を唱えたさいにみられる。これらの要素は、ラッセルが指摘した──ウィトゲンシュタインが外延における無限系列の概念についてのブラウアーの拒否を認めたようであるということを──特定の箇所以上に根深く関わっており、ラッセルとラムゼイの「ブルジョア」的精神と基本的に相違した哲学的姿勢となっている。一般的な次元では、ブラウアーの哲学的立場は、たとえば、ショウペンハウアーとつながる大陸の反合理主義者の伝統に属していると言えるのであり、ウィトゲンシュタインはそれには──カルナップが驚いたように──たいへん共感していた。(この時期にウィトゲンシュタインはシュリックの批判に対してショウペンハウアーを弁護してカルナップを驚かせた。)ラッセルとラムゼイと同様に、ウィーン学団はこの反合理主義者の伝統とまったく関わらない立場を取っていた。
 より詳細に言えば、ラッセルの論理主義と不一致なブラウアーの見解のなかにウィトゲンシュタインが共鳴するいくつかの諸要素があったのである。ブラウアーは、数学が論理学に基礎づけられるか、あるいは基礎づけられる必要があるという考え方を拒否した。さらに彼は整合的証明は数学においた はて必須であるという考え方も拒否した。また彼は通常理解されているような意味において数学の「客観性」を拒否した──つまり、ブラウアーにとって数学者が発見するものも、精神から独立したものではなく、そうした数学的実在は存在しないのである。ブラウアーの見解によれば、数学者は発見家ではなく創造者であり、数学は一群の事実ではなく、人間の精神の構成物なのである。
 これらのすべての点において、ウィトゲンシュタインは一致していた。そして彼の後期の仕事は、これらの思想を『論考』の論理的原子論から遠ざかる領域へと展開したものとして理解される。もしこの展開が彼を直観主義へ近づけなかったとしても、それはたぶん、一般的にも詳細においても、ラッセルとラムゼイに提唱された論理主義的立場からの数学へのアプローチ──たとえそれが意図されなかったにせよ、彼が『論考』において陳述した見解に導いたアプローチ──とは多くの点で不一致を明確にすることに役立った。
 ブラウアーの講演は、『論考』が間違っていたというようにウィトゲンシュタインを説得しなかったかもしれないが、彼の本が結局その主題についての最終的な言葉とはならなかったことを彼に確認させたと言えよう。事実、語られなければならないことがもっとあったのであろう。
 このようにして、一九二八年の秋、家が完成し、彼の思いがもう一度英国訪問へ向けられたとき、彼は結局哲学研究への復帰を考えるようになったのであった。こうした意図はケインズへの手紙からは明らかではない。十一月に彼はケインズにその家の写真を──「コルビュジェに」──送った。ケインズは彼の妻、リディア・ロポコーヴァへの手紙でそれを正確には記していないが、十二月に英国を訪問したいという彼の希望を知らせ、それは短い、休暇の訪問である、と言っている。ウィトゲンシュタインは「およそ二週間、ここ私のところに滞在することを望んでいる」、とケインズは書いた。「私ははたして大丈夫だろうか、恐らくしばらくのあいだ仕事をしないでも、大丈夫であろう。」
 結局のところ、ウィトゲンシュタインは十二月中病気でウィーンにとどまった。そして一月の初めに、とうとう英国へ行くことができたときに、ルイスでは(ケインズはそれほど驚きを示さなかったが)休暇を楽しむことなく、また街路を掃除する仕事も探さず、ケンブリッジに戻ると、ラムゼイと哲学の研究をし始めた。

Ⅲ 1929─1941

11 二回目の来訪

「さて、神が到着した。私は五時十五分の列車でやってきた彼に会った。」
 このようにケインズがリディア・ロポコーヴァへ手紙で、ウィトゲンシュタインのケンブリッジへの帰還を知らせた。その日付は一九二九年一月十八日であった。ウィトゲンシュタインは英国に戻ってきて、まだわずか数時間しか経っていないのに「ケンブリッジに永住する」計画をケインズにすでに知らせていた。

しばらくのあいだ私たちはお茶を飲みました。いまはあなたに手紙を書くために書斎に引っ込んでいます。疲労がひどくなっているのが分かります。しかし彼に一日に二、三時間以上は私と話をさせないようにしなければなりません。

 ウィトゲンシュタインにとって、彼自身ではたいへんな根本的な変化をもたらした歳月にも大きく変わっていない大学へ戻った体験は──そしてさらに一九一三年に去ったときにいた人たち何人かに挨拶をされた体験は 奇妙で、薄気味悪いほどであった。それは「まるで時が逆行しているかのようだった」、と彼は日記に書いた。「何が待っているのか分からない」、しかし何であれ、「そのうちそれが分かるだろう! 時間が私を見捨てないのなら。」

いまたいへん不安になっている。しかしどうしたら落ち着くのか分からない。

 彼の到着にあたり、ケインズはオーケストラを率いてウィトゲンシュタインが使徒団に戻るように歓迎会を企画した。ウィトゲンシュタインが英国に戻って二日目に、ケインズは彼の帰還を祝うために使徒団の特別夕食会を催した。そこにはリチャード・ブレイスウェイト、フランク・ラムゼイ、ジョージ・ライランズ、ジョージ・トムソン、アリスター・ワトソン、アンソニー・ブラント、ジュリアン・ベル──ケンブリッジ知識人の当時を代表する世代の花形たち が出席していた。その会合でウィトゲンシュタインは名誉会員(使徒団の言葉では、「天使」)に選ばれた。一九一二年の使徒に対するウィトゲンシュタインの態度をその会が許すという意思表示であった。その後の会合で彼は正式に「適切な時期に彼の破門は解かれると宣告」された。
 会側がこの先例のない寛容な振る舞いをした理由は、ウィトゲンシュタインがいないあいだに、彼がケンブリッジのエリートたちのあいだでほとんど伝説的な人物となり、『論考』が知的階級の社交の議論の中心となっていたからであった。
 しかしもし使徒たちがこの「神」を自分たちのものと呼ぼうとしたら、彼らは失望することになるのであった。ウィトゲンシュタインは数回その会合に出席した。そしてゴードンスクエアにあるケインズの家でのディナーパーティーで、彼はそのロンドンの支部と目されたもの──つまりブルームズベリー・グループの何人かと接触した。しかし英国人特有の、自意識の強い「洗練された」ブルームズベリーや使徒たちの審美主義と、ウィトゲンシュタインの厳格な禁欲的感受性と、ときには容赦ない誠実さとのあいだにはほとんど共通な基盤がなかった。両方の側がショックを受けた。レナード・ウルフは、昼食の席でリディア・ケインズに対してウィトゲンシュタインが「粗暴なやり方」で振る舞ったとき、肝をつぶすほど驚いたことがあったと回想している。別の昼食の席上、ウィトゲンシュタインは立って歩き、ご婦人たちの前でセックスのことをあからさまに話し出し、ショックを与えた。明らかにブルームズベリーの雰囲気は彼がくつろげるようなものではなかった。フランシス・パートリッジは、彼女が交わったベル夫妻、ストレイチー夫妻、スティーヴン夫妻とは対照的に、ウィトゲンシュタインが異性の同席者たちと重要な問題を話し合うことができなかったかあるいは好まなかった、と記している。「男女が混じっている席では、彼のお話はしばしば極端につまらなかった。それに冷やかな微笑をしながら、気の抜けたジョークで飾っていました。」
 ケインズのパーティーの一つで、ウィトゲンシュタインとヴァージニア・ウルフが顔を合わせていた可能性もある。もし実際に顔を合わせていたとしても、どちらも相手に大きな印象を与えなかったようである。ヴァージニア・ウルフの死後、ウィトゲンシュタインはラッシュ・リースに彼女の生い立ちの影響について語った。彼によれば、彼女は人間の価値がものの書き方とか、あるいは芸術、音楽、科学とか政治における卓越さを尺度にはかれるような家庭に育ち、その結果、自分に対してその他の「業績」があるのかどうかを尋ねるようなことは一度もなかったというのであった。このことは彼が彼女と個人的な面識があったとも、また他人から聞いたことかとだとも、どちらにもとれる。ヴァージニア・ウルフの日記にはウィトゲンシュタインに関する言及はない。ただ彼女の手紙には彼について若干付随的にふれているのがある。それらの一つの手紙のなかで、つまりウィトゲンシュタインがケンブリッジに着いて数か月後に書かれたクライブ・ベルへの手紙に、彼女は彼のことをベルの息子ジュリアンと結びつけて書いている。

……ジュリアンは、メイナードによれば、疑いなくキングズで最も重要な学生です。そしてフェローシップさえ得るかもしれませんし、メイナードは彼と彼の詩を非常に高く評価しているようです──ついでですが、ジュリアンはウィトゲンシュタインのことでメイナードと論じ合ったが、負かされたと言っています。

これに関連して興味があることと言えばつぎのことだけである。つまり、『ヴェンチャー』というアンソニー・ブラントの学生雑誌に載った長たらしいドライデン風の諷刺詩において、誰かがウィトゲンシュタインの威圧的な、議論好みのスタイルを洗練されない粗野な人間とみなし始めたことを書いたのに対して、一種のブルームズベリー的当意即妙に応えたのがジュリアン・ベルであった、ということである。
 詩のなかで、ベルは、「価値は心の状態において知られ、見出される」というブルームズベリーの綱領を、そのような命題はナンセンスであるという『論考』の見解に反対して擁護している。ウィトゲンシュタインは、明らかに自分自身の規則を破っている、とベルは論じている。

なぜって、ナンセンスを語り、おびただしい命題をつくりだし、
いつもいつも自分が立てた沈黙の誓いなどは糞くらえでさ、
日夜、倫理学だ、美学だ、と語ってばかり、
何が善か悪か、正しいか間違いかと問いただすからさ。

ウィトゲンシュタインは、人は沈黙しなければならない、と主張しているこれらの事柄について語っているばかりではない。彼はそれらについての語りすべてを支配している。

……どんな問題にだってさ、ルートウィヒがその法則を
口に唱えなかったのを見た者は一体全体いるのか。
誰と一緒になってもさ、彼は私たちを大声で黙らせ、
どもり声をあげてさ、俺たちの話を止めさせる。
止むことなく、荒々しく、苛立って、大声で、論じ、
自分が正しいと信じ切って、己れの正しさを自慢するばかり、
誰にだって、こうした欠点は、多少はあるさ、
権威ぶった言い方はウィトゲンシュタインの隠れ蓑。

この詩はフェローの使徒、リチャード・ブレイスウェイトへの書簡体という形で書かれ、そして若い耽美主義者の使徒の多くの見解を代弁した──「このジュリアン・ベルの奴ども」、とウィトゲンシュタインは彼らを軽蔑して呼んだ──彼らのあいだでその詩はおおいにもてはやされた。それが公表されたとき、ファニア・パスカルはつぎのように言っている。「最も優しい人たちは笑いを楽しむ。笑いは蓄積された緊張、憤慨、恐怖さえも解きほぐす。というのは、誰もウィもトゲンシュタインに一矢を報いることができなかったし、本質的に仕返しできなかったからであった。」

こうしたことでウィトゲンシュタインが使徒たちに全面的に背を向けなかったとしたなら、それは主として使徒たちのなかにフランク・ラムゼイがいたからだった。ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻った最初の年ずっと、ラムゼイは哲学の議論においてウィトゲンシュタインの最も価値あるパートナーであったばかりでなく、彼のいちばんの親友であった。到着後二週間、彼はモーティマー・ロードにあるラムゼイの家で、その家族と一緒に生活した。ラムゼイの妻、レティスは、すぐに親しく打ち解けて話し合える友となった──「ついに野蛮人のハンターの獰猛さを宥め友るのに成功した」女性、とケインズは言った。彼女はこくのあるユーモアの感覚と地についた正直さを持ち合わせていたので、彼をリラックスさせ、彼の信頼をかちとることができた。彼は彼女とだけは彼のマルガリートへの愛について話し合うことができると思っていた。フランシス・パートリッジが夫ラルフへ宛てた手紙からは、ふたりの信頼関係はそれほどうまくはいっていなかったようである。

私たちはウィトゲンシュタインについてたくさんのことを理解しました。彼は、ウィーンの女性と恋仲にあるとレティスに告白しているが、彼は結婚が神聖なものと思っており、そのことを軽々しく話すことができないでいます。

 ここで驚くことは、彼が結婚のことを軽々しく話せなかったということではなく、結婚のことを話すことができたということである。彼はこの時期にマルガリートに定期的に、頻繁に、時には毎日手紙を書いていたが、しかし彼が彼女を妻にしようと考えていたのを彼女が知ったのは、およそ二年後であった。それを知ると、彼女は早急に身を引いてしまった。彼の注目を引いたことには満足していて、そして彼のパーソナリティーの強烈さに圧倒されたけれども、マルガリートは、夫として期待していたような特性をウィトゲンシュタインのなかに見出せなかった。彼はあまりにも禁欲的で、あまりに注文が多すぎた。(そしていささかユダヤ的なところがあると思った。)その他に、自分の気持ちを述べたさいに、変はまたプラトニックな、子供のない結婚を念頭においていることを明らかにした──そのことは彼女には向かなかった。
 ケンブリッジでの最初の二年間、ウィトゲンシュタインの公的な身分は、博士の学位をとるための「編入学生」という身分であった。十七歳年下のラムゼイが彼の指導教師であった。実際には彼とラムゼイは対等な立場で同じような、あるいは関連した問題について、おたがいに批判、ガイダンス、激励をしながら研究をしていた。週に五、六度彼らは数学の基礎と論理学の本質を論ずるために一度に何時間も会っていたのであった。ウィトゲンシュタインはこれらの会合を「愉しい議論」、と日記に記している。「それらは何か遊びに似たところがあって、愉快な気分で続けられていると思う。」そこにはエロティックと言っていいものがあった、と彼は書い彼ている。

誰かが私の口から私の思想を引き出し、それから、いわばそれらを外に拡げるときほど、私には愉しいことはない。

「私はひとりで学問の領域を散歩したくない」、と彼は付け加えている。
 これらの議論でのラムゼイの役割は、その他のどの指導教師とも同様であった。つまりウィトゲンシュタインが述べたことに異論を唱えることであった。『探究』の序文に、ウィトゲンシュタインは──「私はほとんど評価できないほど」──『論考』の間違いを認めるのにラムゼイの批判に助けられたと述べているが、しかし当時の日記の記入には、彼はそれほど恩恵を受けていないという見解を取っている。

良き反対は人を良き方向に役立てる。浅薄な反対は、たとえ、それが正しいとしても、疲労させる。ラムゼイの反対はこの種のものである。その反対は、生が成り立っているその根元から事柄を捉えず、たとえ間違っていることでも、何一つ正すようなことがないほど遠く外れている。良き反対は直接に解決へ役立つ。浅薄な反対はまずもって克服されなければならない。そしてその後で、脇に取り残される。樹木が生長するために、幹のこぶのところで曲がるのと同じようにである。

 おたがいに計り知れないほど尊敬はしていたけれども、ラムゼイとウィトゲンシュタインとのあいだには、知的にも気質的にも大きな違いがあった。ラムゼイは数学者で、彼の主題の論理的基礎には飽き足らず、確固たる原理に基づいて数学を再建しようとした。ウィトゲンシュタインは数学の再建に関心をもっていなかった。彼の関心は数学から生じる混乱の哲学的根を取り出すことにあった。このようなわけで、ラムゼイはウィトゲンシュタインのインスピレーションを当てにし、ウィトゲンシュタインはラムゼイの批判を当てにしていたが、欲求不満は避けられなかった。ラムゼイはあるときウィトゲンシュタインにぶっきらぼうに話したことがあった。「私はあなたの議論の方法が好きではない。」他方、ウィトゲンシュタインはすでに引用した所見のなかでラムゼイについて書いている。つまり彼は「ブルジョア思想家」であり、真の哲学的省察となると、「その成果(もし哲学的省察に成果があるとすればであるが)を脇におき、それをトリヴィアルなものだと言うまでは」落ち着くことができない、と書いている。
 ケンブリッジに戻ったこの最初の年に、ウィトゲンシュタインの発展に深遠な影響を与えたのは、「非ブルジョア」思想家ピエロ・スラッファであった。スラッファは優れたイタリアの経済学者(広義のマルクス信奉者)、投獄されたイタリア共産党の指導者アントニオ・グラムシの親友であった。ムッソリーニの政治を攻撃する出版で故国において彼の活動が危険にさらされた後で、スラッファはキングズで仕事を継続するようにとケインズから招待されていた。そしてケンブリッジでの経済学の講師職が彼のために特別に設けられた。ケインズに紹介されるとすぐに、彼とウィトゲンシュタインは親友になった。そしてウィトゲンシュタインはスラッファと議論をするために、少なくとも週に一度会うように取り決めた。これらの会合は彼にはラムゼイとの会合よりもずっと価値あるものとなった。『探究』の序文で、彼はスラッファの批判について書いている。「この本の最も稔り豊かな構想はこうした激励の賜物である。」
 これは大げさな主張であり、そして──ふたりの知的関心が大いに違っていることを考慮に入れると──謎めいた主張である。しかし彼らがそれほど稔り豊かでありえたのは、まさにスラッファの批判が詳細にまで立ち入っていたからであった。(彼が哲学者でも数学者でもなかったゆえとも言うこともできよう。)ラムゼイとは違って、スラッファは、あれやこれやの細かな点ではなく、彼の全体の展望に関してウィトゲンシュタインに再考させる力をもっていた。このことを例証する一つの逸話がある。それはウィトゲンシュタインがマルコムとフォン・ウリクトとの両人に話し、そのとき以来何度も繰り返し語られてきたものであった。それは、ウィトゲンシュタインが命題と命題が表現している事柄は同じ「論理的形式」(あるいは、その話の改訂版によれば、「文法」)を表現していなければならないと主張した会話に関するものである。この考え方に対して、スラッファは指先で顎をこするナポリ人特有のジェスチャーをし、そして尋ねた。「その論理的形式は何か。」その話によれば、この発言によって、命題はそれが表現する実在の〈像〉でなければならないという『論考』の考え方をウィトゲンシュタインは主張するのを断念した。
 この逸話の重要性は、それが意味の写像理論をウィトゲンシュタインが破棄した理由を説明しているのではなく(というのは、それは実際に説明していないからである)、ウィトゲンシュタインが新しい展望に立って新たに事態を見るようにスラッファがさせたその方法にみられるのである。ウィトゲンシュタインは、スラッファとの議論ですべての枝が切りとられた木のように感じたと、多くの友人たちに語った。そのメタファーは周到に選ばれている。つまり枯枝が切りとられることによって、より生き生きと新たに枝を伸びるようにさせたということである。(一方ラムゼイの反対は、その周りをとりまくものを含めてその木を歪め、枯木にした。)
 ウィトゲンシュタインは、スラッファとの話し合いから得た最も重要なことは哲学的諸問題を見ている「人間学的」方法であったと、ラッシュ・リースに話したことがあった。この発言は、なぜスラッファが非常に重要な影響を与えたと信頼されているか、ということの説明に相当な効力をもつ。ウイトゲンシュタインの後期の研究が『論考』と異なっているその最も顕著な方法の一つは、その「人間学的」なアプローチにある。つまり、『論考』は言語が用いられている環境とは孤立して言語を取り扱っているのに対して、『探究』は言語的発話に意味を与える「生の流れ」の重要さを繰り返し強調しているのである。たとえば、「言語ゲーム」はそれを演ずる「部族」の諸活動と生活方法に言及せずには記述されえない。もし展望のこの変化がスラッファにあるとすれば、後期の研究に対する彼の影響は実に最も基本的な重要性をもつのである。しかしこの場合において、その影響が実を結ぶには数年間が必要とされなければならなかった。なぜなら、ウィトゲンシュタインの哲学的方法である「人間学的」特徴は一九三二年頃になってはじめてあらわれるようになるからである。

ラムゼイとスラッファのことは別にして、ウィトゲンシュタインはケンブリッジでは学監ドンとほとんど関わらなかった。最初の数週間が過ぎると彼とケインズとの関係は用件のみに大幅に限定された。そしてケインズはウィトゲンシュタインが公的な諸問題を処理することが必要なときにはいつも、計り知れないほど貴重な援助者となったけれども、彼は親友とはならなかった。ウィトゲンシュタインの友人であることは、ケインズが与えることができたこと、あるいは与える用意があったことよりもより多くの時間と労力を要するので、この方がケインズには気楽で非常に都合のいい役割であったのであろう、と推測される。
 G・E・ムーアは、ウィトゲンシュタインがケンブリッジに最初に到着したときに、ウィトゲンシュタインと同じロンドンからの列車に乗り合わせて偶然に会った。そしてウィトゲンシュタインが一九一四年にムーアへ失礼な手紙を書いて以来途絶えていた彼らの友情をただちに取り戻した。ムーアはこのときにはすでにケンブリッジの哲学の教授になっていて、ウィトゲンシュタインが研究を続けられる認可の取り決めにあたって責任をもって引き受けた。しかしこれ以外に、彼らの友情関係は、哲学的というよりも個人的であった。ウィトゲンシュタインはムーアの表現の正確さを賞賛し、ある特定のことを明確にしたいと望んで、それにふさわしい正確な語を見つけるために、時折ムーアの表現を利用したけれども、彼を独創的な哲学者として敬うことはほとんどなかった。「ムーアですか」──彼はかつて言ったことがあった「彼はまったく知性をもち合わせていない者でも結構やっていけると教えてくれますよ。」
 同様にこの頃もう相当年輩になっていた論理学者、W・E・ジョンソンに関して彼の以前のケンブリッジ時代にいたジョンソンとは別な人物──ウィトゲンシュタインは、ふたりのあいだには知的な距離があったにもかかわらず、愛情のこもった友情を維持した。ウィトゲンシュタインはジョンソンを論理学者としてよりもピアニストとして賞賛し、彼の演奏を聴くためにいつも彼の日曜日の午後の「パーティー」に出席した。ジョンソンはウィトゲンシュタインを好き」で賞賛したけれども、彼の帰還を「ケンブリッジの災難」と考えた。ウィトゲンシュタインは、彼に従えば、「議論を続けていくことのまったくできない人間」であった。
 四〇回目の誕生日に近づいていたが、ウィトゲンシュタインは、モラル・サイエンス・クラブに出席していたケンブリッジの若い世代──(非 - 使徒たちの)学生──の多くを彼の友だちの仲間に入れた。ファニア・パスカルに従えば、ウィトゲンシュタインは自分の弟子に必要な特性として、子供のような無邪気さと第一級の頭脳の二つを考えていたが、哲学の社会へ入ったこうした学生は「英国の中流の子弟たち」であった。そのとおりかもしれないが、私はウィトゲンシュたタインがその若い世代と共通したものをもっていたということも事実である、と考える。ウィトゲンシュタイン自身が、ある意味ではたいへん若かった。彼は青年のようにさえ見え、四十歳のときにもしばしば学生と間違われた。しかしこのこと以上に、彼は若者の知的な新鮮さと柔軟性をもっていた。「精神は」、と彼はドゥルーリーに語った。「身体がこわばるずっと以前にこわばる。」この意味では、彼は依然として青年で、こわばってしまったようなことは彼のメンタルな面ではほとんど見られなかった。彼は、これまでに達したすべての結論を徹底的に点検する覚悟で──思考の新しい方法ばかりではなく、新しい生き方さえも考える覚悟で──ケンブリッジに戻ってきたのであった。それゆえ彼は依然として、他の学生たちと同様にある特定の生き方を定められないでいたのであった。
 ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の著者であると聞いていた多くの人たちは、彼を年老いた、威厳あるドイツの学者というイメージをもっており、モラル・サイエンス・クラブの会合で出会った、若々しく、攻撃的で、活力のある人物とは思っていなかった。たとえば、その後でウィトゲンシュタインの友人、賞賛者の仲間のひとりになったS・K・ボースは回想している。

ウィトゲンシュタインと私の最初の出会いは、私が「道徳的判断」という論文を発表したモラル・サイエンス・クラブの会合のときであった。そこにはかなり多くの出席者がいて、何人かがカーペットの上に座っていた。彼らのなかには私たち全員(もちろん、ムーア教授とたぶん他にシニアのひとりが出席していたのを除いて)に、見知らぬ人がひとりいた。私が論文を発表した後で、その見知らぬ人が、後ほどウィトゲンシュタインだと分かった。あの奥歯にものを入れない言い方で(しかしけっして思い遣りがないのではない仕方で)、いくつかの質問をし反論した。私は、それからまもなく私の対話者が誰であったのかを知り、そして彼の質問と反論に対して私がいかに横柄であったかを反省し、恥ずかしく思ったことを後々まで忘れなかった。

 ウィトゲンシュタインがモラル・サイエンス・クラブの議論をあまりにも完全に支配するようになったので、道徳哲学の教授、C・D・ブロードが出席しなくなった。彼は後ほど、「タバコの煙がもうもうとするなかで、毎週何時間も過ごす」気にならなかった、と語っている。一方、ウィトゲンシュタインは時間厳守に骨折り、時間厳守に忠実であろうとする人たちは、彼を「驚き、恥入った態度で称賛」した。
 ウィトゲンシュタインの友人の学生のサークルの他のメンバー、デズモンド・リーは、若い人たちとの議論を好み、若い人たちに与えた、しばしば気の遠くなるようなウィトゲンシュタインの努力に対して彼をソクラテスに喩えた。両者とも、彼らの呪文にかかった人たちにほとんど催眠術のような影響力をもっていた、と彼は指摘している。リー自身は、彼がケンブリッジを去ったときに、この呪文から解き放たれた。それゆえ彼はウィトゲンシュタインには深い影響を受けたが、正確には弟子とは言えない。しかし彼の同輩のモーリス・ドゥルーリーは、ファニア・パスカルが記している若い弟子のなかで、恐らく最も完全な弟子の典型となった。
 一九二九年にウィトゲンシュタインに最初に会って以来、ドゥルーリーの生涯におけるほとんどすべての重大な決定は、彼の影響のもとでなされた。彼はもともとケンブリッジを出ると、英国国教会の牧師となるつもりであった。「私がこのことを一瞬たりとも嘲っているとは考えてはいけない」、とウィトゲンシュタインはその計画を打ち明けられたときに語った。「しかし私は賛成できない。そうだ。私は賛成できないのだ。いつかあの服のカラーがきみを窒息させることになるのを恐れるのだ。」これは彼らが二回目か、あるいはもしかすると三回目に会ったときのことであった。そのつぎに会ったときには、ウィトゲンシュタインはその話題に戻った。「ドゥルーリー、毎週説教をしなければならないのがどういうことなのか、よく考えるのだよ。きみには説教はできないよ。」神学のカレジで一年学んだ後で、ドゥルーリーは同意した。そしてウィトゲンシュタインに勧められ、その代わりに「普通の人々」のなかで仕事をした。彼は失業者を助ける事業に携わった。最初はニューキャッスルで、その後サウス・ウェールズで、その後ふたたびウィトゲンシュタインに勧められて、彼は医師としての養成を受けた。戦後彼は精神医学(ウィトゲンシュタインが勧めた医学の一部門であった)を専門とし、一九四七年から一九七六年の彼の死まで、ダブリンのセント・パトリックス病院で、最初は精神科医のでレジデントとして、それからシニア・コンサルタントの精神科医として勤めた。精神医学における哲学的諸問題についての彼の評論集、『言葉の危機』は一九七三年に出版された。たいへん杜撰ではあるが、それは恐らくその語調とその関心において、ウィトゲンシュタインの教え子たちが出版した著述のなかで、最もウィトゲンシュタインに忠実な著述である。その序文において、彼は「いま私はなぜこれらの論文をまとめるのか」と問い、それに答えている。

理由はただ一つしかない。これらの著述の著者はかつてルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの教え子であった。ところで、ウィトゲンシュタインが、教え子たちにアカデミックな哲学からある特定の職業について積極的に学び、それを実践することを勧めた(少なくとも彼が哲学の才能に偉大な独創性がないとみなした教え子たちに)ことはよく知られている。私自身の場合は彼は医学に進むように強く勧めた。彼が私に教えたことを私が活用すべきではないというのではなく、むしろいかなることがあっても私が「考えることを断念」すべきではないという理由からであった。それゆえ、私がこれらの評論を躊躇しながらも出版したのは、より深淵な哲学的な難問を熟考すると同様に、直接的に実際に遭遇した困難な問題にも立ち向かわなければならないような人間のことを考えることで、ウィトゲンシュタインが与えた影響の一例を示したかったからである。

 同様に、死の直前にドゥルーリーはウィトゲンシュタインとの会話に関するメモを出版した。それは、「彼の著述が大いに戒めていたその知的環境そのものに、彼の著述が現在安易に同化されたことを明らかにしているような」、「善意からやっている解釈者たち」の影響力をなくすために出版されたのであった。これらのメモ──たぶん他のどの二次的資料以上のもの──は、ウィトゲンシュタインの生涯と業績を知らせる精神的で道徳的な態度に関する情報を提供している。ドゥルーリーは、ウィトゲンシュタイン研究が薦めている大多数のアカデミックな文献で扱われていないし扱われえないウィトゲンシュタインの影響の重要な局面があることを例証する最初の弟子であって、最後の弟子なのではない。使徒伝道の後継者の列は、アカデミックな哲学の境界を遥かに越えて広がっている、とでも言えよう。
 ウィトゲンシュタインの最も親密な学生の友人のひとりは、事実、哲学一般にまったく関心をもっていなかった者であった。ギルバート・パティソンは一九二九年のイースター休暇後ウィーンから列車で戻る途中でウィトゲンシュタインに会った。それから一〇年以上のあいだ、ふたりは愛情のこもった、厳密に言って非 - 哲学的な友情を楽しんだ。その友情は第二次大戦の混乱した時期に終わりとなった。ウィトゲンシュタインが戦争に対して国粋主義的態度を取り始めたパティソンを疑い始めたのであった。パティソンは(実際に)穏和で、機知に富み、かなり世俗的な性格で、パスカルに記された無邪気で、内気すぎるような弟子たちとはまったく違っていた。ケンブリッジで学業(学問的な努力とそれへの傾倒は最低限にして)を終えると、彼はロンドン市で公認会計士となり、彼の階級、養育、教育に見合う快適な生活を送った。彼とはウィトゲンシュタインは、フランシス・パートリッジが取るに足らない、貧弱なユーモアと記し、ウィトゲンシュタインの方はたんに「ナンセンス」と呼んだが、その趣味を楽しんだ。「長々とナンセンスを語る」ことができる者と共にすることは、心の底からの欲求だったと彼は言っている。
 ケンブリッジでは、パティソンとウィトゲンシュタインは『タートラー』〔steele と Addison とが共に週三回ずつ発行した雑誌、ずたずたとか、ぼろ切れという意味〕のような雑誌を一緒に読み、それが「ナンセンス」を豊富に補給してくれるのを楽しみ、とくにこういった雑誌に載っている滑稽な広告を楽しんだ。彼らはまた「満ち足りた読者からの手紙」の熱心な読者であった。これはバートンの「趣味の仕立て屋」のウインドーによく飾られていたものであった。パティソンとウィトゲンシュタインは、ウィトゲンシュタインの衣服を買うためにショッピングの旅に出かけるたびに、その飾り窓に大げさな振る舞いをして楽しんだ。(ウィトゲンシュタインはいつも同じものを着ていた──開襟シャツに、灰色のフランネルのズボンに、重い靴──とたいていの人たちは思っていたかもしれない。しかし実際にはこれらのものは細心の注意を払われて選ばれていた。)
 パティソンがケンブリッジを去った後で、彼とウィトゲンシュタインは、ウィトゲンシュタインが彼らの「儀式」と記していることを挙行するために、ウィトゲンシュタインがロンドンを通過するときには(しばしばウィーンへ行く途中とか帰り道とかに)いつも会っていた。レスタースクエアにある大きな映画館の一つで映画をみた後、ライアンズ〔ロンドンの簡易食堂チェーン店の名前〕でお茶を飲むことになっていた。ロンドンに到着する前に、ウィトゲンシュタインはバティソンに、彼が必要な準備をしておくことができるように──つまり、「いい」映画を上映している映画館を『イブニング・スタンダード』紙に探すこと──、いつ到着するのか知らせるハガキを出した。ウィトゲンシュタインのセンスでは、いい映画はアメリカの映画で、それも西部劇か、あるいは後年ではミュージカルかロマンティックなコメディであった。しかしいつも芸術気取りとか、知的な気取りのないものであった。この儀式のためには、その街でのパティソンの仕事は二の次にされたことが分かる。「きみはきみのオフィスで忙しく身体を動かさないでほしい。」パティソンが仕事がつまっていると訴えると、ウィトゲンシュタインは言った。「ビスマルクだって代えられることを忘れてはいけない。」
 パティソンとウィトゲンシュタインの交信はほとんどすべて「ナンセンス」からなっていた。ほとんどどの手紙にも、彼は形容詞「こん畜生のブラッド」という語を用いている。彼はこの語をある理由から計り知れないほど滑稽だと感じていた。彼は手紙の書き出しを「親愛なる懐かしのこん畜生ブラッド」、結びの語を「あなたのこん畜生にブラッドリー」あるいは「こん畜生ブラッドニス」と書いた。パティソンは雑誌から切りとった写真を、彼を描いた「絵」と呼び、それを彼に送った。それに対してウィトゲンシュタインは誇張してまじめくさった鑑賞をして応えた。「私はそれを署名がなくともただちにパティソンのものであると分かる。それには筆でこれまでまったく表現されていない、かのこん畜生ブラッドニスがいる。」お返しに、ウィトゲンシュタインは「いくつかの肖像」、つまり独習の教養講座の新聞広告から切りとった中年の男たちとはっきり分かる写真を送った。「私の最新の写真だ」、と彼はその写真を同封し、「この前の写真は父親らしい優しさだけだったが、今度の写真は勝利の喜びを表現している」、と告げている。
 この交信をとおして、新聞広告の言葉をやんわりと嘲笑し、そしてあたかもそれがふたりの友人には通常の手紙のやりとりをしているかのように、その言葉を単純に用いることによってそのスタイルの馬鹿さ加減を引き出している。ウィトゲンシュタインへ自分の(本物の)写真を送り、その裏にパティソンは、「この裏側に私たちの四七シリング六ペンスのスーツの一つが写っている」、と書いている。「何となく」、とウィトゲンシュタインはある手紙の最後に書いている。「ツー・スティープル社のナンバー八三、良質ソックスは本物の男のソックスだと本能的に感じとれる。それは趣味のいいソックス──はきやすく、当世風で、快適──である。」他の、手紙の追伸に、と彼は書いている。

きみは近日、私のお蔭で有名なヘアオイルのグロストラの無料のサンプルを手にして、いつもよく髪の整った紳士にふさわしい艶々とした光沢のある髪を保ち続けることだろう。

パティソン宛のウィトゲンシュタインの手紙に含まれているジョークのいくつかは、ほんとうに驚くほどお粗末である。〈W・C・1〉で終わる住所を封入し、彼は〈W・C・〉に矢印をつけ、「これは〈便所〉のことではない」、と書いている。そしてダブリンのキリスト教会大寺院の絵はがきの裏側に、彼は書いている。「もし私の記憶が正しければ、この大にる寺院は、少なくとも一部はノルマン人によって建てられた。むろんそれはずっと昔のことであり、私はその当時どうであったのか記憶にない。」

それからケンブリッジでの数か月のうちに、ウィトゲンシュタインはかなり広範囲の友人関係を確立した。そうしたのは、間違った社会に復帰したのではないか、という彼のいくぶんの懸念のあらわれでもあった。しかし彼はケンブリッジでは外国人であるという感覚を、つまりパウル・エンゲルマンとかルートウィヒ・ヘンゼルのような人間──彼が母国語で自分の内奥の思想と情念とを話し合うことができ、確実に彼を理解するような人間──が欠けているという感覚をもち続けた。恐らくこのために、彼はケンブリッジに戻るとすぐに、『論考』が出版されて以来、中断していた習慣を取り戻すことにした。つまり彼はノートに個人的な、一種の日記をつけ始めたのであった。以前のように、それらは彼が子供のときに用いていた符号で書かれていて、哲学上の記述とは区別されている。最初期の記入の一つに、彼は、「非常に長いあいだ、ノートに記入する必要性をみじんも感じたことはなかった」のがなんと奇妙なことかと記し、記入し始めることになった経緯をたどっている。ベルリンで、彼が自分自身についてのさまざまな思索を書きつけ始めた頃、彼自身についての何かを残しておきたいという欲求が生じたのであった。それは重要なステップであった。そこには虚栄とか(ケラーやピープスの)模倣もあったけれども、それでもなおほんとうに必要な事柄が十分に書かれていた。つまりそれは彼が打ち明けられる人の代わりとなるものであった。
 ウィトゲンシュタインはケンブリッジの人たちと完全には打ち解けることができなかった。というのは、彼は人々が恐らく気づいていた以上にずっと鋭敏に、言語や文化の相違を意識していたので、全面的に自分が理解されていると確信できなかったからである。誤解が生じるたびに、彼はそれを言語や文化の相違にする傾向があった。「ある言明について私ときみが言っている意味は同じではないようだ」、と彼はこうしたある誤解があった後でラムゼイに手紙を書いていた。「もしきみが一度ある期間のあいだ外国人のなかにいて、彼らに依拠した生活をすれば、きみは私の苦労が理解できるだろう。」
 自分を理解してくれない人たちに依拠しているという思いは、彼に激しい苦悩を引き起こした。金銭が絡んだ場合にはとくにそうであった。一九二九年五月に、彼はケインズに長い手紙を書き、これらのさまざまな悩みごとについて説明ををしている。「どうか批判する前に、理解しようとしてくださしい」、と彼は嘆願した。「外国語で書くことはそのことをいっそう困難にします。」彼はケインズが彼との会話にうんざりしている(見てきたように、ある正当な理由から)と確信するようになった。「どこかで私がそのように思っているというようにはどうか考えないでください!」、と彼は書いた。「どうしてあなたは私にうんざりしないわけがあるでしょうか、私はあなたをもてなしたり、楽しませたりできるとは一瞬たりとも思っていません。」財政的援助を得るために、彼の友情を得ようとしたとケインズが考えているのではないかと懸念して悩んだ。この不安と、英語を話す場合に誤解されるという不安で、彼はまったくありもしないことに恐怖を抱いたのであった。

今学期の初めに、私はあなたに会いにいき、お借りしていたお金を返そうとしました。私の話し方がまずくて、私はそれを返すよりも、「まずお金の問題を解決したい」、あるいはそうした主旨のつもりで、「おお、まずお金がほしい」、と言ってしまったのでした。しかしあなたは当然に私を誤解し、その結果私が一部始終読み取れるような顔をしました。その後のことは、会[使徒団]に関する私たちの会話のことを言っていますが、あなたがご自分のなかに集積した私に対する反感のすべてを、私にあらわしたのでした。

 しかしケインズが友人というよりはむしろ援助者として自分をみなしていたと考えていた点、恐らくウィトゲンシュタインは正しかった。しかし彼は強調した。「私は友人以外から施しを受けたくありません。(そのことが、私がサセックスで三年前にあなたの援助を受けた理由でした。)」彼はつぎのように結んだ。「どうぞあなたが簡潔で、親切な答えを書くことができるまでこの手紙に応えないでください。私は自分がどう考えているかをあなたに知らせようと書きましたが、あなたからの説明をもらうために書いたのではありません。ですから、もしあなたが三行で私に親切な返事ができなければ、返事のない方が私にはいちばんうれしいのです。」これに対するケインズの返事は傑作で、臨機応変で感受性の豊かさを示している。

親愛なるルートウィヒ
あなたは何と気違いじみているのでしょうか! もちろんあなたがお金のことについて言われていることにはひとかけらの真実もありません。手形を現金に引き替えるとか、その種のことをすること以外にあなたが私に何かを欲しているとは学期の初めにはまったく思い浮かびませんでした。私がお金を差し上げるのにふさわしいと思える状況以外に、あなたが私からお金を望んでおられるなどとは思いも及びませんでした。私が先日短信であなたの財政のことに触れたときには、あなたがたいへん予期しない支払いに悩まされていると聞いたからでした。もしそのとおりでしたら、あなたが最初やってこられたとき、私があなたにそれとなく言っていたと思っていたこと、つまりある援助がトリニティから恐らく出る可能性があることを調べようとしました。ひとりで何かをすることが私にとっていいことなのかどうかと熟考しました。そして結論として、止めたほうがいいのではないかと判断しました。
 いいえ──私たちがこの前に会ったとき、私がかなり不機嫌に話したのは「恨みごとを含んでいた」からではありません。あなたに個人的に愛情をもって何かについて会話をするとき、うまい具合にあなたの心に真実な印象をもたらし、偽なる印象を取り除くようにするのは難しいですし、それはほとんど不可能です。そうすることで私はただ疲れて、苛立っていたのでした。その後で、あなたは私から遠ざかっていき、私の意識にあったこととあまりにもかけ離れた理由づけを作り上げたのでした。それに対して弁護するようなことは私にはまったく思いも及ばないことでした!
 真相は、私があなたとあなたの会話を愛し、楽しむことと、それによって死ぬほど神経をすり減らしてしまうこととのあいだを揺れ動いている、ということです。それはけっして新しいことではありません! 私はいつも神経をすり減らしてきました──ここ二〇年間いかなるときにも。しかし「恨みごと」「不親切」とは──もしあなたが私の心のなかを見ることができさえすれば、まったく違ったものを見るでしょうに。

ウィトゲンシュタインとより親密な友人関係になってその緊張に自分自身を縛りつけることなく、ケインズはウィトゲンシュタインに穏やかな気持ちで彼の援助を受け入れるようにどうにかして事態をおさめた──つまり彼の援助は、友情ををもって援助者が申し出ることになったということで、すっきりとした気持ちで受け入れられるようにしたのであった。
 その種の財政的援助がなければ、ウィトゲンシュタインは哲学の研究を続けていくことができなかったであろう。彼の第二の学期の終わりには、貯蓄したものが(彼は建築家としてたぶん稼いでいたであろうから)どれだけであったにして大学の授業料を払い、自分の生活費を払うのには足りなくなっていた。トリニティからの研究助成金に応募するというケインズの提案は取り上げられたが、紛糾は避けられなかった。ウィトゲンシュタインのような裕福な家庭の者がなぜこの種の助成金を必要とするかが大学当局には理解し難いと受け取ったことから、紛料が生じたのであった。他のどこかにお金の出所がないのかとトリニティのチューターであったジェームズ・バトラー卿に尋ねられ、彼はそうだと答えた。「ところでその質問は、私が何か隠しごとをしているかのようでした」、と彼はこの面接の後でムーアに手紙を書いた。「私には裕福な親戚がたくさんいるばかりではなく、もし私が彼らに求めれば私にお金もくれます。しかし私はたとえ一文でも彼らに求めたくありません、と私が書いた申請書をあなたに受け取っていただけないでしょうか。」彼の態度は、彼がムーアへ宛てた他の手紙で説明しているように、つぎのようなものであった。

私はある仕事をすることを申し出ます。そして私は、大学が場合によっては研究助成金、フェローシップ等によってそのような仕事を奨励するという漠然とした考えをもっています。つまり私はある種の品物を提供します。そしてもし大学がこれらの品物で何かを始めることができるのでしたら、大学がそれらで何かを実際に始める限り、しかも私がそれらをほんとうに作ることができる限りですが、大学が私にそれらを作がることができるようにしていただきたいのです。

 研究助成金への彼の応募には、フランク・ラムゼイから鼻につくような援助があった。彼はウィトゲンシュタインの指導教師としての立場からそのような助成の必要性を強調した手紙をムーアに書いた。「私の見解を申しますと」、と彼は書いた。「ウィトゲンシュタイン君は私が知っている他の誰とも次元の違った哲学的天才です。」

このことは一部には問題のなかに本質的なものを見抜く彼の偉大なる天賦の才能に依っていますし、一部には彼の圧倒する知的な活力に依っていて、問題をその根底にまで追求し、けっしてたんに可能であるというような仮説には満足しないという彼の思想の強靭さによっています。他のどの人の研究よりも彼の研究から、私は哲学において一般的に、数学の基礎においては特殊的に、その両方において私を悩ましている諸困難に関しての解決を期待しています。それゆえ、彼が研究に復帰することになったことは、このうえもない幸運だと思われます。

 しかしウィトゲンシュタインがこれまで作りだした、「品物」に関するラムゼイの報告は、歯がゆいほど短かった。

この二学期間、私は彼の研究と密接に関わってきました。彼は著しい進歩を遂げたと私には思われます。彼は命題の分析にいくつかの疑問をもって始めました。それらの疑問は現在は数学の基礎に関して、今日議論となっているものの根にある無限の問題に彼を導きました。最初数学的知識と熟練を欠いていることがこの領域での彼の研究に重大な支障となるのではないかと懸念いたしていました。しかし彼が遂げた進歩は、そうではなかったということ、ここでもまた彼が恐らく第一級の重要な業績をあげるであろうことをすでに私は確信いたしています。

 「彼は現在たいへん懸命に研究に従事しています」、とラムゼイはつけ加えた。「そして私が判断できる限り、彼は立派にやっています。お金の欠乏により彼の研究が妨げられるのは、哲学にとって大きな不幸となることでしょう。」
 恐らく大学当局をいっそう納得させるために、ウィトゲンシュタインに急遽『論考』をその論文としてPh・Dが授けられた。『論考』は出版してから七年経っており、すでに多くの人たちから哲学の古典とみなされていた。試験官はムーアとラッセルであった。ラッセルはサセックスの彼の学校からケンブリッジへ、どちらかといえば不承不承に引き出された。彼は一九二二年にインスブルックで会って以来、ウィトゲンシュタインとはまったく接触がなかった。彼は当然にも懸念していた。「私は」、と彼はムーアに書いた。「ウィトゲンシュタインが私についての見解を変えていない限り、彼は私が試験官になることをあまり好まないのではないかと思います。私たちがこの前会ったとき、彼は私がクリスチャンではないということにたいへん悲嘆し、それ以来彼は私を避けています。私はこのことによる苦悩が少なくなったのかどうかは分かりません。しかし彼からそのとき以来私に一度も連絡がありませんので、彼は依然として私を嫌っているに違いありません。私は彼が口頭試験の最中に部屋から出ていったりしてほしくありません。彼はそうしかねないと思います。」
 その口頭試験は一九二九年六月十八日に決められ、そして茶番劇めいた儀式の雰囲気のなかおこなわれた。ラッセルがムーアと一緒に試験室に入っていったとき、彼は微笑みながら言った。「私は生涯でこれほど馬鹿げたことを経験したことがない。」試験は旧友たちのあいだの談話で始まった。それからラッセルはその場の馬鹿らしさを楽しみながら、ムーアに言った。「始めよう、あなたが彼に何か質問をしてください──あなたがその教授なのです。」そこで短い議論がおこなわれ、ラッセルは、ウィトゲンシュタインが無意味な命題によって攻撃の余地のない真理を表現したと主張するのは矛盾を犯しているのではないか、と彼の見解を述べた。彼はもちろんウィトゲンシュタインを納得させることができなかった。ウィトゲンシュタインは彼の試験官たちのそれぞれの肩を叩きながら、そして慰めるように、「心配しないでいいですよ、あなたがたにはそれがまったく理解できないのが分かっていますよ」、と言って試験を終わらせてしまった。
 試験官の報告書に、「ウィトゲンシュタイン君の論文は天才の業績である。その事実からして、ケンブリッジのPh・Dのために必要とされる基準を十分に上回っていることは確かである」、とムーアは書いた。
 Ph・Dを受け取った翌日、トリニティ・カレジから一〇〇ポンドの助成金──夏学期に五○ポンド、そしてつぎのミケルマス学期に五○ボンド──が彼に与えられた。

ウィトゲンシュタインは夏休みのうちの前半をケンブリッジで過ごし、モーリス・ドッブ夫妻と一緒にモルティング・ハウス・レインのフロスト・レークのコテージで宿泊人としてすごした。この時期には、著名な文芸評論家F・R・リーヴィスとの一時、不安定な友人関係があった。彼らはジョンソンの「パーティー」の一つで会った。そして時折、一緒に長い散歩をした。ウィトゲンシュタインはリーヴィスの作品よりも彼の人柄を称えた。むしろ彼はリーヴィスの作品は好きではなかったけれども、彼の人柄が好きだったと言った方がいいであろう。彼はかつて、「文芸評論をやめなさい!」、という言葉をリーヴィスに浴びせたことがあった──それは一種の忠告であったが、リーヴィスはたいへんな誤解をして、その忠告にブルームズベリーの悪い影響だけをみていた。ウィトゲンシュタインが「ケインズ、自分の友人たち、自分の弟子たち」を「彼ら自身が思っているように文化的エリートであるとみなしている、と考えていたからである。

〔…〕

 結局ラッセルは出席しなかった。そしてその学会は、このような集まりに対する軽蔑の念をウィトゲンシュタインに確証させただけだった。しかしその会合で一つの収穫があったとすれば、彼とギルバート・ライルとの交友が始まったこととであった。ライルは、自叙伝的覚え書きに、「しばらくのあいだ私はうっとりと魅せられた賞称者であった」、と書いてたいる。ウィトゲンシュタインに従えば、彼の注意を魅きつけ、ライルと知り合いにならなければと思ったのは彼が論文を発表しているあいだのライルの真剣な、関心をもって聴いている顔の表情であった。後になってライルはウィトゲンシュタインが学生に与えている影響は有害だと確信するようになっにた。ウィトゲンシュタインの方は、ライルが結局真面目ではないと確信するようになった。しかし一九三〇年代をとおしをて、このふたりは真心のこもった関係を維持した。そして時折休日の散歩を共にした。散歩中彼らの会話は哲学と同様にた映画にも触れたようであった。ライルは、優れた英国映画がこれまで制作されたことがないばかりか、制作──(要するに)ほとんど、論理的に不可能とも言えるぐらい──が不可能であるというウィトゲンシュタインの意見に頑なに抵抗した。
 彼の無限に関する論文がノッティンガムに集まった哲学者たちには「チンプンカンプン」となろう、というウィトゲンうシュタインの確信こそ、彼が述べることは何であれ誤解されてしまう、という繰り返し起こる感情の典型的な表現であった。彼は自分を理解できない人たちに取り囲まれていると感じていた。ラムゼイでさえも、『論考』の理論の基本から逸脱して彼についていくことができなかった。九月には彼はラムゼイが独創性に欠ける、と日記に不平を書き付けている。彼は十月六日にミケルマス学期の初めに、自分の状況を、あるいは少なくとも自分の立場をどう感じているのかについての一種のアレゴリー風の夢を記録している。

今朝私は夢を見た。私はずっと昔に誰かに水車を作ってくれるように依頼した。いまは私はもうほしくなくなったが、しかし彼は依然としてそれを作っていた。輪がそこに横たわっていた。それはひどいものであった。たぶん、(スチームタービンのモーターのように)ブレードの部分を入れるために、周りがずっと鋸の歯の形をしていた。彼はそれがいかに退屈な仕事であるかを私に説明した。私は考えた。私は取り付けるのに簡単な、まっすぐな外輪を注文した。その男があまりにも愚かなので彼に説明しても無駄だし、またよい輪をつけさせることもできないという思いと、自分が何もすることができずに彼を放っておくしかないという思いで私は悩んだ。私は考えた。私は自分を理解させることのできない人々と一緒に生きていかなければならない──それは現実に私がしばしば抱いた思いである。同時にそれは自分自身の欠陥であると感じた。

「センスもなくひどい水車を作っている、その男の状況は」、と彼はつけ加えた。「マンチェスターでの私自身の状況であった。後で顧みると、当時私はガスタービンを製作するのに、無駄な企てをしたのであった。」しかしそのとき以上に、その夢は『論考』が不十分であると明らかにされた彼の現在の知的な状況を描き出していた。その状況がそこにあった。その仕事に不器用に取り組み、不十分にしかできない。そして相変わらずその男(彼自身かあるいはラムゼイか)はそれをいじくりまわし、それをよりいっそう入念にやろうとはせずに、だらだらと要領の得ないことをやっていた。そのときにほんとうに必要としたのはそれとまったく異なった、もっとその単純な種の輪であった。

十一月にウィトゲンシュタインは『論考』の翻訳者C・K・オグデンから〈異教徒団〉で講演するようにと招待を受け取った。これは使徒団と似た協会で、それほどのエリートたちの集まりではなく、科学により関心をもっていた。その協会では以前にH・G・ウェルズ、バートランド・ラッセル、それにヴァージニア・ウルフのような著名人たちが講演していた。(『ベネット氏とブラウン夫人』はヴァージニア・ウルフの異教徒団での講演に基づいている。)今度は彼は「中国語〔わけの分からないことの比喩〕」を話さないことを選び、むしろ『論考』について最も行きわたっていた重大な誤解に挑戦し、それをただす機会にしようとした。その誤解とは『論考』が実証主義者の、反形而上学的精神をもって書かれた著書という受け取り方である。
 生涯で彼の唯一の「通俗的」講演となった講演に、ウィトゲンシュタインは倫理学に関して話すことを選んだ。そのなかで、彼は倫理学の主題について何かを言うどんな企てもナンセンスに導かれる、という『論考』の見解を繰り返し述べ、このことに対する彼自身の見解は実証主義的、反形而上学の見解とは根本的に異なっていることを明瞭にしようとした。
12 〈検証主義者の様相〉

 一九二九年の終わり頃、ウィトゲンシュタインはふたりの関係についてのマルガリートの曖昧な態度や、彼との結婚を彼女が疑問に思っていたことにある程度は気づいていたようだった。彼が彼女や家族とクリスマスを共に過ごすためにウィーンに着いてまもなく、彼女は彼ともうキスはしたくない、ときっぱりと言った。彼に対して彼女の気持ちがついていけなくなった、と彼女は説明した。ウィトゲンシュタインには彼女の真意が分からなかった。日記には、彼女のさまざまな感情についてずっと思いめぐらしてはいるが、どちらかといえば自分自身の感情について思いめぐらしている。彼はそのことを痛々しいことと考えたが、同時にそれで自分が不幸だとは考えなかった。というのは、実のところすべては、彼自身の感覚的な欲望を満たすことよりは、むしろ彼の精神的な欲望の充足にかかっていたからである。「というのは、もし精神が私を見捨てなければ、どんなことが起ころうと、汚れることも惨めになることもないからだ。」「しかし私は」、と彼はつけ加えた。「もし自分が破滅したくなければ大いに耐えていかなければならないであろう。」彼がこのように理解したように、問題は彼女を説き伏せることではなく、彼自身の欲望に打ち勝つことであった。「私はけだものだ。だがそのことではまだ不幸なのではない」、と彼はクリスマスの日いとに日記に書いた。「私はますます皮相的になっていく危険性がある。神よ、お守りください!」
 こうした傾向性を避ける手だてとして、というよりもむしろそれを明らかにするために、彼は自叙伝を書こうと考えた。ここでもまたすべては精神にかかっていた。十二月二十八日に彼は書いた。

自己自身についての真実を、きわめて多様な精神において書くことができる、つまり最も品性のあるものから、最も淫らなものまでを書くことができる。そのこと次第で、書かれるものは非常に望ましいものにも、あるいは非常に劣悪なものにもなる。事実、実際に書かれた自叙伝のなかには、最も高級なものから最も低級なものまで、すべて段階がある。たとえば、私は自分が現にあるよりも高次なレベルで自叙伝を書くことはできない。そしてそれを書くというたんなる事実だけでは、私は必ずしも自分自身を高めることはできないし、そのために、私はすでにあったことよりも自分が汚れたものにさえなってもよい。私の自叙伝を書き、自分に対してばかりではなく、他人に対しても私の生涯を明瞭にさせるように、と私のなかで何かが語りかけている。私の生涯を裁きにかけるというよりは、どんな場合にも明瞭性と真理を生み出すために。

それから二、三年のあいだ、彼は自分自身について「赤裸の真実」をあからさまにし、価値のある自叙伝の在り方に考察をめぐらしたメモを書き続けたけれども、この計画は実現しなかった。
 どんな自叙伝を書いたにせよ、それはバートランド・ラッセルの『自叙伝』よりも聖アウグスティヌスの『告白』に共通するものであったことはほとんど疑いえない。つまりその著述は基本的に精神的な行為になったことであろう。彼は『告白』を恐らく「これまで書かれたなかで最も重要な本」、と考えていた。彼はとくに第一巻の文章を好んで引用した。それは「悲哀は汝のことを沈黙している者に生じる! というのは、話すことに最も天賦の才能に恵まれた者ですら、汝を語る言葉を見つけることはできないからである」、という言葉である。しかしウィトゲンシュタインは、ドゥルーリーとそのことを話し合っているときに、こう言った。「汝のことを何も語らない者に悲しみあれ、まさに子供のおしゃべりは多くのナンセンスを語るからである。」
 ワイスマンとシュリックとの会話において、そのテキストが原文にこだわらずにより自由に翻訳されている。「何ということだ、この豚ども、お前は無意味なことを語ろうとしないのか。さあ、無意味なことを語れ。かまわないのだ!」これらの自由な翻訳は、それがたとえアウグスティヌスの意図した意味を捉えていないとしても、ウィトゲンシュタインの見解を捉えているのは確かである。無意味な子供のおしゃベりは止めさせるべきであるが、それは自分自身が無意味なことを語るべきではないという意味ではない。すべては、要するに語る者の精神にかかっている。
 ワイスマンとシュリックに対して、彼は倫理学に関する講演で総括したもの、つまり倫理学は語りえないことを語ろうとする試みであり、それは言語の限界に対して立ち向かっていくことである、と繰り返し話している。「倫理についての無駄なおしゃべりのすべて──直観的認識は存在するのか、価値が存在するのか、善は定義可能か──を終わらせることかが明らかに重要であると私は考える。」他方において、無意味なことを話す性向によって何かが示されていると理解することも等しく重要である。たとえば、ハイデガーが不安と存在(「人が不安を抱いているという事実のうちに世界 - 内 - 存在そのものがある」、というような命題において)について何を言おうとしているかを思い浮かべることができる、と彼は述べている。そして彼は「理性がその逆説的情熱をもって鼓舞されるときに突き当たる、その未知なる何か」、というキルケゴールの語りにもまた共感している。
 聖アウグスティヌス、ハイデガー、キルケゴール──これらの人たちはウィーン学団との対話において取り上げられそうな名前ではない──は、言語の誤用のターゲットとしては除かれている。たとえば、論理実証主義者たちは、ハイデガーの作品をしばしば利用し、彼らが言っている形而上学的ナンセンスということ──哲学的ゴミだめの類いだ、と非難をするために──の例として挙げている。
 ウィトゲンシュタインがケンブリッジにいたときに、その学団は自意識過剰になって凝集力の強いグループをつくりあげげ、そして「科学的世界把握──ウィーン学団(Die Wissenschaftliche Weltauffassung: Der Wiener Kreis)」という名称で、一種のマニフェストを公表し、その基礎を反形而上学的立場として結束した。そのマニフェストの小冊子はシュリックに感謝の意を表して準備され、出版された。彼はそのグループのリーダーとして認められ、その年にベルリンへ招聘されたが、彼の友人や同僚たちと一緒にウィーンにとどまるためにそれを断った。この企画のことを聞くと、ウィトゲンシュタインはワイスマンに手紙を書き、不賛成の意志を表明した。

シュリックは普通の人間ではありません。それゆえにまさに彼は彼と彼がリードしているその学派を「善意」から自慢げに公言して物笑いの種にさせないように、守ってあげるのに価する人間です。私が「自慢げに」と言うときに、私の言っているのはあらゆる種の自己 - 満足した姿勢のことです。「形而上学の拒否!」、それは何か新しいことでもあるかのようだ! ウィーン学団がしていることは、語ることではなく、示すことにあるのです。……仕事によってマイスターを称えるのでなければならないのです。

〔…〕

「哲学は本来的にただ詩作としてのみ書かれるべきである、と言ったときに、私は哲学に対する私の姿勢を要約したと考えている。」

〔…〕

学期の終わりに、研究を継続するためにウィトゲンシュタインに必要な基金の給付に関して、またも問題が生じた。前の夏トリニティから与えられた助成金はすべて尽きてしまった。大学の協議会がそれを更新する価値があるかどうかに疑義を抱いたのは明瞭であった。そこで三月九日にムーアはピーターズフィールドの学校にいるラッセルに手紙を書き、彼がウィトゲンシュタインのしている研究を見て、その価値を大学に報告してもらえるかどうかを尋ねた。

……なぜなら、もし評議会が彼に助成金を出さなければ、彼が研究を続けていくのに十分な収入を保証する方法はないように思われるからです。そしてもし評議会がその主題に関してその専門家からの有利な報告が得られなければ、彼らがそうするチャンスはほとんどまったくないと思います。言うまでもなく、あなたはその報告ができる最適任者なのです。

〔…〕

 この時期にたび重なる難事にあって、ラッセルがウィトゲンシュタインの業績を厳密に調べあげ、それを処理したことは驚異である。ラッセルに対しては、ウィトゲンシュタインはラッセルが苦境に陥ったときの容赦のない批判者であった。彼はラッセルの通俗的な著述をひどく嫌った。『幸福の追求』は「吐き気をもよおし」、『私が信ずるもの』は「けっして〈害のないもの〉ではない」というのであった。そしてケンブリッジでの議論で、誰かがラッセルの結婚、性、そして(『結婚と道徳』で表現されている)〈自由恋愛〉の見解を擁護したいと言ったときに、ウィトゲンシュタインは答えた。

もしある人間が、ラッセルは最悪の事態に陥っていると私に話したとしても、私にはラッセルを判断する権利がない。しかしラッセルが現在まで至ったのは彼の優れた知恵のお蔭だと言われた場合には、彼がぺてん師であるのを私は分かっている。

 四月二十五日にケンブリッジに帰ってくるとすぐに、ウィトゲンシュタインは自分自身の、より抑制した愛の生活に進展をみせた様を日記に記した。

イースター休暇後、ケンブリッジに戻った。ウィーンではマルガリートと頻繁に一緒になった。ノイヴァルデックで彼女と一緒にイースター日曜日を過ごす。三時間ずっと私たちは何度も口づけを交わした。とても素敵だった。

 イースター学期後に、ウィトゲンシュタインは自分の家族とマルガリートと共にその夏を過ごすために、ウィーンに戻った。彼は家族の地所ホッホライトで過ごした。彼は大きな家には住まず、きこり小屋を好み、そこは彼の著述に必要な穏やかで、落ち着いた、邪魔のない環境であった。彼はその夏を過ごせるようにとトリニティ・カレジから五○ポンドの助成金を受けた。しかし彼はムーアへつぎのような手紙を書をいた。「私の生活はいまたいへん経済的です。事実私はここにいる限り、一銭のお金も使わなくてもいいのです。」彼が自分に認めた仕事の息抜きの一つと言えば、ギルバート・パティソンにナンセンスの手紙を書くことであった。

親愛なるギル(年老いたケダモノ)へ
お前は野心をもっている。もちろん、お前はもっているさ。そうでないとお前は人間の精神よりもマウスの精神をもった、たんなる放浪人にすぎないのだ。お前はお前がいまいる所にじっとしていることに満足していない。お前は人生からいま以上のものを欲している。お前は、お前自身とお前に依存している者(あるいは依存しようとしている者)の利益のためにもっといい地位ともっと大儲けに値する。
 間違ってあてがわれた地位からどうして私がはいあがるのかをお前は尋ねることだろう。あれやこれやの問題を考えるために、私はウィーンから汽車でおよそ三時間のところ、上記の住所の田舎の地に引っ込んでいる。私はそのラベルを同封したが、新刊の分厚い本を買い込んで、たくさんの仕事をしている。また最近撮った私の写真を同封しておく。私の頭の上の方は私が哲学するのに必要としないので取り除いた。私は思考の組織化にとって最も有用な方法であるペルマン式記憶法〔一八九八年にロンドンに創設された記憶術の特殊学校〕を見つけた。その小さな灰色の本は私の心を〈カード・インデックス〉にすることができた。

〔…〕

哲学の正しい方法は、本来語られうること以外のことを何ものも語らないこと、したがって自然科学の命題以外に何ものも語らないことである──したがってまた哲学と関係のないことも何も語らないことである。そして誰か他の者が形而上学的なことを語ろうとするときには、いつも彼が自分の命題の或る記号に何の意味も与えていないことを彼に証明することである。この方法はその者には不満足であろう──彼は私たちが彼に哲学を教えているという感情を抱かないことであろう──しかしこの方法は唯一の厳密に正しい方法であろう。

 しかしながら、『論考』それ自体が、その数記号の付けられた命題に関してこの方法を貫くのに失敗していることは周知のとおりである。これらの命題がけっして命題ではなく、〈疑似 - 命題〉、あるいは〈解明〉であるという主張は、けっして満足したものではなく、この重要な難問題からの逃避であることは明白である。そして明らかにこれと似たような難点がワイスマンによってまとめられたテーゼにもみられる。哲学的明晰性は、教説の言明によるよりも他の方法において解明されなければならなかった。一九三〇年に、ワイスマンがウィトゲンシュタインの〈テーゼ〉に関する提言を準備していた時点において、ウィトゲンシュタインは、「もし人が哲学においてテーゼを立てようとしようとも、それを議論するようなことはけっしてないであろう。なぜなら、すべての人がそれらに同意しているであろうからである」、と書いた。
 教説を教え、理論を展開する代わりに、ウィトゲンシュタインは、哲学者というのは、明瞭にする技術、方法を証明すべきであると考えるようになった。これの実現とその適用を明確にすることが、ドゥルーリーに話しているように、彼に「真の安らぎの場」をもたらした。「私は自分の方法が正しいことを知っている」、と彼はドゥルーリーに語った。「私の父は実業家であった。そして私は実業家である。つまり私は私の哲学が実務的であり、何かを実際に成し遂げ、何かを解決することを欲しているのである。」ウィトゲンシュタインの哲学における「過渡的様相」は、これをもって終わりとなる。



13 霧が晴れる

 一九三〇年の秋にケンブリッジに戻るまでに、ウィトゲンシュタインは、彼がドゥルーリーに話した安らぎの場に到着していた。つまり彼は哲学における正しい方法についての明瞭な概念に到達していた。彼のミケルマス学期のための講義は黙示録的な語調で始まった。「哲学の後光は失われてしまった」、と彼は告知した。

というのは、私たちはいまは哲学をする方法をもっており、そして技術をもった哲学者たちのことを語ることができるからである。錬金術と化学との違いを比較せよ。化学は方法をもち、そして私たちは技術をもった化学者のことを語ることができる。

錬金術から化学への移行というアナロジーは、一部間違った印象を与えている。ウィトゲンシュタインは神秘的疑似──科学を純粋科学と置き換えたと考えたのではなく、むしろ彼は哲学が雲に覆われて、そして神秘的であるということ(哲学の「後光」)を突き抜けていき、哲学の背後にはなにも存在しないことを発見したのであった。哲学は科学に変容されえないのである。なぜなら、哲学はなにも見出さないからである。哲学の謎は文法の誤用、誤解が生み出したものであり、それらは解決ではなく、解消が必要とされる。そしてこれらての問題を解消する方法は新しい理論を構成することにあるのではなく、私たちがすでに知っている事柄に関する記憶を集めることにある。

私たちが哲学において見出しているものは些細なものである。哲学は私たちに新しい事実を教えない。科学だけがそれを教える。しかしこれらの些細なことを適切に概観することはすこぶる困難であるが、測り知れないほど重要である。哲学は実際に些細なことの概観である。

哲学において私たちは科学者のように家を建てていない。私たちは家の土台作りさえしていない。私たちはただたんに「部屋を整頓している」だけである。
 「諸学の女王」というこの尊称は、勝利と絶望との両方に対する言い方である。それはより一般的な文化的崩壊の兆しである、純潔の喪失の信号である。

……方法が見出されると、人間であることを表現する機会はそれに応じて制限される。現代の傾向は、このような機会を制限することである。つまりこれは文化の崩壊の、あるいは文化なしの時代の特徴である。偉大な人間はこのような時期には紛れもなく大いに必要とされるが、哲学は現在技術の問題とされており、哲学者の後光は輝きを失っている。

 この発言は、ウィトゲンシュタインがこの時期以外にも多く語り、書いているように、オスヴァルト・シュペングラーの『西欧の没落』(一九一八年、英語版、一九二六年)の影響を示している。シュペングラーは、文明が文化の衰退だと確信していた。文化が崩壊すると、生物は、生命のない、機械的な構造体へと硬化する。それゆえ、芸術が栄えている時期は、物理学、数学、そして力学が支配的となっている時期に追い越されてしまう。この一般的見解は、とくに十九世紀後半と二十世紀初頭のあいだの西欧文明の崩壊に適用された場合に、ウィトゲンシュタイン自身の文化的ペシミズムと完全に一致していた。ある日ドゥルーリーの部屋へ恐ろしく意気消沈した様子でやってくると、彼はシュペングラーの理論の像的表象がどういうものかが分かったと説明した。

私はケンブリッジのなかを散歩し、ある本屋の前を通り過ぎた。そのウィンドーにはラッセル、フロイト、アインシュタインの肖像画があった。さらに少しばかり行くと、音楽店で私はベートーヴェン、シューベルト、ショパンの肖像画を見た。これらの肖像画を比較していくと、私はわずか一○○年のうちに人間の精神を襲った恐ろしい退落を強烈に感じとった。

科学者たちが優勢となった時代においては、偉大な人間ワイニンガーの「天才」 は生の主流のどこにも位置を占めることができない。彼は孤独を余儀なくされている。彼は自分の部屋を整頓する陶芸家でしかありえない。そして彼は彼の周りで建設されているすべての家屋建造物と隔たっている。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインのこの点に関する主張は、彼の「過渡期的」様相と成熟した後期哲学との転換点を印している。彼の方法についての後期の展開、たとえば彼の「言語ゲーム」の使用は、決定的な重要性をもっていない。これらの展開は発見的性格をもっている。それらはさまざまな方法で反 復されており、そうしたさまざまな方法において、ウィトゲンシュタインは人々に、ある結合と相違を理解させようと──哲学的ジレンマから逃れる方法を理解させようと努力した。しかしほんとうに決定的な契機となったのは、彼が『論考』のアイデア、つまり哲学者は何も語るものをもたずただ示すものをもつだけだというアイデアを文字通りに受け取り始め、そしてそのアイデアを完全に厳密に適用し、〈疑似 - 命題〉でもって何かを言う企てをまったく放棄したときであった。
 このように結合を見ることの強調は、ウィトゲンシュタインの後期の哲学とシュペングラーの『西欧の没落』とを結びつけており、そして同時に彼の文化的ペシミズムと後期の著述とのつながりを理解する鍵を与えているのである。『西欧ゲシュタルトの没落』において、シュペングラーは〈形態ゲシュタルトの原理〉と〈法の原理〉とを区別している。前者には歴史、詩、そしてて生が関わり、後者には物理学、数学、そして死が関わっている。この区別に基づいて彼は一般的な方法論的原理を述べている。「それによって死の形態ゲシュタルトを同定する手段は〈数学的法〉である。それによって生の形態ゲシュタルトを理解する手段は〈アナロジー〉である。」このようにしてシュペングラーは一連の法に基づくのではなく、むしろ異なった文化的エポック間のアナロジーの理解をとおして、歴史の理解に関わった。とりわけ彼が論戦に関わったのは、「変装した自然科学」として ての歴史の概念であった──「外見上、日毎にそれらの額面価値が目に見えるように精神的──政治的出来事を取り上げ、そして〈原因〉と〈結果〉の図式に基づいてそれらを整理すること」であった。彼は歴史家の仕事を、事実を収集し、説明を与えることではなく、それらのあいだの形態学的(あるいは観相術的、そのように言うのをシュペングラーは好んだ)関係を理解することによって出来事の意義を把握することだと理解するような歴史の概念を論じた。
 歴史の観相術的方法についてのシュペングラーの概念は、彼が認めているように、ゲーテの自然の形態学的研究に関する概念に啓発された。それはゲーテの詩「植物のメタモルフォーゼ」に示されているもので、葉から一連の介在する形態をとおして植物 - 形態へとその発展をたどるものであった。ゲーテが自然の因果性ではなく、自然の運命を研究したように、シュペングラーは、「ここで私たちは人間の歴史の形態 - 言語を展開するとしよう」、と述べている。ゲーテの形態学の動機となったのは、ニュートン科学のメカニズムに対する嫌悪であった。彼はこの死んだメカニカルな研究を「生きている形態それ自体を認め、そこで目に見える、手で触れることのできるその諸部分を見て、それらを生命の内部からの顕示として認知」しようとする学問と置き換えることを望んだ。
 理論を「些細なことの概観」と置き換えるウィトゲンシュタインの哲学的方法は、これと同じ伝統に立っている。「私が与えるのは」、と彼はかつてある講義のなかで言った。「ある表現の用法の形態論である。」 ワイスマンとの共同の著、「論理・言語・哲学」において、そのつながりがはっきりとされている。

私たちのここでの考え方は「植物のメタモルフォーゼ」において表現されているゲーテのある種の見解と一致している。さまざまな類似性を認めるたびに、私たちにはそれらに共通の源泉を探る傾向がある。そのような現象を過去における源泉まで遡ろうとする衝動は、ある思考様式においてあらわれていている。これは、いわばそのような類似性に対してはたった一つの図式を、つまり時間における一系列として配列を認める。(そしてそれは恐らく因果的図式の特異性と結びつけられている。)しかしゲーテの見解は、これが概念の唯一の可能的な形態ではないことを示している。彼の原植物の概念は、ダーウィンの概念のような植物界の時間的発展についての仮説を含んではいない。それではこの考え方によって解決される問題は何であるのか。それは概観的提示の問題である。「すべての植物の器官は葉の変容したものである」というゲーテのアフォリズムは、植物の器官がまるで自然の中心を取り巻いているかのように、それらの類似性に従って分類できるという構想を提案している。私たちは葉の原型が類似的、同種的な形態へ変わっていき、ガクの葉、花弁の葉へ変わっていき、半分花弁、半分オシベ等の器官へと変わっていくのを見る。私たちは、葉をとりなす形態をとおして植物の他の器官に結び付けることによって、その型がこのように感覚できるように変容をしていることをたどる。
 そのことがまさに私たちがここでやっていることである。私たちは、言語の構造が存在している空間全体についての見解を獲得するために、言語の一形態とその環境とを対比しているか、あるいは想像において言語の形態を変えている。

 ウィトゲンシュタインが彼の哲学的著述において何をしようとしているのかを明瞭に述べることは稀れであった。ドゥルーリーが述べているように、ウィトゲンシュタインの著述が「それらが大いに警告を与えていた知的な環境そのものヘいまや容易に同化されるようになった」、と「善意の批評家たち」が明らかにしたとしても、たぶん驚くことではない。しかし結局誰かが部屋を整頓しているのを見るときに、私たちは通常、その間彼らが何をしており、なぜそれをしているのかについて彼らから説明を聞くようなことはしない──彼らはただその仕事をしているだけである。それゆえ、この厳しい「実務」の態度でもって、ウィトゲンシュタインが自分自身の仕事をしていたのだ、とおおよそ言えるのである。一九三〇年のミケルマス学期の終わりに、トリニティ・カレジから五年間のフェローシップがウィトゲンシュタインに授授与された。その年の初めに彼がラッセルに見せたタイプ草稿(彼の死後『哲学的考察』として出版された)は、ラッセルとハーディが試験官となって、フェローシップの論文として受け入れられた。この授与では、しばらくのあいだ彼の哲学的研究に資金を助成する問題には触れず、彼が作ると言った「品物」に実際に需要があることを確かめたうえで、彼の新しい方法の成果を出す機会が彼に与えられた。彼はケインズから送られた祝福に返事を書いた。「そうです。このフェローシップの仕事はたいへん有難いことです。私の頭脳がいつの日かきっと実を稔らせるように期待しましょう。それは神のみが知ることです!」
 ウィトゲンシュタインの理論に関する攻撃は、一九三〇年のクリスマス休暇のあいだ、シュリックとワイスマンとの議論の大半を占めた。「私にとって」、と彼は彼らに話した。「理論は価値がない。理論は私に何も与えない。」倫理、美学、宗教、数学、そして哲学の理解において、理論は何の役にも立たない。シュリックはその年に倫理学の本を出版した。そのなかで、神学的倫理学を論じるにあたり、彼は善の本質に関して二つの見解を区別している。第一の見解によれば、、善が善であるのは、神が欲するからであり、第二の見解に従えば、神が善を欲するのは、それが善であるからである。シュリックの言によれば、第二の見解の方がより深淵であった。ウィトゲンシュタインの主張は、反対に第一の方が深淵であった。「なぜなら、第一のはなぜ、それが善であるのかとのかいうことに対して、どんな説明の方法も断ち切ってしまうのに対して、第二のは、皮相的で、合理主義的見解であり、それは〈あたかも〉何が善であるかについてさまざまな理由を与えることができるかのように論述を進めているからである。」

第一の見解は、善の本質が事実とは何も関わりをもたない、それゆえ、どんな命題によっても説明されえないということを明瞭に述べている。もし私が考えていることを正確に表現する何らかの命題があるなら、それは善とは神が命ずるものである、という命題である。

 同様に、美的価値についてもどの説明の仕方も断ち切られなければならない。ベートーヴェンのソナタにおける価値とは何か。音階の系列なのか。ベートーヴェンがそれを作曲しているときに彼が抱いた感情か。それを聴いているときに生み出される心の状態なのか。「私はそれに答えるとしよう」、とウィトゲンシュタインは言った。「人がどんなことを言おうとも、私はそれを拒否するであろう。それはその説明が間違っているからではなく、それが一つの説明であるからである。」

もし人が私に何かある理論のことを述べるとき、否、否! それは私には興味がない、と言うであろう──それは、けっして私が求めているそのものではないからである。

〔…〕

 その霧が晴れた後で、ウィトゲンシュタインにとってメタ理論、ゲームの理論の問題はありえなかった。ゲームとそれをする人たち、規則とそれらの適用だけがあった。「私たちは他の規則の適用のための規則をつくることはできない。」二つの事柄を結びつけるのに私たちは第三のものを必ずしも必要とはしない。「物は綱なしに、直接に相互に結びつけられなければならない。つまり鎖の輪のようにすでに相互に結合された状態になっているのでなければならない。」語とその意味の結びつきは、理論においてではなく、実践において、つまりその語の用法において見出されるべきである。そして規則とそれの適用との直接的な結びつき、語と行為との直接な的な結びつきは他の規則によっては解明されない。それは見られるのでなければならない。「ここにおいて見るということが本質的なこととなる。人は新しい体系を見ない限り、その体系を理解することはできない。」ウィトゲンシュタインにとって理論の放棄とは、ラッセルが考えたように、真の思考を拒否したり、理解する企てを拒否するのではなく、何が理解されるべきかということに関して、異なった見解──彼以前のシュペングラーとゲーテの見解のように、「結びつきを見ることにおいて成り立つ理解」の重要さと必然性とを強調する見解──を採用することであった。



14 新しい出発

 ウィトゲンシュタインにとって、すべての事柄は精神にかかっていた。このことは、彼の個人的関係にばかりではなく、彼の哲学にも当てはまる。たとえば、彼の形而上学の拒否と論理実証主義者の形而上学の拒否との違いは、何にもましてそれがなされる精神にあった。一九三〇年のミケルマス学期に書かれた序文において、彼は自分の著述の精神を明瞭にしようと試みた。一九三一年には、彼は他の可能性、つまり彼が以前に言おうと試みたものを示す方法を考察している。「私が現在考えているのは」、と彼は書いた。「一種の呪術としての形而上学についての考察をもって私の本を始めることが適切であろう、ということである。」

しかしこのことにあたり、呪術を擁護したり嘲るようなことはすべきではないと私は考える。
 呪術について深遠であるものが、保持されなければならないであろう。
 この脈絡において、事実、呪術を締め出すことはそれ自体呪術の性格をもつ。
 私が以前の書物で「世界」(この木とかこのテーブルについてではなく)について語り始めたとき、私は自分の言葉によってより高次な秩序の何かを呼び出す以外、何を試みようとしたのであろうか。

彼はこれらの見解には満足せず、それらの言葉の脇に〈S〉(〈schlecht〉まずいの意味)を書いた。それにもかかわらずそれらは彼の意図を明らかにしている。『論考』においてしたように、彼はいまや言葉でもって、理論でもって、より高次な秩序の何かを「呼び出す」試みができなかったので、彼はいわばそれを指し示すことを望んだのであった。語ることが宗教において本質的ではないように、言葉は形而上学において真なるものとか、深遠なるものをあらわすのに本質的ではありえないのである。
 事実、呪術におけるように、形而上学において深遠なものは、根本的に宗教的感情を表現することである──私たちの言語の限界に逆らって突進しようとする欲求を、ウィトゲンシュタインは倫理と、つまり理性の限界を超え、そしてキルケゴールの〈信仰の跳躍〉をしようとする欲求と結びつけて語った。そのすべてを顕示しようとするこの欲求こそ、キルケゴールとハイデガーの哲学であれ、聖アウグスティヌスの『告白』であれ、ジョンソン博士の祈りであれ、あるいは修道会の信仰であれ、ウィトゲンシュタインが最も深い尊敬の念を抱いたものであった。彼の尊敬の念は、またキリスト教の形態に限定されなかった。すべての宗教は素晴らしい、と彼はドゥルーリーに語った。「最も原始的な種族の宗教でさえも。人々が自分たちの宗教的感情を表現する仕方は、実に非常に多様である。」
 ウィトゲンシュタインが呪術を「深遠」であると感じたのは、まさにそれが宗教的感情の原始的表現であるということであった。これとの結びつきにおいて、彼は長いあいだ、原始的儀式と呪術に関する不朽の書、ジェームズ・フレーザー卿の『金枝篇』を読むことを望んでいた。そこで一九三一年にドゥルーリーはケンブリッジのユニオン図書館から第一巻を借り出した。全部で一三巻あった。ウィトゲンシュタインとドゥルーリーは、何週間かにわたってそれを一緒に読んだが、第一巻を読み切るまでにはほとんどいかなかった。それほどしばしば、ウィトゲンシュタインがフレーザーの研究の仕方と自分との不一致な点を説明するために中断したからであった。呪術的儀式があたかも科学の初期の形態であるかのように、フレーザーが呪術的儀式を取り扱ったことが何よりも彼の怒りを喚起させた。フレーザーに従えば、野蛮人が敵の人形に呪いの釘を打ち込むのは、そうすれば自分の敵を傷つけることができるという間違った科学的仮説をその野蛮が立てているからである。ウィトゲンシュタインの見解によにれば、これは深遠なものをそれと比較のできないより浅いものに還元して〈説明〉することであった。「フレーザーの場合、なんと人生が狭いことだろう!」、と彼は叫んだ。「その結果としてつぎのように言える。彼と同時代の英国人の生き方とは異なった生き方を理解することが、彼にはいかにできないかということだ……!」

フレーザーは、まったく彼が愚かさと無気力さゆえに、現代の英国の牧師と根本的に異なる祭司を思い浮かべることができないのだ。……
フレーザーは、彼が取り扱っているたいていの野蛮人よりも遥かに野蛮である。というのは、それらの野蛮人は、精神的問題に関する理解では、二十世紀の英国人とそれほどかけ離れてはいないからである。彼の儀式についての説明は、儀式の意義自体より遥かに粗野である。

 フレーザーがこれらの儀式について収集したさまざまな事実の宝庫は、もしそれらが何らの理論的な注釈なしに提出され、それらの相互関係──それに私たち自身の儀式との関係──が示されうるような仕方に整えられるならば、よりいっそう啓発的なものとなろう、とウィトゲンシュタインは考えた。さらに、ゲーテが「植物のメタモルフォーゼ」において、植物 - 形態について述べているように、「このようにしてこのことすべてはある密かな法則を指し示している(Und so deutet das Chor auf ein geheimnes Gesetz)」、と言っておきたい。

私は、進化の仮説において、あるいはまたある植物の図式とのアナロジーにおいて、ある宗教的儀式の図式をそれに与えることによって、また事実についての資料を整理し、その結果容易にある部分から他の部分へと進み、それについて明瞭な見解をもつことによって──それを明瞭な方法で示すことによってこの法則を定めることができる。
 私たちにとって、明瞭な提示という概念は根本的なものである。それは私たちの叙述の形式、私たちのものの見方を示している。(現代の典型であるようにみえる一種の世界観。シュペングラー。)
 この明瞭な提示は、〈結びつきを見る〉ことによってまさにその事実のなかにあるものの理解を可能にさせるのである。

そのときに呪術的儀式の形態論は、儀式を嘲ることも擁護することもなく、儀式について深遠であるものを保持するのである。このようにして、その形態論は「呪術の性格」をもっている。同様に、ウィトゲンシュタインは、彼の新しい哲学の方法が旧い形而上学的理論において重視されるべきものを保持し、そして『論考』の取ったトリックを企てることなしに、それ自体形而上学の性格をもつようになることを希望したのであった。
 ここにまたウィトゲンシュタインが意図した自叙伝との一つのアナロジーも存在する。彼はまた、自叙伝がいかなる種類の説明、正当化や擁護もなしに、彼の本質的な性格をあらわすものであることを望んだ。彼は、そこであらわにされるものが「臆病で」、恐らく「醜く」さえある性質になるのは当然なことと考えていた。しかし彼がとくに関心を抱いていたのは、自分の本当の性格をあらわすさいに、それを否定したり、軽蔑したり、あるいは何らかの不当な方法で、それを誇りにしてはならないということであった。

比喩を用いて説明しよう。「浮浪者」が自叙伝を書く場合の危険は、彼が
(a)自分の本性のありのままの姿を否定するか、
あるいは(b)それを誇るような何らかの理由を探すか、
あるいは(c)このこと──彼がそのような性質をもつということ──が取るに足らないことであるかのように、事態を叙述するようになる場合であろう。
 第一の場合には彼は嘘をつき、第二の場合には彼は貴族の生まれであることを真似て、零落の身の素晴らしさを誇り、不具の身体が自然の優雅さをもちえないように、自分がもちえないような誇りを偽装する。第三の場合には彼はあたかも一般庶民のように振る舞い、教養を身体的なものよりも優れたものにおく──しかしこれもまた欺瞞である。彼は彼が現にあるところのものであり、そしてこのことは重要であり同時に有意味である。しかしそれは何ら誇る理由にはならないが、他方では、それはつねに彼の自尊心の対象である。そして私は他人が貴族的誇りをもち、そして私の本性を彼が軽蔑するのを認めることができる。というのは、このことによってのみ私の本性を認め、私の本性を取り巻く環境の一部として他人を認めているからだ──この恐らく醜悪な対象に取りな囲まれている世界の中心が私の人格である。

ラッシュ・リースが指摘しているように、自叙伝を書こうというウィトゲンシュタインの構想はワイニンガー的なところがあり、自叙伝を書くことをほとんど精神的な責務とみていた。「完全な自叙伝を書くということは」、とワイニンガーは『性と性格』のなかで書いている。「この欲求がその人間に自ずと生じた場合には、つねに優れた人間の兆しである。」

というのは、真に忠実な記憶は敬虔さに根ざしているからである。優れた人間は彼の過去を何か物質的な利益とか、あるいは自分の健康上の利益のために、自己を犠牲にするような不当な要求にさいして、たとえ世界の最高の宝物、幸福そのものを与えられるとしても、それを拒否するであろう。

自叙伝の計画に最も関心を抱くようになったのは、ワイニンガーへの言及とワイニンガー的省察がウィトゲンシュタインのノートや会話に豊富にみられる一九三一年のことであった。彼は『性と性格』を彼の教え子で友人であるリーとドゥルーリー、それにムーアに薦めた。彼らの反応がクールであったのは理解できる。戦前のウィーンの想像力をかき立てたその著書は、戦後のケンブリッジの冷静な雰囲気のなかにあっては、たんに異様なものにしか映じなかった。ウィトゲンシュタインは説明せざるをえなかった。「あなたがワイニンガーをそれほど賞賛されないことは十分に想像できます」、と彼は八月二十三日にムーアに書いた。「あのひどい翻訳、それにワイニンガーがあなたにはたいへん異様に思われるに違いないからです。」

彼が風変わりであるのはそのとおりです。しかし彼は偉大で風変わりなのです。彼に同意する必要はありません、と言うよりも同意することは不可能です。しかしその偉大さは私たちが同意しない点にあります。彼の途方もない間違いこそ偉大なのです。つまり大まかに言えば、もし人がその本全体に〈~〉を付け加えれば、それは重要な真理を語っています。

 彼がこの省略の括弧で何を言っているのかは、はっきりとしていない。女性と女性性がすべての悪の源泉であるというワイニンガーの中心テーマに関して、ウィトゲンシュタインはドゥルーリーに、「彼がいかに間違っていたことか、そうだ、彼は間違っていたのだ」、と認めている。しかしこれはその本全体を否定して得られた重要な真理をほとんど示していない。非合理なことの否定は、重要な真理ではなく、陳腐なことである。(〈女性はすべての悪の源泉ではない〉。)たぶん彼は、ワイニンガーが男と女の本質的な特性を捉えたが、しかしその間違った嫌疑を受けることになったと言っているのであろう。彼の〈フェアツザークト〉の夢のなかで、結局犠牲者は女性であった。他方、その罪を犯した者が男性であり、その名前そのものには何か不快な「男性的」なものがある。
 確かに彼の自叙伝的覚え書きノートには、「非英雄的な」、「醜い」本性を、いわゆる女性的特性に帰属させているとみなしていると暗示させるものは、何もみられない。
 しかし彼がワイニンガーのユダヤ的見解を受け入れる傾向があったことと、そして少なくとも雄々しさに欠けた彼の性格が彼のユダヤの血筋に関わっていると考えていたことを示す、いくつかの発言がある。ワイニンガーのように、ウィトゲンシュタインはそのような血筋にこだわらずにユダヤ的なものの概念を拡張しようとしていた。たとえば、ルソーの性格について、ルソーは「ユダヤ的な性格をもっている」、と彼は考えている。そしてワイニンガーのように、彼はユダヤ人の性格と英国人の性格にある種の親近性をみている。「それゆえ、メンデルスゾーンは峰ではなく、高原である。彼にン、おける英国的なもの。」「悲劇は非ユダヤ的である。メンデルスゾーンは、恐らく最も悲劇的ではない作曲家であろう。」
 しかし──この点彼はまたワイニンガーに従っている──彼が〈ユダヤ人〉について語るたいていの場合、特定の民族集団のことを考えていることは明白である。事実、ウィトゲンシュタインのユダヤ的なものに関する発言で最もショッキングなのは、彼が人種的な反ユダヤ主義という言葉──美際にはスローガンとして──を用いていることである。ほんとうに当惑させるのは、『性と性格』の影響ではなく、『わが闘争』の影響である。ヒトラーの最も残虐性を示している、多くの言葉──「悪性のバチルス(細菌)のように、好ましい媒体が引き寄せるとただちに広がっていく」寄生虫であるという彼のユダヤ人の特徴づけ、ユダヤ人の文化への寄与はまったく派生的であるという主張、「ユダヤ人は、創造的な、それゆえ文化的に恵まれた人種を見分ける特性に欠けている」という主張、そしてさらにユダヤ人の寄与が他の文化を、知的に洗練させることに限られていた(ユダヤ人は……自分自身の文化をもったことはけっしてなかったので、ユダヤ人の知的な業績の基礎はつねに他から与えられたものであった)という主張──この嘆かわしい、ナンセンスな言葉のすべてが、一九三一年のウィトゲンシュタインの発言に似た形で示されている。
 それらがウィトゲンシュタインによって書かれたのでなければ、ユダヤ人の本性に関する彼の多くの発言はファシスト、反ユダヤ主義者の怒号以外の何ものでもないと受け取られたであろう。「ユダヤ人の人目を忍び、身を隠す性格は」、とユダヤ人に関する発言の一つは始まっている。「長年の迫害の結果、形成されたとしばしば言われてきている。」

しかしこれは確実に間違っている。それと違って確かなのは、ユダヤ人がこのような人目を忍ぶ傾向があるからこそ、こうした迫害にもかかわらず、ユダヤ人がまだなお存在していることである。このことは、これこれの動物がまだ絶滅していないのは、その動物が身を隠す能力、あるいは可能性があるからであると言うようなものである。もちろん、それゆえにであこの可能性を褒めるべきであると言ってはいない。けっしてそんなことは言っていない。

 「ユダヤ人」は見つけられるのを避けているからこそ、絶滅を免れているのであろうか。それゆえ彼らは当然に人目を忍び、身を隠しているのであろうか。これはその最もなまの形での反ユダヤ主義的パラノイアである──「歪んだ私たちの内なるユダヤ人」に対する恐怖と嫌悪。こうしたものがウィトゲンシュタインの病気のメタファーである。「この瘤をきみの身体の正常な一部としてみよ!」、と誰かが言い出し、そしてそのことに反対し、「人はそうすることを命令することができるのか。私は勝手に自分の身体の理想の姿をもったり、あるいはもたなかったりするように決定する能力があるのか」、と言っているありさまを思い浮かべている。彼はこのことをヨーロッパのユダヤ人の立場に対するヒトラーのメタファーに関係づけている。

ユダヤ人の歴史は、ヨーロッパ民族の歴史において詳しく取り扱われていない。ユダヤ人のヨーロッパの出来事への関わりはほんとうに詳しく扱われるのに値するのにもかかわらずである。その理由は、ヨーロッパの歴史においてユダヤ人は一種の病気、そして異常と受け取られてきたからであり、そして誰も好き好んで正常な生活と病気をいわば同列にはおかないからである。[そして誰も好き好んで健康な出来事(痛みがあっても)と病気とを同等の資格があるとはみなさないからである。]
 この瘤を身体の一部とみなすことができるのは、身体に対する全体の感じ方が変わった場合(身体に対する国民感情全体が変わった場合)に限られると言うことができよう。それ以外にはせいぜい瘤のことを我慢するしかない。
 個々人なら、このような我慢も期待できるか、あるいはこうしたことを無視することも期待できる。しかし国民については期待できない。なぜなら、国民というのはこれらの事柄を無視できないからこそ、国民であるからである。つまりある者が自分の以前の身体の美的な感情を保持すると共に、また瘤を快く受け入れるように期待するのは矛盾であるからである。

彼らの内の「悪性のバチルス(細菌)」を追い払おうとする者は、そうすることは正しい、と提案するまでになる。あるいは少なくともそれ以外のことを彼らに──国民として──期待することはできない。
 このメタファーは、ユダヤ的なものについての人種的な見方を抜きにしては意味がないのは言うまでもない。ユダヤ人はどんなに「同化」しても、ドイツ人にもオーストリア人にもけっしてなれないであろう。なぜなら、ユダヤ人は同じは「身体」をもっていないからである。つまりユダヤ人は成長したその身体が病んでいるということである。そのメタファーはとくにオーストリアの反ユダヤ主義の恐怖を記述していると思わせる。というのは、ユダヤ人が同化すればするほど、彼ら以外の健康なアーリア系国民に彼らが及ぼした病気がますます危険なものとなることを、そのメタファーは言っているからである。このようにしてウィトゲンシュタインの発言で言われている反ユダヤ主義とカール・クラウスの「ユダヤ人の自己嫌悪」を同じとみなすのは、まったく見当違いである。クラウスが嫌い、ユダヤ的である(利得心など)と受けるとったその特徴を、クラウスは何らかの人種的遺産に帰したのではなく、ユダヤ人の社会的宗教的隔離に帰したのであった。彼が本来的に攻撃したのはユダヤ人の〈ゲットー - 精神性〉であった。ユダヤ人と非ユダヤ人とを隔てさせ、ユダヤ人をドイツ民族の身体の「瘤」とみなそうとするのとは大いに違い、クラウスはユダヤ人の完全な同化のために飽くことなく闘った。つまり「融合をとおして救済へ至る」ために難ったのであった。
 こうした展望をもっていたクラウスは、ナチの宣伝の恐怖を理解するには、ウィトゲンシュタインよりも遥かに優位な立場にいた──知的に先行してその恐怖をより明確に認識できる立場にいた、とつけ加えることもできよう。もちろん、ウィトゲンシュタインがかつてドゥルーリーにナチについて書いたように、彼はナチが野蛮な「ギャングの一味」である、と理解していた。しかし同時に彼は、ナチが生きている時代について何か重要なことを教えてくれる本として、シュペングラーの『西欧の没落』をドゥルーリーに薦めていた。クラウスはシュペングラーとナチとの類似性に注目し、そしてシュペングラーは西洋の悪漢ども(Untergangsters)を理解しーそして悪漢どもは彼を理解している──と論評していた。
 ウィトゲンシュタインが反ユダヤ主義のスローガンを用いているのは、驚きではあるが、だからと言ってそれが彼自身とナチとの親近性を何ら証明するものではない。彼のユダヤ的なものに関する発言は、基本的に内省的である。それらは文化的退廃の感覚の内的転換と彼自身の内的状態に新しい秩序をもたらす欲求(それはシュペングラーからヒトラーへと導く道である)をあらわしている。しばらくのあいだ(一九三一年以降、喜ばしいことに、彼のノートにはユダヤ的なものについての言及はもうみられない)彼は、あたかも自分自身に対する一種のメタファーとして(フェアリザークトの夢においてナチによって宣伝されたユダヤ人像──最も恐ろしい罪を犯しているのだが、人格高潔という美名に隠れ、巧知にたけた欺瞞的な悪漢の像──が、彼自身の「真の」本性にすばやく反応し、恐怖を感じたのとちょうど同じように)、当時流行した反ユダヤ主義の言葉に魅せられたかのようであった。そして多くのヨーロッパ人、とくにドイツ人が彼らの「腐敗した文化」に代わる新しい秩序への要求を感じとったように、ウィトゲンシュタインは彼の人生の新たな出発のために努力をしたのであった。彼の自叙伝的な覚え書きノートは本来、告白的であった、そして「告白は」、と彼は一九三一年に書いた。「新たな生の一部でなければならない。」新たに始めるに先立って、彼は旧いものを評価しなければならなかった。
 たぶん最も皮肉であったのは、ウィトゲンシュタインが哲学的諸問題に取り組むためにまったく新しい方法──(その方向にゲーテとシュペングラーの場所を見出さない限りで)西洋哲学の全伝統に先例のない方法──を展開し始めたように、ユダヤ人が独創的な思想をもちえないという不合理な重荷の枠組みのなかで、彼自身の哲学的寄与を評価することになったことであった。「ユダヤ人に典型的なのは」、と彼は書いた。「自分自身の作品よりも他人の作品をよりよく理解することである。」たとえば、彼自身の作品は本質的に他の人たちの観念の明晰化にあった。

ユダヤの「天才」は聖者だけである。最高のユダヤの思想家ですらただ才人にすぎない。(たとえば、私。)
 私の思考は本来的に再生的でしかないと私が考える場合、そこに一つの真理があると信じる。私は思想の運動をいちどもつくりだしたことはなく、それはいつも誰か他の人たちから与えられたと信じる。私はたんに明晰化という自分の仕事に熱中し、その思想運動に進んで飛びついた。このようにして私はボルツマン、ヘルツ、ショウペンハウアー、フレーゲ、ラッセル、クラウス、ロース、ワイニンガー、シュペングラー、スラッファから影響を受けた。ユダヤ的再生の一例としてブロイアーとフロイトをあげることができるだろうか──私がつくるものは、新しい比喩である。

 彼自身の業績をこのように蔑むことは、自分の誇りを自ら擁護する方法──彼がかつてパティソン宛の手紙のなかで自分のことを気軽に書いたように、彼はほんとうに「これまでの哲学者のなかで最大の哲学者」と信じていたことの擁護であったかもしれない。彼は間違った誇りをもつ危険性を鋭敏に意識していた。「絵をちゃんと額のなかに入れたり、適切な場所に掛けたりした場合には、私はしばしばその絵を目分で描いたような誇らしい気持ちになったものであった。」彼が自分の制約、つまり彼の「ユダヤ的なもの」を思い起こさせなければならないと感じたのは、このような誇りを背景にしていたからであった。

ユダヤ人は、文字通りの意味で「すべてに無関心」でなければならない。しかしこれはユダヤ人にはとくに難しいことだ。というのは、ある意味でユダヤ人はとくに自分自身のものを何ももっていないからだ。進んで貧乏を引き受けることは、金持ちである場合よりも貧乏でなければならない場合に、ずっと面倒である。
 ユダヤの精神はただの小さな一本の草や花すら生み出すことができない。他の精神のなかで育った草や花を描き、そこからより完全な絵を描くことがユダヤのやり方であると言えよう。こう言ったとしても欠点を挙げているのではない。このことが明瞭である限り、すべてはうまくいっているのである。しかしユダヤの作品のやり方と非ユダヤの作品のやり方とを混同する場合に、とくにユダヤの作品の制作者自身がこのような混同をする場合に──こうしたことはたびたびあることだが──はじめて危険が生じる。(彼はあたかもミルクを自分でつくりだしたかのように誇らしげに振る舞っているのではないか。)

生きている限り、ウィトゲンシュタインは自分の誇りとの格闘をけっして止めなかった。そして彼自身の哲学的業績と道徳的品位について懐疑を表明することを止めなかった。しかしながら、一九三一年以後、彼はこれらの懐疑を表現する手段として反ユダヤ主義という言葉を用いなくなった。

ウィトゲンシュタインのユダヤ的なものに関する発言は、彼の企てた自叙伝と同様に、本質的に告白的であった。そして両方とも何らかの形で彼が自分自身とマルガリートのために計画した「神聖な」結合と結びつけられていたようであった。それらと平行して、その年に彼は真剣そのものになってマルガリートと結婚する気になっていた。
 その夏の初めに、彼は将来一緒に生活するつもりで、マルガリートをノルウェイに招待した。しかしながら、彼はふたりが自分たちの時間を別々に過ごし、それぞれが真剣に考えるために孤立した状況に身をおき、その結果、来るべき新しい生活に精神的に備えるべきであると考えた。
 このようにして、自分の家に留まっているあいだ、彼はアンナ・レブニーの農家にマルガリートの泊まるところを手配した。レブニーはがっしりとした七十歳の女性で、百歳の母親と一緒に住んでいた。二週間彼女はそこで過ごした。マルガリートはウィトゲンシュタインのことをほとんど何も理解しなかった。その農家に着いたとき、彼女が自分の鞄を開けると、そのなかにウィトゲンシュタインがこっそりと入れていたバイブルが見つかった。それには手紙も一緒に入っており、「コリント人への手紙」、第一章、十三節──愛の本性と賛美についての聖パウロの講話──の所に暗示的にはさまれていた。しかし彼女はその重要な暗示を受け入れなかった。瞑想し、祈り、バイブルを読む──ウィトゲンシュタインは自分の時間の多くをこのようにして過ごした──それに対して、彼女は一九一三年のピンセントと同じことをしたのであった。彼女は小さなショルデンで楽しめることはできる限り最大に受け入れた。農場の周りを散歩し、フィヨルドで泳ぎ、村人たちと知り合いになり、ノルウェイ語をわずかばかりだが学んだりした。二週間後に彼女の姉妹の結婚式に出るためにローマへ行き、そして少なくともルートウィヒ・ウィトゲンシュタインとは結婚するつもりはないと決心した。彼女はウィトゲンシュタインとの生活が与えるようになるさまざまな要求に合わせていくことができないと感じただけでなく、また同じく重要なことであるが、ウィトゲンシュタインは自分が欲しているような人生を与えることはまったくないと理解したのであった。たとえば、彼は子供をもつ意志が毛頭なく、そうすればもうひとりの人間に悲惨な人生を歩ませることになるだけだと考えていることをはっきり述べた。
 ノルウェイではウィトゲンシュタインはギルバート・パティソンとある期間過ごした。彼の訪問はマルガリートの訪問とおよそ一週間重なった。むろん滞在した三週間のあいだ、彼はウィトゲンシュタインの気分を和らげた──ただし、いつものようにパティソンはときおりウィトゲンシュタインから離れる必要を感じ、ひとりでオスロに行き、「盛り場を飲み歩いて」夜を過ごした。
 ノルウェイへの訪問は、ウィトゲンシュタインとマルガリートとが結婚するかもしれないという、いっさいの見通しに終止符を打ったと言えようが、しかし友情関係が断たれた(あるいはただちに断たれた)のではなかった。一九三一年夏の終わりの三週間、彼らはホッホライトでほとんど毎日会っていた。そこではウィトゲンシュタインは以前と同様その領地の端にある木こり小屋で過ごし、マルガリートはグレーテル家の別荘の客であった。彼女の孫のために書かれた回想録のなかで、彼女はデイヴィッド・ピンセントの役割を思い起こさせる言葉をもって説明している。「彼が構想を養っているあいだ、私がいることで彼に必要な安らぎを与えることができました。」

〔…〕

ウィトゲンシュタインのエネルギーのほとんどすべては、いまや彼の新しい思想を彼自身の著作において提示することに注がれた。彼は多くの異なった定式化──数を付けた言明、数を付けたパラグラフ、説明を付けた目次等──の試みをした。講義では、まるで西洋の伝統のなかに自分自身を位置づけるかのように、彼は哲学のスタイルと理論に関してC・D・ブロードの分類法を取り入れた。それはブロード自身の学部学生への連続講義「哲学の要素」においてなされたものであった。彼はヒュームとデカルトの方法を拒否したが、カントの批判的方法については、「これは正しい種類のアプローチである」、と述べている。思弁哲学の演繹的方法と弁証的方法──前者はデカルトによって、後者はヘーゲルによって提示されたものとの区別に関しては保留条件をつけて、ヘーゲルの方法に理解を示した。

……弁証的方法は非常に健全であり、私たちが実行する方法である。しかしブロードが述べているようには、その方法は二つの命題aとbから、さらにより複合的な命題を見出すことを試みるべきではない。その方法の対象は、私たちの言語においてさまざまな曖昧さのなかに見出されるべきである。

〔…〕

 哲学者たちの文法的間違いは、害を与える場合に限りムーアが言及した通常の過ちとは異なったものである。それゆえ、これらの間違いを研究することは、無駄である──そして実際には過ちを犯すよりもいっそう悪いことであり、ただ害になるだけであった。肝心なのは、それらを研究することにあであるのではなく、そこから自らを解放することであった。このようなことから、彼の学生のひとり、カール・ブリトンに対して、ウィトゲンシュタインは、学位を取るために勉強する限り、哲学を真剣に学ぶことはできないと主張した。彼はプリトンに学位を断念し、他のことをするように強く勧めた。ブリトンが断ったとき、ウィトゲンシュタインは、そのためはに彼の哲学への関心が駄目にならないように、ということを期待するしかなかった。
 同様に、他のたいていの学生たちに強調したように、彼はブリトンに哲学の教師になることを避けるよう薦めた。それよりいっそう悪いのはただ一つ、ジャーナリストになることであった。ブリトンにまじめな仕事につき、世間一般の人たちと一緒に働くべきだと薦めた。学者の生活は忌まわしいものであった。ウィトゲンシュタインがロンドンから戻ってきたとき、ある学生がもうひとりの学生に話しかけ、「ああ、本当だとも!」と言っているのを立ち聞きして、自分がケンブリッジに戻ってきたのが分かったものだ、とブリトンに語った。大学の寝室係のゴシップ話の方が、大学の教授などの食卓での誠実味のない才気よりも遥かにましだというのであった。
 モーリス・ドゥルーリーはすでにウィトゲンシュタインの忠告を受け入れ、ニューキャッスルで失業中の造船技師たちのグループと一緒に働いていた。しかしその事業が完成に近くなったとき、彼はニューキャッスルのアームストロングカレジの哲学講師のポストに応募する気になった。結局はそのポストは、ドロシー・エメットに与えられ、ドゥルーリーはサウス・ウェールズに行き、失業中の鉱夫のための共同菜園の経営の手助けをすることとなった。「きみはミス・エメットにたいへんな恩義を受けた」、とウィトゲンシュタインは主張した。「彼女はきみが職業的哲学者になることから救ってくれたのだ。」
 その職業をこのように軽蔑したにもかかわらず、ウィトゲンシュタインは、彼のアイデアがアカデミックな哲学者たちによって利用されることに嫉妬深い、警戒の眼差しを向け続けた。そして一九三三年の夏には、ルドルフ・カルナップとの優先権争い(Prioritatstreit)に巻き込まれた。それはカルナップの「科学の普遍言語としての物理学言語」という題の論文によって引き起こされた。この論文はウィーン学団の雑誌『エアケントニス』に発表された。(それは後で『科学の統合』として英語で出された。)その論文は「物理主義」のための論証である──すべての命題は、それらが科学的研究に包括されるのに値する限り、それに関与する学問が物理学的、生物学的、心理学的、あるいは社会的現象を取り扱うとてしても、物理学の言語に究極的に還元される、という見解であった。それは、カルナップが認めているように、ウィーン学団の哲学者たちのなかで最も厳格な実証主義者であったオットー・ノイラートに負っていた。
 しかしウィトゲンシュタインは、彼がウィーン学団との対話のなかで述べたそのアイデアをカルナップが用い、しかも然るべき断りもなくそうしたとすっかり信じ込んでしまった。一九三二年八月に、シュリックへの二通の手紙とカルナップ本人への手紙のなかで、ウィトゲンシュタインはカルナップの論文に関する困惑は、純粋に倫理的で、個人的な問題であり、カルナップによって出版された思想について彼の著作権を主張したり、アカデミックな社会での自分の評判を気にすることにはまったく関係がないと主張した。八月八日に彼はシュリックへ手紙を書いた。

……心底今日の職業哲学者たちが私のことをどう考えていようとも一向かまわないのです。といいますのは、私は彼らに対して書いているのではないからです。

それにもかかわらず、彼の主張したかった要点は、カルナップの名前で出版したそのアイデア──たとえば、直示的定義と仮説の本性について──はまさしく彼のアイデアを語っているというのであった。彼は、それらをカルナップがウィトゲンシュタインとワイスマンとの対話の記録から剽窃したと申し立てた。カルナップが彼の中心となる論証は物理主義に関わっていると答えると、それについてはウィトゲンシュタインは何も言わなかった。その基本的なアイデアは『論考』に見出されるはずであると反論した。「私が〈物理主義〉の問題を扱わなかったというのは真実ではない(その──ぞっとする──名称で扱わなかっただけである)、そして『論考』の全体が簡潔さを旨として書かれるように[私は企てた]」、とウィトゲンシュタインは異議を唱えた。
 カルナップの論文の出版でもって、ウィトゲンシュタインとワイスマンとの哲学的対話についに終止符が打たれた。実際に最後に記録されている討議は、仮説に関するカルナップの着想がウィトゲンシュタインよりもむしろポアンカレから取られた、というカルナップの主張を拒否するウィトゲンシュタインの企てにあてられている。その後、ワイスマンは特権を与えられてウィトゲンシュタインの新しいアイデアに触れる機会が断たれた。

ウィトゲンシュタインのワイスマンに対する不信の高まり、そしてカルナップの無礼な振る舞いに対する憤慨は、自分の研究を出版できるようにしようという新たな努力と重なっていた。
 一九三二年の夏ホッホライトに滞在しているあいだ、彼は二年前に書いた八部からなる草稿から精選した大部をタイピストに口述した。(八月八日付のシュリック宛の手紙で、彼は口述に一日に七時間費やしていると述べている。)出来上がったものは、「大タイプ草稿」としてウィトゲンシュタイン研究者たちに知られるものである。ウィトゲンシュタインが残した他のどのタイプ草稿よりも量的に多い。この草稿は完成した本の体裁を整え、章の見出しと目次の表もすべて出り来上がっており、『哲学的文法』として出版された本の基礎となったものであった。といっても、それは出版された本とはけっして同一であったのではない。
 とくに「哲学」と題した興味深い章が出版された本からは省かれている。「哲学がなしえることのすべては」、と彼はそこで述べている。「偶像を破壊することである。」「そして」、と彼はウィーン学団に強力なパンチを加えている。「それはつまり〈偶像の不在〉のなかから──どんな新しいものも作ることを意味しない。」私たちが哲学的問題に出会うのは、実践的生活においてではなく、むしろ「時間とは何か」、「数とは何か」といったことを尋ねる言語における、あるアナロジーに惑わされたときである、と彼は強調した。これらの問題が解消されないのは、それらが深遠さをもっているからではなく、むしろそれらがナンセンス──言語の誤用であるからである。それゆえ、

真の発見は、私が望んだときに哲学をすることを断念できるように私にさせる発見である──哲学に安らぎを与え、その結果、問題となっている問いそれ自体を問いによってもはや悩まされることのないようなものの発見である。──その代わりに、私たちはいまさまざまな例によってある方法を証明する。そして例のさまざまな系列を中断させることができる。諸問題が解決される(諸困難が取り除かれる)、単一の問題は解決されない。……「しかしそのとき私たちは私たちの仕事をいつまでも終わらせることはできないであろう!」もちろん、できない。それに終わりがないからである。

 哲学を終わりのない、ただ任意の始まりしかもたない明晰化を課題として追求するこの見解は、哲学に関して満足のいく本がいかに書かれうるのか、と想定することをほとんど不可能にしている。ウィトゲンシュタインが、始めと終わりが一種の矛盾となっているのが哲学の本である、というショウペンハウアーの警句に賛同して、それを引用しているのも何ら驚くことではない。そして彼が「大タイプ草稿」の口述が大終わるとほとんどただちに大幅に改訂し始めたということも驚くことでもない。しかし数学の哲学に関しては、彼はほとんど手を加えていない。(その後『哲学的文法』にはそれらの章が完全に採録されている。)この領域での彼の研究が、言語に関する彼の見解と同じような注目を浴びなかったことは不幸なことである。
 ウィトゲンシュタイン自身は、数学に関する研究を哲学への最も重要な寄与とみなしていたばかりではなく、また彼の哲学的展望が二十世紀の職業的哲学の展望といかに根本的に異なっているのかを最も明白にしていることがこの著述にみられる。自分が現代文明の流れに逆らって研究していたという彼の確信の真相は、ここで最も明瞭に見られる。というのは、彼が目指していたターゲットは、あれこれの哲学者たちが主張していたような数学に関する特定の見解ではなかった。それはむしろ数学研究者たちのあいだで、ほぼ普遍的に主張され、さらに一世紀以上にわたって私たちの文化全体を貫いて優勢であった課題についての構想──つまり数学を科学と見る見解──であった。
 「これらの問題における混乱は」、と彼は「大タイプ草稿」「に書いている。「ことごとく数学を一種の自然科学として取り扱ったことに起因している。」

そしてこれは、数学が自然科学からそれ自ら引き離しているという事実と結びついている。というのは、数学が物理学と直接的に結びつけられる限り、数学は自然科学ではない、ということは明瞭であるからである。(同様に箒が家具を清掃するために用いられる限り、部屋の飾りの一部として間違って用いられることはない。)

 ウィトゲンシュタインの数学の哲学は、(フレーゲとラッセルによって先導された)論理主義者たち、(ヒルベルトによって先導された)形式主義者たち、そして(ブラウアーとワイルによって先導された)直観主義者たちの反対陣営によって今世紀の最初の前半に争われた主題の基礎に関する議論への寄与なのではない。その代わりに、それはこの議論全体の基盤を掘り起こす企てであった──数学がさまざまな基礎を必要とするというアイデアを掘り起こす企てであった。「さまざまな基礎」──集合論、証明理論、量限化論理学、リカーシブ関数理論など──のこの探究によって引き起こされた数学のあらゆる分野を、彼は哲学的混乱に基づいているとみなした。それゆえに、

哲学的明晰性は、太陽光線がトマトの発芽の成育に影響を与えるのと同じ影響を数学の成長に与えるであろう。(暗い地下室のなかで、それらは数ヤードの高さに成育する。)

 ウィトゲンシュタインは、もし彼の哲学的企て全体に関してではないとしても、数学に関しては、彼が風車に立ち向かっていることを、もちろんよく承知していた。「私には最もありそうもないと思われるのは」、と彼は書いた。「私の書いたものを読んだ科学者や数学者たちが、そのことによって彼らの研究の在り方に重大な影響を受けるということである。」彼が繰り返し強調したように、彼は職業哲学者たちのために書いていなかったし、ましてや職業数学者のためには書いていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?