ドストエフスキー『罪と罰』

『なんでおれは馬鹿な真似をしたもんだ』と彼は考えた。『彼らにはソーニャというものがいる。ところが、おれ自身困っているのじゃないか』けれど、今さら取り返すわけにも行かないし、またそんなことはともかくとして、けっきょくとり返しなどしやしないのだ――こう思って、彼はどうだっていいというように手を一振りし、自分の住まいへ足を向けた。『ソーニャだってポマードがいるっていうんだからな』彼は通りを歩きながら、毒々しい微笑を浮かべて考え続けた。『このさっぱりというやつには金がいるんだとさ……ふむ……しかし、ソーネチカだって、今日が日にも破産するかもしれやしない。何分あいつはいい毛皮の猛獣狩……金鉱捜しなどと同じ冒険なんだからな……すると、あの一家はみんなおれの金がなかったら、明日にもあがきがつかなくなるわけだ……ああえらいぞ、ソーニャ! だがなんといういい井戸を掘りあてたものだ! しかも、ぬくぬくとそれを利用している! 平気で利用してるんだからな! そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。人間て卑劣なもので、なんにでも慣れてしまうものだ』
でも、もうたくさん、二枚の紙にいっぱい書きつめて、もう余白がありません。どうも大変な長物語で、いろんなできごとがうんとたまったものだからね! さあ、それではなつかしいロージャ、近き再会の日を楽しみにお前を抱きしめましょう。そして母の祝福をお前に送ります。ロージャ、たった一人の妹ドゥーニャを可愛がっておくれ。あの子がお前を愛しているように、お前もあれを愛しておやり。あの子がお前を限りなく、自分自身よりも愛している事を、心に止めておくれ。あの子は天使です。ところがお前は、大事なロージャ、お前はわたしのすべてです――わたしたちの希望の全部です。お前さえ幸福でいてくれれば、わたしたちもやはり幸福です。わたしのロージャ、お前は以前のように神様にお祈りをしていますか? われらを造り給いしあがないの主たる神のおん恵みを信じていますか? わたしは当節はやりの不信心が、お前までも見舞いはせぬかと、心ひそかに案じております。もしそうなら、わたしはお前のために祈りましょう。思い出しておくれ、ロージャ、まだお前が幼いころ、お父様の生きていらした時分、わたしのひざの上に抱かれながら、回らぬ舌でお祈りをした時分の事を。そのころのわたしたちはどんなに幸福だったでしょう! ではさようなら、いえそれよりも、お目もじまでと申しましょう。お前を堅く堅く抱きしめて、数限りなく接吻します。
 終身かわらぬおん身の母
  プリヘーリヤ・ラスコーリニコヴァ」
いや、おれは堪えられぬ、堪えられぬ! たとえこのすべての計算には一点の疑いさえないにしても、この一月の間に決められたことがみな、白日のように明らかで、算術のように正しいとしても、だめだ。ああ! おれはやっぱり思いきれぬ! だっておれは堪えられぬ、堪えられぬのだ!……
正直で感じやすい人間は、何げなしに打明け話をするが、事件屋はそれを聞いて食い物にする。そして、最後には骨までしゃぶってしまうのさ。
『なんだっけかなあ』とラスコーリニコフはまた歩き出しながら考えた。『あれはなんで読んだのだったかなあ。一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことを言うか、考えるかしたって話だ――もし自分がどこか高い山のてっぺんの岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう? まわりは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この方尺の地に百年も千年も、永劫えいごう立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。ただ生きたい、生きたい、生きていきたい! どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!……この感想はなんという真実だろう! ああ、全く真実の声だ! 人間は卑劣漢にできている!……またそう言った男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ』
 懺悔ざんげと聖餐式は終わった。カチェリーナはまた夫の床へ近づいた。僧が帰りしなに、告別と慰安のことばを述べようとして、カチェリーナの方へ向いたとたん、
「この子供たちをどうしたらいいのでしょう?」と彼女は鋭いいらいらした調子で、幼いものたちを指さしながら言った。
「神様はお慈悲ぶかい、主のお恵みにすがりなさい」と僧は言いかけた。
「ええ! お慈悲ぶかくっても、それはわたしたちにゃ届きません!」
「そのような事をいうのは罪です。奥さん、罪ですよ!」と僧は頭を振りながら注意した。
「じゃ、これは罪じゃないんですの?」と臨終の夫を指さしながら、カチェリーナは叫んだ。
「それは思わぬ惨事の原因となった人が、あなたに賠償をしてくれるでしょう。収入を失ったという点だけでもな……」
「あなたはわたしの言うことがおわかりにならないんです!」とカチェリーナは片手を一振りして、いら立たしげにさえぎった。「なんのために賠償なんかしてもらうんです? だってあの人が自分で酔っ払って、馬の足もとへ倒れ込んだんじゃありませんか! それに、収入とはなんですの? あの人は収入どころか、ただ苦労の種を作ってくれたばかりです。あの飲んだくれったら、何もかもお酒にしてしまったんです。わたし達のものを盗み出しちゃ、居酒屋へ持って行ったんです、子供たちやわたしの生涯を、居酒屋でめちゃめちゃにしてしまったんです! 死んでくれてありがたいくらいだ! かえって損が少なくなるくらいです!」
「臨終の時には許してあげにゃなりませんて。そんなことは罪ですぞ、奥さん、そんな気持は大きな罪ですぞ!」
 カチェリーナは夫の傍で小まめに何くれと世話をした。水を飲ませたり、頭の汗や血をふいてやったり、枕を直してやったりしながら、ときどき仕事の合間に僧の方へふり向いては、何かと話をしていたのであるが、この時は急に前後を忘れたようになって、彼に食ってかかった。
「ええ、神父さん! それはただのことばです。ことばだけです! 許すなんて! 今日だってもしひかれなかったら、ぐでんぐでんになって帰って来るんです。一枚看板の着古したシャツの上にぼろを重ねて、そのまま正体なく寝倒れてしまうんですよ。ところが、わたしは夜明けまでも水をじゃぶじゃぶやって、あの人や子供たちの着古しを洗ったり、それを窓の外へ干したりして、さて夜が白みかけると、今度はすわり込んでほころびをつくろわなければならない。これがわたしの夜なんです!……これでも許すなんて事がいえますか! もういい加減わたしは許してきましたよ!」
 と、恐ろしいほど激しいせきが、彼女のことばを断ち切った。彼女は片手で苦しげに胸を抑えながら、一方の手でハンカチへたんを受け、それを僧の前へ突き出して見せた。ハンカチは一面に血だらけであった。
 僧は頭をたれて、一口も物を言わなかった。
 マルメラードフは知死期ちしごの苦しみに襲われていた。彼はその目を、またかがみ込んだ妻の顔から放さなかった。何かいいたくてたまらない様子で、一生懸命に舌を動かしながら、不明瞭なことばを発して切り出そうとしたが、カチェリーナは夫が許しを請おうとしているのを察し、すぐさま命令するように叫んだ。
「黙ってらっしゃい! 言わなくてもいい! 何を言いたいのか、わかっていますよう……」
 で、病人は口をつぐんだ。しかしその時、頼りない視線が戸口へ落ちると、彼はソーニャを見つけた。
 この時まで彼は娘に気づかなかった。彼女は片隅の物かげに立っていたのである。
「あれは誰だ? あれは誰だ?」と彼はふいに息ぎれのするしゃがれ声で言った。全身に不安の色を現わし、恐ろしそうな目で娘の立っている戸口をさし示しながら、身を起こそうともがいた。
「寝てなさい! 寝てなさいよう!」とカチェリーナは叫んだ。
 けれども彼はほとんど超自然的な力で片肘かたひじを立てた。そしてしばらくの間、まるで娘が誰かわからないように、けうとい視線をじっとすえながら、その顔を見つめていた。のみならず、彼はまだこんな服装なりをしている娘を、一度も見たことがなかったのである。と、ふいに彼は娘を見分けた――虐げられ、踏みにじられた娘――けばけばしい安衣裳を恥じ入りながら、臨終の父に告別する番が来るのを、つつましげに待っている娘。限りない苦悶くもんが彼の顔に描き出された。
「ソーニャ! 娘! 許してくれ!」と彼は叫んで、手を差し伸べようとしたが、ささえを失ってぐらっとしたかと思うと、うつぶしに長椅子から床へどうと落ちた。人々は駆けよって抱き起こし、もとの長椅子に寝かしたが、その時彼はもう息を引取っていた。ソーニャは弱々しくあっと叫んで、いきなり傍へ走りより、父を抱きしめたと思うと、そのまま気が遠くなってしまった。彼は娘の腕の中で死んだのである。
「とうとう本望を達した!」カチェリーナは夫の死骸しがいを見て、こう叫んだ。「さあ、これからいったいどうしたらいいのだろう! どうしてこの人を葬ったものだろう? どうしてあれたちを、あの子たちをどうして明日から養ったらいいんだろう?」
力だ、力が必要だ、力がなければ何もできん。ところでその力を得るには力が必要なのだが、それがあいつらにはわからんのだ
「話はゆっくりしましょうよ!」
 そう言うと、彼は急にどぎまぎして、真っ蒼になった。またしてもさっきの恐ろしい触感が死のような冷たさで彼の心を通りぬけたのだ。またしても彼はおそろしいほどはっきりとさとったのだ、いま彼がおそろしい嘘を言ったことを、そしてもういまとなってはゆっくり話をする機会などは永久に来ないばかりか、もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語り合うことができないことを。この苦しい想念の衝撃があまりに強烈だったので、彼は、一瞬、ほとんど意識を失いかけて、ふらふらと立ちあがると、誰にも目を向けずに、部屋を出て行こうとした。
「ああ、あなたはこんなことを考えていらっしゃるんでしょう?」ひときわ声を高めながら、ラズーミヒンは叫んだ。「僕が罵倒ばとうするのは、彼らがでたらめを言うからだと、そう思ってらっしゃるんですね? ばかばかしい! 僕は人がでたらめを言うのが好きなんですよ! でたらめってやつは、すべてのオルガニズムに対する人間の唯一の特権です。でたらめを言ってるうちに、真理に到達するんですよ! でたらめをいうからこそ、僕も人間なんです。前に十四へん、あるいは百十四へんくらいでたらめを言わなけりゃ、一つの真理にも到達したものはない。これは一種の名誉なんですからね。ところで、僕らはでたらめを言うことだって、自分の知恵じゃできないんです! まあ、一つでたらめを言ってみるがいい、自分一流のでたらめを言ってみるがいい。そしたら、僕はそいつを接吻せっぷんしてやる。自分一流のでたらめを言うのは、人まねで一つ覚えの真理を語るより、ほとんどましなくらいです。第一の場合には人間だが、第二の場合にはたかだか小鳥にすぎない! 真理は逃げやしないが、生命はたたき殺すこともできる。そんな例はいろいろあります。しかるに、われわれは今どうです! われわれはすべて一人の例外もなく、科学、文化、思索、発明、願望、理想、自由主義、理性、経験、その他いっさい何もかも、何もかも、何もかも、何もかも、何もかもが、まだ中学予科の一年級なんです! 他人の知識でお茶を濁すのが楽でいいもんだから……すっかりそれが慣れっこになってしまった! そうじゃありませんか? 僕の言う通りじゃありませんか!」二人の婦人の手を振って締めつけながら、ラズーミヒンは叫んだ。「そうじゃありませんか?」
 ぞっとする悪寒に身を震わせながら、ラスコーリニコフは考え続けた。『またミコライがドアのかげで見つけたサック、これだってもあり得べきことだろうか? 証拠になる? 十万分の一ほどの小さなものでも、見落としたら最後――エジプトのピラミッドくらいの証拠になるんだ! はえが一匹飛んでいたが、あれでも見たのか! そんなことがあってたまるものか?』
 と、彼はにわかに自分が力抜けのしたことを――肉体的に力抜けのしたことを感じて、嫌悪の念を覚えた。『おれはこれを知ってなければならなかったのだ』と彼は苦い薄笑いをもらしながら考えた。『どうしておれは自分自身を知っていながら、自分自身を予感していながら、おのなどをとって、血まみれになるようなことをあえてしたのか? おれは前もって知っておかなけりゃならなかったのだ……いや、なに、おれは前もって知っていたんじゃないか!……』と彼は絶望のあまりうめくように言った。
 時々彼はある想念の前に、身じろぎもせずに立ち止まった。
『いや、ああいう人間は作りが違うんだ。すべてを許されている真の主権者は、トゥーロンを廃墟にしたり、パリで大虐殺を行なったり、エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征に五十万の大兵を消費したりしたあげく、ヴィリナではいっさいをしゃれのめして平気でいる。しかも死んだ後では、みんなで彼を偶像に祭り上げるんだからなあ――してみると、すべてが許されてるんだ。いやこうした人間の体は肉じゃなくて、青銅でできてるらしい!』
 ある思いがけない見当違いの想念が、ふいに彼を笑い出させないばかりだった。
『ナポレオン、ピラミッド、ワーテルロー――それから一方には、寝台の下に赤皮の長持を入れている、やせひょろけたきたならしい小役人の後家の金貸しばばあ――ふん、なんぼポルフィーリイでも、これをこなすのはたまったものじゃない!……やつらにどうして消化しきれるもんか! 美的感覚がじゃまをするからな――「ナポレオンが婆さんの寝台の下にはい込むだろうか!」てなわけで! ええっ、なんてやくざな!』
 時々瞬間的に、彼は熱に浮かされているような気がした。彼は熱病的な歓喜の気分に落ちた。
『婆あなどはくだらない些細事ささいじだ!』と彼は熱くなって、意気ごみ激しく考えた。『婆あはあるいは過失かもしれないが、あんなものは問題じゃない! 婆あは単なる病気だったのだ! おれは少しも早く踏み越したかったんだ……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺したが、踏み越すことは踏み越せなくて、こっち側に残ってしまった……ただ殺すことだけやりおおせたんだ。いや、それさえ今になってみると、やりおおせなかったんだ……ところで主義の方は、ラズーミヒンの馬鹿はまたなんだって、さっき社会主義者を罵倒ばとうしたんだろう。彼らは仕事好きな、商売に抜け目のない連中で、「人類一般の福祉」のために働いてるじゃないか……だがおれには生は一度与えられるだけで、二度とはやって来やしない。おれは「人類一般の福祉」を待っているのはいやだ、おれは自分で生きたいんだ。さもなければ、むしろ生きない方がましだ。なに、おれはぼんやり「人類一般の福祉」を待ちながら、自分の目腐れ金をふところに握りしめて、飢えに迫っている母の傍を素通りするのがいやなだけだったんだ。「おれは人類一般の福祉を建設するために、煉瓦れんがを一つ運んで行ってるんだ。だから心の慰めを感じてるんだ」だとさ。はっは! どうして君らはおれをすっぽかしたんだ? おれだって、一度きりっか生きられないんだ。おれだって、やはり生きたかろうじゃないか……ええっ、おれは美的しらみだ、それっきりさ』ふいに気ちがいのように笑い出して、彼はこうつけ加えた、『そうだ、おれは実際しらみだ』彼はひねくれた喜びをもってこの想念にしがみつき、それを掘り返したり、玩具おもちゃにしたり、慰んだりしながら考え続けた。『それはもう、一つ二つの理由だけで明瞭だ。第一に、今おれは自分がしらみだってことを考察していることだ。第二に、おれはまる一月の間、おれのこの計画は自分の欲望や気まぐれのためでなく、立派な気持のいい目的のためだなどといって、万知万能の神を証人に引っ張り出そうとして、とんだご迷惑をかけたことだ――はっは! それから第三には、実行に当たって、できるだけの正義と、中庸と、尺度と、数学を遵奉じゅんぽうしようと決心して、多くのしらみの中からもっとも無益のやつを選び出し、しかもそいつを殺してから、自分の第一歩にいるだけのものを、かっきり過不足なしに取ろうとしたことだ。(残った金は、つまり遺言状によって修道院行きというわけなんだ――はっは!)……こういうわけだから、だからおれはまぎれもないしらみだ』と彼は歯がみをしながらつけ足した。『もしかすると、おれ自身の方が殺されたしらみより、もっといやなけがらわしい人間かもしれない。そして、殺してしまったあとで、きっとこんな事をいうだろうと、前から予感していたんだ! ああ実際、この恐ろしさに比べうるものが、何かほかにあるだろうか! おお、この俗悪さ! この卑劣さ!……ああ、今のおれはよくわかった――馬上に剣をふるいながら、アラーの神これを命じたまう。服従せよ、ふるいおののける卑しき者ども! と呼号した、かの「予言者」がよくわかる! どこかの街の真中にすばらしい放列をしいて、罪があろうとなかろうと、手当たりしだいにどんどん打ち殺し、弁解めいたことさえ言わなかった「予言者」は本当だ。服従せよ、震いおののける卑しき者ども、希望など持つな、きさまらの知ったことじゃない!……これでいいんだ! おお、どんなことがあっても、どんなことがあってもおれは婆あを許しはせんぞ!』
 髪の毛は汗でぐっしょりになり、わななく唇はからからに乾き、じっとすわった目は天井にそそがれていた。
『母、妹、おれはどんなに二人を愛していたか! それなのに、どうして今は二人が憎いのだろう? そうだ、おれは二人が憎いのだ。肉体的に憎いのだ。そばにいられるのがたまらないのだ……さっきもおれはそばへ寄って、母に接吻せっぷんしたが、今でも覚えている……母を抱きながら、もしあのことがしれたら、などと考えるのは……それなら何もかも話してしまおうか? それはもうおれしだいなんだ……ふむ! 母もおれと同じような人間でなければならないはずだ』彼はまるで襲いかかってくる悪夢と戦うように、必死になって考えながら、そうつけ足した。『ああ、今おれはあの婆あが憎くってたまらない! もしあいつが息を吹き返したら、おれはきっともう一度殺すに違いない! 可哀想なリザヴェータ! なんだってあんな所へひょっくり出て来たんだろう! だが、不思議だな、なぜおれはあの女のことをほとんど考えないんだろう、まるで殺しなんかしなかったように!……リザヴェータ! ソーニャ! 二人ともつつましい目をした、つつましい可哀想な女だ……やさしい女たち……なぜあの女たちは泣かないのか? なぜうめかないのか?……あの女たちはすべてを与えながら……つつましい静かな目つきをしている……ソーニャ、ソーニャ! 静かなソーニャ……』
「いいえ、それほど」とスヴィドリガイロフは落ち着いて答えた。「マルファ・ペトローヴナとはほとんど喧嘩したことがないくらいですよ。わたしたちはほんとにむつまじく暮しておりましたし、あれはいつもわたしに満足していましたからな。わたしが鞭をつかいましたのは、わたしたちの七年間の生活で、たった二度です(もう一度ありますが、しかしそれは別な意味もありますので、かぞえないことにして)。一度は――結婚後二月ふたつきほどのときでした。村に来てすぐの頃です、それとこの間です。あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? へッへ……ついでだが、おぼえていますかな、ロジオン・ロマーヌイチ、もう何年になりますか、まだ言論が自由だった頃、名前は忘れたが、ある貴族が汽車の中で、一人のドイツ女を鞭でなぐったというので、新聞やら雑誌やらでさんざんたたかれたことがありましたねえ、おぼえてますか? あの頃さらに、ちょうどあれと同じ年だったと思いますが、《雑誌「世紀」の醜悪な行為》が起りましたな(そら、《エジプトの夜》(プーシキン)の公開朗読ですよ。おぼえてるでしょう? 黒きひとみ! おお、いずこに去れるや、わが青春のかがやける日々よ!)。それはさて、わたしの意見はこうです。ドイツ女を鞭でなぐった旦那だんなには、あんまり同情しませんな、だってどう見てもそれは……同情に値しませんよ! とはいうものの、この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》 がままいるものだ、ということですよ。この観点からこの事件を見た者は、当時一人もいませんでした、しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」
 ラスコーリニコフは、廊下のはずれで彼を待ち受けていた。
「君が駆け出してくることは、僕もちゃんと知っていたよ」と彼は言った。「二人のところへもどって行って、あれたちと一緒にいてくれ……明日も来てやってくれ……そしていつも。僕は……また来るかもしれない……もしできたら。じゃ失敬!」
 こう言うなり、手も差し伸べないで、彼はどんどん離れて行った。
「いったい君はどこへ行くんだい? 君どうしたんだ? いったいこれはなんとしたことなんだい? そんなのってあるかい!……」ラズーミヒンはすっかり途方に暮れてつぶやいた。
 ラスコーリニコフはもう一度立ち止まった。
「これを最後に言うが、もうけっして何事も僕にきいてくれるな。僕は何も君に答えることなんかないんだから……僕んとこへ来ちゃいけないよ。もしかすると、僕がやって来るかもしれない……僕を打っちゃっといてくれ……だが、あれたちは見すてないでくれ、わかったかい?」
 廊下は暗かった。二人はランプのそばに立っていた。一分ばかり、彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺し貫くような視線は、あたかも一刻毎に力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識を貫くようであった。ふいにラズーミヒンはびくっとした。何か奇怪なものが二人の間をかすめたような感じだった……ある想念が、まるで暗示のようにすべり抜けたのである。何かしら恐ろしい醜悪なものが、突如として双方に会得された……ラズーミヒンは死人のようにさっと青くなった。
「今こそわかったろう?」ふいにラスコーリニコフは、病的にゆがんだ顔をして言った……「ひっ返して、あれたちのところへ行ってくれ」彼は急に言い足してくるりとくびすを返すと、家から外へ出てしまった……
 この晩プリヘーリヤのもとであった事の顛末は、今さららしく書きたてまい。ラズーミヒンはひっ返して来ると、二人のものを慰めて、ロージャは病ちゅう静養が必要だ、あれは必ずやって来る、毎日やって来る、彼は非常に健康を害しているから、いらいらさせてはいけない、自分ラズーミヒンは彼によく気をつけて、一流のいい医者をつれて来てやる、それどころか、大勢の医者に立会診察をさせてやる、云々うんぬんと誓った……一口に言えば、この晩からラズーミヒンは彼らのために息子ともなり、兄ともなったわけである。
きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしょに宿っていられるのだ? いきなりまっさかさまに河へとびこんで、ひと思いにきりをつけてしまうほうが、どれほど正しいか、千倍も正しいよ、よっぽど利口だよ、そう思わないか!
「僕はお前に頭を下げたのじゃない。僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ」
「そうだろう……じゃ、明日お父さんの葬式にも行かないの?」
「行きますわ。わたし先週も行きました……ご法事に」
「誰の?」
「リザヴェータ。あのひとはおので殺されたんですの」
 彼の神経はしだいに強くいらだってきた。頭がぐらぐらし始めた。
「リザヴェータとは仲がよかったの?」
「ええ……あれは心の真っ直ぐな人でした……ここへも来ましたわ……たまにね……たびたびは来られなかったんですもの……わたしはあのひとと一緒に読んだり、そして……話したりしましたわ。あのひとは親しく神を見るでしょうよ」
 こうした書物めいたことばが、彼の耳には異様に響いた。のみならず、リザヴェータとの秘密な会合や、二人とも狂信者であるという事実も、やはり耳新しく感じられた。
『こんな所にいると、自分も狂信者になってしまいそうだ! 感染力を持っている!』と彼は考えた。
「さあ、読んでくれ!」と彼は突然強情らしい、腹立たしげな調子で叫んだ。
 ソーニャはいつまでもちゅうちょしていた。彼女の心臓はどきどき鼓動した。なんとなく彼に読んで聞かせるのがためらわれたのである。彼はこの『不幸な狂女』を、ほとんど苦しそうな表情で見つめていた。
「あなたに読んであげたって、仕様がないじゃありませんの? だって、あなたは信者じゃないんでしょう?……」と彼女は小さな声で、妙に息を切らせながらささやいた。
「読んでくれ! 僕はそうしてもらいたいんだ!」と彼は言いはった。「リザヴェータにゃ読んでやったんじゃないか」
 ソーニャはページをめくって、その場所を捜し出した。彼女は手が震えて声が出なかった。二度も読みかけたけれど、最初の一句がうまく発音できなかった。
「ここに病める者あり、ラザロといいてベタニアの人なり……」と彼女は一生懸命にやっとこれだけ読んだ。が、突然第三語あたりから声が割れて、張り過ぎた弦のようにぷっつり切れた。息がつまって、胸が苦しくなったのである。
 ラスコーリニコフは、なぜソーニャが自分に読むのをちゅうちょするのか、そのわけが多少わかっていた。しかし、そのわけがわかればわかるほど、彼はますますいらだって、ますます無作法に朗読を迫った。彼女はいま自分の持っているものを、何もかもさらけ出してしまうのが、どんなにかつらかったのだろう。それは彼にわかりすぎるほどわかっていた。彼女のこうした感情は実際むかしから、事によったらまだほんの子供の時分から、不幸な父と悲嘆のあまり気のふれた継母の傍で、飢餓に迫っている子供たちや、聞くにたえぬ叫声や叱責しっせきなどにみちた家庭にいる時分から、彼女の真髄ともいうべき秘密をなしていたに相違ない。そのことも彼は了解した。が、それと同時に、こういうことにもはっきり気がついた……いま彼女は朗読にかかりながら、心を悩ましたり、何やらひどく恐れたりしているくせに、一面ではそうした悩みや危惧きぐを裏切って、ほかならぬという人間にぜひとも、あとで何事が起ころうとも!……読んで聞かせたい、聞いてもらいたいという願望が、苦しいまでに彼女の心を圧していたのである。彼はそれを彼女のひとみに読み、感激にみちた興奮によって会得した……彼女は自分を制御して、第一節の初めに声をとぎらせたのどのけいれんを押しつけながら、ヨハネ伝の第十一章を読み続けた。こうして彼女は十九節まで読み進んだ。
「多くのユダヤびと、マルタとマリアをその兄弟のことにりて慰めんとて、すでに彼らのところに来たりおれり。マルタは、イエス来たまえりと聞きて、これを出迎え、マリアはなお家に坐せり。その時マルタ、イエスに言いけるは、主よ、なんじもし此処ここにいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。さりながらたとえ今にても、なんじが神に求むるところのものは、神なんじにたまうと知る」
 ここで彼女はまたことばを切った。またしても声が震えてとぎれるだろうという恥ずかしさを、予感したからである……
「イエス彼女に言いけるは、なんじの兄弟はよみがえるべし。マルタ、イエスに言いけるは、終わりの日の甦るべき時に、彼甦らんことを知るなり。イエス彼女に言いけるは、われは甦りなり、命なり、われを信ずるものは、死すとも生くべし。すべて生きてわれを信ずるものは、永遠に死することなし。なんじこれを信ずるや? 彼女イエスに言いけるは――」
(ソーニャはさも苦しげな息をつぎ、句読ただしく力をこめて読んだ。それはさながら全世界に向かって、説教でもしているような風であった。)
「主よ、しかり! 我なんじは世にきたるべきキリスト、神の子なりと信ず」
 彼女はちょっと朗読をやめて、ちらとすばやく彼の顔へ目を上げたが、大急ぎで自己を制し、さらに先を読み続けた。ラスコーリニコフは腰をかけたまま、その方をふり向こうともせず、テーブルに肘突ひじつきしてそっぽを見ながら、身動きもしないで聞いていた。ついに第三十二節まで読み進んだ。
「マリア、イエスのところに来り、彼を見て、その足もとに伏して言いけるは、主よ、なんじもし此処にいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。イエス彼女のなげきと、彼女と共に来りしユダヤびとの泣くを見て、心を痛ましめ身震いて言いけるは、なんじいずこに彼を置きしや? 彼ら言いけるは、主よ、来りて見たまえ。イエス涙を流し給えり。ここにおいてユダヤびと言いけるは、見よ、いかばかりか彼を愛するものぞ。その中なるもの言いけるは、盲者めしいの目をひらきたるこの人にして、彼を死なざらしむるあたわざりしや?」
 ラスコーリニコフは彼女の方をふり向いて、胸をおどらせながらその顔を見た。そうだ、はたしてそうだった! 彼女はすでにまぎれもなく本当の熱病にかかったように、全身をぶるぶる震わせていた。彼はそれを期待していたのである。彼女は偉大な前後未曾有みぞうの奇跡を語ることばに近づいた。偉大な勝利感が彼女をつかんだ。彼女の声は金属のようにさえた響きを帯びてきた。内部うちに満ちあふれる勝利と歓喜の情がその声に力をつけた。目の中が暗くなったので、行と行が入り交じってきたが、彼女はそらでちゃんと読むことができた。『盲者めしいの目をひらきたるこの人にして……能わざりしや?』という最後の一節では、彼女はちょっと声を落として、信ぜざる盲目のユダヤびとの疑惑と、非難と、中傷を伝え、また彼らが一分の後に、さながら雷にでも打たれたように、大地に伏して号泣しながら信仰にはいった気持を、燃えるような熱情をこめて伝えたのである……『この人もこの人も――同じように盲目で不信心なこの人も、すぐにこの奇跡を聞いて、信ずるようになるだろう、そうだ、そうだ! すぐこの場で、たった今』と彼女は空想した。彼女は喜ばしい期待に全身を震わしていた。
「イエスまた心を痛ましめて墓に至る。墓はほらにて、その口のところに石を置けり。イエス言いけるは、石をけよ。死せし者の姉妹マルタ彼に言いけるは、主よ、彼ははや臭し、死してよりすでに四日を経たり」
 彼女はことさらこの四日ということばに力を入れた。
「イエス彼女に言いけるは、なんじもし信ぜば神の栄を見るべしと、われなんじにいいしにあらずや。ついに石を死せし者を置きたる所より取り除けたり。イエス天を仰ぎて言いけるは、父よ、すでにわれにけり、われこれをなんじに謝す。われなんじが常に聴くことを知る。しかるにわがかく言うは、傍に立てる人々をして、なんじのわれを遣わししことを信ぜしめんとてなり、かく言いて、大声に呼びいいけるは、ラザロよ、出でよ、死せし者……」
(彼女はさながら自分がまのあたり見たもののように、感激にふるえて身内みうちをぞくぞくさせながら、声高く読み上げた。)
「……布にて手足をまかれ、顔は手巾しゅきんにてつつまれて出ず。イエス彼らに言いけるは、彼を解きて歩かしめよ」
その時マリアと共に来りしユダヤ人イエスのなせしことを見て多く彼を信ぜり
 彼女はもうその先を読まなかった。また読めなかったのである。彼女は本を閉じて、つと椅子から身を起こした。
「ラザロの復活はこれだけです」と彼女はきれぎれに、きびしい調子でこう言うと、彼の方へ目を上げるのを恥じるかのように、わきの方へくるりと体を向けて、身動きもせずにじっと立っていた。彼女の熱病的な戦慄せんりつはなお続いていた。ゆがんだ燭台しょくだいに立っているろうそくの燃えさしは、しくもこの貧しい部屋の中に落ち合って、永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦いんばいふを、ぼんやりと照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになっていた。五分かそれ以上もたった。
 ソーニャは彼をじっと見てはいたが、何一つわからなかった。彼女はただ彼がこの上なく、限りなく不幸だということだけ了解した。
 また恐ろしい一分間が過ぎた。二人はいつまでもたがいに顔をみつめあっていた。
「これでもあてることができない?」ふいに鐘楼からでも飛びおりるような感じで、彼はそう尋ねた。
「い、いいえ」とソーニャは聞こえるか聞こえないくらいの声でささやいた。
「ようく見てごらん」
 彼がこういうやいなや、またもや先ほど覚えのある感覚が、ふいに彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た。と、せつなその顔に、リザヴェータの顔を見たような気がした。あの斧を持って近づいて行った時、あの時のリザヴェータの顔の表情を、彼はまざまざと思い浮かべた。小さな子供が急に何かに驚いた時、自分を驚かしたものをじっと不安そうに見つめて、ぐっと後ろへ身を引きながら、小さな手を前へ差し出して、今にも泣き出しそうにする――ちょうどそういったような子供らしい驚愕きょうがくの色を顔に現わしながら、リザヴェータは片手を前へかざして、彼をけるように壁ぎわへあとずさりした。ほとんどそれと同じことが、今のソーニャにくり返されたのである。同じように力なげな風で、同じような驚愕の表情を浮かべながら、彼女はしばらく彼をじっと見ていたが、ふいに左手を前へ突き出し、きわめて軽く指で彼の胸を押すようにして、だんだん彼から身を遠のけながら、じりじりと寝台から立ち上がった。彼の上に注がれた視線は、いよいよ動かなくなった。彼女の恐怖は突如、彼にも伝染した。全く同じ驚愕が彼の顔にも現われた。全く同じ様子で彼も女の顔を見入った。そして、ほとんど同じような子供らしい微笑さえ、その顔に浮かんでいるのであった。
「わかったね?」ついに彼はこうささやいた。
「ああ!」と彼女の胸から恐ろしい悲鳴がほとばしり出た。
 彼女は頭を枕に埋めるようにしながら、ぐったり力なげに寝台の上へ倒れた。けれど、すぐにさっと身を起こして、つかつかと彼の傍へ寄ると、その両手をつかみ、しめ木にでもかけるように、その細い指でひしとばかり握りしめながら、またもやくぎづけにされたように、身動きもせず、彼の顔をみつめにかかった。この最後の絶望的なまなざしで、彼女はせめて何か最後の希望らしいものを見つけ出し、それをとらえようと試みたのである。が、希望はなかった。疑惑はごうも残らなかった。すべてはそのとおりであった! それからずっと後になって、この事を思い出した時でさえ、彼女はいつもなんともいえない不思議の感がするのであった――あの時どうしていきなり、もう疑惑はいっさいないと、見きわめてしまったのだろう? 実際、こうした風のことを何か予感していたとは、どうしたって言えないではないか? それだのに、いま彼があれだけの事を言うが早いか、彼女は急に実際それを予感していたような気がしたのである。
「もういいよ、ソーニャ、たくさんだ! 僕を苦しめないでおくれ!」と彼は悩ましげに頼んだ。
 彼はこんな風に彼女に打ち明けようとは、まるで夢にも思わなかった。ところが、こんな事になってしまったのである。
 彼女はわれを忘れたように飛び上がって、両手をもみしだきながら、部屋のまんなかまで行ったが、すばやくくびすを転じて彼の傍へ引っ返し、ほとんど肩と肩がすれ合うほど近々と並んで腰をかけた。ふいに、彼女は刺し通されでもしたように、ぴくっと身震いして、ひと声叫びを上げると、自分でもなんのためともしらず、いきなり彼の前にひざをついた。
「なんだってあなたは、なんだってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」と絶望したように彼女は叫んだ。
 それから急におどり上がりざま、彼の首へ飛びついて、両手で堅く堅く抱きしめた。
 ラスコーリニコフは思わず一歩後ろへよろけて、わびしげな笑みを含みながら、彼女を見やった。
「お前はなんて妙な女だろう、ソーニャ――僕がこんなことを言ったのに、抱いて接吻せっぷんするなんて。お前、自分でも夢中なんだろう」
「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」彼の注意など耳にも入れず、彼女は興奮の極に達したようにこう叫んだ。とふいにヒステリイでも起こったように、しゃくり上げて泣き出した。
 もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のごとく澎湃ほうはいと押しよせて、みるみる彼の心を柔らげた。彼はもうそれに逆らおうとしなかった。涙の玉が二つ彼の両眼からこぼれ出て、まつ毛にかかった。
「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」ほとんど希望の念さえいだきながら、彼は女の顔を見つめてこう尋ねた。
「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャは言った。「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く! おお、神さま!……ああ、わたしは不幸な女です! なぜ、なぜわたしはもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう! なぜあなたはもっと早く来てくださらなかったの? おお、なさけない!」
「だからこのとおりやってきた」
「今! おお、今さらどうすることができましょう?……一緒に、一緒に!」と彼女は前後を忘れたように、またもや彼を抱きしめながらくり返した。「わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!」
「僕はその時悟ったんだよ、ソーニャ」と彼は感激にみちた調子で語をついだ。「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、身を屈することをあえてする人にのみ与えられたのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない――あえてしさえすればいいのだ! その時僕の頭には生まれて初めて、一つの考えが浮かんだ。それは僕より前に誰一人、一度も考えた事のないものだ! 誰一人! ほかでもない、世間の人間はこれまで誰一人として、この馬鹿げたものの傍を通りながら、ちょっと尻尾しっぽをつかんで振り飛ばすことさえ、あえてするものがなかったんだ、また今だって一人もいやしない。これがとつぜん僕の目に、太陽のごとく明瞭めいりょうになったのだ! で、僕は……僕は……それをあえてしたくなった、そして殺したのだ……僕はただあえてしたくなっただけなんだ、ソーニャ、これが原因の全部なんだよ!」
「ああ、お黙んなさい、お黙んなさい!」とソーニャは両手を打鳴らして叫んだ。「あなたは神様から離れたのです。それで神さまがあなたを懲らしめて、悪魔にお渡しになったのです!……」
「そして殺したんでしょう! 殺したんでしょう!」
「だが、いったいどんな風に殺したと思う? 殺人てものはあんな風にするもんだろうか? 僕が出かけて行ったように、あんな風に人を殺しに行くものだろうか……僕がどんな風に出かけて行ったか、それはいつか話して聞かせよう。いったい僕は婆あを殺したんだろうか? いや、僕は自分を殺したんだ、婆あを殺したんじゃない! 僕はいきなりひと思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!……あの婆あを殺したのは悪魔だ、僕じゃない……もうたくさんだ、ソーニャ、たくさんだ! 僕をうっちゃっといてくれ」ふいに、けいれんするような悩みに身をもだえながら、彼はこう叫んだ。「僕をうっちゃっといてくれ!」
いますぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい、それから世界中の人々に対して、四方に向かっておじぎをして、大声で《わたしが殺しました!》というのです。そしたら神さまがまたあなたに生命を授けてくださるでしょう。
その態度が、けたくそわるいというものですよ! あなたは自分を信じられなくなってしまったから、わたしが下手な嬉しがらせを言ったみたいに、考えるんです。あなたはこれまでどれだけ生活して来ました? どれだけものごとを理解しています? 一つの理論を考え出したが、それが崩れ去り、ごく月並な結果になったので、恥ずかしくなった! 卑劣な結果に終ったこと、それは確かだが、でもやはりあなたは望みのない卑怯者ではない。決してそんな卑怯者じゃない! 少なくともいつまでもぐずぐず逆らっていないで、ひと思いに最後の柱まで突進した。わたしがあなたをどう見てると思います? わたしはあなたがこういう人間だと思っているのです。信仰か神が見出されさえすれば、たとい腸をえぐりとられようと、毅然として立ち、笑って迫害者どもを見ているような人間です。だから、見出すことです、そして生きていきなさい。あなたは、第一に、もうとっくに空気を変える必要があったのです。なあに、苦しみもいいことです。苦しみなさい。ミコライも、苦しみを望むのは、正しいことかもしれません。信じられないのは、わかります、だが、小ざかしく利口ぶってはいけません。ごちゃごちゃ考えないで、いきなり生活に身を委ねることです。心配はいりません、──まっすぐ岸へはこばれ、ちゃんと立たせられます。どんな岸ですって? それがどうしてわたしにわかります? わたしは、あなたにまだまだ多くの生活があることを、信じているだけです。
あなたは老婆を殺しただけだから、まだよかった。もし別な理論でも考えだしていたら、下手すると、まだまだ千万倍も醜悪なことをしでかしていたかもしれません! これでも、神に感謝しなきゃいけないのかもしれませんよ。
「お母さん、たとえどんなことが起ころうとも、また僕のことでどんな話をお聞きになろうとも、また僕のことで人があなたに何を言っても、お母さんは今と同じように僕を愛してくださいますか?」彼は自分のことばを考えもしなければ、細心に大事をとろうともせず、胸からあふれ出るまま、いきなりこうたずねた。
「ロージャ、ロージャ、お前どうしたの? それに、よくもお前はそんなことがきけるもんだね? 誰がお前のことをわたしにかれこれ言うものかね? わたしは誰の言うことだって信用しやしないよ。誰がやって来たって、わたしいきなり追い返してしまうから」
「僕はね、お母さん、僕がいつもお母さんを愛していたことを、はっきり知っていただくためにやって来たのです。だから、いま僕たち二人きりなのがうれしいんです。ドゥーネチカのいないのさえ、かえってうれしいくらいなんです」と彼は前と同じ興奮した調子で、ことばを続けた。「僕はお母さんにざっくばらんに言いに来たんです――たとえあなたが不幸におなりになっても、やっぱりあなたの息子は、自分自身よりもあなたを愛しているということを、承知してください。僕が冷酷な人間で、あなたを愛していないなどとお思いになるとしても、それはみんな間違いです。僕があなたを愛しなくなるようなことは、けっしてけっしてありません……さあ、もうたくさんです。僕はこういう風にして、これから始めなけりゃならないって、そういう気がしたんです……」
 プリヘーリヤは無言のまま、わが子を胸に抱きしめながら、忍びに泣いた。
「いったいお前どうしたの、ロージャ、わたしにはわからないんだよ」とうとう彼女はこう言った。「わたしはこの間じゅうから、ただお前がわたし達をうるさがっているのだとばかり思っていたけれど、今こそいろいろのことでわかりました――お前には大きな悲しみがあって、そのためにお前は悩んでいるのです。こんなことを言い出して悪かったね、かんにんしておくれ。わたし、こんなことばかり考えてるものだから、夜もおちおち眠れないんだよ。昨夜はドゥーニャも、一晩じゅううなされていた様子で、始終お前のことを言っていたっけ。わたしも何やかや聞き分けはしたものの、いっこうなんにもわからなかった。今日も朝のうちずっと、死刑でも受けに行く前のようにそわそわして、何かしら待つような気持になっていたんだよ。虫が知らせるような風でね。ところが案のじょう、このとおりしるしがあった! ロージャ、ロージャ、お前どこへ行くの? どこか旅にでも行くの?」
「旅に行くんですよ」
「わたしもそうだろうと思っていた! わたしだってね、もしそうした方がよければ、お前と一緒に行ってもいいんだよ。ドゥーニャだってそうです。あの子はお前を愛していますよ、それはそれは愛していますよ。それからソフィヤ・セミョーノヴナも、なんなら一緒に連れて行ってもいいよ。わたしは喜んであの人を娘の代わりにしますよ。ドミートリイ・プロコーフィッチが一緒に出立の手伝いをしてくださるから……だが……いったいお前は……どこへ行くの?」
「では、さようなら、お母さん」
「え! 今日すぐなの!」永久にわが子を失おうとでもしているように、彼女は思わず叫んだ。「僕ゆっくりしていられないんです、僕は行かなくちゃならない。たいへんな用があるんですから……」
「わたしが一緒に行ってはいけないの?」
「いや、それよりお母さん、ひざをついて僕のため祈ってください。あなたのお祈りはきっと届くでしょうから」
「じゃ、お前に十字を切らしておくれ、お前を祝福して上げるから! これでいい、これでいい。ああ、まあいったいわたしたちは何をしているのだろう!」
 そうだ、彼はうれしかった、誰もいあわさないで、母と二人きりでいられたのが、心からうれしかった。この恐ろしい一週間ばかりを通じて、彼の心は初めて一度にやわらげられたような気がした。彼は母の前に身を投げて、その足に接吻せっぷんした。二人は抱き合って泣いた。彼女も今度は驚きもしなければ、くどくどと尋ねもしなかった。彼女はもう前から、わが子の身に何か恐ろしいことが持ち上がっていて、今こそ彼にとって恐るべき瞬間が到来したのだ、ということを悟っていた。
「ロージャ、かわいい、かわいいロージャ」と彼女はしゃくり上げながら言った。「今お前がそうしていると、お前の小さい時分そっくりだよ。お前はいつもこんな風にわたしの傍へ来て、わたしを抱いて接吻しておくれだった。まだお父さまも生きていらして、貧乏で困っていた時分、ただお前だけが、お前が一緒にいてくれるということだけで、わたしたちを慰めてくれたものです。それからお父様を見送ってからというものは――なん度いまのように、抱き合って、お墓のそばで泣いたかしれやしない。わたしが前からこんなに泣いてばかりいるのは、親心で災難の来るのがわかったからだよ。わたしはあの晩、覚えておいでだろう、わたしたちがこっちへ着くとすぐ、初めてお前を見た時に、お前の目つき一つで何もかも察したんだよ。あの時わたしの心臓は思わずどきっとしたものだ。ところが、今日もお前にドアをあけて上げて、ちょっと一目見るが早いか、いよいよ悲しい時が来たらしい、とそう思ったんだよ。ロージャ、ロージャ、でもお前は今すぐ行くんじゃないだろうね?」
「いいえ」
「お前また来ておくれだろうね!」
「ええ……来ます」
「ロージャ、腹を立てないでおくれ、わたしは別に、くどくどきこうとしやしないから。そんなことができないのは、よく承知しているんだから。でも、ちょっと、たった一言でいいから言っておくれ。お前はどこか遠いところに行くの?」
「非常に遠くです」
「すると、そこに勤め口とか、出世の道とか、何かそんな風のものでもあるの?」
「何ごとも神様の思召おぼしめししだいです……ただ僕のために祈ってください……」
 ラスコーリニコフは戸口へ向かって歩き出した。けれど、母は彼にしがみついて、絶望のまなざしで彼の目を見つめた。彼女の顔は恐怖にゆがんでいた。
「もうたくさんですよ、お母さん」ここへ来る気になったのを、深く心に悔みながら、ラスコーリニコフは言った。
「一生の別れじゃないだろうね? まさか一生の別れじゃないだろうね? ね、お前来ておくれだろうね、明日にも来ておくれだろうね?」
「来ますよ、来ますよ、さようなら」
 彼はとうとう振り切って出て行った。
「兄さんはこれから苦しみを受けにいらっしゃるんですもの、もう半分くらい罪を洗い落としていらっしゃるんじゃなくって?」兄を抱きしめて接吻しながらも、彼女はこう叫んだ。
「罪? いったいどんな罪だい?」急に何やら思いがけない興奮のさまで彼は叫んだ。「それは僕があの汚らわしい有害なしらみを――誰の役にも立たない金貸ばばあを殺したことなのかい。あんな貧乏人の汁を吸っていた婆あを殺すのは、かえって四十の罪が許されるくらいだ、それだのに、これが罪なのかい? 僕は罪なんてことは考えない。だから、それを洗い落とそうとも思わないよ。それをなんだってみんな四方八方から、『罪だ、罪だ!』とつっつくんだろう。今になって、こんな役にも立たぬ恥辱を受けに行こうと決心した今になって、僕はやっと初めて自分の小胆さと愚かさかげんがはっきりわかったよ! 僕はただ卑屈で無能なために決心したのだ。それから事によったら、あの……ポルフィーリイがすすめたように、自首の有利ということのためかもしれない……」
「兄さん、兄さん、あなた何をおっしゃるの! だって、兄さんは血を流したんじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望したように叫んだ。
「すべての人が流している血かい!」彼はほとんど前後を忘れたような調子でことばじりをとった。「世間で滝のように流されている血かい、今までたえまなく流れていた血かい? みんながシャンパンみたいに流している血かい? おおよく流したといって、下手人に神殿カピトルで月桂冠を授け、後には人類の恩人よばわりするその血かい? お前ももう少し目をすえて、しっかり見分けるがいい! 僕は人類のために善を望んだのだ。また実際、幾百幾千の善を行なったかもしれないのだ。ところが結果は、こんな愚劣なこと――いや、愚劣ではない、ただ単に拙劣なこと一つに終わってしまった。だって、この思想は全体的に見て、今この失敗が明瞭めいりょうになってから考えられるように、けっしてそれほど愚劣なものじゃないからね(どんなことでも、失敗すると愚劣に見えるものだよ!)この愚劣な行為で、僕は自分を独立不羈どくりつふきな立場において、生活の第一歩を踏み出し、資金を得ようと思ったのだ。そうすれば、それから先は何もかも、比較上はかるべからざる利益によって埋合せがつくと考えたのだ……ところが、僕は、僕は第一歩さえ持ちこたえることができなかった。それはつまり、僕が卑劣漢だからだ! 問題はすべてこの点にあるんだ! が、とにかく、僕はお前たちの見方は取りゃしないよ。もしあれが成功してたら、僕は名誉の冠を受けていたに相違ないんだが、今はもうわなに引っかかってしまった!」
 彼は大斎期の終わりと復活祭の一週間全部を、ずっと病院に寝てすごした。もうそろそろ回復期に向かったころ、彼はまだ熱に浮かされてうわ言ばかり言っていた時分の夢をふと思い起こした。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。アジアの奥地からヨーロッパへ向けて進む一種の恐ろしい、かつて聞いたことも見たこともないような伝染病のために、全世界が犠牲に捧げられねばならぬこととなった。いくたりかのきわめて少数な選ばれたる人々を除いて、人類はことごとく滅びなければならなかった。それは人間の肉体に食い入る一種の新しい微生物、旋毛虫が現われたのである。ところがこの生物は、理性と意志を賦与ふよされた精霊だった。で、それにとりつかれた人々は、たちまちきものがしたようになり、発狂するのであった。しかし、人間は今まであとにも先にも、これらの伝染病患者ほど自分をかしこい、不動の真理を把握したもののように考えたことは、かつてないのであった。彼らほど自分の判決や、学術上の結論や、道徳上の確信や信仰などを、動かすべからざる真理と考えたものは、またとためしがないほどである。人々は村を挙げ、町を挙げ、国民全部をこぞって、それに感染し、発狂してゆくのであった。誰もかれも不安な心持に閉ざされて、たがいに理解しあうということもなく、めいめい自分一人にだけ真理が含まれているように考え、他人を見ては煩悶はんもんし、われとわが胸をたたいたり、手をもみしだいたりしながら泣くのであった。誰をどう裁いていいかもわからなければ、何を悪とし、何を善とすべきかの問題についても意見の一致というものがなかった。また誰を有罪とし、誰を無罪とすべきかも知らなかった。人々は何かしら意味もない憎悪にとらわれて、たがいに殺しあった。たがいをほろぼし合うために大軍をなして集まったが、軍隊はもう行軍の途中で、突然自己殺戮さつりくをはじめた。列伍れつごは乱れ、兵士はたがいにおどりかかって、突きあったり、斬りあったり、噛みあったり、食いあったりした。町々ではついに警鐘を鳴らして、人を呼び集めたが、誰がなんのために呼んでいるのか、それを知るものは一人もなかった。一同はただ不安に包まれていた。ありふれた日常の仕事は放擲ほうてきされてしまった。てんでに思い思いの意見や善後策を持ち出すけれど、一致を見ることができないからであった。農業も中止された。人々はここにひとかたまり、あちらにひとかたまりとかけ集まって、何かの決議をした上、けっしてわかれまいと誓った――けれどたちまちのうちに、たったいま自分たちで予定したのとは、まるで反対なことをやりだして、たがいに相手を責めながら、つかみ合い斬り合いを始めるのであった。火災が起こり飢饉ききんが始まった。何もかも、ありとあらゆるものが滅びていった。疫病はしだいに猖獗しょうけつを加え、ますます蔓延まんえんしていった。世界じゅうでこの厄をのがれたのは、ようやく四、五人にすぎなかった。それは新しき人の族と新しき生活を創造し、地上を更新し浄化すべき使命を帯びた、選ばれたる純なる人々であった、しかし誰一人として、どこにもそれらの人を見たものもなければ、彼らのことばや声を聞いたものもなかった。
 どうしてそんなことができたか、彼は自身ながらわからなかったけれど、ふいに何ものかが彼をひっつかんで、彼女のもとへ投げつけたようなぐあいだった。彼は泣いて、彼女のひざを抱きしめた。はじめの一瞬間、彼女はすっかりおびえ上がって、顔はさながら死人のようになってしまった。彼女はその場からおどり上がり、わなわな震えながら彼をみつめた。けれどすぐその瞬間に、彼女は何もかも悟った。彼女の目の中には無限の幸福がひらめいた。彼女は悟った。男が自分を愛している、しかも限りなく愛しているということは、彼女にとってもうなんの疑いもなかった。ついにこの瞬間が到来したのである……
 それに、こうしたいっさいの、いっさいの過去の苦痛とははたしてなんであるか! 今となってみると何もかも――彼の犯罪、宣告、徒刑さえも、この感激の突発にまぎれて、何かしら外面的な奇怪事のような、まるで人の身の上に起こったことのような気がした。とはいえ、彼はこの夕べ何ごとによらず長くみっちり考えたり、思想を集中させたりすることができなかった。いま彼は何ごとにもせよ、意識的に解決することができなかったに相違ない。彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ。したがって意識の中にも、何かまったく別なものが形成されるはずである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?