アウグスティヌス『告白』

第一巻

はじめに神を呼び求めたのち、出生から十五歳に至るまでのことを回顧して、幼年時代、少年時代の罪を語り、その頃遊びにふけって学問をおろそかにしたことを告白する

第一章

神の偉大さにうながされて、神を呼び求める

 一、「主よ、あなたは偉大であって、大いにほめられるべきである」。「あなたの力は偉大であって、あなたの知恵は測られない」。しかも人間は、あなたの取るに足らぬ被造物でありながら、あなたをたたえようと欲する。すなわち、人間はおのれの死の定めを身に負い、おのれの罪のしるしと「あなたが高ぶる者に逆らわれる」証拠を身にまとっている。しかも人間は、あなたの取るに足らぬ被造物でありながら、あなたをたたえようと欲する。あなたは人間を呼び起こして、あなたをほめたたえることをよろこびとされる。あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである。主よ、どうかわたしに、知らせ悟らせてください。あなたを呼び求めることとあなたをほめたたえることと、いずれが先であるかを。また、あなたを知ることとあなたを呼び求めることと、いずれが先であるかを。しかし、だれがあなたを知らずに、あなたを呼び求めようか。知らないひとなら、別のものをあなたとして呼び求めるかもしれない。それとも、あなたは、知られるために、呼び求められるのであるか。けれども、「人びとは、まだ信じないものを、どうして呼び求めるであろうか」。また、「宣べ伝える者なしに、どうして信ずるであろうか」。さて、「主をたずね求める者は主をほめたたえるであろう」。たずねる者は主を見出し、見出す者は主をほめたたえるであろう。主よ、わたしはあなたを呼び求めながら、あなたをたずね、あなたを信じながら、あなたを呼び求めよう。あなたは、われわれに宣べ伝えられておられるからである。主よ、わたしの信仰があなたを呼び求めるのである。わたしの信仰は、あなたがわたしに与えられたものであり、あなたがあなたのみ子の受肉とあなたを宣べ伝える者の奉仕とによって、わたしに注ぎこまれたものである。


第二章

どうして神を呼び求めようか。わたしの呼び求める神はわたしのうちにあり、神を呼び求めるわたしは神のうちにある

 二、さて、わたしは、わたしの神を、わたしの神であり主であられる者を、どのようにして呼び求めるのであるか。わたしは、かれを求めいれるとき、たしかに、かれをわたし自身のうちに呼びいれるのである。しかし、わたしの神がわたしのうちにはいってこられるような、どんな場所がわたしのうちにあるか。神はわたしのうちのどこにはいってこられるのであるか、その神というのは、「天と地を造られた者」であられる。いったい、主よ、わたしの神よ、あなたをいれるようなものがわたしのうちにあるか。ところで、あなたが造られた、そしてそのうちにわたしをも造られた天と地はあなたをいれるのであるか。存在するものはすべてあなたなしには存在しないのであるから、存在するものはすべてあなたをいれることになるのであるか。そうだとすると、わたしも存在するものであるから、あなたがわたしのうちにはいってこられることをこいねがうわけがあるのだろうか。わたしは、あなたがわたしのうちにはいってこられないなら、存在しないのである。わたしはまだ黄泉の国にいるのではないが、それにもかかわらずあなたはそこにもおられる。「わたしが黄泉よみの国に降りていっても、あなたはそこにおられる」からである。それゆえ、わたしの神よ、あなたがわたしのうちにおられないなら、わたしは存在しない──まったく存在しないであろう。それよりもむしろ、わたしは、「万物があなたから、あなたによって、あなたのうちに存在する」のでないなら、存在しないのではなかろうか。まさにそうである。主よ、まさにそうである。わたしはあなたのうちに存在するのであるから、どこにあなたを呼び入れるのであるか。また、あなたはどこからわたしのうちにはいってこられるのであるか。わたしの神が天と地からわたしのうちにはいってこられるために、わたしは天と地からどこへ出て行くのであるか。神は、「わたしは天と地とに満ちている」と語られているのである。


第三章

神は万物に全体として満ちているが、何物も神を容れることはできない

 三、それでは、あなたが天と地に満ちられるから、天と地はあなたを容れるのであるか。それとも、天と地はあなたを容れないから、あなたは満ちて、なおあふれられるのであるか。そしてあなたは、天と地に満ちて、あなたのなおあふれるものをどこに注がれるのであるか。万物を包みこまれるあなたは、どのようなものによっても包みこまれる必要がないのではないか。あなたは、あなたが満ちておられるものに、それを包みこみながら、満ちておられるのである。すなわち、あなたによって満たされているうつわは、あなたを支え保つものではない。それらの器はこわされても、あなたは注ぎ出されないからである。そしてあなたは(聖霊として)われわれのうえに注ぎ出されても、投げ出されるのではなく、われわれを起こされるのであり、散らされるのではなく、われわれを集められるのである。しかし、あなたは、満ちておられるすべてのものに、あなたの全体をもって満ちておられるのであるか。それとも、すべてのものは、あなたの全体を容れることができないから、あなたの一部分を、しかも同一の部分を、すべてのものは同時に容れるのであるか。それとも、個々のものがあなたの個々の部分を、大きなものが大きな部分を、小さなものは小さな部分を容れるのであるか。したがって、あなたのある部分は大きく、他の部分は小さくあるのであるか。それとも、あなたはいたるところで全体であられて、どのようなものでもあなたの全体を容れないのであるか。


第四章

神の偉大と完全とは説明しつくされない

 四、それでは、わたしの神は何であられるのか。わたしはたずねる、主なる神でなくて、何であられるのか。すなわち、「主のほかに、だれが主であろうか。われわれの神のほかに、だれが神であろうか」。もっとも高く、もっとも善く、もっとも強く、もっとも全能であり、もっともあわれみ深く、しかももっとも正しく、もっともかくれてしかももっともあらわであり、もっとも美しくしかももっとも勇ましく、恒常であってしかも変えられず、不変でありながらすべてのものを変化させる神よ、あなたは新しくなることも古くなることもなく、しかもすべてのものを新しくし、「高ぶるものを老いさせられるのに、かれらは知らない」。つねにはたらき、つねに休み、集めるが乏しいのではなく、背負い、満たし、保護し、創造し、養育し、完成し、何ものもあなたに欠けていないのに、さがし求められる。あなたは、愛しながら熱することはなく、ねたみながら苦しむことなく、悔いてしかも悲しむことなく、怒ってしかも心安らかであり、みわざを変えながらみ心をかえられることがない。あなたは、見出すものを受け入れて、しかもそれをけっして失われたのではない。あなたはすこしも欠いてはいないのに、何の不足もないのにもうけを喜び、けっしてむさぼることがないのに利子の取立てをなさる。あなたは、債務を負わされるために、余分の支払いを受けられるが、だれがあなたのものでないものをもつであろうか。あなたは、だれにも負うことがないのに、負債を払い、負債を返して、何ものも失うことがない。ところで、わたしの神よ、わたしの生命よ、わたしの聖なる喜びよ、われわれは、うえに述べたことによって、何を語ったであろうか。また、或る人があなたについて語るとき、何を語るであろうか。しかもあなたについて語らないものはわざわいである。あなたについては、能弁なものも唖者に等しいからである。


第五章

神の愛と罪のゆるしをこい求める

 五、だれがあなたのうちにわたしを安らわせるであろうか。だれがわたしのうちにあなたを入り来たらせて、わたしの心を酔わせ、わたしにわたしの悪を忘れさせ、わたしの唯一の善であるあなたをわたしにいだかせるであろうか。あなたはわたしにとって何であられるのか、あわれみをもって、わたしが語れるようにしてください。あなたがわたしに、あなたを愛することを命じ、わたしがあなたを愛さなければ、わたしに対して怒り、じつに大きな不幸をもって脅かされるのは、あなたにとってわたしがなんであるからであるか。わたしがあなたを愛さないなら、それは小さな不幸であろうか。けっしてそうではない。おお、主よ、わたしの神よ、わたしにとってあなたが何であられるかを、あなたのあわれみによってわたしに言ってください。「わたしはおまえの救いであると、わたしの魂に言ってください」。わたしに聞こえるように、言ってください。主よ、ごらんのとおり、わたしの心の耳はあなたのみ前にある。その耳を開いて、「わたしはおまえの救いであると、わたしの魂に言ってください」。わたしは、このみ声を追いかけ、あなたをとらえる。あなたのみ顔をわたしからかくさないようにしてください。わたしは、死ぬことのないように、あなたのみ顔を仰ぎ見るために死のう。
 六、わたしの魂の家は、あなたが魂のもとへはいってこられるためには狭いので、あなたのみ手でそれを広げてください。それは、荒れはてているので、それをつくり直してください。あなたの目ざわりになるものがある。わたしは告白し、知っている。しかし、だれがわたしの家を清めるであろうか。また、あなた以外のだれに向かって、わたしは叫ぶであろうか。「主よ、わたしのかくれた罪からわたしを清め、他人の罪からあなたのしもべを守ってください」と。「わたしは信ずる。だからわたしはまた語るのである」。主よ、あなたは知っておられる。わたしは、わたしの神よ、わたしは自分に逆らって、「わたしのおかした罪をあなたに告白し、あなたはわたしの不信をおゆるしくださった」のではなかろうか。わたしは審判を真理であられる「あなたと争わない」。また、わたしはわたしの「不義がそれ自身に偽る」ことがないように、わたし自身を欺くことを欲しない。それゆえ、わたしは審判をあなたと争わない。というのは、「あなたがもろもろの不義に目をとめられるなら、主よ、主よ、だれがそれに堪えるであろうか」。


第六章

幼年時代のことを述べて、神の摂理と永遠をたたえる

 七、しかしそれにもかかわらず、わたしに、あなたのあわれみの前で、語ることを許してください。ちりと灰であるわたしにも語ることを許してください。ごらんのとおり、わたしが語るのは、あなたのあわれみに向かってであってわたしをあざむかれる人間に向かってではないからである。あなたもおそらくわたしをあざむかれるであろうが、しかし振り返ってわたしをあわれまれるであろう。思うに、わたしが語ろうと欲するのは、主よ、わたしは、どこからここに──この死んでいる生と言うべきか、それとも生きている死と言うべきか──来たかをしらない。わたしは、それをしらないのである。しかし、わたしの肉の父と母から聞くところによると、あなたのあわれみにみちたなぐさめがわたしを支えられた。あなたはわたしを、父から、母のうちに、時間において造られたのである。わたしがそれをわたし自身父と母から聞いたというのは、わたし自身は記憶していないからである。それゆえ、わたしは人の乳によって慰められたが、わたしの母や乳母が自分でその乳房を満たしたのではなく、あなたがかの女たちを通じて、幼児を養うものを、あなたの定められた秩序と万物の根基にまでもおかれた富とによって、わたしに与えられたのである。それだけではなく、わたしがあなたの与えてくださるよりも多くを欲することがないようにされたのもあなたであり、またわたしを養う女たちがあなたのかの女たちに与えられたものを喜んでわたしに与えるようにされたのもあなたである。かの女たちは、あなたから豊かに与えられたものを、そのように定められた情愛によって喜んで与えていたのである。すなわち、わたしがかの女たちから受けた善はかの女たちにとって善であったのであるが、その美はかの女たちからのものではなく、かの女たちを通じてのものであった。じっさい、神よ、すべての善はあなたからねこり、わたしの救いはすべて、わたしの神から来るのである。わたしはこのことをやっと後に、あなたが内と外とに分から与えられたところのものによって、わたしに叫ばれたとき、悟ったのである。すなわち、幼児のころは、乳を吸い、わたしの肉体を喜ばすものに満足し、それを苦しめるものに泣くことを知っていただけで、それ以外は何も知らなかったのである。
 八、その後、わたしはまた、はじめは眠りながら、ついで目をさまして、笑いはじめるようにもなった。わたしは、わたしがそうしたことを他人から話されて、それを信じたのであった。というのは、わたしは、他の幼児たちもそうするのを見るからである。すなわち、わたしは自分がそうしたことを記憶しているわけではない。それからまた、わたしはしだいに、わたしがどこにいるかがわかるようになり、わたしの欲望を、それを満たしてくれそうな人びとに示そうと思ったが、そうすることはできなかった。わたしの欲望はわたしのうちにあったが、人びとはわたしの外にあったので、かれらはどんな感覚によってもわたしのうちに入ることができなかったからである。そこで、わたしは手足を動かし、声を立てて、わたしの欲望に似た合図をしたが、それらはわたしにできるわずかなもの、わたしにできるような種類のものにすぎなかった。それらの合図は欲望にまったく似たものではなかったのである。そして人びとが悟らないからか、あるいはわたしのためにならないことを恐れるからか、わたしにしたがわなかったとき、わたしは、かれらが年長者であるのに、わたしのいうことをきかないことに、また、かれらが自由人であるのに、わたしに仕えないことに腹をたて、泣きわめいて、それらの人びとに仕返しをするのであった。わたしは、幼児たちがそのようなものであることを、わたしがじっさいに見た幼児によって知ったのであり、わたしもそのようなものであったことを、それを知っているわたしの乳母たちよりも、それを知らない幼児たちによって見せられたのである。
 九、そしていまは、わたしの幼年時代はもうとっくに過ぎ去っているのに、このわたしはなお生きている。しかし、主よ、あなたはつねに生きられて、あなたのうちには何ものも死滅するものはない。あなたは、もろもろの世のはじめよりも前に、「前に」とさえも呼ばれうるすべてのものより前に存在して、あなたが創造されたすべてのものの神であり、主である。そしてあなたのもとに、すべての恒存しないものの原因は恒存し、すべての変化するものの根源は変化することなく持続し、すべての非理性的で時間的なものの理念は永続的に生きている。神よ、あなたは嘆願するわたしに語ってください。あわれみをもって、あなたのあわれむべきものであるわたしに語ってください。わたしの幼児の時期は、すでに過ぎ去った或る時期をつぐものであったのか。そしてその時期というのは、わたしが母の胎内でおくった時期であったのか。わたしは、この母の胎内でおくった時期について、人から聞いたこともあり、また、わたし自身、身ごもっている女性を見たこともある。それでは、わたしの喜びよ、わたしの神よ、この時期よりも前に、わたしはどこかにいて、だれであったのか。このことをわたしに教えてくれるものはだれもなく、父も、母も、他人の経験も、わたし自身の記憶も、教えてくれることはできなかったのである。それとも、あなたは、わたしがこのようなことを尋ねるのをあざけって、わたしの知っていることをもとに、あなたをほめたたえ、あなたに告白することを命ぜられるのであるか。
 一〇、天地の主よ、わたしはあなたに告白して、わたしが記憶しないわたしの存在のはじめと幼年期とについて、あなたに賛美を述べよう。あなたは人間に、それらのことを、他人をもとに自分について推測し、そして多くのことを、弱い女たちさえをもよりどころとして、自分について信ずることを許してくださったのである。すなわち、わたしはその時期にさえも、存在し、生きていたのであって、幼年期の終わりにはもうすでに、わたしは何か合図をし自分が心に思うところのことを他人に知らせようとつとめていた。このような生命をもつものは、主よ、あなたからでないなら、どこからおこるであろうか。それとも、自分自身をつくる制作者があるのだろうか。また、存在と生命がわれわれのうちに流れ入る脈管は、主よ、あなたがわれわれをつくられたからでないなら、どこから起こるであろうか。主よ、あなたにとっては、存在と生命とは別のものではないのであって、それというのは、最高の存在と最高の生命は同一のものであるからである。すなわち、あなたは最高の存在であられて、移り変わることがなく、あなたにおいては、今日という日は過ぎ去らない。しかもあなたにおいて、今日という日は過ぎ去るのであって、それというのは、このようなものもまたあなたのうちに存在するからである。それらのものは、あなたによって包容されるのでないなら、過ぎ去って行く道がないであろう。そして「あなたの齢は終わることがない」のであるから、あなたの齢は今日という日である。われわれ自身の、そしてわれわれの先祖の、どんなに多くの日があなたの今日を経て過ぎ去り、それからその存在の仕方を受けて、それぞれの仕方で存在したことだろう。そしてこれからまた、何という多くの日は、その存在の仕方を受けて、それぞれの仕方で存在することであろう。しかし、「あなた自身は同一であられて」、すべての明日のこととそれより後のことを今日すでになされるであろう。そしてすべての昨日のこととそれよりも前のことを、今日なされたのである。このことを悟らないひとがあっても、わたしに何のかかわりがあろうか。このようなひとも喜んで、「これは何であるか」と言うべきである。そして何であるかを知らなくても喜んで、あなたを見出してあなたを見出さないよりも、あなたを見出さずにあなたを見出すことをむしろ欲すべきである。
第十五章

神への祈願

 二四、主よ、わたしの願いをお聞きください。あなたの訓練のもとにわたしの魂をくずれさせるな。また、あなたのあわれみをあなたに告白するにあたってわたしをひるませるな。あなたはそのあわれみをもってわたしを、すべての極悪の道から救いだされた。あなたがそうされたのは、あなたがわたしにとって、わたしの求めたどんな誘惑よりも甘美なものとなり、わたしが力の及ぶかぎりあなたを愛し、心をつくしてあなたのみ手をとり、あなたが終わりにいたるまで救ってくださるためであった。主よ、わたしの王よ、わたしの神よ、わたしが少年時代に学んだ有益なことはすべてあなたに捧げよう。わたしの語り、書き、読み、数えることもあなたに捧げよう。わたしがむなしいことを学んだとき、あなたはわたしをさとされ、わたしがこれらのむなしいことを学んだ罪をも許された。わたしはこれらのむなしいことからから多くの有益な言葉を学んだ。しかし、有益な言葉はむなしくないことからからも学ぶことができる。これこそ、少年たちの歩むべき安全な道である。
第十九章

少年時代とても無罪ではなかった

 三〇.、少年時代のわたしは、こういう習慣の入口にあわれにもよこたわっていた。そしてその競技場で優劣を争ったのであるが、野卑な言葉を口にして、それを口にしないものをねたまないように用心するよりはむしろ、野卑な言葉そのものを恐れていた。わたしはこれらのことを語って、わたしの神よ、あなたに告白する。このようなことをしたので、わたしは、そのころ立派な生活するために、かれらのお気に召すことが当時の自分にとって正しい生き方である人びとに賞賛された、わたしは、「あなたの目からはなれて投げこまれていた」、不潔な深淵に気付かなかったのである。すでにそのころ、あなたの目にわたしよりもきたないものがあったであろうか。わたしは、遊楽を好み、愚劣な見世物を見ることを熱望し、芝居の真似をしておちつかず、数えされないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をあざむいて親しいひとたちにさえ嫌われていた。わたしは、両親の穴倉や、食卓から盗みをしたことさえあった。それは食欲にそそのかされたこともあったが、他の少年たちに与えるためでもあった。かれらはもちろん、それを売りつけようとしていたが、それにもかかわらず、ずるい手をつかってわたしに売った。わたしはしばしば偽りの勝利をえようとしながら、優越を求める空虚な欲望に征服された。しかし、わたし自身が他人に対してなしていたこの欺瞞ほどそれを他人のうちに見つけたとき、わたしが耐えがたく思いきびしく非難したものがあるだろうか。しかもわたしが見つけられて非難されたとき、それに服従するよりはむしろあばれたのである。こういうことは少年の無邪気であろうか。そうでいない、主よ、そうではない。わたしの神よ、語ることを許してください。こうしたことこそ、わたしが大きくなるにつれて、家庭教師と学校の教師から、胡桃や球や雀から、知事や国王に、黄金や領地や奴隷にうつっていく。じっさい、これらの罪が年をとるにつれて、笞打ちのあとには、もっと重い刑罰がつづくようにそっくりそのままうつっていく。それゆえ、わたしたちの王よ、あなたが「天国はこのようなものの国である」といわれたとき、あなたが是認された謙虚のしるしは、子供の低い身長であった。

第二巻

青年時代にすすみ、十六歳のとき、学業を中断して父母の家で、放埒な生活をはじめ、特に仲間とともに犯した窃盗をもっともきびしく裁く


第一章

青年時代とその罪の回想

 一、わたしは、自分の過去の汚れたふるまいと肉にまつわるわたしの魂の堕落を想起しようと思う。わたしは、それらの不潔なことを愛するからではなく、わたしの神よ、あなたを愛したいからである。わたしは、あなたの愛を愛すればこそ、そういうことをなすのである。わたしは、思い出のにが味をなめながら、わたしが迷ってきた邪悪な道をふりかえる。いつわりのない甘美よ、幸福でたしかな甘美よ、あなたがわたしにとって甘いものとなるために、わたしがあなたという唯一のものにそむいて多くのもののなかに消えてゆくあいだに、ばらばらに引きさかれてしまった分裂から、わたしを集めてくださるようにわたしはふりかえる。わたしはかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた。わたしの容色はおとろえ、わたしは自分に満足しながら、人びとの目をも満足させようとして、あなたの目の前で腐敗していった。
第三章

学問をやめて家にかえる。父母の配慮

 五、その年わたしは勉強をやめて近くのマダウラの明から帰ってきた。わたしは、それよりさき文学と弁論の術を学ぶため、そこに滞在しはじめていた。やがて遠くカルタゴに遊学する費用が準備されていたが、タガステの貧しい市民にすぎなかった父の資力によるよりも、むしろ野心によるものであった。わたしはだれにむかってこのことを話しているのか、神よ、あなたにむかってではない。あなたのもとでわたしの同胞に語るのである。わたしのこの書物をひもとくものがどんなに少なかろうと、そのわずかのものに語るのである。それでは何のために語るのであるか。それはわたしとそれを読むものみなが、どんなに深い淵からあなたを呼び求むべきかを考えるためである。じっさい、告白する心と信仰に生きる生活よりも、あなたの耳に近いものがあろうか。だれがそのとき、この人を、わたしの父を賛美しなかったであろうか。かれは勉学のために、必要なすべての費用を自分の資力をこえても出そうとしていたのである。他の多くの市民は、父よりもはるかに裕福でありながら、子供のためにそのような配慮をしなかった。しかしその同じ父は、わたしがあなたに対して、どのようなものになろうと、またどれほど純潔であろうと意に介しなかった。かれはわたしがただ、たくみに語るようになれば、それでよかったのであるが、それはあなたの耕作から見捨てられることであった。神よ、あなたはあなたの畑のわたしの心の真のよい主であられた。
 六、しかし、この十六歳のとき、わたしは家庭の余儀ない事情のためしばらく暇をとって、学問をまったく止め、両親のもとで暮していた。そのとき、性欲のいばらがわたしの頭上においしげって、誰も手で抜き取ってくれるものはなかった。それどころか、わたしの父は、浴場でわたしが成熟して、若さがみなぎっているのを見て、このことからすでに、孫の生れるのを待っているかのように、喜んで母に告げた。父は、この世がその創造者であるあなたを忘れ、あなたの代わりにあなたの被造物を愛する酪酊を喜び、もっとも下等なものに傾く自分の意志という見えない酒に酔うていた。しかしあなたは、わたしの母の胸のうちにすでにあなたの神殿をたて、あなたの住居の基礎をすえはじめておられた。父のほうはまだ洗礼志願者で、しかもそうなったのも最近のことであった。そこでわたしの母は、非常に驚き、敬虔な不安と戦きを感じ、わたしはまだ洗礼を受けていなかったが、「背中をあなたに向けて、その顔をあなたに向けない」人びとのたどる邪悪な道をわたしのために怖れた。
 七、ああ、おろかなわたしは、あなたから遠ざかっていたとき、わたしの神よ、あなたは黙っておられたといえるであろうか。そのときあなたは、わたしに対してほんとうに黙っておられたのであろうか。あなたの忠実な婢女である母を通して繰り返し、わたしの耳にひびかせたあの言葉はあなたの御言葉でなければ誰の言葉であっただろうか。しかしその一言もわたしの心中にははいってこないので、わたしはその通りにしなかった。それでかの女はそうなることを望んでいた。そして心痛のあまりひそかにわたしを戒めたのを記憶している。姦淫をしてはいけない、とくに人妻と不義をしてはいけないとひそかにわたしを戒めたことを覚えている。この戒めはわたしにはめめしいもののように思われ、それにしたがうことがはずかしいように思われた。しかし、それはあなたの戒めであって、わたしはそれを知らなかった。あなたは黙っておられるのに、かの人が語るのであるとわたしは考えていた。しかし、ほんとうはあなたはわたしの母を通して、わたしに語ることをやめなかった。あなたは、わたしの母において、あなたの婦女の子、あなたのしもべであるわたしによって軽んじられたのである。しかしわたしは、このことを知らずに盲日的に突進し、同じ年頃のものの間で醜行が少ないのをかえって恥じた。わたしは、仲間のものが自分の醜行を誇り、恥ずべきことが少ないのをかえって恥じるのであった。わたしは、行為そのもののみではなく、賞賛をも楽しもうとして、かえってそのような醜行をあえてした。しかし、罪のほかにとがめられるべきものがあろうか。わたしはそしられないために、かえって罪を重ねた。そしてそれを犯すことによって、堕落した仲間のものにひけをとらなくなるような罪がないときには、じっさいに犯さない罪を犯したと偽った。それはわたしが無垢なだけ軽んじられ、純潔なだけさげすまれないためであった。
 八、まあ、何という連中とともに、バビロンの街路を歩きまわって、その泥沼のうちに、あたかも肉桂や貴重な香油の中であるかのように、ころげまわっていたことであろう。そしてこのバビロンのまんなかに、わたしを固く付着させようと目に見えない敵がわたしを踏みつけ、わたしを誘惑した。わたしは誘惑に落ち入りやすい人間であった。わたしの母は、すでに「バビロンのまんなかから逃れ出て」いたが、なおその周辺にたたずんでいた。わたしの肉の母は、わたしに純潔をすすめたが、わたしについて夫から聞かされていたことを気にかけた。そして、わたしを夫婦愛の絆で縛ることは断ち切りがたいものであるから現在も有害であり、将来も危険であると考えた。母が結婚させる気にならなかったのは、来世に対する希望ではなく、学問に対する希望であった。わたしが学業をおさめることを両親とも切望していた。父はあなたについてはほとんど少しも考えることなく、わたしについて空しい事柄のみを考えていた。また、母は普通の学問はあなたのもとに達するのに妨げにならないのみか、かえって何かの意味で助けになるだろうと考えていた。わたしはいま、両親の性格をできるだけ思い起こしながらそのように推察する。そのうえ、遊ぶことについてもまた、手綱は厳しさの限度をはずしてゆるめられ、わたしは、放縦の生活におちいって様々の苦しみを味わった。そしてすべてのものには霧がたちこめて、わたしの神よ、あなたの真理のうららかな光からさえぎられ、わたしの「不義はちょうど、よく肥えた土地から萌え出るようでめった」。


第四章

仲間と犯した窃盗のこと

 九、たしかに、盗むことは、主よ、あなたの法によっても罰せられ、人間の心に記された法によってる罰せられる。どんな盗人も他の盗人にぬすまれて平気でいるだろうか。物持ちの盗人も貧しさ故の盗人を許しはしない。わたしは盗もうと思い、またじっさいに盗んだ。しかし貧しさの故に、盗んだのではなく、正義を嫌い、不義を好んで盗んだのである。じっさい、わたしの盗んたものは、自分のところに十分あり、しかも自分の持っているもののほうが盗んだものよりもはるかによかった。わたしはそれを楽しもうと望んで、それを盗み取ろうとしたのではなかった。盗むことそのことと罪を楽しもうとしてそうしたのであった。わたしたちのブドウ畑の近くに実のなっている梨の木があったが、その形も味も心をそそるようなものではなかった。この木をゆり動かして、その実をかすめさろうと、わたしたち若いならずものの連中は真夜中にでかけた。わたしたちはその時刻まで悪い習慣にしたがって、遊び場で遊びつづけていた。そして実をどっさり運び去ったが、わたしたちが食べるためではなく、自分等も少しは食ったが、むしろ豚に投げてやるためであった。わたしたちがそうすることをしたのは、禁じられていることをすることがかえって面白かったのである。神よ、これがわたしの心である。あなたがあわれみながらみられた深い淵の底で乱れたわたしの心である。いまこそわたしの心は、あなたにむかって、いわなければならない。わたしはいたずらに悪をなし、悪の原因が悪のほかにないことを求めた。わたしは破滅を愛し、わたしの罪を愛した。わたしはそのためにわたしが罪を犯したものを愛したのではなく、わたしの罪そのものを愛した。わたしの汚れた魂は、恥ずべき行ないによってあるものを求めたのではなく、恥辱そのものを求めて、あなたのもとにある安住の地から、奈落の底におちたのである。
第六章

盗みをはたらいたのは、善らしくみえるものに欺かれたのである。真実の完全な善はただ神のうちにのみある

 一二、ああ、わたしの盗みを、十六歳のときはたらいたあの夜の悪事を、あわれなわたしはあなたのうちに何を愛したのか。おまえは盗みであったがゆえに、美しくはなかった。おまえは、いまわたしが語りあえるようなものであるのか。わたしたちが盗んだ果実は美しいものであった。すべてのもののうちもっとも美しく、万物の創造者よ、善良な神よ、最高の善であり、真にわたしの善であられる神よ、あの実はあなたの造られたものであったから、美しかった。それらの実は美しかった。しかしあわれむべきわたしの魂は、実そのものにあこがれたのではない。わたしは、それらにまさるものをもっとゆたかにもっていたからである。わたしはただ盗むために、あの実をもぎとった。わたしは、それらをもぎとって、投げ捨てた。わたしは、ただ不義だけを食べ、この不義を味わうことを喜んだ。これらの実の幾分かがわたしの口にはいっても、それを甘くしたのはわたしの罪であったからである。そしてわたしは、いま、わたしの神よ、この盗みにおいてわたしを喜ばしたのは何であったかをたずねる。盗みには何の美しさもない。わたしのいう美しさは、人間の精神や記憶や感覚や生命力のなかにある美しさではなく、星辰がその位置にあって、輝かしくあるような美しさでもなく、大地や海が、滅びるものにかわって生れでてくる生物に満ちあふれているような美しさでもない。それどころか、人を欺し悪徳につきまとわれた一種の不完全な美しさでもない。
 一三、じつは、ただあなただけが万物の上にそびえる神であられるのに、高慢が崇高をまねるのである。野心の求めるものは名誉と栄光でなくて何であろうか。しかしあなたこそ、あらゆるものにまさってあがめられ、永遠に栄えられるのである。権力を持つものは、おそれられることを欲する。しかし唯一の神のほかに、だれがおそれられるべきであるか。じっさい、神の力からは、何が、いつ、どこで、何によって、あるいは誰によって、奪い取られるであろうか。好色家のヘつらいは、愛されることを欲する。しかしあなたの恋愛よりもこころよいものはなく、あの何ものよりも美しく輝く真理よりも保全に愛されるものはない。また、好奇心は知識に対する熱望にもえたっているように装うが、しかし、あなたこそ、あらゆるものをもっともよく知っておられる。さらに、無知や愚かささえも単純と無垢の名に値いするような外観を呈する。しかし、あなたよりも単純なものは見出されない。また、あなたよりも無垢なものがあろうか。しかし、悪人どもは、自分の仕業によって害を受けるのであるから、あなたよりも、無垢であるものがあろうか。怠惰は安息を望むような振りをする。しかし、主のほかに、たしかな確実な休息はない。贅沢という悪徳に満ちたりていることの証拠とよばれることを欲する。しかしあなたこそは、滅びない甘美の充満、欠けることのない豊富である。浪費は気前のよいことのようにみせかける。しかしあなたこそは、すべての良きものを惜しげもなく、かんたんに与えられる。貪欲は多くのものを所有しようと欲するが、しかしあなたはすべてのものを所有しておられる。嫉みは優越を得ようと争うが、何があなたよりもまさっているであろうか。怒りは復讐を求めるが、あなたよりほかに正しく復讐するものはいない。恐れは、愛するものの安全をおびやかすものがおこることを気づかいながら、それらのものの安全を計るが、いったい、あなたにとって何が異常であろうか。何が不意であろうか。あるいは、だれがあなたからあなたの愛するものを引きはなすであろうか。あるいは、あなた以外のどこに確実な完全があるであろうか。悲しみは、欲望が楽しんでいたものを失うとやせおとろえるが、あなたは何ものも奪い去られないように、それ自身からも何ものも奪い去らないことを欲するからである。
 一四、そんなわけで、魂はあなたからはなれて、あなたのもとに帰らないかぎり、純粋で清浄に見出されないものを、あなたに抜き、あなたのほかに求めて、姦淫の罪を犯すのである。あなたから遠ざかり、あなたにさからってたかぶるものはみな、あなたを邪悪な仕方でまねする。しかも、それらのものは、あなたを邪悪な仕方でまねしながら、あなたが自然全体の創造主であることを、したがってなにものもあなたから全く立ち去る場所がないことを示している。それでは、あの罪において、わたしは何を愛したのであるか。そして何において、わたしの主よ、邪悪なまちがった仕方でまねたのであるか。わたしは、実力によっては出来なかったから、せめてごまかしによってもあなたの掟に叛く気になったのであろうか。わたしは、あなたの全能のかすかな模造によって、許されないことをしながら、罰せられずに、捕われの身をもって、片輪の自由をまねしようとしたのであるか。これこそ、「その主をのがれて、影を追いかけた」かの奴隷の姿ではないか。ああ、腐敗よ、生の奇怪と死の深淵よ、わたしが許されなかったことを喜ぶことができたのは、ただ許されなかったからではないか。


第七章

過去の罪に恐怖を感じないのは許されたからであり、多くの誘惑に陥らなかったのも神の恩寵による

 一五、わたしの記憶は、これらのことを思い起こしても、わたしの魂がそのことに恐怖を感じないのは、「わたしは主に何を報いたらよいのか」。主よ、わたしはあなたを愛し、あなたに感謝し、あなたの御名をたたえよう。あなたは、わたしのこのように多くの悪と不正な仕事を許してくださったからである。あなたは、わたしの罪を氷のように解かしてくださったことをわたしはあなたの恵みとあわれみのおかげであると考える。またわたしが、その他多くの悪事を犯さなかったのも、すべてあなたのおかげであると思う。罪をただ罪ゆえに愛したわたしは、一体、何をしでかさずにすんだであろうか。わたしは、自分の意志によって犯した悪事も、あなたの導きによって犯さなかった悪事も、すべてわたしに許されていると告白する。自分の弱さを知りながら、自分の純潔と無垢をあえて自分の力によるものと考え、あなたのあわれみなど余り必要でなかったかのように、あなたを愛しないでよかろうか。あなたによって召され、あなたの言われたことにしたがい、そしてわたしがいま、この書物で自分について、思い出と告白をしている悪事をまぬがれた人は、わたしを嘲笑してはならない。その人が病気にかからないのも、あるいは病がかるくすんだのも、同じ医者の指図によるのである。したがってその人はわたしと同じように、いや、わたしよりもあなたを愛さねばならない。そのひとは、わたしを罪のこのようにはなはだしい衰弱から救ったのと同じ医者の手当で同じような衰弱に陥ることを免れたからである。


第八章

共謀の心理

 一六、わたしがいま思い出してはずかしくなるこれらのことによって、とくにあの盗みにおいて、あわれなわたしはどんな実を得たのであろうか。わたしは、盗みにおいて盗みそのものを愛し、他の何ものをも愛さなかった。しかも盗みもつまらぬものであったから、わたしはなおさらあわれであった。わたしは盗むことを好んだけれども、しかしひとりではけっしてそれをしなかったであろう。当時自分の心はそんな風であったと記憶している。ひとりでは決してそうしなかったであろう。だから、その時わたしは、盗みにおいても、仲間のものとの共謀を愛した。したがってわたしは、盗み以外のあるものを愛したのではない。いや、わたしは、他の何ものをも愛さなかった。というのは、仲間との協同も、とるにたらぬものであるからである。それでは、どういうことであるのか。わたしの心に光をあて、その影を見分けるものの外に、わたしに教えてくれるような人がいるであろうか。何がわたしの精神にはいってわたしにたずね、論じ、考えさせるのであるか。わたしがその時盗んだ果実そのものを愛し、それを味わうことを熱望していたなら、わたしは一人ででもその不義を犯し、満足を得たことであろう。わたしは、共謀者の刺戟によって、わたしの欲望をそそられることもなかったであろう。しかし、わたしの快楽は、あの果実のなかになかったから、それは悪事そのもののうちにあった。しかも、その快楽は、共犯者の協同によってたかめられた。



第九章

罪は悪い仲間によって助長される

 一七、そのとき、わたしの心は、どういう状態であったか。たしかにそれは、はなはだしく汚れていたにちがいなく、そのような状態のわたしは禍いであった。しかしそれは何であったか。だれが自分のあやまちを知るであろうか。このようなことをわたしたちがしたとは思わず、また盗みをひどく嫌っていた人びとをわたしたちは欺いたので、わたしたちはまるで心をくすぐられたかのように笑った。それでは、なにゆえわたしはそれをひとりでしなかったのか。ひとりでは笑う気になれないからである。たしかにひとりでは、笑う気にはなれない。しかしただひとりでいてもだれも居合せない場合にも、何かおかしいものが感覚にあらわれたり、心にうかんだりするときには、笑わずにいられないことがある。しかしあの盗みは、わたしひとりではしなかったであろう。けっしてしなかったであろう。ごらんください、わたしの神よ、わたしの魂の生々しい記憶はあなたの御前にある。わたしはひとりではあの盗みをしなかったであろう。あの盗みで、わたしは盗んだものを楽しんだのではなく、盗むから楽しかったのである。しかしわたしはひとりですることを楽しまなかったであろう。またひとりではそれをしなかったであろう。おお、何という不信な信義よ、心のあやしい誘惑よ、遊びと戯れに害をなそうとする欲望よ、わたし自身の利益や復讐を求めることなく、ただ他人に損害を与えようとする欲求よ、「さあ、行こうよ、やろうよ」といわれると、わたしたちは恥知らずでないことをかえって恥じるのである。


第十章

神と共に生きる真実の休息をこいねがう

 一八、だれがこの曲折と紛糾をきわめた結び目を解くだろうか。それはきたならしく、わたしはそれに心をとめることを欲せず、またそれを見ることを欲しない。清い光をあびて美しく輝き、飽くことのない豊満である正義と純真よ、わたしはあなたを見ようと欲する。あなたのうちにこそ、安息と乱されない生命が存する。あなたのうちにいるものは、主の喜びのうちにはいる。何の恐れもなく、最善のうちにあって、みずからも最善であるだろう。わたしの神よ、わたしは若かったとき、あなたから離れて迷い、あなたのかたい守りから遠くへさまよい、わたしにとって「乏しい国」となった。

第三巻

十七歳から十九歳まで三年間、カルタゴにあって日を送った。その間に、ある不純な恋愛関係を結んだが、十九歳のときキケロの『ホルテンシウス』を読んで、知恵の愛を呼び起こされた。またマニ教徒の迷妄に陥ったが、その背理である所以を明らかにする。母は息子の堕落に日々涙を注いだが、神の夢を与えられ、息子の回心のことが告げられる
三章

学校生活では、首席をしめたが、乱暴者たちの行為を嫌悪する

 五、しかもあなたのたのもしいあわれみがわたしの頭上はるかに高くかけめぐっていた。わたしは何という不義をはたらいて、やつれていたことであろう。そしてわたしは、冒濱的な好奇心にかられて、わたしはあなたを見捨て、不信の淵の奥底まで沈み、悪霊に対する欺瞞の奉仕をするようになり、そのつどわたしはあなたにむちうたれた。わたしはあなたの教会の内部で、厳かな儀式が行なわれているさいにも、欲情をおこし、死のために実を結ぶことをあえてした。そのために、あなたは重い罰をもってわたしを打たれたが、わたしのあやまちにくらべると無にひとしかった。おお、わたしの神よ、あなたはわたしに、恐ろしい害悪をさけるための隠れ家であるのに、わたしは、あなたから遠ざかるために、恐ろしい害悪のなかを胸をはってさまよい、あなたの道ではなく、わたしの道を愛し、逃亡者の自由を愛しながら、ますますあなたから遠ざかった。
 六、名誉ある学問といわれていたものも、法廷の論争を目指すものであって、わたしはそれに秀いでようとしていたが、そこではうまく人を欺すほどますますほめられた。人間の盲目はこのようにはなはだしく、自ら盲目であることをも誇りとするのである。わたしはすでに弁論術の学校で首席となり、喜んで得意になり、虚栄心のためにふくれあがっていた。しかし、主よ、あなたがご存じのように、仲間のものよりはずっとおとなしく、いわゆる乱暴者のやる乱暴からはまったく遠ざかっていた。じっさい、わたしは、伊達男の象徴でもあるかれらのようにはなれなかったので、わたしはこれらの乱暴者といっしょに、恥知らずにも恥じながらくらしていた。わたしは、かれらといっしょになって、ときには友情を楽しむこともあったが、はにかむ新入生を容赦なく攻撃し、何の理由もないのになぶりものにしていじめ、意地の悪い快楽をつくして、乱暴をはたらいた。こういうことほど悪魔の行為に似たものはない。それで、乱暴者と呼ぶよりもかれらにふさわしい名があろうか。他人を嘲弄し欺瞞することを好みながら、だれよりもまず、かれら自身が嘲弄し誘惑される悪霊によって、かれら自身がまっさきに欺瞞の悪霊によって敷かれ、ひそかに誘われて破滅させられるからである。


第四章

キケロの『ホルテンシウス』を読んで、知恵の愛を呼びおこされる

 七、わたしは、まだ青二才であったころ、こういう連中と交わりながら、弁論術の書を学び、雄弁で人にぬきんでようと熱望していたが、それは人間の虚栄心を満たそうとする、いむべきはかない目的のためであった。そして普通の教科をへている間に、わたしはキケロとかいう人の書を読むようになった。この人の心のほうはそれはどでもないが、その人の言語はほとんどすべての人が感嘆している。さて、キケロの書物は、哲学へのすすめであり、『ホルテンシウス』とよばれる。この書物こそ、じっさいに、わたしの情念を一変し、わたしの祈りをあなた自身にむけ、わたしの願いと望みとをまったく新しいものとしてしまった。すべての空しい希望は、わたしにとって突然いやしいものとなった。わたしは信じがたいほどの熱情をもって、知恵の不滅をしたい、あなたのもとに帰ろうと立ち上りはじめた。そのとき、わたしは十九歳で、すでに二年前に父は亡くなっていたが、わたしは母からの仕送りで、弁論術を学んでいたのである。しかしわたしがあの書物を熟読したのは、その目的ではなく、わたしを感服させたのは、その語り方ではなく、その内容であったのである。
 八、わたしの神よ、わたしはどんなに熱望したことであろう。地上からあなたのもとにとびかえろうとどんなに熱望したことであろう。しかもわたしは、わたしをどのようになさろうとしておられるのか、まだ知らなかった。「知恵はあなたのもとにある」からである。ところで、知恵の愛は、ギリシア語で「フィロソフィア」(哲学)とよばれる。そしてあのキケロの書物は、この知恵の愛でわたしの心をもえたたせたのである。哲学というこのすばらしい、りっぱな、魅惑的な名をもって自分の誤謬に色をつけて、人をまどわすものがいる。こういう人びとは、キケ口と同時代のものもそれ以前のものもほとんどみなかの書物のなかでとりあげられ、その正体を暴露されている。またその書物では、あなたの霊があなたの善良で敬虔な下僕(パウロ)によってつたえられたかの有益な忠告も、はっきり示されている。「あなたがたは哲学と空しい欺瞞のために欺かれないように気をつけよ。それはキリストにもとづかず、人のいいつたえと、世のあさはかな知恵にもとづくにすぎない。神のみちあふれる徳はすべて、形をとってキリストに宿っているからである」。わたしはそのころ、あなたが知っておられるとおり、まだこの人の言葉を知らなかったが、キケロのあのすすめを読んで喜んだ。わたしはかれの説によってあれやこれやの学派ではなく、知恵そのものを、どんなものにせよ、愛し、求め、手にいれ、保持し、強くいだくように目を覚まされ、火をつけられてもえあがったのである。ただ一つ、そのようにもえあがりながらものたりなく感じたのは、キリストの御名がみあたらないことであった。この名は、あなたの御子、わたしの救い主のこの名は、主よ、あなたのあわれみによって、わたしの幼い心が母の乳とともに、うやうやしく呑みこんで奥深く貯えたものである。この名をもたないものはなんでも、どんなに学識ゆたかで洗練され、真実を語っていても、わたしを完全にとらえることはできなかった。


第五章

聖書を読んでその文体の単純なのに失望する

 九、こうしてわたしは、聖書に心をむけ、それがどのようなものであるかをみようと決心した。そうしたらどうであったことか、わたしの目にいるものはたかぶるものにはしられず、幼いものにはあきらかにされず、入口は低く見えてその奥は高く、神秘におおわれているものを見るのである。しかし、当時はそのうちにはいっていけるものではなく、あるいは首をかがめてそのあとをたずねるようなものではなかった。わたしは、はじめて聖書を読んだとき、いまここに語っているようには感じなかった。聖書は、マルクス・トリウス・キケロの荘重さとは比べものにならないように思われた。わたしの傲慢は聖書の謙遜を受け入れず、わたしの鋭敏もその内奥を見抜くことはできなかった。聖書こそ小さい子とともに成長するものであったが、わたしは小さいものであることをさげすみ、傲慢に思い上って自分をえらいもののように考えていた。
第七章

マニ教徒の教えた数々の不合理について

 十二、こういうことになったのも、わたしはほんとうの意味で存在するものを知らなかったからである。そこでわたしは、悪はどこから生ずるか、神は有限な身体の形をして毛髪と爪をもっているか、同時に多くの妻をもち、人びとを殺し、動物を犠牲にしたものは、義人とみなされるべきであるかなどと問われたとき、わたしはまるで利口そうに感心してこの愚かな欺瞞者たちに賛成するようになった。わたしはこのようなことには無知であったから、まどわされて真理から遠ざかりながら、自分では真理に近づいているように思っていた。わたしは、悪が善の欠如に外ならないことを、そして、その終局は無であることを知らなかった。その目の視力は物体に限られ、心で見るものは幻想を出なかったわたしに、どうしてそれを見ることができたであろうか。わたしは神がであって、神は長さや幅のある肢体をもたず、その存在は容積をもつものでないことを知らなかった。じっさい、容積というものは、その部分が全体よりも小であり、たとえ無限であっても、そのある部分は、無限に拡がっているものよりも、ある一定の空間に限られたある部分の方が小さく、したがって霊のように、神のように、いたるところにおいて全体として存在するのではない。わたしは、わたしたちを存在させるものがわたしの何であるか、すなわち、聖書においてわたしたちが、神の像として作られたといわれているものが何であるかをまったく知らなかった。
 一三、わたしは、また慣習によるのではなく、全能な神のもっとも正しい法によって裁く内心の真の義を知らなかった。この法によって各地方および各時代の風習はそれぞれの地方や時代においてつくられるのであるが、しかもこの法そのものはつねにいたるところにおいて同一であり、時と所に応じて異なることはない。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーゼ、ダヴィデなど神のロから賛えられた人々は、みなこの法によって正しかったのである。ところが、かれらは、人間の審判によって裁き、自己の習俗を基準として、人類のあらゆる習俗を評価する浅慮な人たちによって不義と定められた。それはちょうど、武具について身体のどの部分にどの武具をつけたらよいかを知らない人が頭を騰当てで包み、兜を足にはこうとしてうまく合わないとぶつぶつ不平をいうようなものである。あるいは午後は休みと定められている日に、午前中は許されていたのに、午後は商売の許されていないのをなじるようなものである。あるいは同一の家庭で食器を扱うものが触れてはならぬものをある下僕が手で扱うのを見たり、また食卓の前で禁じられていることがうまやの後でなされるのをみて、同一の家、同一の家族でありながら、同一のことがすべての場所、すべての人に許されないといって怒るようなものである。現代の義人たちに、許されていないことがあの時代の義人たちには許されていたときいておこり、あるいは神が時の情勢に応じて、あるものにはこのことを命じ、他のものにはかのことを命じ、しかも両者とも同一の義に仕えるということをきいて、おこる人びともこれと同様である。かれらは、同一の人間、同一の日、同一の家であっても、それぞれの肢体にそれぞれ別のことが適合し、すでにながい間許されていたことも時がたてば許されなくなり、あの片隅で許されたり、命ぜられたりすることがそれにちかいこの片隅では禁じられ、罰せられるのを見るのである。それでは、義は同一でなくて、さまざまに移り変わるものであるか。けっしてそのようなことはなく、義に支配されるもろもろの時が一様に流れないのである。時というものは、まさにそれが時であるからである。しかし人間はこの地上に生きる生は短く、みずから経験しなかった昔の時代や、みずから経験したもろもろの民族の事情を自分の経験したもろもろの民族の事情と関連させて判断することができない。しかし同一の身体、同一の日、同一の家にあっては、何がどの肢体に、どんな時期に、どんな箇所人物に適合するかを容易に知ることができるから、昔のできごとに反感を覚え、現在のことには服従するのである。
 一四、わたしは、当時このようなことを知らず、またそれには心をとめなかった。これらは、いたるところでわたしの目に触れたが、わたしはそれに注意しなかった。わたしは詩をつくったが、任意の箇所に好きな韻律をおくことを許されず、その韻律に応じたそれぞれ別の仕方で韻律をおかねばならない。また同一の詩句においても、あらゆる位置に同一の脚韻をおかねばならなかった。しかしわたしが詩をつくるときに、守った作詩法は、場所によって異なることなく、同時にすべての規則を含んでいた。しかもなお、わたしは善良で敬虔な人びとの服従した義が作詩法よりはるかに優れた仕方で、その命ずる戒めのすべてを同時に含み、いかなる部分においても異なることなく、さまざまな時代にすべてを同時に命ずるのではなく、その時代に分配して命ずるということを悟らなかった。このように、盲目であったわたしは、敬虔な父祖たちが神のと霊感にしたがって現在を用いたことのみではなく、神の啓示にしたがって未来を予言したことをも非難した。
第十二章

ある司教が子の将来について母を慰める

 二一、あなたは、またその間にもう一つの答を与えられた。それをわたしはここに思い起こしてみよう。わたしは多くのことを省略するが、それはわたしがあなたにむかって告白する必要を感ずるものに急ぐからであり、またわたしは多くのことを記憶していないからである。さて、あなたはあなたに仕える祭司の一人を通じて、すなわち教会のなかで養われ、あなたの書物によく通しているある司教を通して、いま一つの答を与えられた。わたしの母がこの司教に、わたしと語り合ってわたしの誤りを正し、わたしの悪を思い止まらせ、わたしの善を教えることを願ったとき、──かれは、そうするのに適する相手をみつけるとそうするのがつねであった──わたしは、あとになって知ったことであるが、まったく賢明にもそれを断った。司教が答えていうには、わたしはまだ教え諭すことができない。わたしの母がかれに打ち明けたように、わたしは、あの派の奇怪で異端な邪説でふくれあがっていて、すでに多くの未熟なものを惑わしていた。そして司教は、「しかし、御子息はしばらくそのままにしておきなさい。そしてひたすらかれのために主に祈りなさい。そうすれば、御子息は書物を読んでいるうちに、自分の誤謬がどれほど大きいか、自分の不信がいかにはなはだしいかを知るであろう」と忠告した。それからまた司教は、自分も小さかったとき、邪教にこった母によってマニ教徒とされ、この派の書物のほとんどすべてを読んだばかりでなく、書写さえもしたが、だれからも反駁も説得もされることなしに、この派がどんなに嫌悪すべきものであるかをみずからさとって、それから離れ去ったと語った。司教がこのように語ったときにも、わたしの母は、安心しようとはせず、ますますしつこくさめざめと涙を流して、わたしにあって、わたしと話してくれるようにしきりに願ったので、司教もいささか機嫌をそんじて、「お帰りなさい。あなたが生きているかぎり、このような涙の子はけっして滅びることはない」といった。この言葉を母はわたしと対話のさいに、しばしば思い起こして語ったように、天来の声としてきいた。

第四巻

十九歳から二十八歳にいたる九年間の生活を告白する。この間、マニ教の迷妄に溺れ、多くのものをこの邪信に誘った。占星家の意見をたずねたこともあったが、やがてそれからさめる。マニ教に誘った親友の死にあったが、この友が死の直前回心したのをみてひどく心を動かされる。二十六歳のとき、『美と適合について』という書物を著わし、またこれよりさき、アリストテレスの『範疇論』を独力で理解しようと試みる


第一章

みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺く

 一、こうしてこの九年間、わたしの十九歳から二十八歳まで、わたしたちはさまざまな欲望に、みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺いた。そしておおやけには自由学科とよばれる学問を鼻にかけ、ひそかには宗教の名をかたって、一方ではうぬぼれが強く、他方では迷信が深く、いずれにおいても空虚であった。わたしたちは一方では、世間のむなしい名誉を劇場の喝采、詩作の競争、乾草の冠を得る競技、演劇の戯れ、情欲の放縦にまで求め、他方では、選ばれた聖徒とよばれる人たちに食物をはこんで、これらの汚れたふるまいから清められることを願った。かれらはこれらの食物からその胃の工場で、われわれのために天使たちや神々を製造し、われわれはそれによって解放されるというのであった。わたしはこのような愚にもつかぬことに熱中して、私によって敷かれ、私とともに欺かれた友人達とそれをなしていた。高慢であるのに、救われるために、神よ、まだあなたによって打ち倒され、打ち砕かれたことのない人びとは、わたしを嘲り笑うがよい。しかし、わたしはあなたをほめたたえてその御前に、わたしの恥辱を告白しよう。どうか現在の記憶をたよりに、わたしの過去のあやまちをふたたびたどって、あなたに歓びの供物を捧げることをわたしに許して下さい。あなたが存在しなければ、わたしは自分を破滅の淵にみちびくものでなくてなんであろうか。あるいは、良い状態にあるわたしもあなたの乳を吸い、あなたという朽ちない食物を食べている子供にすぎないではないか。また何人であれ、人間でしかない人間とは何であろうか。強くて力あるものは、わたしたちを嘲るがよい。しかし弱くて貧しいわたしたちは、あなたに告白しよう。
第九章

人間の交わりは、いかに堅いものでも、失われ、神を愛するものはけっして失うことがない

 一四、これが友人たちの間で愛されることである。それは、はなはだしく愛せられるので、もし自分に愛を報いる友達を愛せず、あるいは自分を愛するものに愛を報いずに、ただ友人から行為の表示を求めるなら、人間の良心はそれ自身をとがめる。ここから友人を失うときには、あの悲嘆と苦しみの闇が生じ、甘美は変じて苦味となり、心は涙にしめり、亡くなった人の失われた生命が生き残ったものの死となる。あなたを愛し、あなたにおいて友人を愛し、あなたのために敵をも愛する人は幸いである。けっして失われないものにおいて、すべてのものを愛するもののみが、自分の愛するものを少しも失わないからである。そしてこのけっして失われないものとは、わたしたちの神でなくてだれであろうか。天地を創り、天地に満ちつつ、それを創造した神でなくしてだれであろうか。神は天地に満ちることによって、天地を創られたからである。あなたを見捨てるもののほかは、だれもあなたを失うものはない。あなたを失うものは、あなたを見捨てるからである。しかしあなたを見捨てて、どこに行き、どこに逃れるのであるか。柔和なあなたから去って、怒りのあなたのもとに行くのか。そのような人は、自分の受ける罰のうちに、かならずあなたの掟を見出すにちがいない。あなたの法は真理であり、真理はあなたなのである。
第十一章

すべての被造物は無常であり、ただ神のみが恒常である

 一六、わたしの魂よ、むなしいものとなるな。あなたのむなしい騒ぎで心の耳をふさぐな。おまえもきけ、みことばそのものがおまえに立ち帰れと叫んでおられる。愛そのものが見捨てられないところに、そこに乱されない休息の場所がある。見よ、地上にあるものはすぎ去り、他のものがそれにつづいて現われ、そのすべての部分によってこの下層の世界の全体が成立する。神のみことばは、わたしの消えていくところがあるかといわれる。神のみことばのうちに、おまえの住家を定め、おまえがみことばから受けたすべてをみことばにゆだねよ、わたしの魂よ、おまえはほんとうに欺瞞に疲れはてている。真理から与えられたすべてのものを真理にゆだねよ。そうすれば、おまえは何も失わないであろう。おまえのうちなる朽ちはてたものは、ふたたび花を咲かせ、おまえの病はすべていやされるであろう。そしておまえのもろいものは、ふたたび形を与えられ、新たにされ、おまえにしっかり結ばれてかためられるであろう。それらがおりたところに、おまえを引き落すことなく、おまえとともに立ち、永遠に立って、永遠に長らえるあなたのもとに長らえるであろう。
 一七、それでは、なぜおまえは、神にそむいて、おまえ自身の肉に従うのか。むしろ神に向き直って、肉を自分に従わせなければならない。おまえが肉によって感覚するるのはすべて部分であって、これらすべてのものを部分とする全体を知らない。しかもこれらの部分に、おまえは魅惑されている。しかしもしもおまえの肉の感覚が全体を捉えることができたら、そしておまえの受けるべき罰として、全体の一部分しか知られないという当然の制限を受けることができなかったなら、おまえはもっと全体を愛することを好んで、現に存在するすべてのものが過ぎ去っていくことを願うであろう。おまえは、わたしたちが語ることをも、同じ肉の感覚によってきくのであるが、おまえは一つの音節がけっしてとどまることを望まず、他の音節があとから現われて全体を聞くことができるのを望んでいる。一般に、多くのものが一つの全体を形成し、その多くの部分がすべて同時に存在しないときには、いつもこのようである。もしすべてを感覚できるなら、個々の部分よりも全体を喜ぶのである。しかし万物を創造されたかたは、これらのものよりもはるかに優れている。そしてこのかたは、わたしたちの神であり、このかたのあとを継ぐものがないから、けっして過ぎ去られることはない。


第十二章

神でないものを愛することは、死の国に生を求めることにはかならない

 一八、もしも物体的なものがおまえの気にいるなら、それらのもののゆえに神をはめたたえよ。それらの造り主に、おまえの愛を向けよ。おまえの気にいるそれらのものにおいて、創造主の不與を招かないようにせよ。もし魂がおまえの気にいるなら、神において魂を愛せよ。魂もそれ自身は変化するが、神と結ばれて安定し、そうでなければ立ち去り、消え行くからである。それゆえ、神においてのみ魂を愛せよ。そしてできるかぎり多くの魂を神のもとに引き連れて、魂に向かって、「わたしたちは、このかたを愛しよう。このかたがわれわれを造られたのだ。このかたはわたしたちから遠く離れていない」というがよい。かれは創造したのち、立ち去られたのではなく、造られたものは、かれから出て、かれのうちにあるからである。いったい、神はどこに存在するのか。真理はどこで味わわれるのか。真理は心の奥底にありながら、心は神から迷い出た。道を踏みはずしたものたちよ、心に帰れ。そして汝らを造られたものに寄りすがれ。神とともに立て。そうすれば、おまえたちも立つであろう。神のうちに安らえ。そうすれば、おまえたちも安らうであろう。おまえたちは、けわしい道を辿ってどこへ行くのか。どこへ行くのか。おまえらの愛する善は、神から由来する。しかしそれはただかれのために愛されるかぎり善であり、甘美である。しかし苦味となることもあるが、それは、神を見捨てて、神に由来するすべてのものを不当に愛するから、当然の報いである。何のために、おまえたちの苦しい道を、いまもなお辿りつづけるのか。おまえらが休息を求めるところに休息はない。おまえらが求めるものを求めよ。しかしおまえらが求めるところに休息はない。おまえらは、死の国に、幸福な生活を求める。幸福な生活はそこにない。生のないところにどうして幸福な生があろうか。
 一九、しかし、わたしたちの生命そのもの「イエス・キリスト」が、わたしたちのところまで降りてこられて、われわれの死を偲び、そののちに、死をあふれる生命によって殺された。そしてわたしたちが隠れたところにおられるかれのもとへ立ち帰るように、雷鳴の轟きをもって叫ばれた。そのかたは、隠れたところから出て、わたしたちのもとへはいられるために、まず処女の胎にはいられ、そこで死すべき人間性と結合されたが、それは肉がいつまでも朽ちるままにしておかないためであった。そしてそこからかれはあたかも新婦の居間から出てくる新郎のように、また勇士が競い走るように出てきた。かれはすこしも躊躇することなく、言葉と行ないと、死と生と、降臨と昇天とによって、わたしたちにかれのもとに帰れと叫びながら、奔走された。このようにして、かれはわれわれの視界から去ったが、それはわたしたちが心に立ち帰り、そこにかれを見出すためであった。かれは立ち去られたが、しかも、見よ、かれはここにおられる。かれはわたしたちとともに、長くとどまることを望まれなかったが、しかもわたしたちを置き去りにしなかった。かれは立ち去ったけれども、そこからはけっして去らなかった。世はかれによって造られ、かれはこの世に存在し、かれは罪人を救うために、この世に来られたからである。わたしの魂はかれにむかって告白する。かれはわたしの魂をいやしてくださる。わたしの魂はかれにかかって罪を犯したのであるから。人の子らよ、いつまでかたくなな心でいるのか。生命(キリスト)が降りてこられたのに、昇ることも生きることもしたくないのか。しかしおまえらが高いところに昇って、その口を天につけたとき、どこに昇ろうとするのであるか。昇らんがために、神にまで昇らんがために、降りてこなければならない。神にそむいて昇ったために、落ちたからである。涙の谷で泣くために、これらのことを、人の子らに告げょ。そしてかれらを、神のもとに連れて行け。愛の火に燃えて語るなら、それは神の霊によるからである。
第十六章

アリストテレスの『範疇論』を読む

 二八、わたしが二十歳になろうとするころ、アリストテレスの『十個の範疇』とよばれる書物を手にいれて、それをひとりでよんで理解したが、わたしにとって何の役にたったであろうか。わたしの先生であったカルタゴの弁論家や、そのほか学者と思われていた人たちが、それに言及するごとに、頰をふくらませ、この書の名を挙げたとき、わたしは何かしらぬ偉大なものに対するようにこの書物にあこがれていたのである。わたしはこの書物について友人たちの意見を求めたが、かれらがいうには、もっとも博学な教師たちが口で説明するばかりか、砂の上に多くの図を書いて説明してもらってもほとんど理解できないということであった。またかれらはわたしがただひとりで読んで理解したもののほかは、わたしに何もいうことはできなかった。この書物は、実体、たとえば人間、実体に属するもの、たとえば人間の形態、どのような人間であるか、その身長、何フィートであるか、その血族関係、だれの兄弟であるか、またどこに住んでいるか、いつ生れたか、立っているか、坐っているか、靴をはいているか、武装しているか、何かをしているか、何かをされているかについて、わたしがいま二、三の例を挙げて説明した九つの類(偶有の範疇)について、あるいは実体そのものに属する無数の事柄について、まったく明瞭に語っているようにわたしには思われた。
 二九、このようなことが、わたしにとって何の役にたったであろうか。それはむしろわたしを害したのである。わたしは、存在するものはすべて、あの十個の範疇によって完全に包括されると考えて、わたしの神よ、驚くべき仕方で、単純で不変であるあなたをも、あなたがあなたの偉大さと美の基体であるかのように、あなたの偉大と美は物体におけるように基体としてのあなたのうちにあるかのように理解しようとした。しかしじつは、あなた自身があなたの偉大と美なのである。これに反して、物体は物体であるから、大きく美しくあるのではない。物体は大きく美しくなくとも、物体であることに変わりはないからである。すなわち、わたしがあなたについて考えたことは、虚偽であって真実ではなく、わたしのあわれなつくりごとであって、あなたの幸福をもたらす確実な認識ではなかった。あなたは大地がいばらあざみをわたしのために生じて、わたしが額に汗を流してパンを食べることを命ぜられたが、わたしはこの命令のとおりになった。
 三〇、また、これはわたしにとって何の役にたったであろうか。わたしはその頃邪悪な欲望のもっともあさましい奴隷であったが、自由人にふさわしいといわれる学問へのすべての書物をひとりで読んで、読破したかぎり理解した。わたしはこれらの書物を楽しんだが、それらのうちにある真実で確実なすべてがどこから由来するかを知らなかった。わたしは光に背を向け、わたしの目を光によって照らされるもののほうに向けていた。それでわたしは照らされたものは目で眺めたが、その目は照らされなかったのである。わたしが弁論の術について、また幾何と音楽と算術について、なにびとにも教えられることなく、容易に理解したすべてのことは、主よ、わたしの神よ、あなたの知られるとおりである。理解の早いことも、直観の鋭さも、あなたの賜物だからである。しかしわたしは、そのためにあなたに犠牲を捧げなかったが、それはわたしにとって益にならずに、むしろ破滅をもたらすものになった。わたしはわたしの財産のこのように貴重な部分を自分の力のうちにおさめようと努めて、わたしの力をあなたのためにとっておかず、あなたにそむいて遠い国に行き、放蕩に財産をつかいはたした。まことに、よい財産も、それをよく用いないわたしにとって、何の役に立ったであろうか。それらの学問はもっとも勤勉で、もっとも才能のある学生でさえ、わたしがかれらに説明しようと試みたとき、なかなか理解できないということに、わたしは気がつかなかった。じっさい、わたしの説明におくれずついてこられた学生は、かれらのうちでもっとも優れた学生であった。
 三一、しかし、このことはわたしにとって何の益があったであろうか。わたしは、主よ、真理であられる神よ、あなたはかがやく巨大な物体であり、わたしはその物体の一片であると考えていた。何とはなはだしい逆転ではないか。しかも、わたしはまさにそのようなものであったが、しかしわたしはいま、神よ、あなたがわたしに示されたあなたのあわれみを告白し、あなたを呼び求めるの恥じない。わたしは当時人びとの前で、冒濱の言葉を放言し、あなたに罵言をあびせかけることを恥じなかったのである。それ故、それらの学問を何の苦もなくきわめたわたしの理解力も、何びとにも教えられることなしにわたしが説き明かしたこのように難解な書物も、当時のわたしにとって何の益があったであろうか。わたしは、信仰の教説のなかを醜く、濱神の罪にまみれてさまようていたからである。またわたしよりも、はるかににぶいかれらの理解力もあなたの小さいのにとって何の妨げとなったであろうか。かれらは、あなたから遠ざからないために、あなたの教会の巣のなかで安全に守られ、羽毛がはえ、しっかりした信仰の糧で愛の翼を育てたからである。おお、主よ、わたしたちの神よ、あなたの翼のかげで、希望を抱かせよ、わたしたちを守り、わたしたちを担え。あなたはわたしたちを担われる。われわれが幼いときにも担われる。われわれが白髪になるまで担われる。あなたがわたしたちの力であるときには、強力であり、わたしたちが自分の力をたのむときには、無力となるからである。わたしたちの善は、いつもあなたのもとに生きている。そこから、わたしたちはあなたに叛いたから邪道に陥った。主よ、わたしたちは、いま、覆されることのないように、あなたのもとに立ち帰ろう。わたしたちの善は、少しも欠けることなく、あなたのもとに生き、あなた自身がわたしたちの善だからである。わたしたちは、あなたのもとから落ちたからとて、帰るべきところのないことを恐れない。わたしたちがいなくても、わたしたちの家、すなわち永遠であるあなたは、けっして崩れ落ちることはないからである。

第五巻

二十九蔵のときの体験を語る。マニ教の有名な司教ファウストゥスに会ってその無知を知り、その宗派において進歩しようとする意図を捨てた。母の意志に逆らってローマに行き弁論術を教え、同じ学を教えるためにミラノに移る。たまたまアンブロシウスに会い、しだいにカトリックの信仰に対する誤解を悟る

第一章

神を賛美し、神に告白することは魂にふさわしいことである

 一、わたしの告白の犠牲をわたしの舌の手からお受けください。あなたはわたしの舌を、あなたの御名に感謝するように形づくり励まされた。また、わたしのすべての骨をいやして、「主よ、だれかあなたに比べるものがあろうか」といわせてください。告白するものは、自分のうちに起こる事柄をあなたに告げるのではない。閉ざされた心もあなたの目をふさぐこともなく、頑固な人間もあなたの御手を斥けることもなく、あなたはそのかたくなな心を、御意のままにあわれまれ、あるいはこらしめながら、和らげられて、あなたの温情をこうむらないものはいないからである。しかしわたしの魂に、あなたを愛するために、あなたを賛美させてください。また、あなたを賛美するために、あなたのあわれみに感謝させてください。あなたの創造の全体はあなたの賛美をやめることもなく、また隠すこともない。すべての霊は口をあなたに向けて、また生物や物体はそれらを考察するものの口によってあなたをほめたたえる。こうして、わたしたちの魂は、その疲労を脱してあなたに向かって立ち上り、それらのものをくしくも造られたあなたに近づこうとする。そこにこそ魂の蘇生と真の力が存する。
第四章

神の認識によってのみ人間は幸福になる

 七、真の神であられる主よ、これらのことを知っている者はだれでも、もうそれだけであなたのお気にいるだろうか。これらのことをすべて知っていながら、あなたを知らない者は不幸であるのに、あなたを知る者は、たとえそれらのことを知らなくとも、幸福であるからである。ところで、あなたを知り、なおその上にそれらのことをも知る者は、それらのことを知るゆえにいっそう幸福であるのではなく、ただあなたを知るゆえに、幸福なのである。すなわち、あなたを知る者があなたにふさわしく、あなたの栄光をたたえ、感謝し、その思念が空しくならないかぎりである。たとえば、自分が樹木を所有していることを知っていて、その効用についてあなたに感謝する者は、たといその高さが何尺あるか、その中身がどれだけであるかを知らなくとも、その樹木を測って、その枝をすべて数えながら、しかもその樹木を所有することもなく、またその創造主を知って愛しもしない者にまさっている。それと同じように、万物が仕えるあなたによりすがることによって、全世界の富を所有し、何も持たぬようでありながら、万物を所有する信仰に生きる人は、北斗星の軌道をさえ知らなくても、天空を測り、星を数え、元素の量をはかりながら、しかも万物を度量と数と重さとにおいてとらえられたあなたを省みない者よりもたしかにまさっているのであって、それを疑う者は愚者のみなのである。
第十章

マニ教徒と別れて、福音を信ずるまでに犯した種々の過誤

 一八、このようにして、あなたはわたしをあの病から回復させて、あなたの婢女の子を、そのとき、さしあたって身体のうえで健康にしてくださった。それは、のちにもっとすぐれた、確実な健康を与えられる者を生きながらえさせようとしてであった。ところが、わたしは当時、ローマでさえもあの欺かれる聖徒者たちと交わっていた。すなわち、わたしが交わったのは、わたしが病気にかかって回復した家の主人もその一人であったマニ教徒の聴聞者たちだけではなく、選ばれた者と呼ばれる人たちでもあった。すなわち、わたしは、当時もなお、罪を犯すのは、われわれ自身ではなく、われわれとは別の、何か知られぬ本性のものがわれわれにあって罪を犯すのだと考えていた。そして罪の責任を免れているということが、わたしの傲慢な心を満足させていた。そして何か悪いことをしたときにも、「わたしの魂があなたに罪を犯したので、わたしの魂をいやして下さい」と、わたしがそれを犯したことを告白せずに、わたしは、弁解をこととして、何か知らぬがわたしとともにありながらわたし自身でないわたしとは別のものを責めていた。ところが、その全体がわたしなのであって、わたしの不信心がわたしを分裂させていたのである。そしてわたしは、自分を罪人であると考えていなかったので、その罪はますます救いがたいものであった。そして、全能の神なるあなたよ、わたしがあなたによって征服されて、わたしが救われることよりも、あなたがわたしにおいて征服されて、わたしが滅びることを望んだのは、呪うべき不義であった。そういうわけで、あなたはまだ、わたしの口に門衛をおき、わたしの唇のまわりにつつしみの扉をつけて、わたしが不義をはたらく人びととともに罪を犯しながら、わたしの心が弁解するために悪い言葉に傾かないようにされなかった。それで、わたしはまだマニ教徒のえらばれた者と交わりをつづけていたのであるが、しかしそれにもかかわらず、あの偽りの教えにわたしが進歩できるという望みは失った。その教えに、何かそれよりもよいものが見つからないかぎり、満足しようとしていたが、もう熱意も関心もうすれていた。
 一九、それというのも、アカデミア派とよばれる哲学者たちのほうが他の哲学者たちよりも賢明であったという考えがまたわたしにおこったからである。かれらはどんなことについても疑われねばならぬと考えて、どんな真理も人間によってはとらえられることはできないと考えていた。すなわち、わたしは、かれらの真意をまだ理解していなかったけれども、かれらは、一般に信じられているように、それが明らかにほんとにかれらの説であったと考えていたわけである。また、わたしは、先に述べた宿の主人が、マニ教の書物のいたるところに見られる偽りごとをひどく信じているのをみて、それをおおっぴらにすてさせようとした。それでもなお、わたしは、この派に属さない他の人たちとよりも、マニ教徒たちと親しく交わりつづけていた。もっとも、わたしは、以前のようにその派を弁護しなかったが──かれらの仲間は当時多数口ーマにかくれていたからである──かれらと親しく交わっていたので、わたしは何か別のものを求めることを怠るようになった。とくに、わたしは天地の主よ、見えるもの、見えないものすべての創造主よ、あなたの教会のうちに真理が見出され得るという望みを失っていた。わたしを真理から背かせていたのはマニ教徒なのである。そしてわたしは、あなたが人間の肉の形をもって、われわれの肢体の形体的な輪郭によってかぎられているということを信ずることは、まことに恥ずべきことのように思った。そしてわたしは、わたしの神について思いめぐらそうとしたとき、形体の集積しか考えることはできなかった。そうでないものは何でも存在しないように思われたからである。そしてこれこそ、わたしが避けられなかった誤りの最大の、ほとんど唯一ともいってよい原因であった。
 二〇、そういうわけで、わたしは、悪にもこの種のある実体があって、人びとが地とよぶ粗大なものであろうと、あるいは気体がそうであるように、微細で精妙なものであろうと、いやおうなしに醜いかたまりをもつものと考えるようになった。そして人びとの想像によると、微妙で精妙なものが先の地を這いまわる悪しき霊をいうのであった。そしてわたしの信仰はまだ大したものでなかったけれども、善なる神が何か悪い本性のものをつくられたとは考えられなかったので、わたしはたがいに対立する二つのかたまりを考えて、両方とも無限であるが、悪いものは力狭く、良いもののほうは広いと考えた。そしてこの破滅的な発端からその他の瀆神的な考えがわたしにおこってきた。すなわち、わたしの魂はカトリックの信仰にたちかえろうとするごとに押し戻されたが、わたしがカトリックの信仰と考えていたものはじつはそうではなかった。わたしの神よ、あなたに向かって「あなたのあわれみを告白する」が、あなたがすべての方面において人間の身体の形態に限られていると考えるよりも、悪の集積があなたに対する一つの方面においては限られていると認めねばならぬとはいえ、他の諸方面においては限られていないと信ずるほうが敬虔であるようにわたしには思われた。また、わたしが考えていたような悪の本性があなたに由来すると信ずるよりも、あなたは如何なる悪をも創造されなかったと信ずるほうがわたしにはすぐれているように思われた。無知なわたしには悪は実体であるばかりか、物体的実体であるように思われた。わたしは、精神でさえ、微細であるけれどもしかも空間にひろがる形態としてのほかは考えることができなかったのである。わたしは、あなたの独り子であるわたしたちの救い主でさえり、あなたの燦然と輝く物質の固まりから、わたしたちの救いのために発せられたものであるかのように考え、わたしの妄想したもののほかは何もキリストについて信ずることができなかった。それゆえ、キリストのそのような本性が処女マリアから生れるためには、キリストが肉と混合しなければならぬと考えた。そしてわたしがそのようなものであると想像していたものが、肉と交わりながらしかも汚されないということは、わたしにとって不可解であった。そんなわけで、わたしは肉によって汚れたものを信ずる破目に陥らないために肉において生れたものを信ずることを忘れた。いま、あなたに属する霊的な人びとがこの告白を読むなら、労わりと愛の心をもってわたしにほほえむであろう。しかし、わたしはじっさいそのような人間であった。

第六巻

母モニカもかれのあとを追うてミラノに到着する。かれは三十歳になったが、アンブ口シウスの説教をきいて、マニ教徒が虚偽の非難をしていたカトリックの真理を次第によく理解するようになる。友人アリピウスの性情を述べ、よい生活に入ろうと努めていたが、再び古い罪に陥り、たえず死と審判の恐怖におびやかされる

第一章

もはやマニ教徒ではない。しかしまだカトリック教会の信者でもない。母モニカが後を追って来る

 一、「わたしの幼少の頃からの望み」よ、あなたはわたしにとってどこにいらしたのであるか、どこへ退いていられたのであるか。あなたは、わたしを創り、わたしを四足獣と異なるものとし、わたしを空飛ぶ鳥よりも賢いものに造られたのではないか。そうであるのに、わたしは、闇のなかを、滑りやすい道を歩き、あなたをわたしの外にたずね求めて、「わたしの心の神」を見出さなかった。わたしは、「海の深い底」に沈んでいたのであって、真理の発見に疑いをいだき、その望みを絶っていた。そのとき、わたしの母は堅い信仰をいだいて、もうわたしのもとにきていた。母は、海山越えてわたしのあとを追い、どんな危険にあっても、あなたにたよって安心していた。すなわち、海難にあったさいにも、深海になれない旅人たちが不安に立ちさわぐと船員たちがこれを慰めるのがつねであったのに、母は、かれらに安着をうけあって、船員たちを慰めるのであった。それというのは、あなたがこのことを、まぼろしによって母にうけあわれたからである。さて、母がきてみると、わたしは、真理の発見に絶望して、重大な危険におちいっていた。しかしそれにもかかわらず、わたしは、もはやマニ教徒ではないがだからといってカトリックのキリスト者でもないと母に告げたとき、母は、何か思いがけないことを聞いたかのように、喜んで躍り上るようなことはなかった。母は、かつて心配していたわたしのみじめさについては、もう安心していたからである。すなわち、母は、そのみじめさのうちにわたしが死んでいたかのように、よみがえりを求めて、あなたに泣いて祈り、心の思いの棺台にのせたのであって、それはあなたが寡婦の息子に向って、「若者よ、わたしは、おまえにいう、起きよ」と語られ、そして若者がよみがえり、物言い始め、あなたが若者をその母に引き渡して下さることを願ってであった。そういうわけで、母は、日々あなたに泣いて願っていたことがもうそれほどまで成就して、わたしはまだ真理には到達していないが、すでに虚偽から脱出していると聞いても、沸き立つ喜びに心をゆり動かされはしなかった。それどころか、母は、すべてを与えると約束なさったあなたが残りのものをいつか与えることを確信していたから、落ち着きはらって、自信満々で、わたしに答えて、母はこの世から身罷る前に、わたしをカトリックの信者として見ることを、キリストにおいて信ずるというのであった。母がわたしに語ったのは、これだけであったが、あわれみの泉よ、あなたにむかって、母はますます熱心に祈り、しきりに涙を流して、あなたが援助を速かにし、「わたしの闇」を照らして下さることを願った。そして母は、ますます熱心に教会に詣でて、「永遠の生命の湧き出る泉」であるアンブロシウスの言葉に耳を傾けた。母は、この人を、あたかも「神の御使のように」したっていた。それというのは、母は、わたしがこの人のためにしばらく不安定な動揺におちいっていたことをよく知っていたのであり、それを経て、わたしが、医師たちが危篤とよぶ、いわば激烈な発作によって、もっと緊迫した危険を通り抜けて、病気から健康になることを確信をもって予期していたからである。
第七章

アリビウスの性情、競技に熱中するのをやめさせる

 一一、わたしたちは、なかよくいっしょに生活していつもこのようなことを嘆いていたが、わたしは、とくにアリピウスとネブリディウスと親しく語りあった。その二人のうちアリピウスはわたしと同じ町(タガステ)の出身で、上流社会の子弟であったが、わたしよりも年少であった。わたしがはじめて故郷の町で教えたとき、かれはわたしのもとで学び、その後カルタゴに移ってからもわたしについて学んだ。かれはわたしを善良で博学であると思ってわたしを大いに慕った。わたしもまた、かれの年少であるにかかわらず立派な徳の現われている人としてかれを愛していた。ところが、カルタゴ人の風習の渦巻は、あの馬鹿げた見世物も繁昌していたが、かれを競技場の狂乱のうちにのみこんだ。かれがあわれにもその渦中にあって悲惨な目にあっていたとき、わたしはカルタゴの公立学校で弁論術を講じていたが、わたしとかれの父との間に起こったある種の反目のために、かれはまだわたしの講義をきいてはいなかった。わたしは、かれが競技に夢中になっていることを知り、かれがこのように多望な前途を失おうとしているのを、というよりもすでに失ったのをみてひじょうに心配した。しかしわたしは友人としての行為によっても、教師の権威によっても、かれを戒め、かれを正道に呼びもどす術はなかった。というのは、わたしは、かれも父と同じように、わたしに対して悪感情をいだいていると考えたからである。ところが、じつはそうではなかった。それでかれはこの問題については、父の意見に頓着せずにわたしの教室にはいってきて、わたしに一礼し、しばらく講義を聞いては立ち去るようになった。
 一二、ところが、わたしはかれがつまらぬ遊びに耽溺して、せっかくの才能を台無しにしないように忠告することを忘れてしまった。しかし主よ、あなたの創造されたすべてのものの舵をとってみちびかれるあなたは、将来、あなたの息子のうちであなたの秘跡をつかさどるものとなるかれのことを忘れなかった。そしてあなたは、かれの改俊があなたのおかげであることが明らかであるように、わたしを通じてかれを改俊させたが、しかしわたしはそれを知らなかった。すなわち、ある日のこと、わたしがいつもの席について、学生達と向かいあっていたとき、アルピウスははいってきて一礼し、着席してわたしの教えていることを謹聴した。わたしはたまたま、聖書の一節を講義していたが、それを説明するために競技場の例を用いることが適切であると思った。わたしがそれを用いたのは、わたしの述べようとすることに興味をそそって、それを平明にするためであったが、わたしはかの競技場の狂気にとりつかれている人びとを痛烈に嘲笑した。わたしたちの神よ、あなたが知られるように、そのときアリピウスをかの疫病からいやそうとは思わなかった。ところが、かれはわたしの言葉を身にあてはめて、わたしがそれをいったのは、まったく自分のためであると思った。そして他人であったなら、それを聞いて、わたしに対して憤るはずのものを、この正直な青年は、自分に対して憤り、ますます熱烈にわたしを慕うようになった。それというのも、あなたはとうの昔に、「知恵あるものを責めよ、そうすればかれはあなたを愛するであろう」といわれて、あなたの書物のうちに書きこまれたからである。しかし、わたしがかれを責めたのではなく、すべての人を、それと気づく人をも、気づかぬ人をも善用されるあなたが、その心得られる秩序──しかもそれは正しい秩序である──にしたがって、わたしの心と舌とから「燃えさかる炭火」をつくりそれによってかれの多望であるがしかも衰弱しつのある精神に点火して、これをいやそうとされたのである。あなたのあわれみを心にかけないものは、あなたの賛美をやめるがよい。しかしわたしは心の底からあなたにあわれみを感謝する。じっさい、アリピウスは、かのわたしの言葉を聞くやいなや、わざとおちこんで不可解な快楽によって盲目になっていたその深い穴から飛び出し、かたく節制を決心して、競技場の汚れを拭いさって、もはや二度とそこに足を踏み入れることはなかった。それからわたしについて学ぶことができるように、それを好まない父を説きふせたが、父はかれの意に従って許可した。こうしてアリピウスは再びわたしの講義をきくようになって、わたしとともにマニ教の迷信につつまれたのであるが、マニ教徒のみせかけの節制を尊重して、それを真実で純正な節制と考えていた。しかし、それは人を惑わす節制であって、まだ徳性の頂上を極めることを知らずに、その表面によって、しかも偽りの徳性のうわべによって敷かれる貴重な魂をとりこにした。


第八章

アリビウスがふたたび競技場の誘惑に陥る

 一三、かれは、両親からたえず言い聞かされていたこの世の立身出世の道を捨てずに、法律を学ぶために、わたしよりもさきにローマに来ていたが、この地で剣闘士の見世物に信じられないほど熱中して、信じられないほど夢中になった。すなわち、かれはこのような見世物をいみきらって、そこに足をむけなかったが、たまたま、昼食から帰りがけの友人や同級生に途中で出会った。かれははげしく抵抗したが、かれらはなれなれしく腕ずくで残酷で血腥い催しが行なわれている競技場へかれを連れて行った。アリピウスはかれらに、「君たちは、僕の身体をあそこに引っばっていっても、僕の心と目をあの見世物にむけることはできない。僕はあそこにいっても行かないのと同様である。君たちにも見世物にも勝つだろう」といった。かれらはそれを聞いても少しも頓着せず、かれにそんなことができるかどうか試そうと思ったのであろう、かれを競技場まで連れていった。かれらがそこについて、あいていた席に腰を下ろすと満場は狂暴な快楽でわきかえっていた。アリピウスは、瞼を閉じて心がこのような悪事にむかっていくことを禁じた。ついでに耳をふさいだらよかったのに。というのは一人の闘士がたたかって倒れ、全観衆のすさまじい叫び声がはげしくかれの耳をうったとき、かれは好奇心に打ち負かされて、それが何であろうとそれを軽蔑し、克服しようと心構えしているかのように目を開いた。するとかれが見ようと思った闘士が体に受けた傷よりももっと重い傷を心に受け、たおれた闘士よりももっと悲惨な姿で倒れた。観衆の叫び声は、かれの耳からはいってかれの目を開かせたが、勇敢というよりもむしろむこうみずであったかれの心は、打ち倒された。かれの心は、あなたにたよるべきであったにもかかわらず、自分をたよりにしていただけ弱かった。かれは、競技場の血を見るやいなや、残忍の盃を飲みつくし、目をそむけずにそれを凝視し、狂暴を飲みほしながら、それに気付かず、醜悪な競技を見て満足し、血なまぐさい快楽に酔いしれた。かれはもはや、ここに来たときのかれではなく、かれを迎えいれた群衆の一人であり、かれを誘ったもののほんとうの仲間となった。もうこれ以上、語ることがあろうか。かれは眺め、叫び、興奮し、そこから熱狂をたずさえて家に帰った。この熱狂はかれをそこに連れこんだ仲間といっしょに来るばかりか、かれらの先に立って、また他の連中をも引き連れて、競技場にくるほどであった。しかしながら、あなたは、もっとも強く、もっとも慈悲深い御手をもってかれをそこから引き出し、かれに自分にたよらずあなたにたよることを教えられたが、しかしそれはずっと後のことであった。

第七巻

壮年時代のはじめ、三十一歳のときを回想して、次第に迷いから解放されるが、神をまだ物体のように考える。ネブリディウスのマニ教論駁の議論に教えられるところが多い。自由意志が悪の根源であることを悟って、マニ教の邪説を斥けるが、カトリック教会の教えを全面的に承認することはできない。占星術を信ずることもやめたが、悪の起源について煩悶する。プラトン派の書物を読んで言葉の神性を説く教えの萌芽を認めたが、まだキリストが仲保者であることを悟らない。しかし疑念はすべて、聖書を、とくにパウロを読んで、一掃される

第八巻

三十二歳のときのことである。ある日、シンプリキスを訪ねて、ウィクトリヌスの回心をきき、神に一身をささげようとしたが、古い習慣にとらえられて決心することができない。その後、ポンティキアヌスから、エジプトの修道僧アントニウスの修道生活と、回心した二人の廷臣のことをきいて、強く心を動かされる。霊肉のはげしい闘争ののち、天来の声をきいて聖書を開き、アリピウスとともに回心する。こうして母の見た幻は現実のものとなる

第九卷

一生を神にささげようと決心して、弁論術の教師を人目につかぬ間にやめようとする。友人ウェレクンドゥスの別荘に退いて、受洗にそなえる。やがてミラノでアリピウスとアデオダトゥスとともに洗礼を受ける。ときに齢三十三。同じ年、アフリカに帰る途中、母モニカはオスティアで病死する。この敬虔な愛情深い母の一生は、孝子の筆によってもっとも美しく画かれる
第十三章

母のために祈る

〔…〕

 三七、それでわたしは母が夫とともに安らかであらんことを祈る。母はこの夫とのほかは、前にも後にも結婚したことがなく、夫をもあなたのものとして得るために、「耐え忍んで、あなたに対して実を結びながら」、夫に仕えた。わたしの主よ、わたしの神よ、霊感を与えてください。あなたの僕たちに、わたしの兄弟に、あなたの子らに、わたしの主らに、わたしはかれらのために、心と声と文字とをもって仕えるのであるが、霊を吹きこんでください。そして、この告白の書を読む人びとが、あなたの祭壇においてあなたの婢女モニカとそのしばしの夫パトリキウスのことを、思い起こしてくれるように、あなたはこの二人の肉体によって、わたしをこの世に引き出された。どうしてであったかは、わたしは知らない。願わくは、この書を読むすべてのものに、ごの移り行く世の光においては、わたしの母であり、カトリック教会という母においては、あなたを父とするわたしの兄弟であり、あなたの漂泊する民が国を出て帰るまで慕いあえぐ永遠のエルサレムにおいては、わたしと同じ市民である二人のことを、敬虔な心をもって想起させてください。このようにして、わたしの母がいまわのきわに、わたしに願い求めたものが、ただわたし一人の祈りによるよりも、多くの人びとがわたしの告白を読んで祈りをささげることによって、もっと豊かに母のために与えてください。

第十巻

前巻までは、もっぱら過去の生活を語ったが、この巻はその現在の告白、すなわちヒッポの司教としての自己観察、自己批判である。まず、神と幸福な生活をたずねて、記憶の能力に到り、精緻な分析によってその本性を究める。ついで、誘惑を肉の欲、目の欲、この世の高慢の三つに分って自己の行為、思想、欲情を吟味する。最後に、キリストこそ、神と人との唯一の仲保者であり、その扶助によってのみ、すべての魂の病がいやされることを知る


第三十八章

虚栄と自惚うぬぼれは最大の危険である

 六三、「わたしは貧しく乏しい」。わたしはひそかに嘆息しながら自分に不満を感じて、あなたのあわれみを求め、ついにわたしに欠けているものが満たされ、まったくされて高慢な人の目には見えない平和に到達するのが最善である。しかし口から出る言葉と人びとに知られる行為とには、称賛を愛する心から生ずるきわめて危険な誘惑がつきまとっている。この欲求はわたしたち自身の優越を確立しようとして、他人の賛成を乞い求め、それがわたし自身においてわたしによって非難されるときでさえ、わたしがそれを非難するということによってわたしを誘惑する。またしばしば虚栄を蔑むことを、いっそうはなはだしい虚栄をもってすることがある。しかしそのようなときには、虚栄を蔑むことを誇るのではない。虚栄を誇るときには、それを蔑んでいないからである。


第三十九章

自己満足は神の御目に不快である

 六四、内心にはなおそのほかにこれらと同じ種類の誘惑に属する悪が存する。それは他人を喜ばさず、あるいは他人を不快にし、また他人を喜ばそうとも努めないが、しかも自己に満足している人びとかむなしくなる悪である。しかしかれらは自己に満足しているために、あなたを大いに不快にする。かれらは善でないものを善であるかのように喜ぶのみではなく、あなたの善をも自分の善であるかのように喜び、あるいはまたたといあなたの善として喜んでも、それを受けることを自分の功績によるものと考え、あるいはまたたといあなたの恩寵によるものとして喜んでも、それを共有のものと考えずに、他人がそれにあずかることを妬むのである。これらすべてのまたこのたぐいの危険と労苦のうちに、あなたはわたしの心が震え戦いているのをごらんになる。そしてわたしはわたしの傷がもはやわたしに加えられずに、あなたによっていやされていくのを感ずるのである。

第十一卷

聖書について知ることと知らないこととを告白して、神を賛美しようとする。そしてまず「創世記」はじめの解釈にとりかかり、「はじめに神は天地を造られた」ということばを説明する。そして「神は天地創造以前に何をされたか」、また「神はどうして天地を創造するようになったか」という疑問をさしはさむものを退ける。そしてこの問題に関連して、詳細な時間論を展開する


第一章

すべてを知られる神にむかって、なぜわれわれは告白するのか

 一、主よ、永遠はあなたのものであるから、あなたはわたしがあなたに語ることを知られないのであるか。それともあなたは時間のうちにおこることを時間的に見られるのであるか。それではなぜわたしはあなたにこのように多くのことをこまかく話すのであるか。たしかにそれは、あなたがわたしの話によってそれらのことをあなたが知られるためではない。そうではなく、わたしの心持ちとこれを読む人びとの心持ちとをあなたにむかって呼びおこし、わたしたちみながロを揃えて、「主は偉大で大いにたたえるべきである」というためである。わたしは「あなたの愛を愛するから、わたしはこのようなことをする」といったが、もう一度繰り返えしてそういおう。わたしたちは、祈りもするけれども、しかし真理は「あなたがたの父は、あなたがたがかれから求めるまえに、あなたがたの必要とするものを知っておられる」といっているのである。それゆえわたしたちは、あなたにわたしたちのみじめな状態を告白し、「わたしたちに対するあなたのあわれみ」を賛美しながら、あなたにむかってわたしたちの心を打ち明ける。わたしたちがそうするのは、あなたがすでにそうしはじめたからであるが、あなたがわたしたちを完全に解放されて、わたしたちがもはやわたしたちのうちにあわれではなくなり、あなたのうちに幸福になるためである。じっさい、あなたはわたしたちが心貧しく、柔和で、悲しみ、義に飢え渇き、あわれみぶかく、心清く、平和をもたらすものとなるように、わたしたちに呼びかけられたのである。それでわたしは、現に、わたしが語ることができ、語ることを欲する多くのことをあなたに語った。主よ、わたしの神よ、あなたがまずわたしに語ることを欲せられたからである。「あなたは恵み深く、あなたのあわれみは永久に絶えることがない」からである。
第十四章

時間の三つの相違

 一七、それゆえ、時間そのものもあなたが造られたのであるから、あなたがあるものを造られなかったような時間はけっして存在しない。あなたは恒常であるから、どんな時間もあなたとひとしく永遠であることはない。もしも時間が恒常であるなら、それは時間ではないであろう。それでは時間とはいったいなんであるか。だれがそれを容易に簡単に説明することができるであろうか。だれがそれを言語に述べるために、まずただ思惟にさえもとらえることができるであろうか。しかし、わたしたちが日常の談話において、時間ほどわたしたちの身に近い熟知されたものとして、語るものがあるであろうか。そしてわたしたちは時間について語るとき、それを理解しているのであり、また、他人が時間について語るのを聞くときにもそれを理解している。それでは、時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。しかもなお、わたしは確信をもって次のことを知っているということができる。すなわちなにものも過ぎ去るものがなければ、過去という時間に存在せず、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在という時間は存在しないであろう。わたしはそれだけのことは知っているということができる。しかし、それではかの二つの時間、すなわち過去と未来とは、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないのであるから、どのようにして存在するのであろうか。また、現在もつねに現在であって、過去に移りゆかないなら、もはや時間ではなくして水遠であるであろう。それゆえ、現在はただ過去に移りゆくことによってのみ時間であるなら、わたしたちはどうしてそれの存在する原因がそれの存在しないことにあるものを存在するということができるであろうか。すなわち時間はただそれが存在しなくなるというゆえにのみ存在するといって間違いないのではなかろうか。


第十五章

時間の長短について

 一八、それにもかかわらず、わたしたちは長い時間とか短い時間とか口にする。そしてそういうことを言うのは、ただ過去のものと未来のものについてのみである。たとえば、わたしたちは百年前を長い過去の時とよび、同じように百年後を長い未来の時とよぶ。同じようにまた、たとえば十日前というようなものは短い過去とよび、十日後というようなものは短い未来とよぶ。しかし、存在しないところのものは、どのようにして長く、あるいは短くあることができるであろうか。じっさい、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないからである。それゆえ、わたしたちは過去については「長くある」というべきではなく、「長かった」というべきであり、未来については「長くあるであろう」といわねばならぬであろう。わたしの主よ、「わたしの光」よ、あなたの真理はこのばあいにも人間を嘲笑しないであろうか。その長い過去の時間は、それがもはや過ぎ去ったときに長かったのであろうか。それとも、なお現存したときに長かったのであろうか。じっさい、それは長くあるところのものであったときに、長くあることができたのである。しかし、過ぎ去ったときにはもはや存在しなかったのであり、したがってまったく存在しなかったものは長くあることもできなかったのである。それゆえ、わたしたちは「過去の時間が長かった」といってはならないであろう。じっさい、わたしたちは過去について長かったものを見出さないのである。それは過ぎ去るやいなや、存在しないからである。わたしたちはそういうよりはむしろ「あの現在の時間が長かった」というべきであろう。それはただ現在であったそのとき、長かったからである。じっさい、それはまだ存在しなくなるために、過ぎ去ってはいなかった。そのゆえに、長くあることのできるものであったからである。しかし、それは、過ぎ去ったのちは長くあることもなくなった。それはまったく存在しなくなったからである。
 一九、それでは、人間の魂よ、わたしたちは現在の時間が長くありうるかどうかを考察してみよう。お前は時間の長さを知覚して、それを測る能力が与えられているからである。さて、お前はわたしにどう答えるのであるか。百年は、現在であるとき長い時間であるのであろうか。しかし、それよりもまず、百年が現在であることができるかどうかを考察してみよう。百年のうち、最初の年が経過しているとき、その一年は現在であるが、しかし他の九十九年は未来であって、したがってまだ存在しない。つぎに第二年が経過するとき、さきの一年はすでに過去であり、次の一年は現在であり、他の年は未来である。このように、この百年という年のどんな中間の年をとってみても、その年以前のものは過去であり、その年以後のものは未来であるであろう。それゆえ、百年という年は現在であることはできないであろう。しかし、それはとにかくいま経過している一年が現在であるかどうかを考察してみよう。その場合にも、その最初の月が経過しているなら、他の月は未来であり、それからまた次の月が経過しているなら、最初の月は過ぎ去っており、他の月はまだ存在しないのである。それゆえ、いま経過している一年もまた、全体として現在であるのではない。そして全体として現在でないなら、その一年は現在であるのではない。じっさい、一年は十二ヶ月であり、そのうち現に経過しているある一月が現在なのであって、他の月は過去か未来かであるからである。しかもなお、その経過している一月も現在ではなく、ただ一日が現在なのである。最初の一日が現在であるなら、他の日は未来であり、最後の一日が現在であるなら、他の日は過去であり、また中間の一日が現在であるなら、それは過去と未来との間にあるであろう。
 二〇、いったいどうであるのか。わたしたちがこれだけは長いということができると思った現在という時間は、ただ一日の長さしかもたないのである。しかし、わたしたちはこの一日というものを検査してみよう。一日も全体として現在ではないからである。一日は昼夜二十四時間のすべてから成り立っているが、その最初の一時間は他の時間を未来としてもち、その最後の一時間は他の時間を過去としてもち、そしてまた、中間の一時間はそれに先立つ時間を過去としてもち、そしてまたそれに続く時間を未来としてもっている。そしてこの一時間もまた、時々刻々に過ぎ去るのであるが、そのうちすでに飛び去ったものは過去であり、それに残っているものはみな未来なのである。もしもどんな部分にも、もっとも微小な瞬間の部分にさえも分たれることのできないような時間が考えられるなら、そのような時間こそ現在とよばれることができるのであろうが、しかし、それは大急ぎで未来から過去に飛び移るのであるから、束の間も伸びていることができない。もし少しでも伸びているなら、それは過去と未来とに分たれるであろう。しかし、現在はどんな広がりもどんな長さをももってはいない。それではわたしたちが長いということのできる時間はどこにあるのであろうか。それは未来であるのであろうか。わたしたちは未来については、長くあるとはいわない。長くあることのできるものは、まだ存在しないからである。わたしたちは、未来については、長くあるであろうというのである。それでは、未来はいつ長くあるのであろうか。もしもそれがなお未来であるときであるなら、それは長くあることはないであろう。長くあるところのものはまだ存在しないからである。しかし、またそれがまだ存在しない未来から、すでに存在しはじめて現在となる──長くあるところのものが存在するようになる──ときであるとするなら、現在はすでに上に述べたように、長くあることはできないと叫ぶのである。
第二十二章

この謎の解決を神に乞い求める

 二八、わたしのはこのようにこみいった謎を解くことを熱望した。主よ、わたしの神よ、やさしい父よ、閉されるな。わたしはキリストによって嘆願する。わたしの願望に、それらの日常的でありながら、しかもかくれた謎を閉されるな。それらのものを洞察することを妨げることなく、主よ、あなたの心の光によって、それらのものを明らかにしてください。わたしはだれにこれらのことについてたずねるのであろうか。だれにわたしの無知を告白して、得るところがあるのであろうか。それは、このようにはげしく、あなたの聖書にむかって燃えたつわたしの熱心を厭われないあなたでなくしてだれであろうか。わたしが愛するものを与えてください。わたしは愛し、この愛するということもあなたが与えられるのであるからである。まことに、「あなたの子らによき贈りものを与えることを知っておられる父よ」、与えてください。わたしは認識するという仕事を引き受けたのであるが、あなたが開示されるまでは「労苦はわたしのまえにある」からである。わたしはキリストによって、この聖者中の聖者なるかれの名において、だれもわたしを妨げないように嘆願する。「わたしは信じた。そのゆえにこそ語るのである」。「主の喜びを見る」ことがわたしの希望であり、わたしはそれにしたがって生きるのである。「ごらんください。あなたはわたしの日々を古いものにされた」。それらは過ぎ去るのであるが、どのようにしてであるかは、わたしは知らない。またわたしたちはしばしば時とか時間とかいうことを口にする。そしてかれがこのことをいってから、どれほどになるとか、このことをしてからどれほどであるとか、またどれほどの間それを見ないとか、この音節はあの短い音節の二倍の時間であるとかいう。わたしたちはこのようなことを語り、他人のいうのを聞き、わたしたちは他人に理解され、わたしたちも理解するのである。これらはもっとも普通のことであってもっとも明瞭なことであるが、しかもこの同一のことがまたもっともかくれていて、その真相はまだ見出されない。
第二十九章

時間における分散から神における統一への復帰を乞いねがう

 三九、しかしあなたのあわれみは、生命にまさるのであるから、どうであろう、わたしの生命は分散なのである。しかしあなたの右手はわたしをわたしの主において、すなわち一なるあなたと多なる──多によって多となれる──わたしたちとの間の仲保者である人の子において、支えられたのであるが、それはわたしがかれによってわたしがすでに捉えられたものにおいて捉え、わたしの以前の行状から呼び戻されて、一なるものを追い求めるようになされたのである。そしてわたしは過去のものを忘れ、まさに来って過ぎ去ろうとするものにむかってではなく、前にあるものにむかって分散せずに緊張し、分散をやめて一心不乱に天国への召命の褒賞を得ようと追い求めるのであるが、そこにおいてわたしはあなたの賛美の声を聞き、来ることも過ぎ去ることもないあなたの喜びを眺めることができるであろう。しかしいまはなおわたしの年は嘆きのうちにある。主よ、あなたこそわたしの慰めであり、わたしの永遠の父である。しかるにわたしは、その秩序を知らない時間のうちに飛散し、わたしの思惟はわたしの魂の最奥まで喧噪をきわめる雑多によって切り裂かれている。そしてついにわたしがあなたの愛の火によって浄化され、融解されてあなたのうちに流れ込むまでそのような状態にあるのである。

第十二巻

前巻にひきつづいて、「創世記」巻頭の「はじめに神は天地を造られた」という句を解釈する。それによれば、「天」というのは、たえず神によりすがって、つねにその顔を仰ぐ知性的な霊的被造物のことであり、「地」というのは、まだ、形態をもたない質料のことであり、それからのちに、物体的な被造物が形成されたのであると考えられている。しかし他の諸種の解釈も退けられるべきではなく、それらはみな聖書の無限の深さのうちに包容される

第十三卷

前巻にひきつづいて「創世記」第一章巻頭の解釈、すなわちまず神の善なる性質は、被造物の創造と完成とのうちに認められ、神の三位一体と聖霊の本質とは、「創世記」冒頭の諸句によって証明される。ついで世界創造の記事は比喩的に説明されるのであるが、そのうちに神が教会において人間の救いと聖化のためになされるところの象徴がみられる。そして最後に神から永遠の休息を求めて、告白を終わる
第三十五章

平和を祈る

 五○、「主よ、神よ、わたしたちに平和を与えてください。すべてのものはあなたがわたしたちに与えてくださるのであるから」。安静の平和を、安息日の平和を、夕のない(安息日の)平和を与えてください。じっさい、「はなはだ善である」これらのものの美しい秩序はみな、その定められた限界に到達するとき、消失するであろう。それらのものには朝もあり、夕もあるのである。
第三十八章

神とひととはものの見方が異る

 五三、それゆえ、わたしたちは、あなたが造られたそれらのものを、それらが存在するから見るのであるが、しかしそれらのものは、あなたがそれらを見られるから存在するのである。わたしたちは、それらが存在するのを外的に見、それらが「善である」のを内的に見るのであるが、しかしあなたは、それらのものが造られるべきであるのを見たとき、すでに造られてあるのを見られたのである。わたしたちは、わたしたちの心があなたの聖霊によって身ごもったのち、善をなすように動かされるのであって、それ以前はあなたを見捨てて、悪をなすように動かされていたが、しかし唯一の善なる神よ、あなたはけっして善をなすことを止められなかった。わたしたちの業のあるものは、あなたの賜物のゆえに善ではあるが、しかしそれらは永遠なのではなく、わたしたちはそれらの業をなし終えたのち、あなたの偉大な聖化のうちに休息することを希望する。しかしあなたは、なんらの善をも欠かない善であって、あなた自身があなたの休息であるから、つねに休息されるのである。人びとのうちだれがこのことをひとに理解させるであろうか。どんな天使が天使に理解させるであろうか。どんな天使がひとに理解させるであろうか。あなたから乞い求めなければならない。あなたのうちに尋ねなければならない。あなたにむかって叩かなければならない。そうしてこそ、そうしてこそ与えられるであろう。そうしてこそ見出されるであろう。そうしてこそ開かれるであろう。

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