ウィリアム・W・バートリー『ウィトゲンシュタインと同性愛』

日本語版への序、一九八八年

『ウィトゲンシュタインと同性愛』のこの版は、ほぼ、一九八三年のドイツ語訳とスペイン語訳の、ならびに一九八五年の改訂英語版のテキストにしたがっている。しかしながら、わたくしは、この機会を利用して、若ーの訂正をおこなうとともに「あとがき」を更新するために何ページか追加し、またウィトゲンシュタインの『秘密の日記』にかんする短い付録を付け加えた。
 アメリカ人の著者にとって、その著書が日本語で出版されるのは大きな名誉であり、わたくしは、尊敬する同僚の小河原誠助教授がわたくしの諸著述を日本の読者にも手のとどくようにしてくれていることに対し、とりわけ感謝するものである。
 この小さな本の出版は、(「あとがき」に論じておいたような)大きな論争にさらされた。わたくしは、哲学者として、そもそも誰かがこうした奇妙な論争においてなにかを勝ちえるということを疑うものであるが、わたくしがこの論争において勝利したことを告げることができるのを幸いに思っている。
 ここでは、正確に言えば本書のもつ論争的な性格のゆえに、わたくしは次の二点に言及しておきたいと思う。ウィトゲンシュタインという人物に対するわたくしの無限の敬意と、彼の哲学に対するわたくしの心底からの非同意とである。 この人物は、二〇世紀の前半における(彼は一九五一年に亡くなった)偉大な人物のうちのひとりであり、故国オーストリアで静かで私的な生活を送りつつ、イングランドにおける科学ならびに文芸上の指導的人物の幾人か──主として、ケンブリッジ使徒会やブルームズベリー・グループの、また彼らが動いていたそれよりも少し広いサークルのメンバーであった、たとえば、バートランド・ラッセル、G・E・ムーア、フランク・P・ラムゼイ、レオナードおよびブァージニア・ウルフ夫妻、ジョン・メイナード・ケインズ、そしてピエロ・スラッファーに、高度に個人的で人格的なものであるが、拭い去ることのできない影響を与えた。彼が次のような衝突しあうものの束であったことも何ら驚くにはあたらない。まごうかたなき数学的にして哲学的天才、また、修道士の禁欲的生活習慣と専制君主の気質をもった百万長者の貴族的人物、また、一身に音楽家、彫刻家、建築家を兼ね備えた人物、また、彼のまわりの上流人士との交際 (companionship)よりも単純な若者との交際を好んだロマンティックな同性愛者、また、キリスト教を尊崇するとともに誠実に自らの祈りを唱えたユダヤ人にして無神論者、また、自殺の瀬戸際に立ちつつ生きたにもかかわらず、死の床にあっては、友人たちに素晴らしい生を送ったと告げてくれるように求めた人物。
 しかしながら、ウィトゲンシュタインの哲学者としての世界的な名声と大学の教育課程における確立された地位は、基本的に死後のものであり、二〇世紀の後半に作り出されたものである。存命中、彼はわずかに一冊の哲学的小冊子『論理哲学論考』(一九二二年)と、若干の小さな哲学的論文ならびに小学生用の小さな単語帳を出版したにすぎなかった。没後、約一四冊の書物が追加的に出版されたのみならず、彼の学生のとった講義ノートから半ダースの書物と、ラッセル、ケインズ、ムーア、パウル・エンゲルマン、ルートヴィッヒ・フォン・フィッカー、およびC・K・オグデンといった人物との書簡集が何冊か出版された。これら多数の出版物、つまり、しばしば「ウィトゲンシュタイン産業」と呼ばれている仕事が可能になったのは、彼が遺稿を委ねた少数の熱烈な弟子たちの献身的な労働によってであった。
 彼の初期著作は、分量からすれば小さかったとはいえ、活気に満ちそして巧妙なもので、イギリスの文芸ならびに科学的諸サークルにおいてかなりの公的関心を惹きつけた対象であったのにたいし、彼の後期の著作は、その大部分が奥底まで曖昧であり、西洋の諸大学の専門的な哲学諸部門に主として中心をおいた大規模な崇拝儀式の対象となってきた。そこにおいて、それは、英語圏諸国の専門的哲学を分割する三つの支配的なカルテルもしくはギルドのひとつの主たる知的食物となりおうせた。すなわち、英語圏における大部分の専門的哲学者は、現象学的伝統の成員であるか、論理実証主義に発する伝統の成員であるか、あるいは「分析」哲学者であるわけだが、現代の「ウィトゲンシュタイン主義者」が属するのはこの最後のグル ープなのである。
 わたくし自身はこれらすべてのグル ープの外側に立っている。わたくしは、わが師カール・ポパー卿──その伝記をわたくしは執筆中でもあるのだが──によってもっとも深く影響されてきた。すでにポパーの巨大な影響は、彼が強く反対している専門的哲学における場合をのぞいてあらゆる的ところに及んでいる。わたくしがこの点に言及したのは、ただ、読者にわたくしの立場を知ってもらいたいためである。わたくしは、本書でウィトゲンシュタインを個人的に攻撃しているわけではないのであって、わたくしの客観性は多くの場合に認められてきた。しかし、これは、何といっても、わたくしが、專門的哲学者によって干からびさせられ消毒されてしまった後期ウィトゲンシュタインの仕事ではなく、初期のウィトゲンシュタインに、そしてオーストリアにおける「失われた年月」の時代におけるウィトゲンシュタインにかぎりなく関心を払っているからである。
 この初期のウィトゲンシュタインは、精力的な、魅力的な、カリスマ的な人物であり、情熱と野心に満ち、そして他者のうちに情熱と野心をかき立てる人物であった。彼はまた絶望した人間、自ら「デーモン」と呼んだものによって拷問にかけられていた人間であった。
 西であれ東であれ、あらゆる国の教養ある人士は、この人間に見られるファウスト的渇望とその絶望の双方に対し共感を覚えるに違いない。彼が他者から引き出した、また引き出しつづけている反応のうちに、それらの人びとは、西洋諸国における、継続的な知的論争の本性についてのみならず、思想と感情、また知的道徳的タブーの本性についての洞察を見出すことであろう。

W.W・バートリー、三世
戦争、革命および平和にかんするフーバー研究所
スタンフォード大学
一九八八年六月

序章

一九六九年の真夏であったが、その晩の集まりの際に、ウィトゲンシュタインの年老いた生徒たちの一人──ウィトゲンシュタインが一九二二年二トラッテンバッハを去って後は、学校教育などついぞ受けたことのない農夫──が、テーブルの上にかがみこむようにしながら、「あのですね。ウィトゲンシュタイン先生がよくわしらに話してくれたんですが、おもしろいことがありましたよ」と言いだした。で、出てきたのは何と嘘つきのパラドックスであった。

第三章 寸法に合わせて作られたのではなかった

 ウィトゲンシュタインが滞在した最初の年のあいだに、トラッテンバッハ、あるいはそこの人びとが重要な変化を蒙った──事実が変えられた──ということはまずありそうない。しかし、村落での第二年が始まるまでに、不幸の底にあったウィトゲンシュタインにとって、「小さな美しい隠れ場所」は憎悪すべきものとなっていた。すでに引いたラッセル宛の手紙のちょうど一年後、彼は、もうイングランドに戻っていたラッセルにふたたび手紙を送った。「いまやトラッテンバッハにいて、相変わらず憎悪と下品にとりかこまれています。人間存在というのは概してどこにおいても大して価値のあるものではありませんが、ここでは、他のどこに増して穀つぶしで無責任です。おそらく、わたくしは今年はトラッテンバッハにとどまるでしょうが、そう長いことではありますまい。といいますのも、ここでは他の教師たちとうまくいっていないからです。(別の土地だったら、もっとうまくいくというわけでないでしょうが)……」。
 ラッセルは、人間はみな邪悪であり、トラッテンバッハの人びとも他の人びとに劣らずそうだということには反対した。ウィトゲンシュタインは、明らかにこうした問題について自分の考えを言葉で言い表わすことにある種の困難を覚えていたが、ラッセルの論点を取り上げて、次のような返信を送った。「あなたは正しいのです。トラッテンバッハの人たちが、人類の他の残りの者たちよりも格段に悪いというわけではありません。しかし、トラッテンバッハはオーストリアではとりわけ無意味な場所でありますし、オーストリア人は大戦以来みじめなまでに沈みこんでいて語るおぞましいくらいなのです」。

 一度、村人に自分の宗教のことを聞かれたとき、ウィトゲンシュタインは、キリスト教徒ではないが、「福音伝道者(evangelist)」ではあると答えたことがあった。その村人は当惑した。というのも、ウィトゲンシュタインが、プロテスタント(あるいは「新教徒 (Evangelical)」)であることを意味しているのではないと強調したからである。ウィトゲンシュタインが言わんとしていたのが何であったのかを明確に定めることはできないが、彼が示唆しようとしていたのは、自分の仕事は魂の救済と福音の宣布にかかわるものではあるが、それは公式のキリスト教の枠組のなかでなされる必要のないものであるということであったのだろう。
 彼が宣布しなければならなかった福音は、自らが採った生活形式(form of life)によって村人たちに示されるものであった。外部に対する彼の行動は以下の点を計算に入れていたように思われる。すなわち、村人たちに衝撃を与えて生活のもっと別な可能性に目を開かせること、彼らを彼らの偏見から揺さぶり出すこと、彼らを混乱させ当惑させて、ついには、子供たちと同じように、彼が語ってはならないのだとしたら、示さねばならなかったことを学びとれるようにすること。
 最初のパラドックスは、言うまでもなく、トラッテンバッハのような土地に、彼の如き背景をもった人間が現われたということであった。ウィトゲンシュタイン自身は、そうした状況に気づいていたし、また少なくとも当初はそれを楽しんでもいた。それだから、ラッセルへの手紙のなかで、彼は、これはおそらくトラッテンバッハの学校教師が北京にいる哲学教授と文通した最初でしょうと述べてもいたわけである。ウィトゲンシュタインは、しようと思えば、おそらくトラッテンバッハや他の村落へ偽名で行くこともできたであろう。彼の家族はウィーンでそうした段どりをつけるに足る十分な影響力をもっていた。しかしながら、彼はわざわざ回り道をえらんで、村人たちが彼が誰であるのかを、あるいは少なくとも、彼らが彼の家族の富と影響力、彼自身の教育と貴族的背景、またイングランドにおける彼の学術上の業績を知ることができるようにした。彼は学校の同僚や何人かの村人に『論考』について語った。それはまだ公刊されていなかったが、彼は、その本のれことを初めて彼らに語ったとき、『命題』という名の本として言及し、そして彼らは「そのなかの一語理解できないであろう」と付け加えたのであった。ウィトゲンシュタインが最初にトラッテンバッハについて間もない頃、彼はヘンゼルの訪問をうけた。(彼は──ウィトゲンシュタインの友人の彫刻家ドゥロービルやウィトゲンシュタイン家の写真家ネールと同じように──ウィトゲンシュタインが村落に滞在しているあいだ、ほぼ二ヶ月ごとに彼を訪ねてきた)。宿屋で昼食を一緒にとりながら、ウィトゲンシュタインとヘンゼルは、そこに居合わせた村人が気をつけているなら容易に立ち聞きできるような声で、ウィーンでの生活について語った。ヘンゼルに対するウィトゲンシュタインの言葉のひとつが、いまで覚えられている。「わたしには、かつてコンスタンティンという名の召使がいた」。ヘンゼルの訪問も終るころ、ウィトゲンシュタインとヘンゼルは哀れなベルガーを学校の部屋で問い詰めて、村人たちがウィトゲンシュタインのことについて何と言っていたかを聞きだそうとした。ベルガーは、ウィトゲンシュタインが怒るのを恐れて、しぶしぶ「人びとはあなたのことを金持の男爵だと思っている」と答えたと報告している。ウィトゲンシュタインはこの答えに満足したが、ベルガーに向って、自分は事実金持であったが、「善き行為をするために」あり金すべてを兄弟姉妹にやってしまったと語った。
 自分の素姓をはっきりさせてしまうと、ウィトゲンシュタインは、村人たちが代金を払っても買いたいと思っている品々に対する軽蔑、あるいは少なくとも関心の欠如を示し始めた。彼はこれ見よがしに貧乏な暮しをした。ノイルーラー神父はすでに長髪とぼろ服で村人たちをいらだたせていたが、少なくとも家と家事の手伝い(自分の妹)をもっていたのに対し、ウィトゲンシュタインは小さなそして旧式の部屋に住んでいた。彼は、最初、トラッテンバッハにおける宿屋「褐色の鹿」の隣の建物に部屋をとった。しかし、着任して間もないある金曜日の夕方、彼は、階下の村人が酔っぱらって大声で歌うのに激怒して飛び出し、ベルガー家にその夜の避難を求めたこともあった。宿屋から離れてしばらくのあいだ、ウィトゲンシュタインは学校の台所で寝ていた。さらに後には、彼は食料雑貨店の屋根裏部屋に引越した。プーフベルクやオッタータールではさらに粗末な宿をとっていた。
 服装について言えば、ウィトゲンシュタインは、単純なスタイルを好んだので、学校教師の伝統的な衣装、帽子、三つぞろい、ネクタイ、カラーといったものを拒否した。彼が着ていたのは、簡素で清潔な開襟シャツ、灰色のズボン、暖かい季節のときの靴一足、冬場の長靴であった。寒い時には、彼は皮製の防風ジャケットを身につけたが、トラッテンバッハ滞在中は、帽子をつけずに出歩いていた。ほとんどいつも、彼は杖を携えており、しばしば腕の下に書類入れ用の折りかばんもしくはノートブックをはさんで孤独な散歩をしているのが見かけられた。
 ウィトゲンシュタインの住居や衣服にもまして、飢えた村人たちを驚かせたのは、彼の食事であった。彼は、午後はいつも、この地域でもっとも貧しい家族のひとつトラート家で昼食をとった。トラート家の人びとは例外的に素直で敬虔な農民であり、彼はノイルーラーをつうじて紹介されたのであった。彼らは、ウィトゲンシュタインが感情面でのつながりを形成した唯一の村人であった。彼は毎日村の北の山を半時間ほど登り、彼らの小さな家に行って昼食をとった。ウィトゲンシュタインは、友情となるようなかたちでトラート家の人たちと言葉を交すことはほとんどできなかったとはいえ、彼らには強くひきつけられたし、また彼らの宗教的敬虔さには特に感銘を受けたと言われている。彼らは、彼が一九二六年にノインキルヒェンを去った後接触を保った唯一の村人であった。彼はイングランドから絵ハガキを送ったし、一九三〇年代に二度、最後は一九三三年であったが、重い病気にかかっていた年老いたトラート夫人をノイルーラーに伴われて見舞うために、こっそりトラッテンバッハに戻ってきた。
 ウィトゲンシュタインがこの家族にどれほど強くひきつけられたにせよ、彼に差し出された食事がいかに貧しいものであらざるをえなかったかは、ただ推測しうるのみである。というのも、自分の食物にも事欠いていた村人でさえトラート家の貧しさを軽蔑していたからである。ウィトゲン シュタインの夕食がそれよりもよかったわけではなかった。彼の夕食は、自分の部屋で自ら用意したココアとオートミールであった。時には彼はトラート家に行ってミルクをもらってきただろうし、時には生徒の一人がもってきてくれもした。出来のよい生徒たちの大部分は二、三度彼と一緒に夕食をとったことがあり、同じ恐ろしい話を家にもちかえったわけである。 ウィトゲンシュタインは、オートミールや他の何かわからない成分と一緒にココアをあたためるために一種の圧力鍋を使っていた。彼は決してポットを洗わなかったので、残りカスが内側にこびりつき、ますますかたくなり、そしてどんどん大きくなり、ポットの体積を減らしていった。ついにはボットの体積は縮小して、一度にやっと一人分のココアを準備することしかできないほどになってしまった。

 彼らの物質的価値に対するウィトゲンシュタインのあからさまな無視は、トラッテンバッハやオッタータールの村人をいらだたせた。しかし、その程度であれば彼らはがまんしたかもしれない。結局のところ、彼らが聞いていたのは、風変わりな百万長者であるととに宗教的隠遁者だったのであり、そして彼らは一九三六年までノイルーラーのことをがまんしていたのである。彼らを警戒させ不安にさせるとともに嫉妬をひきおこしたのは、子供たちに対するウィトゲンシュタインの関係であった。イメージと実際とのあいだの葛藤、あるいはここに含まれている「認知上の不協和」は極端なものであったにちがいない。彼についてのたかぶったうわさ話のなかで、村人たちは次第に、たえず情容赦もなく子供たちをぶつ信じられないほどに残酷な教師というウィトゲンシュタイン像を作り上げていった。にかかわらず、彼らが目の前に見たのは、子供たちが家族のあとに帰宅するよりも、学校が終ってからもずっとこの「怪物」と一日をすごすことを欲していたというむきだしの事実であった。結局のところ、村人たちは裁判に訴えたが、ウィトゲンシュタインが彼らの子供たちを加虐的に打ったと証明する試みには失敗した。
 ノイルーラーだけは、ウィトゲンシュタインがひきおこした警戒、不安そして単純な嫉妬に対して完全な抵抗力をもっていたように見える。事実、彼らの関係は非常にうまくいっていた。彼らは、ラテン語で、会話を交し、また手紙を交換していたと言われている。そして、ウィトゲンシュタインは、繰り返し、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで聞かせたのである。
 ところでウィトゲンシュタインの同僚であったベルガーは、能力的に劣り、人気のない教師であったが、村人たちと同様に子供たちに対するウィトゲンシュタインの成功によって脅威を感じていた。それだけにベルガーは、身を守るために、事実として村人たちと同じような事をし、多くの時間を社交と村人たちとのうわさ話に使うようになり、ウィトゲンシュタインに対する悪意を煽り立てた。そして彼は、どんなオーストリアの教師であれ、してはならないことをした。すなわち、彼は、あらゆるところで、トラッテンバッハにおける社会的序列を登っていくことを始め、金持の農民の子を優遇し、工場労働者の子を無視したのである。 ウィトゲンシュタインがこの地を去った後、ベルガーはウィトゲンシュタインが始めた教育方法を逆転させたし、後年になっても、依然としてウィトゲンシュタインとの出会いにつきまとわれていたので、トラッテンバッハの学校記録からまさしくウィトゲンシュタインの名前を削除しようとした。一九三四年に出版された大きなトラッテンバッハ年誌は、他の点では正確であるにちかかわらず、ウィトゲンシュタインの名前を、勤務経験教師名簿から明らかに削除している。ウィトゲンシュタインの死後の名声を聞いて、初めてペルガーは、以前の同僚についての友情あふれる思い出を調達した。

 ウィトゲンシュタインに対するトラッテンバッハやオッタータールの村人たちの反応のすさまじさを理解するためには、彼が学童をどう扱ったかについて二、三の例を挙げておくことが役に立つかもしれない。彼が、村の大人たちに対しては、たいがいの場合、超然としていたことをわれわれは知っている。時として彼が村人たちの生活に降りていったことはあろう──たとえば、彼は、エ場のスチーム・エンジンを修繕したり、あれこれの病気の処置を指図したり、農民や主婦に備品の修理方法を示したり、ノイルーラーの手をつうじて、貧しい家族に一足の靴を贈ったりはした。だが、子供たちに対しては、彼はまったく別の人間であった。
 ウィトゲンシュタインが生徒たちに贈ることのできたいくつかのものは、余分なお金をもった教師なら与えることのできるような有形のものであった。彼は自分自身の、あるいは姉のミニングのポケットから余分の食料(特に果物、また時にはチョコレート)を提供したし、また届くことはまれであったが、学校の備品も規則的に注文した。彼は、ウィーンから自分自身の顕微鏡をトラッテンバッハに運んできたし、どの学校にいっても、子供たちの手を借りて、初歩の動物学や自然誌の授業で使うために小動物の骨を注意深く集めた。彼がブーフベルクで組み立てた猫の骨格はいまであそこで使われている。彼はまた子供たちを手伝わせてスチーム・エンジン、滑車、またその他の機械的諸道具の模擬装置を作った。ウィトゲンシュタインと生徒たちが作った模擬装置は、この時代の別のところで作られた模擬装置の大多数よりも、上手に作り上げられていたと言われている。しかし、こうした行為自体は例外的であったわけではない。この時代、学校の予算には専門的な備品を備えさせるだけの余裕はなかったから、大部分の村の教師たちは、そうした備品の自作を求められていたのである。
 ウィトゲンシュタインが生徒たちとおこなった──グロクニッツの印刷所とかウィーンへの──遠足は、多かれ少なかれ、同じ範疇に属する。ミニングと兄が経費の一切を負担していたのである。しかし、他の教師でも余分のお金をもっていたら、同じことをしていたかもしれない。ベルガーは、この時分、ウィトゲンシュタインから借金するのに忙しく──そして返済したのはインフレがその価値を縮小してしまった後になってからなのだが──こうした遠出をする余裕はなかった。しかし遠足の類は、この時代のオーストリア、とりわけ旅費の安かった都市や大きな町ではありふれたことであった。何らかの種類の遠出をすることは改革綱領に指示されていた。
 ウィトゲンシュタインは、学校改革綱領の存在の如何にかかわらず、疑いもなく、こうした冒険を伴う活動をおこなったであろう。にもかかわらず、彼のもっともよく知られた功績のいくつかは、しばしば奇妙な離れ技として扱われたのだが、学校改革の指令の線に直接そうものであった。実際、ウィトゲンシュタインは、定期的にクントへ提出することを求められていた報告書のなかで、それらの諸原則に言及しながら、彼の計画や学校活動を書き上げていた。

 オーストリア全土では、小学校の改革は、上級学校やギムナジウムの教師から、内容を犠牲にして活動を強調しすぎるきらいがあるといってしばしば批判された。しかしながら、ウィトゲンシュタインは数学においてすばらしい成果を達成した。彼は、十歳や十一歳の少年に上級の代数や幾何を教えたのである。約三分の一の女生徒は、ふつう小学校ではまったく教えられておらず、ギムナジウムで初めて導入されるような数学理論や課題の扱い方を学んだ。学校改革綱領をはるかに超えでていた野心的な達成目標を弁護して、ウィトゲンシュタインはプーフベルクの同僚ノルベルト・ロズナーに「代数を始めるのに早すぎることはない」と説明した。彼はまた、歴史の勉強では、通常の小学校の標準を大きく超えたところにまで生徒たちを導いていったし、国語においても、彼と生徒たちは一緒に、伝説や童話のみならず、アメリカであったら、ふつう生徒は中学校あるいは高等学校以前には出会うこともないようなタイプの本を読んだ。
 内容や成績をこうも強調したところから見ると、この教師は──農民の子の生徒たちを「糞まみれから」救い出そうとして──彼らが田舎の生活を見棄てるのを好んだのではないかと思う人がいるかもしれない。ウィトゲンシュタインは、ほとんど成功しなかったが、時には、ごく少数の生徒に対し小学校を終えた後、勉学をつづけるように励ました。とはいえ彼らが田舎を去ることを奨励することはなかった。むしろ、彼は、生徒たちが精神生活に、つまり自分自身で考えることに目ざめることを求めていたように見える。おそらく、何にもまして、彼は生徒たちに正直な心を注入しようと努めたのだ。村や日常の実際的な仕事から彼らを引き離すよりも、彼が試みたのは、自分たちの生活に対する態度を変えること、自分の子供たちを自分で教育する農民になるように仕向けること、であった。
 さまざまな生徒や家庭状況に対し、彼が何を目ざし、どう柔軟に対処したかを、ある程度までではあるにせよ、伝えるために、したがって、彼が出会った両親からの反対がどんなものであったかを理解してもらうために、簡単にではあるが、彼のもっともよくできた三人の生徒、エマーリッヒ・コーダーホルト、カール・グルーバー、オスカー・フックスに対する彼の努力に触れておくのがよいであろう。
 エマーリッヒ・コーダーホルトは、後に第二次世界大戦が終ってから、トラッテンバッハの市長を一四年間つとめたが、裕福なプロスペラス農民の好運なプロスペラス息子である。彼は、知的で暖かく外向的な人間であり、今でも、ウィトゲンシュタインがクラスの皆に教えた学生歌や他の歌──そのうちのいくつかはラテン語である──を思い出し、何時間も歌うことができる。また彼は今でも、ウィトゲンシュタインが生徒たちに記憶するように求めたメーリケ、ケラーそしてシラーからの詩を暗唱することができる。彼の才能はウィトゲンシュタインには明白であった。トラッテンバッハにいた第二年──それはコーダーホルトの最終学年であった──、ウィトゲンシュタインは、コーダーホルトの父を訪ね、彼の息子が上級の勉学をつづける能力をもっていること、またつづけるべきであること、またウィーンでの手配をよろこんで手伝うつもりであることを告げた。彼の父は何も聞こうとせず、ウィトゲンシュタインに向かっていんぎんに、自分は農園をつづけてくれる後継者を必要としているだけだと説明した。「もちろん必要でしょうが、勉強すれば彼はもっとうまく肥料を撒くでしょう」とウィトゲンシュタインは答えた。ウィトゲンシュタインは、最後には、コーダーホルトの父親を説得して、少年がウィーンのギムナジウムに滞在するのを許してもらった。しかし、ウィトゲンシュタインは、ついていくことができなかった。コーダーホルトは年老いた婦人のもとに預けられたが、さびしかったようであり、十分に食べることができなかった。二、三日後に、彼は、ウィーンでの学生生活を高く評価することもなく──父親は大きく安堵したわけだが──家に帰ってきた。そして結局彼は農園を引き継いだ。けれども、この男は、明らかに通常の農民、あるいはカール・ウィトゲンシュタインの言葉で言えば、「進歩にとっての障害」ではなかった。ギムナジウムでの教育であったのであれそうでなかったのであれ、彼は教育ある農民である。彼は高地ドイツ語も村の方言も話すし、トラッテンバッハやオーストリアの政治のみならず世界の出来事にも生き生きした関心をもっている。
 カール・グルーバーは、ウィトゲンシュタインのお気に入りのそしてもっとも才能に富んだ生徒であり、別の意味で印象的である。彼は、六人の子供をかかえた──そのうちのいく人かはウィトゲンシュタインのクラスに出席した──貧しい家族の出であった。カールは、先生と同じように、内向的で思慮深くまた才能に富んでおり、ウィトゲンシュタイン彼のことをたいへん気に入っていた。ウィトゲンシュタインは、カールが出来のよくない子の宿題を助けて、自分や兄弟姉妹のためにパンを稼ぐことに反対しはしなかった。カールは、他の者たちよりも一歳年長だったが、一九二一年に公式に学校を終えたのち、ウィトゲンシュタインのもとで個人的に勉学をつづけた。毎日、午後四時から夕方七時まで、ウィトゲンシュタインは、上級のラテン語、ギリシア語そして数学の授業を通して彼を指導した。通常、二人は食料雑貨店の二階のウィトゲンシュタインの部屋で一緒に夕食をとった。ウィトゲンシュタインは、明らかに、少年が一緒に居てくれるのをよろこんでいたし、その年をつうじてカールの毎日の課業を妨げたのは、二ヶ月毎にトラッテンバッハにやってきたルートヴィヒ・ヘンゼルだけであった。その時でさえ、少年は忘れられたわけではなかった。この時までにウィーンのギムナジウムの教授となっていたヘンゼルは、歴史や地理やラテン語、またカールがウィーンのギムナジウムへの入学資格として必要とした他の科目について質問することにより、外部の試験官としてふるまった。
 結局、ウィトゲンシュタインは、カールに、首都における適正な教育──コーダーホルトの両親とはちがって、彼の両親にはとうてい学資を払えないような教育──を受けさせるためには、彼を養子にしなければならないと結論した。カールには養子になる意志があったので、ウィトゲンシュタインは彼の家族を訪ねて、自分がウィーンにおけるカールの将来の勉学を監督し費用の一切をもつと提案した。グルーバー夫人は提案に快く応じたが、父親の方は、ぶっきらぼうに、自分の息子にこれ以上の教育は問題外であるどころか、すでにもう十分すぎるほどの教育を受けたのであり、彼の年ごろの子は働いて自分自身の金を稼ぐべきだと答えた。ウィトゲンシュタインが家を去ってから、この大グルーバーは、彼のことを、とうてい自分の息子を任せることなどできない「気ちがい野郎 (ein verrückter Kerl)」と宣言した。
 こうしたこともあって、カール・グルーバーは働きに出た。そして、その年の終り、ウィトゲンシュタインがトラッテンバッハからプーフベルクに去ったとき、彼の課業は終った。だが結局彼は、トラッテンバッハもしくはノインキルヒェン中の他の村落にとどまった大部分の級友とは異なって、家族のもとを離れてウィーンへ行った。そこで自力で仕事を見つけた後、カールはウィトゲンシュタイン連絡をとろうと試みたが、すでにはウィーンを去りケンブリッジに立っていたことを知らされたのみであった。彼は、手紙を書くことを考えたが、意を決してとりやめた。ほど経て彼は結婚し、ウィーンの郵便局員となった。『上級学校の』卒業証書をもっていなかったので、彼はその知力にふさわしい成功を得ることは決してできなかったが、自分や家族のために適切なまた時には快適な都市生活を送ることはできた。今日、彼は、ウィトゲンシュタインが自分を養子にすることに成功していたなら、自分もまた大学の哲学教授になっていたかしれないと憂鬱そうにちの思いにふけっている。もし事態がそう進んでいたら、ウィトゲンシュタインを悲しませてしまったことだろう。なにしろ、ウィトゲンシュタインは、彼のもっとも才能に富んだケンブリッジの学生の何人かに職業としての哲学を避けるように強いていたのだから。
 いずれにせよ、ウィトゲンシュタインはここでもその刻印を残している。グルーバーと村の他の生徒たちとの差は歴然としている。コーダーホルトでさえグルーバーの知力には畏敬の念をもって言及している。そしてグルーバーがトラッテンバッハを訪問するために戻ってくる時には、彼の古い級友や友だちは、お互い同士では払わない一種の抑制された敬意をもって挨拶する。彼は先生のことを忘れなかった。彼にとってウィトゲンシュタインとの学校時代の思い出の品々は宝物でありそして、ウィトゲンシュタインの古い生徒たちのうちでウィトゲンシュタインの一般的な経歴を知っていたのは彼だけであった。
 ウィトゲンシュタインが深い関心を払った第三の生徒は、オスカー・フックスであった。しかし、彼は本研究の開始以前に亡くなっていた。彼のことや、ウィトゲンシュタインに対する彼の関係についての情報としては、頼るべき典拠は主として二つである。〘一つは〙キルヒベルク・アム・ヴェクセルの高等学校の英語教師ルイーズ・ハウスマン女史によって一九六四年に準備されたノインキルヒェンにおけるウィトゲンシュタインの活動を説明する短い草稿であり、〘他は〙ウィトゲンシュタインの遺稿管理人によっていつか出版されることが望まれるウィトゲンシュタインからフックスへの驚くべき手紙である。フックスも、ウィトゲンシュタインのもっとも輝かしい生徒の一人として、彼から個人的な指導を受けていたが、ウィトゲンシュタインは明らかに彼が公式の勉学を彼のつづけるのを励ますことはなかった。フックスがハウスマン女史に語った思い出によると、フックはスが父と同じように靴屋になりたいと言った時ウィトゲンシュタインは喜びを表わし、「人間は、うっぷんを晴らすことができるためには、何か通常の仕事をもっていなければならない」と注釈したという。なぜウィトゲンシュタインがフックスに対しては別な風に対応したのかは断定できない。おそらく、彼は他の者たちより、才能に恵まれていなかったのかもしれない。とはいえ彼の家庭がいっそう幸福であったことはたしかである。また、ウィトゲンシュタインは、グルーバー家に申し出を拒絶された時に深く傷ついていたので、再び拒絶されるような目に会うつもりはなかったのかもしれない。事実として言えば、彼はすでにフックス家の拒絶に出会っていた。ウィトゲンシュタインは、クリスマスの時期に、ベルク劇場で芝居を見るために、フックスを一緒にウィーンにつれでいこうとしたが、逃げ口上を言われて拒絶されたのであった。フックスの母親は、彼が「奇妙な奴」と出かけていくという考えに反対したのである。ウィトゲンシュタインは、フックスを援助するという彼の側での何らかの試みが、もし成功したならば、家族のもとを出てウィーンでの勉学を熱烈に望んでいたカール・グルーパーに潰滅的な効果を与えるだろうとおしはかったのかもしれない。
 いずれにしても、ウィトゲンシュタインとフックスは接触を保っていた。ウィトゲンシュタインがトラッテンバッハからプーフベルクに去ってからも一年半ほどのあいだ、彼らは手紙をやりとりしていた。ウィトゲンシュタインは、書物を送り、フックスは、余暇時間に地質学を研究していたので、トラッテンバッハで見つけた岩石の標本を送っていた。
 エマーリッヒ・コーダーホルト、カール・グルーバーそしてオスカー・フックスは、学校終了後、あるいは可能ならば夕方に、ウィトゲンシュタインと会った生徒たちの小さな結社の核を形成していた。グループ全体は大きなものではなく、主として、もっとも輝かしい生徒や少数の「彼がその顔を好んでいた」者から成っていた。これらの少年たちはしばしば夕方八時までウィトゲンシュタインと一緒にいた。彼らの討論の主題はさまざまであった。時としては、その日の学校の授業が継続されたこともあろう。別な時には、まったく新しい主題が導入されたこともあろう。ウィトゲンシュタインが彼らを森につれて行き岩石や植物を収集させたときには、生徒たちはそれらにラベルを注意深く貼ったことであろう。あるいは、暗くなってから、ウィトゲンシュタインは彼らに星座や初歩的な天文学を若干教えることもあった。ウィトゲンシュタインが親たちから容易ならざる抵抗をうけたのは、こうした遅い時間に授業したためであった。
 以上の手短なスケッチをつうじて、村落にかんするひとつの事実が明確に示されていることがわかる。つまり、子供たちは地域の労働力の重要な一部であったということである。大部分の家族は、家のまわりや納屋や農園で子供たちが何時間も手伝ってくれることに依存していた。カール・グルーパーの父親は、息子が他の生徒たちの宿題を手伝って稼いでくるパンに決して満足してはいなかった。父親は、彼が仕事をもつことを必要としていた。エマーリッヒ・コーダーボルトは、オスカー・フックスと同じように、父親の仕事を引き継ぐように仕込まれていた。村落生活のこうした経済的事実にウィトゲンシュタインは積極的に干渉していたわけである。弟子たちの集団をつくり上げることで、彼は、弟子たちの家族から、生徒たちの時間と──そして愛情──を盗んでいたわけである。
 苦情にかかわらず、ウィトゲンシュタインは、正課後の指導を中止することはなかった。トラッテンバッハと同じように、ブーフベルクやオッタータールでも、ウィトゲンシュタインは同じようなグルーブをつくった。ブーフベルクは、相対的に言って豊かであったので、ウィトゲンシュタインは抵抗に出会うことは比較的少なかったが、オッタータールでは、子供たちが夕方農園で働くことが実際問題として重要であったので、ウィトゲンシュタインは、最後には、荒々しく激しくまた悪意に満ちた反対に出会った。

 一九二六年のオッタータールにおける彼の最終的な破局の下地は、四年前にトラッテンバッハで、それと気づかれることなく、用意されていた。というのは、その時、ウィトゲンシュタインのお気に入りの生徒たちの一人カール・グルーバーの兄のコンラートが、ウィトゲンシュタインの「体罰の実行」なるものを町中の話の種にさせることになったいたずらをしかけていたからであった。地理の授業の時に、ウィトゲンシュタインは、コンラートの出来が悪かったので一度平手で打ったことがあった。コンラートはひそかに出血するまで鉛筆を鼻のなかにさしこんだ。出血を見て少しばかり騒ぎがおこった。コンラートは出血をとめるために退室することを許されたが、事実としては、彼自身の約四五年後の説明によれば、彼は授業の残りの時間も血が出つづけるようにしたのであった。ウィトゲンシュタインがコンラートに鼻血をださせたという話はすぐに町中にひろまった。この時には、コンラートはあまりにも深くかかわっていたので、自分のしたことを白状できなくなっていた。しかしながら、他の何人かの子供たちは、実際には何がおこったのかを知っており、自分でも同じようないたずらを試みた。たとえば、ある生徒は、罰として隅に立っているように命じられると、五分かそこらは立っているが、やがて気絶したふりをして床に倒れたりした。それで、トラッテンバッハやオッタータールでは、ウィトゲンシュタインは、子供の扱いが手荒く、子供たちに出血や失神を生じさせると言われるようになった。
 事実はどうであったのか。互いに衝突する説明が数多くあるので、事実はあますところなく明らかというわけにはいかない。
 今日生きているウィトゲンシュタインの生徒たちは、彼がたしかに少年たちを鞭で打ったり、彼らが無作法をしたときには耳をなぐったり、また小さな失策に対して頰に平手打ちをしたと証言している。こうした行動は学校改革の諸原則とは絶対に相容れないものであった。さらに、他の報告によれば、ウィトゲンシュタインがこの時期ひどく興奮した精神状態にあったことが示唆されている。授業中に急に発汗することもしばしばであったし、繰り返しあごをなでたり髪の毛をむしったり、またくちゃくちゃになったハンカチを咬んだりした。他方で、これら同じ生徒たちによれば、ウィトゲンシュタインは他の教師たちよりも多く鞭を使ったわけではなかった。そして彼が他の教師たちから異なっていたのは、鞭を公正に、首尾一貫して、そして予見可能な仕方で使ったという点である。彼の罰は、恣意的でも気まぐれでもなく、また彼が生徒たちを驚かせることも決してなかった。多くの教育者たちは、まさしくオーストリアの学校改革者と同じように、どんな体罰に反対するであろうが、通常、次の点では一致するであろう。体罰によるのであれ他の手段によるのであれ、最悪の賞罰システムは、子供が自分の行為の帰結にかんして不安を感じるような不確定状態にあるとき、賞罰にかんして優柔不断であるようなシステムであるという点である。ウィトゲンシュタインは優柔不断ではなかった。彼は確固としており、首尾一貫していたし、どんな種類の行動が罰せられるのかを生徒たちにはっきりと明示していた。変わることなく罰せられた種類の行動は不正直であった。そして罰を逃れる唯一の道は、ウィトゲンシュタインから説明を求められたとき、正直に告白することであった。たとえば、ある日、彼が、授業で各月の名前を知っている生徒は何人いるかを調べたことがあった。多くの生徒が手を上げたので、ウィトゲンシュタインはつぎつぎに尋ねていった。たまたま、各月の名前を暗唱できたのはごくわずかであったので、ウィトゲンシュタインはひどく怒った。手は上げたものの知らなかった生徒のひとりであったコンラート・グルーバーに向かって、ウィトゲンシュタインは説明を求めた。コンラートは、「知らないのが恥ずかしかったからです」と答えた。この率直な答えのおかげで、コンラートは罰を免れた。同じことは他の者にもあてはまった。自らの不正直を説明できた者は赦されたが、それのできなかったものは罰せられた。
 これと比較できそうな出来事エピソードは、トラッテンバッハにおけるウィトゲンシュタインの第二年の謝肉祭の時におこった。農夫のトラートがウィトゲンシュタインにドーナツを何個か送った。そして、それは通常生徒たちのひとりが運んでいた。ウィトゲンシュタインの部屋に行く途中で、少年はドーナッツを二つ食べてしまった。つぎの日ウィトゲンシュタインは教室でその少年に「何個ドーナッツを食べたのか」と聞いたのである。少年はまっかになり、ウィトゲンシュタインが自分のしたことを発見したことにめんくらい、「二つ食べました」と答えた。ウィトゲンシュタインはその返事を聞いたとき、彼の誠実さに感謝し、罰することはなかった。代わりに、彼は、農夫のトラートが、その生徒は気づかなかったのだが、パン屋の一ダースである「13」という数字を書いた紙きれを入れていたのだと説明したのであった。
 しかし、自分で鼻血をひきおこしたコンラート・グルーバーや、「気絶」した他の子供たちは、それとは知らず、うその素地をつくっていた。トラッテンバッハやオッタータールの子供たちが、授業の終了後、帰宅するより、悪いことをしたら罰せられる危険があるにかかわらず、一緒に長い時間をすごしたいと思うほどに子供たちをとらえた男は、いまや、形式的には、生徒を加虐的に罰したとして告訴される運命にあった。
 危機は一九二六年四月に燃えあがった。何人かの村人によれば、この時期までにウィトゲンシュタインに対する本物の「陰謀」が練り上げられていた。指導者、あるいはいずれにせよ、主謀者はピリバウアーという名の男であり、「ウィトゲンシュタインを窮地に陥れる」機会を狙って何ヶ月も「待ち伏せ」していたと言われる。ピリバウアーの家に養母が住んでいた子の頰あるいは耳をウィトゲンシュタインが打った時に、ついに彼にとっての好機がやってきた。その子は気を失って校内の事務室に運ばれたと考えられている。自分で気絶したふりをしたことのあるウィトゲンシュタインの古い生徒たちの何人かは、この少年もまたそうしたのだと示唆してくれた。しかしながら、この少年は、後に、ウィトゲンシュタインがこの地を去った後でも、また外部から興奮させはられることが何ない時にも、多くの機会に気絶したのであり、そして二年後に白血病で亡くなった。
 正確な事情がどうであったのであれ、ウィトゲンシュタインに対する訴訟手続きがとられた。彼は〘法廷で〙彼らに対決したとき、静かに「君たちはわたしに反抗しようとしているが、そんなことはわたしにとって問題ではないのだよ。もっと、君たちがお互いに一致していることがなければの話だが。わたしの準備はできている」と述べた。その後、彼は突然町を去り、小学校で教えることは二度となかった。
 少年に処置を施すために呼ばれたキルヒベルクの医者は、職務にしたがって報告書を作成した。グロクニッツでの審理は、ウィトゲンシュタインの精神的責任能力を決定するための強制的な精神病理的検査による中断はあったものの、続行された。ウィトゲンシュタインは無罪になったが、学校でなおる教えつづけるといった考えは断固として拒絶した。彼の自発的退職の日付は四月二八日である。彼は、いまや、トルストイの高貴なる農奴にはうんざりしていた。そして、ウィトゲンシュタインにオッタータールの人びとの敵意を注意し、さらにこの時期に至ってるウィトゲンシュタインに退職の決意を思いとどまるよう説得を試みていたクントでさえも、この時にはもう、ウィトゲンシュタインがこの地区で教育活動を継続することには意味がないという事実を受け容れていたように思われる。

 学校教師としてのウィトゲンシュタインの経歴を閉じさせることになったこれらの出来事は、厳密に全体の脈絡から切り離して考えてみるならば、奇妙なるのと見えるし、またそれらがたまたまウィトゲンシュタインにふりかかったことを別にすれば、ほとんど重要性をもたないようにも思われる。しかし、学校改革綱領やオーストリアの政治状況という背景に照らしてみるならば、その感義には格別のものがある。
 手荒な折檻に対する苦情が、これほどに──つまり、ウィトゲンシュタインを法廷に立たせるほどに──なりえたとするなら、その背後には折檻の問題以上のものがあったにちがいない。ウィトゲンシュクインが厳格な紀律主義者であるというおよそ的はずれの評判を鵜呑みにしたところで、当時は体罰が日常茶飯事であったことが思い出されねばならない。ハプスブルグ領内においては、野蛮きわまる類の学校紀律がふつうであったし、それは、二〇年代、三〇年代においても広く行きわたっていた──もっとも、その頃には、体罰は学校改革主義者自身のあいだで各論争の主題にされてはいたが。それゆえ、一見するかぎりでは、仮に告発が真実に拠っていたところで、ウィトゲンシュタインの同僚が、親の苦情に対して、彼を支援しなかっただろうとは思えないのである。
 事件の全体については、いずれかと言うと入り組んだ説明が存在する。折檻にかんする告訴は、より根の深い反感の口実であったように思われる。ウィトゲンシュタインに対する「陰謀」──その細部はもはやわれわれには窺い知れないが──を指導したのは、ピリバウアーのような何人かの村人、何人かの地区司祭(しかし、ノイルーラーは含まれない)、そして何人かのウィトゲンシュタインの同僚であった。また、それは、その性格からして、政治的でもあれば個人的なものであった。それは、オーストリア全土で緊張が高まっていた一九二六年の春、つまり、学校改革綱領が地方で後退をよぎなくされ、回復不可能になりつつあった時期に生じた。オッタータールの保守的な農民諸勢力は、反学校改革運動の全国的な強さを感じとるや、さまざまなレベルで間違いなく彼らに脅威と害を与えていた男をウィーンに送り返すために、彼らが見つけることのできたこの最初の口実を時を移さず用いたのである。ウィトゲンシュタインは、その禁欲的な生活にもかかわらず。依然として金持と考えられていた。彼はまた社会主義者と見なされていた。彼がローマ・カトリック教徒でないことは知られていた。彼は、進歩的教育の提唱者であり、実証主義的論文の著者であり、(どうして知られたのかはわからないのだが)村人たちには同性愛者であることが知られていたし、村の女たちには女ぎらいであると考えられていた。そして、彼らにとってもっと耐え難かったにちがいないのは、彼が、町のちっとも才能ある子供たちをその家庭から引き離すほど、あらゆる点で極端に成功した教師であったということである。
 オッタータールにおけるウィトゲンシュタインへの迫害は、いずれにせよ、孤立した出来事ではなかった。一九二六年の騒動の結果としてオーストリアの政治的諸党派のあいだには、妥協が成立したが、それが実際に意味していたのは、社会民主党が、たとえば、ウィーンの如く、優勢であったところでは、グレッケルの基本的綱領は維持されたということである。しかしながら、地方においては、キリスト教社会主義カトリック党が大部分の地区で強固な多数派を形成していた。グレッケルは、連邦政府の職を失った後、ウィーンの学校評議会の長となり、ドルフュス独裁──その主たる支持母胎は地方にあった──が学校改革を完全に終息させ、グレッケル自身を含めて多数の指導者を逮捕し、『泉』や(ウィトゲンシュタインもしばらくのあいだ予約していた)『学校改革』といった雑誌を発刊停止にした一九三四年まで、その職にとどまっていた。その後につづく検閲の時期、それらの雑誌は国立文書館のなかへ錠をかけて仕舞いこまれてしまい、一般の読者には近づくことのできないものとなった。教育改革は危険きわまりないものと考えられたのである。
 最初は、改革綱領に心底から熱中して支援していたウィトゲンシュタインの友人へンゼルでさえ、後には──政治的、社会的そして宗教的理由から──きびしく反対するに至った。ヘンゼルは最後にには学校改革に対する論駁書『新しい学校に抗して』を出版しさえした。

 ウィトゲンシュタインと学校改革運動との関係についてのわたくしの考察が誤解を受けることを回避するために、知的「影響」や、わたくしがここにあったと信じている種類の影響について、数言を費やしておかねばならない。
 影響ということを、絶対的な意味で、つまり、誰かに影響されるということはあたかもその人物の世界観全体を奴隷の如くに受け容れることであるかのように考える人もいる。この種の影響はもとより生じる。そしてそれは、学者や学問上の努力、そしてなによりも、個人間の相互関係を毒する教条的な「門人制」の源である。自分自身こうした門人である者は、影響というものはどんな場合でもわが身の場合に似ていなければならないと考えるであろうし、またわたくしが、ウィトゲンシュタインはグレッケル、ピューラーそして学校改革主義者に影響されたと言っているのを捉えて、わたくしが示唆しているのは、ウィトゲンシュタインが彼らの考えや実践の盲目の信奉者になったということだと考えるかもしれない。
 真摯で自己批判的で独創的な思想家には、このようなかたちで、重要な影響を受けた者はほとんどいない。またわたくしが、ウィトゲンシュタインを学校改革運動の奴隷的な信奉者であると考えたことも決してなかった。それところか、その正反対である。こうした点についてはウィトゲンシュタイン自身が次のように断言していた。「わたしは、自分が影響されるのを認めない。それがよいことなのだ! ……ある精神によって文字通りふくらまされただけのからっぽのチュープとして現われざるをえないというのは屈辱である」。
 しかし、別種の影響も存在する。それは、ある観点に批判的かつ情熱的に対決するものであり、したがって、その過程でその観点を吸収してしまうこともあるような種類の影響である──換言すれば、その観点に即して理解し考えることができるようになり、また、まじめにその観点を吟味するし、理論的であれ、実践的であれ、あるいは問題の把握の仕方においてであれ、価値のあるもので何でも引き出す一方で、偽なるものとか無用なもの、さらには何らかの理由で吸収しえないようなものは、何であれ、拒否するような種類の影響である。こうした過程においては、もとの観念は驚くほどに明晰化され豊かにされることであろう。こうした積極的な意味で、ウィトゲンシュタインはフレーゲに影響されたのであるし、またラッセルとウィトゲンシュタインお互いにこのようなかたちで影響し合っていた。そしてわたくしの見るところ、ウィトゲンシュタインが、自らの学校教育の経験、また改革運動、そしてそれを横たえさせていた哲学的心理学によって影響されたというのは、ひとりこうした意味においてのみであった。学校改革〘運動〙は、ウィトゲンシュタインの生涯にとって、その思想に重大な意味をもった出会いであった。
 ウィトゲンシュタイン自身は、自身がこの種の影響に服していると信じていたし、また控えめにではあるが、そう述べていた。ノートブックの中で、彼は、誰かある者から一連の思考を引き継ぎ、そして──それと熱狂的に取りくみ──明瞭化していく次第について書いている。この種の仕事は、「他人の精神的土壌で育った草花を素描し、ひとつの理解可能な絵にまとめていくこと」であると彼は語っていたのである。さらに彼は、ほとんどの注釈者が受け容れないであろうような謙虚さをもって、自分の独創性は「種子よりもむしろ土壌に属する独創性である。(おそらく、わたしは自分自身の種子などってはいない)。わたしという土壌に種子をまけば、他人の土壌におけるのとは違ったふうに成長するだろう」とさえ主張している。つづけて彼は、この点では類似性を認めていたフロイトの独創性に自分のそれをなぞらえた。

XⅢ

 いままでの話は、ウイトゲンシュタインが一九二〇年から一九二二年まで、そして一九二四年から一九二六年までそれぞれ教えていたトラッテンバッハとオッタータールに焦点をあてるものであった。これは、そのあいだ、彼が教えていたブーフベルク・アム・シュネーベルクを無視したことを意味している。そこでのウィトゲンシュタインの経験は、他の二つの村落における場合とはかなり異なっていた。ブーフベルクでは彼は比較的幸せであった。
 プーフベルクは今でも、そして二〇年代にはさらに、かなり栄えたリゾート地であった。それはまた、大きな、三千人以上の人口をかかえた、村というよりはむしろ町である。加えてそれはかなり美しい町でるある。そこでは、友達──彼自身に似て憑かれた如き十字軍兵士と言えるノイルーラーのような人物ではなく、謙虚だが才能のある若い音楽教師でピアニストのルドルフ・コーダーをえた。コーダーは、後には妻と家族とともにウイーンに移り、ウィトゲンシュタインの生涯の友となるとともにウィトゲンシュタイン家の好ましい客となった。
 それからまた、ウィトゲンシュタインのプーフベルク在住中に、ついに『論考』が出版され、イングランドではかなりの哲学的関心をあつめつつあった。F・P・ラムゼイがプーフベルクのウィトゲンシュタインのもとへ巡礼の旅をしてきた。ウィトゲンシュタインはまた地区司祭ともうまく折り合いをつけ、そして──彼がラッセルに宛てて述べていたような虫の知らせにかかわらず──同僚たちと親密な関係をもった。同僚の一人、数学教師のノルベルト・ロズナーとは友情に近い関係を楽しんだ。ウィトゲンシュタインは、口ズナーの求めに応じて、数学を教えてやった。ロズナー自身が述べているのだが、ウィトゲンシュタインは成功を収めたようには見えなかったにもかかわらず、ロズナーは熱心に学び、彼らの関係は友好的なものでありつづけた。プーフベルクの校長また、「この男は、すでに、わたし自身ができたらよいのにと思っている一切をなし遂げることができる」と述べて、ウィトゲンシュタインを激賞した。
 この落ち着きは過大評価されてはならない。まったく反対に、ウィトゲンシュタインはプーフベルクでち、オッタータールやトラッテンバッハにおけると同じように振舞った。彼は子供たちには厳格である一方で、彼らと一緒に感銘深い教育上の成功を収め、また、実験モデルを組み立てたし、骨格標本もつくり、プーフベルクの学童たちをウィーン旅行にも連れていった。
 プーフベルクでも、町の連中に対するウィトゲンシュタインの振舞は奇矯というほかなかった。下宿の女将とけんかした後、彼は引越さざるをえなかったが、今回はわずか十八フィート平方という信じられないほど小さな部屋を見つけ、そこで夜の十時すぎにベッドカバーの下でクラリネットを演奏したというのである。彼はルドルフ・コーダーと毎日演奏し、また一緒に長い散歩をした。しかし、アルヴィッド・スジェグレンが、いつらのように訪ねてきたときには、村人たちは注意深くそして静かに演奏を楽しみながら彼らを見つめていた。スジェグレンは、音楽に理解がなかったので、ウィトゲンシュタインとコーダーが演奏しているあいだ、腰かけや床に座っていたが間もなく寝てしまうことがあった。つまるところ、ウィトゲンシュタインは演奏活動に加わるべき音楽好きの人物を捜していたが、まったく思いちかけない所で見つけた。ポッスルという名の地方の炭抗夫が、トリオを形成するために、ウィトゲンシュタインとコーダーに加わったのである。後にウィトゲンシュタインは、ウィーンの家族がポッスルを使用人として雇うように計らった。それで、この男はストンボロウ家に仕えて残りの働ける年月をすごした。
 プーフベルクと他の村落とのあいだの差は単純明瞭だったように思われる。プーフベルクの町の人びとは一段と豊かであったし、功名心に富んでいた。また、彼らは、行楽地や観光客相手の商売をつうじて、都市生活者の生活様式に比較的慣れていた。彼らは、ウィトゲンシュタインが子供たちと一緒に収めた成功を評価したし、また経済的に子供の手助けを強く必要とすることもなかった。したがって、プーフベルクでウィトゲンシュタインが授業の終った後、子供たちと演奏活動をしてる、ごくわずかの愚痴を呼びおこしたにすぎなかった。距離的に言えば、プーフベルクは、オッタークールに隣接していたが、時間的には、ウィーンにいっそう近かった。

XⅣ

 ウィトゲンシュタインがオッタータールを去った後の何ヶ月間は、彼の人生における深層での移行期であった。オッタータールを離れて約六週間後の六月三日、母親が亡くなった。彼は、その夏の残りを、ウィーン郊外ヒュテルドルフの慈悲の友会修道院にひきこもってすごした。ウィトゲンシュタインは、以前そうであったように、園丁として働き、まじめに修道士になろうと考えていた。現在、修道院はもはや存在せず、いまではその建物は貧窮した母親とその子供たちのホームとして用いられているが、いまでも記憶している何人かの老人が存命であり、ごく少数の者はウィトゲンのシュタインのことを「非常に善良で実に勤勉な園丁──そしてアカ」として覚えている。
 一九二六年の夏がすぎ、ウィトゲンシュタインがウィーンに戻ってきたとき、彼はかつて何年間かそうであったよりいっそう家族と結びつき、姉のマルガレーテ・ストンボロウの計画に加わった。結局、その計画によって彼は閉じこもった設から抜けでて大人たちの世界に入ったのであり、その世界から思い切って哲学に戻るに至ったのである。マルガレーテは、クントマン通りのほとんど市の一区画に相当する広大な土地に、大邸宅の建築を企てていた。その土地は、かつてラズモフスキー宮殿の土地の一部であったところであり、一九一九年から二〇年にかけてウィトゲンシュインが通っていた教員養成所と通りをはさんで真向かいに位置する土地であった。
 ウィトゲンシュタインは、邸宅の建築に際して領導的な役割を演じるに至ったこともあって、友人のパウル・エンゲルマンととらに、共同建築家としてしばしば名前を挙げられている。
 はじめ、ウィトゲンシュタインは、こうした──建築家になるという──一歩を、後退と見なしていた。彼はオッタータールでの同僚ヨーゼフ・プトレに次のように打ち明けていたのだから。「彼は、一時期、建築家あるいは薬剤師になろうかと考えましたが、それらの職業では自分の求めているものを見出せないだろうと結論するに至りました。それらの職業とか他の職業についたにして、原理的に言って、ちゃちなビジネスマン以上にはなれません。僕は尊敬される市民としても死にたいのです。これをもっとも良く達成するにはトラッテンバッハのような所に引きこもるにかぎるように思われます。そうしたところでしたら、僕は、教師として、年少者の教育者として、簡素な生活を維持しながら、自分にとって尊敬にあたいすると思われる仕事に従事することができます」。
 しかしながら、この一歩は決定的な前進であることが明らかになった。従来、この邸宅をデザインするにあたってウィトゲンシュタインとエンゲルマンのそれぞれがどんな役割を演じたのかは明確ではなかった。加えて、エンゲルマン自身が、この邸宅を設計した功績の大部分をウィトゲンシュタインに帰していただけに、いっそうそうであった。事実としては、邸宅の基本計画はエンゲルマンによって描かれたのだと思われる。最終計画に密接に照応するとともにウィトゲンシュタインがまだ村落の学校で教えていた時分に描かれたエンゲルマンのスケッチ帳が保存されているからである。この邸宅は、その外観からすると、本質的に、エンゲルマンの師にしてウィーンの偉大な建築家アドルフ・ロースの作品に由来すると言ってよい。この点は、ロースの他のいくつかの作品、たとえば一九一〇年という早い時期に建てられたウィーンの「シュタイナー家」のような作品と比較してみると簡単にわかることである。きわだって人目をひく独特の特徴は、邸宅のあらゆるところに用いられた床から天井に及ぶ背の高い窓であるが、これはマルガレーテ自身によって導入されたのであった。彼女は、五年ほど前にグムンデンの自分の別荘を改築した折に、同じような工夫をうまく用いていた。
 この邸宅に対するウィトゲンシュタインの貢献は、まず第一に、ある種の技術的細部──電気設備と暖房設備の一部──を立案したことであった。彼はまた建物の建築期間中、労働者たちを実に細かな点に至るまで注意深く正確に監督した。彼自身の独創的な貢献は邸宅の内装インテリアのデザインにあった。この点については次のように記述されてきた。「内装は……二〇世紀の建築史において例を見ない。すべてが再考されている。内装は何であれ、建築上のなんらかの約束事とか、なんらかの職業的なアヴァンギャルドから、直接移されるといったことはなかった」。しかし、ウィトゲンシュタイン自身は、この点については控え目であった。何年か後に彼はこう書いた。「あらゆる偉大な芸術には野獣がいる。飼いならされてはいるが。……わたしがグレートゥルのために建てた家は、決定的に繊細な耳と良き作法の産物であり、(文化、等々についての)広大な理解の表現である。しかし、初源的な生、噴出しようとする野性の生命──それには欠けている。したがって、健康ではないと言われることだろう」。
 これがあたっているにせよそうでないにせよ、明らかに、邸宅の建築はウィトゲンシュタインにとって健康なものであった。建築に伴う活動は、大人たちのコスモポリタン的にして教育ある社会に彼を押し戻した。そして、この時期、彼はシュリック、ヴァイスマンそしてウィーン学団の他のメンバーたちとの会合を始め、哲学を再び論じつつあった。したがって、建築家としての時間をすごすうちに、他の意味ではともかく、心理的には、一九二九年一月に、哲学に──そしてケンブリッジに──戻るという彼の最終的な決心が準備されたのである。

第四章 言語ゲーム

 第一次大戦前、ウィトゲンシュタインがケンブリッジにいたあいだ、彼の天才とその仕事の重要性は異論の余地のない方のであった。『論考』の出版に先立つ約九年前、ラッセルとムーアは有頂天になって彼を賞賛していた。ラッセルは、その著『私の哲学の発展』中の証言に見られるように、ウィトゲンシュタインの批判に照らしてみずからの所説を根本から修正したし、ウィトゲンシュタインの母親に、哲学における次の偉大な前進は御子息に由来すると期待する旨を語っていた。一九二二年以前にあっては、イングランドにおける最良の精神の持ち主の多数は、ウィトゲンシュタインの哲学的発展を継続させるために、彼を最良の環境におくことができるならどんなことでもする用意をもっていた。たとえば、ジョン・メイナード・ケインズは、モンテ・カッシーノの捕虜収容所からウィトゲンシュタインを解放するために斡旋の労をとった(これは一度は承認されたが、ウィトゲンシュタインが拒否した)し、ラッセルは、彼と会って話をするためにハーグやインスプルックへ旅行したし、ラムゼイや他の若いイングランドの学生がプーフペルクへ巡礼した。
 一九二〇年代には、時として、ウィトゲンシュクインと彼の以前の教師たちのあいだで、ものごとが昔のままではなくなっていたことを暗示するものがあった。たとえば、ラッセルとウィトゲンシュタインは一九二三年のインスブルックでの会合の後、相互にいらいらしたまま別れ、互いに嫌気を感じ合った。しかし、一九二九年一月に、ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻ってくるまでは、ウィトゲンシュタインの思考方法、および以前の教師たちに対する関係における全般的変化が表面に出はじめることはなかった。最初の出会い、とりわけ、ムーアとの出会い──ノルウェーにいた彼を一九一四年四月にムーアが訪ねてきてくれた時以来、ムーアとは再会していなかった──は、十分に満足のいくものであった。戦前におけるウィトゲンシュタインのケンブリッジでの勉学が博士号取得のための単位として算入されることがわかり、ウィトゲンシュタインは、ラムゼイを指導教官、ムーアを試験官として『論考』を学位論文として提出した。ラムゼイの病気そして早世により、ムーアとラッセルが口頭試問官の役を務めた。一九二九年六月の試問会は、一風変わった、だが懇切な雰囲気につつまれており、それは、ウィトゲンシュタインの「テーゼ」についてムーアが書いたという報告書に伝わっている。

わたくしの個人的な意見では、ウィトゲンシュタイン氏のテーゼは天才の作品である。しかし、それがどうであれ、それは、ケンブリッジの哲学博士号に要求される規準にまちがいなく十二分に適っている。

 やがて判明したように、哲学における次の大きな変革は、大幅にウィトゲンシュタインの影響に発するものであった。だが、それは、『論考』ではなく、「新しい」あるいは「後期」ウィトゲンシュタインの影響であった。しかも、その変革は、ラッセルの予料とは似ても似つかないものであった。ウィトゲンシュタインの「自分自身の偉大さに対する裏切り」を書き留めながら、ラッセルはこう記録した。「わたくしが賞賛したのは、ウィトゲンシュタインの『論考』であって、彼の後期の仕事ではなかった。それは、わたくしには、彼自身の最良の才能の放棄を伴っているように思われた。……そこにおける積極的な学説は、わたくしには、瑣末と思われたし、消極的な学説には根拠がないように思われた。わたくしは、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』のなかに、自分にとって興味がもてそうなものは何も見出さなかったし、なぜひとつの学派全体がこの書物のなかに重要な知恵を見出すのかわからないでいる」。

 ウィトゲンシュタインの後期哲学についていま与えたばかりの説明の心臓部には、哲学の基本的問題のひとつ、そして、ウィトゲンシュタインの後期の思索における厄介きわまりない側面のひとつが横たわっている。わたくしが思い浮べているのは、言語ゲーム、生活形式、そして文法の発展、洗練化、変化、誕生そして死という論題である。彼の著作のうちこの論題を扱っている部分は、明瞭さには欠けているとはいえ、整合的な──満足はゆかないにしても──立場は述べられている。
 困難を生じさせているのは、簡単にはすり合わせることのできない次の三つの主張である。(1)あるひとつの言語ゲームあるいは文法は他のものを裁いてはならないと主張する一方で、ウィトゲンシュタインは、また、(2)(カントとは対照的に)われわれの言語ゲームや文法的諸カテゴリーならびに諸概念が、変化し、発展し、進化しうることを認めている。文の種類の相違に書き及びながら、ウィトゲンシュタインはこう述べる。「こうした多様性は、一度あたえられれば、永遠に固定されたものになるといったものではない。そうではなく、新しいタイプの言語、新しい言語ゲームが、こう言ってよいと思うのだが、出現してくるのであり、そして古いるのは廃れ、忘れ去られる。(われわれは、これについての粗い像を、数字における諸変化からえることができる。)」(『探究』、二三節)。だが、彼はさらにこう述べている。(3)哲学はこの変化に干渉してはならない。つまり、「哲学は、いかなるかたちにせよ、言語の現実の用法に干渉してはならない……哲学はすべてのものをあるがままにしておく」(『探究』、一二四節)、そして「受け容れられるべきもの、所与のものとは──こう言ってもよいだろうが──生活形式である」(『探究』、原文二三六ページ〘全集Ⅷ、四五二ページ)。
 第一と第三の主張は、しばしば、そして理解できることでもあるのだが、イデオロギー的保守主義を支持するのとして、換言すれば、すでに囲いこまれ承認されている諸々の生活形式の平和的共存、つまり実際には、変化の余地を残さない姿勢を支持するのと受けとられている。第二の主張は、多くの場合、無視されるか、あるいは、無意味な形だけの護歩として片づけられている。
 問題は二重である。第一の問題はこうである。衝突し合う言語ゲーム、あるいは、生活形式が、相互の裁き合いによって、それ自身で文法的変化をひき起こすことが許されないのだとすれば、そもそ変化はどのようにして開始されるのか。また、それは如何にして評価されることになるのか。ウィトゲンシュタインはいかなる説明提出していない。第二の問題はこうである。もし彼が根本的な文法上の変化に好意を示すのであれば、なぜ彼は、その変化の確立過程で哲学が何らかの役割を果たすことを禁じるのであろうか。彼の説明は哲学の伝統にはそぐわない。哲学の伝統にあっては、根本的なカテゴリー変化をもたらすもっとも重要なすじ道は、おそらく、対立するカテゴリー枠組間の衝突を伴う合理的で知的な批判をつうじて生じると広く考えられているからである。われわれが携わっている言語活動のもつ文法の基本的な変化は、過去においては、多くの場合、一群のカテゴリー、文法、言語ゲームが他のものによって批判されるに伴って生じたのである。ごく少数だが、ウィトゲンシュタインには熟知の重要な概念上の、あるいは、カテゴリー上の変化を挙げてみるならば、現代論理学、非ュークリッド幾何学、そしてアインシュタインの相対性理論が発展するにつれて生じた概念上の変化はまさにこうしたのであった。歴史に残った記録に即して言えば、ウィトゲンシュタイン自身のもっとも忠実な弟子の一人、フリードリッヒ・ヴァイスマンは、ウィトゲンシュタインの後期哲学の諸原則についての入門的な解説を意図した本のなかで、アインシュタインによる同時性の分析を引いて、哲学が科学の前進を手助けした概念上の変化と明瞭化の事例であるとしている。
 ここで論じられている問題──概念的枠組の発展と変化、言語ゲームや生活形式の範囲と限界、決定を下すこと、ルールに従うこと、哲学の本性は、ウィトゲンシュタインの著作全体をつうじて論じられている。しかしながら、それらがもっとも啓発的にして重要な形で現われてくるのは、おそらく、宗教にかんする彼の論述においてであろう。彼自身はこの点を感じとっていたように見える。自らの後期哲学に注釈を加えながら、ウィトゲンシュタインはかつてこう述べた。「その利点とはこうである。もし、あなたが、たとえば、スピノザとかカントを信じるならば、それはあなたが宗教を信じていることに矛盾するであろう。しかし、あなたがわたくしを信じるならば、そうした矛盾は生じない」。ウィトゲンシュタインの批判者が、彼の哲学のこの部分のもつ重要性を看過するはずがなかった。エルネスト・ゲルナーの攻撃は、宗教に焦点をあてている点で、代表的なるのである。「哲学を破壊してしまうことで」とゲルナーはこう述べている、ウィトゲンシュタインは「信仰のための余地をあけた。……宗教の信者たちは、ウィトゲンシュタイン主義のうちに哲学からの批判を締め出す工夫を認めるばかりでなく、そのなかで彼らの信仰が積極的に批准されているのを認めることもできる」。彼らは、そうできるばかりでなく、そうした。ウィトゲンシュタインの親密な学生の何人かはローマ・カトリック教に回心したし、他の者はイギリス国教会の牧師志願者であった。そして、イングランドとアメリカにおける現代の宗教哲学者の大部分はウィトゲンシュタインの議論に依拠している。
 ゲルナーの評は、誇張されているが、根拠がないわけではない。ウィトゲンシュタインは(何人かの弟子とは反対に)宗教上の信念に対して「積極的な批准」を提出しているわけではないし、宗教の、文法あるいは生活形式にたいする批判をしめ出したわけでもなかった。彼がおこなったことは、批判することは哲学する者としての哲学者の仕事ではない、と述べることであった。哲学者〘の仕事〙を、さまざまなカテゴリーあるいは枠組の記述に限定することにより、ウィトゲンシュタインは、ブラトン、スピノザ、ヒューム、カントそして──ウィトゲンシュタインの同時代者のあいだでは──ラッセルといった名前に結びつくあの哲学的伝統の部分から離れ去った。これらの思想家はすべて、根本的なカテゴリーに対して哲学者がラディカルな批判を企てる必要性を強調したし、時にはそうすることが哲学者の主要な役割であるかのように語りした。こうした伝統はよくないもの(bad)かもしれないという点を認めたところで、「哲学する者としての哲学者(plilosopher qua philosopher)」というウィトゲンシュタインの作為的な句の眼目がどこにあるのかは依然として見てとることができない。というのも、さまざまな宗教を体現しているさまざまな生活な形式が出現したり消滅したりすること、あるいは、それらが批判されうることは否定しないままで、ウィトゲンシュタインは、哲学者が哲学する者としてそうした変化をひきおこそうとすることは禁したのだから。この区別はくだらない。哲学的発言をするために、ある種の帽子を被るわけでもないし──また、しないためにそれを脱ぐわけでもないのだ!
 ところで、宗教に対するウィトゲンシュタインのアプローチが批判者のものでなかったとすれば、それはまた擁護者のアプローチであるともまず言えないものであった。たしかに、彼自身は第一次世界大戦中祈りをささげていた。しかし、彼は、そのことを、教義の信仰とか擁護とからは切り離したいと思っていたのだ。彼は、伝統的な宗教の教義を支持することもなければ、多くの場合に、そうした教義の意味が何であるのかを理解してもいないということを鮮明にしていた。彼はこう言っていたのだから。「誰かが『ウィトゲンシュタイン、君は何を信じているのか。君は懐疑主義者か。君は死後の生きるかどうかを知っているか』と言ったとしてみよう。事実として、わたしは、実際のところ、『わたしには言えない。わたしは知らない』と言うだろう。なぜなら、わたしは、自分が『わたしは存在することをやめる』等々と言っている時に、何を言っているのかなんら明瞭な考えをもってはいないのだから」。別の箇所では、彼は、自らの罪と罪業の意識を含んだものとしての神の概念は理解できるが、創造者の概念を理解することはできないと述べていた。
 他の著作におけると同様、『探究』において、彼は、自らが当惑していた宗教とかその他の生活形式に対して、きわめて意識的に、文化人類学者、あるいは、「奇妙きわまりない言語をつ未知の国への探険者」(『探究』、二〇六─八節)の役割をとっていた。そして、彼は、そうした国の人びとが言語を発展させ、そして「通常の人間活動を」果たしているにもかかわらず、「われわれが彼らの言語を学ぼうとすると、それが不可能なことが判明する」(『探究』、二〇七節)という可能性を提起している。そうした部族について彼が述べていることは、現代におけるキリスト教の諸形態のかなりについても言えることであろう。「彼らが語っていること、彼らが発する音、そして彼らの行為とのあいだにはいかなる規則的な関連もない。しかし、それにかかわらず、そうした者は余計なものではないのである」。
 言語が理解されているところでさえ、ウィトゲンシュタインは相互が理解し合っていない可能性を認める。彼はこう述べている。「ある人間は、他の者にとって完全な謎であろう。それがわかるのは、われわれが奇妙きわまりない伝統に支配された不思議な国に行った時である。しかも、その国の言葉を完全にマスターした時でさえそうなのである。われわれは人びとを理解しない。(そして、それは、彼らが彼ら自身に向かって言っていることがわからないからという理由からではない。)われわれは彼らのうちにわれわれを認めることができないのである」(『探究』、第二部二二三ページ『全集Ⅷ、四四六ページ)。彼の親友であり学生であったスマイシーズとアンス コム──両者ともローマ・カトリック教徒になった──について、彼はマルコムに次のように述べた。「おそらくわたしは、彼らが信じていることがらすべてを信じる気にはなれないだろう」。 マルコムはこうつけ加えている。「こう述べたからといって、彼は彼らの信仰を誹謗していたのではなかったと思う。むしろ、それは彼自身の能力についての観察であった」。
 彼の主要著作に見られる宗教についてのこうした論評は、暗示的であり、また間接的である。宗教に対する彼の観念の直接の適用を見出すためには、『講義と会話』における宗教についての三つの講義、およびフレーザーの大著『金枝篇』についての短い批判的な論評が研究されなければなるまい。それら両方の箇所で、ウィトゲンシュタインは、具体的な例をひきながら、未開社会であれ宗教であれ、自分たちにとって、疎遠な生活形式に接近するにあたって、自分自身の社会の規準、はたまた合理性や科学の尊重という自分たち自身のまだ吟味されていない規準をもってするのは誤りであるとして注意を喚起している。そうした進み方は、どれほど首尾一貫したものであるにせよ、その疎遠な文法についての誤解を導かざるをえない。その出会いは、合理性という自らの規準に焦点をあてるのみならずその疎遠な生活形式が体現している合理性の規準を吟味するものであらねばならない。もし誰かが「ウィトゲンシュタインは理性〘の単一性あるいは普遍性〙を掘り崩している」と告発したとしたら、彼は、「そうでなくもないであろう」と答えるであろうと明言している。しかも、これが初めてであるとは言えないであろう。というのも、彼は『論考』を拒否がしたわけだが、その拒否は理性一般を掘り崩す試みであるとはまず言えないにしても、たしかにある重要な合理性の理論を打ちのめするのではあったのだから。
 ウィトゲンシュタインはこう警告する。宗教的論議に含まれる重要な用語「信じる」、「矛盾する」、「理解する」、「所見」、「誤謬」、「証拠」、「予言」──のすべては、観察者が非宗教的文法における通常の用法と見なすものの外側で使用されているということ、この点が考慮されないならば、宗教的論議における全論点が簡単に見失われてしまうことになろう、と。宗教的な生活形式に参与している人びとは一種の絵画的イメージに捕えられていることがしばしばあるとウィトゲンシュタインは主張する。たとえば、最後の審判に結びついた報酬と罪という絵画的イメージに捕えられているというわけである。とはいえ、「こうした人びとは、最後の審判が存在するという所見(あるいは見解)を厳格に保持している」と言うならば、この生活形式の文法についての理解が重大なまでに歪曲されよう。というのも、それは、非宗教的論議において使用されているような種類の「所見」ではなく、したがって、証拠、テスト可能性そして高い確率といった通常の規準に服するものではないからである──それゆえに、「仮説」とか「所見」といった語の代りに「ドグマ」や「信仰」といった語が好んで使われるのだというわけである。
 ウィトゲンシュタインに対する批判として、自分たちの重要な用語キーワードをそのような通常から離れた意味で使用する信者も何ほどか存在する一方で、自分たちの宗教的信念を証拠による支持と科学的テスト可能性の規準に服する種類の仮説である、と主張する信者も依然として多数存在するのだと主張されてよい。ウィトゲンシュタインは、もちろん、そうした人びとが存在することを知っているが、彼らを笑うべき者と見なす。そうした信者は、とウィトゲンシュタインはこう述べる、「わたしなら、はっきり非理性的と呼ぶであろう。わたしは、これが宗教的信念であるというなら、それはまったくの迷信であると言うであろう。しかし、わたしはそれを笑いはするが、不十分な証拠を基礎にしていると言って笑うのではない……この男が笑うべきなのは、この者が信じており、そしてその信仰を弱い理性に置いているからである、と言えるからしれない」。
 この点においてウィトゲンシュタインは整合性をかなぐり捨てている。なぜなら、少なくとも「通常の」観点からして、科学の諸規準を誤用していると分類される信者は、誤用することが彼ら自身の生活形式の一部であるのに、まさにそうすることが許されないということになりはしないかと思われるからである。また、誤用することは彼ら自身の生活形式の一部ではないとするならば、誤用を許さないということは、結局のところ、可能な生活形式への哲学的な干渉ではないのか。こうした生活形式を自己欺瞞──自己欺瞞は問題のない概念であると仮定するわけだが──のためであるとするのは、実際、性急というものであろう。というのも、ウィトゲンシュタイン自身はこう警告しているのだから。「これらの言明は、それらが語っているものにかんしてのみ異なるというわけではあるまい。文脈がまったく異なったなら、それらの言明は宗教的信念になるであろうし、また、それらを宗教的信念、あるいは、科学的信念と呼ぶべきなのかが決してわからないような移行的状態も容易に想像しえよう」。
 ウィトゲンシュタインの宗教論におけるこの弱点は、宗教についての三つの講義では潜在的であるが、フレーザーの『金枝篇』にかんする短い論評では強烈なまでに表面に現われ出ている。「優越せる」一九世紀ヨーロッパの文化的諸規準は、フレーザーが論じたような多数の宗教を、評価し、批判し、分析することができるのだという尊大な仮定に対して、ウィトゲンシュタインは、良識に即して反対するものの、宗教がもっている所見とその儀式を結びつけるためにフレーザーが引き出した豊富な事実や連関に対処するにあたっては、まったく先験的アプリオリな仕方による6のを除けば、証拠も満足な理論ももってはいない。
 誤った信念、所見そして自然解釈という観点からなされているフレーザーの儀式論を却下し、ウィトゲンシュクインは、冷淡に、代案的な説明を提出するが、それには如何なる肯定的な証拠も欠けている。彼は、宗教上の慣習とは、意識されることもなく自足的にとどまる放出(release)と充足(satisfaction)への内的欲求に本能的に応えることである、と宣言する。彼の説明は次の如くである。「何かについて綴っている時、わたしは自分の杖で大地や樹木を打つ。しかし、そうしたからといって、わたしは、大地に罪があるとか、打つことがなにかの助けになると信じているわけではない。『わたしは自分の怒りに通気孔をあけるのだ』。そして儀式とはすべからくこうした類のものである。そうした行為は本能的と呼んでもよいだろう」。
 ウィトゲンシュタインは、この箇所におけるように、手軽に片づけている時でさえ、魅力的であり、それと知らずして要点を語っている。というのも、文化人類学者とか心理学者は、ウィトゲンシュタインが自らの貴金属の杖を失い、夢の呼びかけに応えることを拒否した後、一九二〇年代初めに緊張の解除を目ざして彼が採用したあの儀式を、どう解釈するのであろうか。女性を象徴する大地と男性を象徴する樹木を男根の象徴である杖によって打つことは、一八八〇年代のウィトゲンシュタイン御殿で成長しつつあり、老いたカール・ウィトゲンシュタインが正門を大またによぎり真紅の階段を登っていくときには壁が震えたという──そこに居た者たちはこう伝えている──家の中で、大きな年長のそして輝かしい才能に満ちた七人の子供たちに混って自己のゲームを演じることを試みていた少年によって形成されはしたものの、まだ分析されていない世界像とか世界解釈とどうかかわっているのだろうか、と彼は自問しはしなかったのだろうか。若きルートヴィヒが自らの杖で打った樹木をもっと精密に吟味していたならば、彼は上を見上げ、黄金の枝を見出していたかもしれない。
 こうした思弁もまたひとつの生活形式である──そしてウィトゲンシュタインはフロイトを「わが師」と認めていた。

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