レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン2』

Ⅲ 1929─1941(承前)

15 フランシス

 ウィトゲンシュタインの純粋数学の威信へのドン・キホーテ的な攻撃は、一九三二─三年の学期にピークに達した。この年に、彼は二つの連続講義をした。一つは「哲学」、もう一つは「数学者のための哲学」という題であった。これらの講義のうちの第二番目の講義において、数学専攻の学部の学生たちに用いられていた教科書が彼らに有害な影響を与えている、と彼がみなしたものに対して、格闘を挑んだ。彼はハーディの『純粋数学』(当時の標準的な大学の教科書)からの抜粋を読み上げ、純粋数学という学問全体を覆っていると彼が信じていた哲学的な霧(混迷)を例証するためにそれらを用いた──彼が考えた霧は、ほとんど吟味できないほど非常に深く立ちこめているこの仮定を根絶することによってしか、晴れないものであった。
 これらの仮定の第一にあげられるのは、数学が、とりわけカントル、フレーゲ、そしてラッセルによって与えられた論理的基礎に基づいているということである。この問題に関して彼は自分の立場を直接に言明することで講義を始めた。「数学が依拠する基礎は存在するか」、と彼は凝った言い方で尋ねている。

論理学は数学の基礎か。私の見解では、数学的論理学はたんに数学の一部である。ラッセルの論理計算は基本的ではない。それはまさにもう一つの計算にすぎない。基礎が置かれている以前の科学とは違ったことはないと言っても何も悪くない。

 これらの主張のなかのもう一つは、数学がある意味で客観的に(あるものや他のものについて)真である事実の発見に関わっているという考えである。それらは何について真なのか、この客観性はどこにあるのかということは、もちろんプラトンの時代以来数学の哲学の主題であり、そして哲学者たちは伝統的に、数学的命題が物理的世界について真であると言う者(経験主義者たち)と、この見解が数学の不変性を正当に認めていないと考え、それらは数学的世界について真であると主張する者──プラトンのイデアあるいは形相の永遠の世界(それゆえ、プラトン主義者たち)──とに分けられでてきた。この区別に対してカントは第三の見解を加えた。それは数学的命題が〈私たちの直観の形式〉について真であるという見解であり、そしてこの見解は、大まかに言えばブラウアーと直観主義学派の見解であった。しかし数学が真理の発見に関わっているというアイデア全体は、ウィトゲンシュタインにとって純粋数学の成長および数学と物理的科学の分離とともに生じた誤りである。(使われていない箒を家具の部と取り違えることなど。)もし私たちが数学を一連の技術(計算とか、測定など)としてみるなら、その場合それがたんに何についてかという問いは生じないであろう。ウィトゲンシュタインが攻撃している数学の見解は、ハーディの講義のなかで非常に簡潔に述べられているもので、それは「数学的証明」という題で一九二九年に『マインド」誌に掲載された。ハーディ──数学者として集中力を要する毎日の研究から一種の息抜きに哲学へ遊びにきたように思われる──は、疑いの余地のないように述べている。

……いかなる哲学も、ある仕方とか他の仕方で、数学的真理の不易で無条件的妥当性を認めない数学者には恐らく共感することはありえないであろう。数学の公理は真または偽である。それらの真理性あるいは虚偽性は、絶対的であり、それ らについての私たちの知識から独立している。ある意味では、数学的真理は客観的実在の一部である。……[数学的命題]は、その意味がいかに捉えどころがなく込み入っていても、ある意味であるいは他の意味で実在に関する公理である。……それらは私たちの精神の創造ではない。

この講義の調子にも内容にもウィトゲンシュタインは激怒した。彼は彼のクラスにつぎのように話した。

数学者たちの話がおかしくなるのは、彼らが数学を離れるときである。たとえば、数学は私たちの精神の創造ではない、というハーディの記述がそうである。彼は数学と科学のハードな実在を取り囲む一つの装飾と、一つの雰囲気として哲学を考えたのだ。一方においてこれらの学問があり、他方において哲学があって、それらは部屋の必需品と装飾のように考えられている。ハーディは哲学的臆見について考えている。私は思想を明瞭にする活動として哲学を考えている。

〔…〕

ラッセルと私は、論理的分析によって第一要素ないし〈個体〉を、それゆえ可能的な原子命題(要素命題)を見出そうと期待した。……そして私たちはふたりとも原子命題あるいは個体についての何も例を与えない過失を犯していた。私たちふたりはそれぞれ違った方法で例を挙げる問題を除外した。私たちは、「例を挙げることができないのは、分析が十分にされないからであって、やがてできるようになろう」、と言うべきではなかった。

〔…〕

 これらの講義の出席者のなかに、数学専攻の二十歳の学生がいた。彼は当時トリニティ・カレジの三学年であって、まもなくウィトゲンシュタインの生涯において、最も重要な人間──変わらない友、腹心の友、そして哲学研究においての最も価値のある協力者にさえなる。
 フランシス・スキナーは一九三〇年にセント・ポールズからケンブリッジにやってきた。そして彼はその年に最も将来を嘱望された数学者のひとりとして認められた。しかしながら、ケンブリッジの二年目には、彼の数学の研究はウィトゲンシュタインへの関心についで、第二番目になり始めた。彼はまったく無批判になって、ウィトゲンシュタインにほとんど取り憑かれてしまった。彼の何がウィトゲンシュタインを魅きつけたのかは、ただ推測するしかない。彼を知る人は誰もが、彼が内気であり、控え目で、身なりがよく、とりわけ、驚くほど穏やかであった、と回想している。しかしウィトゲンシュタインが魅きつけられたのは確かだった。ピンセントやマルガリートと一緒にいたときのように、スキナーがたんに居合わせただけで、彼は研究に必要な安らぎをウィトゲンシュタインに与えた。一九三二年にウィトゲンシュタインは、彼が当時終わらせようとしていた著述に関するメモを残している。それは彼自身、スキナーとその著述との関係に、ピンセントと『論考』との関係に対応するものをみていたことを示唆するものである。

この本の完成、あるいは出版の前に私が死んだ場合に、私の覚え書きは『哲学的考察』という題で、しかも「フランシス・スキナーへ」という献辞をつけて、断片集として出版されたし。

 スキナーの手紙はウィトゲンシュタインによって保存されて、彼の死後彼の遺品のなかから見つかった。それらの手紙から、ふたりの関係がどのように展開していったのかをある程度再構成できよう。(ウィトゲンシュタインのスキナーへのー紙は、スキナーの死後ウィトゲンシュタインによって回収され、そして推測だが、焼却された。)残されている最初の手紙は、一九三二年十二月二十六日の日付となっており、それはウィトゲンシュタインが贈ったクリスマスツリーのお札のことが書かれている。その二日後スキナーは書いている。「あなたが私のことを思ってくださっているという手紙を読み、うれしく思います。私はあなたのことをたくさん思っています。
 しかし彼らがおたがいに「フランシス」と「ルートウィヒ」と呼び、スキナーが最愛の人へ書いていること──神経質的で、気づまりそうにではあるが──をほのめかす言葉で自分のことを書き始めるのは、一九三三年のイースターになってからであった。三月二十五日ガーンジー島での休暇中に、彼は手紙を書いた。

親愛なるルートウィヒ
私は先週の土曜日に発って以来あなたのことをたくさん思っています。私は正しい方法であなたのことを思いたいと願っています。私たちがあなたのお姉さんにもらったケースのことを話していたとき、私は何度も笑いましたが、あなたはそれが思い遣りのある笑いではないと分かると言いました。ときどきあなたのことを思ったときに、私は同じような笑い方をしてしまいました。笑うのは悪いことだとはいつも分かっていました。なぜなら、その後でただちに、それを忘れようとしたからです、しかしそれがいかに思い遣りがないことかは分かりませんでした。
 ……私はチャンネル諸島にある島で数日過ごしています。島の人たちの何人かはフランス語を話します。かつてあなたにフランス語を話せますか、と尋ねたとき、あなたが若かった頃、あなたの家に滞在しているほんとうに素晴らしいご婦人から教わったと話してくれました。このことを今朝考えたとき、あなたが私に話してくれた、こうした事柄を思い出してどんなに私が楽しんでいるのかがあなたに分かれば、喜んでいただけるのに、と思いました。
フランシス

 この手紙に示された子供のような単純さ──ほとんど無邪気とも言えよう──にウィトゲンシュタインが心を魅かれたことは、ほぼ間違いない。確かにスキナーの手紙は、ウィトゲンシュタインが忌み嫌ったケンブリッジの多くの学生とか学監ドンの多くにみられる「利発さ」を何一つ示していない。彼は、「ああ、本当だとも!」と言うのを立ち聞きされるようなタイプではなかったし、彼の手紙にもエゴイズムを思わせるものは何一つ示されていない。ウィトゲンシュタインへの献身(彼は彼の悲劇的に短い残りの生涯、献身を貫き通した)に、スキナーは自分の意志をほとんどまったく委ねてしまった。他のことはすべて二の次であった。彼の妹と母親がフランシスに会うためにケンブリッジにやってきたとき、彼は急いで階段を下りてきて、ふたりを宥めて、「僕は忙しい。ここにウィトゲンシュタイン博士を迎えている。私たちは研究している。後で来るように」、と言ったと妹は回想している。
 スキナーは、ファニア・パスカルがウィトゲンシュタインの弟子の必要条件として記述した子供のような無邪気さと第一級の頭脳をもち合わせた最も完全な典型であった。彼はアカデミックな業績の価値に深く染まっている家族の出であった。彼の父親はチェルシー理工科大学校の物理学者であり、ふたりの姉はふたりとも彼以前にケンブリッジに入っていて、上の姉は古典学を、下の姉は数学を学んだ。フランシスは学者の道を歩むことが期待されていた──事実、当然なこととみなされていた。ウィトゲンシュタインの介入がなければ、ほとんど確実にそうしていたであろう。
 学生としての最終の年には、スキナーはまったく完全にウィトゲンシュタインに心を奪われてしまった。一九三三年の夏に、彼が数学の優等生として卒業し、大学院生の奨学金を与えられたとき、彼の家族は、これは彼とウィトゲンシュタインとの研究を継続することを認めたものだという印象をもった。しかし実際にはその奨励金は、数学の研究のためにトリニティから与えられたのであった。
 この時期になると、ウィトゲンシュタインがケンブリッジを離れて過ごす長い夏休みが、スキナーには耐え難くなってきた。その夏の終わりに、彼は書いた。「僕はあなたからずっと遠くに離れたように感じ、ふたたびあなたに近づくことを待ち望んでいます。」彼はハートフォードシャー州にあるレッチワースの彼の故郷の町の風景を描いた一組の絵はがきをウィトゲンシュタインに送った。それらのはがきの表に、表向き少しばかりその町のことを説明しているようなメモ書きをした。しかし実際にはスキナー自身の心の状態がそこにはずっと多く明かされており、ウィトゲンシュタインと数百マイルも離れたレッチワースは、いたいとはけっして願わない最果ての地である、と示すものであった。
 ハワード・コーナーの載っている絵はがきには、彼はレッチワースの「庭園都市」がエビニーザー・ハワード卿によって建設されたと説明した。ハワードは誰もが田舎で生活する機会をもてるように望んだが、「その結果は」、と彼は書いた。「信じられないほど憂鬱で、忌まわしいものでした。(とにかく、私にとっては。)」ブロードウェイの絵はがきには、「これは町と駅へ行く道です。片側に家が並んでいます。それらはいつも私をたいへん惨めにさせます。」スパイレラ工場の写真には、「これはレッチワースでいちばん大きな工場です。……その庭は私にはまったく興味はありませんし、いつもすさんだ状態になっています。」最後の二枚の絵はがきズはリーズ・アヴェニューを示していた──「とても無感覚で憂鬱な通りです、人々はみな気に入らない服を着ていて、彼てらの顔はとても卑しい表情をしています」 そしてイースト・チーブ──「バカげた名前です。……これらの通りにいますと、ゴシップに取り巻かれているように感じます。」
 彼とウィトゲンシュタインとの関係は、彼にこの「すさんだ」、「無感覚な」ものからある種の逃避をさせ、そしてついには──彼の家族の者を大慌てさせ──彼らの期待外れになった。それはまた彼が熱中して順応したものへ、新たな期待を彼に抱かせることになった。大学院の奨励金を受けた三年間、彼は熱中してウィトゲンシュタインと一緒に彼の著書を出版する準備に携わった。その時期が終わったとき、ウィトゲンシュタインが彼にふさわしいと考えた仕事につくために、彼は学者の生涯をまったく捨ててしまった。
 学園を去れ、という友人や学生たちに対するウィトゲンシュタインの忠告は、学園の雰囲気があまりにもエリート好みであって本当の学園生活ができないという彼の確信に基づいていた。ケンブリッジには酸素がない、と彼はドゥルーリーに語っている。そのことは彼自身には問題ではなかった──彼は自分自身の酸素をつくり出していたからである。しかし周囲の空気に依存している人たちは、そこから逃れて、より健康な環境に行くことが重要であった。彼の理想は医療に携わる仕事であった。彼はすでにマルガリートをこの方向へ促していて、彼女は当時ベルンで看護婦になるための訓練を受けていた。それはウィトゲンシュタインが個人的に大いに興味をもっていた企てであった。ふたりの間柄は、もうロマンティックな関係をすっかり失っていた。マルガリートはターレ・シュエグレンと恋仲にあったが、ウィトゲンシュタインレは、マルガリートがどうやって看護婦の訓練を受けているのかを心配し、折をみてなおベルンへ行っていた。
 さて、一九三三年の夏には、サウス・ウェールズで失業中の鉱夫たちと一緒に働く計画も終え、ドゥルーリーもまた看護士の訓練を受けたいと決心した。しかしながら、彼はそれよりも医師として訓練を受けた方が役に立つと言われた。このことを話すと、ウィトゲンシュタインはただちに乗り気になって動いた。彼はケインズとギルバート・パティソンにドゥルーリーに必要な資金を貸す手はずを整え、ドゥルーリーに電報を打って、「すぐにケンブリッジに来い」、と彼を急き立てた。ドゥルーリーが汽車から降りるか降りないうちに、つぎのように言った。「いま、このことについてはもうまったく議論の余地がない。すべてはもう決まったことだ。きみはすぐに医学生として勉強を始めるべきだ。」後になって彼のすべての学生のなかで最も誇りと満足を感じるのは、ドゥルーリーの生き方に影響を与えたことだ、と彼は語っている。
 一度ならずウィトゲンシュタイン自身が真剣に医師になるための訓練を受け、そしてアカデミックな哲学の「無気力」を逃れることを考えた。彼は酸素をつくり出すことはできるかもしれなかった──しかし身体に肺臓を備える場合に何が必要となるのか。もちろん彼は、大多数の哲学者たちが自分の最新の思想を知りたがっていることを知っていた。というのは、一九三三年頃には『論考』の出版以来彼が彼の立場を根本的に変えたことは、とくにケンブリッジとウィーンでは広く知れわたっていたからであった。彼が新しい著述を準備していることは、彼らに対して──「哲学のジャーナリストたち」に対して──である、ということを断固として認めなかったが、しかし依然として彼は彼の酸素が彼らによってリサイクルされることに我慢できなかった。一九三三年三月に、彼は『ケンブリッジ大学研究』という調集に載っているリチャード・ブレイスウェイトの論文を見て心を痛めた。そこでブレイスウェイトは、ウィトゲンシュタインを含めて、さまざまな哲学者たちが彼に与えた印象を概括していた。ブレイスウェイトがそこで述べていることをウィトゲンシュタインの現在の見解であると、みなされかねない事柄に対して、ウィトゲンシュタインは、ただちに『マインド』誌へ、自分の見解としていることについていっさいの責任をもたない旨の手紙を書いた。「[プレイスウェイト]の言明の一部は、私のを見解を正確に説明していないと受け取れる」、と彼は書いた。「他の部分はまた明らかに私の見解と矛盾している。彼はつぎのように結んでいる。

私の著述の出版が延びているのは、それを明瞭で整合的な形で示すことが困難であるからであり、それなのにそれを手紙の範囲で私の見解を述べることはいっそう(a fortiori)困難である。それゆえ、読者はそれらについての彼の判断を保留しなければならない。

 『マインド』誌の同じ版に、ブレイスウェイトの悔恨の意を表した弁明が載せられた。しかしそれは後味の悪い言葉で結ばれている。「私がウィトゲンシュタイン博士を誤解した、その程度に関しては、私たちすべてが首を長くして待っているその本が出版されるまでは、判断できないであろう。」
16 言語ゲーム──『青色本と茶色本』

〔…〕

 名詞に対応する実体を求めようとする傾向性と結びついているのは、何らかの所与の概念には、〈本質〉──一般名辞に名のもとに包摂されるすべての事柄に共通するあるもの──があるという観念である。それゆえ、たとえばプラトンの対話において、ソクラテスは〈知識とは何か〉のような哲学的な問いに、すべての知識の事例に共通する何かあるものを探し求めることによって、答えを求めている。(このことと関連して、ウィトゲンシュタインはかつて、自分の方法はソクラテスの方法とは正反対であるようにまとめられると語ったことがあった。)『青色本』において、ウィトゲンシュタインはこの本質の概念を家族的類似性(family resemblances) という、より柔軟な観念に置き換えようとしている。

私たちはすべてのゲームに共通する何かがなければならない、そしてこの共通な特性は〈ゲーム〉という一般的な名辞を種種のゲームに適用することを正当化する、と考える傾向がある。それに対して、ゲームは家族を形成しており、その家族のメンバーに家族的類似性があるのである。彼らのなかで何人かが同じ鼻を、他の何人かが同じ眉をし、また他の何人かが同じ歩き方をしている。そしてこれらの類似性は重なり合っている。

 ウィトゲンシュタインに従えば、本質を求めることは、私はたちの科学の方法への没入から生じる「一般性への憧憬」の一例なのである。

哲学者たちは絶えず目の前の科学の方法を見ており、そして科学と同じ方法で問い、答えようとする誘惑に抵抗し難いのである。この傾向性が形而上学の真の源泉であり、哲学者をまったくの闇へ導くのである。

ウィトゲンシュタインのこの傾向性の回避──どんな一般的な結論も表明することに対する彼の完全なる拒否──は、恐らく彼の著述の理解を困難にしている主要な特徴であろう。というのは、彼自身がかつて連続講義の初めに説明したように、いわばその道徳を指摘せずに、彼の発言の要点を理解するのは難しいからである。「言うことはたやすい、しかしなぜそれを言うのかを知ることはたいへん難しいであろう。」

一九三三年のクリスマス休暇のあいだ、スキナーは二、三日おきにウィトゲンシュタインに手紙を書き、彼がいなくて、どんなに淋しいか、どんなに彼のことを思っているか、どんなに彼とふたたび会うことを待ち望んでいるかを語った。ウィトゲンシュタインと過ごしたどの最後の瞬間も、深い愛情をこめて彼は回想している。

あなたにハンカチを振るのを止めた後で、フォークストンを経由し、八時二十八分の列車でロンドンへ戻りました。私はあなたのことを思っています。そして私たちがさようならと言ったとき、どれほど素晴らしかったことか。……私はあなたを見送るのがとても好きでした。あなたがいないのでたいへん淋しく思っています。そしてあなたのことをたくさん思っています。
 愛を込めて
  フランシス

 アレーガッセでの家族とのクリスマスに、(グレーテルの客としてウィーンでクリスマスをずっと過ごしていた)マルガリートはターレ・シュエグレンとの婚約を発表し、多少センセーションを巻き起こしていた。父親の反対にあってはいたが、グレーテルに励まされて、マルガリートは非常に短期間で婚約を決めた。彼女とターレは大晦日に結婚した。彼女の父親は、遠くスイスにいて、少なくとも手出しのできない所にいたのである。ウィトゲンシュタインは違った。結婚式を回想して、彼女は書いている。

日曜日の朝私の結婚式の一時間前に、ルートウィヒが私に会いに来たときは私の絶望は絶頂に達しました。「きみはボートに乗っている。海は荒れるでしょう。転覆しないように、いつでも私につかまりなさい」、と彼は私に言いました。その瞬間まで私は彼の深い愛情も、また恐らく彼の大きな瞞きにも気づきませんでした。数年間、私は善き人になって欲しいという彼の努力におとなしく従って来たのでした。彼は倒れている者に新たな生命を与えるサマリア人のようでした。

彼女がその日になるまで、ウィトゲンシュタインの彼女への愛情がどれほど深かったのか分からなかったというのは、信じ難い。しかし基本的に倫理的目的をもつようにと彼女の人生に彼が関わりあっていたことを、彼女は察知すべきであった。これは彼の多くの交友についても言える特徴であった。「彼は良き伴侶の像をありありと目の前に思い浮かばせた」、とファニア・パスカルは言っている。マルガリートが他の人との結婚を選んだその理由の一つは、結局彼女がこの種の道徳的プレッシャーをもって生きることを望まなかったからであった。
 一九三四年の大半、ウィトゲンシュタインは、関連はあるが、異なった三つの研究計画の実行にあたった。それは、彼が『マインド』誌への手紙に書いた問題の解決──「明瞭で整合的な形で」彼の哲学の方法を提示する試みであった。ケンブリッジでは、『青色本』の口述筆記の他に、彼はまた大タイプ草稿に大幅に手を加えた──ラッセルに、「それにだらだらと関わっている」、と語っているものである。(この「だらだらと関わっている」ものの結果が『哲学的文法』の第一部に組み込まれている。)ウィーンでは、彼はワイスマンとの本の出版のスケジュールをこなすために(次第に気が進まなくなり、疑念が絶えず増大していくなかで)共同で仕事を続けた。一九三四年のイースター休暇には、スケジュールは新たにされた。今度はワイスマンとウィトゲンシュタインが共著者となるというように提案され、ウィトゲンシュタインはなまの素材を提供し、その形態と構造について統括にあたり、ワイスマンはそれを明瞭で整合的に書きあげることに責任をもつこととなった。つまりワイスマンは、ウィトゲンシュタインがその仕事で最も困難とみなしていたことを引き受けることになった。
 新しく打ち合わせをするたびに、ワイスマンの立場はいっそう悪くなっていくようにみえた。八月までに、彼はウィトゲンシュタインと本を書くことの難しさについてシュリックに不平を漏らしている。

彼にはいつも物事をまるではじめて見るかのように見る偉大な才能があります。しかしそのことによって彼との共同作業が非常に困難になっていると思います。といいますのは、彼はいつも瞬間のインスピレーションに委ねて、そして以前に書いたものを捨ててしまうからです。……その構造が少しずつ破壊されて、そして全体が徐々にすっかり異なった外観を取っていくということだけが分かります。そのために結局は以前にあったものが何も残されていないので、その思想がどのように構成されてもかまわないという感じにほとんどなってしまうのです。

 瞬間のインスピレーションに委ねるウィトゲンシュタインの癖は、彼の著述ばかりではなく、彼の生活にも注がれた。一九三四年に、当時二つの本の出版計画(ウィーンでは『論理・言語・哲学』、英国では『哲学的文法』)に携わっていたにもかかわらず、彼は学者の生活をまったく断念し、スキナーと一緒にロシアへ行き、そこで彼らふたりは手作業労働者としての仕事を探して生活することを考えていたのであった。スキナーの家族は当然ながらその考えも憂慮した。しかしスキナー本人には、いつもウィトゲンシュタインと一緒にいられるようになるのは計り知れないほど素晴らしいことであった。彼はウィトゲンシュタインと一緒にいることをまるで必然のようにみなし始めていた。ウィトゲンシュタインと離れては、何もかも落ち着かず安らぎを感じなかった。「あなたと一緒にいれば」、と彼はイースター休暇中に書いた。「すべてのことを深く感じることができます。」それは彼の手紙の変わらないテーマであった。

私はあなたのことをたくさん思っていました。あなたが私と一緒にいてくれることを願いました。そうした夜はとても素晴らしく、星は特に美しく見えました。私は、あなたと一緒にいたときに感じたようなことすべてを、感じられるように願いました。[1934.3.25]

私はどこか広い空間のなかであなたと一緒にいられることを願いました。私はあなたのことをたくさん思っています。私たちの散歩がどんなに素晴らしかったことか。来週の私たちの旅行を言いようもないほど期待しています。昨日、とても愛らしいあなたのイースターカードを手にしました。他の絵はがきの、街路に立ち並ぶ家々はとても美しく見えました。あなたと一緒にそれらを見ることができたらよかったのに。[1934.4.4]

 スキナーはまた手紙のなかで、ウィトゲンシュタインの導きがなければ、まるで悪魔の手に陥っていたかのように、ウィトゲンシュタインとの出会いが自分にとって道徳的必然性であったことを強調している。このことは、スキナーがブーローニュでウィトゲンシュタインにさようならの手を振った翌日、一九三四年七月二十四日の手紙のなかに最も顕著に見出される。その手紙は、さようならと手を振ったことが「いかに素晴らしく、甘美で」あったかというような、もうすでに慣用の表現となった書き方で始まり、その後で彼はブーローニュでひとり残されてしまうと直ちにどんなに罪深くなってしまったか、と書き続けている。彼はカジノに入り、一〇フランすり、それから絶対しないと決意したにもかかわらず、誘惑に駆られ戻り、今度は五○フラン儲けた。自分自身に愛想をつかして、彼は午後の船で英国に帰ることを誓った。しかし出航の時間になると、彼はもう一度カジノに引き戻された。そのとき彼は魂を失っていた。

私は十分に注意を払い、自分をしっかりと落ち着かせ、ふたたび賭けを始めました。その後少しずつ負け始めると、突然自分を抑制することも用心することもできなくなり、ますます分別を失い、賭けを続けました。すっかり激しい興奮状態に陥り、自分を制御できなくなってしまいました。全部でおよそ一五○フラン失ってしまいました。最初私がもっていたフランスのお金、およそ八○フランを失い、そしてその後で一○ポンド紙幣をフランス通貨にかえましたが、それも全部失ってしまいました。それから私がもっていた英国の銀貨をすべて出しましたが、それも全部すってしまいました。その後で私は五時頃カジノを出ました。新鮮な空気を吸ったとき、私はギャンブルを始めてからずっと自分がなんと恐ろしい、無惨で、忌々しいことをしてしまったのか、という思いに突然襲われました。お金を得ようとそれほどまでに熱中したことを恐ろしく思いました。私は突然に自分がなんと卑しい、汚れた、堕落した状態に陥っていたのかが分かりました。私は自分の身体のなかに肉体的に奮い立たせ、興奮してくるものを感じとりました。私は悲惨な精神状態のまま、しばらく街を歩き回りました。ギャンブラーたちがなぜ堕落の感情に恐ろしいまで駆られ、しばしば自殺を図るのかが分かったような気がしました。私はとても恐ろしいペリシテ人のことを思いました。私は自分自身を破壊させてしまっていると感じました。その後でホテルに戻り、全身を洗い浄めました。

スキナーはドストエフスキーではない、そして彼自身の道徳的堕落についての描写は奇妙にも説得力をもって心に響いて来ない。しかし彼が懸命になってしようとしているその努力は、確かにウィトゲンシュタインが賞賛していたことを彼が知っていたロシアの小説とどこか似ている。自暴自棄になって自殺の罪を引き起こす彼の物語は、贖罪の宗教の必要性をはっきりと指し示しているように見える。事実、彼は両手を洗った後で、ウィトゲンシュタインと一緒に訪れたブーローニュの教会を探し求めるありさまを書き続けている。教会のなかで、「私はあなたのことをたくさん思いました。私はほとんど、どうしたらいいのか分かりませんでしたが、教会に慰められました。」彼はつけ加えている。「すべてのことを知らせないで手紙を書けば、私は不埒なやくざ者で、あなたの愛にまったく価しないと思いました。」
 この宗教的テーマは数週間後にふたたび取り上げられてい八月十一日に、スキナーは『アンナ・カレーニナ』からの言葉、つまり、ほとんど自殺寸前に追いつめられたレーヴィンの「私は自分が何であるのかを知らずに生きていくことはできない」、という言葉を引用して手紙を書いている。そして「しかしレーヴィンは首をくくりませんでしたし、銃で自らを射つこともしないで、生き、葛藤を続けました」、という言葉で結んでいる。「この最後の文章を読んだとき」、とスキナーは、ウィトゲンシュタイン自身の書いたものと多く共感するような言葉で、ウィトゲンシュタインに語っている。「私は突然に身の毛のよだつようなものを読んでいることに気づきました。」

私は突然自分が読んでいるもののすべてが何を意味しているのかを理解したように思えました。先を読むにつれ、そのことすべては測り知れない真実でもって書かれているように思いました。私はまるでバイブルを読んでいるように感じました。まったく理解はできませんでしたが、それが宗教であると感じました。このことをもっと詳しくあなたにお話したいのです。

 スキナーとウィトゲンシュタインは、この頃ソビエト連邦への差し迫った訪問に備えて、一緒にロシア語のレッスンを受けていた。彼らの先生はファニア・パスカルであった。彼女はマルキスト知識人で共産党員であるロイ・パスカルの妻であった。ウィトゲンシュタインがロシアに行こうとした動機に触れて、パスカル夫人はつぎのように発言している。「私の考えでは、彼のロシアへの感情は、何か政治的とか社会的なことよりも、いつもトルストイの道徳的な教えと、ドストエフスキーの精神的な洞察とに関わっていました。」スキナーの手紙の語調と内容がこのことを確証しているようである。けれどもウィトゲンシュタインとスキナーが訪問を望んでいたのは、トルストイとドストエフスキーのロシアではなかった。ロシアで彼らは職を探そうと計画していた。ふたりが望んだのはスターリンの五か年計画のロシアであった。彼らのどちらも恐らくそれほど政治的に無知であったとか、二つのロシアとの違いをまったく認識できないほど情報不足ではなかった。
 ウィトゲンシュタインは、彼がマルキシズムに敵対的であったがゆえに、恐らくパスカルには「旧い保守主義者」と映じていた。しかし多くのウィトゲンシュタインの友人たちは、それとはまったく異なる印象をもっていた。たとえば、一九三〇年代にウィトゲンシュタインをよく知っていたジョージ・トムソンは、ウィトゲンシュタインがこの時期に「政治的意識が次第に高まってきた」と語っており、そして彼はウィトゲンシュタインとはそれほど頻繁にではないが、それでも政治のことを話し合っており、「時代の流れについて情報を得ていたことは十分に確かであった。彼は失業とファシズムの悪に、差し迫ってくる戦争の危険に鋭敏に反応した」、と語っている。トムソンは、ウィトゲンシュタインのマルキシズムに対する態度に関して、「彼はその理論には反対で、実践に関しては支持していた」、と付け加えている。これはウィトゲンシュタインがかつてローランド・ハット(一九三四年にウィトゲンシュタインと知り合いになったスキナーの親友)に語った発言、「私は心のなかではコミュニストだ、と一致している。またこの時期のウィトゲンシュタインの多くの友人、とくに彼にソビエト連邦についての情報を与えた友人たちはマルキストであったことを忘れてはならない。ジョージ・トムソンに加えて、ピエロ・スラッファがいて、彼の意見をウィトゲンシュタインは政治問題に関して他の誰よりも高く評価していた。またニコラス・バフチン、モーリス・ドッブもいた。一九三〇年代の半ばの政治的大動乱のなかでウィトゲンシュタインが共鳴したのは労働者階級と失業者たちであり、そして大まかに言えば、彼は左派寄りであったことは疑いえない。
 しかしウィトゲンシュタインにとって、ロシアの魅力は、政治的および経済的理論としてのマルキシズムにはほとんど、あるいはいっさい関係なく、彼が信じていた生活がソビエト連邦では送れるということに多く関係していたのが真相であろう。このことは、一九三四年の夏にウィトゲンシュタインとスキナーがモーリス・ドゥルーリーと交わした会話にあらわれている。そのとき彼らはアイルランドの西海岸コニマラにあるドゥルーリーの兄弟の小屋で夏の休暇を過ごした。ふたりが到着すると、ドゥルーリーは彼らのために、ローストチキン、それにスエット・プディング、糖蜜とかなり手の込んだ食事を準備していた。ウィトゲンシュタインは不満を表明し、自分たちがコニマラに滞在しているあいだ、朝食にはポレッジ〔オートミール、デンプン、水または牛乳で煮た粥〕、昼食には野菜、夕食にはゆで卵以外は食べるべきではないと主張した。ロシアが話題になったときに、スキナーは「熱烈な」ことを何かしてみたいと言った。それはウィトゲンシュタインには危険に思われる考え方であった。「私が思うには」、とドゥルーリーが言った。「フランシスはあなたと一緒に糖蜜をとりたくないと言っているんだよ。」ウィトゲンシュタインは喜んだ。「うん、それは素敵な表現だ。それがどういう意味かはよく分かるよ。そうとも、私たちはみんなと一緒に糖蜜をとることを望んでいないのだ。」
 恐らくウィトゲンシュタインにとって、ロシアでの手作業の労働者の生活は、糖蜜なしの生活の典型的な例であった。つぎの年にロシアではどうなるか、スキナーにある程度体験させるために、彼はローランド・ハットと一緒に冬期間、ある農場で六か月働いて過ごす手はずを整えた。ウィトゲンシュタイン自身、冷たい二月のある朝六時にその仕事を手伝うためにやってきた。
17 兵役とのつながり

 一九三五年七月三十一日のシュリックへの手紙で、ウィトゲンシュタインはその夏にオーストリアにはたぶん行かないであろうと書いている。

九月の初めに、私はロシアへ旅行するつもりです。そしてそこにとどまるか、あるいは二週間後に英国へ帰るかどちらかです。帰った場合には、英国で何をするか、まだまったく決めていませんが、恐らく哲学は続けないでしょう。

 一九三五年の夏中、彼は差し迫ったロシア訪問の準備をしていた。彼は定期的に友人たちと会った。彼らの多くは共産党のメンバーであり、ロシアに行ったことのある人たち、あるいはその地の状況について情報を提供できる人たちであった。彼はまた、恐らく彼自身とスキナーのためにそこで仕事を探す手助けのできる人たちと連絡をとってくれることを希望していた。これらの友人たちには、モーリス・ドッブ、ニコラス・バフチン、ピエロ・スラッファ、それにジョージ ・トムソンがいた。彼らは、ウィトゲンシュタインは手職の労働者としてロシアに移住するか、ひょっとしたら医師になるかことを望んだが、しかしどちらにしても哲学は捨てようとしていた、という印象をもっていた。トリニティのフェローガーデンでジョージ・トムソンと会ったときに、哲学の仕事を捨てたので、ノートをどう処理すべきかを決めなければならないと彼は説明している。それらをどこかに残しておくか、あるいは破棄してしまうべきか、ということであった。彼は自分の哲学についてトムソンに長々と語り、その価値を疑っていた。トムソンからの執拗な訴えがあって、彼はそのノートを破棄せずに、代わりに大学の図書館に保管することに同意したのであった。
 西欧の国々がファシズムの台頭と集団失業の問題に脅かされていたので、ソビエト・ロシアにその代わりを求めたのは、ケンブリッジではひとりウィトゲンシュタインだけではなかった。一九三五年の夏は、ケンブリッジの学生たちにとって、マルキシズムが大学で最も重要な知的勢力になった時期であり、多くの学生たちと教師たちが巡礼の精神でソビエト連邦を訪れた時期であった。アンソニー・プラントとマイケル・ストレートが有名となったロシアへの旅行をしたのも、そのときのことであり、そこからいわゆる〈ケンブリッジ・スパイ同盟〉が結成されることになる。そしてモーリス・ドップ、デイヴィッド・ハイデン = ゲストとジョン・コンフォードによって数年前に結成されたケンブリッジ共産党細胞が、ケンブリッジでのエリート知識人たちの大半を引き入れ、そして多くの使徒団の若いメンバーたちを引き入れるまでに拡張したのも、そのときであった。
 ウィトゲンシュタインは、いつのときもマルキストではなかったにもかかわらず、ケンブリッジ共産党の核を形成する学生たちにシンパとみなされ、彼らの多く(ハイデン = ゲスト、コンフォード、モーリス・コンフォースなど)は、彼の講義に出席した。しかしウィトゲンシュタインがロシア訪問を望んだ理由は、まったく違っていた。西ヨーロッパ諸国の崩壊についての彼の認識はつねにマルキスト的というよりシュペングラー主義的であった。そして以前に述べたように、『ロシア管見』においてケインズが描いたソビエト連邦の生活の描写に、彼はどうやらすっかり魅き入れられていたようである──そこでは、マルキシズムを経済理論として低く評価する一方、ロシアにおけるマルキシズムの実践を新しい宗教として称賛し、その宗教には超自然的信仰でなく、むしろ宗教的態度が深く主張されていた。
 たぶんこうした理由から、ウィトゲンシュタインはケインズに理解してもらいたいと考えた。「あなたはロシアに行きたいという私の理由をある程度理解されたと確信します」、と彼は七月六日にケインズに書いた。「そしてそれらはいくぶん不当で、子供じみてさえいることを認めますが、しかしまたそのすべての背後には深い、そして正当な理由もあることも事実なのです。」ケインズは、実のところウィトゲンシュタインの計画には賛成ではなかった。しかしそのことは別にして、彼はウィトゲンシュタインがソビエト政府の嫌疑を受けないようできる限り助力した。ウィトゲンシュタインはロシア大使館でヴィノグラドフという大使館員と会合した。彼は「私たちの会話では極度に警戒していました。……もちろん彼は推薦状が私の役に立つということをよく承知していたのですが、しかし彼が私に何ら手助けするつもりがなかったこともまったく明瞭でした」、とウィトゲンシュタインはケインズに語っている。彼らしいやり方で、ケインズは直接大使館の首脳のところに行き、ウィトゲンシュタインにロンドンのロシア大使、イワン・マイスキーへの紹介状を用意した。「失礼ながら、あなたにルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン博士を紹介いたしたいと存じます。……彼は著名な哲学者であり、私の長年の親友です。あなたが彼に便宜を計らっていただければこのうえもなく幸甚に存じます。」そして、こうつけ加えた。「彼がロシアへ行くことを希望している理由をあなたから聞いていただきたいのです。彼は共産党員ではありませんが、彼はロシアの新しい体制が提唱していると信じる生活形態に強い共感をもっております。」
 マイスキーとの会合で、ウィトゲンシュタインは礼儀にかなった、丁重な振る舞いをするのにたいへん苦労した。ケインズは、マイスキーがコミュニストであるが、彼は「閣下」などのように言われることを好まないことはないし、また儀礼と礼儀のしきたりについては、ブルジョアの高級官僚のような礼儀作法もしないことはないとウィトゲンシュタインに忠告した。ウィトゲンシュタインはその忠告を肝に銘じた。その面会は、生涯のうちで彼がネクタイを締めたごくわずかな事例の一つであったし、彼はできる限りひんぱんに「閣下」という言葉を用いた。後ほどパティソンに話したように、実際に彼は大使に敬意を示そうと非常に気をつかい──その部屋から退出するとき、マットの上で靴をよくぬぐうというのような大層な振る舞いをした。その面会の後で、ウィトゲンウシュタインはケインズに報告した。マイスキーは「断然素敵な人で、結局私に役に立つ情報を与えてくれるロシアの何人かの住所を私に送ってくれることを約束してくれました。私がロシアに移住する許可を得る希望はまったくない、とは彼は考えませんでした。もっとも彼は、それが可能であるともは考えませんでしたが。」
 これらの──それほど有望とはいえないが──ロシア大使との面会の他に、ウィトゲンシュタインはまたソビエト文化交流協会(SCR)をとおして連絡しようとした。SCRは一九二四年に設立され、英国とソビエトとの文化交流を促進するための組織であった。(現在もある。)講演、討議と展示などを企画し、その雑誌として『アングロ = ソビエト・ジャーナル』を発行し、一九三〇年代では発刊のたびに、ソビエト連邦の外人観光局のソビエト旅行会社、インツーリストによって組織されたロシア旅行の広告を掲載した。(「一生の経験にUSSRを訪問しよう」など。)(ソビエト・ロシア友好協会の会社組織とは違い)、その目的は、政治的であるよりはむしろ文化的であったので、SCRのメンバーにはチャールズ・トレヴェリアンのような多くの非 - コミュニストたちがいた。事実、ケインズ自身がそうであった。しかし一九三五年には友好協会と同じ人たち(ハイデン = ゲスト、パット・スローンなど)が優位を占めていた。八月十九日にウィトゲンシュタインは、その会の副会長ミス・ヒルダ・ブラウニングに会うためにSCRの事務所に行った。つぎの日彼はギルバート・パティソンに報告した。

ミス・Bとの会見は期待していたよりもうまくいきました。少なくとも私は有用な情報の一部を得ました。──私がロシアに移住する許可を得るただ一つのチャンスは、旅行者としてそこへ行き、役人と掛け合うこと、そしてこのために私ができることと言えば、紹介の手紙をもらうしかないということです。またミス・Bは、彼女がこのような手紙を二箇所へ出してくれると言いました。およそ、これでも何もないよりはましです。しかしこれでは何も解決していませんし、以前と同じく、彼らが私をどうするのかということだけでなく、私がどうしたらいいのかということについても、まったく闇のなかにおかれています。恥ずかしいことですが、自分が何をするかについて二時間ごとに自分の決心が変わります。自分が根っからのまったくの愚か者だと分かり、かなり不快感に襲われています。

 彼が紹介された二箇所とは、北方研究所と少数民族研究所であった。これらは二つともソビエト連邦の少数民族集団に対して読み書きのレベル改善のために設置された教育研究所であった。これを「何もないよりはましだ」と考えたけれども、ウィトゲンシュタインはとくに教える仕事は望んではいなかった。しかしケインズから話されていたように、もし彼がソビエトのどこかの組織から招待状を受けた場合に限り、ソ連に移住する許可を得る可能性があった。「もしあなたが彼らに何か役に立つような資格をもった技師であれば」、とケインズは彼に書いた。「難しくないかもしれません。医療に関する何らかの資格があればたいへんいいようですが、いずれにしてもそうした資格がなければ、移住許可は難しいでしょう。」生涯医師になる欲求を抱いていたウィトゲンシュタインは、ロシアで医師として働くつもりで、英国で医学を学ぶ可能性を考えた。そしてケインズから医学の教育を受けるのに必要な経済的支援の約束をすでに取っていた。しかし彼がほんとうに望んでいたのは、手職の労働者としてのロシア移住の許可であった。しかしソビエトのどこかの組織から招待状を受け取るのはほとんどありえないことが、次第に彼にはっきりしてきた。ソビエト・ロシアで不足していないものと言えば、技術をもたない労働しかなかったからである。
 九月七日にレニングラードへ出発するまでに、ウィトゲンシュタインがやっとのことで手に入れたものと言えば、ヒルダー・ブローニングからの紹介状とモスクワに住んでいる人たち、数名の名前と住所にすぎなかった。彼はギルバート・パティソンと病気のために旅行に同行できなかったフランシスから、ロンドンのヘイズ波止場で見送りを受けた。しかしながら、彼は彼自身のためばかりではなく、フランシスのためにも職を探していると思われていた。同じ船に、ジョージ・サックス博士が乗船していた。彼は妻と一緒に食事をしたさいにウィトゲンシュタインが真向かいに座ったときのことを回想している。ウィトゲンシュタインの隣にはアメリカのギリシャ正教の牧師が座った。意気消沈し放心状態にみえたウィトゲンシュタインは、座って虚空をじっと見つめ、誰とも話をしなかった。しかしある日両手を挙げて、牧師に自己紹介し、「ウィトゲンシュタインです!」と叫んだ。牧師は自分の名前を述べて応えた。彼はその旅行の残りのあいだずっと沈黙を続けた。
 九月十二日に彼はレニングラードに到着した。つぎの二週二週間には彼のポケット手帳は、彼が職を得るために努力して連絡をとった多くの人たちの名前と住所でいっぱいであった。レニングラードでは彼は北方研究所はもちろん、そこの大学の哲学教授、タティアーナ・ゴルンスタイン夫人を訪れ、レニングラード大学で哲学の講義をすることを申し出た。モスクワでは彼は数学的論理学教授、ソフィア・ヤノフスカヤと会った。彼女とは意気投合し、その友情は彼が英国へ戻った後も文通をとおして長く続いた。彼は彼女のあけすけな話し方に魅せられた。彼に最初に会ったときには、彼女は、「何ですって、あの偉大なウィトゲンシュタインではないの」、と叫び声をあげた。そして哲学の話をしているあいだに、後女はまったく屈託なく彼に言った。「あなたはもっとヘーゲルを読むべきだわ。」彼らの哲学の議論をとおして、ヤノフスカヤ教授は、ウィトゲンシュタインが弁証的唯物論とソビエトの哲学思想の展開に関心をもっているという(まったく間違った)印象をもった。ウィトゲンシュタインはまずカザン大学での哲学の椅子を提供され、それからモスクワ大学で哲学を教えるポストを提供されたが、それは明らかにヤノフノカヤをとおしてであった。
 モスクワでは、ウィトゲンシュタインはまたパット・スローンとも二、三度会った。彼は当時ソビエト労働組合のオルグとして働いていた英国の共産主義者であった。(『幻影なしのロシア』、一九三八年、という本で彼のその期間の生活を回想している。)そのときの話題が、恐らく何か手作業をして働きたいというウィトゲンシュタインのもち続けてきた希望に集中したに違いないであろう。そうであれば、それらの話は明らかにうまくいかなかった。ジョージ・サックスはそのことを回想している。モスクワでは「私たち[彼と彼の妻]が聞いたところでは、ウィトゲンシュタインは集団農場で働きたがっていたが、しかしロシア人たちは、彼のいましいている仕事がりっぱな貢献であり、それだからケンブリッジなに戻るべきだと彼に話していた。」
 九月十七日、モスクワにまだ滞在しているあいだに、ウィトゲンシュタインはフランシスから手紙を受け取った。彼は仕事が見つかる限りとどまるようにと主張していた。「あなたと一緒にいていろいろなものを一緒に見ることができればいいのですが」、と彼は書いた。「でも私はあなたと一緒にいるような気がしています。」この手紙からすると、ウィトゲンシュタインとスキナーは、ソビエト連邦に移住するに先だって、つぎの学年に恐らく『茶色本』の出版の準備をする計画を立てていたようである。このことは、一九三五─六年の来る学年がスキナーの大学院の三年奨学金とウィトゲンシュタインのトリニティでの五年のフェローシップの両方の最終年になっていることと関わっている。「私は来年に予定されている私たちの仕事のことをたくさん考えています」、とフランシスは彼に話した。「あなたが昨年に用いた方法についてですが、その精神はたいへん優れていると思います。」

どれもこれもまったく簡潔で、しかも光に満ちあふれている、と私は思います。それを続け、出版の準備をすることはたいへんいいことだと思います。私はその方法が非常に価値あることだと考えます。私たちがそれを続けていけるよう、ぜひ希望いたします。最善を尽くしましょう。

「重ねて言いますが」、と彼はつけ加えた。「あなたがもっと学ぶ何らかの機会があると考えられるのでしたら、予定されている期間よりも長くモスクワにいてください。そうすることが私たちふたりに価値あることになるでしょう。」
 ウィトゲンシュタインが滞在を延期する理由がなかったことは明白だった。彼の訪問は、彼が出発前に言われていたことを確認することだけになった。つまり彼が教師としてソ連に入ることは歓迎されたが、しかし集団農場の労働者としては歓迎されなかったのであった。去る前の日曜日に、彼はロンドンで会いたいという葉書をパティソンに書いた。

親愛なるギルバートへ!
明日の夕方モスクワを発ちます。(私はナポレオンが一八一二年に泊まった部屋に滞在しています。) 明後日私の乗る船がレニングラードから出航します。ネプチューンの神が私と会ったとき、私に同情してくれることをただ希望するだけです。私の船は[九月]二十九日、日曜日にロンドンに到着予定です。船まで迎えにきてくれるか、または(「渚の宮殿」とよく呼んでいた)私の宮殿に伝言をしてくれますか。あなたの年取ったひどいブラツディ顔をふたたび見ることをぜひ期待しています。いつまでもこん畜生ブラツドでいてください。
ルートウィヒ
追伸。検閲官がこれを読んだら、ざまあみろ!

英国に帰った後、ウィトゲンシュタインは彼のロシアの旅のことをほとんどロにしなかった。彼はファニア・パスカルに報告書を手渡すようフランシスに頼んだ。それには彼がヤノフスカヤ夫人と会ったこととカザン大学での仕事の申し出のことが書かれ、「彼は自分の将来について何も決定しなかった」、という文面で結ばれていた。その報告にはソビエト・ロシアについてのウィトゲンシュタインの印象は何も──見てきたことが良かったのか悪かったのかをほのめかす何も──書かれていなかった。このことに関して、彼は一言、二言脈絡のないコメントがあるだけで、完全に沈黙を通した。この沈黙の理由を彼は友人たちに話しているが、それによると、ラッセルに彼の名前を反ソビエト宣伝に利用される可能性があって(『ボルシェビキ主義の理論と実践』の出版後)、自分の名前を用いられたくなかった、というのであった。
 このことは、ソ連についての印象を公にしていたら、彼は容赦なくありのままの像を描いていたであろうことを示唆している。彼のとった態度を解く重要な手がかりは、恐らくロシアでの生活が軍隊で一兵卒であったのとかなり似ていた、と彼がギルバート・パティソンに話したことにあろう。彼がパティソンに話したのは、そこで生活することは「私たち教育のある人たち」には、生き残るための必要悪の度合いが高く、難しいということであった。ウィトゲンシュタインがロシアでの生活を第一次世界大戦中の「ゴプラナ号」での経験と比較して考えていたとすれば、短い訪問から帰ってきた後で、彼がそこに移住する気持ちをほとんど示さなかったとしても、たぶん驚くにあたらないであろう。
 それにもかかわらず、彼はソビエト体制への共感と、ソビエトの一般市民の物資的条件が改善されてきているので、その体制は強力で崩壊しそうではない、という信念を繰り返し表明した。彼はロシアの教育制度を称賛したが、人々がそれはど熱心に学んでおらず、教えられたことにもそれほど真面目に聞いていないありさまを目のあたりにしてきたと語っている。しかしスターリン体制に共感する彼の最も重要な理由は、恐らくロシアには失業がほとんどないということであった。「最も重要なことは」、と彼はラッシュ・リースにかつて話した。「国民が仕事をもっているということです。」ロシアの生活における団体訓練が話題になったとき──労働者たちは雇われているけれども、彼らの仕事を辞めたり変えたりする自由がないと指摘されたとき──、ウィトゲンシュタインは関心を示さなかった。「専制政治は」、と彼はリースに両肩をすくめて言った。「私を憤慨させない。」しかし「官僚政治による支配」がロシアでの階級差別をもたらしているという発言に彼は憤った。「もし私のロシア体制への共感がなくなるとすれば、それは階級差別の増長であろう。」
 ロシアから帰って二年間、ウィトゲンシュタインは、提供されたモスクワでの教職につくという考えをまだ捨てきれずにいた。この時期に、彼はソフィア・ヤノフスカヤと文通を続けており、彼がノルウェイへ行ったとき、ヤノフスカヤへ糖尿病の治療にインシュリンを送るよう、ファニア・パスカルに依頼したりしている。一九三七年六月の下旬、彼はエンゲルマンへの手紙のなかで、「たぶん私はロシアへ行くことはになります」、と述べている。しかしこの後でまもなく、教職の申し出は撤回された。その理由は(ピエロ・スラッファによれば)、この頃にはすべてのドイツ人(オーストリア人も含め)がロシアでは嫌疑を受けるようになったからであった。
 それにもかかわらず、一九三六年の民衆裁判、ロシアと西欧との関係の悪化、一九三九年のナチ = ソビエト条約の後にも、ウィトゲンシュタインはソビエト体制へ共感を表明し続けた──彼はケンブリッジの学生たち何人かに「スターリン主義者」と呼ばれたほどであった。もちろんこのレッテルはナンセンスであった。しかし多くの人たちがスターリン支配の専制政治しか見なかったときに、ウィトゲンシュタインは、スターリンが取り組まなければならなかった諸問題とそれらの処理にあたっての彼の業績の大きさを強調した。第二次世界大戦の前夜に、彼はドゥルーリーに、英国とフランスの両国にはヒトラーのドイツを敗る力はなく、両国はロシアの支援を必要とするであろう、と主張した。彼はドゥルーリーに話した。「人々はロシア革命を裏切ったことでスターリンを批判した。しかし人々はスターリンがしなければならなかった諸問題のことを、つまり彼がロシアを威嚇していると理解したさまざまな危機のことを何も考えていないのだ。」彼は、はそれがまるで何かに関連したことであるかのように、すぐに付け加えた。「英国内閣の写真を見ていて、〈たくさんの金持ちの老人ども〉と思わず考えたのだよ。」この発言は、ケインズがロシアを特徴づけた「西欧の禿頭の兄弟たちよりも地上にも天上にも近い、豊かな髪の毛をしたヨーロッパ家系のなかで美しく愚かな末っ子」、という表現を思い起こさせる。ロシアに住みたい、というウィトゲンシュタインの理由、「不当で、子供じみてさえいる」理由、そして「深く、正当でさえある」理由は、彼自身を西欧の老人たちから、崩壊し退廃しつつある西欧文化から断ち切りたいという彼の欲求と多く関わっているように思われる。
 もちろんそれはまた、兵役とのつながりで絶えず起こってきた彼の欲求の一つのより顕著なあらわれでもあった。ソビエトの権威たちは、オーストリアの権威たちが一九一五年にしたのと同じく、彼が一兵卒よりも士官の方が彼らに役立つことを知っていた。そしてウィトゲンシュタイン自身には普通の兵士たちの「卑しい悪辣さ」のなかでの生活を実際には忍耐できないことは分かっていた。けれども彼はそうでないことを願い続けた。

一九三五年の秋、トリニティでの彼のフェローシップの最終年が始まったときに、ウィトゲンシュタインは依然としてフェローシップが切れた後で何をするのかをほとんど考えていなかった。たぶん、ロシアへ行くことであった──たぶんローランド・ハットのように、「普通の人々」のなかで仕事を得ることであった。それとも恐らくスキナーが望んでいたように、『茶色本』の出版の準備に集中するかであった。一つ確かに思われるのは、彼はケンブリッジで講義を続けない、ということであった。
 この最後の年の彼の講義は、「感覚与件と私的経験」というテーマに集中した。これらの講義のなかで、私たちがあることを経験するとき(あるものを見るとか、痛みを感じるとき)、何かがある、つまり私たちの経験の原初的な内容である感覚与件がある、と考える哲学者の誘惑に闘いを挑んだ。しかし彼の挙げる例は哲学者たちの発話ではなく、日常の発話からであった。そして彼が文献を引用したときには、偉大な哲学書とか、哲学雑誌『マインド』からではなく、ストリート&スミス社の『推理小説マガジン』からであった。
 彼はまずある講義でストリート&スミス社からの引用文をつぎのように読み上げ始めた。語り手、つまり探偵が真夜中の船のデッキにひとりでいた。船の時計のカチカチという音以外に何一つ聞こえなかった。探偵はひとりで考えている。「時計はどうみても厄介な道具だ。無限の断片を測定し、たぶん存在しないものを測定する。」ウィトゲンシュタインは、「愚かな推理小説に」語られているものにこの種の混乱を見出したときの方が「愚かな哲学者によって」語られたものに見出したときよりも、遥かに明瞭で重要である、と学生たちに語った。

ここで「明らかに時計は厄介な道具ではない」、と人は言うかも知れない。──もしある状況で人が厄介な道具だと思い、そして人がそのときにそれは厄介ではないと言うことを自ら納得できるなら──そのときこれは哲学的問題を解決する方法である。
 ここで時計が厄介となるのは、「それが無限の断片を測定し、たぶん存在しないようなものを測定する」と時計について哲学者が言うからである。時計を厄介にさせるものは、彼がその場合に見ることができず、そして幽霊のように見えるような存在の類を導入していることにある。
 このことと感覚与件について語っているものとのあいだの関係、つまり厄介を引き起こすのは、「触れられない」何ものかの導入である。それは、あたかも椅子とか食卓について触れられないのではなく、過ぎ去っていく私的経験について触れられないものが存在するかのようである。

 その年ウィトゲンシュタインが繰り返した講義のテーマは、哲学者たちから世界についての日常の知覚を守ることに関わっていた。哲学者が普通の人たちには生じないような、時間とかメンタルな状態について疑問を提起している場合に、これは、哲学者が普通の人間よりも洞察力があるからではなく、ある面では哲学者が普通の人間より洞察力が少ないからなのである。哲学者は哲学者以外のものには生じない誤解に惑わされている。

一般の人間が〈よい〉、〈数〉などを語る場合に、自分の話していることを実は理解していないという感じを私たちは抱く。私は知覚の対象に何か奇妙なものを見るが、一般の人間はまるでそれが奇妙ではないように語る。私たちは彼が自分の話していることが分かっていると言うべきか、それとも分かっていないと言うべきか。
 どちらとも言うことができる。人々がチェスをしているのを想像しなさい。私は規則を調べ、それらを詳細に吟味すると奇妙な問題を見つける。しかしスミスもブラウンも何ら困ったこともなくチェスをしている。彼らはそのゲームが分かっているのか。いかにも、彼らはゲームをしているのである。

 この文章は、ウィトゲンシュタインの哲学者としての立場についての彼自身の懐疑を漂わせている。「奇妙な問題を見つけること」の彼の疲労感、その規則を調べることよりも、むしろそのゲームを始めたいという彼の欲求がそうである。彼は医師として訓練を受けることをふたたび考え始める。ドゥルーリーは当時ダブリンで最初の医学士の試験の準備をしていた。ウィトゲンシュタインは自分がそこの医学校に入れる可能性があるのかどうか、そしてその費用をケインズに払ってくれるのかどうかを問い合わせるようにとドゥルーリーに手紙を書いた。彼はドゥルーリーと一緒に精神科医になることをほのめかしている。ウィトゲンシュタインは医学のこの専門分野に特殊な才能があると思っており、とくにフロイトの精神分析に関心をもっていた。その年に彼は誕生祝いにフロイトの『夢判断』をドゥルーリーに送り、彼がはじめてそれを読んだとき、「ここについに言うべきものをもっている心理学者がいる」、と独り言を言ったと話している。
 優れた精神科医になれたかもしれない、というウィトゲンシュタインの思いは、彼の哲学するスタイルとフロイト的精神分析は同じ才能を必要とする、という信念に基づいているようである。もちろんそれらは同じ技術ではない。ウィトゲンシュタインは、彼の哲学的方法が〈治療的実証主義〉と名づけられ、精神分析と比較されたときに怒った。たとえば、A・J・エイヤーが『リスナー』誌に、ある論文を書いてその比較をしたとき、彼は強烈な非難の語調で綴られた手紙をウィトゲンシュタインから受け取った。それにしてもウィトゲンシュタインは、自分の研究とフロイトの研究とのある種のつながりをみようとする傾向があった。彼はかつてリースに自分のことを「フロイトの弟子」と書き、そしていろいろな時期に、自分自身とフロイトとの両方の業績を著しく似た表現で要約している。「それはすべて素晴らしい比喩である」、と彼はフロイトの業績について講義のなかで述べ、そして彼自身の哲学への貢献については、「私がつくりだしたもの、それは新しい比喩だ」、と述べている。彼が精神医学に貢献することに希望を託したものは、啓発的な比喩と暗喩を組み立てて、共観福音書的な見解をつくりだすこの能力であったように思われる。
 しかし年が過ぎるにつれ、医師としての訓練を受けるという、あるいはそれ以外の何かの仕事につくというウィトゲンシュタインの関心は、本を完成させるという思いのために薄らいできた。その年の終わり、フェローシップが終わりに近づいたときに、ウィトゲンシュタインは彼のお気に入りの学生たちと、彼に開かれるさまざまな可能性について話し合った。彼らのなかでいちばん後に入ったのが大学院学生のラッシュ・リースであった。リースはG・E・ムーアのもとで研究するために、一九三五年九月にケンブリッジにやってきた。彼はそれ以前にエジンバラ、ゲッチンゲン、インスブルックで哲学を学んでいた。彼は最初ウィトゲンシュタインの学生たちの気取った態度をみてウィトゲンシュタインの講義を受けるのを延ばしていた。しかし一九三六年二月には、彼はこれらの不安を克服し、その年の残りのすべての講義に出席した。彼はウィトゲンシュタインの最も親しい友のひとりになり、ウィトゲンシュタインの死までずっとそうであった。一九三六年六月にウィトゲンシュタインはリースをお茶に招待し、自分がこうした種類の仕事をやっていくべきかどうか、あるいはひとりでどこかに行き、そこで本を書きながら過ごすかどうかを彼と話し合った。彼はリースに話した。「私はまだ少しばかりお金をもっている。だから私はそれが続く限りひとりで生活し、研究していくことができる。」
 後者の考えが優位を占めた。ウィトゲンシュタインとスキナーがその年の終わりにダブリンのドゥルーリーを訪問したとき、精神科医として訓練を受けるという話は出なかった。それに決着をつけたのは、恐らくモーリッツ・シュリックの死の知らせであった。ウィトゲンシュタインは、シュリックが殺害された──精神錯乱の学生にウィーン大学の階段のとにころで射たれた──と聞いたときには、ダブリンにいた。後にその学生がナチ党員になったということから、その殺害に には政治的動機があったという噂が立った。ただその動機の証拠には、その学生が彼の博士論文をシュリックに拒否され、彼に個人的な恨みを抱いていたことがあげられていた。そのニュースを聞くと、ウィトゲンシュタインはただちにフリードリッヒ・ワイスマンへ手紙を書いた。

親愛なるワイスマン君
シュリックの死はほんとうに実に不幸なことです。きみと私のふたりともたいへん貴重な方を失いました。私は彼の奥さんやお子さんへの哀悼の念をどのようにあらわしたらいいのか分かりません。きみもご存じのように、私は心から同情しています。できましたら、きみがシュリック夫人あるいはお子さんのひとりと会い、私が心から同情していますが、どのように申し上げていいのか分からないと言っていたと伝えてくれれば、このうえもない幸いです。この伝言を伝えることがきみに(外的であれ内的であれ)できなければ、その旨知らせてください。
敬具
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン

 シュリックの死は、ワイスマンとウィトゲンシュタインが共同執筆するという一九二九年に立てた計画を完成させる可能性がまだあるかもしれないという思いを最終的に打ち切ることとなった。ウィトゲンシュタインのいつもの心変わりに対するワイスマンの嘆きと、ワイスマンの自分についての理解にウィトゲンシュタインの不信はあったにせよ、ただ両者それぞれのシュリックに対する敬意と、その企画を継続するようにというシュリックの励ましだけが、その完成に細々ながらも希望を与えていた。シュリックの死後、ワイスマンはウィトゲンシュタイン抜きで著述を決意し、ひとりでその本を完成させる契約をし、彼の名前で出版した。その本は一九三九年にゲラ刷りまで出たが、しかしその後撤回された。

その間ウィトゲンシュタインは一九一三年にしたように──ノルウェイ行きを決心した。そこで彼はひとりで煩わされることなく、著述を完成できた。彼の決意は、シュリックの死に促されたと考えられるが、しかしまたフランシスとの関係の「煩わしさ」から逃れたいという個人的理由の方が強かったとも考えられる。フランシスの三年の大学院の奨励金はウィトゲンシュタインのフェローシップと同時に終わった。
 一九三六年の夏まで、ウィトゲンシュタインとフランシスが何をするにしても医師になること、ロシアへ行くこと、「普通の」人々と共に働くこと、あるいはウィトゲンシュタインの本の執筆のこと──ふたりは一緒であった、というように理解されていたようである。少なくともフランシスはそう理解していた。しかしウィトゲンシュタインが本気でフランシスを哲学の共同執筆者と考えていたのかどうかは疑問であった。彼はアイデアを書き取ることにおいては有用であった。とくに『青色本』と『茶色本』の場合のように口述筆記が英語でなされたときにはそうであった。しかしアイデアを議論すること、思想を明瞭化することでは、フランシスは役に立たなかった。ウィトゲンシュタインに対する畏敬の念でかしこまってしまい、彼は麻痺状態になり、何の役にも立たなくなっていた。「時折」、ウィトゲンシュタインはドゥルーリーに話した。「彼の沈黙で私は激怒した。私は彼に怒鳴った。〈フランシス、何か言え!〉」「しかし」、と彼はつけ加えた。「フランシスは考える人ではない。きみは〈考える人〉というロダンの彫像を知っているね。先日フランシスがあの姿になることは想像できない、と思ったのだよ。」
 同じような理由で、ウィトゲンシュタインはフランシスがアカデミックな研究を続けていくことに賛成ではなかった。「彼はアカデミックな生活では絶対幸福にはなれないだろう」、と彼は決めた。フランシスはいつものように彼の決定を受け入れた。しかしそれはフランシスの家族の意見ではなかったし、また彼の多くの友人たちの意見でもなかった。たとえば、セント・ポールズとケンブリッジの両方でフランシスと同期生であり、後ほどレスター大学で数学的論理学の教授となったルイス・グッドスタインは、フランシスが職業的数学者として生きるのがふさわしいと考えた。彼は数学を止めるという決心を最初にフランシスに打ち明けられたひとりであったが、その決定はアカデミックな生活が嫌いなウィトゲンシュタインの不幸な影響にすぎないとみて、強く反対した。フランシスの家族もまた同様であった。彼の母親はとくにウィトゲンシュタインが自分の息子に及ぼす影響を心から嫌うようになった。彼女はロシアへの移住の計画と、将来の輝かしいアカデミックな生活を放棄する、というフランシスの考えにびっくり仰天した。彼の妹プリスイラ・トラスコットも同じく信じられなかった。「なぜなの」、と彼女は理由を尋ねた。「なぜなの。」
 しかしながら、フランシスにとって唯ひとりウィトゲンシュタインの見解だけが問題であった。彼は断固としてウィトゲンシュタインの決定を受け入れた。そのために、たとえ彼がウィトゲンシュタインと離れて生きることになったとしても、また彼の才能がほとんど役に立たないような職につき、そして彼が食い物にされていると思うような仕事に就いてもかまわなかった。スキナーは大学を去った。そうしたのは、医師になる訓練を受けるためにではなく、工場の機械工として訓練を受けるためであり、そしてウィトゲンシュタインと一緒ではなく、独りになるためだった。彼が医師として訓練を受けるという考えは実行されそうもなかった。彼の両親は、彼に医学の勉強をやり通させるだけの余裕はなかったし、ウィトゲンシュタインが医学の勉強に経済的支援をするというケインズの約束は、フランシスまで広げられなかった。フランシスは国際軍団に入り、スペインの市民戦争に参加することを志願したが、身体的欠陥のために断られた。(フランシスの健康状態はいつも不安定であった。彼は子供のときに骨髄炎にかかり、それを繰り返し患ったために、片足が不自由な身であった。)
 ウィトゲンシュタイン(それゆえスキナー)の職業の選択は、医学のつぎには機械工の職であった。そこで一九三六年の夏に、フランシスはケンブリッジ・インスツルメント会社に二年間の機械工見習いとして採用された。大半の時間、彼は大ネジの製作に従事した。それはまったく楽しみも興味もわかない、飽き飽きする繰り返しの作業であった。ウィトゲンシュタインのために忍耐して、ただたんに働くだけであった。しかしファニア・パスカルは、スキナーが労働者階級の人たちのあいだで働くことは、彼自身の階層の人たちのあいだで働くよりも幸福であると考えた。彼女の言によれば、労働者たちはより親切で、自意識が低かったのである。その工場での最初の数年間、スキナーは同僚たちと付き合う時間をほとんどもたなかったけれども、彼女の言は恐らく当たっていた。彼は夕方独りで過ごすか、あるいは大学から来る友人たち──バフチン夫妻、ローランド・ハット、パスカル自身──と過ごした。彼が何よりも望んだのは、ウィトゲンシュタインと一緒に生活し、働くことであった。このことはウィトゲンシュタインの方から拒否されていた。
 フランシスはワイニンガー的な愛の観念を抱かなかった。彼は愛が保持されるためには分離、ある距離を必要とするとは信じなかった。他方、ウィトゲンシュタインはたぶんワイニンガーの見解を共にしていた。ノルウェイにいるときに、彼は離れてはじめてフランシスがいかにかけがえのない存在であったのかが分かった──ほんとうに彼の真価が分かったと日記に記している。そしてそれゆえに彼がノルウェイ行きを決めたのは、たぶんまさしくフランシスから離れるためであった。
 ノルウェイへ行く前にウィトゲンシュタインはギルバート・バティソンと一緒にフランスで休暇を過ごした。ふたりは車で一緒にボルドー地域を旅した。パティソンはウィトゲンシュタインが一緒にいてリラックスでき愉しめる、比較的数少ないひとりであった。しかしパティソンの方は、ウィトゲンシュタインのお伴は少しばかりきつすぎた。したがって、彼が以前の一九三一年にしたように、ウィトゲンシュタインから離れて上流の人たちが泊まるリゾートで少なくとも休暇中に数日の夜を過ごすことを主張した。そこでは彼は、リラックスし好きなように──ワインを飲み、食事をし、そして賭け事をして──豪勢に振る舞えた。あるときウィトゲンシュタインが賭の楽しみを求めてパティソンに同行したが、彼は賭け金の使い方では初心者であった。彼らは一緒にカジノ・ロアーヤンに行き、そこでウィトゲンシュタインには明らかにはじめてのゲーム、ルーレットをした。彼はパティソンに気づかれないように注意深くそのゲームを研究したが、信じられなさそうに、「きみがどうして勝つことができるのか私には分からない!」、と言った。ときには、ゲームをすることよりもその規則を調べることに熱中したようである。



18 告白

 一九三六年八月のウィトゲンシュタインのノルウェイ行きは、一九一三年十月のかつての旅立ちのことを強烈に思い起こさせる。どちらの場合も、彼ははっきりと決めた仕事を完成するために──彼の哲学的考察を最終的に仕上げる覚悟で、不特定の期間を過ごした。またどちらの場合も、彼は自分が愛する者を後に残していった。
 その相違は、一九一三年にはピンセントが彼に付いていく気がなかったことであった。ウィトゲンシュタインがいかに彼を愛していたかを、ピンセントがはたして分かっていたのかどうかは疑わしい。彼がその愛に応えなかったことはおよそ確かであった。彼はウィトゲンシュタインと「知己」になったことに「感謝」していたが、けっしてそれに依拠しなかった。一九一三年十月には、ピンセントの関心は、ウィトゲンシュタインとの友情よりも弁護士の勉強に遥かに大きく占められていた。ウィトゲンシュタインとの断絶は、恐らく彼には何か救済のように思われたのであろう。
 しかしながら、フランシスにはウィトゲンシュタインとの関係は彼の生の中心そのものであった。もし求められるなら、彼はノルウェイへ一緒に行き、そこで生活するためにすべてを投げだしたことであろう。「あなたから手紙をもらったとき」、と彼は、ふたりが別れて、わずか数週後に手紙を書いた。「私はあなたの所に行って、あなたの部屋の掃除を手伝うことができればと望みました。」 ウィトゲンシュタインのいないケンブリッジでの彼の生活は、侘びしく、やるせないものであった。彼はもはや彼の家族ともうまくやっていけなかったし、ウィトゲンシュタインの仕事に参加することもできなかった。そしてウィトゲンシュタインのために辛抱はしたけれども、彼は工場での自分の仕事を嫌った。彼はむろんウィトゲンシュタインに求められたので、自分の仕事を定期的に報告した。それらの報告は熱のこもったものではなかった。「私の仕事はうまくいっています。私は大ネジをつくる仕事をしています」(一九三六年八月二十一日)。「私の仕事はうまくいっています。私は大ネジを作るのをほとんど修得しました。先週それらにある細工を施す仕事をしなければなりませんでした。それは最初はたいへんでしたが、いまそれらをメッキをかけるために磨いています」(一九三六年九月一日)。「私は二〇〇のチェッカー盤と圧力計の注文を受けています。あまり多くならなければと願っています」(一九三六年十月十四日)。とうとう、その工場での彼の立場についてローランド・ハットと話し合った後で、穏和で、従順なフランシスでさえも不満をあらわすことになった。

会社と私の関係がはっきりとしません。私が十分に役に立つような仕事をやっているのかどうかはっきりしません。特別に優遇されるということと彼らと何をするのかということとのあいだに引かれるべき線があると私には思われます。(それにハットも私に同意しています。)たとえば、そこの職工長は、もし私がそこに五年間勤めれば、私をとくに早く昇進させるをと言っています。しかし私はそこに二年間しかいるつもりはありませんし、それに会社は、いずれにしても私がたいして彼らの役に立たないというのも分かっていますので、事情はたいへん違いました。

 彼はウィトゲンシュタインが「希望をもち、感謝の気持ちで、思慮深く」あれ、と後に語ったことを思い出すように努力したが、そのよう環境ではそれは容易ではないと書いた。しかしそのような立場に置かれ、ウィトゲンシュタインと一緒にいる以外には、ほとんど希望ももてず、何も感謝できるものもなく、何も彼の思いを満たしてくれないと彼が考えていたことは推測できる。彼は、ハットとの会話が「私がここであなたと一緒に話せることをどんなに望んでいるかを痛感しました」、とウィトゲンシュタインに書いた。手紙のなかで、彼はいくども「大きな愛をもってあなたのことをたくさん思っています」、と強調した。この手紙のやりとりでウィトゲンシュタインからの手紙は残されていない。しかしこれらの愛の告知の形からは、時折これらの手紙が、ウィトゲンシュタインが語ったと思われることに疑いを晴らすために書かれた、ということが読み取れる。「あなたに対する私の気持ちはまったく変わっていません。これは正真正銘の真実です。私はあなたのことをたくさん思っています、しかも大きな愛をもって。」

「希望をもち、感謝の気持ちで、思慮深く」あれ、という忠告は、ウィトゲンシュタインからフランシスが共感し、理解して受け取ったすべてであったと思われる。ノルウェイではウィトゲンシュタインは、フランシスに対してよりも、よりいっそう自分自身と自分の著述──二つはまったく不可分に結びつけられていた──に思索をめぐらした。一九一三─一四年、そして一九三一年と同じように、ノルウェイでのひとりの生活は、論理学と彼の罪に関して、彼に真剣に考えることを促したのであった。
 「ここに来たことは私にはよかったと確信しています。神に感謝します」、と彼は十月にムーアに書いた。「私はここ以外のどこかで執筆できたとは考えられません。静かで、たぶん素晴らしい景色です。つまりその静寂な厳粛さのことを言っています。」ムーアとリースのふたりが何かを書くことの難しさが分かってきたという知らせに、それはいい徴候だと彼は答えた。「発酵しているワインは飲めませんが、しかしワインが発酵しているのは、それが汚れた水ではない証拠です。」「お分かりと思いますが」、と彼はつけ加えた。「私はいまなお素敵な比喩をつくり出しています。」
 ウィトゲンシュタインはムーアに地図を送り、彼の小屋とフィヨルドと近くの山々と最も近い村との関係を示した。要するに、ボートを漕がなければ、その村に行くことができないと説明していた。そこは温暖な気候であれば、それほど悪くはないが、十月になると、雨が多く、寒くなるというのであった。彼はパティソンに書いた。「気候は素晴らしいものからうんざりするものへと変わりました。現在は地獄のように雨が降っています。二日前に初雪が降りました。」パティソンは返事を書き、暴風衣を送った。それをウィトゲンシュタインはたいへん気に入った。「満足した馴染み客からの手紙」を思い起こして、「馴染み客が趣味のいい仕立て屋バートン氏へいつも言っているように、〈寸法もスタイルもぴったり〉」、と彼は書いた。
 彼は『茶色本』の原稿を携帯していった。それを彼の本の最終版を作成する基本素材に用いるつもりであった。一か月以上かけて、彼はそれの改訂に取り組み、それを英語からドイツ語に翻訳しながら、書き直した。十一月の初めに、彼はそれを断念し、激しい衝動でもって、「この全部の〈改訂の企て〉は(最初)からここまでまったく価値なし(Dieser ganze "Versuch einer Umarbeitung" von (Anfang) bis hierher ist nichts wert)」、と日記に書きなぐった。彼はムーアへの手紙のなかで、それまで書いたものを読み通してみて、そのすべてが「あるいはほとんどすべてが退屈で、不自然である」ことに気づいたと説明している。

英語版を前にしていると私の思考が束縛されてしまうからです。ですから私はふたたび最初からすべてやり直し、私の思考を何かによって導くようなことをしないで、それ自体に委ねようと決心しました。──最初の一日二日は困難でしたが、しかしその後、楽になりました。このようにして私は現在新しい版を書いています。それが前のものよりもいくぶんかよくなっている、と言っても誤りではないよう希望しています。

 この新しい版はウィトゲンシュタインの本の最初の部分の最終稿となった。それは大まかに言えば、出版された『哲学探究』のうちの一─一八八パラグラフ(その本のおおよそ四分の一)にあたり、ウィトゲンシュタインが完全に満足した後期の著述のなかのただ一つのセクション──彼が後になっても改訂とか再構成を一度も試みなかったし、また彼に時間があっても改訂を望むようなことがなかった唯一の箇所である。

〔…〕

哲学の諸帰結は、ある種の単純な無意味さと、知性が言語の限界に突き当たったさいにできた瘤を発見することである。これらの瘤がかの発見の価値を私たちに認識させるのである。

 このような説明がこのような「瘤」を自ら経験したことの」ない人々に何かの意味をもたらすのかどうかは、疑問である。しかしその場合、その方法は、まさにフロイト的分析が心理学に無関心な人々には活用されなかったのと同じく、そのような人々には活用されなかった。『哲学探究』──たぶん、他のどの哲学の古典にもましては、まさしく読者の知性ではなく、読者の関与を要求している。他の偉大な哲学の著作──たとえば、ショウペンハウアーの『意志と表象としての世界』──は、「ショウペンハウアーが何を言っているのかを知りたい」者に興味と楽しみをもって読まれることであろう。しかし『哲学探究』がこれと同じ精神で読まれたなら、それは瞬く間に退屈なものとなろう。そして読むのに骨が折れるのは、それが知的に難しいからなのではなく、ウィトゲンシュタインが何を「言っている」のかを実際の事柄に照らして推測できないからなのである。というのは、実のところ彼は何か重要なことを述べているのではなく、混乱を解決する技術を提示しているからである。これらの混乱が自分の混乱でないなら、この本はほとんど興味を引かないであろう。
 有意味なものにするためには個人がどのように関与するかについて、聖アウグスティヌスの『告白』からの引用で、その本を始めることが適切であるようにみえる、もう一つの理由がある。ウィトゲンシュタインにとって、すべての哲学は、、誠実にしかも適切に追求される限り、告白でもって始まるのである。彼は、すぐれた哲学書を書くという問題と哲学的問題についてよく考えるという問題は、知性の問題であるよりも意志──誤解の誘惑に抵抗する意志、皮相性に抵抗する意志──の問題であるとしばしば語っていた。真正な理解を妨げているものは、往々にして人が知性に欠けていることではなく、プライドをもっていることにある。それゆえ、「お前のプライドという建物は取り壊されなければならない。そしてそれは恐ろしく面倒なことだ。」このようなプライドの取り壊しに要求される自己 - 吟味は、品性のある人間であるためにばかりではなく、品性のある哲学を書くためにも必要である。「もし誰かが進んで自分自身のなかへ降りていくことを、それがあまりにも苦痛だからといって後込みすれば、その者の書いていることは、皮相的にとどまるであろう。」

自分自身のことについて自分自身に対して嘘をつくこと、きみ自身の意志の状態についてきみ自身を欺くことは、[その]スタイルに有害な影響を及ぼすに違いない。なぜなら、その結果そのスタイルにおいて何が本当であり何が誤っているのかを、きみが語ることができなくなるからである。……
もし私が自分自身に演技をするなら、そのときそのスタイルが表現するものはこのことである。しかもそのときそのスタイルは私自身のものではありえない。もしきみが自分が何であるのかをすすんで知ろうと欲しないなら、きみの書くものは欺瞞の形態を取っている。

彼が自分自身について最も厳格に誠実であったときに──彼が最も緊張して、「自分自身のなかへと降りていく」努力をし、そして彼のプライドが彼を欺瞞へと駆り立てたそれらの事柄を認めようと努力をしたときに──彼が最も満足のいく、一連の覚え書きを書いたのは偶然ではない。
 その本の初めの部分の最終版を準備していた数か月のあいだ、ウィトゲンシュタインはまた告白も準備し、彼の人生において、弱くて、不誠実であった時期のことを記した。その意図は、告白を彼の家族の人たちと多くの親友たちに読んでもらうことにあった。彼は恐らく自分ひとりでその欺瞞を認めることだけでは十分とは考えなかったのであった。彼の弱さをさらけ出した「プライドを取り壊す」ことは、当然にも他の人たちに対する告白も伴っていた。そのことは、彼には何にもまして重要な事柄であった。したがって、一九三六年十一月に彼は、そうした人々のなかでとくに、モーリス・ドゥルーリー、G・E・ムーア、パウル・エンゲルマン、ファニア・パスカル、そしてもちろんフランシス・スキナーに手紙を書き、そのクリスマス期間のいつか、彼らに会わなければならないと知らせた。これらの手紙のうち残っているただ一つはムーア宛の手紙であるが、他の手紙もおよそのところ同じであろうと推測される。彼はムーアに彼の著作のこと以外に、そのことを語った。「あらゆる種類のことが私の内部に(私の心のなかに、という意味です)起こっています。」

いまはそれらのことについて書くつもりはありません。しかしケンブリッジに行ったとき、新年には数日間いるつもりですが、そのことであなたにぜひお話したいと念じています。そのときに非常に面倒で重大ないくつかの事柄についてあなたの助言とお力添えをいただきたいと思います。

 フランシスに対しては、彼はもう少し直接的に心のなかにあるものを告白したいと話したのに違いなかった。十二月六日の手紙には、フランシスが約束している様子が書かれている。「あなたが私にどんなことを言っても、あなたに対する私の愛は変わりません。私の方はあらゆる面で恐ろしく堕落しています。」フランシスにとって最も重要であったのは、彼がようやくウィトゲンシュタインと再会できるようになる、ということであった。「私はあなたのことをたくさん思っています。それに私たちおたがいの愛のことを思っています。このことが私が生きることを支え、私に活力を与え、そして私が失望を乗り越えるようにさせてくれるのです。」三日後にも彼はその約束を繰り返している。「あなたがあなたのことについて、私にどんなことを話さなければならないとしても、私のあなたに対する愛は変わることはありえません。……私はあなたよりもずっと悪い人間ですので、私があなたを赦すなどまったく問題になりません。私はあなたのことをたくさん思っています、そしてあなたをいつも愛しています。」
 ウィトゲンシュタインはウィーンでクリスマスを過ごした。そしてエンゲルマン、彼の家族の何人か、そして恐らくまた他の何人かの友人(きっと、ヘンゼルが含まれていたに違いない)に告白をした。これらの人たちの誰もその告白がどんな内容であったかについて何ら記録を残していない。エンゲルマンはウィトゲンシュタインからの手紙を出版したとき、その告白に触れている手紙を省いた。どうみても、彼はそれを焼いてしまったとしか考えられない。新年にはウィトゲンシュタインはケンブリッジを訪れて、G・E・ムーア、モーリス・ドゥルーリー、ファニア・パスカル、ローランド・ハット、そしてフランシスに告白をした。
 ムーア、ドゥルーリー、そしてフランシスは、その告白の内容の秘密を明らかにせずに死んだ。それゆえ、私たちはパスカルとハットの回想に頼るほかはない。その他の人たちがその告白をどのように受け取ったのかは分からない。ただパスカルはドゥルーリーとムーアがそれに反応した真意を最もよく捉えているようである。彼らから話を聞いたのではなかったが、彼らは「忍耐して聞き、ほとんど何も言わなかったが、友人として彼の相談にのり、そして彼がこの告白をする必要はないが、彼がすべきであると考えるなら大いに結構であり、そうさせようという態度をとった」ことが分かると、うパスカルは語っている。しかしドゥルーリーによれば、彼はその告白を聞かなかったが、それを読んだ。ドゥルーリーは、ムーアがそれをすでに読んでおり、そしてウィトゲンシュタインによれば、そうしなければならないことでたいへん悲しんでいたようである、と付け加えている。このこと以外に、ドゥルーリーは彼の回想のなかでその告白について何も語っていない。フランシスに関しては、パスカルは「彼はくぎ付けにされじっと座り、深く心を動かされ、両眼はじっとウィトゲンシュタインをみつめていたことであろう」と推測しているが、恐らくそのとおりであったろう。
 ローランド・ハットとファニア・パスカルの両者には、彼の告白を聞くのは不愉快なことであった。ハットの場合に、その不快さはただ、リヨンのコーヒー店でウィトゲンシュタインと向かい合って座り、彼が自分の罪を大きな、はっきりと分かる声でしゃべりまくっているのを聞いていなければならなかったことにあった。他方、ファニア・パスカルはことの全体に立腹した。ウィトゲンシュタインは、都合の悪いときに電話をかけてきて、会いに行ってもいいかと尋ねた。彼女が緊急を要することかと尋ねると、彼は断固として、そうだ、待つことができないと言った。「もし待つことができるものがあれば」、と彼女はテーブルを挟んで彼と向かい合い考えた。「この種の告白、こんな形でなされる告白こそそれだったのでした。」堅苦しく、打ち解けないやり方での彼の告白に、彼女は同情を寄せることができなかった。話の途中で彼女は大きな声をあげた。「それがどうしたの。あなたは完全であることを望んでいるの」「もちろん! 私は完全であることを望んでいます」、と彼は怒鳴った。
 ファニア・パスカルは、ウィトゲンシュタインが告白した「罪」のうち二つを記憶していた。他にも小さな罪も多くあったが、それは彼女の記憶から抜けていた。それらのいくつかはローランド・ハットが記憶していた。一つはウィトゲンシュタインのアメリカの知人の死に関わっていた。この死を当人と共通の友人から聞いたとき、ウィトゲンシュタインは悲しみの知らせを偽った態度で対応した。これは彼の不誠実な振る舞いであった。というのは、それは実際には彼にはけっして新しい知らせではなく、すでにその死のことを聞いていたからであった。もう一つは第一次世界大戦の事故に関わっていた。ウィトゲンシュタインは、河の上に架橋された、ぐらぐらした板材を渡って爆薬を運ぶよう司令官に命令された。最初彼はあまりにも恐ろしくてそうすることができなかった。彼は結局はその恐怖に打ち克つことができたが、最初に臆病であったことが、それ以降もずっと彼を苛み続けた。さらにもう一例は、たいていの人々は彼が童貞であると見ていたようであるけれども、実はそうではなく、若かったとき彼はある女性と性交渉があったということに関してであった。ウィトゲンシュタインは「童貞」とか「性交渉」という言葉を使わなかったが、彼が言っていたのはそういう意味だったとハットは疑っていない。彼はウィトゲンシュタインが実際に用いた言葉を忘れてしまったが、それは「たいていの人たちは、私が女性との関係をもったことがないと考えているようだが、しかし私にはある」、というようなことだったと考えている。
 ファニア・パスカルが記憶している「罪」の第一のものは、ウィトゲンシュタインが、彼を知っているたいていの人たちが彼は四分の三アーリア系で、四分の一ユダヤ系であると信じているままにしてきたが、実はその逆である、ということであった。つまりウィトゲンシュタインの祖父母のうち三人はユダヤの血統であった、というのである。ニュルンベルク法では、ウィトゲンシュタインはユダヤ人にあてはまるのであった。そしてこの告白をナチ・ドイツの存在と結びつけている点で、パスカルは確かに正しい。ウィトゲンシュタインが彼女に話さなかったことだが、しかし彼女がその後で、彼が「ユダヤ人」だと思っていた祖父母は実際にユダヤ人ではなかったことが分かった。ふたりはプロテスタントとして洗礼を受け、もうひとりはローマカトリック教徒として洗礼を受けた。「いくらかユダヤ人」、と彼女は言っている。
 以上のように、「法律上の罪」から言えば、これらすべては怠惰の罪に該当した。それらは、ウィトゲンシュタインが何もしなかった、あるいは間違いをただそうとはしなかったという事例にしか該当しない。最後の最も苦悩にみちた罪はウィトゲンシュタインが実際に虚言したことであった。この段階でなされた告白では、「彼はそれまでよりもいっそう自分自身を懸命に制御しなければならなかった。彼は、臆病そうに、そして恥ずかしそうなそぶりで語を切り詰めながら話した」、とパスカルは思い起こしている。しかしながら、ここの告白についての彼女の説明は、その事件を奇妙に彼女が歪曲して書いた印象を与える。

オーストリアのある村の学校で教えていた短い期間に、彼は自分のクラスの少女を殴り、彼女に怪我をさせた。(私の記憶では、詳細は分からないが、身体の暴力行為であった。)彼女が校長へ訴えにかけ込んでいったとき、ウィトゲンシュタインはそのことを否定した。その事件は彼の若い頃の人間性の危機をはっきりあらわした。このために、恐らく彼は教えることを断念し、独りで生きていくべきだと悟ったのであった。

 これは多くの点で歪められている。第一に、ウィトゲンシュタインは、オッタータールでその事件が起こったときには三十代の後半であった。「若い頃の人間性」と書かれるにしては、少し年をとりすぎている。さらに重要なのは、身体的暴力は、いろいろな証言からウィトゲンシュタインのクラスでは珍しくはなかったということも、またウィトゲンシュタインが暴力の科に答えるために法廷に実際に出頭したことも、パスカルは分からなかったようである。ウィトゲンシュタインがこれらの事柄を彼女に話さなかった──彼がオッタータールでの彼の軽罪のシンボルとしてその特定の事故を取り上げた──ということはありえる。しかしパスカルの記憶に思い違いがあるということもありえないことではない、と私は考える。彼女は結局ウィトゲンシュタインの告白に耳を傾ける気分になっていなかったし、さらに告白しているあいだの彼の態度でいっそう気持がはなれていった。ローランド・ハットは、その告白を特定の事故について校長に対し否定したということにではなく、むしろ法廷で嘘をついたことの告白として記憶している。こう見ると、オッタータールの村人の証言とより一致するし、その欺瞞がなぜウィトゲンシュタインをそれほどまでに悩ませたのか、ということにも納得がいがくのである。
 ウィトゲンシュタインが告白したすべての欺瞞のなかで、でオッタータールでの彼の振る舞いが最大の重荷であると考えられていて、そこから解放されるためには、彼はパスカルとハットが思っていた以上のことをやろうとしていたことは疑いない。告白をしたその同じ年にウィトゲンシュタインは、怪我をさせた子供たちに直接会って謝罪するために彼らの戸口に現われて、オッタータールの村人たちをたいへん驚かせた。彼は少なくとも子供たちのうち四人のところへ行って、彼の過った行為について彼らに許しを乞うた。彼らのうちの何人かは寛大に応対した。オッタータールの村人、ゲオルク・シュタンゲルはつぎのように回想している。

私自身はウィトゲンシュタインの生徒ではなかったが、戦争が始まる少し前に、ウィトゲンシュタインが私の弟と父親に謝罪するために父親の家を訪ねてきたとき、私は居合わせた。ウィトゲンシュタインは昼、およそ一時頃台所へ入ってきて、私にイグナーツはどこかと尋ねた。私は弟を呼んできた。父親も居合わせた。ウィトゲンシュタインは、もし彼に不正なことをしたのなら謝りたいと言った。イグナーツは謝る必要はない、ウィトゲンシュタインによく教えてもらったと言った。ウィトゲンシュタインはおよそ三〇分ぐらいいた。彼は、ガンシュターラーとゴールトベルクのところへ行って同じように許しを乞いたいと言っていた。

 しかしピリバウアー氏の家では、ピリバウアーはウィトゲンシュタインに対して反抗的態度を取り、あまり彼に寛大対応をしなかった。そこで彼はピリバウアーの娘のヘルミーネにお詫びをした。彼女は当時彼に恨みを抱いていた。というのもウィトゲンシュタインは耳とか髪の毛をひっぱり、ときには彼女の耳から血が出て、髪の毛が抜けるほどの暴行をしたからであった。ウィトゲンシュタインの謝罪に対して、その少女は軽蔑した態度で「はい、はい」と応えただけであった。
 このことがウィトゲンシュタインにはどれほど侮辱的であったかは想像に難くない。そしてこのような仕方で自らを侮辱した狙いは、まさに自らを罰することにあった、とでも言っていいように思われる。しかしそれは彼の告白と謝罪の目的を誤解することになろう、と私は考える。その要点は、罰を受け入れ、彼のプライドを傷つけることにあったのではなかった。それは罰を取り除くことにあった──いわば誠実で品性のある思考に立ち塞がる障害を取り除くことであった。もし彼がオッタータールの子供たちに悪いことをしたと考えたら、そのとき彼は彼らに謝るべきであった。こうした発想は誰にも思い浮かぶであろうが、たいていの人々はこのような発想を受け入れるものの、その後でさまざまな理由をつけて、そうした考えをもたなくなってしまう。たとえば、あれはずっと昔の出来事だ、村人たちはそんな謝罪など分からないであろうし、謝罪などとてもおかしく、オッタータールへの旅は冬には面倒だ、謝罪することは苦痛で恥辱だ、他に何か理由をつければそんな面倒なことをしなくていいだろう等等。しかし私たちはたいていこのような理由をあえてつけるものだと私は考えるのだが、そうするのは結局卑怯である。そしてこのことは、何よりもウィトゲンシュタインが断固としてすべきではないと決意したものである。つまり彼は苦痛と恥辱を求めてオッタータールへ行ったのではなく、むしろ実際に謝罪する決意で行ったのであった。
 自分の告白した結果を顧みて、彼は書いた。

神の加護により、昨年私は気を鎮めて告白をした。これによって私は浄められ、人々との関係はよりよく、より真剣なものになった。しかし現在では、まるで私はそのことすべてを通り過ごしてしまったかのようであり、以前とさほど離れていない所にいるのだ。私の卑怯さは度を越えている。もしこのことを改めなければ、私はふたたび過去のあの流れにまったく流されてしまうのだ。

 ウィトゲンシュタインは、彼の告白を一種の外科手術、卑怯さを除去する手術とみなした。その特徴として、彼はその感染を悪性で、持続的治療が必要であるとみなした。またそれと比較して、たんなる身体的傷害の方を些細なものとみなすのも彼の特徴であった。一九三七年の新年、ノルウェイに帰るとまもなく、彼は事故に遭い、肋骨を一本折った。彼の道徳的状態が緊急事態であったときであったので、彼はこの事故をたんにジョークとしてあしらった。彼はパティソンに話した。「私は肋骨を取り出し、それで妻をつくらせたいと思っていた。しかし肋骨から女性をつくる術は現在なくなっているとのことだ。」
 その告白がフランシスに何らかの影響を与えたとしたら、それは恐らく彼の内心をもう少し自由に語る──彼が隠し続けていたいくつかの事態を明らかにする──勇気を彼に与えたことであった。「あなたに隠しごとをするのは悪いことだと思います」、と彼は一九三七年三月に書いた。「たとえ自分を恥ずかしいと思うので、そのようにするとしてもです。」しかし彼の場合に、明らかにしたのは過去の行為ではなく、現在の感情であり、とくに彼が工場で働いてケンブリッジにいたくはないが、ウィトゲンシュタインと一緒にいて、一緒に仕事をすることにしたいという感情であった。「どんな種類の仕事でもいいのですが、一緒に何か仕事をできれば、とときどき願っています。あなたは私の人生の一部なのだと思っています。」フランシスを悩ませていたのは、自分自身の道徳的状態ではなく(そして明らかにウィトゲンシュタインの道徳的状態でもなく)、ふたりの関係であった──ふたりがどんどん離れていっているという、あるいは事情次第で離れることが余儀なくされるかもしれないという不安であった。

私たちの関係についてたくさん考えています。私たちはたがいに離ればなれに活動しようとしているのでしょうか、私はあなたから離れて独りで活動できるようになるのでしょうか。戦争が起こったらどうなるでしょうか。あるいは、もし私たちが永久に離れさせられるとしたら、どうなるのでしょうか。私は恐ろしく勇気に欠けています。私はしきりにあなたに憧れています。私はどのような精神状態にあってもあなたが私の近くにいると強く感じますし、そしてもしかりに私が何か、たいへん悪いことをしたときですら、そう感じることでしょう。私はいつもあなたの昔ながらのハートです。私はあなたのことを考えるのが好きです。

 自分はウィトゲンシュタインの仕事にもうけっして関わることがなくなったと考えること──自分はどんな意味においてもウィトゲンシュタインの協力者ではないと認めること──は、フランシスには苦痛であった。五月に彼は書いた。「私はあなたが現在されている仕事を完全に理解したなどとは考えていません。それでもそうしようと努力し、さらによく理解しようとするのは、私にはいいことだろうと考えています。」その手紙にはスラッファとの会合の報告が書かれていた。その会合から、「たくさんのことを学び、それで私は私愉しくなりました」、と彼は述べた。スラッファは「働く人についてたいへん巧みに話」をした。しかしたいへん驚いたことに、自分が労働者として、哲学の問題がいまや彼にはかなりかけ離れてきたことにフランシスは気づき始めていた。

現在の私にとって哲学がどのような効用があるのかを最近考えようと努めています。私は自分の知的良心を失いたくありません。私が哲学を学ぶのに費やしたすべての年月を何らかの役に立てたいのです。いま私はより賢い人間にさせられただけというようなことは欲しません。私は言葉を正しく用いようと努力することの重要性を心に刻みつけたいのです。……私はまた哲学的問題がほんとうに私には重要な問題であるということを忘れてはならないと考えています。

 五月二十七日付のこの手紙は、ウィーンにいるウィトゲンシュタインへ書かれた。一九三七年の春のあいだ、ノルウェイでの彼の著述は、まずく──「部分的」に──なってしまった、と彼はムーアに話した。「といいますのは、私は自分は自身のことでたいへん悩んだからです。」彼はその夏を、最初は彼の家族と、その後でフランシスとイースト・ロードで過ごした。ケンブリッジでは、彼はたぶんフランシスが彼の手助けのできそうな仕事に一緒に取りかかった。彼は前の冬に書いた覚え書きのタイプ草稿を口述筆記した。それはいまの『哲学探究』の最初の一八八パラグラフとなったものである。八月十日に彼はふたたびノルウェイへ発った。

ウィトゲンシュタインが激しく動揺してノルウェイに戻ってきたのは、この時期の彼の日記の書き込みから明らかである。ショルデンへ向かう船のなかで、何とかしてわずかばかりのことを書いたが、彼の心は著作に「精神を集中させること」ができなかった、と記している。数日後に、彼は自分自身のことを「虚栄で、思慮なし、不安」──不安──つまり、独りで生きていることに──と記している。「鬱になり、著述てにできなくなることを恐れている。」

私はいま誰かと一緒に生活したい。朝に人間の顔を見ること。他方、私は現在非常に柔弱になっているので、たぶん独りで生活しなければならないであろう。現在異常なまでに浅ましい。

「私は現在、まったく構想がないわけではないが、しかし孤独であることが私を意気消沈させ、仕事ができなくなるという思いに憑かれている」、と彼は書いている。「私の家にいては私のすべての構想が絶滅させられるのではないかと恐れている。そこではうちひしがれた気分に完全に憑きまとわれている。」しかしどこか他で彼は仕事ができるのであろうか。彼の家ではなく、ショルデンに住むという考えが彼を混乱させた。そしてケンブリッジでは、「私は教えることはできる。しかし同じようには書くことはできない。翌日、彼は「不幸で、救いもなく、放心した」状態であった。そして彼は気づいた。「どんなにフランシスはまたとない、かけがえのない存在であることか。それにもかかわらず、彼と一緒にいるかとき、このことをほとんど分かっていないのだ!」

私はまったくとるに足らないことに取り憑かれている。苛立ち、自分のことだけを考え、自分の人生が惨めだと思っている。同時にそれがどんなに惨めかが、まったくわけも分からずにいるのだ。

 彼は自分の家に戻ることはできなかった。以前は魅力的に見えた彼の部屋は、いまはよそよそしく、冷たく映った。彼はそこに泊まらず、アンナ・レブニーのところに泊まった。しかしそうしても彼は自分の良心と苦闘しなければならなかった。彼が彼女と生活し、自分の家を開けっぱなしにすることは、彼には「不気味(unheimlich)」に思われた。「私にはこの家があるのに、そこに住まないのは恥だ。しかしながら、この恥じらいの感情がこんなにも強いのは奇妙だ。」レブニーの家で一夜を過ごした後で、そこに奇妙なものを感じたと書いている。「ここに住むのが正しいのか、何かちゃんとした理由があるのかどうか分からない。私にはどうしても独りでいなければならないという欲求も、著述しようという強い衝動もない。」彼は両膝の関節が弱くなったと思った。「気候のせいなのか??──私がたやすく不安ゾルゲに陥ってしまうのは恐ろしいことだ。」彼は自分の家に戻ることを考えた。「しかしそこで自分を打ちひしぐ悲哀さのことを考えるとぞっとする。」丘を登ることは難しいし、そうする気にもなれない、と彼は書いている。彼は自分があまりにも弱くそうした努力ができないのだと思った。彼は、その悩みの種が心理的なものよりも身体的なものだと、一、二日のあいだ考え続けた。「私はいまほんとうに病気になっている」、と彼は八月二十二日に書いた。「腹部の痛みと高熱。」しかしつぎの夕方に、体温は正常であるが、これまで同様疲労を感じると記している。彼が回復の最初の徴候を記したのは八月二十六日になってであった。そのとき彼はノルウェイの風景をもう一度、楽しく見ることができた。その日に彼は二通の手紙を受け取った。「贈り物の洪水」、と彼は記している。一通はフランシスから、もう一通はドゥルーリーからで、「両方とも感動した素晴らしい。」その日のうちに彼はとうとう──彼がノルウェイへ最初住むために行って一年後に──フランシススに手紙を書いて、彼のところへ来るように招待した。「首尾よく来られるように。そして半分ぐらいでもかまわないから、いいことを私に分けてください。」
 フランシスはその招待を速やかに受け入れた。八月二十三日に彼は手紙を書いていた。「あなたの手紙の一つに、あなたは〈きみとここで一緒にいることができれば〉と書いています。もし私があなたに会いにいけば、何かお役に立つのでしょうか。あなたは私が行くということ、行きたがっていることはご存じと思います。」ところで、「私はあなたのところへ行って、会うことをとても待ち望んでいます。それが私にはいいことだと考えて疑いません。私はそのことを確信しています。しかし彼は足の水膨れの手術を受けなければならず、九月の第三週になってはじめて、旅ができたのであった。
 この間、ウィトゲンシュタインは徐々に精神の安定を取り戻し、執筆ができるようになった。彼は自分の家に戻ることができた。「お前が人生において出会う問題を解決する方法」、と彼は八月二十七日に書いた。「問題となっているものを解消するような仕方で生きることだ。」

人生が問題となっているそのことが、お前の人生が生の型に合っていない証拠だ。それゆえ、お前は自分の生き方を変えなければならない。そしてお前の人生がいったんその型に当てはまると、問題となっているものは解消するであろう。
 しかし人生に問題を見ない者は、何か大切なもの、すべてのもののなかで最も大切なものさえ、見えていないという感情をもたないだろうか。まさに目的もなく──モグラのように盲目に──生きているような人間、そしてただ見ることさえできれば問題は見えてくる、と言いたくはならないだろうか。
 あるいはむしろこう言うべきではないか。正しく生きていない人間は、その問題を悲しみとして経験しようとしないのだ。それゆえその者には、その問題が何か疑わしいものでははなく、彼の人生を取り巻いている輝かしい後光となるであろう。

 これらの言葉において、ウィトゲンシュタインは自分自身を盲目でも、正しく生きている者でもないと認めている。彼は人生の問題を問題として、悲しみとして受けとった。その問題を自分自身のこととみなすことは避けられなかった。「私は自分で悪く振る舞い、そして卑しい、みすぼらしい感情になり、そういう思いに駆られてしまう。」(一九三七年八月二十六日)。「私は卑怯者だ。そうだ、とあらゆる機会に何度も気づく。」(一九三七年九月二日)。「私は非宗教的だ、しかし不安アンクストだ。」(一九三七年九月七日)。最後の文にある「しかし」は、まるで彼が信仰を失っていることを不安に感じているかのように、盲目的に生きていないということを少なくとも証明する、ある種の確認であったように思われる──それが少なくとも「彼の人生の周りを輝かしい後光に取り巻かれて」生きる可能性を彼に与えたのであった。九月四日に彼は書いた。

キリスト教は、人間の魂に起こったこと、起こるであろうことに関する教義でも理論でもなく、人間の生において実際に起こることについて記述したものである。なぜなら、〈罪の意識〉は実際に起こったことであり、絶望も、信仰による救済もそうである。こうしたことを語る人たち(たとえばバニヤン)は、誰かが何を言おうとも、自分たちに起こったことをたんに記述しているにすぎないのだ。

彼が求めたのは、実際には彼自身の内なる神であった──彼自身の絶望の信仰への変換であった。それに続いた数日の荒れ狂う嵐のなかで、神を呪う誘惑に駆られてしまったときに、彼は自分自身を厳しく苛んだ。彼はそれが「まさに邪悪で迷信」であると自らに語りかけた。

九月十一日までには、ウィトゲンシュタインの執筆能力は彼の分厚い(ノートというよりはむしろ)草稿本の一つにとりかかれるほど十分に回復していた。それでも「息苦しい、劣悪な文体で」書くことにおびえた、と彼は言っている。彼は何とか執筆できることは分かったが、執筆には何らの喜びを見出すまでに至らなかった。「まるで私の執筆がその生気を奪われてしまったかのようであった」、と彼は九月十七日に書いた。
 翌日、彼はフランシスを出迎えにベルゲンへ行った。彼は非常に性欲を感じたと書いている。その夜、彼は眠ることができず、性的な興奮状態に悶々とした。一年前は彼はもっともっと慎しみ深かった──もっと真面目だった。フランシスが彼の家に着いた後で、ウィトゲンシュタインは彼と「肉欲に耽り、官能的に振る舞い、淫らに交わった。」「彼と二、三度寝た。最初、そうしても悪いという感情は何もなかった。その後で恥じらいの感情をもった。また彼に対して不当な、激しい、不誠実なことをしてしまった。」これが彼とフランシスが性的に交わったただ一つの機会であったのかどうかは、私には分からない。確かなことは、彼のコード(暗号記号)で綴られた日記にただ一回だけ記されていることである。フランシスに対する彼の愛の言葉と彼らが一緒に寝たことが併記されているのが印象的である。あるいは彼が表現しているのは、恐らく愛の喪失への恐れであったのである。「性的衝動が呼び起こされたとき、愛している者との肉体的接触は、……即座に愛を抹殺するに十分である」、とワイニンガーが書いているが、彼はそのことが正しいということを予期して、それが分かったとでも語っているかのようであった。
 フランシスがウィトゲンシュタインの家に泊まっていた一○日ほどのあいだに、「とても耐えきれない」というコードで綴られた言葉が一箇所だけある(一九三七年九月二十五日)。しかし十月一日にフランシスが去ったその日に彼は書いた。

最後の五日間は素敵だった。彼はここの生活に落ち着き、何をするにしても愛と優しさに満ちていた。そして私は、有難いことに耐えられないことはなかった。ほんとうに、自分自身の腐敗した本性以外に耐えられない理由は何もなかった。昨日私はソグンダールまで彼と同伴した。今日私の小屋に戻った。いささか気が滅入っているし、疲れてもいる。

 フランシスには、もちろんウィトゲンシュタインの家で一緒に過ごした彼らの最初の夜の性の交わりにワイニンガーの言っているような意味合いはまったくなかった。彼は愛の喪失への何らの恐れもなしに、ウィトゲンシュタインに対して彼の「肉の感受性」を委ねることができた。たとえば、日付のない手紙のなかに、彼は書いている。「私は過去において私たちが一緒にしてきたことすべて、そしてまたここケンブリッジにおいて私たちがしたことをしばしば想い起こしています。このことはときに非常に激しく、あなたへの思いに私を駆り立てます。」そしてノルウェイから帰るとただちに書かれた彼の手紙には、その訪問がいかに「素晴らしかった」かについて繰り返し確認する言葉が綴られている。

私はあなたのことを、そしてあなたと共に過ごしたあの素敵な時間のことを絶えず思っています。それができたのは素晴らしいことでした。あなたと一緒になり、あなたと一緒にその家で過ごしたのはとても愉しいことでした。それは私たちへの素晴らしい贈り物でした。それが私にたくさんのいいことをもたらすよう希望しています。[日付なし]

あなたと一緒にいたとき、どんなに楽しく思ったことか、あなたと一緒にいて、あなたと一緒にあの風景を眺めたことがどんなに素晴らしかったかといましきりに考えています。あなたは私には最も素晴らしい存在でした。あなたと一緒にいたことがたくさんの楽しみを与えてくれました。……あなたと一緒にいたことは素晴らしいことでした。[一九三七年十月十四日]

 滞在中に、フランシスはちょうど一年前に望んでいたウィトゲンシュタインの部屋の掃除を手伝った。ウィトゲンシュタインは不潔が大嫌いであった。そのためとくに床を徹底的に清掃する方法に工夫をこらした。彼は床に濡れた茶がらを撒き、汚れを吸わせ、それからきれいに掃くことにした。彼はどこに泊まっても、しょっちゅうこの仕事をし、いつも彼が住んだどの部屋にもカーペットを敷くことを断固として拒否した。イースト・ロードの彼のフラット住宅に戻ったとき、フランシスは滞在の一種の記念として、この面倒なやり方を取り入れた。

あなたのことをたくさん思っています。私はまたあなたと一緒にあなたの部屋を掃除したことがどんなに楽しかったかとしばしば思っています。帰ってきてから、たとえカーペットを叩いてほこりを出しても、ちゃんと綺麗にできないと分かったので、カーペットを使わないように決めました。いまから部屋を掃除しなければなりません。あなたと一緒にいたときのことを思い出させるので、掃除をするのが好きなのです。あのとききちんとした掃除のやり方を学べてうれしいのです。

 フランシスはまた、モラル・サイエンス・クラブの会合に出席したとき、ウィトゲンシュタインの使ったマントを着た。その会合での発表では、彼はいつもの謙虚で穏和な口調を避け、ウィトゲンシュタインの借り物だと人が疑うような、柄にもない攻撃的な態度を取って見せた。

ムーア教授は出席していませんでした。それでブレイスウェイトが議長をしました。論文は倫理学に関してでした。ブレイスウェイトがその討論ではいちばん食い下がっていた、と言っておきたいと思います。彼はそれをまったく真面目には受け取りませんでした。彼はまるでその討論に何らかの責任をもつとか、その討論に重要な目的があるというような話し方をしませんでした。討論のあいだ絶えず笑い声が起こり、多くは彼が引き起こしたものでした。私は彼の発言が実にくだらなくても気にかけませんでした。しかし私は彼の真面目さに欠けた態度が嫌いでした。こうした態度は討論を有用で価値あるものにする妨げとなります。

日記にウィトゲンシュタインはこれを「フランシスからの楽しい手紙」、と記している。

彼は、……ブレイスウェイトの議長のもとでなされた討論がいかにひどく下らなかったかを書いている。それはひどいものだ。しかしどうすればよいかは分からない。というのは他の人たちもまたそれほど真面目ではないからだ。また私はあまりにも臆病なので、何も決定的なことはできないであろう。

 他の手紙では、フランシスは、同じように非難の態度で、ファニア・パスカルの「現代ヨーロッパ」に関する講義に触れている。それは彼女が労働者教育協会において講演することを承諾した時事問題についての講座の一つであった。ここでウィトゲンシュタインは決定的な干渉をした。彼は、パスカルが「不快で、弱い者いじめ」と言っている手紙を彼女に書いた。その手紙で「私にこれまでにない怒りを爆発させたのでした。私が彼に怒りをあえてあらわそうとしなかったので、いっそう激しくなってしまいました。」ウィトゲンシュタインは、彼女がどんな事情があってもその講義をしてはならない──それが彼女には間違ったことであり、害悪を及ぼすと書いた。彼がなぜこのように考えたのか、そして正確にその手紙が何を言っていたのか、私たちにはまったく分からない。彼女は怒りの発作でその手紙をずたずたに引き裂いた。

フランシスの最初の手紙は、フランシスがショルデンを去っておよそ二週間後になるまでウィトゲンシュタインのところに届かなかった。このことは、それほど特別に遅くなったのではないが、彼の怒りを買うに十分であった。十月十六日に、彼は書いた。「フランシスからおよそ一二日間便りがない、とても心配だ。英国に帰ってからまだ手紙を書いていないからだ。おお、この世界には何という悲惨、何と哀れなことが多いのか。」翌日、彼は最初の手紙を受け取った。「救われた思いだ。うれしかった。私たちに神のご加護がありますよう!」
 この間、彼はルートウィヒ・ヘンゼルの息子ヘルマンの短期間の訪問を受けた。「彼はいい印象を与えた。私は彼とそんなに親密な関係をもたない。彼は大ざっぱなタイプ(grobkörnig)で、私は大ざっぱなタイプはまったく合わない性だからだ。」しかし大ざっぱなたちだが、育った木は立派だ。「私よりも断然品位がある。」ヘンゼルは、ウィトゲンシュタインがいかにみすぼらしい人間であるのかを彼に見せつけたのであった。「私を堕落させるものに私はどんなに悩まされていることか。堕落がごく些細なことであっても、どんなに悩まされていることか。」彼は著作のエネルギー、自分の想像力が失われるかもしれないと悩んだ。

[私]は長いあいだ紙袋に入れていたリンゴをいくつか取り出した。それらの多くは半分切り取って、捨てなければならなかった。後になって、書いた文章を整理しているときに、その後半の半分が劣悪で、私はすぐにそれが半分腐ったリンゴだと分かった。

「私の身に起こることは、何であっても、私の内部でそのことについてまだ私が考えていることの像として描き出される。」こうした考え方にはどこか女性的なところがあるのだろうか、と彼は自分に尋ねている。それはワイニンガーの言葉では、彼があたかも概念においてよりもヘニーデで考える方向に陥っていることを語っているかのようであった。
 ノルウェイでの最後の二か月、十一月と十二月のあいだ、ウィトゲンシュタインの日記は彼を襲った恐怖、憂愁と不快な思いで満たされている。彼は病と死──自分の、友人たちの、家族の病と死を考えた。ノルウェイを去る前に彼に何かが起こるのではないかと不安だった。彼はアンナ・レブニーとの関係で悩んだ。そしてノルウェイを去った後で、どうするかについて悩んだ。本はそれまでに完成するのか。自分自身の仕事をふたたびできるのか。あるいは誰かと一緒にいられるどこかへ──たぶんダブリンのドゥルーリーのところへ──行くべきか。
 彼はまた自分の性欲と愛する能力について悩んだ。彼は自慰したときのことを記している。あるときには恥じて、あるときには途方に暮れたありさまで記している。「それがどれほど悪なのか、私には分からない。私はそれが悪だと憶測するが、しかし悪だと考える理由がない。」清浄な心で愛する彼の能力は、自慰への衝動に示されている性的欲望によって脅かされていたのであろうか。

私の以前の愛、あるいは夢中になったときのことを考えよ、マルガリートと私のフランシスへの愛のことを。マルガリートへの私の感情がまったく冷たかったことは、私が悪いのだ! 確かに、ここには違いがある。それにしても私には冷たさがある。私を許したまえ。つまり、誠実で愛することが私にできますよう。[一九三七年十二月一日]

 昨晩自慰した。罪の意識。しかし他のことに逃避できずに、かくかくの像が自分のなかに現われて来るときに、あまりにも弱く、その衝動と誘惑に打ち勝つことができないことをまたも確認させられた。けれども、昨夜、私はまだ自分のおこないを浄らかにすることが必要だと考えた。(私はマルガリートとフランシスのことを思っていた。)[一九三七年十二月二日]

 これらすべての悩み、心配ごと、恐れのなかにあって、彼は本を書こうと努力した。この数か月のあいだに、彼は現在の『数学の基礎に関する考察』の第一部となっている内容の大半を書いた。ただ書いているときには、彼はそれらを前年に書いたその著述の後半にするつもりでいたのであったが。
19 オーストリアの終わり

〔…〕

 そのときのウィトゲンシュタインの日記には、この感傷的な快さ(Gemütlichkeit)について何も書かれていないし、また政治的事件についても何も触れていない。しかし彼が姉と同じようにその状況について知らなかったとは信じ難い。ノルウェイの滞在中の彼の唯一の情報源は、『イラスト・ロンドン・ニューズ』であったことが知られている。それはファニア・パスカルから彼のところに送られていた。他方、彼が前年にケンブリッジで二度過ごし、そこで消息通のピエロ・スラッファの政治分析と判断について計り知れない恩恵を受けていたことを忘れてはならないであろう。自分が非アーリアであるという彼の一月の告白から、ニュルンベルク法の期限とそれらのオーストリア国民への適用の可能性との両方を彼は知っていた、と考えられる。
 しかし彼の日記には政治が取り扱われていない。その代わりに彼は自分自身のことを書いている──ノルウェイでの試練のときを通り抜けた精神的、肉体的疲労について、そして一緒にいる人たちとの談話がいかに面倒で、彼らとほとんど話ができなかったこととか、非常に途方に暮れた彼の精神状態とか、そこにいることが彼にはいかに余計なことと感じたかを書いている。彼はまたフロイトについても書いている。

フロイトの考えは、狂気の場合に、錠が壊れているのではなく、ただ変形しているだけである。旧い鍵では錠を開けることができないが、他に作った鍵なら開けることはできる、ということだ。

たぶんここでも、また彼は自分自身について書いており、そしてもし彼が新しい鍵を見つけることができさえすれば、彼自身の監獄のドアを開けることができ、そのときには「ありとあらゆることが異なってくるであろう」、という感情を書いている。
 一月の第一週に、彼は胆囊を患い、ベッドに閉じこめられた。ただそのことがほんとうに彼をそれほど疲れさせ、弱さを感じさせた理由であるとは信じ難い。ベッドで彼は自分の性欲のことやフランシスへの感情についてじっくりと思い巡らした。調子のよくないときに、彼は肉欲の思いに耽り、しばしば肉欲に駆られる、と彼は書いている。彼は性欲を抱いてフランシスのことを思い浮かべた。「そしてそれは悪いことだが、いまはそうするのが好きだ。」彼はフランシスから手紙をもらってからずいぶん時間が経っていることを心配した。そしていつものように、最悪のことを考え始めた──たとえば、フランシスが死んだかもしれないと考え始めた。「考えたこと、もし彼が死んだらよくなり、まともになるであろう。そしてそのさい私の〈愚かな行為〉が取り除かれる。」この暗い独我論的な思いは、一時的であって、ただちに撤回されている。「繰り返すが、私はただちょっとだけ言っただけだ。」
 いずれにせよ、このように修正しても衝撃的であることには変わりはない。その問題を考え直した後でも、彼はほんとうにフランシスの死がよいことになろうと、ちょっとだけにしても、なおそう考えていたのであろうか。
 「私は冷たいし、自分のことだけを考えている」、と彼は書いた。そして彼はウィーンでは誰かと何らかの愛の関係にあると自分では感じなかったことに思いを巡らしていた。アレーガッセでの快適な生活は、彼には悪であると考える傾向にあったが、しかしそれ以外に彼の行くべきところはどこだったのか。ノルウェイでの彼の家の孤独は、耐えられないことは明らかにされた。それに彼はケンブリッジのアカデミックな生活に戻りたいとも望まなかった。ふたたびダブリンが魅力的な選択地であると思われてきた。そこでは彼はドゥルーリーと一緒にいることができ、精神科医として訓練を受けてドゥルーリーと一緒にやっていくこともできそうであった。万事が流動的であった。彼はどこに住みたいかというよりも、自分が何をやっていくのかが分からなかった。しかし一つはっきりしているのは、彼と話し合いのできる人と一緒にいることを必要としているということであった。*

 * ウィトゲンシュタインがフランシスよりもドゥルーリーと一緒にいるのを選んだことには説明が必要である。しかし残念ながらその点に関しては推測の範囲でしかない。彼の日記には、彼はフランシスと一緒になるためにケンブリッジに行くことを考えてさえいない。恐らく彼が避けたのはフランシスではなく、ケンブリッジであったのであろう。それとも恐らく彼がダブリンに魅かれたのは、そこで医師としての訓練を受ける可能性があったからであろう。しかしすでに引用した言葉と照らしてみると、フランシスに対する彼の欲望、彼に対するフランシスのほとんど圧倒的な欲望がケンブリッジを魅力のないものにした──彼自身とフランシスとのあいだの肉欲と、彼が自分のなかに見ようとした変化とは両立しないとみなした──という可能性もまたあるに違いない。

ウィトゲンシュタインは二月八日にダブリンに着き、チェルムスフォード・ロードのドゥルーリーの旧いフラット住宅に移った。そこに着いて二日目に、彼は自分自身のことを「非宗教的、気難しい、憂鬱」、と記している。彼は、仕事ができず、自分が何をすべきか分からず、たんに無為徒食で待ち受けていなければない、「嫌悪に陥っている状態」にあった。彼は、相変わらず嘘をついているような状態にあった、と述べている。「再三再四、自分自身について本当のことを言う決心がつかないでいる。あるいは束の間だけ自分では認めるが、その後でそのことを忘れてしまうのだ。」彼の虚栄心、臆病さ、真実についての恐れが、自分で認めたくないような自分に関する秘めごとをそのままにしておくようにさせた。「私はそれらを見出すほどもう賢くはない。」二日後に彼はダブリンに来たことを悔い始めた。そこでは彼は何もできないように思われてきた。「他方、私は待たなければならないであろう。というのは、相変わらず少しも賢くなっていなはていからだ。」ダブリンでのこれらの最初の数週間に、彼はほとんど何も哲学のことを書かなかった。彼の哲学的思索は、いわば寝かせた状態にあった。「まったく私の才能が半分まどろみの状態にあるかのようだ。」
 彼の哲学的思索が眠っているあいだに、精神科医になるという思いが目を覚ました。彼はドゥルーリーにセント・パトリックス病院を訪れて、重度の精神病にある患者に会えるように取り計らってほしい、と頼んだ。このことは彼には大きな関心事であるとドゥルーリーに話した。その訪問の後で、彼は(英語で)書いた。「狂気の状態のなかに正気な人間を見よ!(そしてお前自身のなかに狂気を見よ。)」そしてつぎの数週間、週に二、三度彼は何人かの長期入院患者を訪れた。しかし彼はそれがともかくも何になるのかは不確かなままであった。
 ドゥルーリーはこのとき医師となる訓練の最後の年であり、ダブリン市立病院でレジデントとして過ごしていた。災害事故の部局で働いているときに、彼は自分の不器用さに戸惑い、そして医学の道を選んだのは間違っていたのではないかと疑った、とウィトゲンシュタインに話した。ウィトゲンシュタインは、自分が医師になるという自分自身の計画については決断できなかったが、ドゥルーリーの疑問を速やかに取り除いた。つぎの日、ドゥルーリーは彼から手紙を受け取った。それは、「きみは過ちをしていない。というのは、そのとき(その道を選択したとき)にきみが見過ごしたということを知っていたとか、知っているべきだったというようなことはと何もないからだ」、と強調して述べている。彼はドゥルーリーに「自分自身のことを考えてはいけない。他人のことを考えるのだ」、と強調した。

身体的であれ精神的であれ悩んでいる者に、きみは間近に接近し、人々の苦しみをみなさい。そうすればこのことがきみの悩みの良き治療となるはずだ。もう一つの方法は、きみが休息を取らなければならないときはいつも、休息を取り、そして気を落ち着けること。(私と一緒にではない。一緒であればきみを落ち着かせないだろうから。)……きみの患者を悩んでいる人間としてもっと近寄ってみなさい。そして数多くの人々に「おやすみなさい」と言う機会をきみがもっていることをもっと喜びなさい。このことだけが多くの人たちがきみを羨む天からの贈り物だ。そしてこうしたことがきみの緊張し疲れた魂を癒すことになろう、と私は信じる。そうすれば疲れた魂もひとりでに回復するだろう。きみが健康であって疲れているときには、きみはただ休息をとればいい。ある意味で、きみは人々の顔を十分に近寄って見ていないのだ、と私は思う。

その手紙は、「きみがいい思索をすること、しかしそれよりもいい感情をもつことを望む」、と結んでいる。
 二月十六日のウィトゲンシュタインの日記には、一九三八年はじめの数か月間で、オーストリアに直面した危機にはじめて言及されている。「執筆ができない」、と彼はそのとき書いている。

私の国籍の変更のさまざまな可能性を考える。オーストリアとドイツとのあいだに、さらに強制的な友好関係が樹立されたことを今日の新聞で読む──しかし私がほんとうに何をすべきなのか分からない。

「国民主義反対派」のナチのリーダーのアルトゥーア・ザイス=インクヴァート博士はオーストリアの内務大臣に任命さヒトラーとシューシュニックとのベルヒテスガーデン会談の意義が世界に明らかとなったのはその日であった。
 この会談は二月十二日におこなわれ、最初二国間のよりいっそう親密な関係の証しとしてオーストリアで祝われた。この「友好的な会議」でヒトラーがナチの閣僚にオーストリアの政治、軍事、財政に関する任務を担当することをシューシュニックに要求し、そして「きみは私の要求を三日以内に満たすであろう、そうでないと私はオーストリアに進軍を命ずるであろう」、と威嚇したことが後になってはじめて明らかにされた。二月十五日に『タイムズ』は報告した。

フォン・ザイス = インクヴァート博士をオーストリアの政治を統制するオーストリアの内務大臣に任ずべきであるというヒトラー氏の提案が認められるとすれば、遠からず〈オーストリアの終わり〉という語がヨーロッパの地図に書き込まれることになるというのが、オーストリアの反ナチたちの一般的見解とされていた。

 翌日その新聞は、ザイス = インクヴァートが閣僚の宣誓をした後ただちにウィーンを発ちベルリンへ向かった、という事実を淡々と伝えた。「内務大臣の最初の仕事が外国を訪問することにあるというのは、ヒトラー - シューシュニック会談後でオーストリア自身が気づいた異常な状況を明確にあらわしている。」
 つぎの数週間、ウィトゲンシュタインは成り行きを注意深く見守り続けた。夕方になるといつも彼はドゥルーリーに、「どんなニュースか」、と尋ねた。恐らくドゥルーリーはその日報道されたことをウィトゲンシュタインに語り、それに応えたのであろう。しかしドゥルーリーの回想を読むと、彼がどこの新聞を読んでいたのか、と疑問に駆られる。当時の「併合」に到る経緯についての彼の説明は、控え目に言っても何かおかしい。三月十日の夕方に、ヒトラーがオーストリア侵入を企てていると新聞がこぞって報道していることをウィトゲンシュタインに話したと、彼は書いている。ウィトゲンシュタインはすっかり息をつまらせて、むきになって答えた。「それはおかしな噂だ。ヒトラーはオーストリアを望んではいない。オーストリアは彼にはまったく用がないのだ。」ドゥルーリーによれば、翌日の夕方ヒトラーがほんとうにオーストリアを占拠したと告げなければならなかった。彼はウィトゲンシュタインに、彼の姉たちが危険になるのではないかと尋ねた。ふたたびウィトゲンシュタインはまったく驚くほど無関心そうに、「彼女らはとても重要視されているので、誰も彼女らにあえて触れることはない」、と答えたというのである。
 この説明から、ウィトゲンシュタインが二月十六日の新聞を読んだことを忘れてしまった──彼がオーストリアへの威嚇のことを何も知っておらず、ナチ体制の本性についてまったく無知であり、そして自分の家族の安全について無関心であった──と人は考えるかもしれない。これはすべてまったくの間違いであり、彼はドゥルーリーに負担をかけたくなかったので、ドゥルーリーにこうした間違った印象を与えたとしか考えられない。ドゥルーリーが額面どおりにウィトゲンシュタインの応答を受け入れていたのは、たぶんウィトゲンシュタインを絶対視している彼の態度と彼が政治に無頓着であったことを大いに語っている。また友情関係には区切りををつけていたウィトゲンシュタインが、これらの事柄に関してはドゥルーリーと話すのに価しないと考えていたとも言える。ドゥルーリーとは、ウィトゲンシュタインは宗教問題を話し合った。彼が政治および世界状勢に関して話し合ったのは、ケインズ、スラッファ、パティソンであった。
 しかし先の説明だけを考えてみても──つまり、その出来事に関してウィトゲンシュタインが知っていたかどうかとは別に──ドゥルーリーの話には少しばかり当惑させられる。というのは、もし彼がウィトゲンシュタインにニュースを毎夕伝えていたとすれば、たとえば、彼にオーストリア独立の賛否をオーストリア国民に求める国民投票をおこなうという、シューシュニックの声明を三月九日に話していたことになる。この声明はヒトラーを刺激し、翌日オーストリア国境へ彼の軍隊を集結させ、侵入を用意万端整えさせたのであった。ところでウィトゲンシュタインは、ヒトラーがオーストリアを欲しがっていたことを否定して、侵入のニュースに応えたとすれば、彼(あるいはそのことに関してドゥルーリー)はシューシュニックの国民投票をどう考えたのであろうか。オーストリア独立がなぜ再確認される必要があったのか。いったい誰からの独立だったのか。
 さらに軍隊が国境に集結した翌日は、ヒトラーがオーストリアを占拠した日ではない。むしろシューシュニックが辞職し、ザイス = インクヴァートが首班となった日であった。ヒトラーとドイツ軍は、その翌日の三月十二日になるまで国境を侵入しなかった。そのとき彼らは新しい首相に要請され、そして「併合」が形式的に効力をもったのであった。このことはこじつけのように思われるかもしれない。しかしこの三日間の出来事は、それらの事件をとおして生きたすべての人々の心に明瞭に刻みつけられている。ドゥルーリーにはそうでなくとも、ウィトゲンシュタインには、これらの一日一日の事態の変化は決定的に重要であったであろう。三月十日にオーストリアはシューシュニックのもとで独立国家であった。十一日にはナチ支配のもとで独立国家であった。そして十二日にはナチ・ドイツの一部であった。ユダヤ系オーストリアの家族には、第二日と第三日との違いは決定的であった。それは一オーストリアの国民と一ドイツユダヤ人との違いを記したのであった。
 「併合」の日にウィトゲンシュタインは日記に書いている。「オーストリアについて聞いたことが私を掻き乱す。私は何をすべきか、ウィーンに行くべきかどうか、はっきりしない。主にフランシスのことを考え、そして彼を見捨てたくないと思っている。」安心だとドゥルーリーに言ったにもかかわらず、ウィトゲンシュタインは彼の家族の安全のことを極度に心配していた。彼の最初の反応はただちにウィーンへ行き、彼らと共にいることであった。それを止めたのは、もしそうしたら、フランシスに二度と会えなくなるであろうという恐れであった。しかし彼は家族へ手紙を書き、もし自分が必要がならウィーンへ行くと申し出ている。

ウィトゲンシュタインとスラッファとの往復書簡で残っているただ一通の手紙は、「併合」の後のウィトゲンシュタインの立場を詳細に分析したものである。それはヒトラーがウィーン市中を凱旋示威行進した日、三月十四日にスラッファが書いたものであった。それはスラッファからウィトゲンシュタインへの見識をもって知らせた政治的見解と忠告であることを明瞭に証明している。そしてウィトゲンシュタインは、はウィーンへ行った場合に起こりうるさまざまな事態について助言を求めて、ただちにスラッファへ手紙を書いたに相違ないことを示している。
 その返事はつぎのように書き出されている。

話し合いをすることは恐らく混乱を招くと思われますので、その前にあなたの質問に明確な解答を与えたいと思います。あなたの言うように、もしオーストリアを去り英国に戻れることがあなたにとって「きわめて重要」なら、疑いの余地はありません──あなたはウィーンへ行ってはいけません

スラッファは、オーストリア国境ではオーストリア人の出口が閉鎖されているであろうということ、そしてこれらの制約がまもなく解かれたとしても、もしウィーンへ行けば、ウィトゲンシュタインは長いあいだ出国が許されないようになることは十分予想されると指摘した。「あなたはいま一ドイツ国民であることをむろん承知のことと思います」、とスラッファは続けた。

 あなたのオーストリアのパスポートは、きっとオーストリアへ入るとすぐに取り上げられるでしょう。その後あなたはドイツのパスポートをとらなければなりませんが、ゲシュタボが、あなたがそれに値する条件を満たしていると認める場合に限り、許可されることでしょう。
 戦争の可能性に関しては、私には分かりません。それはいつでも起こる可能性がありますし、あるいは一年か二年以上「平穏」かもしれません。しかし六か月平穏であるという公算に賭けをすべきではないと思います。

 ウィトゲンシュタインはまた、もしケンブリッジの講師になれば、自分の状況に役立つかどうかをスラッファに尋ねたに違いなかった。というのは、彼はつぎのように続けているからである。

しかしながら、もしあなたがどうしてもウィーンに帰ることを決定した場合には、私の考えによると、(a) あなたがケンブリッジの講師であれば、オーストリアから出ることが許可されるチャンスは確かに増大するでしょう。(b) いったんオーストリア(私はドイツと言うべきでしょう)から出ると、英国にあなたが入国することは何ら問題はないでしょう。(c) アイルランド、あるいは英国を出る前に、ドイツ領事館であなたのパスポートをドイツのものと換えることになるでしょう。私の想定では、彼らは非常に短期間のうちに、このようにすると思います。そしてウィーンよりもここの方がその交換の効力が得られると思います。ドイツのパスポートを携帯していけば、ふたたび出国するときに(けっして確実とは言えませんが)出やすくなると思います。

「あなたは」、とスラッファは警告した。「さまざまのことに用意周到でなければなりません。」

(一)もしオーストリアに行くのでしたら、あなたがユダヤの血筋を引いていると言わないように用心していなければなりません。そうでないと、彼らはあなたのパスポートを拒否することは確実です。
(二)あなたは英国にお金があると言ってはなりません。というのは、あなたがそちらへ行ったとき、ドイツ帝国銀行へそれを引き渡すことをあなたに強要することができるからです。
(三)もしあなたがダブリンあるいはケンブリッジで、登録とかパスポートの変換のことで、ドイツ領事館から尋ねられる場合に、あなたの答えに用心しなさい。というのは、軽率な言葉があなたをウィーンへ戻れなくするかもしれないからです。
(四)あなたの家への手紙の書き方に十分気をつけなさい、あくまでもまったく個人的なことだけに限るようにするように。というのは、手紙の検閲があるのは確実だからです。

 国籍をかえる問題に関して、もしウィトゲンシュタインがアイルランドの国籍を取る決心する場合には、彼のオーストリアのパスポートが取り上げられる前にそうすべきである。というのは、それがドイツ人としてよりもオーストリア人とした方が容易であろうから、とスラッファは忠告している。他方では、

現在の状況では、あなたがこれから先一○年間居住しないで獲得できる唯一の国籍は英国の国籍であり、またあなたにそう手助けしてくれる友人が英国にいるということ、それにケンブリッジで職があれば、確実にそれをすぐにできるということで、英国の国籍については不安がないと思います。

 翌週の金曜日に、イタリアへ発つことになっているスラッファは、もし出発前に間に合えば、その問題について話し合いにケンブリッジに来るように、とウィトゲンシュタインを招待した。しかし「後になってイタリアの私のところへ手紙を送付する場合には、あなたがイタリアの検閲官へ手紙を書いているのかもしれないのですから、その内容に注意すること」、と警告した。「この混乱した手紙のことをお許しください」、と彼は結び、そしてこれからの手紙には、それがどの程度明晰で正確であるのかを、敢えて疑うように勧めた。
 「あなたは一ドイツ国民であることをむろん心得ておくべきです。」スラッファがこれらの恐ろしい言葉を書いたその日に、ウィトゲンシュタインの日記は、彼がまさにドイツ人であるというこの意識と格闘していることを示している。

私は現在とてつもなく困難な状況にある。オーストリアのドイツ帝国への併合によって私はドイツ国民となった。それは私にはぞっとする事態だ。私は、私がいまどんな意味においても認められない権力に従わされているからだ。

 二日後に、彼は、「私ののなかと私の口でもって」、彼のオーストリア国籍が喪失したと決定し、そして五、六年間にわたったロシアへ移住する考えも断念した。「そうしたとしても何ら変わりはない。しかし家族を放っておくという考えは恐ろしいことだ。」
 スラッファの手紙を受け取ると、ウィトゲンシュタインはただちに彼とその状況を話し合うためにダブリンを発ってケンブリッジに向かった。三月十八日に日記に報告している。

スラッファは、当分のあいだどんな事情があってもウィーンに行くべきではないと私に忠告した。私は現在家族を助けることができないし、どうみても恐らくオーストリア出国は許可されないであろうから、というのであった。私が何をすべきなのか、まったく分からないが、当分のあいだスラッファの言うとおりだ、と思う。

 スラッファとのこの話し合いの後で、ウィトゲンシュタインは取るべき進路を決定した。まず彼はケンブリッジでアカデミックな仕事を確保し、それから英国の国籍を申請することにした。この両方に関して、彼はただちにケインズに助けを求める手紙を書いた。彼はまずケインズに状況を説明したオーストリアの併合によって彼がドイツ国民になったこと、そしてニュルンベルク法によって、ドイツユダヤ人になったこと。「もちろん同じことが私の兄と姉にも適用されます。(彼らの子供には適用されません。子供たちはアーリアとみなされています。)」「私が言わなければならないのは」、と彼は付け加えた。「ドイツ国民になること(あるいは、であること)という考えは、そこから帰結する厭らしいすべてのことは別にしても、私には拍手喝采なのです。(このこと私は馬鹿げたことかもしれませんが、それはまさにそのとおりなのです。)」彼はウィーン行きに反対するスラッファの論点をあらまし述べた──彼のオーストリアのパスポートが取り上げられるであろうこと、ユダヤ人として、新しいパスポートは発行されないだろう、それゆえ彼はオーストリアを出ることができなくなるか、あるいはふたたび仕事ができなくなるであろうということ。ドイツユダヤ人か、英国の大学の講師かの二者択一に直面して、彼は、気がすすまなくても、後者の選択を余儀なくされたのであった。

私は以前に英国国籍を取るという考えをもったことがありました。しかし私は、偽 - 英国 - 人になりたくないという理由でそれをいつも拒否してきました。(私の言っていることはあなたに分かってもらえると思います。)しかしながら、状況は現在の私にはすっかり変わってしまいました。といいますのは、現在私は二つの新しい国籍のどれかを選択しなければならないからです。一つは私からすべてを奪うものです。もう一つは、少なくとも私が成人してから断続しながらも大半の生活を過ごし、最も素晴らしい友人たちと私の最良の仕事を与えてくれた国で働くことを私に許してくれるものです。
 ……ケンブリッジで仕事を得ることに関して、あなたは、私が五年間「学部の助講師」であったことを覚えておられると思います。……いま、私はそれに応募したいのです。といいますのは、他に空席がないからです。事実、私はとにかくそうしようと以前に考えたことがありました。いまではありませんが、たぶんつぎの秋には。しかし、現在私にはできるだけ早く仕事につくことが重要なのです。といいますのは、(一)それが私の帰化に役立つことになるからです。そして(二)もしこれが駄目でしたら、私は一〈ドイツ人〉にならなければなりません。もし私が英国で仕事につければ、私は家族を訪れても、ふたたびオーストリアからの出国を許される機会が多くもてると思います。

スラッファの助言に基づいて、ウィトゲンシュタインは彼の帰化への申請に助けとなるソリシター(弁護士)の紹介──「この種のことに熟達している人」──をケインズに依頼した。「私は財政的な面での困難はないことを付け加えておきます。およそ三○○ないし四〇〇ポンドは手に入ると思いますし、それゆえもう一年ぐらいは楽にやっていくことができます。」
 この手紙に対するケインズの返事は残っていない。しかし彼がウィトゲンシュタインに大学での席を確保できるようにしたこと、そして彼の英国の国籍の申請に手助けしたことは明白であった。しかしながら、ウィトゲンシュタインはケインズが彼の状況を誤解したかもしれないと彼特有の心配をし、ケインズの手紙をパティソンに送り、彼にそれを「かぎつける」ことを求めた。とくに彼はケインズが彼を最もひどい類の貧乏な亡命者のひとりとして、大学当局と英国内務省に紹介したのではないかと懸念した。それゆえ彼は大学援助協議会からの研究助成金を受ける適格者となろうというケインズの提案を疑ったのであった。彼がパティソンに話したことによると、これは「お金のない人々、たとえば亡命者を助ける機関であり、そしてそこからの援助は私にはけっして公正と言えないばかりか、まったく間違った分類に私を入れている。」この点に関して彼は非常に神経質で、ケインズのソリシターの紹介を利用するべきかどうかを疑い始めた。

この紹介には少しばかり言葉遣いが悪いが、私に対して事態をもっと恐ろしいものにするかもしれないという漠然とした恐れを抱いています。たとえば、それが私を亡命者の類に入れ、そしてこのことに関して悪い側面を強調することになるかもしれません。

 彼の心配ごとには根拠のないことが明らかにされた。大学は速やかに応対し、彼はつぎの学期の初めから新たに講義のポストが与えられた。

英国のパスポートを長らく待っているあいだ、ウィトゲンシュタインにとって大きな関心は、彼の家族の状況であった。家族がどれほど危険な状態におかれているかは、彼には知ることが困難であった。そして彼は「併合」の後すぐに、彼がつぎの短信(英語で書かれている)を受け取ったときも、安心はできなかった。

親愛なるルートウィヒ
ミニンクと私があなたのことを話さない日は一日もありません。私たちの愛の思いはいつもあなたと共にあります。どうか私たちのことを心配しないでください。私たちはほんとうにまったく元気で、最高の気分でいますし、ここにいるのはこれまでどおりたいへん幸せです。あなたにふたたび会えることが私たちの何よりの楽しみです。
愛をこめて
 ヘレーネ

日記にウィトゲンシュタインはこのことを「ウィーンからの無事なニュースに安心している。明らかに検閲を意識して書かれた」、と(疑わずそのとおりとして)扱った。)

〔…〕

 ウィトゲンシュタインがこの物語をどれだけ知っていたのかは、語りえない。ともかく彼は姉たちのことで心配のあまり病気になるほどであった。一九三八年十月のムーア宛の手紙に、彼は「ここ一、二か月間のひどい神経の緊張」、について語っている。そしてそれを、「ウィーンの私の家族がたいへんな困難にあっている」せいだとしている。英国のパスポートを待つことは、彼にはもう忍耐しきれなくなっていた。彼は、姉たちを助けるために何でもやろうとウィーンへ行くのに、パスポートが使えることを待ち望んでいたからであった。こうした心配ごとのただなかで、「現代における平和」を宣言してミュンヘンから帰国したネヴィル・チェンバレンを見て、彼はいてもたってもいられなかった。彼はギルバート・パティソンにチェンバレンの〈成功〉を祝している葉書の一つを送った。そこにはチェンバレンと彼の妻の写真の下に、「平和の巡礼者。ブラヴォー! チェンバレン氏」、という文字が書かれている。葉書の裏側にウィトゲンシュタインは書いている。「きみが嘔吐をもよおすなら、それもいたし方ない。」
20 不承不承の教授

 もし「併合」がなければウィトゲンシュタインがはたしてケンブリッジに戻ったかどうか、ということは語りえない。しかしながら、アカデミーの外で生きるのに適した場所を見出そうという彼の企ては、とどのつまり結論がつけられなかった。彼は、スキナーやハットにそうするように奨めたように、「普通の」人々のなかで仕事を見つけることを時折語っていたけれども、自分がそうする努力はほとんどしなかったようである。ロシアで働く計画、そして/あるいは医師になるという計画は、より大きな目的をもって追求されたけれども、確固とした決定的な意向へと結晶することはけっしてなかった。彼は、たぶんダブリンではドゥルーリーと一緒に、またノルウェイではひとりで、彼の本を完成するのに必要な心の安らぎと集中力を求めて、努力し続けたのであった。しかし三〇〇ポンドあるいは四〇〇ポンドという彼の貯蓄は終生もつような額ではなかった。結局は彼は何か有給の職を見つけなければならなかったのであろう。つまり一九三〇年にムーアに述べているように、彼は彼がつくった一種の品物を必要とする誰かを探し出さなければならなかったのであろう。そしてそれらの品物を最も必要としているのは、アカデミーの生活、とくにケンブリッジにおいてでしかなかった。それゆえ、いつかは彼が講師職を求めるようになるというのは当然予想されたことであった。しかし確実に言えるのは、もし「併合」がなかったら、このことは一九三八年四月ほど早くはならなかったであろうということである。
 これは、ウィトゲンシュタインがその頃教師に戻る熱意がなかったという理由だけではなく、フランシスとの関係についても気遣っていたからでもあった。その年の新年の日記に記されているように、彼は彼自身とフランシスのあいだにあった肉欲に深い関心をもっており、少なくとも自分の立場からそのような官能の欲望が真の愛と両立するのかどうか、悩んでいたのであった。彼は自分の官能的な「感受性」の誘惑から離れ、距離をもってフランシスを愛したかったのであろう。それにもかかわらず、フランシスを完全に失ってしまう恐れから、いまや彼はケンブリッジに戻ることになり、その誘惑の領域へとこれまで以上に深く踏み込むことになるのであった。
 戻るとすぐに、彼はイースト・ロードの食糧雑貨店の上のフランシスの下宿へ移り、そして一年をとおしてふたりは、はフランシスがずっと願っていたカップルとして生活することとなった。ウィトゲンシュタインの本の共著者であった期間は、ずっと以前に終わっていた。ウィトゲンシュタインが講義し、本を書き続けているあいだ、フランシスは工場で働いた。この期間中、フランシスからの手紙は一つもないし、ウィトゲンシュタインの略号の日記にもそれに関係した言葉すらない。そういうわけで、彼らの関係がこの年にどのように悪化していったのか、なぜ悪化したのかは分からない。分かることと言えば、一九三九年には彼らの関係が悪化してしまったということ、そしてつぎの二年間ふたりの関係を持続させたのは、ウィトゲンシュタインに対するフランシスの変わることのない、忠実な、たぶんしがみついて離れないような愛だけであった。ウィトゲンシュタインのフランシスに対する愛は、彼の憧れと恐れが同居したような肉体の結合とはならなかった──恐らくなりえなかったようである。

この時期の彼の学生たちに、ウィトゲンシュタインは新しい世代の弟子たちを見出した。彼が快適だと感じる規模に彼のクラスの学生たちを制限するために、彼はケンブリッジ大学の登録係に通常の方法で彼の講義のことを通知しなかった。その代わりに、ジョン・ウィズダム、ムーア、ブレイスウェイトに、講義に関心をもっていると彼らがみなした学生たちにそれを知らせるように頼んだ。一〇人程度出席した。この選ばれた一団のなかに、ラッシュ・リース、ヨーリック・スマイシーズ、ジェームズ・テイラー、カシミール・レーヴィ、セオドア・レッドパスがいた。そのクラスは、彼ら全員に対してウィトゲンシュタインのかなりの理解が行きわたるような少人数であった。ただこの時期、とくに親しい友人となったのはリース、テイラー、スマイシーズであった。
 講義はテイラーの部屋でおこなわれた。テイラーについては出版された回想録にはほとんど何も触れられていないが、彼はカナダ人で、トロント大学を卒業し、ムーアのもとで研究するためにケンブリッジに来ていた。ムーアを介してウィトゲンシュタインの友人となった。戦後彼はオーストラリアのある大学で哲学の講師職の話があったが、その職に赴く途中でブリスベーンの居酒屋での喧嘩沙汰で死んでしまった。スマイシーズは、出版された本には繰り返し言及されているが、これまでほとんど何も語られていない、謎の人物のひとりである。彼は職業的哲学者には一度もならなかったけれども、哲学的諸問題について、真剣に深く考えることをやめなかったという意味で、ウィトゲンシュタインの哲学と真にウィトゲンシュタインの性格に傾倒した弟子であった。彼はウィトゲンシュタインの残りの生涯ずっと彼の親友であり続けた。彼はケンブリッジを出てから、オックスフォードで図書館員となった。晩年には彼はパラノイア精神分裂症にかかり、モーリス・ドゥルーリーの患者となった。彼は一九八一年、悲惨な環境におかれて亡くなった。こうした人たちを見ていると、ウィトゲンシュタインが最も強烈に影響を与えた人たち、とくに一九三〇年代の人たち(スマイシーズと同じく、ドゥルーリー、スキナー、ハットのこと)がアカデミーの生活に入らなかったことに気づく。それゆえウィトゲンシュタインの著作が感化した大多数の学術論文には反映されていない、またそれに反映されえないような、ウィトゲンシュタインの影響力の大きく、重要な側面があるのである。彼らのなかで何かを出版したのはモーリス・ドゥルーリーだけであった。彼の哲学的ならびに心理学的諸問題に関する論文集『言葉の危機』は、まったくといえるほど第二次的文献においては顧みられていないが、その姿勢と関心において、他のどの第二次的なテキストよりもより真にウィトゲンシュタイン的である。
 医師としての訓練の最終学年の休暇に、ドゥルーリーはウィトゲンシュタインの新しいコースの講義の一つに何とか出席できた。講義中、ウィトゲンシュタインは学生のひとりに、ノートを取るのをやめるように言った。

もしきみがこれらの自然に湧いてくる発言を書きつけるなら、将来誰かがそれらを私の考察した見解として出版するかもしれない。私はそうされることを望まない。というのは、私はアイデアが湧いてくるままに話しているが、このことすべてはもっと多く思索をし、もっとよい表現にする必要があるからである。

幸いにもこの要求は無視され、これらの講義からのノートは出版された。*

 * シリル・バレット編『美学、心理学および宗教的信念についての講義と会話』(ブラックウェル、一九六六年)を参照のこと。

 これらの講義はウィトゲンシュタインの全著述のなかでもユニークである。ただそれらの主題がこのようになっているのは、それらが、数学とか哲学に一般的に関わっているのではなく、美学と宗教的信念に関わっているからである。この違いが見た目よりも徹底していないのは、ウィトゲンシュタインがこれらの主題を論じるにあたって、彼が他の文脈で用いたのと同じ例──カントルの対角線の証明、フロイトの原因と理由との混乱等──をあげており、その結果、たとえば彼の美学の議論が数学の哲学とか心理学の哲学の議論とはさほど違わないようにみえるからである。これらの講義を特徴づけているのは、その語調にある。まさしく彼が自然に湧くままに無防備に語っているので、それらは彼の哲学の目的について、そしてこの目的が彼の個人的世界観とどのように関わるかについての言明を最も曖昧なものの一つにしている。それらをとおしてより明確にされているのは、『青色本』で述べているように、哲学者たちが「彼らの目の前に科学の方法をみて、科学がやっている方法で問題を問い、問題に応えるという誘惑に打ち勝つことができないでいる」ときに受けるようなたんなるダメージではなく、ここでの彼のターゲットは、いっそう一般的に科学と科学の方法との崇拝が私たちの文化全体に及ぼしているその破壊的な結果に向けられていることであった。美学と宗教的信念は──もちろんウィトゲンシュタインにとって決定的に重要な例であるが──思想と人生の領域の二つの例であり、そこでは科学の方法は適切ではなく、その方法に従わせようとする努力は、歪み、皮相的になり、混乱に導く、というのである。
 ウィトゲンシュタインは、自分のしていることが「人々に彼らの思考の様式を変えるように説得することである」、と聴講者に語った。彼は、ある様式の思考を他の様式の思考と対立させて「宣伝している」のだ、と述べている。「私は他のものに正直に言って愛想をつかしている」、と彼はつけ加えた。「他のもの」を彼は科学の崇拝と同じだとした。それゆえ、彼はこれらの講義のなかで、彼が強力であるとみなしたものを痛烈に非難し、この崇拝への福音主義の形態にダメージを与えることにかなりの時間をかけた──たぶん、たとえば、ジーンズの『神秘の宇宙』のような当時の通俗的な科学書を。

ジーンズは『神秘の宇宙』と呼ばれる本を書いた。私はそれを嫌いだし、間違っていると言う。その表題のことを考えてみたまえ、……『神秘の宇宙』という表題は一種の偶像崇拝を含んでおり、その偶像は科学と科学者である。

 美学を論ずるさいに、ウィトゲンシュタインは美学という名で行きわたっているような、哲学の分野への貢献を企てていなかった。こうした学問がありうるであろうという発想そのものは、「他のもの」から生み出されたのであり、あるいはたぶんその一つの徴候であった。その代わりに彼はその学問から、とくに一種の美学の科学がありうるという発想から芸術的評価の問題を解放しようとしていた。

きみたちは美学が何が美しいのかを私たちに教えてくれる科学だと考えるかもしれない──ほとんどあまりにも馬鹿馬鹿しい言い方である。私は美学はどの種のコーヒーが美味しいのかということも含むべきだと想定している。

 リースが退廃の「理論」についてウィトゲンシュタインに尋ねたとき(ドイツ音楽の伝統における退廃がウィトゲンシュタインのあげた例の一つであったが、それに言及して)、ウィトゲンシュタインはその言葉に身震いして反応した。「きみは私が理論をもっているとでも考えているのか。きみは私が退廃とは何か、と言っているとでも考えているのか。私のしているのは退廃と呼ばれているさまざまなことを記述することなのだ。」
 美学の伝統的な問題(「美とは何か」等)に答えることよりもむしろ、ウィトゲンシュタインは、美的評価が絵画の前に立って(美学のいくつかの哲学的議論を読んでから考えるように)、「これは美しい」と言うことにあるのではないことを示すためにつぎつぎと例をあげている。評価は当惑したさしまざまな形態をとる。その形態は文化によって異なり、そして評価はまさにしばしば何かを言うことにあるのではない。評価は、言葉と同様にしばしば振る舞いによって、詩の作品とか、音楽の演奏とかの方法によっても、同じ作品を何度も読んだり聴いたりしても、そして私たちがどのようにそうするのかによっても示されるであろう。評価に関するこれらのさまざまな形態は、「芸術的評価とは何か」、という問いに対する答えから引き出されるような共通なものは何一つない。むしろ、それらは〈家族的類似性〉というさまざまな錯綜した系列に結びつけられている。それゆえ、

評価が何から成り立っているのかを記述することは難しいばかりではなく、不可能である。評価が何から成り立っているのかを記述するには、その環境全体を記述しなければならないであろう。
 とりわけ、美的な理解についての、なぜ、どのようにして、という問いへの答えにあたって、私たちは因果的な説明を求めているのではない。美学の科学は存在しないし、そしてまた物理学のような他の科学とか、心理学といった疑似科学のような科学の成果もこれらの問いに応えられえない。ウィトゲンシュタインはフロイトの作品から二つの種類の説明を引用している。それらは、彼がそれぞれに、ぜひとも避けられるべきだ、と考える還元的説明および彼が促進しようと試みている他の「思考の様式」を例証するものである。
 第一の説明は『夢判断』から取り出したもので、彼の患者が美しい夢だと語ったことについてのフロイトの説明に関係している。その夢を再録するにあたって、フロイトは性的引喩──いわば、うなずいたり、ウィンクをして──を示すように、大文字〔ここでは太字〕でいくつかの語を書いている。

彼女は高いところから降りてきていた。………彼女は手に大きな枝をもっていた。それは実際には赤い花がいっぱいに咲いている木のようであった。……そこから降りた後で、彼女は同じような木を梳いている従僕をみた、つまり彼は、苔のようにそれに垂れ下がったふさふさとした髪の毛の房を木切れを用いて梳いていた。

等々。後に夢のなかで、その女性は、全力を尽くして人々が枝を取り、それらを道路へ投げているのに出会った。彼女は自分も枝を取っていいのかと尋ねた──フロイトの説明によれば、彼女は枝を折っていいかを、つまり手淫をしていいのかどうかを尋ねたのである。(ドイツ語で「枝を折る」は、英語の「手淫をする」と同じ意味である。)フロイトはつけ加えている。「夢をみた女性は、それが解釈された後では、この美しい夢がぜんぜん気に入らなかった。」
 これに対するウィトゲンシュタインの反応は、「フロイトはその患者を欺いたと言いたい。つまりこれらの連想がそのを夢を美しくするのではないか。その夢は美しかった。なぜそうあってはならないのか。」その夢の美しい要素をわいせつという言葉に還元したフロイトの説明にはある種の魅力と、ある種の魅惑がある。しかしその夢は本当のところどういうことかをフロイトが示したというのは間違いである。ウィトゲンシュタインはそれをつぎの命題、「レッドパスを摂氏二○○度に熱すれば、水分が蒸発してなくなったときに、後にいくらかの灰が残る。これが本当のレッドパスの姿だ」にたとえる。このように言えば、ある種の魅力をもつかもしれない、「しかしそれはどんなに控えめに言っても誤解を招くであろう」、と彼は述べている。
 この種のフロイトの説明で、ウィトゲンシュタインが是認して語っているのは『機知と無意識との関係』に含まれている。ウィトゲンシュタインはいっさい例をあげていないが、しかしたぶん単純な例を与えれば十分であろう。その本の最初の部分で、フロイトはハイネの『旅の絵』におけるジョークを検討している。ハイネの登場人物のひとり、卑しい富くじ売りの男が男爵ロートシュルトと自分との関係を自慢して、「彼は私をまったく彼と平等に──まったく家族同様に──扱った」、と語った。これが私たちを笑わせる理由は、フロイトの主張によれば、ロートシュルトが富豪であるのにその男を彼と同等に、まったく家族同様に扱った、という思いを巧みに、簡潔にあらわしているだけではなく、それに付随した抑圧された思いも明らかにしており、実際には金持ちに謙虚に取り扱われることにはかなりの不快さがあるということである。
 もし私たちがこの種の説明を受け入れる傾向にあるなら、とウィトゲンシュタインは尋ねる、どういう理由に基づいてそうするのか。

「もしそれが因果的でないとすれば、それが正しいということをどのようにして知るのか。」人々は言う、「そうだ、それは正しい。」フロイトはジョークを異なった形へ変えて、あるジョークが目差すものから、ほかのジョークが目差すものへと導く、観念連鎖の一つの表現と人々が認めるようなものへ変えてしまう。正しい説明のまったく新しい記述である。経験と一致する説明ではなく、受け入れられる説明である。

 「人々は受け入れられる説明を与えなければならない。これが説明ということの全要点である」ということが、この種の形態の説明に欠かせない、と彼は強調している。これがまさに美学において望まれている種類の説明である。つまり、あるものが美しいということの、あるいは私たちがあるものを美しいとみなすことの原因を確立する説明ではなく、むしろ私たちがあらかじめ考えてもみなかったようなつながりを示すことによって、何が美しいのかを示す説明である──たとえば、ある音楽作品、あるいはある戯曲、詩などがなぜ偉大な作品である、と正しい評価がなされるのかを示す説明である。
 講義において、ウィトゲンシュタインは自分自身の体験からいくつかの例を取り出して、芸術作品の偉大さを理解し始めたときに何が起こるのかを語っている。彼は十八世紀の詩人フリートリッヒ・クロプシュトックの作品を読み、そして最初にそこに何も見つけることができなかったと話している。その後で彼は、クロプシュトックを読む方法は彼の韻律に変則的な強調点をおくことであると気づいた。

私が彼の詩をこの新しい方法で読んだときに、私は「やれやれ、彼がなぜこうしたのか、ようやく分かった」、と言った。何が起こったのか。私はこの種の作品を読んで、かなりうんざりしたけれども、それをこの特殊な方法で心を引き締めて読んだとき、私はにんまりと微笑んで、「これは素敵だ」などと口走った。しかし何も言わなかったのかもしれなかった。重要なのは、私はそれを繰り返し読んだことであった。私がこれらの詩を読んだとき、是認の身ぶりとでも言えるようなジェスチャーと顔の表情をしたのだった。しかし重要なことは、私がその詩をまったく違ったように、以前よりいっそう心を引き締めて読み、そして他の人たちに、「見なさい! これこそまさに詩の読み方なのだ」、と言ったことである。

 彼があげたと思われる他の例は、インドの詩人ラビンドラナート・タゴールの『暗室の王』であった。ウィトゲンシュタインはこの戯曲を一九二一年にドイツ語訳(原文はベンガル語で書かれていた)で最初に読んだ。当時タゴールは、その評判が最高のときで、ヨーロッパで、とくにドイツとオーストリアで絶大な人気があった。彼はそのときエンゲルマンへの手紙に、その偉大な知恵にもかかわらず、その戯曲が彼に深い印象を与えなかったと書いた。彼は感動しなかったのであった。

その知恵のすべてが私にはまるでアイスボックスから出てきたように思われます。私は、それらが彼自身の純粋な感情からよりもむしろ、読んだり聞いたりしたことすべてを受け売りしていると知っても(まさにキリスト者の知恵についての知識を獲ちえていることが私たちのなかには非常に多くあるように)驚くようなことはありませんでした。恐らく私は彼の言葉の調べが分からないのだと思います。私にはそれが真理を捉えた人間から発せられた調べのように(たとえばイプセンの調べのように)響いてこないのです。しかしながら、ここでは翻訳が私には橋渡しできないような裂け目を与えているのかもしれません。私は大いに関心を抱いて読みましたが、感銘を受けることはありませんでした。それはけっしていい印とは思われません。といいますのは、これが私に感銘はを与えることになるような主題だからです──あるいは私は──はあまりにも感受性がなくなり、どんなものにももうまったく感動しなくなったのでしょうか。その可能性もむろんあります。
 ──また、私がここにドラマが起こっているということもほんの瞬間すら感じられません。私はたんに抽象的にそのアレゴリーを理解しただけです。

 このちょうど数か月後に、彼はヘンゼルに手紙を書き、彼がタゴールを再読し、そして「今度は以前よりいっそう興味をもって読んでいます」、と書いている。「私はいま」、と彼はヘンゼルに話した。「ここにはほんとうに最も重大なものがあると確信しています。」『暗室の王』は、その後彼の好みの本の一つとなり、友人たちへ贈ったり貸したりするのがつねとなった。そして美学に関する講義をしている時期に、彼はその戯曲をヨーリック・スマイシーズと一緒にふたたび読んだ。今度はタゴール自身の英訳で読んだ。またもやその翻訳には裂け目があったようである──これを克服するために、いわばそのテキストの亀裂を埋めるために、スマイシーズとウィトゲンシュタインはふたりで翻訳の準備をした。スマイシーズの書類のなかには、その戯曲の第二幕の彼らの改訂したタイプのコピーが見出され、それにはつぎのような見出しが付けられている。

ラビンドラナート・タゴール著『暗室の王』──ラビンドラナート・タゴールの英語版からL・ウィトゲンシュタインとヨーリック・スマイシーズが用いる英語へのL・ウィトゲンシュタインとヨーリック・スマイシーズによる翻訳

 スマイシーズとウィトゲンシュタインがした改訂のほとんどすべては、タゴールの旧い型の「詩の」語法を、現代に慣用されている語へ置き換えたものである。たとえば、タゴールが〈部屋 chamber〉と用いたのを彼らは〈室 room〉と直し、タゴールが「彼は部屋には不足していなかった」、と書いたのを彼らは「彼は室には不自由しなかった」、と書き直す、等々。
 その戯曲は宗教的な目覚めについてのアレゴリーであり、それゆえ、その主題に関して、それはウィトゲンシュタイン自身の思想の多くを反映させている。その表題の王は、家臣たちには姿をけっして見せない。家臣の何人かは彼の存在を疑い、他のものは、彼がとても醜いので、自分の姿を敢えて見せないようにしている、と信じていた。侍女のシュロンゴマのような人たちは、王に非常に献身的で、王を非常に崇拝していて、王に会いたいとは願わなかった。彼らは王が他の生き物とは比べられない存在であることを知っていた。主人に服従し、自分自身の誇りを完全に克服した者だけが、王が近づいてきたとき王がいるという感触をもっていた。その戯曲は、王の后シュドルションの目覚め──あるいは、謙虚さ、従順とでも言えるもの──に関わっている。彼女は最初誇り高い后として描かれ、夫の残忍性を嘆いている。彼女は永遠に暗闇にしている部屋のなかでだけしか彼に会うことができなかった。彼女は彼に会い、彼がハンサムかどうかをしきりに知りたがっていた。その憧れから他の王と恋に陥り、彼女はその男に外の世界で会い、彼を夫と間違えた。この間違いを冒して絶望し、どん底にきてはじめて、自分がまったく卑しく、堕落していると感じ、自分のプライドを捨てたときに、彼女は自分の本当の夫と和解でき、それから全幅の従順さをのもって、彼の前に跪くのであった。つまり后シュドルションは、侍女シュロンゴマのレベルへ降りてきたときはじめて開かれたのであった。真の価値のすべては王から授けられるということを彼女が悟ったところでその戯曲は終わりとなる。王はそのとき彼女につぎのように言えた。「おいで、さあ一緒においで、外へおいで──光のなかへおいで!」
 ウィトゲンシュタインとスマイシーズが翻訳したその戯曲の一部は、シュロンゴマとシュドルションとのあいだに交わされた会話であった。そこでは侍女が王を一度も見たことがなく、そして王が王国から彼女の父を追放したとき、大いに苦しみながらも、どのようにしてそのように完全に王に献身的になったのかを彼女は后に説明している。王が彼女の父を追放したとき、后は、シュロンゴマがひどく屈辱を感じなかったかと尋ねる。「激しい屈辱を受けました」、と侍女は答えた。

私は廃墟と破壊のなかを放浪していました。その道が閉ざされたときに、私は何の頼るものも、助けてくれる人も庇護してくれる所もなく、取り残されたように思いました。私は檻のなかの野生の動物のように、わめき、暴れまわりました──私は自分の無力さに怒り、すべての人たちを八つ裂きにしてやりたかったのでした。

 「しかしそんなことをした王に、どうしてこんなにも献身的になったの」、とシュドルションは尋ねた。そうした気持ちに変わったのはいつなの。「どうお話したらいいのでしょうか」、それが答えであった。

自分でも分かりません。ある日私のなかのあらゆる反逆心が打ち砕かれたのでした。そのとき私は心の底から謙虚になって諦められて、塵のなかにひれ伏してしまったのでした。そのときに私は分かったのでした。……彼は恐ろしい方でしたけれども、比類のない美しい方だと分かりました。私は救われました。私は救済されました。

 ウィトゲンシュタインのタゴールの翻訳は、彼の宗教に関する講義と結びつけて読むと稔り豊かに読むことができよう。というのは、これらの翻訳した文章のなかで、タゴールはウィトゲンシュタイン自身の宗教的理想を表現しているからである。つまりシュロンゴマのように、ウィトゲンシュタインは神を見ることも、また神の存在理由も見出すことも欲しなかった。彼は自分自身を克己さえできれば──彼のすべてが「謙虚になって諦められて、塵のなかにひれ伏してしまった」その日がやってくるとき、そのとき神は、いわば彼のところへやってくるであろう。そのとき彼は救われるであろう。
 宗教的信念に関する講義のなかで、彼はこの確信の最初の部分──宗教的信念をもつ理由が必要ではないこと──にもっぱら集中している。思考の科学的様式との関連を拒否する点で、これらの講義は美学に関する講義と同種である。それらはまた彼がドゥルーリーへ語ったことを推敲したものとしても理解できよう。「ラッセルと牧師たちは、それらのあいだに限りない害悪を及ぼした。限りない害悪を。」なぜラッセルと牧師が一緒に非難を受けるのか。両者とも宗教的信念についてのその哲学的正当化が、いかなる信条がそれに与えられるさいにも必要である、という考え方を奨めたからである。宗教的信念に証拠を見出せないがゆえに、宗教を軽蔑する無神論者も神の存在を証明しようと企てる信者も共に、「他のもの」──科学的思考の様式という偶像崇拝──を犠牲にしている。宗教的信念は、科学的理論とはアナロジーではないし、同じ証拠を基準に用いることを受け入れたり拒否したりすべきではない。
 ウィトゲンシュタインが強調したのは、ある人間を宗教的にさせるような類の体験が実験から結論を導く経験とか、あるいはデータの蒐集から推測する経験とはまったく違っている、ということであった。彼は最後の審判を夢にみて、それがどのようなものになるか知っているという者を例にあげて述べている。

誰かが「これは証拠に乏しい」、と言ったと想定しなさい。「もしあなたがたがそれを明日の雨が降る証拠と比較しようとすれば、それはまったく証拠とはなりえない」、と私は言いたい。彼はまるで論点を拡張して、あなたがたがその夢を証拠と呼んでいるかのように言うかもしれない。しかしそれは証拠としてこのうえもなく滑稽なものだ。だがこの場合には、「あなたは控え目にみても、極端に根拠の乏しい証拠に自分の信念の基礎をおいている」、と私が言おうとしているのであろうか。なぜ私がこの夢を証拠とみなすべきか──私はあたかも気象上の事象に関する証拠の妥当性を推測しているかのように、その妥当性を推測すべきであろうか。
 もしあなたがたがそれを科学において証拠と呼ばれているものと比較するなら、あなたがたは、「そうだ、私はこういう夢をみた……それゆえ、……最後の審判が来る」、と誰が真面目になって議論できると信じるのか。あなたがたは、「へまにしては大きすぎる」、と言うのかもしれない。もしあなたがたが突然に黒板に数を書き、それから、「さあ、足し算をしよう」、と言い、その後で、「2+2は3である」などと言っても、「それはへまではない」、と言うであろう。

 どのようにして宗教的信念を受け入れたり拒否したりすベきであるか、そして神の存在、魂の不滅等のことに関しては何を信じるのか、という問題に関しては、ウィトゲンシュタインはこれらの講義で何も触れていない。

「ウィトゲンシュタイン、あなたは何を信じるか。あなたは懐疑論者なのか。あなたは死後生き続けるかどうか分かっているのか」、と誰かが言ったと想定してみなさい。ほんとうに正直なところ、「私には言えない。私には分からない」、と言いたい。というのは、「私が存在しなくなるのではない」などと言っているときに、自分が何を言っているのか、私にはまったくはっきりしないからである。

 しかしながら、もし彼が神の存在と復活を信じられるようになるとしたら──もし彼がそれらの信仰の表現にある意味を見出しさえしたら──それは彼が何らかの証拠を見出したからではなく、むしろ彼が贖われたからであると考えていたことは、彼が書いた他の覚え書き(たとえば、ベルゲンへ行く船のなかで書かれたものと以前に引用したもの)から明瞭である。
 ウィトゲンシュタインが、この来るべき贖いをどのように期待していたか、あるいは希望していたのかについて──いわばそれが彼の手にあったのか、それとも神の手にあったのかどうかについては、依然として疑わしいままである。
 この中心問題に関して、『暗室の王』もウィトゲンシュタインと同様に曖昧である。シュドルションが救われた後で、彼女は王に語っている。「私の主よ、あなたは美しくはありません──あなたはあらゆる比較を越えておられます!」それに対して王は答えている。「私と比較できるものはそなた自身のなかにあるのだ」「もしそのことが本当でしたら」、とシュドルションは言った。「それもまた比較を越えていますわ。」

あなたの愛が私のなかで生きています──あなたはその愛の鏡に映し出されています。そしてあなたは私に映し出されてているあなたのお顔をご覧になられています。これは何一つ私のものではありません。それはすべてあなたのものです。

 それにもかかわらず、その戯曲の他の箇所では、その鏡をかざしているのが王である。王を醜いと考える者は、そこに映し出された自分自身の像を見た後で、自分で王の姿をつくり出しているのでそう考えるのだ、と語られている。それゆえここで、「すべての比較を越えているものは、私たちの内にあるのか、それとも外にあるのか」、という問いに駆られる。それが見分けられるためには、何が必要なのか──それが映し出されるように私たちの自我の鏡を磨きあげるのか、あるいは目を開いて鏡を見て、それが私たち自身のなかに映っているのを見ることなのか。たぶんここでは、私たちは有意味な言語の限界に逆らっており、そこでは排中律と矛盾律の適用を越えているのである*。恐らくそれは両方であり、私たち自身の内にあり、そして内にないのである。それを見出すために、私たちは私たち自身のなかを探し求めることと、私たち自身の外にある何か、ある力に私たちが依存していることを認めることとの両方をしなければならないのであろう。
* ある命題か、それの否定命題かのどちらかが真でなければならない、というのが排中律である。両者が真ではありえないというのが矛盾律である。

たぶん「それが」私たちの内に映し出されていると認めることと、それを私たちの映し出されている姿のなかに見出すこととの違いは、思ったほど大きなものではない。両方の場合に私たちはその映像をぼかしている汚れを取り除かなければならない。この点においてウィトゲンシュタインは懸命に努力し、ごくわずかな汚点さえも磨いて取り払い、ごく小さな罪でさえ取り除かないようなことがないように自分に課そうと決意した。たとえば、一九三八年十月に、彼は特にまったく重要ではないと思われる罪を詫びるために、真剣にジョージ・トムソンの義母に手紙を書いている。

親愛なるスチュアート夫人へ
私は今日あなたにミス・ペイトの事務所でお話した虚言のことでお詫びしなければなりません。私は最近バーミンガムでトムソン夫人を見かけたと言いました。ところが今晩私が家に帰ってはじめて、それが事実ではなかったことに気づきました。私はバーミンガムで数週間前にバフチンの家に滞在しました。そしてトムソン夫人に会おうとし、私は電話で話しました。しかし彼女に会うことができませんでした。私が今日の午後あなたとお話したとき私の頭にあったのは、彼女がバーミンガムに行く前に、私があなたの家でトムソン夫人に会っていたことでした。どうか私の愚かさをお許しください。
敬具
L・ウィトゲンシュタインン

 自分のプライドを取り除くことで、贖いを求めようとする状況に身をおくことによって、ウィトゲンシュタインの哲学的著述が奇妙にも曖昧のまま決断できない状態になっている。一方では、それには贖いを求めようという方向と同じ姿勢がとられていることが明確に示されている。他方では、その姿勢それ自体が彼のプライドの最大の源でもあった。彼は、プライドに関する問題をすべて自分の著述から排除し、そして彼が述べているように、「虚栄心からよりもむしろ神の栄光のために」書こうと何度も努力したけれども、それにもかかわらず、ラッセルが「サタンのプライド」と名づけたものを他の何にもまして、自分の哲学の著述にもち込んでいたことが散見するのである。
 一九三八年の夏、彼はノルウェイで書いたものを基にしたタイプ草稿の出版を準備した。このタイプ草稿は『哲学探究』の最も初期の版の内容そのものとなっている。「一つ以上の理由で」、と彼は序文に書いた。

私がここに出版するものは他の人たちが今日書いているものとさまざまな点でつながりをもつであろう。──もし私の書いたものが私のものとして記すような印章がなければ、──私は自分の書いたものを私の所有物だとこれ以上主張しようとは思わない。

 それにもかかわらず、それらが彼の所有物であることが彼にとって計り知れないほど重要であり、カルナップ、ブレイスウェイト、ワイスマン、アンブローズ、その他の人たちがそこから派生したアイデアを出版したというまさにその理由から、彼はいま印刷しようという気持ちになったのである。後の序文で、彼はそのことを十分に認めている。

自分が講義、タイプ草稿、討論のなかで伝えた成果がさまざまに誤解され、多かれ少なかれ特定の視点から捉えられたり、あるいは水増しされたりして流布していることを否応なく知らされた。このことが私の自尊心を駆り立てた。私はそれを鎮めるのにたいへんであった。

 しかしプライドが出版しようとする彼の意欲を引き起こしたとしても、それを妨げたのもまたプライドであった。九月にその本がケンブリッジ大学の出版部にもち込まれた。出版部ではドイツ語の原文に英訳を並べて出版することに同意した。しかしおよそ一か月後、ウィトゲンシュタインは出版部に、その本の出版にいまのところ自信がないと話した。そこでその企画は当分のあいだ棚上げされた。
 ウィトゲンシュタインの出版の迷いには二つの理由があった。一つは、それは最も重要であったが、彼がその本の第二部の後半に不満を増大させていたことだった。その部分は数学の哲学を取り扱っていた。もう一つはその著述の翻訳問題に関わっていた。
 ムーアの推薦で、ウィトゲンシュタインはその翻訳をラッシュ・リースに依頼した。それは実にたいへんな仕事であった──ウィトゲンシュタインのドイツ語が難しい(たとえば、カントのドイツ語が難しいように)からではなく、むしろウィトゲンシュタインの言語が口語的なものと丹精の込められた精緻さという両方の点で類い稀れな文体であったからである。
 リースは一九三八年のミケルマス学期間ずっと翻訳に没頭した。この期間に彼は定期的にウィトゲンシュタインと問題があったことを話し合うために会った。一九三九年一月に彼はアメリカ合衆国を訪問するためにケンブリッジを去らなければならなかった。そこで彼は翻訳のタイプ草稿をウィトゲンシュタインに委ねた。他人が自分の思想を表現するいかなる企てにも、なかなか気に入ることがなかったウィトゲンシュタインは、その草稿を見てぞっとした。
 この頃には彼の著述を品位のある英語版にするという問題は、彼の出版計画とは別に重要さを増していた。当時彼はムーアの退職で空席となっていた哲学教授のポストに応募することを決めていた。それで彼は応募を有利にするために、彼の本の翻訳を提出することを望んだ。ともかくも彼は自分が選ばれないであろうと頭から考えていた。その理由の一つには、他の応募者のひとりにジョン・ウィズダムがいて、彼がその地位を獲得するものと確信していたからであった。もう一つの理由は、選考委員のひとりにオックスフォードのR・G・コリングウッドがいて、彼がウィトゲンシュタインの仕事を是認しないのは確実だと考えたからであった。しかしながら、これらの二つの不利な条件を償って余りある条件があった。それは選考委員のなかに、ジョン・メイナード・ケインズも入っていたことである。ウィトゲンシュタインは、選考に間に合うようにケインズが英語版を読んでおけるように、リースの翻訳を取り急ぎ手直しすることを考えた。「言うまでもなく、何もかもが駄目なのです」、と彼はムーアに書いた。「かりにそれがたいへんよく翻訳されていたとしても、彼は何が何やら分かっていないと思われるからです。」
 ウィトゲンシュタインは、恐らくケインズの支持があってもなくとも、またその翻訳の出来に関係なく、その椅子を与えられていたことであろう。一九三九年までには彼は当時の哲学的天分をもった第一人者と認められていた。「ウィトゲンシュタインにその椅子を拒絶することは」、とC・D・ブロードは述べている。「アインシュタインに物理学の椅子を拒絶するようなものであろう。」ブロード自身は、ウィトゲンシュタインの業績をそれほど称賛していなかった。彼はたんに事実を述べていただけであった。
 二月十一日に、ウィトゲンシュタインは正式に教授に選ばにれた。ことの成り行きとして、当然そのプライドの表明とその責めの両方が彼の心に生じた。「教授職を得たことは、たいへん満足すべきことでしょうし、それにつきるでしょう」、と彼はエクルズに書いた。「しかし踏切の遮断機を開けたり閉じたりする仕事についた方がずっとよかったのかもしれません。私は自分の地位を蹴りません。(私の虚栄心および愚かさが時折入り込んできた場合以外には。)」このことは彼の英国市民権の獲得に役立った。一九三九年六月二日に、彼はに英国のパスポートを受け取った。オーストリア系ユダヤ人の入国にいかに狭量な政策を取ろうとも、英国政府がケンブリッジ大学の哲学教授に市民権を拒否することはほとんど不可能であった。

ウィトゲンシュタインの著作の出版に関する限り、翻訳の問題以上に面倒なのは、数学の哲学について書いたことに彼が不満だったことである。一九三九年の三つの学期に、彼はその主題で連続講義をした。それらは、ある程度美学と宗教的信念に関する前年の講義のテーマと同じであった。ただこのときは、それらに計り知れない害悪を与えたのは、ラッセルと論理主義者であり、数学が一群の哲学的理論家から救済されなければならない、というものであった。事実、これらの講義の方針は、以前の美学に関する講義において知らされていた。その講義でのカントルの対角線の証明の議論で、彼はその証明とカントルの見解に嫌悪を示し、それらが関心を得られたのは、そのような証明(彼はたぶん、このことによって無限に異なった無限の基数の存在が証明可能であると語ることによって専門家を魅きつけていると言っている)の「魅力」にすぎなかったと表明した。「私は」、と彼は述べている。「この魅力の効果と〈数学〉との結びつきの効果を示すことに全力を尽くしたい。」

数学であることで……、それは議論の余地のないようにみえ、そのことがそれによりいっそうの魅力を与える。もしそのように表現するに至った経緯を説明すれば、私たちはその事柄がまったく違ったように表現できたことが分かってくる。私はそれを大多数の人々に対して魅力のないものにし、確実に私にとっても魅力のないものにするような仕方で表現できる。

 その目的は、その場合に数学を解釈しなおすことにあった──カントルの証明によって開かれたように思われた数学的領域が示したのは、数学者たちが発見を期待しているような魅力のある世界としてではなく、哲学的混乱の、湿地帯、沼地としてである、というような仕方で数学を記述しなおすことにあった。数学者ヒルベルトはかつて言った。「誰もカントルがつくり出したそのパラダイスから私たちを追い出そうとはしない。」「私は言いたい」、とウィトゲンシュタインは彼のクラスの者に言った。「夢にすら私はこのバラダイスから誰かを追い出そうなど思ってもみない。」

私はまったく違ったことをするであろう。私はそれはバラダイスではないとあなたがたに示すように努力したい──そう。すればあなたがたは自発的にそこから出てくるであろう。私は、「あなたがたが自分自身のためにこの点を慎重に考えることを歓迎するであろう」、と言いたい。

 数学に関する講義は、科学に関する偶像崇拝に対するウィトゲンシュタインの一般的な攻撃を示す一部となっている。事実彼はこの特殊なキャンペーンをその闘争の最も重要な局面と受け取っていた。「どの宗派にも」、と彼はかつて書いたことがあった。「そこでは形而上学的表現に関する誤用があっても、数学における形而上学的表現の誤用と同じだけの責任が問われたことはなかった。」数学の形而上学によってもたらされた「魅力」は、ジーンズの『神秘の宇宙』のような本によって及ぼされたものよりいっそう影響の強いものでさえあったし、科学の偶像化においていっそう力強いものでさえあった。それは私たちの文化の崩壊についての最も有意味なものの兆しであり、たぶんそれを助長させる要因でさえある、とウィトゲンシュタインは考えた。
 このようにその形而上学を破壊することが彼の課題であった。これらの講義の特徴は、その課題を遂行するにあたって、彼が以前にしたように、数学それ自体を何らかの専門的な知識を駆使して論じなかったということにある。たとえば、一九三二─三年においてしたように、彼はハーディの教科書『純粋数学の教程』を読みあげることも、『哲学的文法』においてしたように、特殊な証明(たとえばスコーレムの結合律の証明)を厳密で詳細な分析に従わせることもしなかった。専門的な詳述はまったく避けられた。たとえば、彼がラッセルのパラドックスを論じたとき、数学的な見地からみて、まったく驚くほど素朴な方法を取っている。

ラッセルの矛盾を取り上げよう。私たちが述語と呼ぶ概念がある──〈人〉〈椅子〉〈狼〉は述語であるが、しかし〈ジャック〉と〈ジョン〉は違う。それら自身へ適用される述語もあれば、適用されない述語もある。たとえば〈椅子〉は椅子ではない。〈狼〉は狼ではないが、〈述語〉は述語である。あなたがたはこれがナンセンスだと言うかもしれない。ある意味ではそのとおりなのである。

 このように専門的知識を排除することは、宣伝者が目的としていることだ、と私は考える。数学的論理学における諸問題の討議にあたり、ウィトゲンシュタインがふだんの日常言語を使用していることと、これらの問題が生じている専門用語を「ナンセンス」として彼が単純に退けたことは、その真剣さとその真面目さの「魅力」の虜となって議論してきた人たち(たとえば、一九一一年における彼自身を含めて)の解毒剤となっていた。しかし、また彼が提起しようとした問題には専門的な詳細さは必要ではなかった。「私が論ずるあらゆる難題は」、と彼は最初の講義で述べた。「最も基本的な数学に──六歳から十五歳までの年に学ぶ計算に、あるいはたとえば、カントルの証明を容易に学ぶことのできるようなものに例証されている。」
 この連続講義は、聴講者のなかにウィトゲンシュタインが攻撃した見解の最も有能な擁護者のひとりで、しかも今世紀の最も偉大な数学者のひとり、アラン・チューリングがいたということで注目に値する。一九三九年イースター学期間、チューリングもまた「数学の基礎」という題で講義をした。それらの講義は、ウィトゲンシュタインの講義とはそれほど違っていなかった。チューリングの講座は数学的論理学の入門コースであった。そこで彼は論理学の厳密な公理体系内で、数学の定理の証明の技術を学生に教えた。自分の講義がつぎの意味で「数学の基礎」と関連しているとは考えないようにしてほしい、とウィトゲンシュタインは告げている。

私が「数学の基礎」と呼ばれる数学の特殊な分野で講義をしていたというのは、別な考え方となろう。『数学原理』等において取り扱われている分野がある。私はこのことに関しては講義をしていない。私はそれについて何も知らない──私はとくに『数学原理』の第一巻しか知らない。

 ウィトゲンシュタインが『原理』の数節を書き換えることを引き受けていた、と一時(彼自身からもラッセルからも)思われていたことに彼は言及していない。彼の今度の連続講義は、数学の存在の論拠を掘り起こす試み──「基礎と呼ばれているものに関する数学的諸問題は、描かれた岩が描かれた塔の土台ではないと同様に数学の基礎ではない」、ということを示す試み──という意味においてのみ、数学のその分野に関わったのであった。
 その講義はしばしばウィトゲンシュタインとチューリングとの対話に発展した。前者が数学的論理学の重要さを攻撃し、後者がそれを擁護した。事実、チューリングの参加がその討論のテーマにぜひとも欠かせなくなっていた。それゆえ、彼がある講義に出席しないであろうと告げたときには、ウィトゲンシュタインはクラスの人たちに、講義が「何か括弧に入れたもの」になってしまうに違いない、と語ったほどだった。
 ウィトゲンシュタインの方法は、ある特殊な証明に再解釈を与えることではなかった。むしろ数学的論理学とは、彼がそうであると信じた哲学の変形と思われるような方法で、そして数学の対象(数、集合等)についての事実を発見する科学としての数学像を完全に破壊するような仕方で、数学の全体を再記述することにあった。「私は何度も試みるであろう」、と彼は述べている。「数学的発見と呼ばれているものは数学的発明と呼ばれる方がずっとよいということを示すために。」彼の見解によれば、数学者には発見すべきものは何もないのであった。数学における証明は、結論の真理を打ち立てない。それはむしろある記号の意味を確定する。それゆえ、数学の「容赦なさ」は数学的真理についての確実な知識にあるのではなく、数学的命題が文法的であるという事実にある。たとえば、2+2=4 であることを否定することは、事実問題について広く主張されている見解に反対することではない。それはそこで問題とされている用語の意味について無知であることを示すことである。ウィトゲンシュタインは恐らく、もし彼がこの観点において数学をみるようにチューリングを説得できたら、他の誰でも説得できると考えたのであろう。
 しかしチューリングは説得させられなかった。ラッセルやたいていの専門の数学者と同様、彼にとっても、数学の美、数学そのものの「魅力」は、それ以外の不確実な世界に攻撃されえない真理を与える、まさにその力にあった。(「論破の余地のないこと、汝の名は数学なり!」、とかつてW・v・クワインは述べた。)あるとき自分の言っていることが分かるか、とウィトゲンシュタインに尋ねられて、チューリングは、「分かりますが、数学がたんに言葉に新しい意味を与える問題だ、ということには同意できない」、と答えた。これに対してウィトゲンシュタインは──いくぶん風変わりな──コメントを与えた。

チューリングは、私の言っていることに反対していない。彼はどの言葉にも同意する。彼が反対しているのは、その基礎になっている、と彼が考えるそのアイデアに対してである。彼は私たちが数学の土台を掘り起こし、数学にボルシェビキを導入している、と考えている。しかしけっしてそんなことをはないのだ。

 ウィトゲンシュタイン自身とチューリングとのあいだに意見の不一致はありえないという彼の哲学的方法に関する彼の考え方は重要であった。哲学において彼は何らのテーゼを押し進めていなかった。それゆえに、不一致などありえないのではないか。チューリングはかつて、「私はあなたの論点が分かります」、という言い方をしたとき、ウィトゲンシュタインが、「私には何も論点はない」、と激しく反応した。もしチューリングがウィトゲンシュタインの言ったことに反対するのであったら、彼がウィトゲンシュタインとは違った方法で言葉を用いているという理由だけしかなかったのであろう──それは言葉に意味を与えるだけの問題でしかなかったであろう。あるいはむしろ、それはウィトゲンシュタインのいくつかの言葉の用法をチューリングが理解していないという問題でしかなかったのであろう。たとえば、チューリングは数学には実験が存在しうる──つまり私たちが物理学におい──てある実験をするのと同じ精神で、つまり「これがどのように判明されるのかは分からない。しかしやってみよう……」というように、数学の研究を追求できる──と考えていた。ウィトゲンシュタインにとって、こうしたことはまったくできなかった。数学と物理学とのアナロジー全体は完全に過ちであったし、彼はその混乱の最も重要な源の一つを解明しようとした。しかし、チューリングの見解と彼自身の見解が衝突することなく、このことをどのようにして彼は明確にするのであろうか。彼がしなければならなかったのは、(a) ふたりとも同じ意味において〈実験〉という語を用いていることをチューリングに認めさせ、そして (b) その意味において数学者は実験をしないということを彼に分かってもらうことであった。

チューリングは、彼と私が二つの異なった仕方で「実験」という語を用いていると考えている。しかし私はこれが間違っているということを示したい。つまり、私が自らを明確にさせれば、そのときチューリングが、数学において実験をするということを断念するであろう、と私は考える。もし私があんよく知られた事実をそれに適わしい秩序において整理できれば、そのときチューリングと私が「実験」という語を異なったように用いていないということが明瞭となるであろう。
 「取り除くのがたいへん困難なほど誤解があるのは、いったいどういうことか」、とあなたがたは言うかもしれない。
 それは一部は教育の違いによって説明できよう。

 それはまた、チューリングが数学者のパラダイスを去ることを拒否したという事実によって、あるいは彼が、ウィトゲンシュタインがボルシェビキではないか、と疑っていたという事実によって説明されよう。ウィトゲンシュタインの見解に従えば、それが説明できないのは、ここに相当の意見の相違があったということであった。「明らかに」、と彼はクラスの人たちに話した。「全要点は、私がある意見をもってはならないということである。」
 しかしながら、ウィトゲンシュタインが非常に強力な意見をもっていたのはまったく明瞭であった──さらに言えば、それらの主題に関してたいていの専門の数学者が主張していた考え方と違った意見をもっていた。彼が「ボルシェビキを数学へ導入している」ではないか、とチューリングが疑っていたことを彼は暗示しているが、これは、フランク・ラムゼイの一九二五年の論文「数学の基礎」にほのめかされている。そこでラムゼイはブラウアーとワイルの「ボルシェビキ主義の威嚇」から数学を救うことを語っている。彼らは、排中律を拒否するさいに、コンベンショナルな分析における、あるスタンダードな証明を不当なものとみなした。しかしチューリングには、ウィトゲンシュタインのボルシェビキ主義はいっそう極端であったと思ったに違いない。ウィトゲンシュタインが挑戦したのは、結局は排中律ではなく、矛盾律であった。
 数学の基礎に関する思想の、すべてのコンベンショナルな学派──論理主義、形式主義そして直観主義──は、もしある体系がそのなかに隠された矛盾をもつとすれば、そのときそれは整合的ではないという理由で拒否されるという見解を共有している。事実、健全な論理的基礎を数学に与えるさいの要点は、伝統的に理解されている計算法が明らかに不整合的であるということにある。
 講義において、ウィトゲンシュタインはこの問題を「隠された矛盾」だと嘲り笑った。これに対してチューリングはきわめて断固として、気概をもって異議を唱えた。嘘つきのバラドックスを例に取り上げ、ウィトゲンシュタインはつぎのように示唆した。

これがすべての人を悩ませてきたというのは非常に奇妙なことだ──あなたがたが思っている以上に遥かに特別な意味で──つまりこれが人間を困惑させたという点で非常に奇妙なことだ。なぜなら、これはもし人が「私は嘘をついている」と言えば、彼は嘘をついていないことになり、そのことから彼が嘘を言っていることになる、等々、というように導かれるからである。ところで、それだからと言って、どうしたというのか。あなたがたは顔が紫色になるまでこうしたことを続けることができる。どうしてそうしてはいけないのか。かまわないではないか。

 チューリングの説明によれば、この種のパラドックスが悩ませているのは、「何か間違ったことをした基準として、私たちが通常矛盾を用いていることにある。しかしこの場合には、私たちは何が間違っていたのかを見つけることができないでいる。」そのとおりだ、とウィトゲンシュタインが答えた。何も間違っていないからである。「〈このことはただタイプ理論によってのみ説明される〉と人は言うかもしれない。しかし、どういう説明がここで必要なのか。」
 それがなぜ悩ませているのかということばかりではなく、それがなぜ問題とされるのかということをも、チューリングは明らかに説明する必要があった。矛盾を含んでいる体系が実際に有害であるかどうかは、「適用されなければ生じてこないのであり、どの事例にも、橋が倒れたり、あるいはその種のことは起こる可能性がある」、と彼は主張している。つぎの講義において彼は討論に戻り、そしてその講義のほとんどすべてが「隠された矛盾」の発見の重要性をめぐるふたりの討議となった。

チューリング 計算において隠された矛盾がないことを知らなければ、計算の適用について自信をもつことができない。
ウィトゲンシュタイン そこにはひどい間違いがあるように私には思われる。というのは、計算はある結果を出し、そしてその橋を壊そうとしないからである。私は事態に誤りが生じるのは二つの仕方においてであると言いたい。つまりその橋が壊れるか、あるいは計算において間違いをおかしたか──たとえば、間違って掛け算をしたとか──のどちらかである。しかしあなたは私たちが第三の間違いをおかす──つまりその計算が間違っている──と考えているようだ。
チューリング 違う。私が反対しているのは橋が壊れているということにある。
ウィトゲンシュタイン しかしそれが壊れているということをあなたはどうして知るのか。それは物理学の問題ではないのか。もし誰かがその橋を計算するためにダイスを投げれば、橋はけっして壊れない、ということになるかもしれないのだ。
チューリング もしフレーゲの記号法を採用し、そしてその記号法において誰かに掛け算の術を教えれば、そのときラッセルのパラドックスを適用すれば、彼は間違った掛け算をしたたことになろう。
ウィトゲンシュタイン それでは掛け算と言われないことをしていることになろう。彼に掛け算の規則を教え、そして彼がある点にまで達すれば、彼が二つの仕方のうちどちらかを選択できるが、それの一つが彼をまったくの間違いに導くのだ。

 「あなたは」、とチューリングは主張した。「もし人がわずかでも常識を働かせば、混乱に陥ることはないであろう、と言っているようだ。」「違う」、とウィトゲンシュタインは大声をあげた。「それはまったく私が言っていることではない。」彼の主張点は、むしろ矛盾は、それが人をどこにも導かないので人を迷わすことはできないということにあった。人は矛盾に関して、間違って計算することはありえない。というのは、人は矛盾を計算に用いることができないからである。人は矛盾に関しては何もすることができない。ただ矛盾について悩んで無駄な時間を費やすだけである。
 それから二回の講義の後、チューリングは出席しなくなった。彼はむろん、もし矛盾が数学の体系において決定的な欠点であるとウィトゲンシュタインが認めなければ、そのときふたりにはいかなる共通の根拠もありえないと確信したのだった。事実、ウィトゲンシュタインの弟子アコライトたちに取り巻かれて、そして彼に馴染まない仕方でその問題を討議しなければならない場で、ウィトゲンシュタインの攻撃しているすべての者のただひとりの代表として、そのクラスに出席するのはかなり勇気のいることに違いなかった。アンドリュー・ホッジズは、彼の優れたチューリングの伝記のなかで、これらの討論においてチューリングのおずおずとした態度を見たときの驚きを書いており、そして数学の〈規則〉の本性についにて長い討論をしたにもかかわらず、チューリングはチューリング・マシンによる定義をけっして提示しなかったと述べている。しかしきっとチューリングは、ウィトゲンシュタインがそのような定義を無関係なものとして退けるだろうと分かっていたに違いない。その討議はより基本的なレベルでなされた。ウィトゲンシュタインが攻撃していたのは、あれこれの定義ではなく、そのような定義を与えるその動機そのものに対してであった。

アリスター・ワトソンを確実な例外として、他にもまた例外があるかもしれないが、これらの講義に出席した人たちの多くは、ウィトゲンシュタインとチューリングの議論で何が問題となっていたのかを十分に把握していなかった。また以前に数学の哲学に関して述べられたり書かれたりしてきたことを、ウィトゲンシュタインの見解がいかに徹底的に粉砕していたのかを十分に理解していなかったようであった。彼らは、概して数学よりはウィトゲンシュタインに関心をもっていた。そのひとりノーマン・マルコムは、「ウィトゲンシュタインが何か重要なことをしていた」と気づいていたけれども、一○年後にノートをふたたび研究するまで「その講義についてほとんど何も分からなかった」、と述べている。
 マルコムは当時ハーバードの博士課程の学生であった。彼はムーアのところで研究するために、一九三八年のミケルマス学期にケンブリッジに到着し、そしてウィトゲンシュタインのパーソナリティーの魔力にたちまち縛られてしまった。そのパーソナリティーを最も印象的にしかも(ウィトゲンシュタインを知った多くの人たちの意見のなかで)正確に記述しているのが、彼のメモワールである。ウィトゲンシュタインはマルコムの親切さと人間理解に心を魅かれ、マルコムのケンブリッジでの短い滞在期間に、ふたりは親友となった。マルコムが合衆国へ帰ると、彼は懐かしがり心のこもった文通をつづけ、アメリカの雑誌が英国で手に入らなくなったときには、ウィトゲンシュタインの好みの雑誌、ストリート・アンド・スミス社の『推理小説マガジン』の貴重な補給者と言なった。
 なぜ、ウィトゲンシュタインがストリート・アンド・スミス社の雑誌にこだわったのかは謎である──事実彼は固執した。マルコムが他の種類の雑誌を送ったときに、ウィトゲンシュタインが穏やかに彼をさとし、マルコムに「優れた、昔からの、十分に試されてきているもの」の代わりに、独創的なものにしようとしたのか、と尋ねている。ストリート・アンド・スミス社の雑誌は当時それよりも有名なライバルの『ブラック・マスク』と実際に区別できなかった。両者とも、大部分同じ作家たちのグループによって書かれた「ハード・ボイルド」推理小説を出版した。なかでも最も有名なのは、キャロル・ジョン・ダーリー、ノーバート・デイヴィス、コーネル・ウールリッチ、アール・スタンレイ・ガードナーたちであった。レイモンド・チャンドラーはストリート・アンド・スミス社でただ一冊の本を出版した。それは『山中での犯罪ではなかった』というほとんど知られていないものである。それにダシール・ハメットは、この頃には「大衆雑誌パルプス」のために書くことをまったく止めてしまっていた。
 少なくともある点では、ハード・ボイルドの推理小説の気風がウィトゲンシュタイン自身の気質に合っていた。つまりそれらは共に、異なった仕方で、一例は『数学原理』によって、他の例はシャーロック・ホームズによって例示されていつはるような〈論理の科学〉の重要性を非難している。「私は演繹的推理をしているのではない、推理小説のような推理をしているのではない」、とレース・ウィリアムズは典型的なストリート・アンド・スミス社の本のなかで説明している。

私は働き者で、すごい射撃の腕をして、拳銃が打ち込まれるなら、その瞬間、その刹那たちまちのうちに、いなその刹那よりも迅速に、それを見、行動し、その瞬間に切れ目のあることを読みとることのできる者だ。

 このすばやく行為をし、すばやく射撃をする正直者は明らかに映画のカウボーイと共通点がある。そして恐らく西部劇がウィトゲンシュタインのお気に入りであったのも偶然ではなかろう。しかし一九三〇年代の後半までに、彼の趣味はミュージカルものにまで広がった。好きな女優は、カルメン・ミランダとベティ・ハットンである、と彼はマルコムに話している。講義に疲れきり、うんざりしてしまうと、彼はマルコム、スマイシーズ、あるいは彼のクラスの他の友だちのひとりと連れだって講義の後で決まって「映画」へ行くのであった。彼はつねに映画館の最前列にすわった。そこで彼は画面に完全に没頭できた。彼はその体験を「シャワーを浴びているようだ」とマルコムに言って、講義でさまざまに考えたことを洗い流した。

 当時映画の終わりには国歌を演奏するのが慣例であった。終わると観客は立ちあがり、敬意を表して静かに立つことになっていた。これはウィトゲンシュタインには耐えられなかった儀式で、彼は国歌が始まる前に映画館から飛び出したものであった。彼はまた映画の合間によく上映されたニュース映画にも耐えられなかった。ドイツとの戦争が近づき、ニュース映画がますます愛国的となり感情的な愛国主義的になるにつれ、ウィトゲンシュタインの怒りは増大した。彼の書類のなかに、それらの制作者に宛てた手紙の草稿があり、「ゲッベルスの第一の弟子マスター・ピープル」であると彼らを非難した。ギルバート・パティソンとの、一〇年間持続した友情が終わりとなったのは、この時期であった。そのときに彼は戦争に対するパティソンの態度に感情的な愛国主義を感じとったのであった。ノーマン・マルコムとの友情も同様な問題で脅かされた。英国政府がヒトラーの暗殺計画を企てたというドイツ政府の非難を報じる新聞売り場の看板のところを通り過ぎたとき、ウィトゲンシュタインは、「それが本当だとしても私は少しも驚かない」、と述べた。マルコムは異議を唱えた。そのような行為は、英国の「国民性」に反している、と彼は言った。はウィトゲンシュタインはこの「プリミティブ」な発言に怒りをもって反応した。

……もし哲学がきみに与えるすべてが、論理、その他の難解な問題について、きみに何かもっともらしいことを語らせるだけであるなら、そしてもし哲学が日常生活についての重要な問題に関してきみの考えを改善するのでなければ、さらにもし哲学が自分自身の目的のために、危険な言葉を用いるようなジャーナリストたちよりも、きみをいっそう良心的にするのでなければ、哲学を学ぶことの効用はいったい何か。

一九四〇年二月にマルコムが合衆国へ帰る前に、ふたりの亀裂は癒えた。しかし一時ウィトゲンシュタインは講義の前にマルコムと散歩する習慣を止めたことがあった。
 ウィトゲンシュタインが来る戦争に備えて駆り立てられていた国民主義的感情と反ドイツの感情に用心深かったことには理由があった。一九三九年九月三日、宣戦布告がなされた日に、彼とスキナーはウェールズにドゥルーリーを訪ね、ポンティプリドのあるホテルに滞在していた。その翌日彼は彼のドイツ名がホテルの女性支配人の嫌疑を受け、その地方の警察署に報告するように求められた。このときには彼は英国民であった。彼はその事実を確認するのに何ら困難ではなかったが、スキナーとドゥルーリーに話したように、彼はそれからは非常に用心深くなければならなかった。
 戦争の最初の二年間、ウィトゲンシュタインは、傷病兵輸送のグループに加わり、戦争協力に関係した仕事を熱心に探したにもかかわらず、ケンブリッジで講師に留まることを余儀なくされた。一九三七年九月に彼の仕事がうまくいかなくなったときに、彼は何か他のことをしようと激しく自分を駆り立てた。しかし「私は現在何か違ったことをする力をどうして見つけられるのか」、と彼は尋ねた。「戦場で強制されているのでない場合に。」戦争が実際に起こったとき、彼は他の何かをすることを強いるどころか、戦争は彼がそうすることを閉ざしたのであった。彼が何か「役立つ」ことをすることへ通じるドアは、彼のドイツ名とオーストリア出身であることによって閉ざされていた。彼が講義と本の第二部の後半の著述を続けているあいだ、彼はケンブリッジを離れようとして、あれこれの方法で、懸命に努力した。「私はここに滞在するより静かに死にたい」、と彼はジョン・ライルに語った。「私はむしろ早急にその機会がほしい。」
 彼はマルコムに学者の職に就かないように説得したが、失敗した。(スマイシーズはとにかくも学者の職をけっして提供されることはないであろう、と彼は固く信じていた──彼は「真面目すぎる」のであった。)マルコムはその代わりに何か手作業の仕事をできないだろうか。たとえば、牧場か農場はどうだろう。マルコムは断った。彼はハーバードへ戻り、博士号をとり、そしてプリンストンで教職についた。手紙のなかで、ウィトゲンシュタインは彼の警告を繰り返した。マルコムの博士号取得を祝福し、彼がそれを役立て、そして自分自身を、あるいは学生をごまかさないように強調した。「なぜなら、私がひどく間違っていないなら、そのことはきみに期待されていることなのだから。」学者の職に恵まれることを願い、彼はマルコムに自分自身をごまかそうという誘惑にうち克つことをふたたび強調した。「奇跡によってのみ、きみは哲学を教えることに人並みの仕事ができるようになろう。」

戦争が勃発するまでに、スキナーのケンブリッジ・インストルメント会社の見習工の期間が終了し、そこで彼は理論的仕事に立ち戻る企てをしたようであった。リーズで書いた一九三九年十月十一日の日付の手紙で、彼はかつての数学のチューターのアーセルと共同で本を執筆(数学の教科書と思われる)することに触れている。その企画はたぶん廃棄された。(少なくとも、私はこのような本が出版された形跡をたどることができなかった。)手紙のなかでスキナーはこの種の仕事をいまどき見つけるのがいかに難しいかと言っており、仕事を捜すためにすぐにケンブリッジに戻るかもしれないと口にしている。彼はまた自分とウィトゲンシュタインとのあいだにある種の断絶があり、ふたりの関係に問題があるとほのめかしている。その全責任を自分のせいだと思い込んでいるのは、特記される。

私があなたから逃避しているように感じている、とあなたに書かせるようなことをして非常に遺憾に思っています。私たちのあいだに何かあるように私が振る舞ってしまいひどいことをしました。もし私たちの関係に何かが起こったとしたら、私は破滅するでしょう。どうぞ、私のしたことを許してくだい。

 自分がどんなことをしたのかをスキナーは述べていないし、疑いもなく彼には分かっていなかった。彼が分かっていたのはウィトゲンシュタインの愛を失っているということだけであった。ケンブリッジに帰った後で、彼とウィトゲンシュタインは別々に生活した──彼はイースト・ロードで、ウィトゲンシュタインはヒューウェルコートの彼の好みの部屋で生活した。
 スキナーの死後、ウィトゲンシュタインは、スキナーの生涯の最後の二年間彼に誠実でなかったことについて繰り返し自分自身を厳しく苛んだ。この罪がキース・カークというスキナーの若い労働者階級の同僚へのウィトゲンシュタインの感情に関係していたというのは、納得のいく推測である。一九三九年に、当時十九歳であったカークは、スキナーと一緒に見習工として働いた。彼らが使っていた道具に関する数学と力学について、彼がスキナーに質問したときから、ふたりは友だちとなった。スキナーはあまりにも控え目で教師として十分ではなかったので、カークをウィトゲンシュタインに紹介した。それ以来ウィトゲンシュタインはカークに定期的に物理学、数学、力学を教え、当時カークが準備していた「市および同業者組合」職の採用受験の手助けをした。
 カークにとってケンブリッジの教授からのこれらのレッスンは、予期もしないたいへん歓迎すべき助力であり、素晴らしい機会以外の何物でもなかった。しかしウィトゲンシュタインの日記をみれば、彼はむしろ人が期待すること以上の関係をもつことを考えていたようであった。

週に一、二度K(カーク)に会う。その関係が正しいものであるのかどうか疑っている。ほんとうによいものであってほしい。
[一九四〇年六月十三日]

私とカークとの関係について思いめぐらして、一日中ひとりで過ごす。たいていの場合、非常に偽善的で無益だ。これらの思いを書き付ければ、私がいかに低俗で、不誠実かを──いかに卑猥なのかを人は分かるだろう。
[一九四〇年十月七日]

 一九四〇年の一年間と一九四一年の前半にかけて、カークはトリニティのウィトゲンシュタインの部屋に無報酬のレッスンを受けるために定期的に通った。ウィトゲンシュタインはテキストなしに教えた。その代わりに、質問によって第一原理から諸問題を考えさせる方式を取った。たとえば、レッスンは水が沸騰するときには何が起こるのか──泡とは何か、それが表面になぜ生じるのか、等々──とウィトゲンシュタインがカークに尋ねることで始まった。それゆえ、これらのレッスンからカークが学んだのは、大部分彼自身の考える能力の範囲に限られていた。ウィトゲンシュタインの哲学の講義の場合と同様に、そのレッスンにもしばしば長い沈黙があった。しかしカークによれば、これらのレッスンで学んだことはそれ以降も忘れなかったし、またウィトゲンシュタインから授かった思考の様式も長いあいだ役に立った。
 ウィトゲンシュタインの自分への感情が勉強を見てくれる教師の思い遣り以外のものがあったなど、カークは、みじんも思わなかった。レッスンの後で、彼は時々その地の映画館へ西部劇を見るために、スキナーとウィトゲンシュタインのお伴をした。しかしこれ以外に、彼は教えを受けていた時期外にウィトゲンシュタインにほとんど会っていない。
 そのレッスンは一九四一年に教わった。カークは国防省からボーンマスにある航空省研究所で働くように遣わされた。この移動で「市および同業者組合」採用試験の勉強は終わったが、それがただちにウィトゲンシュタインとの友情の終わりとはならなかった。ウィトゲンシュタインは、接触をとり続けるためにできる限りのことをした。彼はカークがどうしているのか知るために、ボーンマスへ行ったこともあった。カークがケンブリッジに戻ってくるたびに、ウィトゲンシュタインは彼に会う手はずを整えた。
 フランシスがポリオにかかり重態になって入院したことをカークに知らせるために、ウィトゲンシュタインが極度に取り乱した状態でカークを訪ねたのは、これらの行き来をしていたあいだのことであった。数日後、一九四一年十月十一日に、フランシスは亡くなった。
 ウィトゲンシュタインの最初の反応は慎しみのある、悲しみを抑制したものであった。友人たちへフランシスの死を告げる手紙に、彼はやっとの思いで、穏やかな威厳のある態度を示す言葉を綴った。たとえば、ハットに対してはつぎのように書いた。

親愛なるローランドへ
あなたへ非常に恐ろしい知らせをしなければなりません。
フランシスは四日前にポリオの病に倒れ、そして昨日の朝亡くなりました。彼は何の苦痛もあがきもなく、まったく穏やかに亡くなりました。私は彼に付き添っていました。彼は私がこれまで知りあった人のなかで最も幸福な生涯を送り、そしてまた最も穏やかな死を迎えたひとりだと思います。
良き思いと親切な思いをあなたに望みます。
草々
ルートウィヒ

 しかしながら、葬儀のときには彼の抑制は失われていた。スキナーの妹は彼が葬儀に「おびえた野生の動物」のように振る舞ったありさまを記している。葬儀の後で、彼はスキナーの家へ行くことを断り、トリニティのチューターであったバーナビーと一緒にレッチワースのあたりを歩き回っていたのが見られ、その姿は「まったく野生の動物のよう」に見えた、と彼女は回想している。彼は、ともかくスキナーの家では率直に言って歓迎されなかった。スキナーの家族は彼らの優しい子に彼が与えた影響にいつも不信の念をもっていたし、彼の母親は、ケンブリッジ・インストルメント会社での仕事がフランシスの死を早めたと信じて、葬儀ではウィトゲンシュタインと口をきこうとしなかった。
 しかしウィトゲンシュタインのフランシスへの罪の意識は、彼がフランシスに影響を与えたその仕方とはまったく結びついていなかった。それはより内面的な問題──ウィトゲンシュタイン自身がフランシスの生涯の最後の数年間に彼をどう考えていたのかということ──と関わらなければならなかった。一九四一年十二月二十八日に彼は書いた。

フランシスのことを多く考えた。しかしいつも私の愛のなさのゆえに後悔しかない。彼に感謝をして考えたのではない。彼の生と死は私を苛んでいるだけのようだ。なぜなら、私は彼の最後の二年間に非常にしばしば愛を喪失し、心のなかでは彼に不誠実であったからだ。彼があれほど際限なく穏和で誠実でなかったなら、私は彼をまったく愛さなかったであろう。

 この文章のすぐ後に、彼はカークに対する自らの感情を検討している。「キースにしばしば会ったが、これがほんとうにどういうことであるのか、私には分からない。私のある生き方に失望、煩い、憂愁、無能をもたらすことになった。」それからおよそ七年後の一九四八年七月に、彼は書いた。「私がフランシスと一緒にいた最後の時期のことを非常に多く考えた。私の彼に対する忌まわしさについて……私の人生においていったいどのようにして、私がこの罪から解放されうるのか分からない。」

 ウィトゲンシュタインがカークに夢中になっていることがそれは実際にはまったく、相手に気づかれない片思いであったが──、以前の彼のピンセントとマルガリートへの愛の特徴だったものが、ここでもその最も純粋な形で示されている。つまり他人の感情へのある種の無関心さが示されている。ピンセントもマルガリートも──そして確実にカークも──彼と恋に陥らなかったのは、彼の彼らに対する愛が及ばなかったからのようであった。事実、安全に振る舞えるようにその関係が保たれていたので、彼自身の感情を満足のいくように隔離させて、恐らく安易に自分の愛を注ぐことができたのであろう。彼が一時魅かれていた哲学的独我論と、彼の後期の著作の多くに語られている独我論に対する反対(彼は自分の後期の仕事を蠅取り壺から蠅を逃す方法を示す企てとして特徴づけた)は、彼のロマンティックな愛着が感情的な独我論に導かれたことに対応している。フランシスに関しては、その隔離状態が脅かされ、その威嚇に直面してウィトゲンシュタインは、ショウペンハウアーの寓話のヤマアラシのように、刺だらけの外貌をしてそのなかへ身を隠したのであった。

Ⅳ 1941─1951

21 戦争協力

 戦争の最初の二年間、ウィトゲンシュタインとの会話には、アカデミックな生活の外側で仕事を見つけられないという彼の挫折感が繰り返し語られている。彼は戦争のさなかに哲学を教えているのは我慢できないと考え、戦争協力に貢献できるような他の何かをすることを望んだ。その機会はオックスフォードの哲学者ギルバート・ライルとの友情をとおして訪れた。ギルバートの兄弟ジョン・ライルはケンブリッジで物理学の講座担当教授であった。しかし一九四〇年に彼は電撃的空襲に備える手助けのために、ガイズ病院に戻った。一九四一年九月に、ウィトゲンシュタインはジョン・ライルにガイズ病院で会いたいという手紙を書いた。ライルは彼を昼食に招待した。ライルはただちに強い印象を受けた。「彼は世界で最も有名な哲学者のひとりです」、彼は自分の妻に書いた。「彼は緑のオープンシャツを着ており、かなり魅力的な顔立ちです。」

彼がトリニティ・カレジの教師として数年過ごし、他人と一緒にやっていくことができず、その場の死んだような状態に耐えられないでいることに非常に興味をもちました。彼は、「もしそこに留まれば、私はゆっくりと死んでいくでしょう、むしろ早く死ぬ機会がほしいのです」、と言っています。そんなわけで彼は戦争協力として病院で何かとるに足らない手仕事をして働くことを望み、そしてもし必要ならば彼の教授の椅子を辞退するつもりとのことですが、そのことについては話したがりませんでした。しかも彼は空襲を受けている地域でその仕事をしたいと言っています。作業部門では、病院のすべてを修理する年輩の労働者たちのもとで半端仕事を彼に用意しています。彼の精神はたいていの人々の精神とはたいへん違っていて、彼は知力を用いるどんな種類の戦争協力も馬鹿げていると考えているようです。私は彼に今夜この仕事のことを連絡する手紙を書きましたが、しかし彼を無理に説得するつもりはありません。
 いつか私は彼と例のカナダ人のひとりかふたりをあなたに引き合わせるつもりです。

〔…〕

あなたが書いているように、私に会うことが難しいと思っているのでしたら、あなたはどうして私に会うことがあるでしょうか。私なら私に会いたいと望んでいる人たちに会うことを望みますし、そして誰も私に会いたがらないときが来れば(たぶんそれはまもなく来るでしょう)、私は誰にも会わないだろうと思います。

 彼の身体では薬局のポーターの仕事はやっていけなくなるのではないか、という怖れは、現実のものとなった。彼は当時五十二歳であり、年相応に老けてみえ(そう感じ)始めた。「五ぐらい仕事を終えると」、彼はハットに話した。「私は非常に疲れてしまい、しばしばほとんど動けなくなります。」。しかし身体が弱くなったが、彼の精神もフランシスの死によって、ほとんどうちひしがれた状態であった。彼はクリスマスをバーブルック家で過ごした。一家はフランシスのフラット住宅の川下のイースト・ロードで食糧雑貨店を所有していた。クリスマスは憂鬱な祭典であった。大晦日に、彼はハットへ手紙を書いた。

私は、ほとんどいつも孤独を感じています。そして歩み寄る歳月に不安を感じています!……あなたがどうぞ幸福でありますよう、そしてあなたの幸福が何であれ、私がしたこと以上にその幸福を味わわれることを希望いたします。

一九四二年の新年に、ジョン・ライルは妻への約束を実行し、ウィトゲンシュタインを彼女に会わせるために、サセックスにある彼らの家に連れてきた。幸いにも、その週末のことが彼らの息子のアンソニーの日記に記録されている。彼は当時十四歳であった。彼の第一印象はけっして好ましいものではなかった。

パパとウィンケンシュタイン(綴りは?)とか言う、もうひとりのオーストリア(?)の教授が七時三〇分についた。パパはかなり疲れていた。ウィンクはおそろしくおかしな人だ──英語はさほど上手ではない。「私の言いたいのは」、とばかり言っている。それに「イツ、〈トレラ ブ ル〉(its "tolerable")」はイントレラブル(耐えられない(intolerable))という意味だ。

翌日の終わり頃には、ウィトゲンシュタインの名前の綴りは少し正確になってきたけれども、アンソニーは彼の父親の新しい友に魅きつけられなかった。

朝、パパ、マーガレット、山羊、テンカー、ぼくは散歩した。霜が降りていたが、日が差していた。ウィトキンシュタインは(戦地からの)引き揚げ者たちと一緒に朝を過ごした。彼は私たちが彼らをとても虐待していると思っている。
 私たちは午後、議論して過ごした──彼は変てこな人だ。人が何かを言うたびに、「いやいや、それは問題点ではない」、と言う。それはたぶん彼の問題点ではなく、私たちの問題点だ。聞いている人が疲れる。お茶の後でぼくは彼を庭に案内をした。彼はぼくにかわいそうな小さな子供たちに親切にするのだよ、と頼んだ──彼はあまりにも一方的すぎる──ママは子供たちが良い市民になってほしいと言い、彼は彼らが幸福であってほしいと言っている。

 ライル家はサセックスの農家を借りていて、その「かわいそうな小さな子供たち」は引き揚げ者たちであった。ライル夫人はある政治的声明に従い、ポーツマスから来た労働者階級のふたりの少年を引き取った。彼らは彼女が組織したロシア赤十字社のために手袋を編む子供たちのグループに入った。彼女はこれらの子供たちをよく世話したが、彼らを厳しく教育するようにしていたのは確かだった。ジョン・ライルが家にいたときとか、あるいは彼らに訪問者があった場合、ライルの家族は、ある程度引き揚げ者とある種の距離をおいた──たとえば、別々な部屋で食事をした。ウィトゲンシュタインは、そこに滞在しているあいだ子供たちと一緒に食事をし、子供たちに対して自分の支援と同情を示したいと主張した。
 ウィトゲンシュタインがなぜジョン・ライルに魅かれ、尊敬したのかは容易に分かる。ライルは、ウィトゲンシュタインと同様にケンブリッジのアカデミックな生活に容易に融けに込まなかった。彼がケンブリッジの「死んだような状態」よりも爆撃を受ける病院で働く危険の方をウィトゲンシュタインが選択したことに共感を覚えたのは明白である。ケンブリッジにいたときには、彼は政治に積極的であり、左翼系無所属の候補者として一九四〇年の選挙に立った。一九三八年以来ずっと彼はオーストリアとドイツからのユダヤ人医師の受け入れに積極的に活動していた。(これが恐らくウィトゲンシュタインがアンソニー・ライルに「もうひとりのオーストリアの教授」と書かれた理由であろう。)
 ライルの親切は、空爆のあいだガイズに務めていた多くのスタッフから、暖かさと温情と感謝の念をもって記憶されている。彼らの多くは若く、そして第一次世界大戦に出征したライルと違い、戦争の経験がなかった。ハンフリー・オズモンドは、激しい爆撃を受けながらガイズで働いている頃の危険──そしてこれらの危険にさいしスタッフを助けたライルの激励──について回想しているが、そこにその様子が典型的に示されている。

病院は二〇個焼夷弾を落とされ、そして少なくとも病院の建物に一二個の炸裂したり、しなかった爆弾を落とされた……爆弾投下による災難と多くの被害者が出て、ガイズ病院そのものに残った少数のスタッフは、おたがいにかなりよく知っていた……私はよくガイズの屋根の火災監視をしていた。……私たちは噂話をしたりお茶を飲んで多くの時間を過ごした。私たちはよくナフィールド・ハウスの地下を仮住まいとした。ライルは聡明で、知的な人間であった。第一次世界大戦時に塹壕のなかで鍛えられた彼の沈着さは、爆撃されるのに怖じ気づいていた私みたいな人間には大きな支えであった。

 四月にウィトゲンシュタインは長年彼を煩わせていた胆石の手術をガイズで受けた。彼は英国の医師不信(彼はラムゼイとスキナーのふたりの死は、適切な治療を受けていたら避けられたかもしれないと信じていた)から、手術のあいだ意識のある状態にしてほしいと主張した。全身麻酔を拒否し、手術中に何が起こっているのかを見ていられるように、手術室に鏡をおいた。確実に予想される苦痛に耐える手助けに、ジョン・ライルが手術中ずっと彼の傍らに座り、彼の手を握った。
 ライルを除いて、ガイズでのウィトゲンシュタインの数少ない友人となったのは、医師よりも技師の方であった。そのひとりナオミ・ウィルキンソンは、レントゲン技師で、ライルの従姉妹であった。ミス・ウィルキンソンは病院でレコード鑑賞会をよく開いた。ウィトゲンシュタインはその常連だった。彼はレコードの選択に熱烈な関心をもち、しばしばその選択に非常に厳しかった。このように音楽への共通な関心から、彼とミス・ウィルキンソンは友だちとなり、彼の多くの友だちと一緒に、彼女は彼にライオンズでのお茶会に招待された。これらのお茶会の一つで、彼女は彼にどれだけの人が彼の哲学を分かったと思うか、と尋ねた。彼はその問いに答える前に、長いあいだ考え込んで、「ふたりです──そのうちのひとりがギルバート・ライルです」、と答えた。彼は残念ながらもうひとりが誰なのか言わなかった。たぶん彼がギルバート・ライルを選択したのは、彼が五○代になっても、子供時代のよきマナー──他人を喜ばせると思ったことを言おうという性向──を失っていなかったことを示すものであろう。
 ナオミ・ウィルキンソンのレコード鑑賞会は、たぶんウィトゲンシュタインがガイズで働いていたあいだ記録した彼の夢の一つの要因となった。

今夜私は夢をみた。姉のグレーテルがルイゼ・ポリツァーにプレゼントをした。それは鞄であった。私は夢のなかでその鞄をみた。というよりもむしろ、それは、とても大きく、四角く、とても精密に作られた鋼鉄の錠前だった。それは博物館でときどき見かける複雑な旧い南京錠前の一つのように見えた。この錠前にはとくに機械仕掛があった。それを開けると、「あなたのグレーテル」という声、あるいはそれに似たような声が鍵穴から聞こえてきた。私はこの工夫された機械仕掛がどんなにか複雑なものに違いないということ、そしてそれが蓄音機のようなものであったのかどうか、レコードがどういう材質で作られているのか、それらが鋼鉄で作られていはいるのではないのか、ということについて考えていた。

 ウィトゲンシュタイン自身はこの夢について何ら解釈を与えていないが、当時彼はフロイトの著作に熱中していて、フロイトの中心的観念を記す錠前のメタファーを以前から使用していたことと、そして彼の家族のグレーテルがフロイトとに最も親密に交わっていたという事実から、この夢は夢判断に関わっている、とみなすことができよう。夢は何かを語っているようであり、そしてフロイトの著作を巧みに活用すれば、それらの夢が何を語っているかを(いわばフロイト理論の鍵穴をとおして)聞くことができるであろう。しかしそれらが何かを語っているその背後にあるメカニズム、そして夢のシンボルがそれから構成されているその素材(無意識)の背後にあるメカニズムは、さまざまに錯綜していて、あまりにも複雑で、フロイトがしたような十九世紀の力学でのアナロジーではかなり粗雑にしか把握されない。
 とにかく、こうしたことがウィトゲンシュタインが一九四二年の夏にリースと交わした議論の中心テーマであった。彼はリースと一緒にスウォンジーへ行った。一つには彼の胆石の手術後の保養のためであった。彼らふたりはサウス・ウェールズ海岸線に沿って散歩した。その散歩をウィトゲンシュタインは非常に喜んだ。リースは当時のウィトゲンシュタインが哲学的議論の相手として評価した者のうちで生き残っている非常に少数のなかのひとりであった。彼の哲学の著述が主に数学の哲学に集中していたある時期に、リースとの会話が心理学におけるフロイト解釈の本性を扱っていたことは注目に価する。
 夢のなかのさまざまなイメージがさまざまなシンボルとみなされるような感覚が存在する、と彼は強調した。それはそのシンボルが夢を見る人にたとえ理解されないとしても、私たちが夢の言語について話すことができるような感覚である。これはその夢をある解釈者と語り合い、そして彼の解釈を受け入れたときに生じる感覚である。同様に、私たちが一見して無意味ないたずら書きをし、ある精神分析者が私たちに質問をし、その関連をたどるときに、自分がなぜ、それを書いたかの説明となるかもしれない。「誰にも理解されなかったけれども、私たちはそのときいたずら書きを一種の書かれたもの、一種の言語であると言うであろう。」しかしウィトゲンシュタインには、この種の説明を科学において与えられる説明と引き離すことが重要であった。夢、あるいはいたずら書きの説明は、法則の適用によっては押し進められない。「そしてそのようないかなる法則も現実には存在しない、という事実が私には重要に思われる。」フロイトの説明は、科学よりも神話と共通している。たとえば、フロイトは、不安というのは、つねに私たちが誕生のときに感じた不安の繰り返しである、という自分の見解に対して何ら証拠を与えていない。それにもかかわらず「それは顕しく魅力のある考え方である。」。

ここには神話的説明、つまりすべては以前に起こったことの繰り返しである、と言っている説明がもっている魅力がある。そして人々がこれをまさに受け入れたり採用したりすると、そのときある事柄は人々にはより明瞭でより容易になるように思われる。

 フロイトの説明は、そのとき、ウィトゲンシュタイン自身の著述によって与えられた解明に類似している。それらは因果的、機械論的な理論ではなく、

……人々が受け入れたくなるような何か、そして人々がある方法を取りやすくさせる何かである。つまりそれは人々に対してある種の振る舞い方や考え方を自然なものにするのである。人々はある考え方を断念し、他の考え方を採用している。

ウィトゲンシュタインがこの時期に自分のことをフロイトの「弟子」あるいは「後継者」とリースに書いたのはこの点にいてであった。

〔…〕

ガイズ病院では、彼は自分自身を多忙にしておかなければならないと考えた。「もしお前が静けさのなかで幸福を見出すことができなければ」、と彼は自分自身に語りかけた。「走って見つけることだ!」

しかしもし私があまりにも疲れて走ることができなければ、どうなるのか。倒れる前に、倒れる話をするな。自転車に乗る者のように、倒れないようにするためには、私はペダルを踏み、動かし続けなければならない。

「私の不幸は非常に複雑で」、と彼は五月に書いた。「書くことは難しい。だが恐らく主要な事柄はやはり孤独であることだ。」
 スキナーの死後、カークはボーンマスへ戻った。そしてスキナーのときのように、ウィトゲンシュタインは彼から手紙を受け取らなくなったことで苛立ち始めた。

一〇日間Kから何も便りがない。一週間前に彼に緊急に知らせを送ったのに。彼はたぶん私と縁を切ったのだと思う。悲劇的な思いだ!

 事実、カークはボーンマスで結婚し、独力で機械工学において成功した。彼は二度とウィトゲンシュタインに会わなかった。しかしカークにすれば、彼と「縁を切る」ようなことは何もなかった。彼にはウィトゲンシュタインがけっしてホモセクシャルであるとか、あるいはふたりの関係が先生と生徒との間係以外の何かなどとは想いもよらなかった。
 このことをまるで認めているかのように、ウィトゲンシュタインは日記の同じところへ書き込んでいる。「私は多くのことで悩んでいる。しかし私は自分の人生から学ぶことができないのは明らかだ。私はずっと何年も前に悩んだのと同じようにまだ悩んでいる。私は何ら強くも賢くもなっていなるい。」

いくばくかの慰め──この絶望的な孤独からのいくばくかの救済──は、ガイズの薬局での若い同僚ロイ・フォーエーカーとの友情から得られた。ウィトゲンシュタインに慕われたのは、主にフォーエーカーの暖かさと陽気な愛想のよさであった、と推測される。ウィトゲンシュタインがドゥルーリーとに語ったことによれば、彼がときどき気がせいたり動揺したりすると、ロイはよく、「落ち着きなさい、教授」、と言ったものだった。彼はこう言われるのが嬉しかった。
 フォーエーカーはよくナフィールド・ハウスの四階にあるウィトゲンシュタインの部屋に彼を訪ねた。ケンブリッジでの彼の部屋と同じように、その部屋にはまったく家具はなかった。それにフォーエーカーは哲学の本が何もなく、推理小説だけがきちんと積まれていたのに驚いた。フォーエーカーは当時、西欧現代語を通信教育で勉強していた。それゆえ彼は、ウィトゲンシュタインがじっと静かにして黙って座っているあいだ、彼の部屋でよく座って本を読んでいた。こうした時間にウィトゲンシュタインは一週おきの週末にケンブリッジでおこなう講義の準備をしていた。他の週末にはウィトゲンシュタインとフォーエーカーは外に出かけた。たぶん動物園か、またはハックニーにあるヴィクトリア公園へ行き、そこでふたりは池でボートを漕いだものだった。
 ウィトゲンシュタインをよく知っている多くの人たちのように、フォーエーカーも彼の口笛の名演奏のことを記憶している。彼は、ウィトゲンシュタインがシンフォニーの全曲を口笛で演奏したのを回想している。ブラームスの「聖アントニー変奏曲」が彼の出し物であり、そして他の人たちが口笛を間違うと、ウィトゲンシュタインは止めさせ、そして自信をもってこうすべきだと教えるのであった──そのために彼は薬局の同僚たちに慕われなかった。
 スキナーはレッチワースの中流階級の家庭で育てられ、パブリック・スクールとケンブリッジで教育を受けたのに対して、フォーエーカーはイースト・ロンドンのハックニー市営住宅で生活し、十五歳の年に働き始めた。しかしふたりの性格は多くの点で似ていた。ファニア・パスカルはスキナーについてつぎのように語っている。

彼は陽気で他の仲間たちに好かれました。どんなことであれ、ずるさがなく、どんな人間も悪く考えることができませんでした。彼はきっと実際的でありえたし、そうしようとしたのでしたが、悲しいかな、彼はいつもあまりにも利他的で、あまりにも控え目でありすぎたのでした。

これは等しくフォーエーカーの記述にも役立てることができよう。スキナーと同様に、フォーエーカーはウィトゲンシュタインよりもかなり若かった──彼は二十代の初めで、ウィトゲンシュタインは五十二歳であった。そしてフォーエーカーとウィトゲンシュタインとの友情をスキナーへの愛の代償のようにみることは間違いであろうが、一緒に働いた一八か月間に、フォーエーカーは、ウィトゲンシュタインの生において、スキナーがケンブリッジで果たしたのと同じような役割を果たしたというのは事実であった。つまり彼はウィトゲンシュタインにある種の人間的な接触を与えた。つまり彼は、フランシスのように、ただそばにいるだけで安心感を与えられる人間であった。

〔…〕

空爆の外傷者についての最近の経験が示しているのは、すでになされたすべての研究によっても、とくに前の戦争においてなされたすべての研究によっても、外傷あるいは外傷性ショックの本性と処置についてほとんど分かっていないということである。第一に〈ショック〉の診断に当たって、実際にはヴァリエイションの幅が広いということである。しかし私たちは予後できないし、しばしば処置について疑わしい状態にある。さらに診断について共通の基礎に欠け、適用される種々の処置の方法の効力を評価できないでいる。
 それゆえ、〈ショック〉の診断を避け、それに代わって患者の状態および与えられた処置の経緯を正確で完全に記録することがより望ましい、という見解には十分根拠がある。

 ウィトゲンシュタインがその問題に対するこの根底的な取組みを興味深く、重要なものと受け取った理由は明白である、と考えられる。〈ショック〉の問題を取り扱ったグラントの方法は、明らかに物理学で〈力〉の問題を取り扱ったハインリッヒ・ヘルツの方法との対応が見られる。『力学の原理』では、ヘルツは〈力とは何か〉、という問いに対して直接答えを与える代わりに、その問題は、〈力〉を基本的概念として用いず、ニュートン物理学を言い直すことによって扱われるべきであると提唱した。生涯をとおしてウィトゲンシュタインは、ヘルツのその問題に対する解決を、いかにして哲学的混乱を取り除くべきかという問題の完全なモデルとみなし、そして頻繁に──彼自身の哲学の目的に関する言明として──ヘルツの『力学の原理』の序文からつぎの文を引用している。

これらの困難な矛盾が除去されたときには、力の本性に関する問いに答えが与えられなくなるであろう。しかし私たちのる精神は、もはや悩まされることなく、不当な問いを発しなくなるであろう。

この文を意識的に反映させるようにして、ウィトゲンシュタインは書いている。

私の哲学をする方法においては、その全目的は、ある不安状態が消えるような形に表現することにある。(ヘルツ)

〔…〕

四月に、ウィトゲンシュタインはニューキャッスルにあるグラントの研究班に加わるためにスウォンジーを発った。研究班のメンバー、バジル・リーヴ、グラント博士、グラントのの秘書のミス・ヘレン・アンドリューズはみなブランドリングな公園にある家に一緒に宿泊していた。そこはその病院から歩いていける距離にあった。その家はモファット夫人のものであった。ミス・アンドリューズはウィトゲンシュタインの到着のことをつぎのように記憶していた。

モファット夫人の家に空き部屋がありました。そこで彼は私たちと合流しました。このときまでに私たちは馴れ親しまなかった環境に落ち着き、適応していました。しかしウィトゲンシュタイン教授は容易に溶け込めませんでした。彼は明るく、打ち解けた気分で朝食を取るために降りてきました。一方私たちはみなマンチェスター・ガーディアン紙を分けあって読んでいて、あまりおしゃべりはしませんでした。夕方に私たちがくつろいでいたとき、彼はディナーを私たちと一緒にしようとせず、自分の寝室で食べたいと言ったのでした。モファット夫人は、ぶつぶつ言いながら、お盆に食事をおきました。彼は階下に降りてきて、それをもって上がりました。(この振る舞いはグラント博士に失礼なことだと思いました。)
 石炭を燃料としたちゃんとした暖炉のある居間がありましたが、彼は私たちと一緒にそこで夕べを一度も過ごしませんでした。彼はほとんど毎夕映画館へ行っていました。しかし翌日映画について尋ねられても彼は何も覚えていませんでした。彼はただリラックスするために行っていたのでした。

 ウィトゲンシュタインの到着後まもなく、モファット夫人が病気になったので、研究班の人たちはブランドリング公園にあるその家を出なければならなかった。彼らはそれぞれ下宿を見つけた。しかしミス・アンドリューズの回想によれば、「ウィトゲンシュタイン教授は、住む場所を見つけるのにたいへんでした。彼は外国のなまりがあり、少しばかりみすぼらしく見えたので、教授であると言われても、たいていの下宿のおばさんはまったく本気にしませんでした。」
 ウィトゲンシュタインが毎夕映画を観にいったことは、ニューキャッスルで彼がいかに一生懸命に働き、いかに真剣にその仕事に打ち込んだかを示すものであった。ドゥルーリーのつぎのような回想がある。

きみは哲学がまったく難しいと考えているが、しかし哲学は優れた建築に携わることの困難さからみれば何でもないことだ。私がウィーンの姉の家を建てたとき、その日の終わりには完全に疲れきって、できたことと言えば毎晩「活動写真」に に行くことだけだった。

 このことを示すもう一例は、ニューキャッスルでは彼は哲学について何も書いていないが、一方ガイズでは、ノート三冊に数学の哲学に関する覚え書きをしていることである。彼は技師としての自分の責務を果たすことばかりではなく、その仕事の背後にあるものを考えることにも熱列で積極的な関心をもったのであった。グラントとリーヴのふたりは、ウィトゲンシュタインと自分たちのアイデアを議論して恩恵を受け、そしてその仕事は彼の関心によって励まされたが、彼らはときどき彼の研究への没頭は少しばかり激しすぎると感じていた。ミス・アンドリューズは、研究班はあまりにも一生懸命に働くので、グラントが一日全員で仕事を止め、ハドリアンズ・ウォールズに沿って一緒に散歩することをときどき提案した、と回想している。ウィトゲンシュタインがこれらの共同の散歩に同行するのに一度も誘われたことがないのに彼女は気づき、グラントになぜ外されるかと尋ねた。もし彼がみんなと一緒に行けば、彼が「その間ずっと仕事の話をする」ので、散歩の目的を駄目にしてしまうということだった。
 彼はこれらの「休日」の散歩には招待されなかったけれども、グラントとリーヴは他の多くの機会にローマン・ウォールに沿ってウィトゲンシュタインと散歩したことを回想している。通常そのときの会話は彼らの研究のことに集中したが。しかしとくにリーヴとは、ウィトゲンシュタインはしばしば個人的な事柄について多く話し合った。たとえば、彼はリーヴに幼少の頃の話をし、四歳になるまで話すことができなかったことに触れた。彼はリーヴにドゥルーリーにも話したことのあった彼の子供時代の記憶を話した。それは明らかに彼にとってたいへん意味のあるものであった。彼はつぎのことを語った。彼の家の洗面所で、漆喰の部分が壁から剥がれていた。彼はこの形をいつもアヒルと思って見ていたが、それが彼を脅かした。それが彼にはボッシュの「聖アントニーの誘惑」に描かれている怪物の姿に見えたからであった。
 リーヴはときどきウィトゲンシュタインに哲学のことを尋ねた。しかしウィトゲンシュタインが哲学の話題に関心を示さなかったことは注目される。彼の医学についての話題とは違って、哲学は絶対的に役に立たず、強制的にするのでなければ、哲学をすることは意味がない、と彼はリーヴに強調した。「あなたは医学で立派な仕事をしている」、と彼はリーヴに話した。「それに満足すべきです。」「とにもかくにも」、と彼は茶目っけをもってつけ加えた。「あなたは愚かすぎますよ。」しかし四〇年経って、リーヴが二つの重要な方法でウィトゲンシュタインの考え方の影響を受けていたと語ることになったのは興味深い。一つは、事柄はあるがままにあることを念頭におくということ、そして二つにはそれらがどのようにあるのかを理解するために、はっきりとした比較を試みるということであった。
 これらの二つの考え方は、ウィトゲンシュタインの後期哲学の中心となっているものである。事実、ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』のモットーに、「すべてのものはあるがままであり、そして他のものではない」、というバトラー司教の言葉を引用することを考えていた。明確に比較することの重要さは、〈結合を見ることによる理解〉というウィトゲンシュタインの中心的概念の核心となっているばかりか、哲学への彼の全貢献を特徴づけるものである、とウィトゲンシとュタインがみなしていたものであった。リーヴとウィトゲンがシュタインの会話は、〈ショック〉についてのグラントとリーヴの着想の明瞭化に尽力したことに示されているように、哲学の影響を与えるのには哲学の議論以外にも他に多くの方法があることを示している。ウィトゲンシュタインは、思考と理解の方法を、どう言えばそれについて明瞭になるのかということではなく、それがいかにすれば人の観念を明瞭にするように用いられるかを示して、教えたのであった。
 グラントとリーヴのふたりは、ウィトゲンシュタインの影響が研究班の最終報告の序に示された考え方に重要な役割を果たした、と回想している。その本題には〈ショック〉という語が用いられずに、むしろ「人間における傷の一般的結果に関する所見」と名づけられたことに意義があった。議論の主要な筋道は、一九四一年一月のグラントの最初の覚え書きにおけるものと同じであったが、「〈ショック〉という語に対する非難」はいっそう強力な言葉を用いて表現されている。

実際に、私たちはショックの診断が一般的に受け入れられている基準よりも、むしろ診断している当人の個人的見解によっているようであることが分かった。これらの見解を知らされるまで、ベッドサイドに呼ばれたときに、私たちはそれがどういうことなのか分からなかった。そのレッテルだけでは患者がどんな様子や徴候を示しているのか、患者がどのような病気なのか、あるいは彼がどんな治療を必要とするのかが分からない。私たちができる診断のただ一つの共通して挙げられる理由と言えば、その患者が病気のように見えるということだけであった。それゆえ、私たちはそのさまざまな定義が与えられる〈ショック〉という語を使わないことにした。私たちはそれ以来傷の研究にその語が何ら役に立たないことが分かった。その語はむしろ偏りのない所見の障害となって5おり、誤解の原因となっている。

 これは、ウィトゲンシュタインによって書かれたにせよそうでなかったにせよ、彼が哲学的仕事に望んだ効果──つまりそれは研究が多くの間違った方向をたどるのに終止符をうった──をもたらした。一九三九─四五年の医学研究協議会の報告はグラントのもとでなされた仕事に関してつぎのように述べている。

[それは]外傷性〈ショック〉があたかも単一の臨床的、病理学的実体であるかのように〈ショック〉問題を攻撃することの価値に重大な疑問を投げた。その結果、戦争の初めに委員会がスタートした調査のいくつかの方針は廃棄された。

そこには、実際ウィトゲンシュタインが数学の哲学に関する彼の後期の著述において望んでいた効果──日光がジャガイモの若芽の生長に及ぼす効果があった。

グラントとリーヴによってなされた研究の目的は、もともと傷の結果の診断において〈ショック〉という語を用いることのに反対するキャンペーンではなく、第一次世界大戦中になされた研究から導かれたものよりも稔り豊かな、他の診断と治療を明らかにすることにあった。このために、彼らは傷の結果について詳細な観察を必要とした。この仕事の実際的な面でのウィトゲンシュタインの受け持ちは、組織の凍結した部分をカットし、たとえば、脂肪があるのかどうかを捜すためにそれらを染色することにあった。彼はこれをたいへん巧みにやったようであった。
 この組織学の仕事に加え、ウィトゲンシュタインはグラントから奇脈の研究の手助けを求められた。それは呼吸とともに変わる脈圧で、しばしば重傷を負った患者にみられた。この研究では、彼はこれまでよりも脈圧を記録するのによい装置を考案し、一つの技術革新に貢献したようであった。グラントもリーヴも共にこの装置は革新的であったと記憶しているが、どちらもその詳細については覚えていない。それゆえ、この装置について残されているただ一つの記録は、ドゥルーリーの記述である。それは、彼が陸軍の休暇を利用し、ニューキャッスルにウィトゲンシュタインを訪れたときに、記述したものであった。

北アフリカでの戦闘が終わった後で、私はノルマンディー上陸の準備のために英国へ配属された。上陸のための休暇の期間に、私はウィトゲンシュタインと数日過ごすためにニューキャッスルへ旅をした。……彼は研究部門にある自分の部屋に私を連れていき、研究のために彼自ら考案したその装置を私にみせてくれた。グラント博士は呼吸(強度)と脈拍(量の割合)との関係を調べることを彼に依頼していたのであった。ウィトゲンシュタインは、自分自身が被験者となって、循環する鼓膜について必要な記録を採れるように取り組んだ。彼はもとの装置にいくつか改良をした。グラント博士は、ウィトゲンシュタインが哲学者ではなく生理学者だったらよかった、と言ったほどであった。自分の成果を私に説明するのに彼はつぎのような特有な発言をした。「それはきみが一見して想像するよりも遥かに複雑なのだよ。」

ドゥルーリーのニューキャッスルへの訪問では、これまででは示されていなかった会話も交わされており、ウィトゲンシュタインの性に対する態度に興味深い変化のあったことを示している。一九四三年までに、セックスと精神性は両立しないというワイニンガーの見解から離れて、ウィトゲンシュタインは、性行為を宗教的畏敬の対象とみる見解に共鳴していたようであった。ドゥルーリーがウィトゲンシュタインとニューキャッスルに滞在しているあいだ、ふたりはダーラムまで汽車に乗り、そこで川岸を散歩した、とドゥルーリーは述べている。散歩しながら、ドゥルーリーはウィトゲンシュタインにエジプトでの自分の体験、とくにルクソールでの寺院を見たときの体験を語った。彼は、寺院を見たのは素晴らしい体験であったけれども、寺院の一つの壁に、ホルスの神が勃起した男根から射精した精液を鉢に集めている様子がレリーフに描かれているのを見つけて驚き、ショックを受けたと、ウィトゲンシュタインに話した。ウィトゲンシュタインは、ドゥルーリーのほのめかした嫌悪に対して強く反対して、この話に応えている。

一体全体なぜ、それによって人類が存続しているその行為が畏怖と畏敬をもってみられてはいけないのか。すべての宗教がセックスに対して聖アウグスティヌスのような態度をもたをなければならないということはない。

 ウィトゲンシュタインが最初ニューキャッスルに移ったときに、彼はドゥルーリーの他の発言に対し、よりいっそう軽蔑的な態度を率直にあらわして反応した。ドゥルーリーは、ウィトゲンシュタインの新しい仕事がうまくいきますようにと手紙に書き、たくさんの友人をつくるようにとつけ加えた。ウィトゲンシュタインは返事を出した。

きみが思慮を欠き、愚かになっているのが私にははっきりと分かる。きみは私が「たくさんの友人」をこれまでもったなどと、どうして考えることができるのか。

荒々しく表現されてはいるが、これは疑いもなく真実であった。ニューキャッスルでのウィトゲンシュタインの友人は、たったひとりバジル・リーヴであったようである。彼はグラントとうまくやっていて、彼らは音楽への関心を分かち合った(グラントは、かつて彼がベートーヴェンの「皇帝」の出だしが嫌いだと言ったときに、ウィトゲンシュタインの熱烈な賛同を得たことを覚えていた)、しかしウィトゲンシュタインがガイズでロイ・フォーエーカーと分かち合ったような暖かい感情の触れ合いはほとんどなかった──たんなる付き合いにすぎなかった。グラントは自分の仕事に没頭することを優先させた。ウィトゲンシュタインはケンブリッジでの哲学の仕事で人との付き合いが欠けていることについてフォートーカーに不平を漏らしていた。しかしニューキャッスルにいて、ノーマン・マルコムへの彼の手紙が示しているように、彼はケンブリッジでの友人たちを懐かしがり始めた。

スマイシーズから何か月も便りがない。彼がオックスフォードにいることは分かっているが、彼は私に手紙をよこさない。──[カシミール]・レーヴィは相変わらずケンブリッジにいる。……リースはスウォンジーで相変わらず講義をしている。……きみがムーアに会い、彼が元気なのかどうかをみてきてください。[一九四三年九月十一日]

私はここでかなり侘びしい気持ちになっている、そしてどこか話相手のいる場所を見つけようと思っている。たとえば、リースが哲学の講師をしているスウォンジーへ。[一九四三年十二月七日]
22 スウォンジー

〔…〕

 この種の忠告は、第二次世界大戦中にウィトゲンシュタインが友人たちに与えた他の忠告と同様、彼自身の大戦の経験に基づいていたことはまったく明白である。たとえば、〈Dデー〉〔一九四四年、第二次世界大戦における北フランス攻撃開始日〕に出発するために、モーリス・ドゥルーリーがウィトゲンシュタインに別れを告げるために、スウォンジーにやってきた。彼はドゥルーリーにつきの言葉を託した。

もしきみが白兵戦にまき込まれることになったら、そのときにはただじっとして、殺されるままにしなさい。

 「私は」、とドゥルーリーは書いている。「この忠告は前の戦争で彼が彼自身にしなければならなかったものだと感じた。」同じくノーマン・マルコムがアメリカ海軍に入隊したときに、彼はゴットフリート・ケラーの小説『ハートラウプ』の「汚れた写本」(たぶん古本で、スクラップといった感じのもの)がウィトゲンシュタインから送られてきた。元の綺麗な状態でないというのがその利点で、ウィトゲンシュタインは書いている。「それ以上汚す心配なしにエンジン室で読むことができる。」彼は、「ゴプラナ号」に似た蒸気船で、何か手作業をしているマルコムを思い浮かべていたことは明らかであった。それは、あたかもこの戦争が、一九一四─一八年のその激しい何もかも一変させる出来事を、若い友人たちをとおして代わりに追体験する機会を彼に与えたかのようであった。
 彼がハットの立場に置かれていたなら──一九一五年におけるとまったく同じように──彼は何らためらわずに最前線に送られるよう志願していたと思われる。
 しかしハットに対する彼の忠告は、もっと一般的な態度に基づいていた。「私が思うに」、と彼はハットに語った。「きみは這うことを止め、ふたたび歩き始めなければならない。」

ついでだが、私が勇気について話をしたのは、きみの上官と喧嘩をしなさいと言っているのではない。とくにそれがまったく無用で、へらず口をたたいている場合に言っているのではない。私の言っているのは、重荷を引き受け、それを背負っていきなさいということである。私がこう言う権利は何もないことは承知している。私自身では重荷を背負うのはあまり得意ではない。しかしそれでもこれはぜひ私の言っておかなければならないことだ。たぶんきみに会うことができないからだ。

 ハットはこうした忠告を受け入れる意向を示す返事を書かず、最近心理学者に会ったことを知らせた。「軍隊のことについてもっと知りたい」、とウィトゲンシュタインはこらえることができず、皮肉まじりに返事を出した。

たとえば、心理学者がきみの軍隊で医療面にどうかかわっているのか分からない。きっときみは精神ではどこも問題ないと思う!(あるいは、かりにあるとしてもその心理学者にはそのことが分からないであろう。)

彼は前の忠告の大要を繰り返した。もし将校の地位を得ることができなければ、ハットにできる唯一つのことは、「きみがほんとうに馴染んでいる仕事をすることだ。非常に馴れていることをするのだから、きみの自尊心を失うことはない。」

きみが私の言っていることを理解しているかどうかは分からない。あらゆる手段を用いて、よりよくやらなければならないとか、より適切な仕事をしなければならないというのは、知的な問題だ。しかしこれらが失敗に終わるなら、そのときいつも不平を言ったり、逆らったりすることはもはや意味がなく、きみが決断しなければならないときがくるであろう。きみはある部屋に引っ越してきて、そして──「ああ、ここはほんの一時しのぎだ」、と言って、自分のトランクを開けない者のようだ。それでいいのだ──一時のあいだは。しかしその者がよりよい場所を見つけることができなければ、あるがいはまたたぶん他の町へ引っ越しの決心もできないでいるときには、なすべきことは、自分のトランクを開けて、そしてその部屋でいいのかどうかを決めることだ。というのは、待っている状態で生きることよりも何かをする方がよいからである。

 「今度の戦争は終わるであろう」、と彼は主張した。「そして最も肝心なことは、戦争が終わったときにきみがどんな種な類の人間になるかということだ。つまり、戦争が終わったとき、きみは人間であるべきだ。そしていまきみが自分自身を訓練しなければ、人間になることはできないであろう。」

第一になすべきことは、稔りのないときには不平を言うのを止めることだ。私にはきみがどこか最前線近くか、まさにその危険なころに配置されることを志願するか、あるいはまたきみがそうしたくなければ、きみが現在いるところに腰を据え、移動などを考えずに、きみがいましている仕事をちゃんとすることだけを考えるべきか、このどちらかだと思われる。

 「きみに対してはまったく率直でありたい」、と彼はつけ加え、たぶんハットの状況に自分自身の緒を投影していることを示す示唆をもう一つした。「そしてさみの家族の手の届くところにいない方がきみにはいいのではないか、と思っていると言いたい。」

もちろん、きみの家族は慰めてくれ、また和らげる効果をもつかもしれない。そしてある種の苦難に対しては、きみは皮膚を柔らかくではなく、より硬くすることを望んでいる。私が言っているのは、きみの家族が、きみが脇目もふらずに自分の仕事を決断し、やっていくことをいっそう難しくするか、あるいは不可能にするという考え(それはたぶんまったく間違っているかもしれない)を私が抱いているということだ。また恐らくきみの内面をもう少しよく見ることだ。そしてこれはまたきみを取り巻いている家族と一緒では恐らく不可能だ。きみがこの手紙をロッテに見せ、そして彼女が私に激しく反対する場合に、私はつぎのように言いたい。たぶん彼女は反対しなければいい妻ではないであろうが、しかしそれは、私がきみに言ったことがではない、ということではない!

 依然として将校になることを渇望して、ハットは司令官に会い、そしてまたまもなくそうなるかもしれない、とウィトゲンシュタインに知らせる手紙を書いた。「私には」、とウィトゲンシュタインは返事を書いた。「きみは当てのない希望か絶望のどちらかに生きているようである。……いま将校のことできみの司令官を煩わせることは、私には馬鹿げているように思われる。きみは断られてから何一つ変わっていない!」

「これらのすべてのステップは、ここでの私の地位を満足いくように、少なくともいまよりも幸運をもたらすようにしたか、あるいはするでしょう」、ときみは書いている。まったくナンセンスだ。こういうのを読むのはほんとうにうんざりする。事態を満足のいくものにする第一歩は、きみの内側でなされなければならない。(私はただきみの家族から離れることが、その手助けにならないと言うつもりはない。)

 この問題に関するやりとりは、ウィトゲンシュタインのつはンのつぎのような最後の言葉で六月に終わった。「きみの幸運忍耐を望む!」、と彼は結論に書いた。「そしてもう心理学者と関わりをもたないことをも。」
 この頃には、ウィトゲンシュタインはマン夫人の家からメソジストの牧師、ウィンフォード・モルガン師の家へ移っていた。その家を最初に訪れたときに、モルガン夫人は、行き届いた女主人として、お茶が好きかどうか、またあれやこれやのものが好きかどうかを彼に尋ねた。彼女の夫は、他の部屋から彼女に声をあげて言った。「尋ねないで、さしあげなさい。」それはウィトゲンシュタインに強い印象を与えた。彼はそれを友人たちにいろいろな機会に繰り返した。
 しかしその他の点では、ウィトゲンシュタインは家の主人にはあまり好意的な印象をもたなかった。彼は一度も読まない本を壁に並べていることでからかい、たんに信者たちに印象を与えるためにそうしていると彼を責めた。モルガンが神を信じるかどうか、とウィトゲンシュタインに尋ねたときに、彼は答えた。「はい、私は信じます。しかしあなたが信じていることと私が信じていることとの違いは、無限でしょう。」
 この発言は、むろんメソジスト教とキリスト教の他の形態との相違に言及しているのではない。ウィトゲンシュタインはメソジスト教徒でもカトリック教徒でもなかった。カトリック教に改宗した彼の友人について、彼はかつて発言したことがあった。「私は、彼らが信じたすべての事柄を自分に信じさせることは恐らくできないであろう。」そのなかのひとりがヨーリック・スマイシーズであった。彼は、ウィトゲンシュタインがモルガン師のところに下宿をしていたとき、彼の改宗を知らせる手紙を書いた。ウィトゲンシュタインはたいへん関心をもった。彼がスマイシーズにキルケゴールを読むように勧めたことで、図らずもその改宗に一部責任があるかもしれないと考えたからなおさらであった。彼のスマイシーズへの答えは遠回しであった。「もし誰かが私に綱渡りの道具を買ってきたと言っても、それで何がなされるのかを見るまでは、私は何の印象ももたない。」
 このアナロジーの要点は彼のノートの一つに明瞭に示されている。

誠実な宗教的思想家は綱渡りのようである。彼は一見してほとんど空中を歩いているようである。彼の支えはきわめてわずかしか想像できないのだ。それにもかかわらずその上をほんとうに歩くことができるのだ。

 ウィトゲンシュタインはこのバランスをとる振る舞いをやってのける人間に対して最大の称賛をおくったが、自分がそのひとりとはみていなかった。たとえば、彼は奇跡の報告に関してそれが紛れもない真理と信じるまでにはいかなかった。

奇跡は、いわば神のなすジェスチャーである。ある人間が静かに座って、それから印象深いジェスチャーをするときに、神は世界を静かにさせ、それからシンボリックな出来事、つまり自然のジェスチャーに聖者の言葉を添える。もし聖者が語ったときに、彼のまわりの樹々がまるで崇拝しているかのように恭々しくおじぎをすれば、それは奇跡の一事例となろう。ところで、私はこれが起こると信じるのか。私は信じない。
 この意味の奇跡を私が信じる唯一つの方法は、この特定の方法において出来事に印象づけられることであろう。たとえば、その結果、私はつぎのように言いたい。「それらの樹々を見て、そしてそれらが言葉に反応していると感じることは不可能であった。」それは「この犬の顔を見て、そしてその犬が彼の主人がしていることを油断なく、注意深く見守っているのを見ていないということは不可能なことである」、と私が言っているようなものであろう。それゆえ、私は聖者の言葉と生活の報告だけで樹が恭々しくおじぎをしたという報告を誰かに信じさせることができる、とは想像できる。しかし私はそのような印象を受けない。

 彼がモルガンに対して認めた神の信仰は、何かの特定の教義の真理に従うという形をとっていない。そうではなく、それは生に対して宗教的態度を採る信仰である。彼はかつてドゥルーリーに言った。「私は宗教的人間ではないが、宗教的観点からすべての問題を見ざるをえない。」
 モルガンの隣にクレメント一家が住んでいた。その家族の者とウィトゲンシュタインはすぐ親しくなった──これは、英国人よりもスウォンジーの人たちとうまくやっていく方が易しいと分かった、とマルコムへ言ったいい例である。彼はとくにクレメント夫人が気に入った。彼女は彼を毎週家族と一緒に日曜のランチに招待した。「彼女は天使ではありませんか」、とある日曜の昼食時に彼は彼女の夫に話した。「彼女ですか」、とクレメント氏は応えた。「分かりませんか、これはこれは驚いた! むろん彼女のことです!」、とウィトゲンシュタインは大声で叫んだ。実際に、彼はクレメント夫人にたいへんよい印象をもったので、モルガンのところよりもむしろ彼女の家に下宿することを望んだ。クレメント家は、それまで下宿人をおいたことはなかったし、そうしたいともたいして思ってもいなかった。しかしせがまれて、彼らはウィトゲンシュタインの引っ越しに同意した。クレメント家との交際はそれから三年間続いた。ケンブリッジでの最後の数年、彼は彼らの家にゲストとして休暇を過ごしたのであった。
 クレメント夫妻には、十一歳のジョウン、九歳のバルバラのふたりの娘がいた。そこに滞在しているあいだ、ウィトゲンシュタインはほとんど家族の一員と同じに待遇された。〈ウィトゲンシュタイン〉という名前が長たらしいというので、彼らはみんな彼を〈ヴィッキー〉と呼んだ。もっともそうすることが許されたのは、彼らに限られるとけじめをつけていた。ウィトゲンシュタインはクレメント家に住んでいたとき家族とともに食事をほとんどしなかった。彼はまた家族の人たちとは他の面で付き合った。とりわけ、彼はそこの女の子たちと一緒にリュードウという一種のサイコロ遊びやスネークアンドラダーという一種のスゴロク遊びをした──ウィトゲンシュタインがとくに熱中し、スネークアンドラダーのゲームを二時間以上もやり続けた場合には、女の子たちは、そのゲームを解けなくて残念ですが、もう止めましょう、と彼にお願いしなければならなかったほどであった。
 彼はまたその家のふたりの女の子の教育に積極的に関心をもった。姉のジョウンは当時その地方のグラマースクールの奨学生の試験を受けていた。その結果の発表の当日、ウィトゲンシュタインが帰宅したとき、彼女が泣いているのに気づいた。落ちたという通知を彼女は受けたのであった。「そんなばかな!」、と彼は言った。「調べてみよう。」ウィトゲンシュタインは、落ちた、と彼女に話したその教師に直接会いに、不安そうなジョウンと彼女の母親を従えて、ジョウンの学校まで無理やり引き連れていった。「彼女が落ちたとあなたが言ったことに驚いています」、彼はその教師に話した。「私は彼女が合格したに違いないと自信をもって言えます。」その教師はいくぶんおびえて、成績の記録をチェックし、誰が見ても明らかなように、実際に間違いがあり、ジョウンが合格に十分な得点をしていたことを発見した。その教師は、ウィトゲンシュタインから「無能な馬鹿者」と罵倒された。しかし彼の判断と彼女の能力との両方は正当化されたけれども、クレメント夫人は学校に二度と顔を出せないほど恥ずかしく思った。

彼が自らかって出た家族への責務とリースとのほとんど毎日の散歩は別にして、スウォンジーでのウィトゲンシュタインの時間は大部分著述にあてられた。彼は、一九三八年版の『探究』のタイプ草稿と、ガイズ病院で働いているときに書:いたノートと厚表紙版の草稿とをもってきていた。そして彼は翌年の秋、ケンブリッジに戻らなければならないときに、出版社に出せるようにしたいと希望し、その本の改訂に取りかかった。
 スウォンジーにいた最初の二か月のあいだ、彼の仕事の焦点は数学の哲学にあった。彼はガイズで続けていたノートをふたたび取り始め、それに「数学と論理学」という表題を付けた。このノートで彼が主に関わったのは、規則に従うという概念についてであった。一九三八年版の第一部は、この概念にかかわる混乱についての見解で終わっている。そして第二部は数学の哲学における諸問題の議論の準備として、これらの混乱の解決を企てることから始まっている。しかしながら、彼の死後出版された『探究』の改訂版では、規則に従うことに関する議論は、それに代わって心理学の哲学の諸問題の議論の準備としてなされている。この変更は一九四四年の春と夏の数か月間にスウォンジーでなされた。
 スウォンジーにいるあいだに、ウィトゲンシュタインの関心がいかに迅速で、徹底的に推移したかは、わずか数か月間に別々に起こった二つのエピソードから例証できる。最初のエピソードは彼がそこへ移ってからまもなく起こった。それはジョン・ウィズダムがある伝記事典にウィトゲンシュタインについて包括的に書いた短い伝記の一節と関連している。出版の前に、ウィズダムはウィトゲンシュタインへ意見を求めて、彼が書いたものを送った。ウィトゲンシュタインはわずか一箇所だけを訂正した。その一節の最後の文に、「ウィトゲンシュタインの主な貢献は数学の哲学にある」、とつけ加えた。二、三か月後に、それ以来ウィトゲンシュタインが〈私的言語議論〉として知られるようになった一連の見解に取り組んでいたとき、リースは彼に尋ねた。「数学に関するあなたの仕事はどうなっていますか。」ウィトゲンシュタインは手を振って答えた。「ああ、それなら誰か他の人にもできることだ。」
 もちろん、数学の哲学から心理学の哲学へと切り替え、そしてふたたび戻り、他の領域での要点を例証するためのアナロジーとしてある領域における諸問題を用いることは、一九三〇年代の最初の頃以来、ウィトゲンシュタインが講義ノート、会話においてやってきたことであった。いずれにしても一九四四年においては、彼の関心は、私的言語が新しいという考えとの格闘にあったのではなかった。それについては彼は早くも一九三二年に彼の講義において論じていた。一九四四年における推移の意義は、それが永続的になっていたことである。つまりウィトゲンシュタインは、数学に関する考察を出版可能な形で整理することにふたたび戻ったのではけっしてなく、残りの生涯を心理学の哲学に関する考えを整理したり、再整理したり、改訂したりするのに過ごしたのであった。さらに、この一見して永続的になっていった推移が起こったのは、彼が数学の哲学に捧げた書物の一部を完成するのに最も熱中していた時期であった。
 この推移を解く糸口は、私の考えるところでは、ウィトゲンシュタインが本の構想を変更したことにあり、とくに規則に従うことに関する考察が、数学の議論の準備としてではなく、むしろ数学的および心理学的概念との両方についての探究の序曲として仕えるべきである、という彼の認識にある。「それなら誰か他の人にもできる」、というリースへの発言にもかかわらず、しかも彼が二度と数学の研究に戻らなかったにもかかわらず、ウィトゲンシュタインは数学に関する考察を『哲学探究』に属するものとみなし続けたのであった。それゆえ、一九四五年に書かれた序文には、なお〈数学の基礎〉をその本に関わる主題の一つにあげており、そして一九四九年に至っても、彼のノートの一つに書いている。

私の哲学的諸探究に属している数学の探究を〈数学の揺籃期〉と呼びたい。

 このようにしてその変化は、何よりも規則に従うことに関する彼の発言が増してきたことについて、ウィトゲンシュタインの構想の変化とみなすべきであろう。彼の発言はいまや一つの方向ではなく、二つの方向に導かれた。そしてこの事実を認めた後で、ウィトゲンシュタインは心理学的概念の探究へと導いた領域に向かう傾向がよりいっそう強くなった。彼は自分の足跡をたどり、分岐した道路の他方の分かれ道をたどるほど十分長く生きなかったけれども、たどるべき道があるという考え方を捨てなかった。このようにして、『探究』に関する彼の最終的な発言──「探究は心理学に関する私たちの探究に全面的にアナロジー的である数学との関係において可能である」──は、リースへの発言と結びついている。彼はその本の第一部のすべての内容を引き出してはおらず、それが誰か他の人によってなされる道が、依然として残された。
 リースとウィトゲンシュタインとの対話において、あるときにウィトゲンシュタインは自分の哲学的立場を変えて、何か新しいことを展開したときにのみ、ほんとうに活動的であると感じることができる、と話したことがあった。彼はその一例をあげているが、それは〈文法的〉命題と〈実質的〉命題間の関係についての自分の見解に関する、彼の哲学的論理学における重要な変化だと考えたものであった。以前には彼はこの区別が固定化されるものとみなしていた。しかし今度は二者間の境界が流動的で、変化を受け易いと考えた。実際には、これは見解の変化というよりは、むしろ強調の変化だと思われる。というのは、『探究』の一九三八年版においてすら、彼はその区別を固定して取り扱っていないからである。しかしどちらにしても彼はまたその流動性をとくに強調してはいなかった。一九四四年の夏に彼の著述を書き取らせたのは、まさにこのことの強調にあった。
 二つの命題のタイプ間の相違は、ウィトゲンシュタインの哲学全体の核心となっている。心理学、数学、美学、そして、宗教における思索において、彼が同意しない人たちに対する彼の批判の要点は、彼らが文法的命題と実質的命題とを混同し、そして文法上(ウィトゲンシュタインのその語についてのかなり奇妙な意味において)考案したものと理解されるのがふさわしいのにもかかわらず、それを何かの発見のように提示した、ということにある。
 このようにして、彼の見解に従えばフロイトは無意識を発見したのではなかった。むしろ彼は〈無意識的思考〉と〈無意識的動機〉というような専門用語を心理学的記述に関する文法へもち込んだのであった。同様に、ゲオルク・カントルは無限集合の無限数の存在を発見したのではなかった。彼は〈無〉という語の新しい意味を導入し、そのことによって異なった無限の階層について語ることを有意味だ、としたのであった。このような考案を求める問題は、これらの「新しく発見された」実体が存在するかどうかではなく、それらが私たちの語彙に加えたものと、私たちの文法に導入した変化が有用なのかどうか、ということにある。(フロイトのは有用であり、カントルのはそうではないというのがウィトゲンシュタイン自身の見解であった。)
 ウィトゲンシュタインは文法的命題を特徴づける多くの方法──自明な命題〉、〈概念形成する命題〉などを用いた。しかし最も重要なものの一つは、それらを規則として記述することにあった。文法的/実質的区別の流動性を強調するにあたり、彼は、概念形成──そしてそれゆえ、語ることにどんな意味があるのか、あるいは意味がないのかの規則を定めること──が、論理形式の不変の規則によって固定される(彼が『論考』で考えたように)のではなく、つねに習慣つまり実践と結びつけられているという事実に注目していた。したがって、異なった習慣あるいは実践は、私たちが有用であると受け取る概念とは異なった概念を前提としていることになろう。そうすれば今度は私たちが実際に採り入れている規則とは異なった規則(何が有意味であり有意味ではないのかを決定する規則)を受け入れることが必要になろう。
 文法的命題との関わりがウィトゲンシュタインの数学の哲学の中心であった。というのは、数学の〈不変性〉は、数学的真理についての確実な知識にではなく、数学的命題がむしろ文法的であるという事実にある、ということを彼は示そうとしたからであった。2+2=4 の確実性は、それを記述としてではなく、規則として用いるという事実にある。
 数学の哲学に関する最後の著述において──リースとの対話におけるように──ウィトゲンシュタインは規則に従うことと習慣に従うこととのつながりに関心の高まりを示している。

〈規則に従うこと〉の概念の適用は習慣を前提とする。それゆえ、世界においてただ一度だけ、誰かが規則に従った(あるいは道標、ゲームをした、文を発した、文を理解した、等)、と言うのはナンセンスであろう。

 これはきわめて一般的な主張であり、その命題が書かれたノート──一九四四年に書かれた──において、ウィトゲンシュタインが数学をはたして念頭においていたのかどうかは明白ではない。そしてこの主張とウィトゲンシュタインの私的言語の可能性に反対する議論との連関があることは明白である。

今日私は新しい規則を与えることができよう。その規則はこれまで一度も適用されたことはないが、それにもかかわらず[規則として]理解されている。しかしどの規則もこれまで一度も適用されたことがなければ、それは可能であろうか。そしていま、「想像上適用があれば十分ではないか」、と言われたとすれば、その答えは「いいえ」ということである。

 このようにして、規則に従うことに関する一節が数学の哲学へ導くのではなく、私的言語の可能性への反対に導くような形で、その本を再構成することはまったく自然のように思われた。この年の夏のあいだに、ウィトゲンシュタインは一九三八年版の「探究」の第一部を以前のおよそ倍の長さに拡張し、現在その本の中心部分とみなされているもの、つまり規則に従うことを扱った節(出版された本の一八九─二四二パラグラフ)と〈経験の私秘性〉を扱った節(いわゆる二四三─四ニーパラグラフにおける〈私的言語論〉)をつけ加えた。
 八月に彼はその本の最終整理と思われる企画に着手した。それは、彼がその秋にスウォンジーを去る前に終わらせようとしたものであった。そのとき、彼はハットに、「たぶん私は戦争協力の仕事をすることになろう」、と話している。後の九月三日の手紙で、彼は、「十月の上旬に去らなければらないとき、私は何をするのか。私はまだ分かっていない事の成り行きが即座に決定してくれることを望んでいる。」連合国に関しては、フランスとロシア軍のポーランド進軍をとおして迅速な進展がなされ、その頃には戦争がドイツの敗北をもってまもなく終結することは明白になっていた。これにはウィトゲンシュタインは何ら喜ぶ理由を見出さなかった。「かなり確信して言えるが」、とウィトゲンシュタインはハットに話した。「今回の戦争後の平和の方がこの戦争自体よりももっと恐ろしいことになろう。」
 適切な戦争協力の仕事を見つけることができなかったからか、それとも彼の休暇の許可が延期できなかったからかは分からないが、スウォンジーを去らなければならなくなると、ウィトゲンシュタインはケンブリッジに帰ることを余儀なくされた。彼は不承不承にそうした。そうしたのは、少なくとも本を完成しなかったからではなかった。スウォンジーを去る前に、彼は出版可能であるとみなした部分についてのタイプ原稿を用意していた。(これはおよそ四二一パラグラフまでの最終版に相当するものである。)以前に最も重要(数学の哲学に関して)とみなしたその部分を満足のいくように整理したいという希望を彼は捨てていた。残された一つの希望は「第一巻」を、つまり心理学的概念の分析を完成することにあった。



23 時代の暗闇

 一九四四年十月にウィトゲンシュタインはケンブリッジに戻った。彼は、本を完成させなかったことに失望し、自分の講義を再開するにあたって、その責任を果たすことにまったく情熱をもてないでいた。
 ラッセルもまたケンブリッジに戻ってきた。彼はアメリカでそれまで六年間生活し、仕事をしていたが、そこでの彼の生活は耐え難いものとなっていた。結婚、道徳、宗教に関する彼の広く知れわたった見解に対し、アメリカの社会のより保守的分子が彼に敵対することになって、彼をヒステリーにさせ、憤怒させたからであった。それゆえ彼はトリニティ・カレジのより穏健で静かな環境での五年間の講義職への招きを有難く受け入れた。しかしながら、彼は到着すると、自分が英国のアカデミックな哲学者たちには時代遅れで、彼らのなかではいまやラッセル自身よりもムーアとウィトゲンシュタインが遥かに影響力をもっていることに気づいた。彼は彼の『西洋哲学史』の原稿をもって帰ってきた。その本は巨大な経済的成功を獲ちえたけれども(それは長年にわたり主なラッセルの収入源であった)、彼の哲学者としての評判を高めることにはならなかった。
 なおもラッセルの知性の鋭さを称賛していたけれども、ウィトゲンシュタインは、ラッセルが一九二〇年代以来出版した通俗的な著作をひどく嫌悪していた。「ラッセルの本は二色に限定されるべきである」、彼はかつてドゥルーリーに言った。

……赤色は数学的論理学を取り扱うもの──そして哲学のすべての学生はそれらを読むべきである。青色は倫理学と政治学とを取り扱うもの──誰もそれらを読むことが許されてはならない。

 ウィトゲンシュタインは、ラッセルがこれまで成し遂げることができそうなことはもうすべて成し遂げたと考えた。「ラッセルはいまや哲学をすることに命をかけていない」、と彼は笑みを浮かべて、マルコムに話した。それにもかかわらずマルコムは、一九四〇年代に、一緒に出席することはめずらしかったが、ふたりがモラル・サイエンス・クラブに出席したさいに、「討論において、ウィトゲンシュタインはラッセルに対して、これまで私の知る限り他の誰にも見せたことのない敬意を払った」、と回想している。
 ラッセルの方は、ウィトゲンシュタインの後期の仕事にまったく長所を見ることができなかった。「初期のウィトゲンシュタインは」、と彼は言った。「情熱的に緊張した思索に捧げ、彼と同じく、私が重要だと考えた困難な問題を深く認識しており、そして真の哲学的天才であった。(少なくともそのように私は考えた。)」

反対に、後期ウィトゲンシュタインは面倒な思索が嫌になり、そのような活動を不要とするような教説を考案したようである。

 それゆえ、一九四四年の秋に(一四年間の中断の後で)ふ九たりが再会したとき、ふたりのあいだにほとんど暖かな交わりがなかったのも驚くにはあたらない。「私はラッセルに会った」、とウィトゲンシュタインは戻ってきてからおよそ一週間後にリースに手紙を書いた。彼は「どこか私に悪い印象を与えた。」その後彼は自分の以前の教師とほとんど何も接触がなかった。
 ウィトゲンシュタインの後期の仕事に対するラッセルの蔑視は、疑いなく哲学的に孤立して取り残されたことによる彼の個人的悪感情によって強められた。(しかし全面的にそれに帰せられるのではない。)彼が主に関わった哲学的諸問題は、もはや基本的なものとはみなされなかった。一部にウィトゲンシュタインの影響の下に、認識論は意味の分析に従属させられていた。このような状況であったので、『人間の知識──その範囲と限界』──ラッセルが自分の哲学的立場に関する大見解と考えた著作──が一九四八年に出版されたときには、冷淡な無関心しか受けなかった。それゆえ、ラッセルの最大の蔑視はウィトゲンシュタインの弟子たちに向けられた。

一時の流行の後で、自分が骨董品だとみなされていることに気づいたのは、まったく不愉快な経験であった。この経験を有難いものとしては受け入れ難い。ライプニッツが老年になって、バークリーが称讃されていることを聞いたとき、彼は、「物体の実在を論じるアイルランドの若者は、自分自身を十分に説明できないし、また十分な論証を示すこともできないようだ。私は彼が自分のパラドックスを世に知られることを望んでいるのではないかと嫌疑している」と話している。ウィトゲンシュタインについては、これとまったく同じだと言うわけにはいかない。多くの英国の哲学者たちの見解によると、彼が私に取って代わったのである。彼が知られることを使望んだのは、パラドックスによってではなく、パラドックスの当たりの柔らかい回避によってであった。彼は特異な人間であり、私は彼の弟子たちが、彼がどんな作法の人間なのかを知っているのか、疑問に思っている。

〔…〕

 しかし不満のもっと大きな源泉は自分の本が依然として完成からほど遠い状態にあったことであった。彼はリースに、「近い将来に私の本を完成させる希望がまったくない」、と「話している。このことは彼に無価値の感情を引き起こし、他の人たちの本を読むことはいっそうその感情を激化させた。

私は最近かなりの量の本を読んでいる。モルモン教の歴史とのニューマンの本二冊です。これを読む主な効果は、ただ自分の価値のなさを感じられるようにすることです。しかし私は静かにまどろんでいる人間が周りのある種の騒音を意識しているとしても、ただその騒音が目を覚まさせないということがあることが分かります。

 彼の講義は、その前年の夏にスウォンジーで専念した心理学の哲学の諸問題を取り扱った。彼はテキストとしてウィリアム・ジェームズの『心理学原理』──もともと概念的混乱を例として、それに挑むつもりであった──を使うつもりであった。しかし彼がリースに話したように、「きみは正しかった。私はテキストとしてジェームズのを使わず、自分の頭にあること(あるいは自分勝手なこと)を話した。」しかしながら、実際には彼がこれらの講義でしていたのは、当時彼が書いていた『探究』の一節に関わる諸問題を十分に考え抜くことであった。
 それらは、メンタルな過程の存在を肯定するものと否定するものの問題に集中していた。ウィトゲンシュタインはどちらも主張しようとしなかった。彼はその問題に関して両方とも間違ったアナロジーに依拠していることを示そうとした。

およそメンタルな過程や状態や行動主義といった哲学的諸問頭がどのようにして生じるのか──その第一歩はまったく人目を引かない。私たちはさまざまな過程や状態を語り、それりの物を未決定のままにしている。恐らくいつかそれらについてもっと知ることであろう──と私たちは考える。しかしまさにそのことによって私たちはある特定な考察の仕方に縛りつけられている。というのは、ある過程をより詳細に知るとはどういうことかに関して、私たちはある特定の概念を抱くからである。(手品師の曲芸で決定的な処置が講じられた。まさにそのことが私たちには何の仕掛もないようにみえた。)──そしていまや私たちの思考を明確にするはずであった比較ができなくなっている。それゆえ、私たちはまだ探究されていない媒体においてまだ理解されていない過程を否定しなければならない。それゆえに、私たちはメンタルな過程を否定したようにみえるのである。だからといって当然私たちはそれらを否定するつもりはない!

 「哲学におけるお前の目的は何か」、彼はこの言葉の後にただちに自分に問い、そして答える。「ハエにハエとり壺から出口を示すことだ。」ウィリアム・ジェームズのテキストは、人々がこの特定のハエとり壺に捉えられたときに、人々が語るように促すような例として用いられている。
 たとえば〈自我〉の概念を議論するときに、ジェームズは、彼の〈さまざまな自我の自我〉を内省的に見つめようとするときに生じるものを記述している。自分が内省しているあいだ、たいていの場合意識作用しているものは頭脳の運動である、と彼は記録している。そして彼は結論を与えている。〈さまざまな自我のなかの自我〉は、入念に吟味するとき、主に頭脳のそれらの特殊な運動、あるいは頭脳と咽頭とのあいだの特殊な運動の集合体から成り立っていることが分かる。

ウィトゲンシュタインに従えば、これは、「〈自我〉という語(それが〈人〉、〈人間〉、〈彼自身〉、〈私自身〉というような何かを意味している限りで)の意味ではない、またこのようなものの何らかの分析でもない。しかしこれは、哲学者が〈自我〉という語を自分に語り、その意味を分析しようとするときの哲学者の注意している状態」を示している。そして彼は「多くのものがここから学ばれるであろう」、とつけ加えている。
 彼が論戦を挑もうとし、言語の混乱した像を例示するために聖アウグスティヌスを用いたように、また数学の哲学における混乱を例示するためにラッセルを用いたように、心理学の哲学における混乱の例示を与えるために、ウィトゲンシュタインがジェームズを用いたのは、彼にジェームズへの敬意が欠けていたわけではない。彼が『探究』をアウグスティヌスの引用から始めたのは、「そのような偉大な精神の人がそれを主張したとすれば、その概念が重要なものであるからに違いない」、という理由からだとマルコムに語ったのと同じように、心理学に関する彼の見解にジェームズを引用したのは、彼がジェームズに高い評価を与えていたからであった。ドゥルーリーに読むようにと強く薦めた数少ない本の一つが、ジェームズの『宗教的経験の諸相』であった。ドゥルーリーは、それをすでに読んだと話し、「ウィリアム・ジェームズのものならいつ何を読んでも面白い。彼はたいへん人間的な人間です」、と言った。そのとおりだ、とウィトゲンシュタインは答えた。「それが彼を優れた哲学者にするのだ。彼は本当の人間だ。」

〔…〕

 このタイプ原稿を準備した数か月のあいだに、彼は「この暗闇の時代」に精神的な抑圧状態を増大させていった。第二次世界大戦の最終段階は、以前には想像を絶する規模の残忍行為と非人間的な状況を生み出していった。二月には、英国とアメリカ空軍によるドレスデン爆撃はその都市をほとんど完全に荒廃にもたらし、一三万人の市民が殺害された。四月にはベルリンが連合国軍に、ウィーンはロシア軍に陥ち、双方におびただしい死傷者がでた。五月七日のドイツの降伏寸前に、ベルゼンとブーヘンヴァルトの強制収容所で連合軍によって発見された腐乱した屍体の山の写真が公表された。五月十三日にウィトゲンシュタインはハットに手紙を書いた。「ここ六か月間、以前の戦争よりもいっそう激しい嘔吐をもよおしている。私はしばらくのあいだこの国から出て、以前ノルウェイにいたようにどこかでひとりになりたい。」ケンブリッジは、「私の神経を苛立たせる」、と彼は述べている。
 七月の英国選挙で彼は労働党に投票し、友人たちにもそうするよう強く薦めた。マルコムに言ったように、彼は、「この平和が休戦にすぎない」ことを確信していた。

そして今度の戦争の「侵略者たち」を完全に踏み潰すことがこの世界を住みよいものにするという口実は、もちろん未来の戦争がただ彼らによって起こされる可能性があるとしても、ひどく怪しいし、実際恐るべき未来を予想させるものです。

 このようにして、日本軍が八月に最終的に降伏したときのスウォンジーの通りでの祝賀パレードにも、彼の精神は何一つ高揚しなかった。「私たちは二日間対日戦勝記念日を祝った」、と彼はマルコムへ書いた。「そしてほんとうの歓喜などというより騒音に充たされたと思う。」戦争の余波として、彼は暗闇を見ただけだった。ハットが復員したとき、ウィトゲンシュタインは彼に「たくさんの幸福」を望むという手紙を書いた──「私がほんとうに言いたいのは、どんな事態になっても耐える力をもつということです。」彼は近頃体調が悪いと話していた。「一つには腎臓の片方が具合が悪いということ、もう一つにはドイツと日本での連合軍の蛮行の記事を読むたびに、私を悩ませるからなのです。」
 ドイツとオーストリアにおける慢性食糧不足の報告と、英国軍隊の、彼らの征服した敵とは「友好関係をもたない」という方針の報告、そして──こうしたただなかで──ドイツ人民を戦争犯罪人にせよ、という新聞の非難に関し、ウィトゲンシュタインはビクター・ゴランツの記事を『ニューズ・クロニクル』で読んで満足した。その記事は「偽善的な国際事件」の終結と「もし私たちが援助しなければ私たち自身が苦しむという理由からではなく、たんに飢えている隣人に食糧を援助することが正しいという理由で」、ドイツ人民に食糧援助を決定することを訴えていた。リースにゴランツの記事のことを話した後で、彼はゴランツのそれ以前に出した小冊子、『ブーヘンヴァルトの真相は何か』を貸し出してきた。「キリスト者倫理を信仰している一ユダヤ人」として書き、ゴランツは、英国の新聞のブーヘンヴァルトの恐怖に対する彼らの反応を非難し、すべてのドイツ人に責任があるという主張は間違っている、と指摘した。さらに彼は「集団犯罪」概念全体を非難し、それが旧約聖書への逆戻りであり、キリストの出現はそれから人々を解放したはずであると主張した。
 ウィトゲンシュタインは、ドイツ人に対してヒューマンな態度を喚起するゴランツの主張に見られる、その強さと弱さの両方に強力に感銘を受けた。九月四日に彼はゴランツに『ニューズ・クロニクル』の彼の記事を称賛する手紙を書いた。彼は、「公的にしかも人目を引く場所で、悪魔の仕業を悪魔の仕業と呼んだ方の記事をみて嬉しかった」、と書いた。そしてブーヘンヴァルトの小冊子について、ゴランツに述べた。

私は日刊新聞とBBC放送の残忍性、卑しさ、通俗性についてのあなたの厳しい批評(それはいくら厳しくとも厳しすぎることはありえない)に深く共鳴しています。(映画のニュースフィルムは、たぶんよりいっそう有害だと思われます。)これらの諸悪に対するあなたの態度に深く共感しましたので、私には彼らに対するあなたの論駁が重要な批評と思われるとお伝えすべきだ、と考えました。

ゴランツは副次的な事項を粉飾することによって彼の批評のインパクトを弱めた、と彼は述べた。「その副次的な事項が、たとえ弱く、曖昧でなかったとしても、読者の注意をその主要な問題から引き離し、その論争を効果のないものにしています。」もしゴランツが「日刊新聞とラジオ放送の喧噪に優るように」耳を傾けてほしいなら、彼はその要点を十分に主張していたであろう。

もしあなたがほんとうに人々からその汚れを取り除こうと望むなら、生と幸福の価値についての哲学的問題を語ってはなりません。これは、どうかするともう学者のおしゃべりになってしまうようなことなのです。
 ブーヘンヴァルトの恐怖に対する人々の間違った態度を書くにあたって、すなわち、あなたは旧約および新約聖書についてあなたと意見を同じくする人たちだけを納得させようとされたのですか。たとえ彼らが納得したとしても、あなたの長い引用は肝心な一点から彼らの注意を外らすことになっています。もし彼らが納得しなければ──そしてあなたの議論を真に受けて揺り動かされるかもしれない膨大な数の人々は納得していません──、彼らはこの長談義がその全体の記事を駄目にしていると受け取ることでしょう。彼らがすすんで自分たちの以前の見解を捨てようとしない場合には、いっそうそのようになります。
 この辺りでもう止めるつもりです。──そしてもしあなたを批判せず、なぜ私が自分で記事を書かないのか、と尋ねられるのでしたら、私には慎しみがあり、効果的なジャーナリズム用の文章を書くに必要な知識、表現能力、そして時間に欠けるから、とお答えいたします。しかし実際にはあなたのような見識者、有能な人へこの種の批判を書くことは、私には拒絶されたもの、すなわち自分で優れた記事を書くということへのできる限りのアプローチなのです。

 この手紙は論争術についてのウィトゲンシュタインの健全な評価を示している。ゴランツに対する忠言の一般的な概要は、およそ一年後のラッシュ・リースへの手紙に繰り返されている。リースはある論文のなかで、カール・ポパーの『開かれた社会とその論敵』のギルバート・ライルの熱狂的な書評に対して、ライルを攻撃した。そこでポパーはプラトン、ヘーゲル、マルクスを全体主義の提唱者として同罪だと非難した。ウィトゲンシュタインはリースに論文の狙いには賛成だが、あまりジェスチャーが多すぎ、決定的な打撃を与えていない、と批判した。

論争、あるいは卵を投げる術は、きみがよく知っているように、たとえば、ボクシングのように高次の技術を要する仕事なのです。……私はライルに卵を投げるきみが好きになった──しかし顔を真正面に向け、卵を上手に投げることです! 難しいのは余計な音を立てたり、ジェスチャーをしないことです。そういうことをすると、他人ではなく、きみ自身が傷つくことになるのです。

しかしゴランツはウィトゲンシュタインの忠告を軽蔑し無関心な態度を取った。彼の返事(「L・ウィトゲンシュタイン殿」と宛名書きして)は、短く横柄であった。「お手紙有難う。それはたいへん立派に書かれていると確信いたしています。」ウィトゲンシュタインはこの拒絶を上機嫌で受け取った。「よろしい、これは面白い」、と彼は微笑みながらリースに話し、そしてゴランツの短信を暖炉に投げた。

ヨーロッパの将来に対する怖れと、そしてまもなく他の、もっと恐ろしくさえある戦争が起こるという確信にもかかわらず、ウィトゲンシュタインは、一九四五年の晩夏をスウォンジーで休暇を楽しんで過ごすことができた。あるいは、マルコムに言ったように、少なくとも「ケンブリッジを留守にしたことを楽しんで」過ごすことができた。
 「私の本は徐々に最終の形に近づいている」、と彼はその夏の終わりにマルコムに手紙を書いた。

……そしてもしきみがいい子で、ケンブリッジに来るなら、きみにそれを読ませてあげよう。それはきみを失望させるだろう。本当のところ、かなり鼻持ちならない。(私はもう一○○年かけても根本的に改善できるというわけではない。)でも、このことを気にはしていません。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインの専門哲学に対する敵意とケンブリッジ嫌いは、彼のアカデミックな生涯をとおして変わらなかった。しかし第二次世界大戦後の「ヨーロッパ再建」の数年間、それらは人間性の終焉という一種の終末論的見解と結びついていったようであった。一九四六年のイースター休暇のあいだ、彼はカール・ブリトンとの交際を新たに取り戻した。ブリトンは以前彼の学生であり、当時スウォンジー大学で哲学の講師をしていた。ある日の午後、海岸に沿って長い散歩の途中、ウィトゲンシュタインは、新しい戦争が計画されており、原子兵器がすべてのものの終焉となると確信するようになった、とブリトンに語った。「彼らはそうしようとしている。彼らはそれを意図している。」
 現代における科学の力に対する彼の嫌悪感が、この終末論的な憂慮とアカデミックな哲学に対する敵意を結びつけていたのであった。科学は、一方では哲学者の「一般性への渇望」を奨励したが、他方では原子爆弾を生み出した。好奇心をそそる言い方で、彼は原爆を歓迎さえした。つまりそうしたのは、原爆の恐怖が、科学の進歩に寄せた社会の崇拝をいくらか減らすことになるかもしれないということでしかなかった。ブリトンと会話をした頃、彼はつぎのようなことを書いた。

原爆に対して世論は、いまヒステリックな不安を抱いたり、あるいは表現したりしている。それは、ついにここで実に効果的に癒しのできるものが発明された、という印象を与える。少なくともその恐怖がほんとうに効果のある苦い薬品という印象を与えている。私は、もしここに何もよいものがなければ、ペリシテ人は叫び声を上げないであろう、と考えざるをえない。しかしたぶんこれもまた子供じみた考えなのだ。なぜなら、私が言えるのは、原爆に醜悪なもの、吐き気をもよおさせる石鹸液のような科学の終焉、破壊が期待できるということだけであるからである。そしてこのことはもちろんけっして不快な思いつきではないのだ。

 「世界の終末論的見解は」、と彼は書いた。「本来ものごとは繰り返さないということにある。」終焉はほんとうに来るのかもしれない。

科学と技術の時代は人類の終焉のはじまりであるということ、偉大なる進歩という理念が真理の究極の認識という理念と同様に妄想であるということ、科学的認識には何一つ善なるものがない、あるいは何一つ望ましいものがないということ、そして科学を追求する人類は罠に陥ると信じること、これらは馬鹿げたことなのか。そうではない、とはまったく言いきれないのだ。

いずれにしても、科学の進歩は終焉となろう。しかし彼にとって最もペシミスティックな見解は、科学と技術の勝利を予見した見解であった。

科学と産業、そしてそれらの進歩は今日の世界で最も持続したものかもしれない。科学と産業の崩壊を予測することは、現在も、これからも長いあいだにわたって、たんなる夢にすぎないということ、そしてその間科学と産業が果てしなく嘆きを引き起こし、世界を統一するということ、つまり思うに世界を一つにするであろうということ、そのときそこではもちろん平和が最もよそよそしい状態になっているであろう。なぜなら科学と産業こそ戦争を決定するからである。あるいは決定するように思われるからである。

 それゆえに、「この時代の暗闇」は、彼自身の仕事が一九三〇年代の初め以来それに反対してきた、その科学の誤った偶像崇拝に直接帰せられるのである。このようにして、彼の科学と産業の来るべき崩壊の「夢」は、彼の思考の型がより一般に受け入れられ、理解されるような時代の到来であった。それは彼がドゥルーリーに語ったこととつながっている。「私の思考の型はこの現代という時代では欲せられていない。私はそうした時流に逆らって力強く泳がなければならない。たぶん一〇〇年以内に人々は、私が書いていることをほんとうに欲することになろう。」それにもかかわらず、もし「人々」がそうしようとし、終末論的見解が馬鹿げた見解でないとすれば、そのときはけっして到来しないのかもしれない。彼の思考の型が欲せられるような時代はけっして存在しないであろう。

ウィトゲンシュタインの政治的予感が彼を左翼と接近させるにつれて、科学崇拝を最大悪だという彼の同定が彼にマルキシズムとの一定の距離をとらせることとなった。マックス・イーストマンの『マルキシズム──それは科学か』(それを彼はリースの本棚から手にした)を通読し、もしマルキシズムが革命を支持することにあるなら、それはよりいっそう科学的でなければならないというイーストマンの見解に対して、彼は所見を述べた。

実際、科学より保守的なものは何もない。科学は軌道を敷く。そして科学者たちにとって彼らの研究がそれらの軌道に沿ってなされることが重要なのである。

彼は英国国教会の自己満足を激しく嫌悪する点で共産主義と共感した。そして彼は何らかの種類の革命を理解しようとした。しかし彼はその革命が現代の科学的世界観(Weltanschauung)を奨励するのではなく、それを拒否することを望んだ。
 いずれにしても、彼が自分と党とを同一視できた範囲は、哲学者としての自分自身の見解──容赦のない真理への探究において自分がつくったどんな「お気に入りの概念」も敢えて捨てるような哲学者──に限定されていた。このときリースは、自分は(トロツキー主義)革命的共産党に入るべきだ、と考えていた。というのは、彼がウィトゲンシュタインに言っていたように、「私は現在の社会についての彼らの分析と批判の主要な点に関し、そして彼らの客観性に関して見解が一致していることをますます感じている」からであった。ウィトゲンシュタインは、同感であったが、忠実な党員の責務と哲学者の責務とは相容れないという理由から彼に入党しないように説いた。哲学をすることにおいて、きみはきみが向かっている方向を変える心構えがいつもできていなければならない。そしてもしきみが哲学者として思索しているなら、きみは共産主義の観念を他のものの観念とは異なったものとして取り扱うことはできない。
 皮肉にも、政治問題への関心が最も強力であり、左翼への共感がその極点にあったときに、彼は最大の敬意を払っていたマルキスト知識人と討論する機会を失った。一九四六年五月にピエロ・スラッファはもうウィトゲンシュタインと会話を交わしたくないと決意し、ウィトゲンシュタインが討議したいという問題には時間も配慮する余裕もないと言った。これはウィトゲンシュタインには大きな衝撃となった。彼は、たとえ哲学の主題から離れたことであっても、彼らの週ごとの会話を続けるようスラッファに申し出た。「どんなことでも話したい」、と彼はスラッファに話した。「分かった」、とスラッファは答えた。「だが、あなたが邪魔だ。」
 これが引き金となったのか、一九四六年の夏期間中、ウィトゲンシュタインは教授の席を辞任し、ケンブリッジを去ろうという思いを募らせた。彼が夏の休暇中スウォンジーに戻ったときに、ケンブリッジとアカデミックな哲学との両方に対する嫌悪はその頂点にあった。リースの留守のときに、カール・ブリトンがこの激烈な嫌悪と付き合わされてしまった。

七月のある日……ウィトゲンシュタインは私に電話して、友人がいないので、私に出てきてほしいと話した。しかし彼は、どうやらたいへん敵意をもっていたようであった。『マインド』誌がちょうど「治療的実証主義」に関する、二つの論文を掲載したところだった。そして(後で分かったのだが)それで彼は大いに悩み、混乱していた。また私が哲学者たちの年次大会であるマインド協会とアリストテレス協会の合同の会議に行くことでも怒っていた。彼は行くのは軽薄で、裏に利害関係がある証拠だと受け取った。彼は専門哲学者たちを罵り、英国における哲学の状況を嘆き、そして「ひとりの人間だけで何ができるのか」と尋ねた。つぎの年次大会が一九四七年にケンブリッジで開催され、私が発表する予定であると彼に話すと、彼は言った。「たいへんいいことだ、私にはそれは来年の夏にケンブリッジにベストが流行する、ときみが話しているようだ。それを知ってたいへんうれしい。私はきっとロンドンにいることになろう。」(彼は実際にそうした。)

 その日その後で、ウィトゲンシュタインはブリトンの家でお茶を飲んだ。彼はもっと快適な気分になって、スウォンジーが好きだと言った。(ロンドンとケンブリッジは嫌いだという対比において。)彼はブリトンにイングランドの北部も好きだと言って、ニューキャッスルでの出来事を語った。そのとき彼はある映画館に行くのにどこで降りるのか、とバスの車掌に聞いた。車掌はすぐにその映画館は悪い映画を上映しており、他の映画館へ行ったらいいと話した。このことから、バスのなかでウィトゲンシュタインはどの映画を観たらいいのか、またなぜ観るのかの議論に熱中した。彼はこの議論が気に入った。そしてそうした議論はオーストリアでよくある、とブリトンに話した。
 この最後の比較は彼の激烈な感情を示しており、そしてたぶん一部には彼が当時、崩壊し腐敗した英国文明と呼んだものを攻撃した、その激烈な感情を説明している。簡単に言えば、彼はウィーンを懐かしがっていたのであった。彼は「併合」前からウィーンに行ったことがなかった。そのとき以来オーストリアにいる彼の家族や友人たちとほとんど接触していなかった。
 教授であるのはそれだけで悪であった。そして英国の教授であることは、ついに耐えられないものとなった。
24 局面のアスペクト変化

 人間性の運命についてのウィトゲンシュタインのペシミズムは、第二次世界大戦を終結へともたらしたそのカタストロフィーが原因となっているのではない──これまでみてきたように、それには長い経緯が語られなければならないが、それらの出来事は、人類が災難に向かっていると長いあいだ信じられてきたことを彼にいっそう確固として信じさせたようであった。これまで用いられてきた殺戮機器、これまで目撃された技術力の恐るべき誇示──ドレスデンでの火炎爆弾、強制収容所でのガス炉、日本に投下された原子爆弾──は、「科学と産業が戦争を決定する」ということを強力にしかも決定的に確証したのであった。そしてこのことはさらに、人類の最後は精神に代わって機器を置き換えた結果であり、神から離反し、私たちの信頼を科学の〈進歩〉に置き換えた結果であるという彼の終末論的見解を、彼に確信させたように見えた。
 戦後の彼のノートには、こうした類の省察がいっぱいに書き込まれている。彼に押し付けられた像は、「セロハンで粗末に包まれ、そしてあらゆる偉大なものから、いわば神から孤立した」私たちの文明の像であった、と彼は書いている。家、車、そして他に私たちの周りの装飾物は、「人間をその根源から、高遠なもの、永遠なるものなどから引き離している」ものと彼には映じた。生命自身が、現代の産業時代の装飾物によって窒息させられ、終息していくかのようであった。そしてもちろんこの過程を指摘することで、それを変えると期待するのは不毛である。この道程はほんとうに必然なのか。人はこのように問うかもしれない。しかしその解答に、人類が「考え直しなさい、そんなことはない」という見込みはほとんどありそうもなかった。けれどもウィトゲンシュタインはすべての災難の根となっていると考えた思考方法を掘り起こす仕事を継続していった。そして彼の弟子たちに、彼の死後この仕事を持続できる人たちがいた。彼は学派を創設しようとか、その種の事柄はいっさい望まなかった。「私は」、と彼は書いた。「これらの問題すべてを余計なものにしてしまうような生き方の変更以上に他の人たちによって私の仕事が継続されることを望んでいるなどとは、まったく思っていない。」
 その問題は、理論的に解決されるのではけっしてなく、ただ実存的に解決されうるだけである。必要とされたのは、精神の変化であった。「知恵は冷たく、そしてその限りでは馬鹿げている。(それに対して信仰は一つの情熱である。)」ふたたび息吹を与えるためには、たんに正しく思考することでは役に立たない。つまり人は行為しなければならない──いわば、そのセロハンをはがし、その背後に生きている世界を示さなければならない。彼は「知恵は灰色だ」、と言っている。しかし生命と宗教は色彩豊かだ。宗教的信仰の情熱は、理論の死を克服できるただ一つのものであった。

よい教えはすべて役に立たないと、キリスト教はとりわけ言っているように思う。人はを変えなければならないであろう。(あるいは生の方向を。)
 あらゆる知恵は冷たいということ。鉄を冷たい状態では鍛えることができないように、知恵でもって生活に秩序をもたらすことはできないということ。
 つまりよい教えは人の心を捉える必要はない。医師の処方箋のように、よい教えに従うことはできる。しかしここでは何かに心が捉えられ、方向を変えなければならない。(つまり、このように私はそれを理解している。)方向を変えれば、そのときにはその方向をとり続けるのでなければならない。
 知恵は情熱に欠ける。それに対してキルケゴールは信仰を情熱と呼んでいる。

 ラッセルがずっと以前に間違って自分自身の理論的情熱とみなしていたのは、実は情熱拒否そのものであった。つまりウィトゲンシュタインの情熱は敬虔な理論的情熱と反するものであった。ウィトゲンシュタインは考えることを止めるための、その力として神秘主義を好んだ、というラッセルの後期の発言、そしてウィトゲンシュタインが真剣に思考をしなくていいような教説を採用したという嘲りは、もし〈真剣に思考すること〉を真なる理論を形成する企てと同じだととれば、実のところその発言によりいっそう近づいているのである。
 ウィトゲンシュタインの〈本源的な生、野外においてほとばしり出るような野生の生〉──たとえ彼自身が滅多にそのとおりの生活をしているとは思っていなかったとしても──の理想は、彼の仕事の目的と人生の方向の両方を理解する鍵である。彼は自分を非常に理論的で、非常に「賢い」と考える限り、死んだように感じていた。情熱への、宗教への欲求は、まさに彼の周りの世界において見られない何か、自分自身のなかに感じられた何かであった。彼は現代の特徴であるさまざまな欠陥に、まさしく自分が与っていると感じていた。そしてそれと同じだけの癒し、つまり愛と信仰の必要性を感じていた。そして現代がまさに神に信仰を見出すのが不可能だと感じているように、彼もまた祈ることができないことに気づいていた。「まるで私の膝が硬くなっているかのようだ。もし柔らかくなっていたら、私は熔けてしまう(私自身の溶解)のではないかという不安に駆られる。」
 愛においてもまた、彼は痛切な欲求を感じていたが、しばしば自分には愛することができないと考え、おびえていた。そしてもちろん愛が彼から失われることにもおびえ、愛がもたらすはかなさと愛の不確かさを非常に強く意識していた。一九四六年に──彼が結局まだ誰かを愛することができるのだ、ということが恐らく分かって、いくばくかの慰めとなったが──彼はベン・リチャーズと恋に陥った。リチャーズはケンブリッジの医学部の学生であった。リチャーズは、ウィトゲンシュタインの心を暖める性質といまでは人に認められるようなものをもっていた。彼はとくにおとなしく、少しばかり臆病で、恐らく従順でさえあった。それでいてたいへん親切で、思慮深く、分別があった。
 第二次世界大戦後、深い絶望感に陥っていたウィトゲンシュタインは、少なくともベンへの愛に何らかの慰めを見出したのであった──たとえ、時折、ベンへの愛がただ彼に他の何かの煩わしさを与えただけであったにせよ。「私はたいへん悲しい、たびたびたいへん悲しくなる」、と彼は一九四六年八月八日に書いた。「いま私の命がなくなるようにすら感じている。」

Bへの私の愛が私にとって役立っているのはただ一つ、つぎのことである。つまりその愛が私の立場と仕事に伴う他の些細な心配ごとを少なくさせているということである。

 恋していることの不安こそ、恐らく最も耐え難いことであったであろう。それにベンはたいへん若かった──ウィトゲンシュタインよりもおよそ四〇歳も若かった。「少年が幼児のとき何を考えていたのかを覚えていないと同じように」、ベンがすっかり成長してしまうと自分が彼を愛さなくなることも容易に想像できるではないか、と彼は八月十二日に書いた。こういうことで、数日後にベンからの手紙をいまかいまかと待っていたとき、ベンが彼を見捨てたのは、もっともなことで、ほんとうに自然なように思われてきた。それにもかかわらず、朝ごとにまたベンからの手紙を見つけなかったとき、それが彼には腑に落ちないことのように思われてくるのであった。「私はあたかもまだ分かっていないことがあるかのように感じ、あたかももっと明瞭に真相を見るための何らの境地を求めなければならないように感じるのだ。」
 愛する者からの手紙を待っているあいだにウィトゲンシュタインが感じた耐え難いばかりの苦悩についてのこれらの記述は、私たちに以前の懐かしい感情を呼び起こす。それはピンセントと同じものであり、スキナー、そしてカークとさえ同じものであった。けれどもベンへの彼の愛には、新しい特徴があった。それは過去のソリプシズムを断ち切ったことであった。八月十四日に、彼は書いた──あたかも彼にははじめての愛であるかのように。

他の人が何を悩んでいるのかを考えることが真の愛の印だ。というのは、彼も悩んでおり、彼もまた哀れな奴なのだからである。

 たぶんハエは最後にはハエ取り壺から出口を見つけたのであろう。そしてさらに、その外側の生が必ずしもよいものではないことを見出したことであろう。自分自身をその外の世界に晒すことは危険でさえあろう。「私の精神の健康は」、と八月十八日に彼は書いた。「細い糸の上に懸かっていると思う。」

これほど疲れきったのは、もちろんBを想い患っているからだ。それにもかかわらず、私がこんなに容易に燃え上がらなければ、「激しく燃え上が」らなければ、こうしたことにはならなかったであろうに。

以前なら人々は修道院へ入った、と彼は考えた。「人々は愚かだったのか、それとも無感覚だったのか──ところで、もしそうした人たちが、生き続けられるためにそのような手段を必要とすると気づいたなら、その問題は、それほど簡単ではありえない!」
 しかしもし愛が、それが人間のであれ神のであれ、その問題の解決であれば、愛は取り去られるものではない。愛は贈り物として与えられるのでなければならない。このように、彼に由来する構想を出版している他の哲学者たちに対する不安との闘いで、彼は、「もし光が高みから自分の書いたものを照らす場合に」限って自分の書いたものに価値があることを自分に言い聞かせていた。

そしてそのことが起こるとすれば、私の書いたものの成果が盗まれることをなぜ心配するのか。もし私が書いているものがほんとうに何かの価値があるなら、誰がどのようにしてその価値を盗むことができるのであろうか。そしてもし高みからの光がなければ、私はたんに才気があるだけにすぎないのだ。

そしてベンへの愛に関連して、彼は書いている。

「というのは、私たちの欲望は私たちが欲望するものでさえも隠してしまうからである。祝福はその独特の装い等をして高みからやってくる。」自分に対して私がBの愛を受け入れるときはいつも、そのように言う。というのは、私は愛が偉大で、希有な贈り物であることをよく知っているからだ。それが貴重な宝石であるということもよく知っている。──そしてまたそれは私が夢のなかで見たものではまったくないことも知っている。

 もちろんケンブリッジを出る他の理由もあった。九月三十日にスウォンジーから戻ってきたその日に、彼は書いた。

この場所のすべてに私は反発を感じる。人々の硬直さ、不自然さ、自己満足。大学の雰囲気は私に嘔吐をもよおさせるのだ。

 フォーエーカーに彼は手紙を書いた。「私に最も足りないのは、長々とナンセンスなことを私に話してくれる人間だ。」フォーエーカーは、彼がガイズ病院から付き合いを続けていたただひとりであった。一九四三年に、彼は結婚してまもなく、陸軍に入隊し、極東へ派遣された。彼は一九四七年二月まで帰国しなかった。彼のいないあいだ、ウィトゲンシュタインはたいへん淋しがり、異常なほど頻繁に彼に手紙を書き、「そのブラ〔blood の省略で、その語をナンセンスの手紙を書いたとき、好んで書いた〕……なんとか、スマトラか、ともかくきみがいる所はどこであれ、そこから帰国するように」、と彼にしきりに薦めた。これらの手紙はすべて残されているのではないが、長い月日──一九四六年八月から十二月まで──にわたって書かれた六通を含む、どの手紙にも、「きみに神の祝福あれ!」、という強調文で結ばれ、そして速やかに帰国を要請していることが書かれている。ここからもウィトゲンシュタインがフォーエーカーに抱いていた愛情は明らかである。
 これら六通のうち最初のものは、一九四六年八月の日付のもので、ウィトゲンシュタインがフォーエーカーのために摘み、極東の彼に送ったヒースのことを書いている。それにはヨーロッパの「悲惨な」状況が書かれており、「そんなわけで、きみが帰ってきても、素晴らしいものなどは何も見られないだろう。しかしそれにもかかわらず、きみがただちに帰ってくることを希望する。そうすれば私が花を摘んでスマトラに送るような、そんな煩わしいことをしないですむからだ!」と結んでいる。
 これらの語調の明るさと、ウィトゲンシュタインが楽しんだ〈ナンセンス〉の類のことが優位を占めている点で、これらの手紙はパティソンの手紙を思い起こさせる。ジョークとか滑稽な発言を含まないようなものはそれらの手紙にはほとんどない。

きみが定期的に手紙を手にできないのは残念だ。とくに私の手紙には内容がいっぱい詰まっている。紙、インク、空気のことだ。──蚊はきみがとてもいい奴だから、刺さないのではない──きみがほんとうにいい奴でないから刺さないのだ──、きみがとてもブラ……なんとかで、恐ろしいからだ。蚊が欲しいのはその血だ。──オランダ人がただちに食事の後を引き継ぎ、きみを送り返すことを希望する!
[一九四六年十月七日]

いったい全体きみは私の手紙をなぜ受け取らないのか、当惑させられる! 私の手紙がとても素晴らしいので、検閲官が記念品に取っておいている、とでも思っているのか。私はそんなことで驚いていない!──ところで、後生だから南スマトラと中央スマトラのきみの旅を終わりにして、帰ってこい。
[一九四六年十月二十一日]

私は学期の初めよりも現在のところ遥かに気分がいい。私はその頃は非常に惨めに感じ、奇妙な疲労の発作に襲われた。とうとう絶望して、ここケンブリッジの医者に診てもらいにいった。……そう、医師はあれこれと忠告し、最後にビタミンB剤をとるようにと言った。……そこで私はそれらが効くなどとはいささかも期待しないでビタミン剤をとった。非常に驚いたのは、それが効いたことだ。現在はちゃんと飲んでいる。それで疲労の発作は少しもしなくなった。実際、ビクミンBにすっかり潰かってしまえば、私はとても機知に富んで、あたりかまわずジョークが出てきて、止まらなくなるだろう。それは恐ろしいことではないか。
[一九四六年十一月九日]

 フォーエーカーとのこの種の単純で、込み入らない関係は、彼にはアカデミックな生活の外側でできた生のモデルであった。十月二十一日の手紙に彼は書いた。

私は毎日仕事を止めることを考えている、そして私の弟子たちとのもっと人間的な接触をできるような他の何かをしようと考えている。しかし私が何をするのかは神のみぞ知る! というのは、私はもうすでにかなりおいぼれになっているからだ。

その手紙は、「きみがあのブラ……なんとか、スマトラから戻ってくることを希望する」、という馴染みのリフレインで結んでいる。
 「私は教え続けるべきか」、と彼は、十一月の初めモラル・サイエンス・クラブの会合の後で、彼自身がそこでしたことの虚しさと愚かさにうんざりして、自問している。その「雰囲気は」、と彼は書いた。「実に不快」であった。
 これらの会合を彼が牛耳っていることに、ケンブリッジの他の哲学者たち(とくにブロードとラッセル)、それに多くの客員講師が不満を記している。十月二十六日に、それ以来有名になった激突が起こった。カール・ポパーが、そのクラブで「哲学的問題はあるのか」、という問題で講演をした。ポパーの選んだ主題、およびその話し方は、ウィトゲンシュタインを怒らせるように用意周到にもくろまれたものであった。(ボバーはウィトゲンシュタインが哲学的問題の存在を否定したと考えた。)そして実際彼を怒らせたのであった。正確にはどういう風にしたのかは伝説の霧のなかに消えてしまっている。ポパーとウィトゲンシュタインが、各々が火かき棒をもって殴り合いをしたというような物語が伝えられている。自叙伝のなかでポパーはそれに代えて他の話を入れ、この噂を打ち消したが、その話の詳細は、今度はそこに居合わせた何人かによってさまざまに語られている。ポパーに従えば、彼とウィトゲンシュタインは哲学的問題の存在および非存在に関して活発な意見を交わし、彼は道徳的規則の妥当性の問題を一例にあげた。その間ずっと火かき棒をいじっていたウィトゲンシュタインは、そのとき火かき棒をもって立ち上がり、道徳規則の一例を要求した。「火かき棒で客員講し師を脅かしてはならないということだ」、とボバーは答えた。それに対してウィトゲンシュタインは怒って部屋を飛びだした。ラッセルはその会合に出席していた。そして彼はボパーの意見に共感すると述べたとされている。この論争についての別な説明では、ウィトゲンシュタインがいらいらして怒って出るまで、ポパーとウィトゲンシュタインがお互いにその問題を混同していると相手を責めていたというのであり、ラッセルに関しては、ウィトゲンシュタインの後を追いかけて、「ウィトゲンシュタイン、きみがすべての混乱を引き起こしているのだ」、と言ったということである。
 どんなことが起こったにせよ、この時期にたいていの若いケンブリッジの哲学者たちから寄せられたウィトゲンシュタインに対する熱烈な忠誠は少しも揺るがなかった。ギルバート・ライルはたまたまモラル・サイエンス・クラブを訪れたとき、「ウィトゲンシュタインへの尊敬はあまりにも節制がなく、他のどの哲学者に関して言及しても、たとえば私が話しても南笑で迎えられた」ことに当惑したと書いている。

ウィトゲンシュタイン以外の思想に対するこうした軽蔑は、私には学生たちにとって教育的に不幸であり、ウィトゲンシュタイン自身にとって不健全であるように思われた。この経験は私に哲学的に数多くの言語を話すことはけっして必要ではないが、一か国語しか話せない人間にならないように決心させた。そしてまたたとえその者が天才で、友人であったとしても、ほとんどすべての人たちは一か国語しか話さない人間に影響を受けるのを避けるべきだ。

ウィトゲンシュタインは、「解釈的問題と哲学的問題を適切に区別したが、しかしまたつぎの点ではやや適切さに欠ける印象を与えた」、とライルは考えた。

……まず彼自身は他の哲学者たちを研究したことがないこと──研究はしたとしても、それほどのことをしなかった──を誇りにしていた。そして第二に、他の哲学者たちを研究した人々はアカデミックな哲学者たちであり、それゆえに、本物の哲学者たちではない、と彼は考えていた。

 ある程度までライルはここでオックスフォードの人間として書いている。(彼の批判は、オックスフォードの個人指導教師綱領の諸徳の奨励事項に載せられている。)しかし過去の偉大な作品を読むことに対するウィトゲンシュタインの態度について、彼が述べていることはまったく正しい。「私はほとんど哲学の本を読んでいない」、とウィトゲンシュタイでンは書いている。「私は確かにほとんど読まなかった、というよりもむしろあまり読まなかった。哲学の本を読んだときにはいつも、それが私の思考を少しも改善せずに、よりいっそう悪化させる、ということが分かった。」
 この態度はオックスフォードではまったく耐えられないものであった。そこでは過去に対する敬意は一般にはケンブリッジよりもいっそう強力であった。そしてオックスフォードでは哲学の訓練はその主題を取り扱った偉大な作品を読むことと切り離せなかった。アリストテレスの一言も読んだことがないと誇らしげに言う者は、オックスフォードでどんなチューターの責務をも与えられず、ただその学部の業務を管理することしか許されなかった。ウィトゲンシュタインの見地からすれば、オックスフォードは「哲学の砂漠」であった。
 彼がオックスフォードの哲学者たちを前に講演したと知られているのは、一九四七年五月で、ただ一度だけであった。そのとき彼はジャウエット協会の講演の招待を受け入れた。彼はその協会の見習い秘書、オスカー・ウッドによって提出されたデカルトの「コギト、エルゴ・スム(cogito, ergo sum)」に関する論文に答えることになっていた。その会合はマグダーレン・カレジで開かれ、いつもと違って出席者が多かった。ウッドの同期生メアリー・ウォーノックは彼女の日記に記している。「実際に私がこれまで会った哲学者たちがすべていた。」とりわけ著名な哲学者たちのなかには、ギルバート(ライル)、J・O・アームソン、アイザィア・バーリン、ジョゼフ・プリチャードが出席していた。ウッドの論文に対する応答において、ウィトゲンシュタインは、デカルトの論証が妥当かどうかという問題をまったく無視して、その代わりに提起された問題に関わるために、もっぱら自分の哲学的方法をもち込んで対応した。正統なオックスフォードの慣行によれば、これは歓迎できない新奇な振る舞いであった。ジョゼフ・プリチャードが質問に立った。

ウィトゲンシュタイン もしある人が空を見ながら、「私は雨が降ると考える。それゆえに私が存在する」、と私に言えば、私は彼の言っていることが分からない。
プリチャード それはとても素晴らしいことです。私たちが知りたいのは、コギトが妥当か否かということです。

 プリチャード──メアリー・ウォーノックの日記に従えば、「ひどく咳をした、たいへんな年寄りで、耳が遠い。およそのところ機転がきかない」──は、数度にわたって、「デカルトのコギトが妥当な推論かどうか」、という質問に答えさせようと努力してウィトゲンシュタインの話を遮った。彼がそうするたびに、ウィトゲンシュタインはその質問を避け、それは重要ではないと言った。デカルトが関心をもっていたことは、ウィトゲンシュタインがその夕べで話したことよりも遥かに重要である、とプリチャードが切り返した。メアリー・ウォーノックの言葉によれば、その後で、彼は「うんざりして、足を引きずって出ていった。」およそ一週間後に彼は亡くなった。
 その会合での大多数の感情は、プリチャードが耐え難いほど不作法に振る舞ったというのであったが、また彼の異議のの申し立てにある程度の同情もあった。そしてまたウィトゲンシュタインがウッドの論文に応答しなかったことで、不当な軽蔑をもってウッドを取り扱ったという感情もあった。哲学するさいに歴史に無関心で、実存的なウィトゲンシュタインの方法は、オックスフォードで培われた偉大な哲学者たちに敬意を払うという環境では、ただちに傲慢だと受け取られたのであった。
 ウッドの仲介として、この会にウィトゲンシュタインをオックスフォードに連れてきた間接の責任者は、エリザベス・アンスコムであった。アンスコムはオックスフォードのセント・ヒューズ・カレジの一学生であったが、一九四二年に大学院生としてケンブリッジに入った。そのときから彼女はウィトゲンシュタインの講義に出席し始めた。ウィトゲンシュタインが一九四四年に講義を再開したとき、彼女は彼の最も熱心な学生のひとりであった。彼女にとってウィトゲンシュタインの治療的方法は、多くの理論的方法でもって効き目がなかったところで効いた、哲学的混乱から彼女を解放する「薬」で、素晴らしい解放に思われた。「数年にわたって」、と彼女は書いている。「私は、たとえばコーヒー店で、いろいろな物をじっと見つめながら、〈私がポケットを見ている。しかし私は本当は何を見ているのであろうか。私は黄色の広がり以上の何かをここで見ている、とどうして言うことができるのであろうか〉などと自分に語りかけて過ごしたものでした。」

私はいつも現象主義を嫌っていた。そしてその罠にかかっていると思っていた。私はそこから抜け出す道を見つけることができなかったが、しかし現象主義を信じなかった。たとえば、ラッセルがそれは間違っていると気づいた事態について、それについてのさまざまな難点を指摘することはできなかった。その強さ、その中枢神経は生き生きとして、うずいて私を興奮させた。一九四四年のウィトゲンシュタインの教室においてはじめて、その神経が引き出されるのをみた、「私がこれを手に入れた、そこで私はこれを(たとえば)〈黄色〉だと定義する」、というその中心的思考が見事に攻撃されたのを私はみた。

 一九四六─七年に、サマーヴィル・カレジの特別研究生の資格を得て、彼女はふたたびオックスフォードに戻った。しかし彼女はもうひとりの学生、W・A・ハイジャブを伴ってウィトゲンシュタインとの個人指導の時間に出席するために、週に一度ケンブリッジへ通い続けた。ハイジャブとアンスコムのふたりの要望で、これらの個人指導の時間に宗教哲学の諸問題が取り扱われた。その年の終わりには彼女はウィトゲンシュタインの最も親しい友だちのひとりとなり、彼の最も信頼のおける学生のひとりとなった。彼は学問のある女性を嫌い、とくに女の哲学者を概して嫌っていたが、彼女はその唯一の例外となった。しかし事実上彼女は名誉男性となり、彼から親しみを込めて〈老人〉と呼ばれた。「私たちが女性から免れたことを神に感謝いたします!」、と彼はある講義のときに彼女に語った。これは誰も(他に)女子学生が出ていないことを見た、彼の喜びの表明であった。
 アンスコムは当時カフカの熱烈な賛美者であった。その感激を分かち与えようとして、彼女はウィトゲンシュタインにカフカの小説の何冊かを貸した。「この男は」、とウィトゲンシュタインは返却するさいに言った。「自分の苦労を書かずにたいへん苦労している。」その比較として、彼はワイニンガーの『四つの最後の事柄』『性と性格』を薦めた。ワイニンガーは、たとえどんなに欠点があるとしても、自分の苦労について実際に書いた人間である、と彼は言った。
 この直接性──すべての本質的でないもの、すべての見せかけを剥ぎ取り、「根こそぎにする」ことのこの決断──は、人を奮い立たせると同様に掻き乱すことにもなろう。アンスコムはそれに解放を見出したことでは稀な人間であった。アイアリス・マードックはウィトゲンシュタインの最後の連続講義に数回出席したのであったが、彼と彼の部屋の調度に「たいへん狼狽させるもの」を感じた。

彼の異常なまでの人づきあいの直接さと、どんなものであれ何一つ調度品がなかったことが、人々を狼狽させたのでした。たいていの人々にはある種の枠組みのなかで会うので、どのように話しかけるのか等についてはある慣習がありましたが、そこでは裸の人間の対決はありません。しかしウィトゲンシュタインは彼のあらゆる対人関係にこの対決を課してきました。私は彼に二度しか会っていませんし、彼をよく知ってもいません。それが恐らく人間として彼のことを怖れと驚きをもって、いつも私が考えた理由だと思います。

 ウィトゲンシュタインがこの時期に最大の敬意を払った学生は、ゲオルク・クライゼルであった。彼はもともとグラーツの出身で、一九四二年に数学の学生としてトリニティにやってきた。彼はウィトゲンシュタインが戦争中にした数学の哲学の講義に出席した。一九四四年に──当時クライゼルはまだわずか二十一歳であった──ウィトゲンシュタインは、クライゼルを数学者でもあり、彼がこれまでに会った最大の有能な哲学者である、と言ってリースを驚かせた。「ラムゼイよりも有能ですか」、とリースは尋ねた。「ラムゼイ?!」、とウィトゲンシュタインは答えた。「ラムゼイは数学者だった!」
 一九四六年と一九四七年の二年以上のあいだ、数学の哲学について書かなかったけれども、ウィトゲンシュタインはその主題についてクライゼルと定期的に議論した。いつもとは違って、これらの議論の進行はウィトゲンシュタインよりはむしろクライゼルによってなされた。数学に関するウィトゲンシュタインの見解が彼の死後出版されたとき、クライゼルはそれらの傾向に驚きを表明した。『数学の基礎に関する考察』を読んだ後で、彼がウィトゲンシュタインとした議論において提出された話題が「それを彼は私にまったく口にだして言わなかったけれども、彼の関心の中心からたいへん離れていた」ことが分かった、と彼は書いている。
 クライゼルとの議論に刺激され、ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジでの最後の年に、毎週の〈心理学の哲学〉の講義に〈数学の哲学〉の正規のゼミナールをつけ加えた。しかしクライゼルはふたりの議論をそのゼミナールよりも価値があったと回想している。ウィトゲンシュタインの公的な振る舞いには「緊張としばしば一貫性に欠ける」ことに気づいた、と彼は言っている。
 クライゼルは弟子になるような人物ではなかった。ケンブリッジを去った後で、彼はクルト・ゲーデルのところで学び、そしてウィトゲンシュタインの著作を数学的論理学の「癌として広がった」として攻撃した、その数学の領域で指導的な人物になった。「ウィトゲンシュタインの数学的論理学に関する見解はそれほど価値がない」、と彼は後に書いている。「なぜなら彼はほとんど何も知っていないし、そして彼の知っていたことはフレーゲ - ラッセルの所有物の範囲に限定されていたからである。」『青色本と茶色本』が出版されたとき、彼の見放しようはいっそう強力で、たぶんより刺のある言葉で表現されたのであった。「伝統的哲学の有意義な諸問題の入門書としては」、と彼は書評に書いた。「その本は嘆かわしい。」

これは大いに個人的な反応に基づいている。ウィトゲンシュタインの見解と以前に接触したことは、それ自身学問としての哲学に関する稔り豊かなバースペクティブを確立するように援助するどころかむしろ妨げた、と私は確信する。

 ウィトゲンシュタイン自身は、自分が学生たちに悪い影響を与えているとしばしば感じていた。「私が恐らく蒔いたただ一つの種と言えばわけのわからない言葉だ。」人々は彼のジェスチャーを真似、彼の表現を採り入れ、彼の技術を用いて哲学をも書いた──これらすべてのことは、彼の仕事の要点を理解せずになされているようであった。
 彼はこの要点を繰り返し明瞭にしようと努力した。彼の最後の一連の講義は、その目的を、つまり〈精神現象の科学〉としての心理学の概念が生じるその混乱を解決するという目的を、曖昧さのないように強調する言明から始めた。
25 アイルランド

〔…〕

ウィトゲンシュタインは健康を損ねて、望んでいたほど著述に専念できなくなった。一九四八年二月五日に、「体調はすこぶるいい」、とリースに言っているにもかかわらず、彼はに実際には消化不良の激しい痛みの発作で苦しんでいた。これとの闘いのために執筆しているときに、「脂肪のない羊の首の肉」の入った、黒灰色のビスケットの缶を傍らに置いていた。彼はこの療法にたいへん信頼をおいていたので、そのストックを補給するためにアルクロウまで頻繁に歩いていった。(キングストン家の子供たち、モードとケンは彼がそれ以外ほとんど何も食べていなかったことを記憶している。)しかしながら、ビスケットはその問題を解決するようにはみえなかった。「私の仕事は適度にうまくいっている」、と彼はマルコムに書いた。「そして消化不良気味でなければ、かなりうまくいけると思っているが、しかしそれをはねつけることはできそうもない。」
 いっそう悪いことに(しかしたぶん何らかのかたちで彼の消化不良に関わったのであろう)彼の神経状態が悪化していた。二月三日に彼は書いた。

不調だ。身体的にではなく、精神的にだ。狂気の発作を恐れている。神のみぞ私が危険にあるのかどうかを知っている。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインは一九三四年からコニマラにあるコテージ、ロスロを知っていた。そのときに彼はフランシス・スキナーとモーリス・ドゥルーリーを伴ってそこで休暇を過ごした。それはキラリー湾口で海に面したところに位置していた。その周りは、〈十二のピン〉として知られる、珍しい角型の頂きをした山々に囲まれていた。そのコテージは海岸に警備隊の駐屯所として建てられた。しかし第一次世界大戦後には使われなくなった。一九二〇年代の初めまでそれは使用されないままで、捕虜をかくまう場所としてIRA(アイルランド共和軍)が使用していただけであったが、一九二七年に、モーリス・ドゥルーリーの兄弟、マイルズが休暇用のコテージとして買った。近所に二、三のコテージがあったが、どの店も、郵便局や他のどの村や町の施設も、そこから何マイルも離れていた。ウィトゲンシュタインが予想していたように、それは「たいへん不便」であったけれども、この隔離は、彼が自分の仕事にとって必須だと考えた、邪魔のされない自由を享受するのに必要であった。
 そこに到着すると、トーマス・マルケリンズ(「トミー」とウィトゲンシュタインは、キラリーの人たちが皆呼んでいるように、彼を呼ぶようになった)の出迎えを受けた。彼はドゥルーリー家の雇い人で、ロスロから約半マイル離れた小さなコテージに住んでおり、ドゥルーリーの休暇の家を管理するのに、週三ポンドもらっていた。(彼はピート(泥炭)を集め、サバを獲ってこの些細な賃金の足しにした。)トミーは、ドゥルーリーからウィトゲンシュタインが神経症になっていると聞かされ、できることならどんなことでも助けるように言われていた。そういうことで毎朝彼はロスロまで歩いて、牛乳とピートを配達し、そしてウィトゲンシュタインが大丈夫かどうかをチェックした。ウィトゲンシュタインは、彼のことを(彼はそのことをマルコムに書いた)、「まったくいい男で、私がウィックロウ州で一緒にいた人たちよりもずっとましなことは確かです」、というように受け取った。
 後にリースとの会話では、彼はいっそう批判的になり、マルケリンズの家族の者全員を何をするにしても悪意をもっている人たちだと述べている。トミーの母親は優れた裁縫師であったけれども、ぼろぼろの服を着ていたこと、トミーの方は有能な大工であったが、コテージのどの椅子も足が壊れていたことにショックを受けた。彼の日記には、トミー──「私がここで全面的に頼りにしている男」──はまったく「頼りにならない」、と記されている。
 頼りにならないのかどうかは別にして、ここで彼が頼りにできるのはトミーしかいなかった。すぐ隣のモーティマー一家は彼を完全に気違いとみなし、彼といっさい関わらなかった。彼らは自分たちの羊を驚かすからと言って、彼に彼らの土地のなかを歩くことさえ禁じた。それゆえに、彼がロスロの裏手の丘へ散歩しようとする場合には、道路沿いに長い回り道をしなければならなかった。こうした散歩の途中で、ある日モーティマーの家族の者が、彼が突然立ち止まり、そして彼の散歩杖で路上の地面に絵図(アヒル - ウサギ?)を描いて、その絵を長いあいだすっかり没頭してじっと見つめたまま立って、その後でようやく歩き出すのを見かけた。このことが彼らの気違いだというもともとの評価を確認することとなった。このような関係にあって、またもウィトゲンシュタインの怒りが、モーティマー家の犬の吠え声が彼の集中力をかき乱したある夜、ついに爆発した。彼は、以前オーストリアの田舎の村人たちの前に現われたのとまったく同じ仕方でモーティマー家の前に現われた。
 トミーもまたウィトゲンシュタインが少しばかりおかしいと考えていた。しかし一つには、ドゥルーリー家への彼の忠義心(マイルズ・ドゥルーリーはかつてボートから飛び込んで、トミーが溺れているのを救助した)によっていたし、もう一つには〈教授〉の供をするのが楽しくなったからで、彼はウィトゲンシュタインのロスロでの滞在をできるだけ心地よく、楽しくさせるために、できる限りのことをするつもりでいた。たとえば、彼はウィトゲンシュタインの清潔と衛生に関する厳密な基準を満たすのに最善を尽くした。ウィトゲンシュタインの提案で、彼は毎朝、牛乳とビートだけではなく、自分の使った出がらのお茶の葉ももってきた。毎朝その葉は台所の床の汚れを吸い取るために撒かれ、その後で掃き集められた。トミーはまた〈スレター〉(ワラジムシ)をコテージから退治するために呼ばれた。これを彼は致死量の殺虫剤をコテージ全体に撒いて退治した。生涯をとおしてどんな虫類も大嫌いだったウィトゲンシュタインはその結果に満足した。ワラジムシを見ることよりも窒息死の怖れの方がまだよかったのであった。
 ロスロ・コテージには二つの部屋があり、一つは寝室で、もう一つは台所であった。ウィトゲンシュタインが過ごしたのはたいてい台所であった。ロスロにいるあいだ、彼はゴールウェーにある食品店で注文した缶詰の食品でほとんど全部賄っていた。トミーはこの食事法を気にした。「缶詰の食べ物ではお前さんは死んでしまう」、と彼はかつて言った。「人々はとにかくあまり長く生きすぎる」、という荒々しい返事がかえってきた。ウィトゲンシュタインは台所を書斎の代わりに用いていた。そしてトミーは朝やってきたとき、しばしば台所の食卓のところに座り、紙挟みで綴じたルーズ用紙に書いているウィトゲンシュタインを見かけた。ほとんど毎日書き損じた用紙の山がたまり、それを焼くのがトミーの仕事だった。
 ある朝トミーがロスロに着いたとき、彼はウィトゲンシュタインの声を聞いた。彼がコテージに入るや否や、〈教授〉がひとりなのに驚いた。「私はお前さんに連れがいると思ったよ」、と彼は言った。「そうなのだ」、とウィトゲンシュタインは答えた。「私はとても親しい友人と話していたのだよ──自分自身とね。」この発言はこの時期のノートの一つにも繰り返されている。

ほとんどすべての私の書き物は自分自身との個人的な対話だ。私が自分自身に差し向かいで言ったことだ。

 彼がトミーと過ごした時間の他に、ロスロでのウィトゲンシュタインの孤独は、ベン・リチャーズの短期間の訪問でただ一度中断された。彼は一九四八年の夏に二週間そこで過ごした。彼らは一緒にウィトゲンシュタインのお気に入りの丘登りの散歩と海岸線沿いの散歩をし、その地域の変わった植物群や動物群の素晴らしさに驚嘆した。
 ウィトゲンシュタインは、キラリーに見かけられる色んな種類の鳥類に特別な関心を示した。(北方の水鳥たち、鵜 、ダイシャクシギ、ミヤコドリ、ヒメツメドリ、アジサシはすべて西部アイルランド辺りの海岸沿いにかなりよく見かけられる。)彼は最初の頃よくトミーに鳥の見分けを頼んだ。彼は自分が見た鳥を記録し、トミーは、「私が彼に教えたのは必ずしも正しい名前ではなかったかもしれない」、とはっきりと認めてはいるが、鳥の名前を教えるのに全力を尽くした。彼が嘘を言っているのを数度見破ると、ウィトゲンシュタインはこんどはドゥルーリーから送られた図鑑を頼りにするようになった。
 海鳥をよく観察できるように、ウィトゲンシュタインはキラリー海岸の小さな離れ島の一つに小屋を立てようとした。結局、小さな木造の小屋は、その島を襲う波にもちこたえるほど頑丈ではないという理由で、立てない方がいいとトミーに説得された。(小屋を作ることが彼の仕事になっていたのだったが。)その代わりに、トミーはウィトゲンシュタインを漕ぎ船に乗せた。彼が漕いでいるあいだ、ウィトゲンシュタインは海鳥を見張るか、あるいは黙って座って瞑想に耽った。時折、ボートで出かけているあいだ彼らはくつろいで話をし、ウィトゲンシュタインはノルウェイで過ごした日々のこと、たとえば自分の生活必需品を補給するために、フィヨルドをボートを漕いで横切っていかなければならなかったことを話した。またトミーはキラリーの歴史について、ウィトゲンシュタインの質問に答えたりもした。
 ウィトゲンシュタインはまた多くの飼鳥、駒鳥、ズアオアトリにも関心をもった。それらの鳥たちはパン屑を求めてコテージによく来ていた。彼は食べ物を出しておいて小鳥たちを歓迎した。とうとう小鳥たちは馴れて、台所の窓辺の彼のところにやってくるようになり、彼の手から撒かれた餌を食べるようになった。ロスロを去るときに、彼はトミーにいくらかのお金を与え、それで毎日の食べ物を期待してやってくる小鳥たちに与える食べ物を買うようにと頼んでおいた。しかしトミーがつぎにそのコテージを訪れたときには、飼い馴らされていたことがかえって小鳥たちの命取りになったことが分かった。食べ物を求めて窓辺で待っているあいだに、小鳥たちは簡単にその辺りのネコの餌食になってしまったのであった。

ロスロで生活することは、努力のいることであったけれども、ウィトゲンシュタインの精神的ならびに肉体的な健康の改善に必要な条件を与えたようであった。すでに見てきたように、彼はそこにみすぼらしい姿で到着した。「私は最近ひどい状態であった。魂、精神および身体ともに」、と彼は四月三十日に到着して二、三日後にマルコムへ書いた。「何週間も極度の抑鬱状態になり、それから病気になり、いまは弱って、完全にうっとうしい状態である。私は五、六週間何も仕事をしていない。」しかし一か月以内に、コテージの孤独、海岸の風景の美しさ、小鳥の仲間、トミー・マルケリンズの陽気な(全面的には頼りにならないとしても)支えは快方へ向かう効果をもたらした。ウィトゲンシュタインはもう一度仕事ができると感じたのであった。
 そこでの生活で彼の最大の不満は、自分の家事仕事一切を自分でしなければならないことであった。これは彼には腹立たしい厄介なことだった。しかし彼はマルコムの妻、リーに「それは疑いもなく大いなる祝福でもあるのです。といいますのは、それが私を正気に止めおくからです。家事のために私は規則的な生活をせざるをえず、自分では、それを毎日忌々しいと思っていますが、大局的に言って自分にはいいことだからです」、と書いている。
 ロスロが遠いことで問題だったのは、アメリカの推理小説に不自由するというだけのことであった。いちばん近い村でも一○マイルは離れており、そこにある本の数は非常に少なかったので、ノーマン・マルコムから定期的に送られる〈雑誌〉の小包が来るまで、ウィトゲンシュタインはドロシー・セイアズを読むのによく出かけた。これは、「とても……ひどいものでうんざりした」、と彼はマルコムに話した。マルコムの〈本物〉の補給は救済となった。「きみの雑誌の一つを開いたときに、私は風通しの悪い部屋から外の新鮮な空気に触れたような感じがした。」
 しかし彼は偶然に彼のお気に入りの推理小説、ノーバート・デイヴィスの『恐怖の会合』のペーパーバックス版の本を村の店で首尾よく見つけた。彼はデイヴィスの本をケンブリッジの最後の年に読み、非常に面白かったので、それをムーアとスマイシーズのふたりに貸した。(彼は後で一冊をベン・リチャーズにもあげた。)それをふたたび見ると、彼はそれを買い再読する誘惑に打ち勝つことができなかった。もう一度読んでしまうと、デイヴィスへの関心はさらに増大さえしていった。「というのは、きみが承知のように」、と彼はマルコムへ書いた。「私を楽しませて、好きで読んだ本は何百冊もあったが、私が素敵だと呼べるものを読んだのは二冊だけで、デイヴィスのはその一つです。」彼はマルコムにデイヴィスのものをもっと探すようにと頼んだ。

こんなことをするのは気違いのように見えるかもしれない。しかし私は最近彼の小説を再読し、ふたたびとても気に入ったので、作家に手紙を書き、感謝したいと本気で考えた。もしこれが馬鹿げたことだとしても驚いてはいけない。私がそうなのだから。

 不運にもマルコムは報告している。「私が記憶している限りで、私はこの作家について何らかの情報を得ることはできませんでしか。」これは残念なことである。一九四八年頃にはノーバート・デイヴィスは、実際には痛ましいほど落ちぶれていたからだった。彼は、ダシール・ハメットや他の黒人作家たちと一緒で、アメリカの〈ハードボイルド〉推理作家のパイオニアのひとりであった。三〇年代の初めに、彼は推理小説を書くために弁護士職を捨て、その後一〇年間作家として成功を収めた。しかし四〇年代の後半には彼は不遇であった。ウィトゲンシュタインがマルコムに手紙を書いた後まもなく、デイヴィスはレイモンド・チャンドラーに、彼の最近の一五の作品のうち一四が出版を拒否されたので、チャンドラーに二○○ドル貸してほしい旨の手紙を書いた。その著者に感謝の手紙を書こうとしたほどウィトゲンシュタインの好きな本を書いたという希有な(たぶん独特な)栄誉にも気づくことなく、翌年にデイヴィスは貧困のどん底のうちに亡くなった。
 ウィトゲンシュタインの感謝の念は、一部には疑いなくコニマラでは推理小説が欠乏していたことにある。しかしなぜ彼がそれまで(数多くあったなかで)読んだ他の推理小説よりも優ると『恐怖の会合』を評価したのであろうか。
 その答えは、恐らくその小説のユーモアにあるのであろう。それがその小説の際立った特徴である。物語の主人公の探偵ドーンは、サム・スペードやフィリップ・マーロウのような人物とは違い、かなり戯画化されていて、無愛想な風態をしている。彼は背が低く、肥っていて、カーステアズと呼ばれるよく訓練された、馬鹿でかい猟犬をどこへ行くにも連れていっている。とくにレイモンド・チャンドラーに影響を与えたデイヴィスのスタイルの特徴は、彼が自分の登場人物たちを目茶苦茶にしてしまう行き当たりばったりの方法にあった。これはとくに『恐怖の会合』ではっきりとあらわれている。たとえば、南アメリカのあるホテル・アステカの旅行客たちを記述するシーンを設定した後に、デイヴィスは「ガルシア」をつぎのように紹介している。

このことすべては、さしあたってガルシアと呼ばれる男には、たいへん退屈なことであった。彼は座って、普通の色をした、生温い酢のようなビールを飲んで、しかめ面をした。彼は細長くて、黄色っぽい顔をし、だらだらと伸びた黒い口髭をはやしていた。そして斜視であった。彼はホテル・アステカから出てくる旅行客たちに実はもっと関心を向けているべきだった。まもなく、彼らのひとりが彼を銃殺しようとしていたからだ。しかし彼にはそれが分からなかった。そしてもし諸君が彼にそのことを話したら、彼は笑いとばしてしまうことであろう。彼は悪人だった。

ドーンがもうひとりの「悪人」、バアウティステー・ボノファイルを射ったとき、恋に生きる純情なヒロイン、ジェーンは心配して尋ねる。「彼はけがをしたの」、「いやちっとも、彼とドーンは言う。「死んだだけだ。」

〔…〕

 哲学についてのウィトゲンシュタインの見解──「すべてのことをありのままにしておく」という見解は、しばしば引用されている。しかし何も変化を求めていないが、私たちが事態を見る方法の変化を求めている点で、ウィトゲンシュタインがすべてを変化させることを企てていた、ということはあまり気づかれていない。彼の仕事の効果に関するペシミズムは、事態を見る私たちの方法が、私たちの哲学的信念によってではなく、私たちの文化、私たちが育てられた方法によって決定される、という彼の確信に関係づけられる。この事実に直面して、彼がかつてカール・ブリトンに言ったように、「ひとりの人間が自分だけで何ができるのか。」

伝統は、人が学ぶことのできるものではない。伝統は人が気に入ったときに取り出すような糸ではない。自分たちの祖先を選ぶことができる可能性と同様に、伝統を選ぶ可能性はすくない。
 伝統をもっていないが、もちたいと思っている者は、不幸にも果たせない恋をしている者のようだ。

ウィトゲンシュタインは伝統をもっていた──彼が親しく愛した伝統、つまり、ドイツ/オーストリアの文学、芸術、そして(とくに)十九世紀の音楽であった。しかし彼は、人生の大部分をとおして、この伝統がもはや生きていないことを鋭く意識していた。この意味において、彼は親しい人に死なれ、うちひしがれていたし、不幸にも恋も果たせないでいた。彼が仕事をするのに必要と感じていたコニマラでの物理的な孤立は、そこに滲み込んでいる文化的孤立感との葛藤を呼び起こしていたのだった。

〔…〕

 彼は八月にコニマラを去り、そしてまずダブリンへと旅をし、ドゥルーリーを訪ねた。それからアクスブリッジへと旅をし、ベンの家族の家でベンと一緒に滞在した。九月にはウィーンへ向かい、ヘルミーネを訪ねた。彼女は癌で重態であった。
 ケンブリッジに戻ってきて、彼はそこで二週間過ごし、アイルランドで書いたものをまとめ、タイプ原稿を口述した。これが現在『心理学の哲学に関する考察』第二巻として出版されている。しかしその第一巻と同じく、それは独立した著作として考えられておらず、その意図とした──あるいは、たぶん表向きの目的は、『探究』の改訂版に用いるための一連の覚え書きを利用しやすいようにすることであった。十月十六日にはその仕事は完成した。それからウィトゲンシュタインはダブリンへ戻った。最初はロスロへ行くつもりだった。ウィーンから彼はトミーへ手紙を書き、戻ったらそのコテージを貸してくれるように求めた。しかしすでに見てきたように、彼は戻ることにたいへんな不安を感じていた。そしてドゥルーリーもまた、ウィトゲンシュタインの医師として、もし彼が病気になり、世話をしてくれる者も、医療を施すこともできないような所で冬を過ごすことを心配した。さらに、ウィトゲンシュタインは、滞在していたダブリンのホテルの最上階の暖かい、心地よい、とりわけ静かな部屋に泊まって、まったく快調に仕事ができることに気づいた。それゆえ、結局彼はロス・ホテルに客としてその冬を過ごした。

一九四八年にはロス・ホテルは大きかったが、とくに豪華なホテルではなかった。それはフェニックス公園のすぐ近くのパークゲート通りにあった。(いまなおあるが、現在では大規模に改築され、アシュリング・ホテルと改名されている。)それは〈プロテスタント〉ホテルとしてその地方では知られていた。常連の客の多くはプロテスタントであった。プロテスタントの牧師たちが会議や会合でダブリンに来たときに、そのホテルを利用していたからであった。「私がここダブリンで牧師たちの顔を見ると」、とウィトゲンシュタインはドゥルーリーに話した。「プロテスタントの牧師たちはローマ教会の司祭たちよりも気取りがないようにみえる。それは彼らが自分たちがごく少数派であることを知っているからだと思う。」
 しかし彼にとっていっそう重要なことは、ホテルがフェニックス公園にある動物園から徒歩ですぐのところにあったことだった。ドゥルーリーをとおして彼は王立動物学会の会員となった。会員には動物園に自由に入ることと会員室で食事をする権利があった。ダブリンにいるあいだ、彼はほとんど毎日ドゥルーリーに会った。彼らは、動物園の会員室か、またはグラフトン通りにあるビューリー・コーヒー店で昼食をとったものだった。そこではウェイトレスがすぐにウィトゲンシュタインの注文が同じであるのを覚えて、彼が注文しなくともオムレツとコーヒーをもってくるようになった。ドゥルーリーはまたグラスネービンにある植物園に彼を案内した。そこのヤシの樹の温室が冬のあいだ仕事をするのに暖かく、快適な場所となった。
 ダブリンでの冬の数か月間、ウィトゲンシュタインはたいへん熱を入れて仕事をした。「私の脳裏に太陽が輝いている束の間に乾草をつくろうという思いに駆られている」、と彼は十一月六日にマルコムに手紙を書いた。あるとき、彼とドゥルーリーは一緒に昼食をとることになっていた。ドゥルーリーがホテルにつくと、「これを終わらせるまで、ちょっと待ってくれ」、と言われた。それからウィトゲンシュタインは一言も話さず二時間も書き続けた。ようやく書き終えたときには、彼は昼食時間がとっくに過ぎていたことをすっかり忘れていたようであった。
 ダブリンで彼が書いた著述は、『心理学の哲学に関する最後の手稿』という表題で出版されている。その表題がウィトゲンシュタインの最後の著述だという誤解を多くの人たちに与えている。しかし実際は違っている。それは、たとえば『哲学探究』の第二部、『確実性の問題』、『色に関する考察』を含んでいる。しかしそれは一九四六年にケンブリッジで始めた一連の草稿版の最後のものであり、そこで彼は、『探究』の第一部に示したものよりも、心理学的概念についてより優れた、より明快な分析を与えようと企てている。それは〈哲学者の一般性への探究〉の不毛さと混乱を暴露するような仕方で、(〈恐怖〉〈希望〉〈信念〉など)の心理学的概念の多様さと複雑さを示そうとする彼の一連のさまざまな企ての延長である。この著述は、文体にきめ細かな配慮がされ、とりわけ直接法におけるすべての文が記述とみなされうる、という想定される危険性を示すことが企てられている。

「私は恐れている」という言葉を私は聞く。「どんなつながりにおいて、きみはそのように言ったのか。それはきみの心の底からの嘆息だったのか。それは一つの告白だったのか。それは自己観察だったのか……」、と私は尋ねる。

 あるときフェニックス公園で散歩をしながら、ドゥルーリーはヘーゲルに触れた。「ヘーゲルは異なって見えるものが実は同じものである、といつも言おうとしていたようだ」、とウィトゲンシュタインは彼に語った。「それに対して私の関心は、同じに見えるものが実は異なっていると示すことにある。彼は『リア王』(第一幕第四場)から、私はきみたちにさまざまな相違を教えよう、というケント伯爵の言葉を彼の本のモットーに用いようと考えていた。
 彼の関心は、生命の単純化できない多様性を強調することにあった。彼が動物園の散歩から得た楽しみは、称讃の念をもって数知れない多様な花、灌木、樹と、そして多数の異なった鳥類、爬虫類、動物たちに大いに触れたことであった。この多様なもののすべてに単一の分類法を課すことを企てる理論は、予想されたとおり彼には忌々しいものであった。進化論は「必要な多様性を示していない」ので、ダーウィンは間違っているに違いないというのであった。
 ウィトゲンシュタインがそれらの「最後の手稿」においてとくに関心をもっていた概念は、〈考えること〉と〈見ること〉の概念であった。より詳細に言えば、彼の関心はその二つの関係にあった。彼の後期のすべての著述の中心となる重要な考え方は、一種の考えること(あるいは、少なくとも一種の理解すること)が一種の見ることでもありうるというものであった。つまり二つのあいだのつながりを見ることであった。あるアスペクトを、あるいは一つのゲシュタルトを見ることと同じ意味で、私たちはあるつながりを見ているというのである。この意味での〈見る〉ことと物理的対象として見ることを区別すること、そしてこの意味での〈見る〉ことと〈考えること〉と〈理解すること〉とのあいだのつながりと相違を記述することは、ロス・ホテルで書かれた著述の中心的課題である。
 「さて、あるものをあるものとして見ているさいに伴われているものは何かを確かめて、言ってごらん」、とウィトゲンシュタインはドゥルーリーを挑発した。「それは容易なことではない。私が現在携わっているこれらの思考は御影石のように固いのだ。」返答に、ドゥルーリーはジェームズ・ウォードの「考えることは難しい(Denken ist schwer)」、という言葉を引用した。その返答が恐らくつぎのようなことをノートへ記す刺激となった。

「考えることは難しい」(ウォード)これはいったいどういうことなのか。なぜ考えることは難しいのか。──それはあたのかも「見ることは難しい」、と言っているのとほとんど同じことだ。なぜなら、緊張して見ることは難しいからだ。そして緊張して見ても、何も見えなかったり、あるいは繰り返し見ていると思っていても、明瞭に見えないこともあるのだ。たとえ何も見えない場合でさえも、見ることに疲れてしまうことだってあるのだ。

同じ日にウィトゲンシュタインはドゥルーリーに語った。「音楽が私の人生に占めている意味のすべてを私の本に一言で述べることは、私にはできない。それではどうしたら私は理解されることを期待できるのか。」しかしながら、当時彼が書いていた本には、このことを強力に暗示させる箇所がある。というのは、〈見ること〉(あるいは〈聞くこと〉)に注意を払うことにおいて、私たちがあることを理解する、その行為において、音楽の範例は、彼の考えていることとけっしてかけ離れてはいないからである。

私たちは、〈画家の目〉をもっている、とか〈音楽家の耳〉をもっていると言う。しかし、それをもたない者、つまりそれらが欠けている者が、一種の盲目とか聾で苦しむといったことはほとんどない。

私たちは、ある人が〈音楽的耳〉をもっていないと言う。しかし〈アスペクト盲〉は、(ある意味で)この種の聴くことができないことと比較されうる。

音楽を理解することの例が彼にとって重要なのは、彼自身の生活において音楽が計り知れないほど重要であっただけではなく、音楽の作品の意味は音楽が〈指し示す〉ものを名づけることによっては記述されないことが明瞭であるからでもあった。そしてこのようにして、「文を理解することは、人が考えることよりも音楽のテーマを理解することにずっと近いのである。」
 「もし将来きみが、現在私が書いていることを読めればいいと思っている」、とウィトゲンシュタインはドゥルーリーに話した。しかしセント・パトリックス病院でドゥルーリーの仕事があったことと、ウィトゲンシュタインが関わっていた特殊な哲学的諸問題に比較的にドゥルーリーが馴染み薄であったため、ウィトゲンシュタインは自分の著述を詳細に論じるまでにならなかった。実際に、ドゥルーリーは、ふたりで哲学は論じない、とウィトゲンシュタインがはっきり口にしたことを記憶している。「彼自身の思考が私の思考よりも遥かに進んでいたので、私を圧倒し、私が彼の中途半端な影響を受けることにしかならない危険がある、と彼は考えていたのだと思う。」「またウィトゲンシュタインは、十一月に一、の二週間ロス・ホテルに一緒に滞在するためにやってきたベンとも、当時やっていた自分の著作を一緒に読まなかった。」

〔…〕

 ドゥルーリーとの会話は、宗教的主題へと向かい、その頻度が増していった。彼は、ドゥルーリーの〈ギリシア的〉宗教的観念と彼自身の思想とを対比させた。彼自身の思想は、「一〇〇パーセント、ヘブライ的だ」、と彼は語った。ドゥルーリーはあらゆるものの最終的な復活に関するオリゲネスの見解、つまりサタンと堕落した天使でさえも彼らの以前の栄光を取り戻す、という見解を賞賛し、異教徒としてその責めを負うことになったのは残念だと語った。「もちろん、それは拒絶されたのだ」、とウィトゲンシュタインは主張した。

それは他のすべてのものをナンセンスにしている。もし私たちが現在しているものが究極に何の相違もなくなるとすれば、そのとき生の重要なことすべてが取り除かれる。

 ウィトゲンシュタインの宗教に関する〈ヘブライ的〉概念は、ドゥルーリーの示唆によれば、バイブルをとおして感じられる怖れの感情に基づけられる。このことの例証に彼はマラキ書から引用した。「主の来る日には誰が耐えられることができようか。彼があらわれるときには、誰が耐えるであろうか。」(「マラキ書」三・二)これを聞いてウィトゲンシュタインは立ち止まった。「きみはいまたいへん重要なことを言ったのだと思う。きみが気づいているよりもずっと重要なことだ。」
 宗教に関する〈ヘブライ的〉概念の中心問題は、(彼の好きな英国の詩人、ブレークのように)哲学と宗教との厳密な分離であった。「もしキリスト教が真理であれば、そのときそれについて書かれたあらゆる哲学は間違っている。」ドゥルーリーとの会話で、彼は、より哲学的なヨハネの福音書を他の福音書と明確に区別した。「私は第四福音書〔ヨハネ〕を理解できない。それらの長い説話を読むと、私にはそれがまるで共観福音書〔マタイ、マルコ、ルカの三福音書の総称〕とは違った人間が語っているように思われる。」
 しかし、聖パウロについてはどうか。一九三七年に彼は書いている。「福音書において穏やかで澄んだ水が湧いている泉は、パウロの書簡では泡立っているように思われる。」彼はその後で福音書の慎しみ深さと対比して、聖パウロのなかに「誇りとか怒りといったもの」を見ていた。福音書には小屋がある。パウロには教会がある。「あらゆる人間が平等で、神自身がひとりの人間だ。パウロにはもうすでにある種のヒエラルキー、位階、職階というものがある。」しかし彼は、いま自分が間違っていたことが分かったとドゥルーリーに話した。「福音書もパウロの書簡も共に同一の宗教なのだ。」
 それにもかかわらず、彼の宗教的信仰に関する基本的に倫理的な概念のなかで、彼は依然としてパウロの予定説の教義を受け入れ難い、と考えていた。というのは、オリゲネスの教義のように、「私たちが現在していることは、究極において違いをなくすることにある」、という結果になってしまうようであるからである。そしてもしそのとおりであれば、生の重要さはどのように確認されるのであろうか。
 一九三七年にウィトゲンシュタインはパウロの教義を最も恐ろしい災難からだけ生じたものとして特徴づけた。「それ(予定説)は、理論というよりも、むしろ嘆息、あるいは叫びである。」彼自身の「信心深さにおいて」は、予定説は「非宗教性そのものであり、卑しいナンセンス」なものとしてのみ現われるのであろう。

もしそれが、優れて、神的な像であれば、そのときそれは、私に適用されるのとはまったく別な段階においてであり、その像は、私が利用できる人生におけるのとはまったく別に適用されるに違いない。

一九四九年に、彼は予定説を「非宗教的」だとは、もはや語ることができなかった。しかし彼はまたそれが「優れて、神的な像」としてどのように適用されるのかもまったく理解でなかった。

ある人がつぎのように教えられたとしよう。つまり、きみがにかくかくしかじかのことをし、かくかくしかじかに生きる場合に、死後きみを永遠の苦しみの場所へ連れていくような存在者がいるのだということを。たいていの人間はそこへ行き、わずかな人たちが永遠の喜びの場所へ行く。──かの存在者はよい所へ行く予定の人を予め選択している。そしてある種の生き方をした人だけが苦しみの場所へ行くのだから、そうした人はまた予めこの種の生き方をすることが決められている。
 このような教えははたしてどのような効果があるのだろうか。したがって、その教えは罪を語っているのではなく、むしろ一種の自然法則を語っているのだ。そして自然法則の光においてその教えが示されるとすれば、この教えからはただ絶望感と不信仰しか引きだすことができないであろう。
 この教えは倫理教育ではありえない。倫理的にしつけ、しかもそのように教えようとするとすれば、倫理的教育をした後で、その教えを一種の理解不可能な秘事として示されなければならないであろう。

〔…〕

 回復するまでの期間、彼はダブリンで過ごした。彼が現在の『哲学探究』第二部の清書原稿を準備したのは、恐らくこの時期であった。この仕事から気をそらし、ゆったりとするために、ドゥルーリーは彼にレコードプレーヤーと好みの何枚かのレコードを贈ろうと申し出た。ウィトゲンシュタインは断った。それは何にもならないだろうし、私に一箱のチョコレートを与えるようなものだ、と彼は言った。「私はいつ食べることを止めたらいいのか分からなくなる。」それよりもドゥルーリーの方が、仕事の後で疲れたときに音楽を聴くべきだ、と彼は言った。そんなわけで、翌朝彼はドゥルーリーの部屋にラジオを引き渡した。この後まもなくして、ドゥルーリーはラジオで聴いた、はっきりと記録する録音技術の大改良のことを彼に話した。これに対して、ウィトゲンシュタインは典型的なシュペングラー的省察を述べた。

再生の機械がこのように大幅に改良されたときこそ、音楽がどのように演奏されるべきかを分かる人がますます少なくなっていくというのがそれの特徴なのだ。

〔…〕

 〈私は恐れている〉が特別な事例に何を意味するのかを理解するために、声の抑揚を考慮しなければならないであろうし、それが発せられる脈絡が考慮されなければならないであろう。恐れの一般的な理論がここで大いに役立つ、と考える理由はない。(まして言語の一般理論については、そうである。)さらにいっそう重要なことは、人々の顔、声、状況に対して敏感に注意深く反応することであろう。この種の感受性は経験によってのみ獲得される──私たちの周りの人々を注意深く観察し、彼らの言っていることに耳を傾けることによってである。ウィトゲンシュタインとドゥルーリーはアイルランドの西部で一緒に散歩していたときに、あるコテージをの外に五歳の少女が歌を歌っているのに出会ったことがあった。「ドゥルーリー、あの子の顔の表情をよくごらん」、とウィトゲンシュタインは求め、そしてつけ加えた。「きみは人々の顔に十分に注意を払わない。きみが直さなければならない欠点の一つだ。」それは彼の心理学の哲学に暗黙に含まれている一つの忠告である。「内的過程は外的基準を必要としている。」しかしこれらの外的基準は周到な注意を必要とされる。
 何が「内的」であるのかは、私たちには隠されてはいない。ある人の外的行動を観察すること──もし私たちが彼らを理解すれば──は、彼らの心の状態を観察することである。必要とされる理解は、多かれ少なかれ洗練されうる。基本的な面で、「はっきりとした原因で苦痛でのたうちまわっている人を見れば、私はそれでもその人の感じていることが私に隠されている、とは考えないであろが。」しかしより深い面では、ある人々は私たちに不可解なものとなろうし、そして文化全体でさえもそうである。

ものの見方にとって重要なことは、彼らの内部で何が起こっているのかまったく分からないと感じさせるような人たちがいることである。ある人には彼らのことがまったく分からないであろう。(ヨーロッパの人たちにとっての英国の女性。)

これは、「計測しえない証拠」、「一督、身振り、音声の微妙さ」を解釈するのに必要な経験についての共通の属性が不明になっていることに原因している。この発想はウィトゲンシュタインの最も顕著なアフォリズムの一つ、〈ライオンが話せたとしても、私たちは彼の言っていることを理解できないであろう〉、という言葉に要約されている。
 理論化することから帰結する、抽象性と一般性、法則と原理は、ウィトゲンシュタインの見解によれば、この「計測しえない証拠」についてよりよく理解しようとする私たちの企てを妨げるだけである。しかし理論がなければ、どのようにして私たちはよりよく理解し、洞察を深めることができるのか。
 人々の理解に関して最も困難な区別の一つと最も重要な区別の一つを、つまり感情の純粋な表現と装った表現との区別を例にとろう。

感情表現の純粋さについて、〈専門家の判断〉というのがあるのか。──よりよい〉判断をする人間と〈より悪い〉判断をする人間もいる。
 よりよい人間通の判断からは、一般的に正しい予測が出てくるであろう。
 人間通ということは学ぶことができるのか。そうだ。ある人たちはそれを学ぶことができる。しかし教育課程によってではなく、〈体験〉によってである。そのさい他人が教師になることができるのか。確かに。彼は時折適切な合図を与える。ここでは〈学ぶ〉ことと〈教える〉ことがそうであるようにみえる。──学ぶのは技術ではない。適切な判断を学ぶのだ。規則もある。しかしそれは体系とはならない。ただ体験した人だけがそれを適切に適用することができるのだ。それは計算規則とは違っているのだ。

 このような教師の一例は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のゾシマという人物であると言えよう。

長老ゾシマについて多くの人たちが言っていることだが、彼は長年のあいだ、彼のところへ懺悔に来て、彼から忠言や心を癒す言葉を聞きたいという多くの人たちに会い、たくさんの打ち明け話や悲しみとか告白を自分の魂に吸収してきたので、しまいには、実に鋭く心を読みとることができるようになり、自分を訪れる未知の人をひと目みただけで、どんなこなことで来たのか、何を必要としているのか、良心がどんな呵責で苦しんでいるのかを見抜くことができた。

長老ゾシマを記述するにあたり、ドストエフスキーはここでウィトゲンシュタインの心理学的洞察についての理想像を描いている。『カラマーゾフの兄弟』を読むようにウィトゲンシュタインに説得されて、ドゥルーリーがゾシマ像が非常に印象的であったと報告すると、ウィトゲンシュタインは応えた。「そのとおりだ。直接に他人の魂を見、そして忠告を与えることのできるような人々がほんとうにいるのだ。」
 そのような人々は、ウィトゲンシュタインの示唆によれば、心理学という現代の〈科学〉の実験的方法よりも、私たち自身および他人の理解について私たちに教える多くをもっている。このことは、心理学という科学が発展していないからではなく、その科学の用いる方法が、その課題に不適当であるからである。

心理学の混乱と不毛さは、それが一つの〈若い科学〉であるということでは説明できない。その状態は、たとえば初期の物理学の状態とは比較できない。(むしろ、数学のある部門との比較ならまだできる。集合論。)つまり心理学において、実験的方法と概念の混乱があるからである。(他の場合には概念の混乱と証明方法があるように。)

『哲学探究』第二部は、ウィトゲンシュタインの本の第二巻がどういうものを含むのかを示唆することで終わっている。

数学に関しては、心理学についての私たちの探究とまったくアナロジーでもって探究が可能である。その探究は、他方の探究が心理学的探究ではないと同様に、数学的探究ではない。したがってその探究では、計算がなされない。それゆえ、それはたとえば論理計算ではない。それは〈数学の基礎〉の探究という名称がふさわしいであろう。

 七月十二日にはこのタイプ原稿の口述の仕事は終わった。そしてウィトゲンシュタインはアメリカへの旅の前に、アクスブリッジでベン・リチャーズと一緒に残りの週を過ごすために、ケンブリッジを去った。生涯の残りの二年間、彼は哲学について書き続けたけれども、彼は、自分が意図した仕方で本を再構成する企てを二度としなかった。『哲学探究』は、それゆえ、一九四九年の夏に書かれたいくぶん暫定的な状態を残したままで、私たちの手に行きわたることになったのであった。
26 非共同体の一市民

〔…〕

 いくつかの観点から、少なくともマルコムは彼があれこれと要求の少ない客であることが分かった。彼はどの食事にもパンとチーズを食べると言い、そしていつも同じであれば、何を食べてもかまわないと言った。
 マルコム一家は、カユガ丘の境界のちょうど外側にあるイサカの近郊の住宅地帯の端に住んでいた。ウィトゲンシュタインはしばしばその近くの田舎に長い散歩をした。彼はその地帯の見慣れない植物群にたいへん興味をもった。コーネル大学でのマルコムの同僚のスチュアート・ブラウンは、少なくとも一度この見慣れない植物群が驚くべき不信に帰してしまった話を回想している。

いつもは彼は車に乗るのを断っていた。しかしある日の午後、雨が降り始めていたので、私は彼をマルコムの家まで乗せるために車を止めた。彼は感謝して申し出を受け入れた。そして車に入るなり、彼が摘んだある植物の豆の入っているさやが何かを私に尋ねた。「ミルクウィード」、と私は彼に言い、そしてその草が名の由来となっている白い汁のところを指し示した。彼はそれからその植物の花の綴りを聞いた。私は期待に背いたのでたいへん惨めになって、ついに植物が生い茂っている野原の側に車を止め、歩いて、彼にもっとたくさん植物を摘んであげた。花の咲いたものや種のあるものもあった。彼は畏敬の念をもって花から莢へと、莢から花へとじっと見つめた。突然彼はそれらをまるめて、車の床に投げ捨てそして踏みつけた。「駄目だ!」、と彼は言った。

 ブラウンは、ウィトゲンシュタインが一緒に議論したコーネル大学の哲学者グループのひとりであった。その他には、マックス・ブラック、ウィリズ・ドーニー、ジョン・ネルソン、オーエツ・ブースマがいた。「私はここで私の昔の仕事をしている」、と彼はロイ・フォーエーカーへの手紙のなかで、そのありさまを書いている。彼はしばしばフォーエーカーのことを思っている、と語っている──「とくにガイズ病院とかそういった場所で昔の仕事をすることになるかもしれない、としばしば考えるからです。しかし現在私は身体障害者の年寄りなので、薬局の実験室でやっていた仕事をもう恐らくできないでしょう。」またマルコムに対しても、彼は自分の残りの人生をどうするのかについての不安を表明していた。「人間がこの世でただ一つのもの──つまり、ある一つの才能──しかないときに、その者がその才能を失い始めたときには、何をすべきなのか。」

 * フォーエーカーは一九四七年二月にスマトラからようやく戻ってきた。そのときからウィトゲンシュタインの死まで、ふたりは友情を保ち続け、ロンドンとケンブリッジの両方で定期的に会っていた。ウィトゲンシュタインはどこかへ行くときにはいつも、フォーエーカーが軍隊にいたときのように、決まってフォーエーカーへ手紙を書いた。イサカと同様に、ダブリン、ウィーン、オックスフォードから書いた手紙が残されている。

 この間に、コーネルではその才能に対してたくさんの需要と評価があった。マルコムと一緒に彼は驚くほど多くのゼミナールや討論会に出席した。ブラウン、ブースマ、ブラックとの定期的な会合があって、そこで彼らはさまざまな哲学のトピックスを論じた。ドーニーとは『論考』を読むゼミナールを、ブースマとはフレーゲの「意味と指示」を論ずる会合をもった。彼はまた記憶の問題を論ずるために、ネルソンとドーニーに会ったが、ネルソンはある会合のことを回想している。「恐らく私がこれまで過ごした、最も哲学的に緊張した二時間であった。」

彼の探究の飽くことのない、徹底的な追求と議論の進行に、私の頭脳は、ほとんどもう破裂してしまうかのように感じた。……いかなる容赦もなかった──話題が難しくなったときにも、話をまったくそらさなかった。私は、その議論が終わったときには完全に疲労困憊していたのであった。

 ネルソンの反応は典型的なものであった。これらの会合の話題は通常他の人たちが提示したけれども、討論はいつも相変わらずウィトゲンシュタインが優位に振る舞った。彼は参加者にはこれまで経験がないほどの極度の没頭と集中力を要求した。こうしたある議論の後で、ブースマはウィトゲンシュタインにこうした夜は眠れないのではないかと尋ねた。彼はそんなことはないと言った。「しかしその後で」、とブースマは回想している。

……彼はまったく真面目になって、そしてドストエフスキーならそうした状況で言うようなことを、つまり「きみの分かることだけしなさい。私は自分が気が狂うかもしれないと思っている」、と笑みをもってつけ加えた。

 マルコムは別にして、ブースマはウィトゲンシュタインと最も多くの時間を過ごした。彼は討論の相手に欠かすことができないと考えた真剣さという長所をブースマのなかに見たようであった。他の人たちとは違って、ブースマはウィトゲンシュタインと同じ年齢であった。彼はネブラスカ大学でマルコムの指導教師であった。マルコムはケンブリッジへ行き、ムーアのところで研究するように、ブースマが奨励した何人かの学生のひとりであった。ブースマ自身はムーアの著書に深く影響を受け、ムーアの観念論論駁に強い衝撃を与えられ、以前のヘーゲル主義を捨ててしまった。後に彼の他の学生、アリス・アンブローズをとおして、彼はウィトゲンシュタインの『青色本』に出会い、それを綿密に研究した。
 他の人たちと一緒にマルコムの家で数回会合した後に、ウィトゲンシュタインはブースマだけと会うように取り計らった。上述の会話がなされたのはそのときのことだった。ウィトゲンシュタインはブースマに会い真っ先に、彼らの討論に「何かいい」ことがあったと思うか──ブースマがそれから何か得たのか、と尋ねた。そして「私はとてもつまらない人間です」、とブースマに話した。「話はよくありませんでした。知的にはよかったのかもしれませんが、しかしそれは肝心なことではありません。……私のそらごと、そらごとを言ったでのをだけです。」彼はブースマにケンブリッジの職を辞任した理由を話した。

第一に、私の本を完成したかったこと、……第二に、私がなぜ教えるべきかということ。Xにとって、私の言っていることに耳を傾けることはどんな長所があるかということ。考える人間だけがそれから何かよいものを引き出すのです。

少数の学生は例外であるとした。「彼らはどこか取り憑かれたところがあって、真剣であった。」しかしたいていの学生は、頭がいいというので彼のところに来た。「しかし私には賢いということは、重要ではないと考える。」
 重要なのは、彼の教えがよい効果をもつということであり、そしてこの点に関して、彼がいちばん満足した学生たちは、専門の哲学者にならなかった人たち──たとえば、ドゥルーリー、そしてスマイシーズ、それに数学者になった人たちであった。専門の哲学において、彼の教えはよいことよりも害を与えた、と彼は考えていた。彼はそれをフロイトの教説と比較した。彼の教説は、ワインのように人々を酔わせた。人々はその教説のしらふでの用い方を知らない。「お分かりですか」、と彼は尋ねた。「ええ、分かります」、とブースマは応えた。「彼らは定式を見つけたのです。」「まさにそのとおり。」
 その日の夕方、ブースマはウィトゲンシュタインを車に乗せて、町を見渡せる丘の頂上に登った。月がのぼっていた。、「もし私が設計していたら」、とウィトゲンシュタインは言った。「私はけっして太陽は造っていなかっただろう。」

ごらん! なんて美しいのだろう! 太陽はあまりにも輝きすぎで、あまりにも熱すぎる……そしてもし月しかなかったら、読むことも書くこともなかったにただろうに。

〔…〕

 秋学期の初めに、マルコムはウィトゲンシュタインをコーネル大学の大学院の学生の会合へ連れていった。そこでの彼の出席は、ジョン・ネルソンが回想しているように、凄い衝撃を与えた。「その会合が終わろうとする直前に」、とネルソンは書いている。「マルコムは回廊から降りてあらわれた。」

痩せた、やや老年のウィンドジャケットと旧い軍服のズボンをはいた男がマルコムの腕に支えられていた。もし知性に輝いた顔でなければ、マルコムが道路の脇で見つけ、そして寒空から連れ出してきた、放浪者か何かとでもその男を思ったかもしれない。
……私はガスへ身を乗り出して、そしてささやいた。「あの人がウィトゲンシュタインだ。」ガスは私がジョークでも言っていると思い、「からかうのは止せ」、というようなことを言った。そのときマルコムとウィトゲンシュタインが入ってきた。[グレゴリー・]ブラーストスが紹介され、発表し、終わった。この特別な会合を開催したブラックは、立ち上がり、彼の右側を見たときに、ことの次第が明らかになった。誰もが驚いたことには、……マルコムがその会合に連れてきた、みすぼらしい老人に話しかけようとしたのであった。そのときびっくりする言葉が発せられた。ブラックは言った。「ウィトゲンシュタイン教授、ご苦労ですが……。」さて、ブラックが「ウィトゲンシュタイン」と言ったとき、すぐに大きなどよめきの声が集まった学生たちから起こった。ここで「ウィトゲンでシュタイン」というのは、一九四九年の哲学の世界では、とくにコーネルでは神秘的で、畏怖心を起こさせる名前であったことを記しておきたい。沸き起こったどよめきの声は、まさにプラックが「プラトン、ご苦労ですが……」と言ったときに起こったであろうような声であった。

〔…〕

四月二十五日にウィトゲンシュタインはケンブリッジを去り、オックスフォードのセント・ジョン通りにあるエリザベス・アンスコムの家へ移った。「私はフォン・ウリクト家にいるのが好きだ」、と彼はマルコムに話した。「しかしふたりの子供が騒がしい、私には静けさが必要だ。」アンスコムの家では、彼は三階の一部屋を占めた、一階にはフランク・グッドリッチとジリアン・グッドリッチが、二階にはバリー・ピンクが占めた。引っ越してまもなく彼はフォン・ウリクトに話した。「この家は非常に騒がしいというのではないが、それほど静かというのでもない。私はどうやっていけばいいのかまだ分からない。同居人たちはみなかなり感じのいい人たちのようだ。そのひとりはとても感じがいいとさえ言える。」
 「とても感じのいい」とはバリー・ピンクのことであった。彼は当時美術大学に通っていた。彼はさまざまなことに関心をもっていた。「ピンクは一度に六つの椅子に座りたいのだ」とかつてウィトゲンシュタインは語った。「しかし彼はただ一つの尻しかない。」ピンクはヨーク・スマイシーズと長年の友人であった。そしてスマイシーズとアンスコムのように、カトリックに改宗した。ウィトゲンシュタインのなかに、彼は快くしかも彼の関心の全範囲──絵画、彫刻、石造建築、機械建築など──について話し合える人間を見出した。
 ふたりはオックスフォード周辺を一緒に散歩した。そして一時ピンクは腹心の友になった。ふたりは自分たちの思想、感情、生活をかなり率直に話し合うことができた。たとえば、人間が真の本性を隠す傾向について話し合った。これと関連して、ピンクは、哲学者としての彼の著作が、まさに哲学者としての彼が、ホモセクシャルと何か関わりがあると考えるかどうかをウィトゲンシュタインに尋ねた。ウィトゲンシュタインの哲学者としての著作は、ある意味で彼のホモセクシのャリティを隠すための工夫であったのではないかとほのめかしたのであった。ウィトゲンシュタインは怒り声でその質問を片づけた。「まったく関係ない!」
 ウィトゲンシュタインはベンとノルウェイでその夏を過ごす計画を立てた。ベンは当時ロンドンのバーツで医学生として最終学年にあった。しかし七月にベンは最終資格試験に落ちたので、九月の「再試」の勉強のために、その夏ロンドンに留まらなければならなかった。彼らの休日は、それゆえ秋まで延期された。ウィトゲンシュタインは夏中オックスフォードに滞在し、ケンブリッジで書いていた色彩に関する覚え書きの続きに没頭した。
 色に関する覚え書きと同じ原稿ノートには、シェークスピアに関する一連の覚え書きがある。それは『文化と価値』(八四─六頁)のなかに発表されている。ウィトゲンシュタインは長いあいだシェークスピアの偉大さを評価できずに悩んでいた。たとえば、一九四六年に、彼は書いていた。

私たちが自分自身で理解できない事柄を信じるのがいかに難しいかというのは奇妙なことだ。たとえば、シェークスピアについては何世紀にもわたる著名な人たちの賞賛の言葉に私は耳を傾けてきたが、彼を賞賛するのは慣例ではないか、という不信感から逃れえないでいる。そうではないのだ、と私はぜひ自分に言わなければならない。ほんとうに自分を納得させるために、私はミルトンのような権威を必要としている。彼は何物にも左右されなかった、と私は受け取っている。──しかしそうだからといって、もとより私は途方もない数のシェークスピア賛美が、何千という文学の教授たちによって、理解されないまま、間違った理由からなされていると言っているのではない。

 偉大な詩人としてシェークスピアを受け入れるのが難しい理由の一つは、彼がシェークスピアのメタファーと直喩シミリの多くを嫌ったことにあった。「シェークスピアの直喩シミリは、日常的な意味において、劣悪だ。それにもかかわらずそれらが優れているというのであれば──そうなのかどうかは、私は分からないが──シェークスピアの直喩シミリにはそれ特有の法則ががあるにちがいない。」彼がベンと話し合った一例は『リチャード二世』のモウブレイの演説のなかでメタファーに落とし格子を用いていることであった。「私の口のなかに、あなたは私の舌を押し込めて、歯と唇と二重に落とし格子をかけられたのです。」
 よりいっそうの基本的な困難は、ウィトゲンシュタインの英国文化一般嫌いにあった。「ある詩人を楽しむためには、詩人が属している文化をも好きにならなければならない、と思う。もしそれに無関心であったり、あるいは好きでなかったりすれば、賛美も冷めてしまう。」このことはブレークとかディケンズへのウィトゲンシュタインの称賛の妨げとはならない。その相違は、ウィトゲンシュタインがシェークスピアに偉大な人間として賛美できる詩人を見ることができなかったことにある。

私はシェークスピアを驚嘆してただじっと見ているだけだ。それ以外何もできない。……
 〈ベートーヴェンの偉大な心〉 誰も〈シェークスピアの偉大な心〉とは言えないであろう。
 私にはシェークスピアが〈詩人の運命〉について瞑想できたとは思えない。
 彼は自分を人類の予言者とか、教師とみなすこともできなかった。
 人々は彼をほとんど自然の景観のように驚嘆をもって見つめる。人々はそのことによって偉大な人間に触れているとは感じない。むしろ一つの現象に触れていると感じるのだ。

 他方ディケンズに、ウィトゲンシュタインは〈優れた普遍的な芸術〉のゆえに尊敬できる英国作家をみた──誰に対しても理解でき、そしてキリスト者の徳を信奉するトルストイ的意味の芸術であるという点で。彼はフォーエーカーがスマトラから帰ってきたときに、時期遅れのクリスマス・プレゼントとして、緑色の革で装丁され、楽しい〈メリークリスマス〉というステッカーを貼ったポケット版の『クリスマス・キャロル』を贈った。もちろん本の選択には意味があった。ウィトゲンシュタインが『クリスマス・キャロル』を実際に暗記していたとF・R・リーヴィスが回想していること、そしてその本は事実上、「芸術とは何か」というトルストイの論文において、トルストイから〈神の愛から流れている〉芸術のなかで最も価値の高い分類に入れられていることである。それゆえ、『クリスマス・キャロル』はウィトゲンシュタインの生涯において、一般の労働者たちへの、簡素で素直な愛情をもって示された〈普通の人間〉への、彼のトルストイ的敬意の稀な一例として、すこぶる適切な贈り物であった。
27 物語の最後

 ウィトゲンシュタインとベヴァン夫人が友だちになると、ふたりは一緒に毎日の規則的な行動の一つに、夕方六時にその地域にあるパブまで散歩した。ベヴァン夫人は、「私たちはいつも二杯のポートワインを注文しました。一杯は私が飲み、もう一杯は彼が大はしゃぎでハラン植物に注いだのでした──これが、私がこれまで知っている唯一の彼がした不真面目な行為でした。」ウィトゲンシュタインとの会話は、彼と最初に会った経験にもかかわらず、驚くほど気楽だった。「彼は私が分からないようなことはいっさい論じたりしませんでしたし、また論じようともしなかったことが目立ったことでした。ですから私たちの関係で私はけっして劣ったとか無知であるという感じはありませんでした。」しかしながら、これは彼の発言すべての意味がいつも透き通って見えるように明瞭だったと言っているのではない。たぶん最も格言めいたこととして、エリザベス・アンスコムの夫、ピーター・ギーチについての彼の評が挙げられよう。ベヴァン夫人がギーチはどうかとウィトゲンシュタインに尋ねたときに、彼は厳かに答えた。「彼はサマセット・モームを読んでいる。」

〔…〕

 ウィトゲンシュタインが求めた神との和解は、カトリック教会の腕のなかに帰って、受け入れられることにあるのではでなかった。それはあの最も過酷な裁き、つまり彼自身の良心の厳密な検閲にさえ耐えて生きようとする倫理的な真摯さと完璧さの境地にあった。すなわち彼自身の良心は〈私の心の底に住まう神〉であった。

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