野矢茂樹『無限論の教室』

「0より小さい自然数を発見できないのが人間の無能さの証ではないように、自然数を数え尽くせないのも、人間の無能さのゆえではない」
「矢がゼノンに到達しないというところは明らかにおかしいです」とぼくは言った。
「あたりまえです」と一蹴された。
「『線分が無限の点を含む』というのは、でも、数学で認められているのでしょう?」
 タカムラさんが言った。
「そこなんですよ。いったい、何が認められているのか。『線分が無限の点を含む』ということで何を意味しているのか。なんだと思います?」
 先生の目がこちらを向いたので、ぼくは答えた。
「線分が無限個の点の集まりでできているということではないんですか?」
 先生はうれしそうに身を乗り出した。瞬時に察知した嫌な予感は的中した。
「それは、すばらしく愚劣な答えです」
「どうしてかしら」ぼくの代わりにタカムラさんがつぶやいた。
「まさにそのように考えてしまうからこそ、パラドクスが生じるのです」
「すると、ゼノンは愚劣だったということですか」ぼくは尋ねた。
「ゼノンは愚劣ではありません。君のような考え方をするとパラドクスが起こる。それゆえ君のような考え方は愚劣だということをゼノンは示したのです」
「ここで、寄せ集め解釈と切り口解釈の二つの解釈が出てきました。これは実は無限論の系譜を辿るときにたえず現われる対立しあう二つの立場なのです。寄せ集め解釈は、線分には無限個の点がすでに存在していると考えます。それに対して切り口解釈の方は、あくまでも可能性としての無限しか考えません。線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれはいつまでも続けていける。その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限だと言うのです。無限のものがそこにあるのだと考える立場から捉えられた無限は『実無限』と呼ばれ、可能性としてのみ考えられるとされる無限は『可能無限』と呼ばれます。実無限派にしてみれば、可能無限などは本物の無限ではありませんし、可能無限派にしてみれば、実無限などは妄想の産物にすぎません。無限が完結した実体として存在するなど、可能無限派にしてみれば混乱し矛盾した概念でしかないのです」
「先生は可能無限の立場に立つわけですか?」ぼくは尋ねてみた。
「そうです。実無限と可能無限を最初に区別して議論したのはアリストテレスなのですが、彼は、可能無限を時間上に限りなく展開していく無限として、実無限を同時的に存在する無限として説明しています。そしてアリストテレス自らは可能無限の立場に立つのです。彼はわたくしと同じ立場です」
 タジマ先生がアリストテレスと同じなんでしょうと思ったが、もちろん黙っていた。
 タカムラさんが質問をした。「可能無限の立場というのは、実際には有限しか認めないわけですか?」
「どうして?」と、ぼくがタカムラさんに質問した。
「だって、いくら果てしなく続く可能性があるといっても、現実にはいつも有限にとどまるわけでしょう?」
「そう言ってもよいのですが」タジマ先生が答えた。「有限主義というのがあります。これは有限のところで頭打ちにしてしまって、可能性としての無限も考えないんですね。可能無限の立場は有限主義とは異なります。天井知らずの有限主義と言ってもよいかもしれませんが、あまりうまい言い方とも思えません。展開の果てしなき可能性、それこそが無限だと考えるのです」
「実無限の立場に立つ人たちもいるわけですよね」タカムラさんが尋ねた。
「あなたは、え……と」タジマ先生は手元のノートをちらりと見た、「タカムラさんはですね、例えば π というのをご存じですか」
「円周率ですか? 知ってます」
「では数だと思いますか?」
「ええ。違うんですか?」
「πは小数として無限に続きますね。すなわち、無限小数ですね。この、無限小数としての π は、数としてある定まった値をもっていると思いますか」
「数なのだから、値があるのでしょう?」
「タカムラさん、あなたこそ、実無限派です」
「先生はそう考えないんですか?」
「はい。でも、πに対する私の考え方はまたいずれ述べます。パイはさっき私が食べてしまいました」
 ん? 先生が食べたアップル・パイのことかな? なに言ってんだろ。先生はぼくの怪訝そうな顔を気にすることもなく、続けた。
「冗談はさておき、π という無限小数のすべての位が実は確定しており、ただ人間がそれを有限の位までしか知らないだけだと考えるのは、まさに無限を実体としてそこにあるものとみなす態度にはかなりません」
「だとするとたいていの人は実無限の立場ではないですか?」と言ってタカムラさんはぼくの方を見た。情けないが、ぼくはさりげなく目をそらした。
「面白いのはですね、神の名のもとには無限が存在するものとして認められて当然に思えるのですね。ところが、アリストテレスの影響下にあった中世の神学者たちは神の名のもとに実無限を、アリストテレスの名のもとに可能無限を抱え込むわけです。そして、理論的にアリストテレスの立場に立つ人たちはなんとかしてその折り合いをつけようと努力する。ははは、神よりアリストテレスの方が偉いのにね」と、とんでもないことを言ってタジマ先生はばくの方を見た。ぼくはまたもや目をそらすしかなかった。
 ところがタカムラさんまで、「神は存在しないけれど、アリストテレスは存在しますものね」などと言う。なんなんだ、この二人は。
「もちろん、ニコラス・クザーヌスのように実無限派の人もいますけどね。でも、大勢としては可能無限の立場の方が優勢だったのです。ところが、カントールという人がいます。この人はええと、一八四五年から一九一八年の人ですから、もう現代の人なのですが、このカントールというドイツの数学者が、現代の無限集合論を作った。これが、なんと実無限の立場なんです。それからはもう実無限の方が優勢なんですね。だから、君たちも無反省、無自覚のうちに実無限的考え方をすり込まれている。しかし、わたくしとしては、アリストテレスに還れと、こう言いたい」
「自然数と実数の話に戻って考えてみましょう。対角線論法が有効であるためには、自然数が、そして自然数に対応する実数が、すべて書き出されていなければならないわけです。もし、例えばXの一万まで書き出したところで、この方法で新たな実数Xを作ったとしても、それはたんにXの一万一番目が作られたにすぎませんから、別に困ったことにはなりません。そうして、自然数を書き終えることができないかぎり、たえず新しい実数が作られ、リストに書き加えられていきます。しかし、それは別に矛盾ではありません。
 考えてみてください。ここには極限の場合と決定的な違いがあります。例えば、0.999……の場合には、9を増やしていけばどんどん1に近づいていきます。しかし、この自然数と実数の対応リストの場合には、リスト・アップされる自然数と実数のカップルの数をいくら増やしても、有限の範囲ではなんの矛盾も起こりませんし、矛盾にかぎりなく近づくなんていうわけでもありません。だいたい『矛盾にかぎりなく近づく』なんて意味不明です。0.999……の場合には、9の数が増えれば、まあ1とみなしてもいいかなという気にもなろうというものですが、いまの場合には無矛盾のまま微動だにしないのですから、矛盾とみなしてもいいかなという気にもならないわけです。それが無限になったとたん、矛盾するっていうんです。リスト・アップされる数が一億だろうと一兆だろうと矛盾しないくせに、無限になるととたんに矛盾する。いやでしょう?」
 うーむ。また、とりあえずうなってしまった。さっきのぼくの「嫌」はこういう「嫌さ」だったんだろうか。でも、そうか。「自然数をすべて書き出す」なんてのは実無限の想定だから、タジマ先生が嫌だっていうのは、分からないでもないか。
「嫌っていうのは、つまり、対角線論法によるカントールの証明はまちがっているということですか?」タカムラさんが尋ねた。
「まちがっている、個人的にはそう思っています。権威に訴えるわけではないのですけれど、パースという偉い人がいて、その人も対角線論法からカントールのような帰結を引き出すことを拒否しています。彼は『それゆえ実数は完結した全体としては存在しない』と言うんですね。あ、権威に訴えてますか。はは。まあ、つまり、自然数を書き尽くすことはできない。それに歩調を合わせて、実数も書き尽くすことはできない。書き尽くすことのできないものをあたかも一望のもとにして、一対一対応ができたとすると仮定するのは、そこに潜む実無限の想定がおかしいのであって、実数の方が濃度が大きいからではない、というわけです。オセロの場合もそう、無数のオセロの駒の並べ方をリスト・アップするなんてことはできっこない、それで終わりです」
「何がですか? 大福の話ですか? それはしかし、いまの論点ではありません。現在多くの人は、√2は数の名前であり、そういう数が存在する、例えばこの対角線の長さとして存在する、そう考えています。しかし、√2というのはそういうものではないと私は考えています。これが、いまの論点です」
 タジマ先生は椅子に戻り、√2秒はど煎餅をみつめた。
「平方根というのは、開平することができます。例えば√2は 1.41421356……『ヒトヨヒトヨニ』と続いていくわけですが、√2をこのように無限小数として展開していく一定のやり方、規則が作れます。単純に言えば、2乗して2に一番近くて2以下になる数を求めればいいわけです。最初はだから1です。次の小数第一位は」
 タジマ先生は引き出しをゴソゴソやり始めた。
「あった」妙に大きな電卓をちょこちょこ叩いた。
「(1.4)^2=1.96 で、(1.5)^2=2.25 ですから、小数第一位は4ですね。実際はもっと要領よくやりますが、原理的にはこんなものです。小数第二位も、(1.4口)を2乗して2に一番近い2以下の答えがでる数を求めればいいわけです。こうして、小数第何位でも好きなだけ求めることができます。これをいつまででも続けてよいという可能性、それが√2の無限性にほかなりません。つまり、√2というのは、ひとつの完結した数につけられた名前ではなく、この開平法というやり方につけられた名前なのです。一般に、無理数というのは、こうしていつまででも小数展開を続けていく規則の名前なのです」
「√2は1より大きく2より小さいんですよね」
 タカムラさんがノートをみつめたままで尋ねた。
「そして、1や2は教の名前ですよね。だけど√2には数の名前ではなくて、規則の名前だと先生は言うわけですね。でも、どうして数と規則の間に大小関係がつくんでしょう」
 顔をあげて先生の方を見た。
「つきませんね」
「でも学や高校では」ぼくが口をはさんだ。「ああ、でも先生は高校数学と対立しているんでしたね」
「そんな大それたことはしていません。『1<√2』というのは省略された表現なのです。つまり√2という方法で数を作れば、1より大きい数が作れる」、そういう意味なのです。だかり、中学や高校の数学はまちがってはいないのですが、不適切です」
「すると、πも何かそういう規則の名前なんですか?」タカムラさんが言った。
「そうです。πになると私も詳細は知らないのですが、こんなふうに求めることができるようです。
 π/4=1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+……
「なんだか、すごくきれいですね」タカムラさんが言った。ぼくも、πがこんなふうに整然と求められるのに少し驚いた。
「ええ、きれいですよね。1をたてて多すぎたので少し減らして、減らしすぎたのでまた足して、という感じでしょうか」
「徐々に近似していくわけですね」ぼくが言った。
「あ、嫌だなあ。『近似』だって」
「いけなかったですか」
「『近似』などというと、正解が用意されてあって、そこにだんだん近づいていくということになるではないですか。全体、君、彫刻家が大理石を削ってだんだん満足のいく形になっていくのに、『近似』などと言いますか?」
 はあ。ぼくはまだタジマ先生の手の内がきちんと読めていないようだ。
「実数というのは、ですね、"real number"などと総称されてはいますが、全然リアルではなくって、こうした雑多な方法・規則の寄り合い所帯にほかなりません。それが、あたかも順序づけられるかのような解釈が可能なために、数直線という実体化された均質なイメージができあがってしまうのです。──ところで諸君、センベー食べたくありませんか?」
「はあ?」
「ちょっと余興をやりましょう。センベー食べてていいですよ」と言うとタジマ先生は黒板に何やら英語を書き始めた。
 May I tell a story purposing to render clear the ratio circular perimeter breadth, revealing one of the problems most famous in modern days, and the greatest man of science anciently known.
「訳しますと、『円周と直径の比を明らかにする話をさせて下さい。それは今日もっともよく知られた問題のひとつで、古代のもっとも偉大な科学者には知られていたものです』、となりますが、これが何かと言いますと、『may』が3文字でしょう、『I』が1文字、『tell』が4文字ですね」
 あ、3.14だ。
「そう。文字の数が数字に対応して、その暗記法になっているんですよ」
 ぼくがおおいに感心していると、タカムラさんが声をあげた。
「あ」
「なんですか?」
「先生、これ、豆おかきです」
「すると、わたくし、聖なる豆を食べてしまったわけですね」
「ええ」
「うかつでした。でも、残しといて下さいね」
 余典は終わりと言って先生は椅子に腰掛けた。
「一般に、可能無限という観点に立つ場合には、無限集合とはその要素を際限なく作っていく方法・規則のことにはかなりません。自然数が無限集合であるのは、その要素である 0, 1, 2, 3, ……を作っていく規則『0に1を加えていけ』、これ、ちょっと不正確ですけれども、まあ、大略そういう規則が与えられているからです。無限の要素の集まりとは考えずに、いつまでも要素を作っていける規則と考えるわけです。
 他方、実数の集合はどうでしょうか。平方根とかπといった個々の実数を作る規則はあります。ですから、個々の実数は認められます。しかし、実数の集合というのは、そうした種々雑多な規則の集合ということですから、そうした規則を作る規則を与えねばなりません。しかし、そんなものはありゃしないのです。自然数のときのような、すべての実数を体系的に作っていく規則などというのはないのです。それゆえ、可能無限の立場からすれば、実数という無限集合など、存在しないというわけです。
 カントールと同時代のドイツの数学者でカントールの先生だった人にクロネッカーというのがいます。なんか私、よく知らないけれど、この人は人物的によい印象をもっていないのですが、遅れてきたピタゴラス教徒みたいな感じもあって、『整数は神が創り給うた。あとは全部人間が作った』などと言っているのです。この言葉だけはそこはかとなく共感します。まあ、このクロネッカーという人はカントールのことをいびりたおしたらしいですけどね。出版妨害とかしたらしいですよ。嫌なやつですねえ」
「ということは、ですね、実は、実数の集合というのは、自然数のベキ集合、つまり自然数を概念化する可能性の全体と同じ濃度だということなのです。実際のところ、もうこの『自然数のベキ集合』というのを実数に対する定義としてしまってもよいくらいなのです。実数とは何か、それは自然数に対する概念の全体である。これなら、ソクラテスも草葉の陰で満足するでしょう。ピタゴラスは泣くでしょうが」
「ピタゴラスは泣くんですか」ぼくはつい尋ねた。
「あの人は、ちょっと、あれですから」
「タジマ先生だって、こういう実数の集合を認めるような議論には、泣くのでしょう?」タカムラさんが言った。ぼくは聞こえないようにつぶやいた。まあ、この人も、ちょっとあれですから。
「泣きませんよ。憤慨するんですよ。だって、ですよ、現実にわれわれが用いる概念は有限であって、必要に応じていくらでも概念を増やしていけるという意味では、それは可能無限でしょう? ですから、われわれがイメージする概念の集合はたかだか自然数の集合の濃度しかもたないのです。他方、いま見たようなカントールの結果は、概念の集合が実数の濃度をもつと言います。考えてみてください。世界の対象が可能的に無限個あるとします、つまり、自然数と同じ可算無限個の対象がある。そしてわれわれはそれを『キリン』とか『机』とか『黒板消し』のように概念化していきます。しかし、カントール的な捉え方はそれはるかに越えて、そうした可能な概念の全体を実数濃度の無限集合としてまとあげてしまうのです。これは概念に対する実在論以外の何ものでもありません。人間が作り出す前に、すべての概念は存在する。そして人間は概念を作るのではなく、存在し理もれている概念な発見する。そういうわけです。これは、ゆゆしき考え方です」
「ええと、まず私としては、やっぱり実無限的な無限観はよろしくなかったのだという反応から入っていきたいと思うのですが、それが、直観主義です。可能無限的な無限観に従えば、以前にも言いましたが、無限集合とは、その集合を構成する方法・規則にほかなりません。例えば、ラフに言って、自然数は『0に1を加えていく』という規則によって構成されるわけで、それゆえ、自然数の集合をその全体として扱うということは、この規則を扱うことにほかならないわけです。直観主義に従えば、無限集合はいささかも完結した全体ではなく、それを構成する規則なのです。ところで和尚さん」
「はい?」
 あ、和尚さんと呼ばれて返事をしてしまう自分が情けない。
「ケーキ、ぐちゃぐちゃですね」
 ほっといてください。
「他方、実数の集合は事情が異なるわけです。まあ、ここらへんは復習ですが、覚えてますか?」
 整然とケーキを食べていたタカムラさんが答えた。
「ひとつひとつの実数を個別に作る規則はあるけれど、そうした規則のすべてを体系的に作り出してい規則などはないので、実数全体を集合として捉えることはできない、そんな感じでしたっけ」
「まさにそのとおりです。でたとこ勝負で食べちらかすわけです。ははは」
「ひとつ聞いておきたいんですが」タカムラさんが尋ねた。
「なんで『直観主義』って言うんですか?」
 タジマ先生はキョトンとした目でタカムラさんを見た。
「なんでそんなことが聞きたいんですか?」
「いえ、なんか『直観』ていったらカンみたいじゃないですか」
「いや、まあ、カンというよりも、カントなのですが……。そうですねえ、あまり詳しく言う準備はしていませんが、まず、可能無限的立場がアリストテレスを嚆矢とすることはいましたね。それで、直観主義を唱え始めたのはオランダの若き数学者ブラウアーなのですが、そこにカントがくっつくのです。カントの説明はいまはしませんが、カントは時間・空間を純粋チョッカンとして規定して、そこに純粋数学の可能性を見ますから、まあ、そのあたりから『チョッカン主義』という名前の由来も来ているわけです」
「ヤマカン主義じゃあないんですね」ぼくが言った。
「チョッカント主義です」
 はあ。
「では、人に進みます。ええと。直観主義は、可能無限的な観点から対角線論法にも異を唱えます。つまり、対角線論法は、実数の集合という完結した全体の濃度についての証明ではなく、実数の数列が与えられたとき、そこにない新たな実数をつねに構成してみせる方法を示したものにほかならない、というわけです。ここらへんまでが、以前に直観主義いう名前を出さずに述べておいたことの復習になります」
「πの小数展開を考えましょう。3.14159265358973……と続いていきます」
 タジマ先生は少し胸をはった。続けられるのが自慢らしい。
「先生」タカムラさんが発言した。
「はい?」
「いまの最後、9です」
「つまらないこと覚えてますねえ、あなた。え……と、それでですね。この果てしなく続く数列の中に、いつか7が十個続くようなことが起こるだろうか、ということを問題にします。まあ、さっきの監視の例と大差ないんですけどね。いまのところ、7が十個続くようなことは起こっていません。しかし、πの小数展開は果てしなく続きます。それゆえ、そういう並びが出れば、出たと分かりますけれど、これまで出なかったからといって、絶対出ないということにはなりません。つまり、『πの小数展開に7が十個続くことはない』という予言の真理性はわれわれの認識を越えているのです。それでも、そういう並びは『出るか出ないかどちらかだ』、そう思いますか?」
「出るか出ないかどちらかだと言われたら、そうなんじゃないんですか?」まだ何が問題にされているのかよく分からなかったが、そう答えた。
「そう、思うでしょう」すごく、うれしそうな顔をした。ああ。
「それが愚劣だと、私は言いたいのです。πの小数展開は人間が遂行する以前に定まっていて、人間はただそれを見出していくだけだと考えれば、ちょうど『この山のどこかに宝が埋まっている』という予言を確かめるときのように、『πのどこかに7の十個つながりが埋まっているか埋まっていないかどちらかだ』と考えてしまうでしょう。しかし、これはまさに実無限的考え方です。もうどこかにπの小数展開は存在していて、そこには7の十個つながりがあるかないかどちらかだと、そういう考え方にほかなりません。しかし、可能無限的な観点からすれば、πというのはその小数展開を順番に作り出していく規則であり、展開されていく小数は、その規則に従って構成されて初めて産声をあげる存在者なのです。つまり、まだ展開されていないπの先は、分からないのではなくて、存在していないのです。存在していないものに対して、7の十個つながりがあるとかないとか言うことはナンセンスでしょう」
「すると、『出るか出ないかどちらかだ』とは言えないんですか?」
 ぼくは尋ねた。
「言えません」
「宝の場合は、その山のどこかに埋まっているかいないかどちらかでいいんですか?」タカムラさんが尋ねた。
「どちらかです。どこが違うのか、そう言いたいのでしょう? 分かります。どこが違うのか。ここで山というのは例えば富士山であり、実在する山です。 実在する山に対しては、そこに宝が埋まっているかいないか、どちらかに決まっていると言うこともできるでしょう。過激な立場であれば、この場合もそんなことは言えないと主張するでしょうが、この点に関してはいまは常識的に考えてけっこうです。富士山には徳川の埋蔵金があるかないかだ。これは常識的に考えれば問題ないでしょう。他方、フィクションの山、例えば、そうですね」
 と言ってタジマ先生は黒板に「須弥山」と書いて、ぼくに何と読むか知ってるかと尋ねた。
「すやさん」ぼくは答えた。違うか。違ったみたいだ。
「君、ほんとに寺の息子ですか? 仏教で説かれる神話的な聖なる山ではないですか。海抜八十万キロメートルと言われています。頂上が月より高いという馬鹿げた山です。『シュミセン』と読むのです」
「だから、次男だって言ったじゃないですか」
 兄貴もきっと読めないと思うけど。
「まあ、いいです。それで、この仏教説話上の須弥山に徳川の、いや、徳川は変ですね、ともかく何か宝物が埋まっているかいないかどちらかだと言われたら、どうでしょう。もちろん、仏教の方ではそんなことにはまったく触れていないのです。あるいは、ですね。桃太郎。桃太郎には虫歯があったかなかったかだ、と言われたら、どうでしょう。わたくしタジマは実在します。実在しますから、虫歯はあるかないかどちらかです。あるいはまだ、私は過去に屋根の上で昼寝をしていて眠ったまま転がり落ちたことがあるかないか、どちらかです。しかし、桃太郎は虚構であり、実在しませんから、屋根から転落したことがあるかないかどちらかだ、と言われてもナンセンスでしかありません。同様に、無限も虚構であり、実在しないのです。ですから、まだ見ぬの先に7の十個つながりが出るかどうか、などと問うことはナンセンスであり、『出るか出ないかどちらかだ』と言うこともナンセンスなのです。くどいようだけれど、もう一度聞きます。ドラえもんには虫歯があるかないかどちらかだなどと言えますか」
 ぼくは答えた。「言えます。虫歯はありません。なぜなら、ロボットだからです」
「えっ。そうだったんですか? あれ、生きものじゃないんですか? あ、そうか。それなら、そういうふうに理論的に結論が出るものに関してはよいのです。ええと、そうでなにくて。……まあ、分かりますね。先に進みましょう。この、『AかAではないかどちらかだ』というのは、標準的には論理的に正しいと認められているもので、『排中律』と言います。この名前、覚えといてください。『ハイチューリツ』です。この、排中律が認められるか否かということは、その対象を実在のものとみなしているか実在せぬものとみなしているかの基準となります。そして、直観主義は、無限に対して非実在者としての態度をとり、その結果無限が関わる領域では排中律を拒否するのです。注意してほしいのですが、一般的に排中律を拒否するわけではありません。実在するもの、有限なものに対してはかまわない。ただ、無限がからむと拒否します」
 ぼくはふと思いついて、こんなふうに言ってみた。
「うまく言えないんですが、ある人の思考の世界を問題にしていて、その人の思考について『Aと考えたかAではないと考えたか、どちらかだ」と言うと正しくないですよね。つまり、Aの肯定も否定もどっちも考えていないかもしれないから。無限も同じように、直観主義は無限を人間の思考の産物だと考えたんじゃないですか? だから、排中律は成り立たない」
「和尚さん。いいこといいますねえ。感心しました。なーるほど。いや、そんな感じでしょうね。うまいな」
 なんか知らないが、うれしかった。同時に、むしょうにうれしがってる自分を見出して少しくやしかった。
「まさにブラウアーもそんなふうに考えたのだと思います。ブラウアーの話は実は私よく分からないので敬して遠ざけていましたが、いま和尚さんがいみじくも言ってくれました。そんなわけで、排中律を拒否してしまうわけです。しかし、これはかなり高くつきます。排中律が使えなくなることそれ自体で数学にとっては痛手ですが、連動して、いくつかの基本的とみなされてきた論理法則が拒否されてしまうのです。二つ示しましょう。まず、二重否定除去則と呼ばれるもの。『二重否定は肯定に読み換えてよい』という論理法則です。ある主張Aの否定を『not A』と書くことにしましょう。二重否定は『not not A』で、二重否定除去則は『not not A→A』のように書けます。さて、『not not A」は『notAではない』ということですが、『not Aではない』ならばAだ、というのは、Aかnot Aのどちらかだという排中律を前提にしています。それゆえ、排中律の拒否とともに失脚するのです。
 さらに、否定除去型の背理法がつぶれます。これはどういうのかというと、数学などでは平然と使いますが、Aの否定を仮定して矛盾が出たので、仮定が否定されてAが結論される。しかし、not Aという仮定が否定されて出てくるのはAの二重否定not not Aまでです。そして、二重否定を肯定として読む道はもはや閉ざされていますから、この背理法もまた、拒否されるのです。許されるのは、Aを仮定して矛盾が出たので仮定を否定して『Aではない』と結論する、このタイプの背理法だけです」
「パラドクスを拒否する代償がこれですか」タカムラさんが言った。
「パラドクスを拒否するためにこれだけのお金を払ったというのではなくて、可能無限の観点を徹底すると、パラドクスの克服と排中律等の拒否という二つの結果が生じる、ということです。無限に対する見解の相違です」
「それで、このブラウアーという人は受け入れられたんですか?」タカムラさんが、いかにも答えは分かっているという口調で尋ねた。
「受け入れられませんでした」
 で、タジマ先生は受け入れられているのでしょうか、とはもちろん、尋ねなかった。しかし、情勢はきつそうだ。
「しかしながら、こちらにはアリストテレス以来の伝統があります。そしてまた、歴史的に幸運なことに、ヒルベルトというドイツのすでに名をなしていた数学者がこのオランダの若造に過敏に反応したのです。牛がハ工を追い払うような感じだったのかもしれませんが、ある人の言い方を借りれば、ブラウアーが投げた決闘の手袋を、ヒルベルトが拾ったのです」
「ブラウアーが勝ったんですか?」タカムラさんが尋ねた。
「そこが、微妙なところなのです」
 そして、タジマ先生は、「それは来週にしましょう」と締めくくった。
「形式主義の二本柱を思い出して下さい。無限集合論を形式的な公理系として整備すること、そして、それに対して無矛盾性と完全性を有限の立場のメタ数学で証明する、この二点です。この計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれます。ところが」
第一不完全性定理──無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできない
第二不完全性定理──有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明不可能
「この定理が破滅的だということ、それはよろしいですか?」
 ヒルベルトは言った、「無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ろう」
 ──ゲーデルは言った、「できません」
 ヒルベルトはまた言った、「直観主義も満足させる有限の立場で無矛盾性を証明しろう」
 ──ゲーデルは言った、「それもできません」
 ふーむ。企画書を出したら、実行不可能としてつっかえされたようなものだ。
 この文は証明できない

 これは、真でしょうか、偽でしょうか、それとも矛盾でしょうか」

〔…〕

「ということは、これは基本的にメタ数学の文なのだけれど、それをまさに自然数論の体系の中で作ってしまおう、というわけですか」
「いやあ、ご明察。実に短慮と洞察は紙一重ですね。そこにこそ、ゲーデルの証明の核心があるんです。では、どうやって自然数論の中でこのメタ的な自己言及文を作ってみせるのか。そこでゲーデルは形式主義の逆手を取ります」
 また、逆手か。すると……、ほめられて気をよくしたわけではないが、尋ねてみた。
「ブラウアーの出した手の逆手を、ヒルベルトがとって、そのまた逆手をこんどはゲーデルがとるということは、ゲーデルは直観主義者なんですか?」
「こりゃまた短慮と洞察のはさみ漬けみたいですね。こんどは短慮の番です」
「あ、白菜と鮭が重なっているの」タカムラさんがつぶやいた。
「そうです。キャベツでもいけます。実は、ゲーデルはまったく直観主義者ではありません。それどころか、ガチガチの実在論者でした」
「じゃあ、ゲーデルは自分の首を絞めたんですか?」
「ああ、せっかくはさみ漬けと言ってあげたのに。それではたんなる白菜の漬物です。またもや短慮です。そうではないのです。ヒルベルトの企画は直観主義者をも満足させるように公理系を形式化し、メタ数学を有限の立場に限定しました。ゲーデルの目にはこれが妥協の産物に見えたに違いありません。ゲーデルにすれば、数学はいささかも無内容なゲームではありません。有限の立場からのメタ数学などもよけいなお世話です。自然数論とは、実在論者にすれば、実在する数の世界の秩序を人間が部分的に記述したものにほかなりません。それを公理系として一望のもとにおさめようなどとしても、不完全になるにきまっています。いわば、ゲーデルはヒルベルトの弱腰を諫めたのです」
 そうすると、じゃあ、直観主義はどうなるのだろう。
「しかし、こうしたことは証明を見てからにしましょう。いいですか? 問題は、『この文は証明できない』というようなメタ的な自己言及文をどうやって自然数論の中で作ってみせるか、です。ここで、メタ数学が有限の立場に限定されていたことを思い出して下さい。有限の立場は、公理系における証明を有限回の式変形のステップとみなし、そうして有限個の公理と有限個の推論規則がたかだか可能無限的に際限なく反復されていく過程とみなします。換言すれば、メタ数学を、直観主義が拒否するような高次の無限、つまり実数の集合といったような無限のレベルに踏み込むことなく、展開しようというわけです。メタ数学におけるこの禁欲政策は何を意味するか。つまり、こうです。メタ数学を自然数論以上の道具立てを含まない形に制限しよう。とすれば、ゲーデルはこう考えたはずです」
 タジマ先生は立ち上がり、ゲーデルが考えたはずのことを黒板に書きつけた。
 メタ数学を自然数論の中で表現できるのではないか
「ゲーデルが自分の定理をどのように捉えていたかは最初の方で言いました。彼の考えでは、数学はけっして無内容なゲームではなく、有限の立場のメタ数学などというヒルベルト的妥協は不要なものにすぎなかったのです。メタ数学は自然数論を概念化するわけですから、自然数のベキ集合の濃度、つまり実数の濃度をもつ、実無限の立場ならばそう考えて当然でしょう。ですから、メタ数学を自然数の濃度におさめようとする有限の立場が、ラッセルのパラドクスと同じような事態を招くのは、ゲーデルにとっては当然と言えば当然のことだったと言えます。
 しかし、これが不完全性定理に対する唯一の見方ではありません。
 可能無限の立場からはこう言えます。公理系が必要ならば作ってもよい。しかし、完結した公理系など作れっこないのです。無限は完成を拒んでいます。そこからはみ出たものを捉えようとし、捉えたと思ったときには新たなものがはみ出ていく。このたえざる歩みこそが、人間が無限を生きるということにほかなりません。そもそも完結した全体としての完全なんていうものがないのですから、『不完全』ということも無意味でしょう。例えばの小数展開に対して人間が為した有限の展開が、完結した無限小数としてのの不完全な認識なのではなく、際限のない未完の作業であるように、それはむしろ、永遠の未完成と言うべきなのです」
 完成なき未完成、ということか……。
「けっきょく、可能無限か実無限かの決着は、ついていないんですね」タカムラさんが言った。
「ついていません」

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