ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン──天才哲学者の思い出』

第一部 回想のウィトゲンシュタイン──ノーマン・マルコム

1──真理の狩人

   出会い
 私がウィトゲンシュタインをはじめて見たのは、一九三八年の秋学期、私のケンブリッジ大学での最初の学期だった。倫理学研究会の集まりで、その晩の研究発表がおわって討論がはじまったとき、ある人がどもりがちに批評をやりはじめた。自分の言いたいことを必死になって言葉にまとめようとしていたけれども、私には彼が何をいっているのか分からなかった。小声で隣に坐っている人に「誰ですか、あれは」と聞くと、ひとこと「ウィトゲンシュタイン」という返事がもどってきた。私は唖然とした。というのは、それまで私は、何となくあの有名な『論理哲学論考』の著者は老大家であると思いこんでいたからだった。ところが目の前に見る当のウィトゲンシュタインは、若々しく、多分三十四、五歳らしい(あとでわかったことだが、本当はこのとき四十九歳だった)。引きしまって日焼けした顔、横から見たところは鷲のようにするどく、すばらしい魅力がある。髪の毛は茶色で、ふさふさと波打っている。気をつけてみると、部屋中の誰もが尊敬のまなざしで彼に注目していた。ウィトゲンシュタインの批評は、うまく言葉にならないまま、しばらくとぎれた。けれども、必死になって考えをまとめようとしている努力は目に見えて明らかだった。思考に集中して、両手に力を入れて相手に語りかけるようにしている身ぶりに、出席者はみんな緊張と期待の中に沈黙をつづける。──この日をはじめとして、こんな場面を私は何度となく経験した。そして、後には、この姿をまったくあたりまえのことと思うようになった。
 その学年の冬学期に、私はウィトゲンシュタインの講義をとった。「数学の哲学的基礎」という題目だった。この講義は、春学期、そして次学年の秋学期とつづいた。いま考えてみると、1年ぐらい後に、この時とったノートを勉強しなおすまでは、私はこの講義の内容を、ほとんどまったく理解していなかったようだ。けれどもウィトゲンシュタインが、何か重大な研究をしているのだということだけは、私もまわりの人々も、はっきりと気がついていた。はかり知れない難問題に立ちむかって、まったく独創的な方法で戦いをいどんでいることだけは誰にも感じることができるのだった。

   講義
 講義は下準備もノートの類もなしに行なわれた。かつてノートを準備して講義してみたが、その結果にあいそをつかした、と彼は私に語っていた。読み上げる内容はカビの生えたようになるし、彼が友人に漏らした表現をかりれば、ノートを読みはじめると「言葉は生命を失った死骸のように」感じられたのだという。講義の準備にやることとしては、講義のはじまる前に数分間だけ、前回に何を討議したかを思い出すだけだ、と彼は私に語ったことがある。講義ははじめに、前回のまとめを簡単にやって、そこから新しい思索に入っていって考えを進める、というのが常であった。その場でものを考えるといった風なやり方で講義を進めていけるのは、とりあげる問題について、以前から考えに考えをめぐらし、かつ今も考えたり書いたりしているからにほかならない、と彼は言っていた。たしかに、そうに違いないのだけれども、講義中に生まれるものは、大部分が蓄積された知識ではなく、その場でわれわれを前にして生み出される新しい考えであった。
 講義でも個人的な対話でも、ウィトゲンシュタインは、いつも強い口調で独特な抑揚をつけて話をした。時たまドイツ語式の構文がまじったが、彼の英語は見事なもので教養のあるイギリス人のアクセントを持っていた。声は普通の男の声より心もちカン高く、よく通り、カン高い声に伴いがちの不愉快さはなかった。言葉は、よどみなく流れ出るといったタイプではなかったけれども、相手に強くうったえるものを持っていた。彼が何かいうのを聞いた人は、誰でもすぐ、ただならぬ人を目の前にしていることに気づいた。話すときの顔つきは、表情がゆたかで変化に富んでいた。目は深く澄んで、しばしば突きさすようなするどさを見せた。その人柄から生み出される雰囲気は人を威圧する──というより、人を畏服させる力を持っていた。
 豊かで変化に富んだ表情とは反対に、彼の服装は簡素をきわめていた。いつも薄ねずみ色のフラノのズボンをはき、ネルのワイシャツの胸もとのボタンをはずしていた。それに、労働者のジャンパーか革のジャンパー、外に出るとき、雨の日はツイードのハンチングに、黄かっ色のレインコートを着ていた。そして、ほとんどいつも軽いステッキを持って歩いていた。ネクタイをしめてソフトをかぶった背広姿のウィトゲンシュタインというものは、想像もつかない。身につけるものは、レインコート以外は、非常に清潔で、靴もピカピカに手入れがしてあった。身長は百七十五センチくらいで、ほっそりした身体つきだった。
 さて、講義は午後五時から七時まで週二回行なわれた。彼は学生に時間厳守を要求し、二分と遅れてくる者があると機嫌を悪くした。教授に任命されるまでは同僚の研究室をあちこちと教室に使ったが、教授になってからはいつもトリニティー・カレッジの自室で講義が行なわれた。出席者は椅子を外の部屋から持ちこんだり、床に座ったりした。時には部屋が超満員になることがあった。とくに、一九四六年の秋学期はそうで、三十人くらいの出席者があって、身動きができないほどだった。
 トリニティー・カレッジのウィトゲンシュタインの部屋は、調度が簡素で、安楽椅子もなければ電気スタンドもなかった。飾りの置きものも、絵や写真の類も置いてなかった。壁も裸だった。リビングルームには、折りたたみのキャンバスの椅子二つと質素な木の椅子が一つ、ベッドルームには、キャンバス張りのベッドがあるきりだった。
 そのほかには旧式な鉄のストーブがリビングルームの真中にポツンと置かれていた。飾りらしいものとしては、窓に添って横長の鉢植え箱が一つと、部屋の中に花瓶が一つ二つあっただけだった。それに草稿類を入れる手提げ金庫と書きもの用のブリッジテーブルがあるきり。けれども、室内はいつも念入りに掃除が行きとどいていた。講義のとき学生が持ちこむ椅子は、トリニティー・カレッジの備品で、講義のないときは階段の踊り場に積みかさねてあった。講義におくれた者があると、持ちこまれた椅子をガタガタ動かして新たに席をつくるために、ひとしきり講義が中断されることになった。だから、講義がはじまった後で、部屋に入るのには勇気を要したものだった。遅れたと知ったら、ウィトゲンシュタインににらみつけられるのをおそれて、ドアの前から引返す者もよくいた。
 ウィトゲンシュタインは部屋の真中においた簡素な木椅子に席を占め、そこで、苦悶しながらの思考活動をつづけた。よく、考えが行きづまり、「僕は馬鹿だ!」「おそろしく駄目な教師だよ、僕は」「今日は頭の調子がまったくおかしい」といった風な言葉をつぶやいた。時には、これでは講義がつづけられそうにもないとも口にしたが、定刻の七時より前に切り上げることは滅多になかった。

   対話から生みだされるもの
 ウィトゲンシュタイン自身は、これを講義と称していたけれども、正確にいってこういう集まりを講義と呼ぶのはいかがなものであろう。だいいち、彼はこの集まりの間に独創的な研究を行なっていた。一人っきりでやっているような態度で、ある問題をみんなの前で考えこんでいたのだ。もうひとつには、この集まりは大部分が対話だった。普通、ウィトゲンシュタインが出席している面々に質問を出して、その答えに自分の意見を述べる。集まりといっても、たびたび、誰か一人を相手にしての対談に終始することもあった。また、これと反対に、自分一人で考えをまとめようとするときは、みんなを押さえる風に片手をあげて、質問や意見を出させないこともしばしばだった。時間中に、話がとぎれてなんどもみんながじっと静まりかえることもあった──ときどきウィトゲンシュタインのつぶやき声が聞こえるだけで、みんなおしだまって彼に注目しているといった場面だった。こういう沈黙の間、ウィトゲンシュタインは極度に緊張し昂奮していた。目は一点をじっと凝視し、顔は生気にあふれ、両手は何かをつかみとるようなしぐさをつづける。その表情は真剣そのものだった。あふれるばかりの真剣さと、精神集中の中で、最高の知性が力をいっぱいにふりしぼっているのを、目の前に見る思いで、誰もがウィトゲンシュタインを見つめるのだった。
 講義、いや集まりは、ウィトゲンシュタインの人柄に圧倒されてしまった。出席した者で、いろいろな形で、その影響を受けなかったものは一人もいないだろう。みんな身ぶりや手つき、あるいは口調や強調のしかたを、知らず知らずのうちに真似するようになった。そんな外側からの真似ごとが、本物に比べたら馬鹿げたものであることは、わかりきっているのだったけれども。
 こわい先生だった。気が短くて、すぐ怒り出す。誰かが彼の言葉に賛成できないようなそぶりを見せると、反論を述べるようにきびしく要求した。いちどウィトゲンシュタインの旧友であるヨーリック・スマイシーズが、反論をうまく口に出して言い表わせないことがあったが、そのときウィトゲンシュタインは、きつい口調で「なんだ、これじゃあこのストーブ相手に議論しているみたいだ」と言ったことがある。こういう工合だから、ウィトゲンシュタインに対するおそれのため、われわれの注意力は非常に張りつめた状態になった。とりくんでいる問題が、きわめて難しく、ウィトゲンシュタイン流の解決法はものすごくわかりにくいものだっただけに、この緊張した状態は結果としては非常によかった。けれども私などは、彼の考えにくっついてゆくだけで、頭がいつもクタクタになってしまった。二時間の講義というのが私の頭のつづく限度だった。
 こういうきびしさは、ウィトゲンシュタインのつよい真理愛に根ざしていたのだと思う。彼はたえず哲学上の深い問題と苦闘をつづけていたのだ。一つの問題が解決できると、そこからまた新しい問題が生まれるという風に休むひまはありえない。しかも、いい加減な妥協のできない人、いつも完全に理解できなければ気のすまない人だった。火のようにはげしく真理をさがし求め、全知能をふりしぼって戦いつづける人。だから、講義に出席した者は誰も、ウィトゲンシュタインが知能はもちろん、すさまじい意志の力で、全力をふりしぼっていることを感じることができた。これは、彼の純粋なまた冷酷なまでにきびしい誠実さの一面でもあった。先生としても個人的なつきあいの面でも、近よりにくいというか、おそろしい人という印象を人に与えたのは、他人はおろか自分自身も容赦しない潔癖さに原因があったわけである。

   映画の効用
 二時間の講義で、ウィトゲンシュタイン自身も、いつも消耗してしまった。そして、講義にあいそをつかしていた。自分の言ったことにも、自分自身にも、いや気がさしたのである。そのため、講義が終わるやいなや、映画に飛んで行ったものだった。出席者が椅子を片づけはじめると、何かたのむような目つきをして、低い声で友人に「映画にいっしょに行かないか」と言ったこともあった。映画館への途中で、丸い菓子パンかポーク・パイを買いこんで、映画を見ながら頬ばっていた。彼はスクリーンが視野を完全にふさぐように、最前列にすわることを主張した。それは、講義のときに考えたことがらや、自己嫌悪をふりはらうためなのだった。あるとき彼は「こうして見ていると、シャワーを浴びているような感じがする」と私にささやいたことがある。映画をみるときも、くつろいだとか、いいかげんな見方をしなかった。からだを前にのり出して食い入るように画面を見つめ、よそ見することなどほとんどなかった。けれども、あとで映画の内容について、ひとこともふれることはなく、一緒に見た人の意見も聞きたがらなかった。どんなくだらない映画でも、またどんな不自然な筋でも、要するにただ画面に心を奪われることが彼の目的であって、彼を苦しめ精魂をすりへらす哲学から、ただのひとときなりと解放されるための映画だったのだから。
 アメリカ映画が好きで、イギリスのものは大きらいだった。イギリスの映画にマトモなものなどありっこないと思いこんでいた。これは、彼がイギリス文化やイギリス人の考え方というものに、あいそをつかしていたのにつながるものがある。お気に入りの役者は、カルメン・ミランダとベティー・ハットンだった。のちにアメリカの私のところに旅行してくるようになったとき、ウィトゲンシュタインは、手紙で冗談まじりに、ベティー・ハットンを自分に紹介してくれという要求をしてきた。
   職業としての哲学を嫌う
 教室外の交際として、ウィトゲンシュタインは、講義をとっている学生をお茶に招待した。私もいちど一九三九年にそういったお茶に呼ばれたことがある。無駄ばなしなどまったくなく、真面目な話題ばかり、それもときどき長い沈黙でとだえがちだった。その時に話したことで一つだけおぼえているのは、私の将来についてであった。ウィトゲンシュタインは、哲学の教師になるという私の志望を思いとどまらせたがった。何かその代りに農場や牧場のようなところでできる筋肉労働がないものか、と私にたずねた。彼は、学者の生活というもの、とくに専門の哲学者の生活を毛ぎらいしていた。まともな人間には大学の教師などつとまらないし、良心的に真理を追求する人にも大学教師は向かないと思っていた。友人のスマイシーズについて「あれは、ぜったいに教職につけない人だ。良心的すぎるから」と、ある時、私に言ったこともある。ウィトゲンシュタインにとって学者仲間のキザったらしいつきあいは鼻もちならないものだった。彼はカレッジの食堂で食事をしなかった。そうしようと思って、努力したこともあるが、その席で交わされる先生たちのとりすました会話には、ほとぼと嫌気がさしたのだそうである(かつて食堂で、ネクタイをつけずに先生たちの坐る上席のテーブルに坐って、副学監から非難されたからだ、という逸話までも伝えられている)。彼は、なにごとでも、気どりと偽善を心から憎んでいたのだった。
 その後何度もウィトゲンシュタインは、哲学を職業とすることを思いとどまるようとのすすめをむし返した。もっともこれは私だけでなく、教え子の誰にもすすめていたことであるが。
 そんなことを言っておりながら彼は、私のために六ヵ月間よけいにケンブリッジで哲学を勉強できるように、とりはからってくれた。そのいきさつは、つぎのような次第である。──私の学資はハーバード大学の奨学金から出ていたのだが、その奨学金は二年間だけで、更新できないものだった。一九三九年の夏には、私は文なしになってアメリカへ帰らなければならなくなってしまった。だが私は、どうしてももう少し長くケンブリッジに残りたかった。ケンブリッジ大学に呼吸いきづいている思想に生きがいを見出していたところだし、ウィトゲンシュタインの哲学がやっとわかりはじめたような気がしていた。もう少し理解を深めたいところだったのだ。そうした考えでいたとき、私は何かのついでにウィトゲンシュタインの前で、今のまま帰りたくないのだということを口にした。彼は事情をくわしく聞きたがった。そして、私がケンブリッジの哲学にゾッコンになっているらしいが、そんな気持のままで帰国するのは気の毒だ、と言いだした。気の毒だというのは彼によれば、私がもう少しケンブリッジ哲学を勉強したら、夢がさめるにちがいない、それはきっと私の身のためになる、という意味であった。そして、これから六ヵ月間、私が食うにこまらないだけの金を都合することができるかもしれない、といってくれた。結果は彼の言葉どおりになって、彼はその八月から一九四〇年の一月、私がアメリカにかえるまで毎月一定額の金を私に渡してくれた(貸してくれたのではない)。その間もらった金は合計して八十ポンドくらいになったが、あとで返してもらおうなどという考えは、まったく彼になかった。

   散歩
 一九三九年になって、ウィトゲンシュタインは、よく私の部屋をたずねてきて、散歩にさそい出した。散歩のコースは、ケム川ぞいにミッドサマー公園か、それより先までというのが普通だった。彼は、いつもパンと角砂糖を用意していって、公園の中にいる馬に食べさせた。ウィトゲンシュタインと散歩するというのは、楽ではなかった。どんな話題が出ても、彼は真剣に考えこむ。だから、彼といっしょに考えごとをするのは、神経をすりへらす仕事だった。歩度をさーっと早めたかと思うと、時々たちどまって刺すような鋭い目で私の顔をのぞきこんで大事なところを念をおす。そして、また何ヤードかぱっと歩いて、こんどは歩度をゆるめる、そしてまた早足になるか立ちどまる、といった風な歩き方だった。だが、このようなテンポのきまらない歩き方は、対話の内容のテンポに完全に一致していた。ウィトゲンシュタインの新しくかつ深い考えが生まれるには、こんな風に話し相手を必要としたけれども、彼の見解というものは尋常一様のものではなかった。
 上機嫌のときには、ほがらかな調子で冗談をよく言ったものだった。そんなときには、わざとマジメくさった声と態度で、とんでもないコッケイなことや大げさに誇張した意見をロにした。あるとき彼は私たちが通りすぎる木を、ぜんぶ私にくれると言いだした──切り倒したり手を加えてはいけない、また前の所有者が手をつけることに口を出さないというただしつきで。そういう条件つきだからこそ私に所有権があるというのだった。またある晩、ジーザス・カレッジのフィールドを横切って歩いているとき、彼は頭上のカシオペア座を指して、あの星のWというかたちは、ウィトゲンシュタインを意味するのだと言いだした。私は、いやあれはMをさかさまにしたもので私の名のマルコムのことだと思うと主張した。ウィト-ゲンシュタインは厳粛な顔つきで、私がまちがっていると念をおした。
 だが、こんななごやかな明るい時間は、あまり多くなかった。ほとんどの場合、彼の心の中は暗くしずんでいた。おそらく、哲学の上での問題が解決できないために、たえず憂鬱になっていたものと思う。いや、それよりも彼の心をいためたものは、いやおうなしに従わされる馬鹿げてたえがたい俗世間のしきたりだったらしい。日常生活の中で、彼の注意をひくものは、どれひとつとして彼の心を楽しませなかった。いや多くのものが彼を悲歎にちかい気持におとしいれるものだった。いっしょに歩きながら、彼はよく立ちどまって「オー、マイ・ゴッド!」と叫んだものだった。私を見つめる顔つきは、神がこの世に立ちあらわれて俗事をかたづけてくれるのを乞いねがうといった風な哀願をこめた表情だった。

   仲違い
 ある日、川沿いに散歩していたとき、新聞売場の看板に、最近おこったヒットラー暗殺計画はイギリス政府の扇動だと、ドイツ政府が非難した、と大きく書いてあった。この事件のおこった年だから一九三九年のことだ。ウィトゲンシュタインは、このドイツ政府の発表について「これが事実だとしても、僕はおどろかない」と言った。私は、イギリス政府の指導者たちが、あんなことをするとは信じられない、と反発した。私の言いたかったことは、イギリス政府は野蛮人ではないのだから、そんな卑劣なことをするはずがない、という点だった。そんな計画はイギリス人の国民性に反するともつけ加えた。この私の言葉は、ウィトゲンシュタインを激怒させた。そんなことを考えるのは大馬鹿者だ、そして、せっかく苦労して教えているのに、自分の哲学の講義からお前は何も得ていない証拠だ、とも言った。彼が猛烈な口調で言ったあと、私がそうは思わないと反対すると、彼はまったく口をきこうとしなかった。そしてしばらくして私たちは別れた。そのころは、講義の前に私のチェスタートン街の宿にやってきて、しばらくいっしょに散歩するというのが彼の習慣になっていたが、このできごとの後、彼はこの散歩を止めてしまった。そして、あんのじょう、彼はこのできごとを、あとあとまで何年間も忘れずにいた。

   ムーア批判
 一九三九年にG・E・ムーアが倫理学研究会で研究発表をしたことがあったが、その晩ウィトゲンシュタインは出席していなかった。ムーアはこの発表で、人はしかじかの感覚、たとえば痛みを知ることができる、ということを証明しようとした。この説は、自分自身の感覚に対しては確実性という概念は使われないとするウィトゲンシュタインの説(『哲学探究』二四六節参照)に真向から反対するものであった。あとでムーアの発表について聞いたウィトゲンシュタインは、戦場の奔馬のようにたけり狂った。つぎの週の火曜日に彼はムーアの家にやってきた。G・H・フォン・ライト、C・リューイー、スマイシーズと私がその場に居合わせた。たしかそのほかにもう一人か二人いたように思う。ムーアがもういちどこの論文を読み上げ、ウィトゲンシュタインは直ちに反論をはじめた。議論のときに、彼があんなに昂奮したのを見たことがない。彼は火が燃え上がるような強い勢いで、早口にまくしたてた。矢つぎばやに質問を出して、ムーアに答えるひまも与えない。二時間以上もこれがつづいた。その間、ほとんどウィトゲンシュタインがしゃべりつづけ、ムーアがたまに意見をさしはさむだけで、居合わせたほかの者はほとんど何も言わなかった。ウィトゲンシュタインの頭のするどさと迫力には、感心するというか恐ろしくなるほどだった。
 何日かあとで、スマイシーズがこの日のことをウィトゲンシュタインと話し合っていて、返事の機会を与えなかったのはムーアに対して失礼ではないかと指摘した。ウィトゲンシュタインは「そんなバカなことが」ととり合わなかったが、そのあとでムーアに会ったとき「あのときの私の態度は失礼だっただろうか」とたずねた。ムーアが「ああ、そう思う」と答えたら、ウィトゲンシュタインは、ムッツリした表情でしぶしぶながらお詫びをしたということである*。

*───この項を読んで、スマイシーズ氏から自分の記憶では事情はつぎの通りだと教示を受けた。失礼だと指摘したのは、ムーア自身で、通りすがりにウィトゲンシュタインに偶然出会ったときに、そう言ったのだそうである。そのことを、ウィトゲンシュタインが、スマイシーズかリューイーと語り合った由である。

 同じ学年の冬、ムーアがまた倫理学研究会で発表した。ウィトゲンシュタインがそれに批判をはじめたが、ムーアの論点を見落としているところがあるように私には思われた。私はウィトゲンシュタインの批判が、主観的でムーアに対して公平を欠くように思うと意見を述べた。会が終わって、まだ人が立ち去っていないときウィトゲンシュタインは、私のところに寄ってきて、怒りでギラギラ光った目をして私に言った。「君がまともな頭を持っているなら、僕が誰に対しても不公平な考えをしないぐらい分かっていそうなもんだ。今晩のようなことを君がいうのは、君が僕の講義をまったく理解していない証拠だ」。そう言い捨てるなり彼は行ってしまった。私は雷に打たれたように、その場に立ちすくんだ。

   和解
 その翌晩か翌々日に、スマイシーズに会ったとき、その話が出て、私は、ウィトゲンシュタインがムーアをゴマカしたと言ったつもりはなく、ただ彼がムーアの論文の一部を見落としていると言いたかったのだと、スマイシーズに説明した。それから数日して、私は突然流感にかかってしまった。
 若いドイツ人の友人トム・ローゼンマイヤーは、私の面倒を見てくれる人が誰もいないのを心配して、ウィトゲンシュタインが私と親しくしているのを聞き知っていて、ウィトゲンシュタインに知らせに行った。この友人は、それまで一度もウィトゲンシュタインに会ったことがなかった。ローゼンマイヤーのノックにこたえてウィトゲンシュタインがドアをあけると、彼はひとこと「マルコムが病気です」とだけ言った。ウィトゲンシュタインは、すぐ「ちょっと待ってくれたまえ、僕もいっしょに行きます」と答えて、連れだってかけつけてきた。ウィトゲンシュタインは私のベッドに歩み寄って、きびしい口調で「スマイシーズが、君のいったことを僕が誤解したのだと言っていた。もしそうだったらカンベンしてくれ」と言った。それから私が楽になるように部屋の中をサッサと整頓しはじめた。薬や食べ物をとりに行ったりもしてくれた。こういう工合にして仲なおりができたのは嬉しいことだった。
 それから一週間くらいして、私はアメリカに旅立ったが、別れるにのぞんで、いろいろウィトゲンシュタインが私に言ったことの中に、つぎの言葉があった。「ほかのことは何をやってもいいが、女哲学者とだけは結婚しないでほしいな!」



2──戦争の時代

   推理小説と哲学
 こうして、一年半にわたるケンブリッジ生活を終わって、私は一九四〇年の二月にアメリカに帰ったが、それからずっとウィトゲンシュタインと私は文通をつづけた。ウィトゲンシュタインは推理小説の雑誌が好きだったが、戦時中のイギリスでは手に入らないので、私はアメリカから定期的に雑誌を送った。彼のいちばん好きなものは、ストリート&スミス社から出ていた雑誌で、どの号にも短篇の推理小説が四つ五つ出ているものだった。ウィトゲンシュタインは雑誌の小包が着くと、いつも知らせてくれたが、その手紙の一つに、つぎのような個所があった。

小包たいへん有難う。きっと、すごく面白いと思う。僕の批評眼は、開けてみなくてもそれがわかるんだ。さよう、X線のような眼識で、表紙の裏から四千ページまで見通せるのさ。僕の学問は、こういうお見通しでやれたんだから。だけど、あんまりハッスルしないで欲しいな。一月に雑誌一冊で十分。それ以上送られると、哲学をやるひまがなくなってしまう。それに、僕に送る雑誌のためにムダ使いしてはいけない、そして自分の食べる方をお留守にしないように!

 それからも、戦中戦後にかけて、彼は手紙の中で、何度も推理小説雑誌について、言ってきた。

推理小説雑誌を君から送っていただけるのは有難い。なにしろ、当今は、おそろしく品不足で、僕の頭は栄養不足気味だ。推理小説は、精神的ビタミンとカロリーに富んでいる。米英武器貸与法の打ち切りによって、僕が受けた打撃は、この国で推理小説雑誌が不足をきたしたことだ。こうなっては、ケインズ卿にワシントンで米国政府に対して声明を出してもらいたい。小生の立場から言いたいことは、もしアメリカがわれわれに推理小説を提供してくれないなら、こちらとしては、哲学をアメリカに供給するわけには参らぬ。そうすれば、この勝負はアメリカの負けになる。ねえ、そうだろう?

 彼は、また、ストリート&スミス社の推理小説雑誌と、国際的な哲学雑誌「マインド」とを比較したこともある。

君から送ってくる雑誌をよんで、よく思うことだが、哲学の連中がストリート&スミスの雑誌を読んだら、あのロクでもない阿呆な「マインド」誌など、誰も読めなくなるんじゃないかと思う。まあ、蓼喰う虫も好きずきということもあるけどね。

 二年半後に、彼はこの比較をくり返して言ってきた。

君からの雑誌はすばらしい。ストリート&スミスの雑誌を読んだら、誰も「マインド」誌など読む気がしなくなるだろうと思うと、驚く外はない。哲学に人間の英知につながるものがあるとすれば、「マインド」誌には英知の一かけらもない。推理小説の連載ものには、よく英知のひらめきにお目にかかるけれどもね。

 あるときは、ウィトゲンシュタインは、ある作家の推理小説がたいそう気に入って、ムーアとスマイシーズにも読むようにと貸した。その上、同じ作者に外にどんな作品があるか調べてほしいと私に言ってきた。

気ちがいじみているかもしれないが、最近この小説をよみ返してみて、また大変気に入った。そのため、この著者に手紙を出してお礼を言おうと思っている。馬鹿だと思うかも知れないが、驚くなかれ、僕はそうなのさ。

   大学教育観
 つぎにウィトゲンシュタインは、長い間の文通の中で、大学教師をとりまく不誠実への誘惑に対して、何度か私に警告してくれた。たとえば、私が哲学の博士号をとったと知らせたとき、彼の返事には、つぎのような一節があった。

博士号おめでとう! 君が、その学位号を正しく使われんことを祈る! というのは、君が自分自身を、また学生をあざむかないように祈るという意味です。僕の見方は間違っていないと思うが、大学の教育制度というものは、欺瞞を君におしつけるだろう。あざむかないで通すことは非常にむずかしいことだろう。おそらく不可能かもしれない、けれども、不可能とさとったとき辞職するだけの強い人間であられんことを祈る。今日のお説教は、これでおしまい。

 この手紙の終りには、こうも書いてあった。

君がすぐれた思想(小手先のきいた思想ではない)と、いつまでも消えぬ折り目正しさを持たれんことを。

 一九四〇年の冬、私はプリンストン大学に教職を得たが、そのときの手紙には、つぎのように書いてきた。

幸運を祈ります。とくに大学の仕事がうまくいくように。自己欺瞞の誘惑が非常に大きいことと思う(ほかの人よりも君に多いというわけではないが)。哲学を教える仕事を立派にやりおおせることは奇蹟以外にはないことだろう。今まで君に言ったことを、みんな忘れても、右の言葉だけは忘れないで欲しい。誰もこんなことを言わなかったからといって、僕を変り者だと思うようなことを、なるべくしないでくれ給え。

 翌年の夏、私は、プリンストンがつぎの学年きりで私をやとわないようになったことと、私が軍務につくかもしれない、ということを言い送った。ウィトゲンシュタインからは、つぎのような返事が来た。

つぎの学年以降プリンストンで教えられない由、残念です。心から残念に思います。僕の哲学教育についての見解は御存じの通りだし、この見解は今もかわらない。けれども、君が正当な理由で辞めるのならともかく、不当な理由で辞めるのは好ましくない(正当と不当とは、僕の見方によるが)。君は、きっと立派な軍人になるだろう。けれども、ならなくてすむように祈りたい。君には、ある意味で、静かに生きてほしいのだ。親切と同情とを必要とするあらゆる人間に対して、親切で同情深くていられるような地位にいてほしいのだ。われわれはみんな、そういう親切と同情を、この上もなく必要としているのだいるのだから。
   なんのために哲学を学ぶか
 このあと、おそらく私は相当ながい間、筆不精をしていたらしい。ウィトゲンシュタインのつぎの手紙は、ほとんど一年ちかくたって、一九四四年の十一月の日付になっている。このときすでに、彼はケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジにもどっていた。この手紙で例は、ヒットラー暗殺未遂についてイギリスの陰謀があったという件についての、われわれの喧嘩について、むしかえしをしている。

十一月十二日付の手紙、今朝到着、有難う。手紙たいへん嬉しかった。君が僕のことを忘れてしまったか、ひょっとしたら忘れたいと願っているのではないかと思っていた。とくにそう思うわけがあったから。君のことを思うときは、いつも、あの出来ごとを──僕にとっては、きわめて重大なできごとを思い出さされるのだ。二人で川沿いに鉄橋の方に向かって歩いていたとき、君が言い出した"国民性"について激論したね。あのとき、僕は君の意見のあまりの幼稚さに驚歎した。僕は、あのとき、こう思った。哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。もし論理学の深遠な問題などについて、もっともらしい理窟がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、そして、もし"国民性"というような危険きわまりない語句を自分勝手な意味にしか使えないジャーナリスト程度の良心ぐらいしか、哲学が君に与えるものがないとしたら、哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。御存知のように、"確実性"とか"蓋然性" "認識"などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にはりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えているときなんだ。──もう、お説教は止します。君に、いまいちばん言いたいことは、もう一度君に会いたくてたまらないということだ。だけど、こんど会うとしても、哲学以外のマジメな問題を話し合うことを避けない方がよいと思う。僕は気が小さいから、人と衝突したくない。とくに僕が好きな人とは衝突したくない。けれども、あたらずさわらずのうすっぺらな話なんかするくらいなら、衝突する方がましだ。──実をいうと、君の手紙がだんだん間遠になってきたとき、そのわけは、今までのように議論をとことんまでやっていると、将来面と向かって真面目な問題について意見が一致することができなくなると君が感じはじめたのだろうと思った。多分、僕の方が、たいへんな見当ちがいをしていたのだろう。とにかく、生命があって再会する機会があったら、そのときは、やはり深入りすることを敬遠しないようにしよう。自分をきずつけることをいやがれば、まともな思考はできなくなる。僕は君よりもそれを避けたがる方だからそれがよくわかる。この手紙、機嫌をそこねないで読んで下さい。御健康を祈る!

   冷たい再会
 それから六ヵ月して(一九四五年五月)私の乗り組んでいた船がサザンプトンに入港し、私はケンブリッジに行くため三十五時間の上陸休暇をもらった。昼すぎ私はウィトゲンシュタインに会い、夕食時まで一緒にいた。しかしこの再会はうまくいかず、むしろ苦痛だった。彼は、まったく温かみを示さなかった。挨拶の言葉も言わず、むしろ冷たい表情でうなずいただけだった。そして腰をかけるように言った。トリニティー・カレッジの彼の部屋だった。私たちはそのまま、長い間だまって坐っていた。彼が口を開いて話しはじめたとき、私は全力をあげてわかろうとつとめたが、彼の言うことが分からなかった。海軍で勤務している間に、私の頭はにぶくなってしまったのだと、痛切に感じた。彼の冷たくて厳しい態度は、ずっと変わらなかった。心のふれ合いは、まったく感じられなかった。彼は晩飯の支度をはじめたがごちそうは乾燥たまごだった。ウィトゲンシュタインが乾燥たまごでも構わないかと聞いたとき、相手に心にもないことを言われるのが嫌いな彼の性質を知っていたので、私は率直に乾燥たまごはひどい食い物だと思うと言った。これがまた彼のカンにさわった。自分に悪くなければ、お前に悪いはずはない、といった風な不平をブツブツ漏らしていた。あとで、彼はこのたまごの一件をスマイシーズに話して、乾燥たまごを悪くいったのは私がスノッブになったしるしだと解釈していた由である。
 この再会の翌日、ウィトゲンシュタインは、私が数週間前に出した返事をうけとった。この手紙は、ヒットラー問題にふれた前掲の手紙に対する私の返事だった。その中で、私は国民性について、以前私がいったことは愚劣だったと書いたはずである。一九四四年当時には、私もそう考えていたからだ。また、ウィトゲンシュタインが手紙に書いてきた言葉にも感謝の意を述べていたはずである。とにかく、彼はすぐさま私に返事をくれた。その中で、もし私の手紙を再会の前に受けとっていたら、もっとなごやかな気分で接することができただろうに、と書いていた。そして、そのあとに、つぎの一節もあった。

一緒になったとき、君の頭の中にも話したいことがいっぱいあったろうし、僕もそうだったのに……。これから僕に手紙を書くときは──あれにこりずに君は手紙をくれると思うが──敬語ぬきで書いてくれ、僕もそうするから。いまどき急にこんなことを言うなんて、君には馬鹿げた、あるいは変なことだと見えるかもしれない。もしそう思ったら率直に言ってほしい。ガッカリはしないつもりだから。

   戦争はたいくつか
 それから一月あとに、私は戦争が"たいくつ"なものだと書き送ったが、その返事にこう書いてきた。

戦争が"たいくつ"だという点について、ひとこと言いたいことがある。もし子供が「学校がぜんぜん面白くない」と言ったら、誰でも「学校で教わることが、ちゃんとわかるなら、学校はそんなつまらない所ではないはずだ」と言うだろう。失礼なことを言うようだが、この戦争の中に人間について学ぶことが山ほどあるように、僕には感じられるのだが……君が目をあけて観察すれば、また、深く考えれば考えるだけ、見るもの聞くものから沢山のことを引きだせるはずだ。考えるということは、食物の消化と同じだ。この手紙がお説教調になっているなら、バカ者に免じて許してほしい。だけど、もし君があきあきしているなら、それは君の頭の消化力が減退していることになる、とやっぱり思わざるをえない。いい治療法は、ときどき目をカッと大きく見ひらくことだ。読書も悪くはない。たとえばトルストイの『ハジ・ムラート』などよかろうと思う。もしアメリカで買えないなら言ってくれ給え。こちらで手に入るかもしれないから。

 そのつぎの手紙には、本といっしょに「この本から沢山のものを得てほしい、この本には教えられることが大量にある」と書いてあった。著者のトルストイについては「偉大な人間、彼こそ真に書く権利のある人物」と評している。そして、あとで私の書き送った読後感について、「なるほど、船というところは"思考"をするには向かないところらしいね、もちろん猛烈に忙しいということを別にしても」と書いている。
 ずっと後になって、ウィトゲンシュタインと、彼の第一次大戦従軍のことについて語り合ったとき、彼は絶対に"たいくつ"しなかったと力説した。軍隊勤務がきらいでなかったとも語ったと記憶する。そして、背嚢の中に手帳を入れておいて、ひまさえあれば考えたことを書きつけ、はじめての著書『論理哲学論考』をまとめた事情を話してくれた。

   『哲学探究』について
 著書といえば、前掲した『ハジ・ムラート』のことをはじめて書いてきた手紙の中には、当時準備中の彼の新しい著書『哲学探究』について触れている。

僕の仕事はおそろしくゆっくりと進んでいる。この秋までに出版できるくらい仕上がればよいと思うけれども、おそらく無理だろう。僕はスゴク仕事がのろいから!

 その二カ月後(一九四五年八月)の手紙には、つぎのようにある。

去年の一学年は、たくさん仕事をした、もちろん僕にしては、という意味。この調子で順調にいけばクリスマスまでには出版できるかもしれない。ただ、今度やった仕事はそれほどよいものではない。けれども、今の時点での最善をつくしたつもりだ。だから、仕事が完成したら、大方の批判をあおぐべきだと思う。

 そして、その翌月には、

仕事、うまくはかどらない。腎臓の工合が悪いせいもある。そんなにひどくはないが、神経質になったり不機嫌になったりするのでね(僕という人間は、いつも何か言いわけのタネを持っている)。

 と言ってきた。けれども、その二週間あとには、明るい手紙が来た。

僕の本は、だんだん完成に近づいてきた。君がお利口さんならケンブリッジに来なさい。読ましてあげるよ。君が読んだらガッカリするだろうと思う。本当のことを言って、とても乱雑な本だ(あと百年もガンバれば、まったく立派なものにできる、というわけではない)。しかし、あんまり気にしちゃあいない。むしろドイツとオーストリアがやっていることの方が気にかかる。ドイツ国民再教育の推進者たちは、いい仕事をしているが、惜しむらくはその教育を享受できる若者たちがあまり生き残っていない。
 なお、君が間もなく海軍から放免される由、たいへん嬉しい。僕が、哲学の教授という馬鹿らしい仕事を辞める決心をつける前に、ケンブリッジに来てくれないかなあ。哲学の教授などというものは、いわば生ける屍だ。

 四ヵ月後にきた手紙には、こう書いている。

講義は、あと三日ではじまる。わけのわからぬタワゴトをしゃべるようになりそうだ。僕が辞職する前に、一学年間だけ君がケンブリッジに来てくれると有難いんだが! 君が来てくれれば嬉しいし、僕のいいかげんな職歴の幕切れを飾ることになる。

   好きな本
 そのころ私は、トルストイの『復活』を読んで、その第五十九章の書き出しの文に感激した。それは、つぎのような文ではじまる。「もっとも広く信じられている迷信は、人それぞれに持って生まれて変わることのない性質を持っているということ、たとえばある人が親切だとか残酷だとか、かしこい・馬鹿・エネルギッシュ・無気力等々という風に」。私はウィトゲンシュタインにそれを書きぬいて送ったが、それについて彼はつぎのような感想を書いてきた。

僕は、いつか『復活』を読もうとして、読めなかった。お気づきだろうが、トルストイが物語のすじをはこぶときの方が、読者に向かって語りかけるときより、はるかに感銘を受ける。読者に背を向けているときが、もっとも面白い。この点については、またいつか議論する機会があると思うが、彼の哲学が作品の表面に出ていないときが、もっとも真実味に富んでいるように僕には思われる。

 別な手紙には、ジョンソンについても書いている。このあいだサムエル・ジョンソンの『ポープ伝』を読んだが、たいへん気に入った。ケンブリッジに帰ったらすぐ、ジョンソンの『祈禱書・黙想書』を送る。君は全然気に入らないかもしれない。あるいは、その反対かな。とにかく僕は気に入っている。

 そして、このジョンソンの本を送ってくれたが、つぎのようなメモがついていた。

これが送ると約束した本。絶版らしいので、僕の持っていた分を送る。ふつう、印刷された祈橋書など読めたものじゃないが、ジョンソンのは、人間味があるので感心させるのだということを、念のためつけ加えておきたい。読んだら僕の言ったことがおわかりになると思う。君は全然好きにならないことになりそうだ。君は、僕の見る角度とちがった視角から読むだろうから。いや、僕と同じかな。気に入らなかったら捨てて下さい。ただ、僕の寄贈と書いた頁だけは切りとること。僕が有名になったあかつき、僕のサインとして貴重なものになる。そして君の孫が売って現ナマをしこたま手にすることができるという段どりだ。

 ウェールズ発の手紙には、バイブルのことも書いている。

ここの家主はアメリカ版口語訳聖書を持っている。新約の訳(訳者はE・J・グッドスピードという人)は気に入らないが、旧約の翻訳(何人かの共同訳)は、今までわからなかった点を、たくさん啓発してくれるので、読む価値があるように思う。いずれごらんになることがあろう。

   フロイト論
 そのころ私は、フロイトを読みはじめていてたいへん惚れこんでいたので、ウィトゲンシュタインにその旨書いたことがある。それにはつぎのような返事がきた。(一九四五年十二月)

僕もはじめてフロイトを読んだときは、たいへん感心した。彼は大した人物だ。もちろん、彼の考え方は、いかがわしいところが沢山ある。彼の人柄に備わる魅力とその研究対象の魅力が非常に大きいので、君は簡単にごまかされたものと見える。彼は、いつも、精神分析の考え方に対する強い偏見や人間の心にやどる反発心を強調する。けれども、精神分析が人を引きずりこむ──彼自身がひきこまれたように──強い魅力については、ちっとも語らない。セックスといったみだらなものをあばきだすことに対する強い偏見があるだろうが、それに反発するよりも興味をひかれる場合だって非常に多いのだ。精神分析が危険なもので、邪道であり、百害あって一利がないということをしっかりと心得ておかないと、ひきこまれやすい(こんなことをいう僕を融通のきかぬ頑固なばあさんのように感じるなら、君はよほど考え直す必要がある)。こういうことを言ったからといって、彼の科学的な大業績の名誉をきずつけることにはならない。ただ、ちかごろは、科学的な大業績は、人類を(人間のからだや心や、知能などを)破壊する方向に使われる傾向がある。だから、シッカリシナイトイケマセン!

 一九四六年の春には、ウィトゲンシュタインはつぎのように書いてきた。

僕の頭はひどく混乱している。教室以外では、長いあいだ仕事らしい仕事は何もしていない。先学期は調子がよかったのだが、今は、頭が焼け落ちた家のようになっている。中は、四方の壁と黒焦げの焼けのこりがあるだけ。君がこちらに来たときには、ちょっとましな調子になっているように念じている。……明日は講義はじめ。やりきれない! なお、君が僕よりも頭も機嫌もよい状態であるように祈る。



3──ケンブリッジの講義

   ケンブリッジ最後の年
 一九四六年夏に私が家族といっしょにケンブリッジに着いたので、私たちの文通は終わった。この年は、けっきょく、ウィトゲンシュタインの教授としての最後の学年となった。ウィトゲンシュタインは、ジーザス・グリーンの近くのサール街にある私たちの家に、毎週一度か二度たずねてきた。はじめ、彼は初対面の私の妻に距離をおいていたが──彼は学者の奥方たちにはいつもそうだった──間もなくすっかりうちとけた。私の家に夕食を食べに来にたときは、よく皿洗いをするといってきかなかった。湯わかし器から熱い湯がいくらも出るバスタブで食器を洗う方が効果的だという信念を持っていて、腰を曲げる重労働をものともせず、何度もバスルームで食器を洗った。ウィトゲンシュタインは清潔ということにひどくうるさかった。食器が洗剤と熱湯をたっぷり使って洗ってないと思ったら、気持わるがった。皿洗いぶきんだけより効果が上がると、皿洗いブラシを私の妻に持ってきてくれたこともある。
   別の見方を教える
 いちど講義の中で、彼は哲学的思考の手順について触れたことがあった。
 ──私が教えるものは、ある表現の用法についての形態論である。私は、君たちが想像もしなかったような用法があることを示す。ふつう哲学では、ある概念を、あるきまった見方で見るように強いられていると感じるものだ。私の教えることは、べつな見方がありうるということを教え、あるいは進んでそういった見方を創造することである。今まで考えたこともないような見方がありうることを教える。君たちが、一つの、あるいはせいぜい二つの見方しかないと思っていたのに、外の見方もあると考えるようにさせたのだ。それからさらに、概念のあり方がせまい範囲にかぎられると思いこむのが馬鹿らしいということに気がつくように指導したのだ。こうして、君たちを身うごきできないようにしている考え方から解放して、自由に言葉を使えるように、また、いろいろちがった種類の用法に気がつくようにした。──

   開かれていたドア
 ウィトゲンシュタインの講義に出席する外に、私は一週に一度、午後彼と一対一で会った。ウィトゲンシュタインが彼の著書を二人でいっしょに読もうと提案したからだった。彼は、その本のタイプした草稿を貸してくれた。のちに『哲学探究』の第一部として出版されたものの原稿である。この週一度の会合はこの草稿をつかってつぎのような手順で進められた。彼のリビングルームで、折りたたみのキャンバスの椅子を、原稿が一緒に読めるように近よせて坐る。はじめ、ウィトゲンシュタインがドイツ語の部分を読みあげ、つぎにそれを英語に訳した上、その個所の意味について少し説明をする。それが終わると、またつぎの部分をドイツ語・英訳という風にくり返す。つぎの会合では、前回に終わったところから同じ手順で読み進んだ。はじめのうちは、彼が私をこんな風に扱ってくれるのは嬉しかった。ウィトゲンシュタインは「こうしておけば、本が出たときに少なくとも一人はわかってくれる人がいるわけだ」と言ったことがある。けれどもしばらくして、私はこのようなやり方が型にはまり過ぎているように思うようになった。そのころ私の念頭にあった哲学上の疑問をもとにして議論をはじめたいものだと考えていた。彼もだんだん、きまりきった手順にとらわれないようになり、やがて前よりも自由に討論をするようになった。
 あるとき、こうして一緒にいる場で、彼は哲学について、ハッとするような意見を述べたことがあった。「哲学上の疑いにとらわれている人は、部屋の中にとじこめられて、どういう風にして抜け出せばよいかわからない人に似ている。窓から抜け出そうとしても窓は高すぎる。煙突は狭すぎて出られない。そういうときに、もし百八十度うしろを向くと、ドアがはじめからずっと明きっぱなしだったことに気がつく! 哲学もこれと同じだ」。この見方は、『哲学探究』の一○八節、一二三節、三〇九節に出てくる見解につながっている。(講義のときにもウィトゲンシュタインは、彼の哲学についての見方──たとえば、「問題は新しい見聞をもち出せば解けるのではなく、われわれがとうに知っていることを整理してまとめれば解決される」という『哲学探究』一〇九節の言葉や、「哲学者の仕事というものは、特定の目的のために、憶えていることをまとめあげることである」という同書一二七節に見えるような見解──と、「知識とは想起することである」というソクラテスの説と共通点があることを指摘したことがあった。もちろん、ソクラテスの方には、それ以外のものもあるという但しつきではあったが。)

   日課
 論文読みと議論の二時間のあとでは、散歩をするのがしきたりだった。そのあとで、カフェテリアのライオンズかリーガル・シネマの二階にあるレストランでティーを飲んだ。時には、彼がそのままサール街の私の家に来て一緒に夕食をすることもあった。ある晩、夕食後にウィトゲンシュタインと私たち夫婦はミッドサマー・コモンを散歩した。歩きながら私たちは天体の運行について話していた。と、ウィトゲンシュタインが思いついて、われわれ三人がそれぞれ太陽・地球・月の立場になって、たがいの運行関係をやってみようと言いだした。私の妻が太陽で、ずっと同じ歩調で草の上を歩く。私は地球で妻の廻りを駈け足でまわる。ウィトゲンシュタインは、いちばんたいへんな月の役を引き受けて、妻の廻りをまわる私の廻りを走ってまわった。ウィトゲンシュタインは、この遊びに熱中し、走りながらわれわれに大声で指示を与えた。そして、息が切れて目がまわりくたばってしまった。
 ウィトゲンシュタインは、このミッドサマー・コモンにときどき来るカーニバルも好きだった。彼は銅貨を転がして、止まったところの数字によって賞品がとれる遊びを好んでした。ただ銅貨を手から離すとき、方向を定めるということを絶対にしなかった。離す際に目をつぶることさえあった。「すべて偶然にまかせねばいかん」というのが彼の意見だった。彼は私の妻が銅貨のねらいをきめようとするのにも、あまり賛成でなかった。また彼は的に向かってボール投げをするゲームを私にすすめ、私が投げるのを見て昂奮した。そして、そのあとであまり上手ではない私の腕前を激賞した。
 こういう折に文学の話をすることもあった。あるときウィトゲンシュタインは、私がトルストイの『二十三の物語』を読んでいるのを知って嬉しがった。彼はこの短篇集を非常に高く評価していた。彼はその一篇「一人の人にどれくらい土地が必要か」にある教訓を私が理解したのかどうか、くわしく聞きただした。ウィトゲンシュタインは、はじめ私がその作品を忘れてしまっていることに機嫌を悪くして、顔をこわばらせた。けれども私がたしかに読んだこと、またトルストイのその作品をちゃんと理解し高く評価しているのを知って、機嫌を直して朗らかになった。ついでながら彼はドストエフスキーの作品も賞賛していた。『カラマーゾフの兄弟』は数えきれないほど何度も読んでいた。だが、作品としては『死の家の記録』が最高作だと言ったことがある。

   課外の集まり
 さて、この学年度にはウィトゲンシュタインは、学期中毎週、課外の集まりをするように頼みこまれて承諾した。土曜の午後五時から七時までという時間だった。出席者から持ち出された質問に応じて、哲学上の議論が行なわれた。正規の講義とちがって、もっとくだけた雰囲気の集まりということになっていたが、遅れて来ても結構というのと、ずっとつづけて定期的に出席しなくてもよいというだけで、その場の空気は厳粛といってもよいくらいに真面目なものだった。出席者の数は普通六人ほどだった。われわれが一人二人と部屋に入ると、ウィトゲンシュタインは折りたたみのキャンバスの椅子にだまって坐っていた。入ってくる者に挨拶もせず、きびしい顔つきで真剣な瞑想にふけっているように見える。誰もウカツな発言をして、その場の沈黙を破ろうとする者はなかった。私たちは考えこむようにして静かに坐っていた。ピーター・ギーチは、この場の様子がクエーカー教の祈禱集会のようだと評したことがある。こういう沈黙をやぶって話題を持ちだすのは、よほどの度胸を要したものだ。けれどもひとたび誰かが話題を持ち出すと、ウィトゲンシュタインは全力をあげて、その問題の意味をとらえようとし、その問題を発展させたり組み立て直したりした。そして一見無関係な他の問題をそれに関連させ、いつも必死になって考えこんだ上、その問題からすばらしい興味を引き出した。美学の問題がこの課外の集まりでは、いちばん多く出たように思う。ウィトゲンシュタインの芸術についての深い豊かな考察は、非常にすばらしいものだった。

   イメージのなぞ
 この課外の集まりの席上で、ウィトゲンシュタインは哲学がどういうものかを説明するためになぞを出したことがある。地球の赤道をピッタリとロープで巻いたとする。もし、そのロープを一ヤードだけ長くして、そのロープと地球との間を等距離にして張りつめたとすれば、地球とロープの間はどれくらい離れるだろうか。その場にいた者はだれも、ちゃんと計算することをしないで、地球とロープの間がほとんど離れないので、変化はみとめられないだろうという考えに傾いた。しかし、それは間違いなのだ。実際には約六インチの隙間ができる。ウィトゲンシュタインはこういう種類の間違いが、哲学でもおこる間違いだとみんなに話した。つまり、イメージによって誤信におちいる誤りである。このなぞでは、われわれ。を誤りにみちびくイメージは、ロープ全体の長さと、つぎたした部分の長さの比較という点だ。イメージそのものは少しも間違っていない。ただ、一ヤードの部分がロープの全長に比べると、何万分の一にもあたらないだけだ。けれども、そのことから間違った結論に達することになる。同じことが哲学でもおこる。われわれは頭の中にえがいたイメージ──イメージそのものは間違っていない──によってたえずだまされるのだ。
 ウィトゲンシュタインが挙げた、われわれを誤解にみちびきやすいイメージの例は、地球を丸いボールの形として、われわれが真っすぐに立っていて裏側の人間が逆さまに立っている画である。この画じしんはうそではない。だが、地球の裏側の住人がわれわれの足もとにいると思ったり、彼等がさかさまに歩いているという誤解にわれわれを誘いこみやすい(この例は、『哲学探究』三五一節で論じられている)。

[気になったので、地球とロープとの間の距離を計算してみました]
地球の半径をR、ロープの長さLとすると
L = 2πR

Xヤード長くしたロープの長さをL'とすると
L' = 2πR + X

地球の中心と長くなったロープとの距離をR'とすると
R' = (2πR+X) / 2π

ロープをXヤード長くしたとき、ロープが地球から離れる距離は
R'-R = (2πR+X)/2π - R = X/2π

X=1のとき、つまりロープを1ヤード(=36インチ)長くしたとき、
R'-R = 36/2π ≒ 6

   哲学は水泳のようなもの
 この年、ウィトゲンシュタインは学生のために時間をたいへん多くさいた。週二回二時間ずつの講義、一回二時間の課外の会合、私と一対一でする議論のために、週のうちの一日の午後をまるまる使う時間と、エリザベス・アンスコムとW・A・ヒジャープのためにやはり午後をまるまる費す時間、それに毎週一回、夜おこなわれる倫理学研究会、これにも彼はいつも出席した。研究会の空気に対しては、ウィトゲンシュタインはひどく反感をいだいていた。けれども会の討論をできるだけ質の高いものにすることは、自分のやらねばならぬことという単なる義務感から出席していた。会で研究発表が終わると、ウィトゲンシュタインは、きまって最初に討論の口を切った。そして、彼がその席にいるかぎり、討論の中心となって。指導役をつとめた。私に漏らした言葉によれば、会でいつもそういう主役をつとめることは会自身のためにならない、と彼は信じていた。けれどもそれはそうだが、彼の強い性格からいって、討論に加わらないでだまっているということは全く不可能なことだった。その解決策として、彼は会がはじまって一時間半か二時間したら中座することにした。その結果は期待に反して、ウィトゲンシュタインがいる間は討論がもり上がり、彼が席を立った後は、議論がつまらない方向に向かったり、単調でダラけたものになってしまった。
 講義、課外の会合、個人的な会合、研究会といったこれらすべての会合で、ウィトゲンシュタインは、意見の出し惜しみをしなかった。彼は自分の研究していることを秘密にして、他人にかくすということを絶対にしない人だった。それどころか、どんな討論の際にも、何か新しい考えを生み出そうと努力していた。彼が何か問題を解決するために必死になっているのを見ると、誰も本当の人間苦を目の前にしている思いがしたものである。ウィトゲンシュタインは哲学的思考を水泳にたとえる比喩を好んでした。水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ、と。人間の偉大さについても、彼は、人間の偉大さをはかる物差しは、その人の仕事がその人自身にどれだけのやりがいがあるかである、と思うと言ったことがある。ウィトゲンシュタインの哲学が彼にとって、無限といってよいほどやり甲斐のあるものであったことは、疑いの余地がない。
 ウィトゲンシュタインは、議論をする相手の考えていることを言いあてる異常な才能をもっていた。相手がその考えを言葉に置きなやんでいると、ウィトゲンシュタインは、それが何であるかを見てとって、相手のために言葉に直してくれたものだ。この能力は、ときどき神わざのように見えたが、実際は、彼自身が長い間たゆみなく研究をつづけているためにできたことだと、私は確信している。彼自身が複雑に入りくんだ問題を解決するために、何百回となく、相手の考えている点を通ったことがあるので、相手の頭にあることがすぐわかるのだった。彼は、あるとき私に、教室で誰かが何か考えついたことで、彼自身がそれ以前に一度も考えたことがないものは、ほとんどありえない、と言ったことがあるが、これは大ぼらではなかった。

   義務意識
 この年の彼の過重な時間割は、心身を極度にいためつけるものだった。しかも、彼はそれ以外の希望を受けつけたものかどうか、よく悩んでいた。たとえば、ある人が地球の裏側から、多大の犠牲をはらってウィトゲンシュタインに教えを受けるためにやって来たことがある。その人は講義のほかにも、ウィトゲンシュタインと個人的議論の機会がほしいと申し出た。ウィトゲンシュタインはこの申し出について悩んだ。彼は、この希望に添うようにするのが義務ではないかと感じていたが、他方、体力をセーブしなければならないとも思っていた。けっきょく、この希望は断わったと思うが、こういう問題を、いつも自分の義務は何であるかという点から考えるというのが、彼らしい考え方だった。
 義務感は学問の外の世界にも発揮された。そのころケンブリッジ市の郊外にドイツ軍の捕虜収容所があったが、第一次大戦で捕虜生活をしたウィトゲンシュタインは、この捕虜たちの生活を少しでもよくするために何かできないものか、と心配していた。彼は私をともなって収容所を訪れた。捕虜の代表と面会する許可をもらって、話し合った結果、あとで捕虜に楽譜と楽器を寄贈したはずだ。



4──自信と不安

   怒り
 この冬には、ウィトゲンシュタインを怒り狂わせる事件もおこった。ある哲学者が、現代イギリス哲学について一般にわかりやすい論文を文芸雑誌に発表した。その中で、ウィトゲンシュタインについては、『論考』出版以後の業績は知られていないが、その高弟たちの書いたものから想像すれば、ウィトゲンシュタインの扱っている哲学は、一種の精神分析になっているようだ、と書いてあった。誰かがこの論文をウィトゲンシュタインに見せると、彼は怒り心頭に発した。彼はこの論文の筆者は、自分の仕事をわざと知らないふりをしているのだ、と言った。ウィトゲンシュタインを激怒させたのは、右の点で筆者が不正直であると信じこんだことだけでなく、ウィトゲンシュタインは、その仕事の内容を秘密にしていると、筆者がにおわせていることであった。彼は、自分の講義はいつも出版と同じつもりでやっているのだ、と言っていた。(私もここでつぎのことをつけ加えておきたい。彼が学生に筆記させた議義録二冊は「青色本」「茶色本」といわれて、その時もう十年以上も、謄写版やタイプ印刷の形で個人的に廻覧されており、英国の哲学者には広範囲に読まれていたのである。)もう一つの怒りのたねとなったものは、彼の考えている哲学が精神分析であるとした点であるが、この点については、私は二度もウィトゲンシュタインが精神分析は混乱した考えの上に立っていると、はっきり批判したのを聞いている。「まったくちがったものだ」と彼は言っていた。
 とにかく、この論文は数日の間、ウィトゲンシュタインをたいへんな混乱状態におとしいれた。彼は、私にこの論文に対する回答を書く気がないかとたずねた。私は、どんな形で回答を書いたらよいのか見当がつかない、とことわった。ウィトゲンシュタインは私の答えに御不満だった。もしも誰かがムーアの業績にでたらめなことを言ったら、君はムーア弁護の論文を発表するかどうか、と私にきいた。そうするだろうと、私は言わざるをえなかった。ウィトゲンシュタインは、私のこの答えが彼自身いつも疑いの目をもって見られていることを裏書きするものだと怒った。──自分の友人たちは自分を"渡り鳥"と見なしている。つまり"渡り者"、誰でも打ち殺してもかまわない渡り鳥だと思っているのだ、と。ウィトゲンシュタインはアンスコムにもスマイシーズにも、反論を出版するつもりがないかどうか聞いたけれども、どちらからも確答が得られなかったようだ。アンスコムには"渡り鳥"という同じ言葉も、使ったらしい。ものの二日か三日というものは、ウィトゲンシュタインは、この事件のため狂乱状態にあった。自分自身で書いてこの雑誌に反論を出すことまで考えたりもした。また、ケンブリッジ大学出版に『哲学探究』第一部のタイプ原稿をすぐ出版するようにと持ちこもうかとも本気で言っていた。けれども、数日たって冷静にたちかえって、こんなことのために未完成の本の出版に追い込まれたくはない、と言い出した。そのかわり彼は、この論文の筆者に私信を送って、その中で、筆者がウィトゲンシュタインの哲学研究がどんなものかを、文面にあるよりももっと知っているはずだと思うと申し入れた。ウィトゲンシュタインが丁寧で他人行儀な返事を受けとったところで、この事件はケリがついた。

   不安
 ウィトゲンシュタインは、自分の原稿が火事で焼けてしまうことが心配だ、と何度も私に言ったことがある。大歴史家モムゼンが、その『ローマ史』の原稿を火事でフイにしてしまった話を、恐怖心を顔に見せながら、つけ加えたこともある。けっきょく、鉄製の手提金庫を買って、カレッジの自室においてあるノート、原稿類を入れることにした。自分が生きている間にこの仕事が出版になるかどうか疑わしいが、死んでからでもこの本が(『探究』の第一部にあたる)かならず出てほしいものだ、とくり返し言っていた。しかし、その一方では、もし自分の教え子や弟子たちの出版したものが一緒に消え失せるものならば、自分の書いたものがぜんぶ破滅するのを喜んでながめたいものだ、と激烈な口調で言ったこともある。自分の書いたものより前に出版された弟子たちの仕事と自分の書いたものにかなり似たところがあるだろうから、自分の本がずっとあとになって刊行された折、世の教養ある学者たちが、「ウィトゲンシュタインは、弟子の哲学者たちから、アイディアを盗んでいた」と考えはしまいか、というおそれに彼はしばしば悩まされていたのだった。自分の死後、そんな非難や噂が立ったら、弁護してほしいと、私に真剣になってたのみもした。私は、きっとそうすると約束した。彼のこういう点についての悩みは『探究』の序文に反映している。「いろいろな理由から、私がここに出版するものには、現在ほかの人が書いているものに抵触するところがいろいろとあるはずである──もし私の述べたもので、私自身のものであるとはっきりとしていないものがあれば──その部分については、私だけのものであると主張するつもりはいささかもない」という風に。

   剽窃
 ウィトゲンシュタインは剽窃ということについても、つよい反感を持っていた。彼は、ある人物との関係について説明してくれたことがある。この事件には、あれこれいろいろな噂が流れていた。モーリッツ・シュリックと、その男と彼の三人が、一緒に哲学上の議論をやったことがあったが、その席でウィトゲンシュタインは自分のアイディアをいくつか出し、彼等はノートをとった。しばらくたってウィトゲンシュタインが、学界誌に受けつけられたこの男の論文を読んだところ、この論文はウィトゲンシュタインのアイディアはおろか、その席でウィトゲンシュタインの使った例までも使っていた。ウィトゲンシュタインに対する感謝の言葉が出てはいるが、それは筆者が、ウィトゲンシュタインとの対談から得たものがある程度あるけれども、研究の大部分は、もちろん自分自身のものである、ということを匂わすような言い廻しだった。ウィトゲンシュタインは非常に憤慨した。それで、このことをシュリックに持ち込んだ。シュリックという人は折り目正しい人物だったが、何らかの処置をするとウィトゲンシュタインに約束した、という。けれども、この直後にシュリックが暗殺に倒れるという事件がおこり、この論文は、ウィトゲンシュタインに対してちゃんとした謝辞をつけないままに公刊されてしまった。

   正しく理解されたい
 ウィトゲンシュタインは、剽窃に対するのとほとんど同じくらいに、自説があやまって紹介されることに対しても怒った。彼は、自分の講義に出ていた若い女性にまつわる出来ごとを、私に話してくれたことがある。この女性は、ある問題についての当時のウィトゲンシュタインの考えを紹介する論文を書いて、「マインド」誌の編集者ムーアに呈出し、ウィトゲンシュタインにも見せた。ウィトゲンシュタインは、この論文の出来が非常に悪いと思い、出版してはいけないと彼女に言いわたした。彼女が発表の意志を曲げないので、ウィトゲンシュタインはムーアのところに行って、印刷に廻さないようにすすめた。彼はムーアに「あなたは、このときの私の講義に出てこられたのだから、彼女の書いていることが、よくないのをご存じのはずです」と言い、それに対して──ウィトゲンシュタインによれば──ムーアも、「あれは、出来のよくない論文です」と賛成したそうである。けれども、雑誌に発表する点については、ウィトゲンシュタインの意見にしたがわなかった。私のみたところ、ウィトゲンシュタインは、この事件で非常に気分を害し激昂したようだ。『探究』の序文につぎのように述べていることには、たぶんこの事件も含まれているだろう。

私が講義やタイプ原稿、討論で人に伝えたことが、いろいろに誤解され、あれこれとコマ切れにされたり水増しされたりして、巷間に流布していることは遺憾ながら認めざるをえない。このことは私の誇りをきずつけた。その不快の気持をおさえることは容易ではなかった。

   自己評価
 世評を気にする考えなどを、ウィトゲンシュタインが生来持ちあわせなかったといえば嘘になろうし、事実そのために激情を燃やしたことは、ここで紹介したエピソードにも明らかである。けれども、その反面に、つぎのような面のあったことも忘れてはならない。ウィトゲンシュタインは、みずから進んで無名の人として世に生きようとしたし、ひとが彼を名士にしようとする試みを、ことごとくしりぞけた。さもなければ、彼は文句なしに輝やかしい名声をかちえていたはずである。
 自分の仕事を彼自身がどう評価していたかは、わかりにくい問題だ。『探究』の序文には、この本は「よい本」ではないと言っているが、この言葉は謙遜を気どって言ったものではない。この研究は、自分にはできなかったのだけれども、もっとよいものになりえたかもしれないものだと、彼は本気で思ってもいた。一九四九年の夏病気をした時の主治医ルイーズ・ムーニーに、ウィトゲンシュタインは自分の仕事について少し説明して、「ひょっとしたらぜんぶまちがいかもしれません、みんなよくないのかもしれない」と、大声で叫んだという。これは、しかし、いつもの彼らしくない言葉だ。議論をするときは、自信いっぱいに自分の考えを主張し弁明した彼だし、自分の哲学の基本的な考えに、考えちがいがあろうなどとは、考えもしなかった人だ。また、ほとんどいつも、自分が哲学に一大進歩をもたらしたと確信もしていた。けれども、この進歩をもたらしたという点が、自分のまわりにいる連中から、誇張して言いふらされはしまいか、とは気にかけていたように思われる。この気持が多分反映したものと思うが、『探究』の標語として彼が選んだネストロイの言葉にあらわれている。「実際よりも、ずっと偉大なものに見えるということは、進歩に避けがたくつきまとうものだ」。
 自分の仕事が将来どう扱われるか──あとかたもなく忘れ去られてしまうか、あるいは、将来残ったとしても、多少なりとも人類に貢献するものになるかどうか──その点については、はっきりした見通しを彼は持っていなかった。フロイトは、かつて手紙の中でこう述べたことがある。「自分の仕事にどれだけの価値があるのか、また将来科学の発展にどう影響するかについて予測をすることは、私の手には負えない問題です。時には、自信をいだきますが、ときどき、まったく反対のことを考えもします。予想をたてることは誰にもできないことではないでしょうか。きっと、神様さえ御存じないかもしれません」(アーネスト・ジョーンズ『ジークムント・フロイト』第二巻四四六頁)。この文は、ウィトゲンシュタインが自分の仕事について抱いていた気持を、ぴったり言い表わしているように思う。もっとも、ペシミズムの性向がフロイトよりも強かった、というただし書きをつけての上であるが。その点では、ウィトゲンシュタインという人は、自分の仕事が偉大であるなどとは、夢にも考えないタイプの人だった、と私は思う。

   愛を求める
 「渡り鳥」事件に見られるように、ウィトゲンシュタインは、たびたび友人を疑った。彼らは、ほんとうの友情から親しくするのではなくて、哲学上のアイディアを仕入れるという欲から近づいてくるのではないかと疑っていたのである。あるとき、私に、自分は若いとき金めあての友人が近づいて来ないように、財産を寄附してしまった、ところが今は哲学のアイディアめあての友人がいるのが心配になった、と語ったことがある。彼は、自分から何か引き出して利用しようとしない友人を求めていたのだった。また、別な折には、こう言ったこともある。「ぼくは愛情を人に与えることはできないけれど、ぼくには非常に必要なんだ」。人間味のある親切とか心づかいは、彼にとっては、知的な能力や高尚な趣味などよりは、ずっと大切な属性であった。彼は、ウェールズで経験した出来ごとを、うれしそうに聞かせてくれたことがある。ある牧師の家に下宿したが、はじめてこの家にウィトゲンシュタインが行ったとき、そこの女主人が、ティーが好きかどうかなど、あれやこれやについてその好き嫌いをウィトゲンシュタインにたずねた。そのとき、向うの部屋から彼女の夫が「何もきかなくてもいい。ただ差し上げるんだ!」と叫んだ。ウィトゲンシュタインは、この声につよく感銘を受けたのだそうだ。非常に寛大な人や親切だったり正直だったりする人について話すときに、ウィトゲンシュタインが、よく使った形容は、「ああいうのが、本当の人間だ!」という表現だった。ほとんどの人間が、人間として落第だった、という意味合いをもって言っていたわけである。
 このように、ウィトゲンシュタインが、人間のあたたかい愛情をはげしく求め、ひとのちょっとした親切も、大いに徳としたことは確かなのだが、彼と親しくつきあうことは、たいへんシンの疲れることだった。彼は相手を、耐えられないようなきびしい調子で非難することもあったし、相手の心の中や人柄を疑う傾向もあった。そういうときの判断が早合点だったり間違いだったり、ということもないではなかった。しかし、全体として、彼は友人たちを正確に客観的に評価していた。スマイシーズが言ったように、ウィトゲンシュタインが誰かを痛罵したときは、その人にそう言われるだけのものがあった。ウィトゲンシュタインの非難の言葉には、反省のタネとなるものが含まれていた。彼はとくに虚栄や気ざっぽさ、思い上がりに対しては、すべてきびしかった。

   枯れた植木
 いままであげた例に見られるように、ウィトゲンシュタインは友人に対して、きびし過ぎるところがあったといってもよかろう。つぎの例は、面白みがあると思うので、つけ加えておこう。トリニティー・カレッジの部屋に彼は小さな鉢植えの花を置いていたが、休暇中ウェールズに出かけるときに、私たちの家にあずけて行った。きっと、われわれが不注意で、電気ストーブの近くに置いたままにしていたのだろう。植木は弱ってきて葉もつぼみもだんだんと落ちてしまった。ウィトゲンシュタインがケンブリッジに帰ってきたとき、植木は全く枯れていたが、私は彼の部屋に返しに行った。それから数日して、私の妻と彼は偶然町角で出合った。六週間まえに彼がウェールズに出かけてからはじめて会ったのだが、彼は挨拶もしないで、いきなり「あなたは花のことを何も知らないようですな」と、はげしい口調で言って、そのまま歩いて行ってしまった。私の妻は、びっくり仰天したのだが、そのつぎ彼がわれわれの家に来たとき、彼は植木のことには、もう、一言も触れなかった。
 ウィトゲンシュタインと一緒にいるのは、どんなときでも気ぼねの折れることだった。彼との話が知力をふりしぼる必要があっただけでなく、それに加えてきびしい物言い、遠慮えしゃくもない批評、せんさく好きの傾向、それに加えて陰鬱に沈みこんでしまうくせが、つきまとったのだから。一九四六年から四七年にかけて、冬の間、彼と数時間いっしょにいると私の頭はクタクタになり、神経はスリ減ってしまった。彼とわかれた後には、二、三日時間をおかなければ、会う力がなくなったような気がしたものだ。

   教職への嫌悪感
 その姿、ウィトゲンシュタインは、教職をこのままつづけたものかどうかわからないと、何度か漏らした。職業哲学者であるということが、たまらなくいやなものだったのだ。大学の空気や学者生活も彼には不愉快でならなかったし、また、講義と討論のはげしい時間割のため彼はひどく疲れた。だが、おそらくもっと大きな理由は、自分が教師として与えている影響が有害きわまりないと彼が思っていたことだろう。自分の哲学上の考えが中途はんぱに理解されている事実や、学生が軽薄な小利口さに傾いて行くのを見て、彼は嫌気がさし怒りをおぼえていた。そして教師として失格であると感じていた。このことが、彼をたえず苦しめるタネとなっていたようだ。彼は講義の最中に、ときどき苦しみぬいているような声で「僕はダメな教師だ!」と叫んだものだ。ある年の講義の最後を、「この講義で僕が教えたような気がするものは、わずかな専門語だけらしい」と言う言葉で結んだこともあった。
 こういう考えに彼を追いこむ理由はいろいろあるが、要するに、彼の哲学の内容は、とりちがえて理解されると、影響を受ける人々に何か好ましからぬ効果をもたらした、いや今もってもたらしている要素があるように私は思う。言葉は固定した意味で用いられないという彼の考え(『探究』七九節)、また概念には明確な意味領域がないという彼の考えのことを私は言っているのであるが、こういう風に彼の教えたことが彼の学生の間に、自分たちが考えるときに正確さとか完全さは要らないのだと考える傾向を生みだしていたように思う。こんな傾向からは、キメのこまかい哲学など生まれっこないものなのだ。
 教授の地位を去りたいという気持は、ウィトゲンシュタインの心の中でだんだん強くなっていった。そして、私の知っているある哲学者にまつわる事件のために、この気持はずっとはっきりした形となって現われた。この哲学者はこの年の冬私に手紙をよこして、つぎの学年にケンブリッジに滞在したいこと、またウィトゲンシュタインの講義に出る許可がもらえないものか、をきいて来た。私は、この件をウィトゲンシュタインにとりついたが、たしか、ウィトゲンシュタインもじきじきに手紙を出して許可を与えたはずだ。そして私にも、手紙を書いて、自分がつぎの学年になる前に辞職するかもしれないということを伝えて欲しいと言った。この点は、噂が立たないように、彼自身が書かずに、私に警告を出してほしいとの彼の希望だったので私はその通りにしたのだった。
 そのあと一九四七年の夏に、ウィトゲンシュタインは副学長のもとに行って辞表を出してしまった。だが、このときは、一学期間は有給休暇をもらう資格があるから、つぎの秋学期にそれを当てて休暇をとり、辞職の問題はそのあとで考えるように、と説得されて帰ってきた。それで、私に、予定が変わったことを伝え、かつ、辞職する可能性がないとは限らないけれども、今の時点では冬学期講義をするだろうと知らせるようにたのんだ。私は、その通りに手紙を書いて送った。けっきょく、この秋ウィトゲンシュタインは辞職したのだが、問題の哲学者はこれを知って、たいへん立腹して──詳しくはあとでもういちど出てくるが──、ウィトゲンシュタインに対して、故意に自分をだましたとか、自分が出席することになっているのだから教職に残る義務があると言わんばかりの、バカげた見当はずれの非難をした。ほんとうは、ウィトゲンシュタインが、普通以上に、この人のために気をつかったのだったが。



5──ウィトゲンシュタイン神話

   噂と真実
 ウィトゲンシュタインは、一般に彼を知らない人たちから、神秘的で奇矯な人物だと思われていた。敵意の対象であったばかりでなく、数えきれないほど多くの奇抜な噂を立てられた人だった。いちど、ケンブリッジにいるとき、ある学部の学生が仲間に、ウィトゲンシュタインは床に寝転がって天井を見つめながら講義をするのだと、マジメな顔で言っているのを聞いたことがある。彼がアメリカに来て私の家に泊まっているとき、彼は既に寝とまりしていて私だけが面会できるのだという噂が流れた。後に、彼がアイルランドの海岸に住んでいるとき、ウィトゲンシュタインはトルコで羊飼いをしているという、まことしやかな噂を聞いたこともある。
 もっとも、つぎのような事実はあった。トリニティー・カレッジのウィトゲンシュタインの一階下か二階下に学部の学生が住んでいたが、ピアノを持っていてよく練習をした。この音がウィトゲンシュタインの部屋に漏れてくるので、彼はカンカンに怒った。とくに、馴染みのある曲の場合は、たいへんだった。ピアノの音がきこえてくると、彼は何も考えられなくなるからだった。彼は、まことに彼らしい方法で、この問題を解決した。大きな中古の扇風機を買ってきて、ピアノの音を消すくらいの音をたえず立てさせるという方法だ。扇風機が動いているとき、議論のため何回か居あわせたことがあるが、このウナリ声はまったくひどいものだった。ところが、ウィトゲンシュタインは、騒音はいっこう気にとめていなかった。

   「言語ゲーム」のアイディア
 数学物理学者フリーマン・ダイソンは、当時まだ学部の学生で、ウィトゲンシュタインと同じ階の隣り合わせの部屋に住んでいたが、あるときウィトゲンシュタインからお茶に呼ばれたことがある。ダイソンの話によると、その時はじめに出た話題は、ダイソンがどういう勉強をしているかであった。そのあとでダイソンが、エチケットのつもりで、ウィトゲンシュタインのやっていることがどんな学問か質問した。ウィトゲンシュタインはまず警戒心を見せ、ダイソンがジャーナリストの仕事もしているかどうかを知りたがった。そうでないことをたしかめた上で、ウィトゲンシュタインは哲学とはどんな学問かを説明し、ついでその学問の中で彼自身がどういうことをしているかを話してくれた。ダイソンは、ウィトゲンシュタインの語った、たいへん面白い逸話を覚えていて、私に話してくれた。ある日ウィトゲンシュタインがフットボール試合が進行中の球場を通っているとき、「言語生活の中で、われわれは言葉を使ってゲームをする」という考えが頭に浮かんだ。彼の哲学の中心となる考え、すなわち「言語ゲーム」という考えは、この逸話に起源があるようだ。ダイソンは、また、ウィトゲンシュタインと最後に会ったときのことも覚えていた。一九四六─四七年度の春学期の終りのこと、ダイソンは寮の一階の入口のところでトランクの荷造りをしていた。そこにウィトゲンシュタインがレインコートにハンチングをかぶりステッキを持って階段を降りてきた。ダイソンは数週間後に会っていなかったのだが、彼はダイソンにちょっと頭を下げて通りすぎた。と、ウィトゲンシュタインは立ちどまって、ダイソンをふりむいて「僕の頭は、どんどんバカになっていく」と言った。そして、あとは何も言わずにそのまま行ってしまった。

   検証理論
 論理実証主義の有名な検証理論(「文の意味とは、その検証の方法である」)に、ウィトゲンシュタインがどういう風にして到達したかは、これまでよくせんさく好きの話題になっているが、この疑問を解くカギとなるような逸話を私はウィトゲンシュタインから聞いたことがある。哲学者で心理学者のG・F・スタウトがケンブリッジにちょっとの間来ていたことがあって、そのときウィトゲンシュタインは彼をお茶に招いた(一九三〇年代はじめのことのように思われる)。スタウトはウィトゲンシュタインに、検証について何か面白くて大切な考えがあるそうだが、ぜひ聞かせてもらいたいものだと言った。そのときはスタウトが汽車の時間に間に合うためには、もう直ぐ出かけねばならないことはお互いに知っていた。また、ウィトゲンシュタインは、普通こんな場合には哲学についての話をする気にはならないのだそうだが、この点についてのウィトゲンシュタインの説を知りたがるスタウトの真面目な態度にほだされて、ウィトゲンシュタインはつぎのような比喩をスタウトにして聞かせた。かりに、ここに町があって、警官が住民の一人一人からたとえば年齢や、どこから来たか、仕事は何かなどの情報を集めなければならないとする。この情報が保管されて、利用される。時には、警官がある住民に質問すると、その住民が無職であることがある。この警官は、このことをやはり記録に書き入れる。この職がないということも、この住民についての有用な情報だからだ。
 この比喩の意味することは、もしある言明が理解できないときは、それについて検証できないということを知ることが、そのことについての重要な情報であり、そのことによって言明について理解を深めることになる、というのだと思う。つまり、それは理解を深めることであって、理解するものは何もないということを知るのではないという意味である。

   ムーアのすごさ
 さて、教授としての最後の一年間、ウィトゲンシュタインは二週間に一度ムーアを訪問することにしていた。ウィトゲンシュタインはムーアの正直な点と真面目さを買っていた。あるとき、ムーアはすごいと言ったこともある。しかし、その一方では、ムーアが子供っぽすぎて、話をするとほとんどいつも気落ちさせられていた。ムーアが哲学者として主にやったことは、哲学上の問題を早まって解決しようとする態度を打ちこわした点である、とウィトゲンシュタインは評したこともある。この当をえた指摘に私は驚き入った。けれどもこういう指摘をしたとき、ウィトゲンシュタインは、正しい解決を示されてもムーアは、それが正しい解決だとわからないにちがいないともつけ加えた。ウィトゲンシュタインは、第一次大戦前自分がケンブリッジ大学で学生だったとき、ムーアの講義には二、三回しか出たことがない、と言っていた。ムーアの講義の特徴であったくり返しの多さにガマンできなかったからだそうである。またあるとき彼は、ただ一つムーアの仕事のなかで非常に感心した点は、「雨が降っている、しかし私はそれを信じない」という文に含まれている特殊な無意味さを見つけたことだ、とも言っていた(このムーアの発見は「ムーアの逆説」と『探究』第二部十章で呼ばれている)。しかし、彼はムーアの「常識の擁護」が大切な考え方であると認めていたし、もし誰かが自分の考えをきっちりと表現しようと思って、ぴったりする言葉を探そうとしているときは、ムーアは相談相手として最良の人である、とも言っていた。
 ついでながら、ムーアの人柄のもっとも敬愛すべき面を示す、とウィトゲンシュタインが考えていた逸話を、私は彼に聞かされたことがある。かつてムーアがロンドンの英国アカデミーで講演することになっている「外界の証明」と題する研究をまとめていた時のことである。その結論の部分が非常に気に入らないけれども、満足できるほどに手を入れることができないまま当日になった。ロンドン行きの列車に乗るためにケンブリッジの家を出ようとするときムーア夫人が「大丈夫よ。きっと皆さん気に入ると思うわ」と言った。ムーアは「気に入ったなら、それは皆が間違ったわけだ」と答えたという。このエピソードに現われているものが、ウィトゲンシュタインのいわゆるすごいに当たるものだと思う。

   いかに生きるべきか
 ムーアの健康は一九四六─四七年には、たいへん良かったが、ムーアはそれ以前に脳溢血にかかっていたので、医者から興奮しすぎたり疲労しすぎたりしないようにとの注意を受けていた。そのため、ムーア夫人は、医者の指示を守って哲学の議論をムーアに一時間半以上は誰ともやらせないことにしていた。ウィトゲンシュタインは、このムーア夫人の規則を、猛烈に嫌っていた。ムーアは奥さんのさしがねを受けるべきではない、と彼は思いこんでいた。好きなだけ議論をつづけるべきだ。もしそれで興奮しすぎたり疲れたりして、脳溢血を起こして死ぬとしても言ってみれば、それは学者冥利に尽きることじゃないか、騎士が馬上に死ぬのと同じだ。ムーアが真理への情熱を持っているのに、議論がまだ終わってもいないのに途中で打ち切らせられるなどというのは、学者の風上にもおけないことだとウィトゲンシュタインは思っていた。このムーア家の規則に対してみせたウィトゲンシュタインの反発は、彼自身の人生観をあざやかに物語っている、と私は思う。人間は、自分の才能に課せられた仕事に全精力全生涯を傾けるべきである。長生きをしたいというだけのことで、この努力の出し惜しみをしてはならない。このプラトニックな処世観は、二年後にウィトゲンシュタイン自身が、その才能のおとろえをおぼえ、このまま生きつづけるべきかどうかを自分に問いかけるときに、彼の思想と行動の中に、再びつよくよみがえったのである。

   ラッセル
 ウィトゲンシュタインは、第一次大戦前バートランド・ラッセルと二人で論理学の問題に取り組んだ頃のラッセルの頭の鋭さに対して、一再ならず賞讃の言葉を発していた。ラッセルはものすごく切れる、というのがその形容のしかただった。それに比べて、ムーアは劣る、と言っていた。ある日、ラッセルと一緒に数時間猛烈に仕事をしたあとで、ラッセルが「論理学なんて糞くらえだ!」と叫んだのを、ウィトゲンシュタインは楽しそうに思い出して話してくれたこともある。このラッセルの叫び声が、自分の哲学研究のはげしい仕事に対するウィトゲンシュタインの気持を表わしてもいた。ウィトゲンシュタインは、ラッセルの記述理論が、その最高の業績だと思っていた。あの仕事は大変な難行苦行だったにちがいないと言っていたこともある。けれども一九四六年には、ウィトゲンシュタインはラッセルの哲学上の近業に対して、あまり感心していなかった。「このごろのラッセルは哲学に生命を賭ける気はない」と言ってニヤリと笑ったこともある。そのころ倫理学研究会の席上でラッセルとウィトゲンシュタインが同席することはあまりなかったが、稀に同席しても、議論するときウィトゲンシュタインがラッセルに対して、よそよそしいそぶりを見せるのに私は気がついた。それは他の人相手の議論のときには、ついぞ見たこともない冷たい態度だった。

   命題と写像
 ウィトゲンシュタインは『論考』に関係のあるエピソードを二つほど話してくれたことがある。このエピソードは彼が外の人にも何度か話しているが、ここにも書いておくべきだろう。一つは、「命題は写像である」という『論考』の中心思想の誕生についてのエピソードである。このアイディアは第一次大戦中オーストリア軍に従軍していたとき、ウィトゲンシュタインの頭に生まれた。あるとき彼は、図面や地図を使って、自動車事故の発生と場所が説明されている新聞を見て、「地図は命題であり、その中に命題の重要な性格、つまり、現実を写像で示すという性格があらわになっている」という考えが浮かんだのであった。
 もう一つのできごとは、このような考えをあっという間にうちくずしたものについての話である。ウィトゲンシュタインとケンブリッジ大学の経済学の講師をしていたP・スラッファは、『論考』中のいろいろな考えについてさかんに議論を戦わしていた。ある日(たしか、汽車の中だったらしい)、ウィトゲンシュタインが、命題とそれによって記述されることがらとは同じ論理構造、つまり論理的多様性を持っていなければならないと主張していたとき、スラッファが指先でアゴの下を外に向けて、掻くのと反対の方向にこする動作──ナポリ人が嫌気をさしたり人を侮辱するといった意思表示をするときによくやる──をして見せて、「この動作の論理構造とは何だろう」と言った。このスラッファが示した例によって、命題とそれによって記述されることがらとは同じ論理構造を持っていなければならないと主張することには、不合理な点がある、という気持がウィトゲンシュタインに生まれた。このことが、「命題は文字通り、その記述する現実の写像でなければならない」という彼の固定観念をうち破ったのだそうである*。

*───G・H・フォン・ライト教授から聞いたところでは、このできごとについて、ウィトゲンシュタインは、同教授には少し違った風に語った由である。すなわち、そのときの論点は、すべての命題が「文法」をもたねばならないかどうかということだったのだそうで、スラッファが例の動作は、どんな「文法」を持っているかとウィトゲンシュタインに聞いたのだという。ライト教授に説明するときにはウィトゲンシュタインは「論理構造」とか「論理的多様性」という言葉を使わなかった、とのことである。

   『論考』と『探究』
 ウィトゲンシュタインは、たびたび『論考』をけなすようなことをいろいろと私に言っていた。けれども、この本が、やはり、重要な仕事であると見なしていたことはたしかである。だいいち、『探究』の中で、この本の誤っている個所を是正するために懸命になっていた。また、『論考』の中で自分はすでに完全にでき上がった見解を示していて、今度の本はそれに対してちがった見方をするだけだ、と私に言ったこともある。それに、彼は旧著『論考』が、彼の新しい論文と一緒になって出版されるように望んでいたのも、たしかな話だ。その気持は『探究』の序文につぎのように現われている。「旧著にある考えと新しい考えとを一緒にして出版した方がよいように私には思われる。新しい考えが私の古い考えを背景として、比較対照されることによってはじめて、はっきりと理解できる、と思うからである」。

   宗教観
 さて、ここで私は、宗教に対するウィトゲンシュタインの態度という難しい問題について、私なりに私見を述べておきたい。彼は、私に、自分は若いとき宗教をバカにしていたが、二十一歳ぐらいの時、あるできごとによってその態度が変わった、と語ったことがある。できごとというのは、ウィーンで、芝居を見たときのことで、芝居そのものはありきたりのものだったが、その中の登場人物の一人が、この世に何が起ころうと、自分は困らない、という考えを述べるところがあった。つまり、この人物は運命や環境に対して毅然として自立している。ウィトゲンシュタインは、このストイックな考え方に打たれ、この時はじめて宗教の可能性ということをさとった。また第一次大戦に従軍中に福音書についてトルストイの書いたものを偶然に読んで、強い感銘を受けたとも語っていた。
 ウィトゲンシュタインは、『論考』の中で「世界がいかにあるかが神秘的なのではなく、世界があることが神秘的なのである」(六・四四節)と言っている。そもそも事物がこの世に存在するということに対する一種の驚きの思いは、『論考』の時代だけでなく、私が接していた頃にも、ときおり彼が体験したもののようである*。この気持が宗教につながるものかどうか、私には明らかではない。けれども、ウィトゲンシュタインは、神という考えは、人が自分自身の罪を自覚するときに、その人の心に存在する、という場合にかぎっては、自分も分かるような気がすると、言ったことがある。そのとき、世界の創造者としての神という考えは、理解できない、ともつけ加えて言った。神の審判・赦し・贖罪という考えは、彼の心の中にあった自己嫌悪の気持や純粋さに対する強いあこがれ、人間世界をよりよいものにしようとしながら、それを果たしえない無力感、といったものにつながるものがある点では、彼にも相当に理解できるものだったのではないかと思う。だが、世界を創造する存在(神)という考えは、彼にはまったく理解できなかったのである。

*───この個所を書き終えたあとで、私はウィトゲンシュタインが倫理学について研究発表をしたことがあることを知った(正確な日付はわからないが、多分彼が一九二九年にケンブリッジにもどった直後であろう)。その中で、彼は、自分が一種の経験をすることがあると述べ、つぎのような言葉ででも言いあらわせるかもしれないとして「そういう経験をするとき、私はこの世界の存在に驚く。そして「物事が存在するということは何と驚くべきことではないか』とか『この世界が存在するとは何と不思議なことだろう」という風な表現を用いたくなる」と言っている。それについで、前掲の芝居に出てきた考えに関連してつぎのようにつけ加えている。すなわち、「自分はときどき「絶対に安全だ」と感じることがある。言いかえれば、「自分は安全だ。何ごとが起ころうと、何ものも自分をきずつけることはできない」と言いたくなるような心境である」と。

 ウィトゲンシュタインは、霊魂不滅というものは、人が自分には死ぬことによっても免かれることのできない義務があると感じることによって、意味のある言葉になるのだ、という風なことを言ったことがある。義務、ほかならぬウィトゲンシュタイン自身が、強い義務感を持っている人だった。

   拒絶と共感
 彼自身の性質と経験を通して、ウィトゲンシュタインは、審判と贖罪を行なう神という考えを理解できる素養を持ち合わせていた、と私は思う。けれども、創造とか永遠とかいう観念から生まれる宇宙論的なという考えは、彼の性に合わないものであった。神が存在するというあかしとか、宗教に合理的な説明を加えようとする試みなどというものには、彼はついて行けなかった。いちど私がキェルケゴールの「キリストが私を救ったことを私自身が知っているのに、キリストが存在しなかったとどうして考えられようか」といった意味の言葉を引いたとき、ウィトゲンシュタインは「それ見たまえ。それは何かを証明するという次元の問題じゃないんだ!」と大声で言ったことがある。彼は、ケンブリッジ大学での最後の年にニューマン枢機卿が神学について書いたものをこまかく読んだが、気に入らなかった。けれども、その一方では聖アウグスティヌスの著書に対しては、好意を持っていた。彼は私に、『探究』を聖アウグスティヌスの『告白』の引用から書きはじめることにしたと語り、それは、引用に盛られている考えが他の思想家によって言われたことがないからではなく、あのように偉大な精神が持っていた考えなら重要なものにちがいないと思ったからだ、と説明してくれた。彼は、またキェルケゴールを高く評価していた。「本当に宗教的な人だ」と言った風な表現を使って、何か畏敬の念をこめてキェルケゴールについて語っていた。その『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』も読んでいたが、自分には深遠すぎてわからないと思ったらしい。イギリスのクエーカー教徒ジョージ・フォックスの『日記』は読んで・敬服し、私にも読むようにと一冊くれた。また、ディケンズの小説のある場面をほめていたこともある。それは、モルモン教に改宗した英国人のギッシリ乗っている客船が、アメリカに向け出帆しようとしているところに来合わせて書いた記事だが、ウィトゲンシュタインは、ディケンズの描いた、人々の思いすました平静な宗教的決意に心を打たれたらしかった。
 私は、ウィトゲンシュタインが宗教的信仰のようなものを持っていたとか──事実彼は持っていなかったのだし──宗教的な人間であったという印象を読者に与えようとするつもりはない。けれども、彼の中には、ある意味で、宗教を肯定する可能性があったとは考えたい。自分自身はその中に入りこまなかったけれども、共感を持ち、かつ非常に関心を持っていて、宗教を「人間生活の一面」(これは『探究』の中で彼の使った表現であるが)として見ていたことは、たしかだと思う。宗教に入っている人々の態度や考えを、彼は尊重していた。他の場合でもそうであったように、その偽善に対して侮辱の言葉を吐いているけれども、彼は宗教心というものはその人その人の資質と意志(彼自身はそれを持ち合わせなかったが)に根ざすものと見なしていたのではなかろうか。ローマン・カトリック教徒になったスマイシーズとのとアンスコムの二人について、あるとき彼は私に、「僕はあの二人が信じているものを、信じる気にはなれない」と言ったことがある。彼は、スマイシーズたちをけなすつもりで言ったのではなく、むしろ、自分自身の持ち前のことを頭において言ったものだと思う。
 自分自身の前途についても、人間全般の前途に対しても、非常に悲観的であるのが、ウィトゲンシュタインの性質だった。彼の身近にいた人なら誰でも、彼が、われわれ人間の生は醜く、われわれの心は暗黒につつまれているという気持を心の中にいだいていることに気がついていたはずである。──この気持は、しばしば絶望に近いものでもあった。
 一九四八年の二月には、私あてにつぎのような手紙が来た。

体の調子は非常に快調、仕事の方もかなりうまくいっている。しかし、ときどき奇妙な精神的動揺の状態におちいることがある。これになったらお手あげで運を天にまかせるという外はない。

 それ以前に、私は彼に本のことについて書いたことがあった。一冊は、私がたいへん感心したキェルケゴールの『愛の修練』で、もう一冊は私が楽しんで読んだプレスコットの『ペルーの征服』だった。それについて、右のあとにつぎのように書いている。

キェルケゴールの『愛の修練』はまだ読んだことがないが、どうもキェルケゴールは僕には深遠すぎてわからない。僕なんかより深い心の持ち主になら有益なのだろうが、僕にはそういう御利益がなくて、当惑させられるだけだ。むかし、ドゥルーリーがスキナーと僕にプレスコットの『メキシコの征服』のはじめの部分を読んでくれたことがあるが、僕たちにはたいへん面白かった。プレスコットの坊主くさい物の見方は気に食わなかったが、それは、まあ別な問題だ。──ところで幸せなことに僕はこのごろあまり本を読まない。グリムの童話集とビスマルクの『わが思想と回想』をバラバラと読んだくらいだ。後者には感心した。といって、ビスマルクの考えに共鳴するわけじゃない……御幸運を祈る。君も祈ってくれることと思う。しんじつ、僕にはこれが必要なんだ!
   ムーアと虚栄心
 この時期に私の出した手紙で、ムーアに少し触れたことがあった。私の知人である有名な哲学者が、自分の発表した哲学上の見解に対する批判に、敵意にみちた反応を示しがちだ、ということをムーアに話したことがあるが、そのときのことをウィトゲンシュタインに書いたのだった。ムーアが、この話に驚いたように見えたので、私は彼に、職業上の虚栄心のために、自分の書いたものに対する批判に対して、人がどんなに怒りだすか、ということが理解できるかどうか聞いてみた。驚いたことにムーアは、「わからない!」と答えた。この話をウィトゲンシュタインに書いて、こういう風な、人間の本性について無知である点は、ムーアのいいところだと思うとつけ加えた。
 ウィトゲンシュタインは、つぎのように返事をしてきた。

さて、ムーアについて──僕はムーアがよくわからない。だから、僕のいうことは見当ちがいかもしれないが、僕の言いたいことは、つぎのようだ。──ムーアがひどく子供っぽいことは確かで、君が書いてきたこと(虚栄心について)は、その子供っぽさの、まったくいい例だ。また、ムーアには、一種の無邪気さもある。たとえば、彼はまったく虚栄心を持っていない点がそれ。子供っぽいところが彼のいいところだという貴説だが──僕には理解できない。子供そのもののいいところでもあるという条件つきならわからないでもないけれども。つまり君は、人間が成長の過程で身につけた無邪気さについて語っているのではなく、生まれつき誘惑を持ち合わせない無邪気のことを語っている。──要するに君の言いたかったことは、君がムーアの子供っぽさが気に入っていた、いや敬愛していたということじゃないかと思う。それならわかる。この点での君と僕との見解の差は、考えのちがいではなくて、感じのちがいにあるようだ。僕はムーアが好きだし、たいへん尊敬もしているが、ただそれだけだ。彼は、僕の心に暖かみを感じさせない(感じさせるとしてもほんの少しだけ)。僕の心を暖かくしてくれるものは、人間味のあるやさしさなのだが、ムーアは──子供と同じに──やさしさがないからだ。親切だし、人間的な魅力も持っているだろう、自分に好意を持っている人に思いやりもあるだろう。また、はかりしれないところも持っている。が僕にはそれだけにしか見えにない。僕がまちがっていたら、この説撤回します。

 なお、このあとにつづけて、つぎのように書いている。

僕の仕事は、六週間前とは比べものにならないが、相当うまくいっている。少し病気だったということもあるし、いろいろなことで心労が重なったという点もある。──金のことは、この悩みの中には入らない。もちろん、かなり沢山使ってはいるが、あと二年くらいはもつと思う。その間に、運がよければ、ちょっとした仕事ができ上がるだろう。もとをただせば、そのために教授職を捨てたのだからね。だから僕は今ごろになって金のことを心配してはならない。心配をしたら、仕事がお留守になってしまう(そのあとどうなるか、まだ考えてもいない。おそらく、そんなに長くは生きのびないだろうし)。目下の悩みの一つは、ウィーンにいる姉の一人の健康のことだ。彼女は、つい先ごろガンの手術をした。手術そのものは成功だったが、もう長くはないと思う。そのため、いちど、この春ウィーンに行くつもりだ。このことは、君とも少々関係がある。もしウィーンに行ってイギリスに帰って来たら、この秋書きためて来たものを口述筆記させるつもりだ。そして、もしその通りにしたら、君にコピーを一つ送るつもりだ。このコピーが、マルコム農場のよき肥料になることを祈る。

 この最後のコピーの件は、この年の夏彼がアメリカに来たとき、携えて私に持って来てくれた。この内容は、『探究』第二部に組みこまれているものである。
   再会
 もちろん、私はニューヨークに出て、船までウィトゲンシュタインを迎えに行った。最初に彼をみたとき、彼の見るからに元気そうな様子に驚いた。背中に荷物をしょって、片手には重いトランク、もう一方の手にステッキを持って、彼はタラップを降りてきた。元気いっぱいで、いささかの疲れも見せず、助けようとする私に荷物を取ろうとさせなかった。家までの長い汽車旅行の間で覚えていることは、二人で音楽の話をしたこと、それから、彼がベートーベンの第七交響曲の何ヵ所かを、おそろしく正確にフィーリング豊かに口笛を吹いて聞かせてくれたことである。
 滞在中、はじめの一ヵ月ないし六週間、彼の健康はとてもよかった。彼は、私か妻といっしょに近くの林に散歩に行くのを楽しみにしていた。そのスタミナは驚き入るばかりだった。散歩のときはいつも、非常に熱心に木の名前を知りたがった。ある日のできごとを私はとくに覚えている。ウィトゲンシュタインは木の高さを知りたかった。どうやったかというと、彼の発案で、ウィトゲンシュタインが、計ることにした木から相当はなれたところに立つ、そしてステッキを持った手をあげて腕とステッキを見通して木の頂上にねらいをつけ、腕の角度が地面と四十五度の角度になるようにする。私は、彼の立っているところから木の根っこまで歩数を数えながら歩いて行く、そういう簡単なやり方で大体の木の高さがわかった。ウィトゲンシュタインはたいへん熱心に、この作業の指示をしたのだった。
 あるとき、私の妻がスイス・チーズとライムギパンを昼食に出したら、非常にお気に入りで、それからは食事の度毎に妻の作った色んな料理にはあまり目もくれずにパンとチーズを食べたがった。いつも同じものが出てくれれば、あとは何を食おうが構わないと、彼は私たちに言った。とくにうまそうに見える料理が出ると、よく「こら、すげえ!(Hot Ziggety!)」と叫んだ。この言葉は、私が子供の時、カンサス州でおぼえた方言であるが、ウィトゲンシュタインは私から聞いて使うようになったものである。私の妻が彼の前にパンとチーズを置くと、「こら、すげえ!」と彼が叫び出すのは、何ともコッケイな場面だった。私の家に来てからしばらくはウィトゲンシュタインは、食事のあとで皿洗いを手伝うといってきかなかった。以前と同様、皿洗い用に石鹸と湯がタップリあるか、またチャンとした棒ぞうきんがあるかどうかに、うるさかった。いちど、私がゆすぎをよくしないと真顔で叱ったことがあった。けれども、間もなく彼は皿洗いに手出しをしなくなった。体力がおとろえて、皿洗いの仕事にも耐えられなくなったからだった。

   アメリカでの日々
 ウィトゲンシュタインのお得意の言葉に「すげえものには手を出すな!」というのがあった。これを強い調子で、わざと真面目な顔つきで言った。問題になっている事物がちゃんとしているから、これ以上手を加えるな、といったくらいの意味であるが、彼はいろんな場合に、これを使った。たとえば、あるときは、彼のベッドが今のままで結構だから動かさないでほしいというつもりで、別なときは、私の妻が彼の上着を修理したとき、これで十分だから、それ以上手を加えなくてもよい、という意味で。
 私の家の水洗便所のウキが駄目になったとき、ウィトゲンシュタインは張り切って修理を手伝ってくれた。こと器械の問題になると、彼は表情ゆたかに関心を示した。修理が大体終わって、私がもう少し調整しようとしたら、ウィトゲンシュタインは私をとめて、「すげえものには手を出すな!」と言った。トリニティー・カレッジにいるころウィトゲンシュタインは、私をトイレに連れて行って水洗便所のガンジョウな構造を見せてくれたことがあるが、私の家のものには出来が悪いと批評を下した。彼は、キチンとした職人仕事に対しては賞讃の言葉を惜しまなかったが、いい加減なデタラメな仕事に対しては、純粋に道義的な立場から許そうとしなかった。自分の仕事を完璧にしようとガンばるような職人がこの世にいるだろうと、ウィトゲンシュタインは考えたがった。本来そうあるべきだという、ただそれだけの理由からそう思っていたのである。
 さて、到着して間もなく、ウィトゲンシュタインは私と二人で彼の本を一緒に読もうと提案した。われわれは数回これを実行したが、ケンブリッジでやったときと同じく、このやり方が型にはまりすぎていて、哲学を一緒にやる方法としては面白くないという気がしてきた。ウィトゲンシュタインも同じ風に感じたのではないかと思う。このほかにも、彼は、この夏いろんな人と哲学の議論を何回も行なった。オーエツ・ブースマと私の三人でフレーゲの論文「意味と意義」を読みはじめた。これは二、三回つづいて、ウィトゲンシュタインは、フレーゲから離れて行った事情を説明してくれた。そのあと一回われわれは自由意志と決定論について議論した。ウィリス・ドーニーと私を相手に、彼は『論考』を読みはじめたが、これは長つづきしなかった。ただ、この席で彼の漏らした逸話は、ここに書いておくべきだろう。『論考』を書いたとき、単純な対象の例として何か決めていたかどうかを、私はウィトゲンシュタインにたずねた。彼の答えはつぎのようであった。その当時は、自分は論理学者だと思っていたので、論理学者としては、あれこれの例が単純なものか複雑なものかを決めるのは、必要のないことで、そんなことはまったく経験世界の問題で論理学の問題ではないと思っていた、と。この答えのロぶりからして、彼は当時の自分の考え方をバカげたものと見なしているのは明らかだった。
 以上の外にも、一度はジョン・ネルソン、ドーニーと私の三人を相手に彼は記憶の問題を議論した。また何回かコーネル大学の私の同僚たちといろいろな問題をめぐって議論をしたこともある。その顔ぶれの中に、マックス・ブラック、スチュアート・ブラウン、ブースマがおり、私も出席した。こういう集まりのうち、何度か、彼はケンブリッジ当時彼のお家芸となっていた、はげしい議論ぶりや激越な感情を見せた。けっきょく病気のために集まりに出られなくなったけれども、秋学期のはじめにはコーネル大学の哲学の大学院生とも二晩にわたって会合して、一度は検証について、いちどは知識について論じた。
   生きた生活の文脈でのみ
 以上のノートは、ウィトゲンシュタインの言葉をそのまま書き写すつもりで書いたものではない。ある部分の語句や文は、彼の言葉そのままのところもあるけれども……。ノートは、二人の議論のあとで、一日おくれか二日あとで書きつけたものである。したがって、何週間にもわたって何度も議論したことの要約である。その中には、いくらか私自身の考えも入っているだろうが、ほとんどが私の考えではない。このノートは、すべてとは言わないが、相当部分が正確にウィトゲンシュタインの言ったことを写していると思う。といっても、これが彼の正真正銘の考えであると押し売りするつもりはないということをとくに書き加えておきたい。二人で議論したときに、私の心を打たれた──そして今も心を打たれる──言葉で、ここに特記しておきたいもので、かつ、彼の哲学を一言にして要約するものは「一つの表現は、生きた生活の文脈の中でのみ意味をもつ」という言葉である。ウィトゲンシュタインは、この格言を、草稿のどこかに書いたはずだと言っていたが、私はまだ見つけることができない。

   苛立ち
 さて、ウィトゲンシュタインは、ある日散歩の途上で、もし自分に金があったら自分の本(『探究』第一部)を謄写印刷して友人に配布したいと思う、と言ったことがあった。まだ成稿ではないけれども、死ぬまでかかっても最後の仕上げまでは出来そうにない。けれども謄写印刷でやれば、自説を出したあとでカッコの中に「この部分、まだ不十分」とか「この個所、少しあやふや」とかいった自分の不満を表わす注をつけ加えられる利点があろう、と言った。友人には配りたいのだが、今すぐ活字出版をするなどは論外のことだ、と彼は思っていたのである。彼が、この謄写印刷のアイディアをどう思うかと、私に聞いたとき、私はまったく不賛成だと答えた。ウィトゲンシュタインは、私の意見をきいて怒りだした。外の教え子たち同様、いま発表されると、お前の哲学上のアイディアのお里がみんなに知れるので公表してもらいたくないのだろう、という風なことを言った。私の気持は、彼の想像とはうらはらで、貴重な本というものは謄写印刷などで配布されるべきではない、革表紙で金の背文字にして出版されるべきだ、と思ったのだった。
 また、ウィトゲンシュタインは、自分がこれからの余生をどう送るべきか、は深刻な問題はだと、何度も私に語った。「人間この世に、ただ一つのものを──つまり、ある才能を──持って生まれて来て、その才能が消え衰えはじめたとき、どうすべきだろうか?」という質問もした。彼の言い方が、真面目そのもので、かつ陰鬱な調子なので、彼の兄さんが三人も自殺しているのを知っている私は、彼が自殺を試みるのではないかと、心配した。
 この年は例年にない暑さで、ウィトゲンシュタインのいた二階の部屋は、非常に居心地の悪い日が多かった。虫除けの金網が風通しを悪くしているが、あれは取りはずせないものだろうかと、彼は言い出したこともある。はずしたら、虫がものすごく入って来て、暑さよりもひどいことになる、と私が答えても、ウィトゲンシュタインは、信用しなかった。イギリスもヨーロッパ大陸も、窓に金網がないのが普通だと彼は主張した。私が、アメリカはヨーロッパよりも虫が多いのだと言っても信用しなかった。そして、その日散歩に出たとき、はたして、よその家もみんな網戸をしているかどうかを確かめようとしたらしい。けっきょく全部そうなっているということがわかったが、それだけの理由があるにちがいないと考えないで、アメリカ人は、金網が必要だという点について、こぞって浅はかな偏見にとらわれているという、奇妙な結論に達して、イライラした顔をして私にこの結論を教えてくれた。

   ヨーロッパで死にたい
 ウィトゲンシュタインの滞在も終り近くなったころ、彼の健康はひどく衰えてきた。両肩に痛みのはげしい粘液膿炎をおこし、痛みのため不眠が重なり、体力がいちじるしく弱ってきた。医者は、二日間入院して精密検査をするようにとりはからってくれたが、入院の前日になると病気のためだけでなく、精神的にもはげしく動揺した。これ以前に、彼の父親がガンで死んだこと、また、彼のいちばん好きな姉が、何回か手術した甲斐もなく同じガンで死にかけていることを私に話したことがあったが、ウィトゲンシュタインのおそれは、ガンが見つかるかもしれないという心配ではなく(この点についてはちゃんと心構えができていた)、手術のために病院に長く居させられるかもしれないという点であった。手術に対するおそれは、気ちがいじみたほどに強くなった。おそろしいのは手術そのものではない、けれども、寝たっきりになって、生ける屍のまま死を待つことだという考えだった。彼はまた、十月にイギリスに帰るように、せっかく予約をしているのに、医者が帰らせないかもしれない、とも非常に心配していた。「アメリカなんかで死にたくない。僕はヨーロッパ人だ、ヨーロッパで死にたいのだ」と私に、口走るように不平を鳴らした。そのあげくは、「こんなところに来て、バカだった」とも叫んだ。
 ところが、彼は病院からきわめて上機嫌で戻ってきた。検査の結果、とくに悪いところは何も見つからなかったのだ(この秋、あとで、ガンだということがわかったのだが)。そのため、病院に足どめをくらうおそれはなくなったし、イギリスへ発つ予定を延期する心配もいらなくなった。あんなに衰弱しているのに、帰国の旅行がどうしてできようかと私は思っていたが、出帆するまでの二週間の間に、彼の体力は呆れるほど回復した。



8──最後の焔

   生きてあるかぎり
 かくして、十月にウィトゲンシュタインはイギリスに帰ったのだったが、十二月はじめ、ケンブリッジから、つぎのような手紙が来た。

医者が、やっと診断を下した。前立腺のガン。だが、ある意味では、これはまずいことがになりそうだ。というのは、これには薬があって(正確にいうと、一種のホルモン)、あと数年生きられるくらい、病状をおさえられるのだそうだ。医者は、僕がもういちど仕事ができるくらいになるとまで言ってくれるが、そんなことはないと思う。ガンだと言われたとき、少しもショックを受けなかった。けれども、何とか治療ができそうだと言われたときはショックだった。僕は、生き延びたいとは思っていなかったからだ。だが、望みどおりになりそうにもない。みんなよく面倒を見てくれるし、医者もすごく親切だ。それにヤブでもないしね。

 その数日あとの手紙には、「まだ知らない人には、どんなことがあっても絶対に病名を知らさないように」と言ってきた。「……クリスマスにウィーンに行く予定だから、家族に病名を知らさないということは、最重大事なんだ」。
 そして、十二月にウィトゲンシュタインはウィーンに行って、三月の末まで滞在した。一月に来た手紙には、非常に調子がよく、気分的にも、まったく元気だ、と書いている。また、アメリカで病気が、ちゃんと診断されなかったのは非常に有難いことだったとも言っている。そして、そのあとに、

このごろ、頭の方は、まったく不振だが、文句は言えない。あれこれと乱読はしている。たとえば、ゲーテの色彩論、まったくバカげた本だが、非常に面白いところがあって、考える刺戟になる。考えが、きちんとまとまるということがないので、書くことは何もやっていない。これも、もう、べつにどうってことではない。

 一九五〇年の四月には、彼はイギリスにもどった。彼はオックスフォード大学のジョン・ロック記念講座で講義をするように招待を受けたが、謝礼は二百ポンドという条件だった。しかし、聴衆が二百人くらいもあり、内容はお座なりなものでもよく、あとで討論も行なわれない、といった風なものだった。彼は、この招待を断わった。私には「どうせロクでもない沢山の聴衆相手にお座なりの講義をするなど、僕には出来そうにもない」という理由を書いてきた。この春、私はロックフェラー財団の所長チャドバーン・ジルパトリックを説得して、ウィトゲンシュタインに研究費が出るように、とりはからった。私が、このことをウィトゲンシュタインに知らせると、彼からは私のとった労に礼を言った上、つぎのような返事を書いてきた。

自分の好きなところに住むことができ、人に負担や迷惑をかけることにならず、気の向いたときに哲学をやる、ということを考えるのは、哲学をやりたい人が誰でもそうだろうが、もちろん私にも嬉しい話だ。しかし、ロックフェラー財団の上層部が、僕の実情について完全に知っていての上でなければ、研究費を受けるわけにはいかない。実情は以下のとおり。(a)僕は一九四九年の初春以来ちゃんとした仕事を何もやっていない。(b)それ以前も、一年のうち六ヵ月か七ヵ月くらいしか、まともな仕事ができなかった。(c)年をとるにつれて、僕の思考力は目立って低下し、考えをまとめることができにくくなり、疲れ方はどんどんひどくなってきた。(d)僕の健康は慢性の貧血のため、病気に感染しやすいという、何となくいつも不安定な状態にある。これが影響して、本当によい仕事をする期間は、減少している。(e)はっきりした見通しを立てることは、僕自身にもで僕できないけれども、僕の頭は以前ほど──たとえば十四ヵ月前ほど──活動できるようにはなりそうにもないと思われる。(f)僕が、生きている間に、研究を出版することは約束ができない。
僕は、生きているかぎり、そして僕の頭のつづくかぎりは、哲学の問題を考え、かつ筆をとって書くつもりだ。また、過去十五年か二十年の間に僕の書いたもののうち、多くのものが、出版されれば、世の関心をひくだろうと思う。けれども、それに比してこれから僕が書こうとしているものが平板で、毒にも薬にもならぬ、つまらないものになることは、絶対に確実である。若いときにすぐれた仕事をした人で、老年になって愚にもつかない仕事しかできなかった人の例は、いくらもある。以上が、今の僕について言えもることだ。君が話を持ちこんだ財団の所長に、この手紙を見せるべきだと思う。ゴマカシをして研究費を受けることは、僕には絶対にできない。君は、僕について、ひいきのひきたおしをしすぎたようだ。

 一九五〇年になってウィトゲンシュタインは一時オックスフォードのアンスコムの家に住んでいた。六月に来た手紙には、「哲学の議論は、ほとんどやっていない。僕が望めば、学生にも会えるのだが、今の僕は会いたいとは思わない。老朽した頭の中は、どんより濁った考えに満ちている。おそらく、死ぬまでこんな状態がつづくのだろう」と書いて来た。オーエツ・ブースマは家族連れで、この年オックスフォードに住んでいたが、ウィトゲンシュタインはプースマ家をよく訪れ、ブースマ夫人の手製のアップルソースを食べるのを楽しみにしていた。手紙の一通には、哲学がやれなくなったことを書いたあとに「僕は、一哲学者相手にアップルソースを食うぐらいしか能がなくなった」と書いている。

   死の床
 おなじ一九五〇年の秋、ウィトゲンシュタインは数週間友人とノールウェーに行ったが、ここで気管支炎で二度たおれた。

という風で、悩みは果てしない。……仕事をするつもりだったが、何もやっていない。そのうち、またノールウェーに戻って仕事をやって見ようと思う。あそこが、僕の知っている唯一の静かな場所だ。もちろん、気のきいた仕事は出来そうにないことはわかっているが、本当にそうなのかどうかを、はっきりと思い知ることは、やってもいいことだと思う。

 このあとに来た手紙には、ノールウェーの友人の持っている農場で一冬すごすことにして、十二月三十日の船を予約したけれども、病気のためキャンセルしなければならなくなった、と書いてきた。五一年の一月、ロックフェラー財団のジルパトリックが訪ねて来たことを報じて、つぎのように書いて来た。「数ヵ月前に君に書いたと同じことを彼に言った。今の健康状態で、また今のような頭の鈍くなった状態では、研究費を受けるわけにはいかない。けれども、もし万一、今の見通しと逆なことが起こって、もう一度哲学がやれるようになったと思ったら、彼に知らせようと約束した。そして、双方なごやかな気分で別れた」。さらにつづいて、オックスフォードは「哲学の沙漠だ」と言っている(ウィトゲンシュタインはオックスフォードの哲学界は、「流感危険指定地域」だと言って、一部オックスフォードの紳士連をカンカンに怒らせた、とも言われている)。また、「僕の頭は完全にダメになった。泣きごとをならべるわけじゃない。僕は、少しも苦にしていないのだ。人間、いつかは幕切れというものがあり、身体がまいる前に精神の方が先に機能を失うことがありうるのは承知の上だ」とつけ加えている。
 その後、間もなく彼はケンブリッジの、主治医ベバン博士(ウィトゲンシュタインがガンであると知らされたのは、このベバン博士からであるが、その際、彼は極度に不機嫌になり、死の床を病院で過ごすことに恐怖感をさえ見せた。それで、ベバン博士が、死ぬときには自分の家に来てもいいと言ったのだが、ウィトゲンシュタインは、この心優しい申し出に心から、感謝していた)のところに移った。オックスフォードで悪化していた病状が、ある程度は持ちなおした。「今や仕事のことは思いも及ばないけれども、それで結構。ただし、このままであんまり長く生き延びなければの話だが! ガッカリしてもいない」。そして、結局死ぬまでベバン博士の家に滞在した。三月に来た手紙には、気分がずっとよくなり、痛みもほとんど感じないと書いている。「もちろん、身体はひどく弱っているし、これがだんだん快方に向かうといった見込みは全然なささそうだ。来年の秋、君がケンブリッジに来るまで、この世に生きながらえていようとは想像もつかない。けれども、万一ということもあるからね。ついでながら、僕はちっとも気落ちしていない」。この手紙より二月前に彼からブリガディア・ヤングの『ロンメル将軍伝』を送ってもらっていたが、このことに触れて「ロンメルの本がお気に召した由、うれしい。このごろ読み返してみて、やっぱりうまく書けていると僕も感心した。こんな本はめったに出るもんじゃない」と書いている。

   「僕の人生はすばらしかった」
 ウィトゲンシュタインからの最後の手紙は、彼の死ぬ十三日前の日付になっている。「大異変が起こった。ひと月くらい前から、突然、哲学をやれるような頭の調子になったのだ。もう一度こうなろうとは、夢にも想像していなかった。頭の中の雲が、すっかり晴れ上がるなど、もう二年以上も絶えてなかったことだ。──もっとも、五週間ぐらいやっただけだから、明日にも一巻の終りになりかねない。そう思うと、ますます張り合いが出てくる」。そして、「ある程度のよくなったり悪くなったりは別として、このごろは気分がまったくいい」とも書いている。
 ウィトゲンシュタインがベバン家に移った当初は、ベバン夫人は彼をこわがったけれども、すぐ一生懸命に面倒を見るようになった。一緒に何度も散歩にも出た。同夫人の言葉によれば、その間ウィトゲンシュタインから受けた影響は些細なことにまで及んでいるという。たとえば、新しいオーバーを買ってパーティーに着て行こうとして、家を出る前にウィトゲンシュタインに見せに行ったら、ウィトゲンシュタインは、じっと見つめてから、押さえつけるように「待ちなさい」と言って、鋏を持ち出して、いきなりオーバーの前についていた大きなボタンをいくつか切りとってしまった。夫人は、そうなったオーバーの方が、ずっと気に入ったのだそうである。
 ウィトゲンシュタインは非常に元気になり、猛烈に仕事をした。「雲が晴れ上がったからには」とベバン夫人に向かって言った、「今までやったことがないくらいに頑張るんだ!」。
 四月二十七日、金曜日、彼は昼すぎ散歩にも出たが、その夜、病状が急に悪化した。頭はずっとハッキリしていて、医師から、あと二、三日しか持たないだろうと言われたとき、「わかりました!」と叫んだ。意識を失う前に彼はベバン夫人に(夫人は夜っぴて彼に付き添っていた)、「僕の人生はすばらしかった、とみんなに言って下さい」と言った。みんなとは、きっと自分の親しい友達のことを指していたのだろう。すばらしい人生、彼の底しれないペシミズム、たえず持ちつづけた道義的な苦しみ、冷酷なまでにきびしく自分を追いつめていった知識への情熱、そして愛情を心要としながらも、愛情を遠ざける結果となった他人に対するきびしさ、といった彼の人となりに思いをいたすとき、ウィトゲンシュタインの人生はひどく不幸なものだったと私は考えたくなる。けれども、その生涯の終りに、彼自身はすばらしい人生だったと叫んだ。私には、この言葉は不可解である。けれどもまた、不思議にも人を感動にさそい込む響きを持っている言葉でもある。

第二部 ウィトゲンシュタイン小伝──G・H・フォン・ライト

1──哲学と出合うまで

   恵まれた非凡の子
 ルートウィヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ウィトゲンシュタインは一八八九年四月二十六日、ウィーンで生まれた。ウィトゲンシュタイン家はサクソニーからオーストリアに移住した家で、ユダヤ系である。よく誤り伝えられているが、同じ名前の貴族の家とは血のつながりはない。ウィトゲンシュタインの祖父はユダヤ教から新教に改宗した。彼の母はローマン・カトリックの信者で、ルートウィヒはカトリック教会で洗礼を受けた。
 ウィトゲンシュタインの父親は、常人をはるかに超える知能と意志を持っていたにちがいないと思う。彼はドナウ侯国の鉄鋼工業の中心人物となった技術専門家だった。母親は、家族に芸術の上で強い影響を与えたが、彼女も夫も音楽的素養が高かった。富豪で文化的な雰囲気の強いウィトゲンシュタイン邸は、音楽界の中心となった。ヨハネス・ブラームスは、この家族の親しい友人であった。
 ルートウィヒは五人の兄弟と三人の姉妹の中で、いちばん末の子であった。この子供たちは、すべて性格という面からも、芸術的、知的な才能の面でも恵まれていた。中でもルートウィヒ・ウィトゲンシュタインが、もっとも非凡な人であったことは疑う余地がない。人とちがうということを見せつけようとするような見栄からは、まったく無縁な人ではあったが、度はずれて衆にすぐれた存在であることは、誰の目にも明らかなことだった。彼が精神病と境を接するスレスレのところにいたことは事実だろう。その境界を越えはしまいかというおそれは、終生、彼の心につきまとっていた。けれども、彼の業績が病的な要素を持っていたというのは正しくないと思う。彼の業績は、はかり知れないほどの独創性に富んでいたが、奇矯なものではなかった。その業績は、彼の特徴となっていた自然さ、率直さを尊び、わざとらしさをすべて捨て去る性質と同じ傾向を帯びているのである。

   天職を求めて
 ウィトゲンシュタインは、十四歳まで家庭で教育を受けた。それから三年間は北オーストリアのリンツ市にある学校で学んでいる。そのころのウィトゲンシュタインの志望は、ウィーンでポルツマンの弟子になって物理学を勉強することであったらしい。けれども、ボルツマンがウィトゲンシュタインの卒業した年、一九〇六年に死亡したので、ベルリン・シャルロッテンプルクの工科大学に進学した。
 彼が工学研究を選んだのは、父親の影響よりも、彼自身の少年時代の興味と才能によるものである。彼は生涯を通じて、機械に異常な興味をいだいていた。小さい子供のとき、ミシンを組み立てて人を驚歎させたこともあるし、晩年でも、サウスケンジントン博物館で、大好きな蒸気機関相手に一日つぶすことぐらいはできた。何か機械が故障したときに、彼が修理の腕をふるったという逸話は、いろいろと残っている。
 ウィトゲンシュタインは一九〇八年春までベルリンにおり、その後イギリスに渡った。一九〇八年の夏には、ダービー郡グロソップ近郊の上層気流研究所で凧の実験をしている。その秋、マンチェスター大学工学部の特別研究生として入学した。彼は一九一一年の秋までここに在籍したが、相当の期間をヨーロッパ大陸で過ごした。この三年間、彼は航空工学の研究に専念している。凧の実験から飛行機のジェット推進プロペラ製作まで研究は進んだ。はじめは、エンジンに興味を示していたが、間もなくプロペラの設計に精力を集中した。設計といっても、主に数学の計算の仕事であった。ウィトゲンシュタインの関心が純粋数学に、そしてやがて数学の基礎論に向かって行ったのはこの時からである。
 かつてウィトゲンシュタインは、自分がマンチェスター時代にとり組んでいた問題は、それ以後、非常に重要な問題となってきた、と語ったことがある。そのとき、好奇心をもってきもっと詳しく聞いておけばよかった、と私は残念に思っている。この話をしたとき、彼は、最近とくに航空工学で、ジェットエンジンの果たしている役割のことを考えていたものと思う。
 一九〇六年から一九一二年までのウィトゲンシュタインの青春は、生涯の道を探し求める悩みと、ついに明確な天職を見出す波瀾の時期であった。この年月は、たえず苦悶にとらわれていた、と彼は私に言っていた。やりかけていた仕事を何度も中断して別の新しいものに転向する、すなわちドイツからイギリスに渡り、凧の実験、ジェットエンジンの設計、純粋数学、そして最後に数理哲学へと、つぎつぎに志向が変わっていったのは、その間の事情を物語っている。

   ケンブリッジ入学
 ウィトゲンシュタインが、誰かに数学の基礎理論についての文献をきいたところ、バートCランド・ラッセルの『数学の原理』という一九〇三年に出た本を読むようにすすめられたという。この本はウィトゲンシュタインの学問の成長に大いに影響したことは明らかだと思う。たぶん、彼がフレーゲの本を勉強するようになったのは、ラッセルの本を読んだことが機縁になったようだ。フレーゲとラッセルという二人のもっともすぐれた学者に代表される新論理学は、かくしてウィトゲンシュタインが哲学の道へ入る足がかりとなったのである。
 私の記憶が間違っていなければ、彼は私に、自分が若いころショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を読んだ、したがって自分のはじめて知った哲学はショーペンハウエルの認識論的観念論であった、と語ったことがある。こういう若いときの哲学が、後の論理や数理哲学に向かった彼の関心と、どういうつながりがあるのかは私には分からない。ただ、自分の若いころの観念論的な考え方を捨てさせたのは、フレーゲの概念論的実在論だと、彼が言ったことを覚えてはいるけれども。
 工学の勉強を放棄することに決めて、ウィトゲンシュタインは、まずこれをフレーゲと相談するためにドイツのイェーナに行った。ケンブリッジ大学に行ってラッセルと勉強するようにすすめたのはフレーゲその人であった。彼はこの指示にしたがった。
 右のできごとは、たぶん一九一一年の秋のことだろう。そのつぎの年のはじめに、彼はトリニティー・カレッジに入学を許され、ケンブリッジ大学に学籍をおくようになった。はじめは学部学生のあつかいであったが、後には大学院学生として在籍している。彼は一九一二年の全学期と翌年のはじめの二学期、ケンブリッジ大学に在学した。一九一三年の秋のはじめには、ケンブリッジで友人になった若い数学者デービッド・ピンセントと二人でノールウェーを訪れた。十月にしばらくイギリスにもどった後、ふたたび一人でノールウェーに引返し、ベルゲン東北のソーグンのスクヨールデンの農場に住みついた。一九一四年大戦がはじまるまで、彼はほとんどこの地で過ごしている。彼はノールウェーの人と国土をこよなく愛した。こういう風にして、ノールウェー語を相当上手に話せるようにもなった。そして、スクヨールデンの近くに完全に孤絶した生活が送れるように、自分の手で小屋を建てた。
   建築の仕事
 修道士たちと一緒に働く奉仕生活も間もなく終りをつげる。一九二六年には、ウィトゲンシュタインは、二年間自分の時間と才能とを存分に使うことのできる仕事を引き受けた。彼は、姉たちの一人のためにウィーンに邸宅を建てる仕事をした。この建築は細部にいたるまで彼のやった仕事で、設計主である彼の性格をいかんなく発揮したものである。装飾という装飾はことごとく切り捨てられ、各部の寸法や割合が厳密に計算されている。建物の美しさは、『論考』の文体に見られる簡素さと静謐さをたたえている。この建築が、建築史上のどれかの様式に属するとは私には思われない。けれども、水平な屋根やコンクリート・ガラス・鋼鉄といった材料は、見る人に典型的な近代様式を思い起こさせる(ちなみに、ウィトゲンシュタインは、一九一四年にアドルフ・ロースと知り合いになり、その仕事を尊敬していた)。
 同じこの時期に、ウィトゲンシュタインは、その友人である彫刻家ドロービルのスタジオで彫刻を試みている。それは、少女というか妖精の頭であるが、古典時代のギリシア彫刻に見られる、そしてウィトゲンシュタインが美の極致と考えていたらしいギリシア彫刻の美に通じる完成された静かな美しさを持っている。ついでながら、ウィトゲンシュタインの生活にも人となりにも、たえず何かを探し求め変化してやまない不安定な面と、この建築や彫刻にあらわれているような、頂点に達した優雅さという面の、驚くほど対照的な二つの面が生涯を通じて見られる。
4──『哲学探究』の時代

   後期ウィトゲンシュタインの哲学
 一九三三年ごろ、ウィトゲンシュタインの思想には、根本的な変化が起こった。まさにこのとき、彼の後半生にとりついて離れなかった基本的なアイディアが発達し結晶するにいたったのである。ここでその詳細を述べる余裕はないが、ただ、この新しい思想の発生にまつわる歴史的な事実を紹介しておこう。ウィトゲンシュタインの新哲学は、旧著『論考』の基本的な考えのいくつかを否定するという結果になっている。彼は、言語写像説、有意味な命題は要素命題の真理関数であるという説、語り得ぬものについての説をことごとく捨て去った。こういう説が、『論考』出版以後の哲学の発展によって、すでに時代おくれになっていたものだった、という人があるかもしれない。けれども、そういう他の人々の間におこった変化というものが、大部分が既存の(この中にはウィトゲンシュタインの初期の仕事ももちろん各まれるが)哲学上の問題をさらに発展させた、といったていのものであるのに対して、ウィトゲンシュタイン自身の考えの変貌は、既存の哲学の軌道から根本的に違った方向への出発というめざましいものであった。
 このことにつけ加えていえば、私の知るかぎりでは、ウィトゲンシュタインの新しい哲学は、これまでの哲学研究の伝統とはまったく別のものであって、何か影響を与えただろうと思われる文献も全然存在しない。それだけに、その内容を理解することも、どういう特徴のものであるかをとらえることも、きわめて難しい。『論考』のときの著者ウィトゲンシュタインには、フレーゲとラッセルから習得したものが見られた。彼の問題は、この二人の先輩の思想から引き出された。それに対して、『探究』の著者には、哲学の世界に先達が誰一人としてない。後期ウィトゲンシュタインがムーアに似ているとはよく言われることだが、これは真実にはほど遠い。似ているという印象を与えるのは、ひとつにはムーアとウィトゲンシュタインの二人の影響が、分析哲学とか言語哲学と呼ばれる現代哲学の流れができ上がるに際して、あずかって大きな力があった、ということのためであろう。この点で、将来の哲学史研究家が、この二人のそれぞれ与えた影響の違いを区別することは、有意義な仕事だろうと思う。実際には、ムーアの考え方とウィトゲンシュタインの考え方は、まったく違っていた。二人の交友はウィトゲンシュタインの死まで、ずっと続いたけれども、ムーアの哲学がウィトゲンシュタインに影響した形跡があるとは私はまったく思わない。ウィトゲンシュタインが買っていたのは、ムーアの知的活動にたえる力の強さと、その真理に対する情熱、それに虚栄心を持ち合わせないという点であった。
 ウィトゲンシュタインの新しい考えが生まれるのに重要な役割を果たしたのは、彼の初期の見方に対して行なわれた二人の友人からの批判であった。二人のうちの一人はラムジーであるが、この人が一九三〇年に若死をしたのは、現代哲学にとって大きな痛手であった。もう一人は、ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻るより少し前に、ケンブリッジに来ていたイタリア人の経済学者ピエロ・スラッファである。ウィトゲンシュタインに、その初期の考えを捨てさせ、新しい思想への道に踏み出させたのは、何よりもまず、スラッファの鋭くかつ強い批判であった。ウィトゲンシュタインの言葉によれば、スラッファと議論をすると、まるで枝をみんな切り落とされた木のような感じになったそうである。けれども、この木がふたたび緑の芽をふきはじめることができたのは、その木自身にそれだけの生命力があったからで、初期の彼がフレーゲとラッセルから得たような外部からのインスピレーションを、後期ウィトゲンシュタインは誰からも得ていない。

   講義
 一九二九年からその死にいたるまで、ウィトゲンシュタインは──ときどき中断するけれど──イギリスに住んだ。独墺合併のあと、オーストリアの旅券が無効になり、ドイツかイギリスのどちらかの国籍を選ばねばならなくなった際、英国に帰化した。しかし、大体において、イギリス風の生活を好まず、ケンブリッジの学者仲間の雰囲気を嫌っていた。一九三五年、トリニティー・カレッジの特別研究員の任期が切れたとき、彼はロシアに住む計画を立てた。それで、友人とロシアに旅行してみて、この旅行には満足したようである。このと計画が実現しなかったのは、三〇年代半ばのロシアの情勢が住みづらいものになった、という点にどうやら理由があったようだ。そのため、一九三五ー三六年の学年の終りまでケンブリッジに残り、そのあと、ほぼ一年ノールウェーの小屋に引き籠って生活した。『哲学探究』の執筆を始めたのは、この時期である。一九三七年には、またケンブリッジに戻り、それから二年後に、ムーアのあとを継いで哲学の教授になった。
 講義は、一九三〇年のはじめから──これも、ときどき中断はしているが──ずっと続けて行なっていた。その人柄から想像がつくように、彼の講義は、はなはだ非アカデミックなものだった。講義は、ほとんどいつも自室か同僚の研究室で行なわれた。彼は原稿もメモも持たず、講義に出てきた学生の前で考えた。その彼の姿は、ものすごく精神集中をしている哲学者といった感じだった。ふつう、説明から設問になり、その設問に出席者は答えを出さなければならない。そして、その答えが、また新しい思考のきっかけとなり、再び新しい質問が出てくる。このようにして行なわれる議論が成果を上げるかどうか、また、その時間のはじめから終りまで一貫して筋の通ったものになるかどうか、つぎの時間まで一筋の流れとなって発展してゆくかどうかは、出席している連中の顔ぶれ次第という面が大いにあった。出席者の多くは、いろいろな分野の素養の高い人々だった。ムーアも三〇年代はじめには数年間出席したし、今日イギリスで指導的立場にいる哲学者も数名、アメリカからも二、三名ウィトゲンシュタインのケンブリッジ大学での講義を聞いている。多少逐語的ではあるが、このときの講義のすぐれたノートもいくつか残されている。

   第二次世界大戦
 ウィトゲンシュタインが教授職を引きうける直前に第二次世界大戦が始まった。彼は戦争が起こるのを望んでいたと言ってもよいように思う。しかし、一九一四年の第一次大戦のとき同様、ウィトゲンシュタインは象牙の塔から高見の見物をすることを望まなかった。ある期間は、ロンドンのガイス病院で付添夫として奉仕し、その後ニューカッスルの医学研究所で働いている。ウィトゲンシュタインが医学関係の仕事にあこがれ、三〇年代のはじめには哲学を止めて医学を勉強しようかと真剣に考えていたことをここでつけ加えておきたい。さて、ニューカッスルでの奉仕の期間に、彼は技術的な面での改良の工夫をして、それが大いに役立ったそうである。

   人の世から隔絶して
 つねに新しいものを求めてやまないウィトゲンシュタインの天才が十年一日のごとく単調なくり返しに終始する大学の生活に満足できなかったことは、不思議なことではない。もし大戦がなかったら、彼の教授生活は、もっと短く切りつめられていたように思う。一九四七年の春学期、彼はケンブリッジ大学での最後の講義を行なった。この秋、有給休暇をとり、四七年の終りに教授職を退いている。彼は、全力をあげて研究に集中することを望んだのである。それまでにも、しばしばやったように、彼は人の世から隔絶した生活に入った。まず、一九四八年の冬、アイルランドの田舎にある農場に住んだが、そのあと、おなじアイルランドの西海岸のゴールウェーで、海に面した小屋に住んで自炊の生活をしている。近隣に住む人といえば、貧しい漁民であった。ウィトゲンシュタインが鳥を非常にたくさん手なずけたので、彼はこの近隣の人々の間で語り草になっている。鳥は毎日ウィトゲンシュタインからエサをもらいにやってくるようになっていたという。ゴールウェーの生活は、肉体的な労働が強すぎて、四八年の秋には、彼はダブリン市にあるホテルに移った。このときから翌年の春まで、彼はいちばん仕事ができた。『哲学探究』の第二部を仕上げたのはこの時期である。
 最後の二年間は、彼の健康はひどく悪くなった。一九四九年秋、ガンであることがわかった。そのときは、アメリカにしばらく滞在した帰りケンブリッジを訪れていたのであったが、彼はアイルランドには帰らず、ケンブリッジとオックスフォードの友人のもとに転々と滞在した。それでも一九五〇年の秋には、友人とノールウェーに旅行し、その後、翌年のはじめには、ノールウェーに定住する計画まで立てている。病気にたおれた当初は、仕事が何もできなかったが、驚くべきことに、最後の二ヵ月間は床の中にもおらず、精神的にも最高潮であったらしい。その死の二日前に書いたものを見ると、その思索は全盛期のものに遜色がない。



5──天才の素顔

   人柄の魅力
 ウィトゲンシュタインの異常で強力な人柄は、人に強い影響を与えた。彼に接した人は例外なしに強い影響を植えつけられた。退散する人もあるにはあったが、ほとんどの人が彼に魅かれ、夢中になった。ウィトゲンシュタインは、人との交際を避ける人だったが、その一方では友情を必要とし、友情を探し求めた人だった、ということができる。彼は他には得がたい友人であり、そして一方的に奉仕を必要とするタイプの友人であった。彼を敬愛して交情の深かった人々のほとんどは、同時に彼を恐れていたと思う。
 ウィトゲンシュタインの生活ぶりや人柄に根も葉もないたくさんの伝説があったのと同様に、彼の教え子の間に、不健康な派閥主義ができ上がった。このことはウィトゲンシュタインの心を痛めた。教師としての自分の影響は、だいたいにおいて弟子が独立して思想を持つことのさまたげになっている、と彼は思っていた。遺憾ながら、彼の言った通りだと私も思う。なぜそうなるかは、私にも分かるような気がする。その思想が独創的で深遠だったために、ウィトゲンシュタインの考えを理解することは非常に難しいものであったし、それをめいめいの自分の考えに結びつけることは、もっと難しいことであった。また、同時に、彼の人柄と文章の不可思議な力は、人を魅了し説得しつくす力を持っていた。その表現法や名文句や、声の上げ下げの調子、風采や身ぶりをつい真似することなしに、ウィトゲンシュタインの下で学ぶことは、ほとんど不可能なことだった。危険なのは、思想が堕落して専門語をやたらにもてあそぶことになりかねないことだった。偉大な人物の教えというものは、しばしば難しいことが、いかにもわかりやすいように、簡単であたりまえのものとして見えやすいものである。したがって、その弟子たちは、よく平凡なエピゴーネンになってしまいやすい。そういう偉大な人物の歴史的な真価は、その弟子たちには発揮されないで、間接でそれと見分けがたい、またときには、思わぬ形として影響を受けた人々の間に発揮されるものなのである。

   誠実さ
 ウィトゲンシュタインのもっともきわだった点は、純粋で強い誠実さと、その超人的な知性だった。この点で彼ほどに私が感銘を受けた人は絶無である。
 誠実さという性格には、二つのタイプがあるように思われる。一つは「確乎とした原理」の上に立っているクイプ、もう一つは激情の中から湧き出てくる誠実さである。前者は道徳につながるもので、後者は宗教に近いものと私は思う。ウィトゲンシュタインは、義務という原理に鋭敏に、というよりも自虐的なほどに忠実なタイプの人だったが、まじめさと厳格さという人柄は、むしろ後者に属するタイプであった。けれども、彼が俗な意味でも宗教的であったと言ってもよいかどうか私にはわからない。彼がキリスト教の信仰を持っていなかったことは明らかである。そうかといって、彼の人生観はゲーテと同じく、非キリスト教的でも異教徒的でもなかった。ウィトゲンシュタインが汎神論者でなかったと言っておくことは大事なことである。その『論考』の中には、「神はこの世界には姿を現わさない」と彼は書いている。神について考えることは、とくに自分にとっては、神の恐ろしい審判について考えることだ、と彼は言ったことがある。
 ウィトゲンシュタインは、自分はのろわれた運命の下にあると信じている、と何度も言ったことがある。彼の面影は、典型的な暗鬱な感じをたたえていた。現代は、彼にとっては暗黒時代だった。人間に救いがないという彼の考えは、ある種の宿命論に似ていないこともない。

   知識は行動につながる
 ウィトゲンシュタインは、厳密に言えば、教養ある人士ではなかった。彼の気質は、典型的な学者の気質とは非常に違っていた。学者のレッテルになっている「冷静沈着な態度で、客観的にものを見る」とか、「世俗から超越して思索にふける」などというものは、彼にはまったく似合わない。彼は、どんなものにも精魂を傾けた。彼の人生は旅から旅の連続だったが、懐疑が彼の原動力になっていた。来し方をふり返るということは絶えてしたことがなく、もしふり返ったときは、過去を否定的に見るのが常であった。
 ウィトゲンシュタインによれば、知識は行動と密接につながっているものであった。彼がはじめ選んだ学問が技術科学であったことは注目すべき点である。彼は数学・物理学の知識を持っていたが、それは広範囲の読書からできたものでなく、応用数学や実験の実技になじんでいて得たものであった。芸術の方にも多方面にわたって寄せた関心も、学問同様、積極的に実践するタイプの方だった。たとえば、家を設計する、彫刻をやる、あるいはオーケストラを指揮することができたのである。もっとも、こういった方面で巨匠の域にまでは達しなかったかもしれないが、ディレッタントではなかった。そして、こういう多方面に頭をつっこんだ情熱は、創造することに夢中になる性質に根ざすものであった。

   影響を受けた先人
 ウィトゲンシュタインは、哲学の古典を系統的に読んだことのない人である。彼は、自分に合うものしか読むことができなかった。若いときにショーペンハウエルを読んだことは前に書いたが、そのほかの哲学者について、自分はスピノザ、ヒューム、カントは読んでもほんの一部しか理解できなかったと言っていた。また、彼に先立つ二大論理学者アリストテレスやライプニッツを愛読したとは思われない。けれども、彼がプラトンを好んで読んだことは、面白い点である。プラトンの文学的で哲学的な方法や、プラトンの思想の背景にある気質に、共鳴するものを見出したからに違いない。
 ウィトゲンシュタインは、狭い意味での哲学者よりは、哲学・宗教・詩にまたがった作者の方に深い感銘を受けている。聖アウグスティヌス、キェルケゴール、ドストエフスキー、トルストイなどがその例である。アウグスティヌスの『告白』の哲学的な部分は、ウィトゲンシュタインの哲学をやる態度に驚くべきほど似ている。また、ウィトゲンシュタインとパスカルの間には、今後くわしく研究されるべき、きわめて相似た面がある。ウィトゲンシュタインがオットー・ワイニンゲルを高く評価していたことも、ここにつけ加えておくべきであろう。

   文章
 ウィトゲンシュタインの業績で、今後、ますます注目をひく面は、その文章である。将来、ドイツ文章史の古典的作家の中に彼が名前をつらねなかったとしたら、その方が不思議であろう。『論考』の文学的な面ですぐれていることは、すでに衆目の認めるところであるし、『哲学探究』の文章も、『論考』におとらずすぐれたものである。文体は簡潔で明晰で、構文は確乎奔放であり、そのリズムは流れるように美しい。質問と答えという対話の形式で、『論考』に見られるように、ときどきアフォリズムに凝縮されている。文学的な飾りや術語、専門語が、ことごとく切り捨てられていることは、目を見張るばかりである。意識して抑制している面とすばらしい想像力が調和し、わざとらしさのない文の流れと突如としておこる変転の印象が調和を乱さない点、ウィーンの生んだ天才のもろもろの大作品を思い起こさせる(シューベルトはウィトゲンシュタインの愛好した作曲家だった)。
 哲学家の中で名文家の一人とされているショーペンハウエルが、ウィトゲンシュタインの文体に影響しなかったことは、奇異に思われるかもしれない。そのかわり、ときどき驚くほど、ウィトゲンシュタインを思い起こさせる作家は、リヒテンペルクである。ウィトゲンシュタインは、この作家を高く評価していた。もし、リヒテンベルクから彼が何かを得たと言えるとしても、どの程度のものか、私には分からない。ただ、リヒテンベルクの哲学上の問題についての考えは、ウィトゲンシュタインに酷似していることは言ってもよいと思う。

   巨人の多様性
 ウィトゲンシュタインの業績も人柄も、将来きっといろいろ違った批評や解釈を生み出すだろう。「なぞは存在しない」とか「言葉で言い表わせることは、すべて明確に言い表わすことができる」といった文の作者自身が、なぞの人物であったし、その文は、しばしば言葉がにあらわれた表面の奥底深く、その真義をかくしている。ウィトゲンシュタインには数多くの矛盾が集中して存在している。彼は論理学者であって、同時に神秘主義者であると言われている。そのどちらも正しく言いあててはいないが、どちらも一面の真実を伝えている。ウィトゲンシュタインの業績を研究する人は、あるときは合理的で現実に即した次元でその本質を見出そうとするだろうし、あるときは、その超経験的・形而上的な次元に、もっと本質的なものを見出すだろう。いや、これまですでに書かれたウィトゲンシュタインについての文献に、この両方の考えの例が見られる。だが、こういう解釈は意味のないものだ。ウィトゲンシュタインを、その豊かで複雑な全人として理解しようとする者には、誰にもそういう解釈が曲解に見えるはずである。彼の影響が、いろいろな方向に拡がっているのを示すという点では、そういう解釈も面白くないことはないが……。私はときどき思うことがある、人間の仕事を古典的なものにするのは、まさにこのような多様性であって、多様性のゆえにわれわれが明確に理解しようとする情熱をいざない、また同時によせつけないのではなかろうかと。

解説──もうひとつのウィトゲンシュタイン回想 飯田 隆

 ウィトゲンシュタインに特別な関心をもつひとにとって、そうした文章はいずれも興味深いものであるにちがいない。しかし、マルコムの「回想」ほどのものはない。本書のもうひとりの著者フォン・ライトは、マルコムを追悼する文章のなかでつぎのように述べているが、その通りだろう。

ノーマン[・マルコム]の「回想のウィトゲンシュタイン」は伝記文学の古典であるというのが、私の意見である。それが「真実をついている」ことは、私には一目瞭然であった。ここに描かれているウィトゲンシュタインは、私もまた知っているウィトゲンシュタインである──その引き付けるような精神的魅力、誠実さと真実への癒しがたい渇望、だが、それだけでなく、友人にさえ恐れを抱かせるような気まぐれと短気さ。ウィトゲンシュタインのような人物の複雑さは、会話や出会いから受ける印象という形でもっともよく捉えることができるのであって、事実で武装した正面からの肖像によっては捉えられないだろう。マルコムの「回想のウィトゲンシュタイン」から私がいつも連想するのは、グリルパルツァーの「ベートーヴェンの思い出」である。

 ウィトゲンシュタインの学生であったひとびとの手になる回想のなかで、ドゥルーリーの「ウィトゲンシュタインとの会話」もまた、たぶん、別格とすべきだろう。これは、分量的にマルコムのものと匹敵するだけでなく、時間的には、一九二九年から一九五一年の死まで、ウィトゲンシュタインの第二のケンブリッジ時代のほぼ全体をカバーしている。哲学よりは、宗教・音楽・文学といった哲学以外のさまざまな主題についてのウィトゲンシュタインの意見の方に重点が置かれている。それでもなお、これはむしろ、「ウィトゲンシュタイン語録」のようなものであって、万人向きのものとは言い難い。(『反哲学的断章』というタイトルで訳されているウィトゲンシュタイン自身の手になる「感想集」と、ドゥルーリーが記録しているウィトゲンシュタインのことばとを比較することは、興味の尽きない主題であろうが、これはむしろ「ウィトゲンシュタイン研究者」のためのものだろう。)

 ウィトゲンシュタインの回想を残しているのは、かれの学生だったひとびとだけとは限らない。一時期イギリスの文芸批評の中心にあったリーヴィスのように、ごくわずかな期間しかウィトゲンシュタインと付き合いがなかった人物までが、ウィトゲンシュタインの思い出を語った文章を残している。こうした風潮を苦々しく思っているひとびともきっといるにちがいない。だれかの文章のなかには、「ウィトゲンシュタイン回想録は、ひとつの産業にまでなっている、なにしろ、ウィトゲンシュタインにロシア語を教えたという女性までがウィトゲンシュタインの思い出を書いているのだから」といった主旨のことが書かれていた。それを読んだとき私は、この文章の書き手はとんでもない考え違いをしていると思ったものである。というのは、残念ながらまだ日本語に訳されてはいないが、問題の「ウィトゲンシュタインにロシア語を教えた女性」が書いたウィトゲンシュタインの思い出は、マルコムの「回想」とならんで、それを補完する、きわめてすぐれた作品だからである。
 ウィトゲンシュタインが一時期ロシアに移住する計画を立てていたことは、フォン・ライトの「小伝」でも触れられている(本文、一八三頁)。たぶんその準備のために、ウィトゲンシュタインは、一九三〇年代を通じてもっとも親しい関係にあったフランシス・スキナーと一緒に、ロシア語を習い始めたと思われる。かれらのいわば家庭教師となったのが、このもうひとつの回想録の書き手であるファニア・パスカルである。彼女はベルリンで哲学の博士号を取ったとはいえ、ウィトゲンシュタインが扱っているような問題に関してはまったくの門外漢であると述べている。したがって、彼女の回想も、かれの哲学の具体的内容についてはいっさい触れていない。「ウィトゲンシュタイン──個人的回想」と題されたこの文章は、さして長いものではない。マルコムの「回想」の約半分ぐらいの分量である。だが、これほど密度の濃い文章も珍しい。たとえば、その書き出しは、こうである。

ウィトゲンシュタインの個人的回想を書こうとする者はだれでも、かれの非難と刺すような視線にさらされているという気持ちを抑えることができない。他人についての関心として世間に通用しているものは、実のところは悪意にほかならないというのが、かれがしばしば口にしていた信念であった。だが、(禁欲家であった)かれでも、ときには、美味しいケーキを賞味したように、(一度か二度かではあるが)いわば意に反して、害のないゴシップをかれが楽しんでいるのを、私は見たことがある。

 この書き出しを読むだけでも、この「個人的回想」が、マルコムのものとはずいぶん異なった筆致で書かれていることがわかろう。マルコムの「回想」も、また、ウィトゲンシュタインの学生だったひとびとの回想も、その出発点になっているのは、あくまでも哲学者としてのウィトゲンシュタインである。「ウィトゲンシュタインは哲学において偉大な仕事を成し遂げたが、偉大な仕事の背後には、このように複雑な人間がいた」というのが、こうした回想の基本的テーマであると言ってよい。それに対して、パスカルの「個人的回想」の最大の特徴は、「偉大な哲学者」という限定を外してもなお、ウィトゲンシュタインがいかに非凡な人間であったかということを読者に実感させてくれる点にある。どこを引用してもよいのだが、たとえば、こんな箇所はどうだろう。

ウィトゲンシュタイン個人について意見を述べるひとびとは、かれを自分のレベルまで引き下げがちだと言われるのを聞いたことがある。しかしながら、何らかの仕方で、いや、どんな仕方ででも、自身をウィトゲンシュタインと比べようとするほど向こう見ずな人間は多くはいないと、私は思う。かれがひとりで独自の部類を形作っている人間であることは、どう転んでも明白だろう。

 だが、これだけでは、どのように独自な部類の人間にウィトゲンシュタインが属していたかは、わからないだろう。そのためには、つぎのような箇所がある。ここは、とりわけよく、ウィトゲンシュタインがどのような人間であったかを教えてくれる箇所である。

人を殺してしまったとか、結婚が破綻に瀕しているとか、あるいは、信仰を失いかけているといった場合であれば、相談するのにウィトゲンシュタインほど適した相手はいない。かれはどんな助力も惜しまないだろう。しかし、心配事や不安に悩まされているとか、まわりにうまく適応できないといった場合には、かれは危険人物であり、ぜひとも避けねばならない人物である。かれは、ありふれた悩みには同情しないし、かれの解決法はあまりにも極端に走る。原罪を治療するのが、かれのやり方である。

 何らかの知的活動に従事している者はつい、自分の従事していることがほかのひとにとっても最重要の事柄であるという錯覚に陥りがちである。哲学もその例外ではない。それどころか、哲学こそ、そうした錯覚がもっとも容易に生み出される場所である。マルコムの「回想」がそうした錯覚に陥っているというのではない。だが、部外者からの視点というものも必要だろう。パスカルの「個人的回想」のもつ最大の価値は、二十世紀において「哲学者」という呼び名にもっともふさわしい人物が、ひとりの鋭い人間観察家の目にどう映ったかをそこから知ることができるという点にある。ついいま引用した箇所がそうであるし、また、その少し後にある、つぎのような箇所もそうである。

[ウィトゲンシュタインを知る者は]新種の罪悪感を植え付けられないようにせいいっぱい努力しなければならない。まるでいつでもかれが自分のしていることを覗き込んでいるような気になって、自分がこんなことをしたり、こんなことを言ったり、こんな本を読んでいることに関して、ウィトゲンシュタインだったらどう言うだろうかと自問することである。葛藤はどうしても残る。なぜならば、他のだれからよりも多くのことをかれから学べることが、よくわかっているからである(ここで私が考えているのは、論理とか哲学といったことではない)。かれが、もう少し尊大でなく、ひとに何かを禁じることももっと少なく、他人の性格や考えにもう少し辛抱強くあってくれたならば、と思う。だが、残念ながら、かれは教育者ではなかった。

 だが、こうした文章から立ち上がってくるウィトゲンシュタインの像と、マルコムの「回想」で描かれているウィトゲンシュタイン像とのあいだに、大きな乖離があるわけではない。パスカルは、その「個人的回想」の終わりで、ウィトゲンシュタインの全体的印象をつぎのように要約している。

振り返って見れば、年々歳々かれがしていたことは、増え続けるだけの破片を片付けるためにブルドーザーを動かすようなものであった。ある達成感を伴った人生をかれが送ったことを私は知っている。だが、かれが悲劇的な人物だと思われることに変わりはない。

 この「要約」はたぶん、マルコムの「回想」の最後の頁と多くの共通点をもっている。そして、そのことは、マルコムの「回想」が「真実をついている」ことの、もうひとつの証拠のであろう。

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