キルケゴール「ギーレライエの手記」1835.8.1

……私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ。それは私が何を認識すべきかということではない。……私の使命を理解することが問題なのだ。神はほんとに私が何をなすべきことを欲したもうかを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生きそして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などをさがし出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう。哲学者たちのうちたてた諸体系をあれこれと研究し、求められればそれについて評論を書き、それぞれの体系内に見られる不整合な点を指摘しえたにしたところで、何の役に立とう。──堂々たる国家論を展開し、あらゆるところから抜き取ってきたされぞれの知識をつなぎ合わせてひとつの体系にまとめあげ、ひとつの世界を構成しえたにしたところで、私がその世界に生きるわけでなく、 ただ他人の供覧に呈するというにすぎないのでは、私にとって何の役に立とう。──キリスト教の意義を説明することができたところで、個々の多くの現象を解明しえたところで、それが私自身と私の生活にとってそれ以上の深い意味をもたないとしたら、それが私に何の役に立つだろう。……真理というものが、私がそれを認めようが認めまいがおかまいなく、信頼して身をゆだねさせるよりもむしろ恐怖の戦慄せんりつを呼び起こしながら、冷たくそして裸で私の前に立っているとしたら、そのような真理が私に何の役に立つだろう。もちろん私は、認識の命令を承認すべきことを、この命令のゆえに人々のうえに働きかけることができるのだということを、否定しようとは思わない。しかしそれにはその命令がいきいきと私のなかに取り入れられなくてはならぬ。私がいま最も重要なことだと考えるのは、それなのだ。それをいま私の魂は、アフリカの砂漠が水を求めるように、かわき求めている。私に欠けているのは、まさにこれなのだ。……私に欠けていたのは、完全に人間らしい生活を送るということだった、単に認識の生活を送ることではなかったのだ。かくしてのみ、私は私の思想の展開を、客観的と呼ばれるもののうえに、いな、断じて私自身のものでもないもののうえに基礎づけることなく、私の実存の最も深い根源とつながるもの、それによって私が神的なもののなかにいわば根をおろしていて、たとえ全世界がくずれ落ちようともそれにからみついて離れることのないようなもののうえに基礎づけることができるのだ(でなかったら、人間はどれほど知識を積もうとも、狂気に近い。真理とはイデーのために生きること以外の何であろう。何事もつまりはひとつの要請にもとづくほかはない。しかしこの要請がもはや人間の外にあるのでなく、人間のなかに生きる瞬間に、その時にこそ、それは人間にとって単なる要請であることをやめたのである)。私に欠けているものはまさしくこれなのだだから私はそれを求めて努力しよう。宝石を発見するためにあらゆるものを、自己の生命さえも、売り払ってしまう偉大な人たちを見るたびごとに私がよろこびを感じ、心の強められるのを覚えるのも、そのためなのだ。彼らは自己自身のうちに、その崇高な目標にいたる努力のなかに沈潜して、正道を踏みはずすこともあろう。しかし、かくして彼らのおちいりがちな邪道でさえ、私は畏敬いけいの念をもってながめずにはいられない。肝心なのは、人間のこのような内的行為、人間のこのような神的な一面なのだ。認識の多量さではない。……慰戯の果て知れぬ大海原のうえに、また認識の深淵しんえんのなかに、私はいたずらにいかりをおろすべき地点をさがし求めてきた。ほとんど抗しがたい力にかられて、私は慰戯から慰戯へと手をさしのべてきた。快感をさそうことのできるみだらな興奮にひたりもした。しかしそのあげくは倦怠けんたいを感じ、やがて心はずたずたに引き裂かれるのだった。私は認識の木の実を味わい、その味のよさをたのしむことが多かった。しかしその歓びはその認識の瞬間だけのものでしかなく、私自身のうちになんら深い痕跡こんせきを残さなかった。私は知恵のさかずきから飲んだのではなく、その盃のなかへ落ち込んでしまったような気がする。私の見いだしたものは何だったか? 私の『私』ではなかった。ほかでもない、あらぬ道にそれを見つけようとしたからなのだ。 まず決断すべきことは、神の国をさがし、それを見つけることだったのだ。……人は他のなにものを知るより先に自己みずからを知ることを学ばなくてはならぬ。こうしてまず内面的に自己みずからを理解し、そのうえで自己の歩みとそのたどりゆく道を知ったとき、そこではじめて人間の生活は安息と意義を得るのである……。
 ……このように自己みずからを理解したときにのみ、人間は自己の独立な実存を主張することができ、自己自身の『私』を放棄しないでいられるのだ。なんとよく見かけるではないか……精神的な怠慢から、他人の食卓からこぼれ落ちるパンくずを食って生きているたぐいの人々を、あるいはもっと利己的な理由から、他人のなかにけ込んで生きることを求め、そのあげく、うそつきによく見られるように、自分で見てきたような嘘の話をたびたび繰り返しているうちに自分でもその話を信じこんでしまうにいたるような人々を、われわれはいかにしばしば見かけることだろう。もちろん私はまだ私みずからを内面的に理解するにはいたっていないけれども、その意義にたいする深い尊敬をいだき、私の個性を守ろうとつとめてきた──知られざる神をあがめてきた。
 いまこそ私は心静かに目を私自身のうえに見すえようと思う。そして内面的に行為することをはじめようと思う。それによってのみ私は、ちょうど子供がはじめて意識的な行動をとったときに自分を『私が』と呼ぶのと同じように、これまでよりいっそう深い意味で私を『私』と呼ぶことができるだろう。
 ……さあ、骰子さいは投げられたのだ──私はルビコン河を渡るのだ! この道は私を闘争に導くだろう、だが私はたじろぎはしない。 過ぎ去った時を悲しもうとは思わない──だって、悲しんだとて何になるものか。私は力強く前進しよう。……いたずらに悲しんで時を費やすことをすまい。私は見いだした道を駆けて進もう。そして出会う人ごとに呼びかけて、ロトの妻のようにうしろをふり返ることなく、われわれは山をよじ登るのだということを思い知らせよう。

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