トルストイ『要約福音書』

緒言

 予はまた、各章の冒頭において、内容の簡単な定義以外、キリストが弟子達に教えた祈りの中で、各章に適応した言葉をも抜粋して置いた。
 自分の仕事を終わるに当って、予の驚きかつ喜んだのは、主の祈りが、予の配列した各章の順序と全く同一の順序で、最も緊縮されたる形式でキリストの全教義を言い現わしたものに外ならないことと、祈りの一句一句が各章の意味と順序とにぴたりと適合していることとを見出したことであった。

一、われらの父よ、人は神の子である。
二、天に在すところのもの。神は生命の無限なる霊的本源である。
三、汝の名を崇めしめ給え。この生命の本源は神聖なるべし。
四、汝の王国を来たらしめ給え。彼の権力は万人の中に実現するであろう。
五、汝の御意 (みこころ) の天に成るが如く、この無限なる本源の意志が、彼自身の中に行われる如く、
六、地にも成らせ給え。肉体にも行われるであろう。
七、われらに日々の糧を与え給え、一時の生命は真の生命の糧である。
八、今日も。真の生命は現在にある。
九、われらがわれらに負債 (おいめ) ある者を赦すが如く、われらの負債をも赦し給え。然らば過去の過失と誤解とが、われらからこの生命を覆い隠さないであろう。
十、われらを誘惑に導き給うことなかれ。然らばわれわれを虚偽に導くこともないであろう。
十一、われらを悪事より救い給え。その時には邪悪もなくなるであろう。
十二、国と力と栄えとは汝のものなればなり。汝の権力と力と理性とが来るであろう。

 本書の原本における第三部の解説中には、四福音書の筆者によって説かれた福音は、些の脱漏もなく叙述されてある。が、この要約では次の詩句は省略した──すなわち、洗礼者ヨハネの受胎と出生、彼の禁獄と死、キリストの出生、その系図、母を伴ってのエジプト脱出、カナとカペルナウムにおけるキリストの奇蹟、悪魔の放逐、海上の歩行、無化果樹の乾燥、病人の治癒、死者の甦り、キリスト自身の復活、及びキリストの生活において成就された預言の指示等である。
 予はキリスト教に対しては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、──一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。予がキリスト教へ導かれたのは、神学的研究でも歴史的研究でもなく、五十歳の時、われとは何ぞ、わが生の意義は那辺にありやと言うことについて自ら訊ね、また周囲のあらゆる賢人達に訊ねて、汝は原子の偶然な結合であるという答えを得たことによってである。人生に意義はない、人生そのものが悪である、──こうした答えを得たことによって、予は絶望に陥り、自ら殺さんとまでしたのだったが、その時、昔自分が信仰を持っていた子供の時分には、人生が自分にとって意義のあったこと、及び、予の周囲の信仰を持っている人々、──大部分富貴によって堕落せしめられていない人々、──は信仰を失わず、人生の意義を獲得していることを思い出して、予は予に与えられた周囲の賢人達の解答の真実性に疑念を抱くに至ったのである。そして、キリスト教が人生の意義を理解する人々に与えている解答を、改めてしらべて見る気持ちになったのである。そこで予は、キリスト教の中の何が人々の生活を指導しているのかという方面について、その教義の研究を始めた。予は、予が実生活においてその適用を目撃したキリスト教を研究し始めて、この適用とその源泉とを比較対照して見た。
 キリスト教の源泉は福音書であった。そして予はその福音書に、すべての生ける人々の生活を指導する意義の説明を発見した。
 元来予は人生問題に対する解答を求めたのであって、神学上の問題や、歴史上の問題の解答を求めたのではなかったので、予にとっての主要な問題は、イエス・キリストが神であるかないか、聖霊は誰から生じたかなどということにあるのではなく、同時にまた、いつ何人の手によってどんな福音書が書かれたとか、どんな比喩はキリストの言ったものだとか、そんなことはあり得ないとか言うようなことを知ることも、同様重要でもなければ、必要でもないのである。予にとって重要なのは、千八百年間人類を照らし、過去において予を照らし、現在また照らしつつある、この光そのものである。しかし、この光の根源を何と名づくべきか、その要素が何であるか、また何人の手で点火されているものであるか、──こういうことは予にとってどうでもよろしいのである。
 もし福音書が今日発見された書物であるなら、またキリストの教えが千八百年間虚偽の解釈を加えられていなかったとするなら、この緒言はこの辺で止してもよろしい。けれども今キリストの教えを正しく理解するためには、これら虚偽な解釈の主たる基礎を明らかに知っておく必要があるのである。今日われわれにとって最も習慣的となり、分かち難いものとなっている虚偽の基礎とも言うべきは、キリスト教の名の下にキリストの教えならざる教会の教え──キリストの教えの極めて一小部分が含まれているに過ぎない、矛盾極まる文書の説明から成り立って、他の文書の説明の要求の下に歪められ折り曲げられている教会の教えが宣伝されている一事の中にあって存するのである。この虚偽の解釈によれば、キリストの教えとはただ単に、世の初めから始まって今日まで教会の中に続いている啓示の鎖の環の一つに過ぎないのである。これら虚偽の解釈者達は、イエスを名づけて神と呼んでいるが、しかし彼を神として認めることは、彼らをして、神のものたる言葉や教義に、モーゼの五書、詩篇、使徒行伝、書簡、黙示録、その他寺院の規定や教父達の文書以上すらの意義を与えざらしめることになるのである。
 これら虚偽の解釈者達は、イエスの教えに対して、それ以前及びそれに続く一切の啓示と一致する以外の解釈を許していない。これは彼らの目的が、キリストの教えの意義を説明することにあるのでなくて、ただ互いに矛盾を極める各種の文書、モーゼの五書、詩篇、福音書、書簡、行伝等、すなわち一般に神聖視せられている一切の書物の間に、なるべく矛盾の少ない意義の一致点を見出すことにあるからである。
 かく真理でなく、調和し得ざるものの調和、すなわち新約旧約両種の文書の調和を目的とした解釈が、数において無数であるのは自明の理で、事実またそうなのである。パウロの書簡、『われらと聖霊の名によって』という形式で書き出されている寺院の規定、皆それである。ローマ法王、宗教会議、鞭打教徒その他、彼らの口を通して聖霊が語るものと断言して憚らない一切の虚偽な解説者の規定も、皆それである。彼らはすべて皆、己が解釈の真実性を確かめるに当っては、彼らの解釈は人間のそれでなく聖霊のそれであるという、粗雑な常套手段を利用しているのである。

福音書

 神の子イエス・キリストの福音

はしがき 生命の悟り

 イエス・キリストの福音は外面的神に対する信仰を、生命の悟りとかえた。
 神の子イエス・キリストの福音。(マルコ1:1)
 この福音はすべての人々をしてイエスの神の子なるを信ぜしめて、彼らの真の生命を得せしめんがためである。(ヨハネ20:31)
 万物のもとと初めは生命の悟りである。生命の悟りは神である。(ヨハネ1:1)そうしてその悟りは、イエスの教えによれば、すべてのもとと初めになるものである。(ヨハネ1:2)
 すべての物は悟りを経て生命に生まれた。悟りなくして生きるものは何ものもあり得ない。(ヨハネ1:3)悟りは真の生命を与える。(ヨハネ1:4)悟り、これは真理の光である。光は暗黒に照る。暗黒は光を消すことはできない。
 真理の光は常に世にあって、世に生まれた諸々の人を照らす。(ヨハネ1:9)光は世にあり、世はただ悟りの光を己がうちに持つことによってのみ生きてきたのである。然るに世はそれを受けなかった。(ヨハネ1:10)光は己が国に来たのに、己の民はこれを受けなかったのである。(ヨハネ1:11)
 ただその悟りを受けた者、──その者だけが、彼の本質を信じることによって、彼と同じものとなる可能性を受けたのである。(ヨハネ1:12)悟りの生命を信じる者は、肉の子とならず、悟りの子となった。(ヨハネ1:13)
 生命の悟りはイエス・キリストとなって、肉の中にわが身をあらわしたのである。そうしてわれらは彼の意味を解した、すなわち悟りの子は、肉における人にして、生命の始めなる父と同じものであるから、父の如く同じく生命の始めであることを。(ヨハネ1:14)
 イエスの教えは完全にして真なる信仰である。(ヨハネ1:15)何となれば、イエスの教えを行うことによって、われらは先にありしものの代りに新しき信仰を得たからである。(ヨハネ1:16)
 律法はモーゼによりて与えられた、されどわれらが真の信仰を得たのはイエス・キリストによってである。(ヨハネ1:17)
 まだ神を見た者はない、またついに見る者はないであろう。ただ父のふところにある子のみが生命に至る道を示したのである。(ヨハネ1:18)

一、神の子

 神の子なる人は肉において弱く、霊によって自由である。
 イエス・キリストの誕生は次の通りであった──
 彼の母マリヤはヨセフと婚約の間であった。然るに、彼らが夫婦として生活を始める前に、マリヤはいつか懐妊していた。(マタイ1:18)ヨセフは善良な男だったので、彼女を辱しめるに忍びなかった──彼は彼女を妻として引き取り、彼女がその最初の子を産み落とすまで彼女と関係せず、その子をイエスと名づけた。(マタイ1:19)
 子供は次第に成長して健やかになり、そして歳に似合わず怜悧であった。(ルカ2:40)
 イエスが十二歳の時だった、ある時マリヤはヨセフと一緒にエルサレムの祭に出掛けたが、そのとき子供を一緒につれて行った。(ルカ2:41,42)祭が終わると、彼らは家路についたが、子供のことは忘れていた。(ルカ2:43)後になって思い出したが、きっと子供同士で帰ったのだろうと考えて、道々彼のことをたずねながら歩いた。が、子供の姿がどこにも見えなかったので、彼らはそれを捜しにエルサレムへ引き返した。(ルカ2:44,45)そして三日目になってやっと彼らは教会内で子供を見つけた。──彼は教師達の傍に坐って、彼らに訊ねたり聴いたりしていた。(ルカ2:46)そして人々は彼の智慧に驚いていた。(ルカ2:47)母は彼を見ると言った──何だってお前はこんなことをしたんだね? お父さんもお母さんもどんなに心配して捜したでしょう。(ルカ2:48)ところが彼が彼らに言うには──だってどこでわたしを捜したのです? じゃあなた方は子は父の家で捜すべきだと言うことをご存じなかったのですか?(ルカ2:49)が、彼らは彼の言葉を解せず、彼が誰のことを自分の父と呼んだのかをも解さなかった。(ルカ2:50)
 その後もイエスは母の家に住み、万事彼女に聴従した。(ルカ2:51)そして歳も智慧もいや増した。(ルカ2:52)人々はイエスをヨセフの子とばかり考えていた。で、彼も三十になるまでそのままで生活した。。(ルカ3:23)
 その頃ユダヤに預言者ヨハネが現われた。(マタイ3:1)彼はヨルダン河のほとりなるユダヤの広野に住んでいた。(ルカ3:3)ヨハネの服は駱駝の毛から織ったもので、それに革の帯をしめていた、彼は樹の皮や草などを常食としていた。(マタイ3:4)
 ヨハネは言った──汝ら悔い改めよ、天国は近づいているのだ。
 彼は人々に、不正を免れんがために生活の変更をすすめ、その更生のしるしとして彼らをヨルダン河で水あびせしめた。(マタイ3:2)彼は言った──声あって汝らに祈っている「森の中に神への道をひらき、その道をならせよ」と。(ルカ3:4)どこにも穴なく山なく、高低のないようにすっかり平らにならすがいい。(ルカ3:5)されば神は汝らの中に来られ、万人皆救いを見出すであろう。(ルカ3:6)
 そこで人々は彼に訊ねた──われら何を為すべきか? と。(ルカ3:10)彼は答えた──着物を二枚持つ者は、持たぬ者に分かち与えよ。食物を持つ者は、持たぬ者に分かち与えよ。(ルカ3:11)取税人達も彼のところへ来てこう訊ねた──われら何を為すべきか?(ルカ3:12)彼は彼らに言った──定まりたるもののほか何も促るな。(ルカ3:13)兵卒達もまた訊ねた──われらはどうしたらよいか? 彼は言った──人を侮辱したり、だましたりするな、そして貰うだけの給料で満足せよ。(ルカ3:14)
 こうしてヨルダンのほとりに住むエルサレム人、及びすべてのユダヤ人は彼の許へやって来た。(マタイ3:5)そして彼の前に己が罪を懺悔した。そこで彼は、更生のしるしとして彼らをヨルダン河で水浴びせしめた。
 正教徒や旧教徒達も、身分を包んでヨハネの許へやって来た。が、彼はすぐそれを看破して言った──蝮の裔よ、汝らは神の御意の避くべからざるを悟ったのか? さらば悔い改めて信仰を変えよ。(マタイ3:7)もし信仰を変えようと思うならば、その成果によって汝が悔い改めたことを分からせるがよい。(マタイ3:8)斧は既に樹の根に置かれたのだ。もし樹が悪い実を結ぶようであれば、伐られて火に投げ入れられるであろう。(マタイ3:10)われは汝ら更信のしるしに汝らを水で清めるけれども、この洗礼のあと汝らはなお霊で清められなければならぬ。(マタイ3:11)霊は汝らを、主人がその納屋を清めんとて麦を集め、穀を焼き捨てるが如くに清めるであろう。(マタイ3:12)
 イエスはヨハネから洗礼を受けるために、ガリラヤからヨルダンへ来た。そして洗礼を受けて、ヨハネの説教に耳を傾けた。(マタイ3:13)
 彼はヨルダンから荒野へ行き、そこで霊の力を悟った。(マタイ4:1)
 イエスは四十日四十夜飲みも食いもしないで荒野で過ごした。(マタイ4:2)
 そこで彼の肉の声が彼に言った。(マタイ4:3)──汝もし全能なる神の子ならば、汝の意志によって石からパンを作ることも出来るはずである。しかしもしそれが出来ないようなら、汝は神の子ではない。(ルカ4:3、マタイ4:3)しかしイエスは自分に言った──もし自分が石からパンを作ることが出来ないとすれば、それは自分が肉なる神の子でなくて、霊なる神の子であることを意味する。自分はパンによらず霊によって生きているのだ。そして自分の霊は肉を軽んずることが出来るのである。(ルカ4:4、マタイ4:4)
 しかし飢餓はやはり彼を苦しめた──そこで肉の声はまた彼に言った──もし汝が霊だけで生きていて、肉を軽んずることが出来ると言うなら、汝が肉を離れても、汝の霊は生きていられるだろう。そこで彼には、寺院の屋上に立っているような気がして、また肉の声が聞こえてきた──もし汝が霊なる神の子であるなら、屋根から飛んでも、死ぬことはあるまい。(ルカ4:9)見えざる力が汝を守り、汝を支えて、一切の害を免れしめるだろう。(ルカ4:10,11)──しかしイエスは自分に言った──自分は肉を軽んずることは出来るけれども、それから離れてしまうことは出来ない、なぜなら自分は霊によって肉体の中に生まれたからである。かくの如きはわが霊なる父の御意である、自分はそれに背くことは出来ない。(ルカ4:12、マタイ4:7)
 その時肉の声は彼に言った──汝もし寺院より身を投げて生命を捨てることによって自分の父に背くことが出来ないと言うなら、食いたくてならない時に飢えることによって父に背くことも出来ないはずではないか。汝は肉の欲を軽んじてはならない。それは汝の中に置かれたものであるから、汝はそれにつかえなければならない。──そこでイエスには、地上のすべての国々とすべての人々が、肉のために生き肉のために働いて、それからの報いを期待していることがはっきり分かった。(ルカ4:5、マタイ4:8)そこで肉の声はまた言った──見よ、彼らはわがために働いている、故にわれは彼らに彼らの欲するものをすべて与える。(ルカ4:6)汝もしわがために働かば、汝にも同じものを与えるであろう。(ルカ4:7)──しかしイエスは自分に言った──自分の父は肉に非ずして霊である。自分は彼によって生きている。自分は常に彼をわがうちに知り、彼ひとりを崇め、彼ひとりのために働き、彼ひとりから報いを期待しているに過ぎない。(ルカ4:8、マタイ4:10)
 そこで試練は止んだ、そしてイエスは霊の力を知った。(ルカ4:13)
 こうして霊の力を知るとともに、イエスは荒野に出て再びヨハネの許に赴き、彼とともに居った。
 そしてイエスはヨハネの許を去ろうとした時に、ヨハネは彼について言った──これこそ人類の救い主であると。(ヨハネ1:36)
 ヨハネのこうした言葉によって、ヨハネの二人の弟子は自分の前の師の許を去って、イエスのあとに従った。(ヨハネ1:37)イエスは彼らの自分について来るのを見て、立ち止まって、言った──何の用であるか? 彼らは彼に言った──師よ! われらは汝と生活を共にして、汝の教えを聴きたいのである。(ヨハネ1:38)彼は言った──では一緒に来られるがよい、何でもお話しするであろう。そこで彼らは彼に従って行き、彼と共に泊まって、十時まで彼の教えを聴いた。(ヨハネ1:39)
 二人の弟子の一人はアンデレと呼ばれた。アンデレにはシモンという兄弟があった。(ヨハネ1:40)イエスの教えを聴いてから、アンデレは兄弟のシモンのところへ行って、彼に言った──われらは預言者達が書いているあのメシヤを見出した、われらの救いをわれらに告げた人を見出した。(ヨハネ1:41)アンデレはシモンを拉して、イエスの許へ連れて行った。アンデレのこの兄弟をイエスはペテロと呼んだ、──すなわち石の意である。かくて、この二人の兄弟はイエスの弟子となった。(ヨハネ1:42)
 その後、ガリラヤへ入る前に、イエスはまたピリポに会って、彼をも自分と一緒に来るように招いた。(ヨハネ1:43)ピリポはベツサイダの人で、ペテロやアンデレと同村の者であった。(ヨハネ1:44)ピリポはイエスを知るとともに、行って自分の兄弟ナタナエルを捜して、彼に言った──われらは預言者達やモーゼが書いている神に選ばれた者に会った。それはヨセフの子ナザレのイエスである。(ヨハネ1:45)ナタナエルは、預言者達が書いているその人が隣村の者であると聞いて、驚いて言った──神の使いがナザレから出るとは眉唾ものだ。ピリポは言った──われと一緒に来て、自ら見聞きするがよい。(ヨハネ1:46)ナタナエルは同意して兄弟と一緒に行き、イエスに会ってその言葉を聞いてから、イエスに言った──そうだ、今こそわれは、汝が神の子であり、イスラエルの王であるということの真実なるを認めた。(ヨハネ1:47,48)──イエスは彼に言った──汝はそれよりもっと大切なことを知らなければならぬ。今より後は天がひらけて、人々は天の力と交通するようになるであろう。今より後は神はもはや人々にとって特殊なものではなくなるであろう。(ヨハネ1:51)
 かくてイエスは郷里ナザレへ帰った、そして例の如く安息日に教会へ行って読み始めた。(ルカ4:16)人々が彼に預言者イザヤの書を与えたので、彼はそれをひもどいて、読み始めた。それには次のように書いてあった。(ルカ4:17)
 『主の御霊われにまします。主のわれを選ばれたるは、不幸なる者心の傷れたる者に福音を宣べしめ、盲者に光を与え、疲れし者に救いと休息とを示し、すべての人に神の恵みの時を知らしめんがためなり。』(ルカ4:18,4:19)
 彼は書物を閉じ、係りの者にそれを返して、座についた。そこで一同は彼の言い出すことを待った。(ルカ4:20)そこで彼は彼らに言った──この記事は、今汝らの眼の前で成就されている。(ルカ4:21)

二、神への奉仕

 故に人は肉のためでなく霊のために働かねばならぬ。
 一度イエスは弟子達と一緒に土曜日に野を通ったことがあった。弟子達は腹がすいたので、道々麦の穂を摘んで、手で揉んで麦粒を喰べた。ところが、正教の教えによると、神はモーゼと約して、人は皆土曜(安息)日を守って、何もしないようにと規定していた。正教の教義によると、安息日に働く者は石で打ち殺せと命じていた。(マタイ12:1、マルコ2:23、ルカ6:1)
 正教徒達は、安息日に弟子達が麦粒を揉んでいるのも見て、言った──安息日にそういうことをしてはよくない。安息日には働いてはいけないのに、それを汝らは穂を摘んでいる。神は安息日を定めてこれを破るものは死罪に処すべしと命ぜられている。(マタイ12:2)
 イエスはそれを聞いて言った──われ憐憫を好みて、犠牲を好まずという神の言葉の意味を理解したら、汝らも何の罪にもならぬことに人を罪するようなことはしないであろう。(マタイ12:7)人は安息日よりも尊いものである。(マタイ12:8)
 またある安息日にイエスが会堂で教えていた時、(ルカ13:10)一人の病める女が彼に近づいて、助けを乞うた。(ルカ13:11)そこでイエスは彼女を治療し始めた。(ルカ13:12)
 その時会堂の司である正教の長老がこのためにイエスを起って、群衆に言った──神の律法にしるされてある──働く日は一週に六日である。(ルカ13:14)イエスはこれに対して正教の律法遵守者達に反問した──では、汝らの考えによると、安息日には人を助けることも出来ないのであるか?(ルカ14:3)彼らは答える言葉を知らなかった。(ルカ14:6)
 その時イエスは言った──偽善者よ! では汝らは皆、安息日には家畜を厩から解いて、水飼いにつれて行かないか? その時もし誰かの羊が井戸へ落ちたら、安息日であっても、誰しも一散に駆けつけてそれを引き出すであろう。(ルカ14:5、マタイ12:11)人は羊よりも更に尊いものである。然るに汝らは、人を助けてはならないと言う。いったい汝らの考えでは、安息日には何をすればよいのか──善であるか悪であるか? 霊を救うべきか滅ぼすべきか? 善は安息日であっても何であっても常にこれを為すべきである。(マタイ12:12)
 ある時イエスは取税人の税を取り立てているところに行き会った。取税人はマタイと呼ばれた。イエスは彼と話し始めた、マタイは彼の話を理解して、その教えを喜び、彼を自宅へ招いて、大いに饗応した。(マタイ9:9)
 イエスがマタイの家を訪れた時、そこにはマタイの友なる取税人、不信者なども同席したが、イエスは彼らを忌み嫌うことなく、弟子達とともにそこに坐した。(マタイ9:10)正教徒達はそれを見て、イエスの弟子達に言った──汝らの師はどうして、税吏や不信者達と食を共にするのか?──正教の教えによれば、神は不信者と交わることを許さないのに。(マタイ9:11)
 イエスはこれを耳にして言った──健康を誇るものは医者を要しないが、病める者はそれを必要とする。(マタイ9:12)われ憐憫を好みて、犠牲を好まずという神の言葉の意味をさとらなければならぬ。われは自ら正教徒と考えているものに信仰の変改を教えることは出来ない、自ら不信者であると考えている人をこそ教えるべきである。(マタイ9:13)
 正教の律法遵守者達はエルサレムからイエスの許へ来た。(マタイ15:1、マルコ7:1)彼らは、彼の弟子達や彼自身すらが洗わない手でパンを喰べるのを見て、そのために彼を非難し始めた。(マタイ15:2)なぜなら、彼ら自身は教会の言い伝えに従って、皿の洗い方だとか、手を洗わないでは食事に掛からないとかいうことを厳格に履行していたからである。(マルコ7:3)同じく彼らは市場から持って来たものも、洗わないうちは決して口にしないのだった。(マルコ7:4)
 正教の律法遵守者達はそこで彼に訊ねた──汝らはなぜ教会の言い伝え通りに生活せず、洗いもしない手でパンをとってそれを食うのか?(マルコ7:5)彼は彼らに答えた──汝らはなぜ汝らの教会の言い伝えによって神の戒律を破るのか?(マタイ15:3)神は汝らに教えた──父と母とを敬えと。(マルコ7:10)然るに汝らは手だてをかまえて、誰にしろ、両親に与えるべきものを神に与えると言い得るが如くにし、(マルコ7:11)さすれば父母を扶養せざるもよしというが如くにしている。(マルコ7:12)かく汝らは、教会の言い伝えによって神の戒律を破っているのである。(マルコ7:13)偽善者共よ! 預言者イザヤの汝らについて語ったことは真実である。(マタイ15:7)
 『この民は、言葉にてはわれに服し、舌にてわれを敬えども、その心はわれより遠きものなり。(マタイ15:8)そうしてまたわれを恐る恐る如く見ゆるも、それはただ暗唱せる人の命令のみ──この故にわれはこの民の上に、世の常ならざる驚くべきことをなさんとす──すなわち彼の賢人の智慧は滅び、彼の学者はその理性を暗くすべし。永遠の生命より己が望みを隠すために心を労する者は災いなり。暗闇にてその行為を為す者はわざわいなり。(マタイ15:9)』
 汝らまた然りである──律法の中の重きもの、すなわち神の戒律を捨てて、己が人間の言い伝え、すなわち茶碗を洗うようなことばかりを守っているのである。(マルコ7:8)
 そしてイエスは多くの人を呼び集めて言った──汝らみなわが言うことを聞いて悟るがよい。(マルコ7:14)外から人の中へ入って人を汚し得るものはこの世に一つもない、人から出るもの、それこそ人を汚すのである。(マルコ7:15)ただ汝の心に愛と慈悲とをあらしめよ、さればすべては清くなるであろう。(ルカ11:41)これをこそ悟るべきである。(マルコ7:16)
 かくして彼が家に帰った時、弟子達は彼に向ってその言葉の意味を訊ねた。(マルコ7:17)そこで彼は言った──では汝らもこれを悟らなかったのであるか? すべて外部より入る肉的のものは人を害し得ざるものなるを悟らないのであるか?(マルコ7:18)それは人の霊に入らず、腹に入るからである。腹に入って、然る後外部に排泄されるからである。(マルコ7:19)人を害し得るものはただ人から出る。人の心より出る。(マルコ7:20)これ人の心よりは悪念、淫念、破廉恥、殺人、窃盗、貪欲、敵意、欺瞞、厚顔、嫉妬、誹謗、傲慢、その他すべての悪が出るからである。(マルコ7:21,22)すべてこれらの悪は人の心より出る、そしてこれだけが人を害し得るのである。(マルコ7:23)
 その後パスハが近づいたので、イエスはエルサレムへ赴いて、神殿へ入った。(ヨハネ2:13)神殿の廊下には、牡牛、牝牛、羊などの家畜が立っていたり、売るための鳩の放ち籠が出来ていたり、両替屋が店を並べていたりした。それは皆神への供物に必要なもので、動物は殺して神殿へ供えられるのだった。すなわちその中に、正教の律法遵守者に教えられたユダヤ人らの祈願があるのだった。(ヨハネ2:14)イエスは神殿に入るや、鞭を造って、家畜をことごとく廊下から追い出し、鳩を残さず放ちやり、(ヨハネ2:15)金をはたき散らして、今後かかるものは何品たりとも神殿内へ入れてはならぬと厳命した。(ヨハネ2:16)
 彼は言った──預言者イザヤは汝らに言っている──『神の家はエルサレムの神殿に非ず、神の人々の全世界なり。』と、また預言者エレミヤも汝らに言っている──『これぞ永遠なる者の家ぞなどいう偽りの言葉を信じるなかれ。かかることを信じず、己が生活を改め、偽りて裁かず、異国人と寡婦と孤児とを虐げず、無辜の血を流さず、神の殿に来りて、今こそわれらは心安く悪事を為すを得などと言うべからず。わが家を盗賊の巣窟となすことなかれ。』と。(マタイ21:13)
 そこでユダヤ人らは色を作して彼に食ってかかった──汝はわが祭祀を正しからずと言う。何をもってこれを証明するか?(ヨハネ2:18)そこで彼らを顧みてイエスは言った──この神殿をこわして、われ三日にして新しき生ける神殿を起こすであろう。(ヨハネ2:19)ユダヤ人らは言った──この神殿を建てるのに四十年もかかっているのに、汝はいかにして即座に新しき神殿を起こし得るのか?(ヨハネ2:20)イエスは彼らに言った──わが汝らに語るのは、、神殿よりも大切なるものについてである。(マタイ12:6)汝らにしてもし、預言者の言葉──『神なるわれは汝らの犠牲を好まず、汝ら相互の愛を好む』と言った言葉の意味を悟るならば、かかることは言わなかったであろう。生ける神殿とはすなわち、人々が互いに愛し合う時の人の世を称するのである。(マタイ12:7)
 その時エルサレムでは、多くの人が彼の説いたことを信じた。(ヨハネ2:23)ただ彼自身は外部的なものは何ものをも信じなかった、なぜなら、すべては人の心にあることを知っていたから。(ヨハネ2:24)彼には人について証明を立てる者を求める必要はなかった、なぜなら彼は人の中には霊のあることを知っていたから。(ヨハネ2:25)
 ある時イエスはサマリヤを通らなければならなかった。(ヨハネ4:4)彼は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるサマリヤのスカルという村を通った。(ヨハネ4:5)そこにはヤコブ達の井戸があった。イエスは道に疲れて、その井戸の傍に腰をおろした。(ヨハネ4:6)彼の弟子達は町へパンを求めに行った。(ヨハネ4:8)
 スカルから一人の女が水を汲みに来た。イエスは彼女に水を所望した。(ヨハネ4:7)彼女は彼に言った──よくわれらに水をくれなどと言えるものぞ? 汝らユダヤ人はわれらサマリヤ人と交際をしないではないか?(ヨハネ4:9)
 然るに彼は彼女に言った──もし汝にしてわれを知り、わが説くところを知ったならば、かかることは言わないで、われに水を与えたであろうし、われも汝に生命の水を与えたであろう。(ヨハネ4:10)汝の水を飲む者は、また渇いて飲みたくなるであろう。(ヨハネ4:13)しかしわが水を飲む者は、もはや渇くことなく、わが水は彼を永遠の生命に導くであろう。(ヨハネ4:14)
 女は彼が神の教えについて言っているのであることを悟ったので、彼に言った──われは汝が預言者であって、われを教えようとしていることが分かる。(ヨハネ4:19)っけれども汝はユダヤ人であり、われはサマリヤ人であるのに、どうして汝はわれを教えんとするのであるか? われらサマリア人はこの山上で神に祈るけれども、汝らユダヤ人は、神の家はただエルサレムにだけあると言っている。汝にはわれに神のことを教えることは出来ないはずである、なぜなら汝らには汝らの信仰があり、われにはわれの信仰があるからである。(ヨハネ4:20)
 イエスは彼女に言った──女よ、われを信じよ。既に山の上、エルサレムばかりでなく、人々が父に祈るべき時が来たのである。(ヨハネ4:21)真に神を崇むる者が霊とまこととにおいて天なる父を拝すべきである。(ヨハネ4:24)
 女は彼の言ったことがよく分からなかったので、また言った──われは聖者と呼ばるる神の使いの来るべきことを聞いている。その人こぞすべてを告げてくれるであろう。(ヨハネ4:25)
 イエスは彼女に言った──それこそわれである、汝と語るわれこそそれである。この上待つも来る者はない。(ヨハネ4:26)
 その後イエスはユダヤの地へ行って、弟子達とそこに住んで、教えた。(ヨハネ3:22)当時ヨハネはサリムの近くで人を教え、アイノン河で洗礼を施していた。(ヨハネ3:23)なぜなら、ヨハネはまだ獄に投ぜられていなかったから。(ヨハネ3:24)
 そこでヨハネの弟子達とイエスの弟子達との間に、ヨハネの水の洗礼とイエスの教えといずれがいいかということで争いが起こった。(ヨハネ3:25)人々はヨハネの許を訪れて、彼に言った──汝はかく水で清めるが、イエスはただ教えるだけである、しかも人は皆彼の方へ行く。汝は彼を何と見るか?(ヨハネ3:26)
 ヨハネは言った──もし神が人を教えるのでなかったら、人は自分では何一つ教えることは出来ない。(ヨハネ3:27)地のことを言う者は地の者であり、神のことを言うものは神より出る。(ヨハネ3:31)その言葉が神より出たものであるか、そうでないか、これを証明し得る者は何ものもない。神、それは霊である。神は計ることも出来なければ、証明することも出来ない。霊の言葉を解する者は、それだけで彼が霊っから出た者なることを証明している。(ヨハネ3:32-34)父はその子を愛して、万物を彼に委ね給うた。(ヨハネ3:35)神の子を信じる者は生命を持ち、神の子を信ぜざる者は生命を持たないであろう。神とは人の中にある霊である。(ヨハネ3:36)
 この後イエスの許へ一人の正教徒が来て、彼を自宅へ食事に招いた。彼は行って、卓についた。(ルカ11:37)正教徒は彼が食事の前に手を洗わない意のを見て、一驚した。(ルカ11:38)そこでイエスは彼に言った──正教徒よ、汝らはすべて物の外部を洗うが、汝らの内部は果たして清いか? 人に対して慈悲深くあれ、然らばすべては清められるであろう。(ルカ11:39,41)
 彼が正教徒の許で食事をしていた間に、町の女が入って来た──彼女は不信者であった。彼女はイエスが正教徒の家にいることを知ったので、そこへ香水の入った瓶を持って入って来たのだった。(ルカ7:37)そして彼の足許に跪いて、泣き出し、涙で彼の足を濡らして、髪の毛でそれを拭い、瓶の香水を振りかけた。(ルカ7:38)
 正教徒はこれを見て、肚の裡で考えた──これでもこの男は預言者だろうか。彼が果たして預言者なら、自分の足を洗う女の何者なるかを悟り、その不信者なるを知って、自分に触れることを許さないであろうに。(ルカ7:39)
 イエスはこれを察して、彼の方を向いて、言った──わが考えを汝に言おうか?──言い給え──と主人は答えた。(ルカ7:40)イエスは言った──ここに二人の人があって、ある物持ちに借金をしていた、一人は五百金で、一人は五十金であった。(ルカ7:41)二人とも返すべき手段を持たなかった。物持ちは彼らを二人とも赦した。さて、汝の考えでは、二人のうちいずれが物持ちを愛しかつ彼のために尽くすであろうか?(ルカ7:42)相手は言った──知れたこと、負債 (おいめ) の多かった者である。(ルカ7:43)
 イエスは女を指して、言った──汝とこの女もそれと同じことである。汝は自ら正教徒と思っている、故に少額の負債者である。彼女は自ら不信者と思っている、故に多額の負債者である。われは汝の家へ来た者であるが、汝はわれに足を洗う水を与えなかった──然るに彼女は、涙でわが足を洗って、髪でそれを拭ってくれた。(ルカ7:44)汝はわれを接吻しなかったが、彼女はわが足に接吻した。(ルカ7:45)汝はわれに頭に塗る香油を与えなかった、が、彼女は高価な香水をわが足にそそいだ。(ルカ7:46)自ら正教徒と思える者は、愛の行いをしないであろうが、自ら不信者と思える者は、愛の行いを為すであろう。然るに愛の行いのためには一切のことが赦されるのである。(ルカ7:47)次いでイエスは彼女に言った──汝の罪はすべて赦された。なおイエスは言った──すべてのべ事は人が己を何と思えるかによって定まる。自ら善しと思える者は、かえってよき事をしないが、自ら悪しと思える者は、かえって善人となるものである。(ルカ7:48)
 イエスはなお語をついで言った──ある時二人の者が祈るべく神の神殿へ来た──一人は正教徒、一人は取税人であった。(ルカ18:10)
 正教徒はかく祈った──『主よ、われはわれの他の者の如くならず、──すなわち守銭奴ならず、放蕩者ならず、偽善者ならず、またこの取税人の如き無頼漢ならざるを汝に謝す。(ルカ18:11)われは週に二度断食し、すべて得るものの十分の一を献ず。(ルカ18:12)
 ところが取税人はずっと遠くに立ったまま、眼を天に向けることだにせず、ただ自分の胸を打って、言い出した──『主よ、罪人なるわれを憐れみ給え。』(ルカ18:13)見よ、この人は正教徒よりよき人であった、何となれば、自ら高くするものは卑しめられ、自ら卑下するものは高くせられるからである。(ルカ18:14)
 この後ヨハネの弟子達がイエスの許へ来て言うには──われらと正教徒とはしばしば断食するのに、汝の弟子達は断食しないのか? 神の律法によって断食を命ぜられてあるのに。(ルカ5:33)
 そこでイエスは彼らに言った──新郎婚姻の席にある間は誰も悲しむ者はない。(ルカ5:34)ただ新郎のない時にはこれを悲しむ。(ルカ5:35)
 生命のある間は、人は悲しむには当たらない。外形的の礼拝を愛の行為と一致させることは出来ない。古い教え、、外形的な礼拝を、近きものに対する愛を説くわが教えと一致させることは出来ない。わが教えを古き教えと一致せしむることは、あたかも新しい衣からきれを裂きとって、それを古い衣に縫いつけることである。新しい衣もそこない、古い衣も繕うことは出来ない。すなわちわが教えを凡て容れるか、古きものをすべてとるかである、わが教えを容れながら、古きもの──清め、断食、安息日(ルカ5:36)を保つことは出来ない。ちょうど新しき酒を古き革袋に入れることが出来ないと同じことである。無理に入れれば袋は破れ、酒はこぼれるであろう。(ルカ5:37)新しき酒は新しき革袋に入れなければならない。──すればどちらもそこなわれることないであろう。(ルカ5:38)

三、生命の本源

万人の生命は父の霊より出ず。
 この後ヨハネの弟子達イエスの許へ来て、彼に訊ねた──ヨハネが言っていたのは汝のことか? 神の王国を開く者、霊をもって人を更新する者は汝であるか?(マタイ11:2,3)
 イエスは答えて言う──汝らまず、見聞きしてヨハネに告げよ、神の国は来たったか否か、人は霊によって更新されたか否か。なお彼に告げよ、わが説くところの神の国とはいかなるものか。(マタイ11:4)預言の書には、神の国来る時、人は皆幸福になるであろうと言われている。されば帰って彼に告げよ、わが言う神の国とは、貧しき者幸福となり、(マタイ11:5)われを解する者幸福となる底の国であることを。(マタイ11:6)
 かくてヨハネの弟子を帰してから、イエスは群衆に向かって、ヨハネの説いた神の国について語り始めた。彼は言った──汝ら荒野なるヨハネの許へ洗礼を受けに言った時、何を見んとしてそこへ行ったのであるか? 正教の律法遵守者達も同じように出掛けたが、ヨハネの説いたことは悟らなかった。そして彼らは彼の価値を認めなかった。(マタイ11:7)この種族──正教の律法遵守者達──はただ、彼ら自身の考えと互いに聞き合ったこととを真理と思い、また彼ら自身の案出した律法をも真理の如く考えて、(マタイ11:16)ヨハネの語ったこと、わが言う事は耳にも入れず、また悟りもしないのである。ヨハネの語ったことの中で彼らの悟ったのはただ、彼が荒野で断食しているという一事だけで、『彼のの中には悪鬼がいる。』と言っている。(マタイ11:18)わが語った中で彼らの解したのはただ、われは断食せずという一事のみで、それについては、『彼は取税人、放蕩者と共に飲食す──彼らの友である。』と言っている。(マタイ11:19)彼らは市の子の如く、互いに饒舌を恣ままにしながら、誰一人彼らに耳傾けるものなきに喫驚している。(マタイ11:16,17)彼らの智慧は彼らの行いによって明らかである。(マタイ11:19)汝らもし高価な衣服を着飾った人を見んために行ったのならば、そうした人々はここの宮廷に住んでいるはずである。(マタイ11:8)してみれば、汝らは荒野で何も見なかったであろう? 汝らは、ヨハネが他の預言者の如きものと考えて行ったものと考えるか? そうとすればその考えは誤っている。ヨハネは他のものの如き預言者ではない。彼はあらゆる預言者よりも大なる者である。彼らはあり得ることを預言した。彼はあることを人々に告げた──神の国はこの地上にかつてもあったし、今もあるのである。(マタイ11:9)われ誠に汝らに告げよう──かつてこの世にヨハネより大なる者の生まれたことはなかった。(マタイ11:11)律法と預言者──これらは皆ヨハネまでは必要であった。が、ヨハネ以後今日にあっては、神の国は地上にあり、それに入らんと力むるものは入ることが出来ると説かれている。(ルカ16:16)
 そこで正教徒らはイエスの許へ来て、彼に訊ね始めた──いかにして、またいつ神の国は来るのであるか? 彼は彼らに答えた──わが説くところの神の国は、従前の預言者らが説けるそれとは、全然ちがうものである。彼らは神の国の来るや、明らかなる諸々の現象を伴うものと説くも、わが言う神の国は、その接近を眼でもって見得るものではない。(ルカ17:20)もし人あって神の国について──それそこに来たりしとか来るべしとか、それそこにありとかあそこにありとか言うとも、汝らはそれを信じてはならない。神の国は時間乃至空間の中に存在するものではない。(ルカ17:23)あたかも雷光の如く──そこにも、ここにも、到るところにあるものである。(ルカ17:24)それには時もなければ、場所もない。何となれば、わが説くところの神の国は──汝らのうちにあるからである。(ルカ17:21)
 その後、ユダヤ人の宰の一人ニコデモと呼ばれる正教徒が、夜イエスの許を訪れて、言うには──汝は安息日を守れと命ぜず、清めを守れと命ぜず、犠牲を供えよと命ぜず、断食を命ぜず、神殿はこれを廃棄してしまった。神については、それは霊であると言い、神の国については、それは汝らのうちにあると言う。この神の国とはいかなるものか? と。(ヨハネ3:1,2)
 そこでイエスは彼に答えた──汝、人もし天から生まれたものならば、天国はその中にあるはずと思え。(ヨハネ3:3)
 ニコデモはそれを解し得ずして言った──人もし父の肉より生まれたものならば、年老いた後再び母の胎内に這い込んで、生まれ変わることがどうして出来よう?(ヨハネ3:4)
 そこでイエスは彼に答えた──わが言うことをよく悟れ──われは言う、すべての人は肉と霊より生まれ、従ってその中に、天国もあり得るのである。(ヨハネ3:5)肉から生まれるものは肉である。肉から霊は生まれ得ない。霊はただ霊から生まれ得るのみである。(ヨハネ3:6)霊は汝のうちに生きるものであって、自由に合理的に生活する。すなわち汝その初めを知らず、終りを知らざるものである、しかも、各人が自らの中に感じているものである。(ヨハネ3:8)然るに汝はなぜ、われ、人は天より生まれざるべからずと言った時、そのように驚いたのであるか?(ヨハネ3:7)
 ニコデモは言った──とにかくわれは、かかることがあり得ようとは信じ得ない。(ヨハネ3:9)
 その時イエスは彼に言った──汝はそれでも教師であるか、これしきのことを悟り得ないで!(ヨハネ3:10)まずわが説くところは、別に難しい学問ではないことを知れ。われはわれら一同の知れることを悟り、われら一同の目撃したことを確かめているだけである。(ヨハネ3:11)汝もしこの地上のことを信じず、汝自身のうちにあることを信じずとすれば、天にあることをどのように信じ得ようか?(ヨハネ3:12)
 天には誰も人はいない、ただこの地上に、天より降り、自身天のものである人がいるだけである。(ヨハネ3:13)人はこの人に宿れる天の子を崇めて、万人が彼を信じ、天の生命を得て滅びないようにしなければならぬ。(ヨハネ3:15)神が彼自身と同じようなその子を人々に与えられたのは、人々を滅ぼすためではなくして、彼らの福祉のためである。彼はその子を、万人が彼を信じることによって滅びることなく、永遠の生命を得んがために遣わされたのである。(ヨハネ3:16)神がその子──生命──を人の世に遣わされたのは、人の世を滅ぼすためでなく、人の世がそれによって生きんがためである。(ヨハネ3:17)
 彼の中に生命を思う者は死ぬことがない。が、彼の中に生命を思わないものは、そこに生命のあることを思わないことによって自ら自らを滅ぼすものである。(ヨハネ3:18)分離(死)は、生命がこの世へ来たのに、人々が自ら生命から離れ去ることの中に存する。
 光は人の生命である、光はこの世へ来た、然るに人々は光よりも闇を好んで、光の方へ行かないのである。(ヨハネ3:19)この故に悪しきを為すものは、光の方へ来たらず、従ってそのわざ顕われず、自分の生命を失うのである。(ヨハネ3:20)しかし真理に生きる者は、光の方へ進み、従ってそのわざ顕われ、生命を得て神と一つになるのである。
 神の国は、汝らの考える如く、万人にためにある時ある場所へ来るという風に解すべきではなく、全世界到るところ常に人なる天の子を信じるもののみ、神の国の子となり、彼を信ぜざる他の者は滅ぶべしという風に解すべきものである。人の中にあるその霊の父は、ただ自らを彼の子と認むる者のみの父である。この故に彼にとってはただ、彼の与えたところのものを自分の中に保てるもののみ存在するわけである。(ヨハネ3:21)
 この後イエスは、神の国とは何ぞやということについて人々に説き始めた彼はそれを比喩をもって説き明かした。
 彼は言った──霊なる父がこの世に悟りの生命を播くことは、あたかも主人がその畠に種子を播くことである。(マタイ13:3)彼はどんな種子がどこへ落ちるかを顧慮しないで、畠の前面にそれを播く。ある種子は道路に落ちる、すると鳥が飛び来たって、それを啄む。(マタイ13:4)他の種子は石の上に落ちる、石の上では生えるには生えても、じき萎む、根を張るところがないからである。(マタイ13:5)またある種子は茨の中に落ち、茨に圧迫されて、穂は出ても実を結ばない。(マタイ13:7)然るにまた、ある種子はよき地面へ落ち、滅びた種子をも償って、穂を出し、実を結び、ある穂は百倍、ある穂は六十倍、ある穂は三十倍となる。これと同じく神も人の中に霊を播いた──ある者の中ではそれは滅びるが、ある者の中では百倍に生長するであろう。そしてそれらの人が神の国を組織するのである。(マタイ13:8)
 かく神の国とは、汝らが考える如く、神が汝らを支配すべく来るようなものではない。神はただ霊を播くのみであって、神の王国はその霊を保つものの間に存在するのである。(マルコ4:26)
 神は人を制御しない、丁度地に種子を播く主人が、自身では種子のことを考えないのと同じである。(マルコ4:27)種子は自ら膨張し、芽を出し、苗となり、茎と伸び、穂を生じて、ついに実を結ぶ。(マルコ4:28)そうしてその実が熟するや否や、主人は鎌を送って、畠を刈る。神もまたかくその子──霊──を世に遣わし、、霊自らこの世において生長し、霊の子達相寄って神の国を作るのである。(マルコ4:29)
 女は麦桶に酵母を入れ、それに麦粉をまぜるや、もはやそれを攪拌することなく、それ自らをして発酵し膨張せしめる。人々が生きている間、神はその生活に干渉しない。彼はこの世に霊を与え、霊自ら人の中に生活し、霊によって生きる人と相寄って神の国を作る。霊のためには死もなく悪もない。死と悪とは肉にとって存し、霊にとっては存しないのである。(マタイ13:33)
 神の国はあたかも次の比喩の如きものである──主人は自分の畠によき種子を播いた。主人とは、これ霊であり父であり、畠とは、これ世界であり、よき種とは、これ神の国の息子達である。(マタイ13:24)主人は寝についた、と、敵が来て、同じ畠に毒麦を播いた。敵とは、これ誘惑であり、毒麦とは、これ誘惑の子である。(マタイ13:25)下僕ども来たって主人に言うには──汝の播いた種子が悪かったのであろうか? 汝の畠には多くの毒麦が芽を出した。われらを遣わされよ──われら抜き取るであろう。(マタイ13:27,28)主人は言う──いや、それに及ばぬ。汝らは毒麦を抜き取らんとして、必ず麦を踏むであろう。(マタイ13:29)共に育つに任せるがよい。収穫時だに来たればわれ刈り手ともに命じて、毒麦は抜かせて焼き捨て、麦だけを納屋に収めるであろう。──収穫時とは、これ人の生涯の終りであり、刈り手とは、これ天の力である。すなわち毒麦は焼かれ、麦は清められ集められるのである。かく、人の生涯の終りにおいても、一時の偽りはすべてうち滅ぼされて、ただ霊における真の生命のみが残るのである。霊なる父にとっては悪は存しない。霊はその要するものを保つ。しかし彼より出でざるものは、彼にとってなきものである。(マタイ13:30)
 神の国は網の如きものである。網を海に打てばすべての魚がそれに入る。(マタイ13:47)それを引き上ぐる時には、悪いものは選り分けて海へ捨てる。世の終りもまたこの通りである──天の力はよきものを取り、悪きものを捨て去るであろう。(マタイ13:48)
 かく彼が語り終わった時、弟子達は彼に、それらの比喩をいかに解すべきかについて訊ね始めた。(マタイ13:10)イエスは答えて言った──これらの比喩は二様に解さなければならぬ。わがこれらの比喩を語ったのは、一部の者は汝らわが弟子の如く、神の国の何たるかを解し、神の国の各人のうちにあることを解し、いかにしてその国へ入るべきかを知るけれども、他の者はそれを解さざるがためである。これらの者は見れども見えず、聞けども悟らない。(マタイ13:11,13,14)これ彼らの心かたくななるが故である。故にわれは今これらの比喩をもって、彼とこれと二様に説くのである。われ神について説き、神にとってその国の何であるかを説くによって、彼らもそれを解するのである。しかし汝らにはわれ、汝らにとって神の国の何であるかを説き、──その汝らのうちにある旨を説いたのである。(マタイ13:15)
 かくて汝ら種子播きの比喩は、次の如く見かつ解さなければならぬ。汝らにとってこの比喩は次の意味を持つ。(マタイ13:18)神の国の意味を悟りながら、それを己が心にとらざりしすべての者は、悪念の誘いを受けて、播かれたものを盗まれてしまう。これ、路上に播かれたる種子である。(マタイ13:19)石の上に播かれたる種子とは、これ喜びをもって即座にそれを受け容れた者を言う。(マタイ13:20)しかし彼には根がない故、ただ一時受け容れたのみであって、神の国の意義のために、困難、窮屈等を見出せば、じきにそれを否定してしまう。(マタイ13:21)茨の中に播かれたものとは、これ神の国の意味を悟りながらも、世の心労や財産の惑いにその意味を圧し殺されて、実を結ばざる類である。(マタイ13:22)そうしてよき土地に播かれたる種子とは、これ神の国の意味を会得し、それを己が心に受けし者であって、かかる人は百倍あるいは六十倍乃至三十倍の実を結ぶのである。(マタイ13:23)故に持てる者はますます多くを与えられ、持たぬ者は最後のものまで奪われるのである。(マタイ13:12)
 故に汝らは心してこの比喩を解さなければならぬ。そうして虚偽、侮辱、心労に屈することなく、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶべく心しなければならぬ。(ルカ8:18)
 霊における神の国は、無より生じつつすべてを与える。それは白樺の種子の如きものである、──それは種子の中で最も小なるものであるが、長じてはあらゆる樹木の中で最大のものとなり、空飛ぶ鳥その上に巣を営むに至る。(マタイ13:31,32)

四、神の国

 故に乳の意志 (こころ) は万人の生命であり幸福である。
 イエスはあまねく町々村々をまわって、凡ての人に父の意志 (みこころ) を行うことの幸福を説いた。(マタイ9:35)イエスには世の人々が、真の生命を知らないで死んで行ったり、牧者なしにすてがいにされた羊の如く、自らなぜとも知らずに迷ったり苦しんだりしているのが憐れまれてならなかったのである。(マタイ9:36)
 ある時、多くの人民が彼の教えを聴かんとしてイエスの許へ集まった。彼は山へ登って、そこに坐った。弟子達は彼を取りまいた。(マタイ5:1)
 そこでイエスは、神の意志とは何ぞやということについて群衆に教え始めた。(マタイ5:2)彼は言った──
 貧しき者、家なき者は幸いである。なぜなら彼らは父の意志にそうものであるからである。彼らもし飢えているならば、彼らは満たされるであろう。彼らもし悲しみ泣いているならば、彼らは慰められるであろう。(ルカ6:21,22)もし人彼らを蔑み、遠ざけて、到るところから追い出すとも、(ルカ6:22)彼らはむしろそれを喜ばねばならぬ、なぜなら、神の民は常にかく追い出され、そうして天の報いを受けているからである。(ルカ6:23)
 しかし富める者は禍いである、なぜなら彼らは既にその欲するもののすべてを得て、もはや何も得べきものがないからである。(ルカ6:24)今彼らは満ち足りている、しかしやがては飢えるであろう。今彼らは快活である、しかしやがては悲しむであろう。(ルカ6:25,26)もしすべての人彼らをほめるならば、彼らは禍いである、なぜなら人はただ偽善者のみをほめる者であるからである。
 貧しき者、家なき者は幸いである。しかしそれはただ彼らが外見上にばかりでなく、霊においても貧しい時にのみ限るのである──ちょうど塩が外見上塩らしいというばかりでなく、塩辛い味を有する場合にのみよいのであると同じことに。(ルカ6:20)
 かく、貧しき者、家なき者よ、汝らもまた世の教師である。汝らもし、真の幸福とは家なく貧しきものたることであることを知るならば幸いである。しかし、汝らもし外見上にのみ貧しき者であるならば、あたかも塩気なき塩の如く、何の役にも立たざるものである。(マタイ5:13)汝らは世の光である。故にその光を隠さずして、これを人々に示さなければならぬ。(マタイ5:14)燈火をつけて、それを腰架の下に置くものはない、室内を照らすために卓の上に置く。(マタイ5:15)かく汝らも、己が光を隠すことなく、汝らの行いによってそれを顕わさなければならぬ。しかしそれには、人々汝が真理を知れるを見、汝のよき行いを見て、天なる汝の父を悟らしめるようにしなければならぬ。(マタイ5:16)
 されど汝らは、われ汝らを律法より解き放すと考えてはならぬ。われは律法よりの解放を説くに非ず、永遠の律法の実行を説くものである。(マタイ5:17)人々空の下にある間、永遠の律法は存在する。律法はただ、人々自ら万事を永遠の律法通り行うに至る時初めてなくなるであろう。故にわれ今汝らに永遠の律法の戒律を与える。(マタイ5:18)もしこれらの戒律のいと小さき一つをだに破り、かつその如く人に教える者あらば、それは天国にていと小さき者となり、戒律を行い、かつその如く人に教える者は、天国にて大なる者となるであろう。(マタイ5:19)故に、もし汝らの徳、正教徒の学者らの上にあらざれば、汝らは決して天国へ入ることは出来ないであろう。(マタイ5:20)その戒律は次の通りである──
 従前の律法には言われている──殺すなかれ。他の者を殺す者は、裁かれなければならぬ。(マタイ5:21)
 されどわれは汝らに告ぐ、その兄弟を怒る者はすべて裁かれ、その兄弟を罵る者はさらに罪重きものであると。(マタイ5:22)
 故に、もし神に祈らんとするならば、その前にまず汝に対して悪感を懐く者なきやを回想し、もし汝彼を辱しめたりと思う者一人でもあるを思い出せば、(マタイ5:23)汝の祈りをそのままに、まず行って兄弟と和解し、然る後初めて祈りを捧ぐべきである。汝ら知れ、神の望むところのものは犠牲に非ず祈禱に非ず、ただ汝ら相互の平和と一致と、及び愛とであることを。汝らにもし一人でも汝らとよからぬものある時は、祈ることも、神について考えることも、汝らには許されないのである。
 かくて第一の戒律はこうである──怒るなかれ、罵るなかれ。が、もし罵り合った場合には、すぐ和解して、一人の人も汝に対して怨恨を懐かざるようにしなければならぬ。(マタイ5:24)
 従前の律法には言われている──姦淫するなかれ。その妻を去らんとする者は離縁状を与えるべし。
 されどわれは汝らに告ぐ、婦人の美を愛でる者は、既に姦淫せるも同然である。すべての情欲は霊を滅ぼす、故に、己が生命を滅ぼすよりは、肉の快楽を斥けるに如かずと。(マタイ5:27,31,28,29)
 汝もし妻を去らば、汝が淫蕩者たるばかりでなく、なお彼女を駆って淫蕩に陥れ、彼女と相結ぶ者をも堕落せしむることとなる。
 故に第二の戒律はこうである──婦人に対する愛をよしと考えてはならぬ、また婦人の容色を愛でてはならぬ、そうして一たん結びついた妻と共に棲んで彼女を去ってはならぬ。(マタイ5:32)
 従前の律法には言われている──みだりに己が神の名を口にするなかれ。虚偽や不正に神の名を呼び出すなかれ。汝らの神を瀆す如き偽りの誓いを立てるなかれ。(マタイ5:33)
 されどわれは汝らに告ぐ、一切の誓いは神を瀆すものである、故に断じて誓ってはならない。人は、全身父の支配の下にあるもの故、何一つ約束することは許されない。彼は一本の髪をだに白いのを黒くすることは出来ぬ。どうして、何をこうするどうすると言って、前もって神に誓うことが出来ようか? 一切の誓いは神を瀆すものである、なぜなら、人もし神の意志 (みこころ) に反する誓いを実行しなければならぬ破目に立ち至った時には、神の意志に反して行動する約束をしたことになるからである、この故に、一切の誓いは悪である。(マタイ5:34,36)もし何事か人に訊かれた場合にはただ、然りならば然り、否ならば否と答えよ。それ以上付け加えることはすべて悪である。
 故に第三の戒律はこうである──何事にまれ何人にに対しても、必ず誓うことをするな。然りならば然り、否ならば否とのみ言え。そうして一切の誓いは悪であることを知れ。(マタイ5:37)
 従前の律法には言われている──霊を滅ぼすものは、霊には霊を、目には目を、歯には歯を、手には手を、牛には牛を、奴隷には奴隷を、その他何にまれ同じものを与えなければならぬと。(マタイ5:38)
 されどわれは汝らに告ぐ──悪をもって悪と闘ってはならぬ、単に裁きによって牛には牛を、奴隷には奴隷を、霊には霊を取らないばかりでなく、決して悪に抗してはならぬ。(マタイ5:39)人もし裁きによって汝の牛を取らんとしたら、なお別の一頭をも与えるがよい。人もし裁きによって汝の上衣を取らんとしたら、下衣をも与えるがよい。人もし汝の一方の歯を取らんとしたら、他方をも与えるがよい。(マタイ5:40)もし汝に一つの仕事を課せんとするものあれば、二つの仕事をしてやるがよい(マタイ5:41)人もし汝の持ち物を乞えば、これを与えよ。人もし汝に金を与えなかったら、それを乞うな。
 故に、(ルカ6:30)裁いてはならぬ、訴えてはならぬ、罰してはならぬ、すれば汝らも裁かれず、罰せられないであろう。すべての人を許せ、すれば汝らも許されるであろう、何となれば、汝らもし人を裁けば、彼らまた汝らを裁くであろうからである。(ルカ6:37)
 汝ら人を裁いてはならぬ、なぜなら、汝らすべての人は、盲目であって真理を見ないからである。(マタイ7:1)どうして塵に塞がれた眼をもって、兄弟の眼にある塵を見ることが出来ようか? まず汝自身の眼を清めることが急務である。何人か眼の清いものがあろう!(マタイ7:3)盲人はよく盲人を手引きし得るであろうか? 二人共に穴に落ちるは必定である。人を裁き人を罰する者もなた、盲人の盲人を手引きすると何の選ぶところがあろう。(ルカ6:39)
 人を暴行に、負傷に、不具に、死に裁きかつ宣告するものが、人々を教えんと欲している。しかし凡そ彼らの教授から、弟子がその師の如くなる以外に何を期待し得るであろうか。彼が学び終わった時、その為すことは何であろうか? 師のなせるところと同じこと──暴行、殺人でなくて何であろう。(ルカ6;40)
 人は法廷にて正義を見出そうとしてはならぬ。正義に対する愛を人の法廷に与えんとするは、高価なる真珠を豚に投げ与えるのと同じである──彼らはそれを踏みにじって、汝らを咬み裂くであろう。
 故に第四の戒律はこうである──人いかに汝を侮辱すとも、──悪には抗すな、裁くな、訴えるな、こぼすな、罰するな。(マタイ7:6、5:39)
 従前の律法には言われている──汝の国人には善をなし、他国人には悪をなせ。(マタイ5:43)
 されどわれは汝らに告ぐ──ひとり同国人ばかりでなく、他の国民をも愛さなければならぬ。他国人いかに汝らを憎み、汝らを襲い、汝らを辱しむるとも、汝らは彼らを賞揚し、彼らに善を施さなければならぬ。(マタイ5:44)汝らもし同国人にのみよき時は、すべての人皆その国人のみによく、これより戦争の絶ゆる時がないであろう。されど汝らすべての国人に対して平等であるならば、汝らは父の子となるであろう。人々は皆彼の子である、して見れば万人みな汝の兄弟である。
 故に第五の戒律はこうである──汝らは、わが汝らに告げし汝らの中にて守るべきことを他国人に対しても守らなければならぬ。天なる父にとっては、万人の間に異なる国民異なる国の差別はない──凡て皆一人の父の子であり兄弟である。故に人々の間に、国民により国によって差別を立ててはならぬ。
 かくて即ち──一、起ってはならぬ。すべての者に平和でなければならぬ。二、淫蕩なる肉欲を享楽してはならぬ。三、何事にまれ、何人の前にも誓ってはならぬ。四、悪に抗してはならぬ、裁いてはならぬ、訴えてはならぬ。五、各国民の間に差別を設けてはならぬ、他国人をも自国人の如く愛さなければならぬ。(マタイ5:45,46)
 以上の戒律はすべて次の一つの中に含まれている──汝人にせられんと思うことは、すべて人にもその如くにせよ。(マタイ7:12)
 汝らは、世の賞讃のためでなく、これらの戒律を行え。もし人のためにこれを行えば、その報いは人より来たり、もし人のためでなくこれを行えば、その報いは天なる父より来たる。(マタイ6:1)さればもし人に善を為す場合にも、それについて人前に喇叭を鳴らしてはならぬ。偽善者は常に人にほめられんがためにそうするのである。彼らはかくしてその欲するものを得ている。(マタイ6:2)しかしもし人に善を為すならば、何人もそれを見ないように、右手の為すことを左手も知らないように、それを為せ。(マタイ6:3)その時汝の父はそれを見て、汝の要する物を汝に与えるであろう。(マタイ6:4)
 汝らもし祈らんと欲するならば、偽善者が祈るが如くに祈ってはならぬ。偽善者は教会において人の眼の前にて祈ることを好む。彼らはそれを人のためにして、それに対して人より欲するところのものを受けている。(マタイ6:5)
 もし祈らんと欲するならば、何人も見ざるところに行き、そこにて父なる己が霊に祈れ、されば父汝の霊にあることを見て、汝に汝が霊において願うところのものを与えるであろう。(マタイ6:6)
 また祈る時には、偽善者の如く言葉を費やすな。(マタイ6:7)汝らの父は、汝の口を開かざる前に、汝の要するものを知っている。(マタイ6:8)
 ただかく祈れ──
 天の如く始めなく終りなきわれらの父よ!
 汝の本質のみ常に崇められんことを。
 汝の力のみありて、汝の意志 (みこころ) の始めなく終りなくこの地上に成らんことを。
 われに現在を生きる生命の糧を与え給え。
 われわが兄弟のすべての過ちを許し拭うが如く、われを誘惑に陥らしめず、悪より救うために、わが過去の過ちをも許し給え。
 権勢と力と審判とは汝のものなればなり。(マタイ6:9-13)
 汝ら祈る時には、何よりまず人に対して悪意を懐いていてはならぬ。(マルコ11:25)もし汝ら人の不正を許さないならば、父もまた汝らの不正を許さないであろう。(マルコ11:26)
 もし断食してそれに堪えるとも、それを人々に示してはならぬ。偽善者は人に見られほめられんがためにしかするものである。そうして人々は彼らをほめ、彼らはその願うところを達する。(マタイ6:16)しかし汝らはそれをしてはならない。汝らもし欠乏になやむことありとも、人に気づかれぬよう元気な顔をして歩かなければならぬ、すれば汝らの父はそれを見て、汝に汝の要するものを与えるであろう。(マタイ6:17,18)
 地上に蓄えを用意してはならぬ。地上にては蟲がくい、錆びがつき、盗人が盗む。ただ天の富を蓄えよ。(マタイ6:19)天の富は蟲くわず、錆びつかず、盗人盗まず。(マタイ6:20)汝らの富のあるところ、そこに汝らの心もあるであろう。(マタイ6:21)
 身にとって光は眼であり、霊にとって光は心である。(マタイ6:22)もし汝の眼暗ければ、全身闇の中にあるであろう。もし汝の心の光暗ければ、汝の全霊闇の中を彷うであろう。(マタイ6:23)同時に二人の主人に仕えることは出来ない。一人によいことは、他の者に悪い。神と肉とに仕えることは出来ない。地の生活のために働くか、神のために働くかである。(マタイ6:24)この故に、何を食い、何を飲み、何を養わんと思い煩うは愚である。見よ、生命は衣食よりも尊い、しかも神がそれを汝らに賜うたのである。(マタイ6:25)
 神の創りしもの、小鳥を見よ。彼らは播かず、刈らず、集めず、しかも神はこれを養っている。神の前には人は小鳥より悪しき者ではない。もし神が人に生命を与えたとすれば、それを養わずにおくはずがない。(マタイ6:26)汝らいかに心を労するとも、自分のために何一つ作り出すことの出来ないことは、汝ら自らよく知るところである。汝らはその生命を一時たりとも延ばすことは出来ない。(マタイ6:27)何ぞ衣服のことなどを思い煩わんやである。野の花は労せず、紡がず、(マタイ6:28)しかもその装いは、栄華を極めたソロモンといえども、それには及ばなかった程の美を尽くしている。(マタイ6:29)
 もし神にして、今日生えて明日刈り取られる花をしもかく装わしめるとしたら、何ぞ汝らに衣を与えないことがあろう?(マタイ6:30)
 人は何を食い、何を着るかについて考えなければならぬと思い煩ったり、奔走したり、口に出したりしてはならぬ。(マタイ6:31)これはすべての人に必要なことである、神も汝らのこの必要を知っている。(マタイ6:32)されば汝ら明日のことを思い煩うな。今日の日に生きよ。父の意志 (みこころ) にそうことのみ思い煩え。ただ最も重要なるもののみを求めよ、他はすべておのずから与えられるであろう。ただ父の意志 (みこころ) にそうことのみ力めよ。(マタイ6:33)されば汝ら明日のことを思い煩うな。明日の来る時、その心遣いもまた来るであろう。苦労は現在だけで十分である。(マタイ6:34)
 求めよ、──さらば与えられ、尋ねよ、──さらば見出し、叩けよ、──さらば開かれるであろう。(ルカ11:9)パンの代りに石を、魚の代りに蛇をその子に与える父があるであろうか?(マタイ7:9,10)われら悪しき者かつその子には求めるものを与える、まして天なる汝らの父、汝ら彼に求むる時、汝らの真に要するものを与えないことがあろうか? 求めよ、天なる父は彼に求むるところの者に霊の生命を与えるであろう。(マタイ7:11)
 生命に入る道は細い、が、汝らは細い道を入るがよい。生命に入る門はただ一つである。それは細くして窮屈である。周囲の野は大きくして広い、しかしそれは滅びに導く。(マタイ7:13)細き道のみひとり生命に導く、それを見出すものは少ない。(マタイ7:14)しかし臆してはならぬ、小さき群よ! 父は汝らにその国を予約している。(ルカ12:32)
 ただ偽りの預言者と学者とを心せよ。彼らは羊の皮を着て汝らに近づく、されど彼らの内心は貪婪なる狼である。(マタイ7:15)その成果により、彼らより生ずるものによって、汝らは彼らを知ることが出来る。茨から葡萄を得、あざみからいちじくを得ることは出来ない。(マタイ7:16)善き樹は善き果を結び、悪しき樹は悪しき果を結ぶ。かく彼らの教えの果によって、彼らを知ることが出来るのである。(マタイ7:17,20)
 善き人はその善き心よりすべての善きものを引き出し、悪しき人はその悪しき心よりすべての悪しきものを引き出す、心に余るもの口これを語る故である。この故にもし教師汝らに、汝ら自身にとって悪しきことを他の人々に為せと教えるならば、──暴行、刑罰、戦争を教えるならば、──それは偽りの教師であることを知らねばならぬ。(ルカ6:45)
 されば、天国に入る者は、主よ、主よ! という者に非ずして、天なる父の意志 (みこころ) を行う者である。(マタイ7:21)彼らは言うであろう──主よ、主よ、われらは汝の教えを教え、汝の教えによって悪を追い出したと。(マタイ7:22)されどわれは彼らを斥けて、言うであろう──いや、われはかつて汝らを認めしことなく、今も認めない。われより離れ去れ──汝らは不法を行う者であると。(マタイ7:23)
 されば、これらのわが言葉を聞いてそれを行う者はすべて、岩の家にその家を建てる賢き人の如きものである。(マタイ7:24)その家はいかなるあらしに逢うも倒れない。(マタイ7:25)これらの言葉を聞いてそれを行わざる者は、砂の上に家を建てる愚かな人の如くである。(マタイ7:26)あらし来れば、家は倒れて、すべては滅びるであろう。(マタイ7:27)
 かくてすべての人々は、この教えに驚いた、何となれば、イエスの教えは、正教の律法遵守者達の教えとは全然異ったものであったからである。正教の律法遵守者達は、人の従わなければならぬ律法を教えたが、イエスはすべての人は自由なる者であると教えた。(ルカ4:32)そしてイエス・キリストにおいてイザヤの預言、(マタイ4:14)──暗きに生きる者、死の幽闇に坐する者は生命の光を見た、この真理の光を準備する者は決して人に暴力を加えず、害をなさず。彼は柔和にして心優しき人である。(マタイ4:16)彼は世に真理を持ち来たすために争わず、叫ばず。彼の高い声を聞くことはない。(マタイ12:19)彼は藁を折ることなく、夜の灯を消すことがない。(マタイ12:20)そうして万人の希望はすべて彼の教えにかかる。(マタイ12:21)以上の預言は成されたのである。

五、真の生命

 わたくしの意志を行うことは死に導き、父の意志を行うことは真の生命を与える。
 かくてイエスは霊の力を感得して、言った──
 われは天地万有の本源なる父の霊を知る。何となれば、智者賢者に隠されたることが、自らを父の子と認めたる人々にのみ意味なきものとして顕わされているからである。(マタイ11:25)
 すべての人は肉の幸福について思い煩い、自ら曳き得ざる重き荷車につけられ、その力に合わざる軛を負うているのである。
 わが教えを悟って、それに従え、さらば汝ら生命において平安と歓喜とを得るであろう。われ汝らに他の軛と他の荷車──霊の生命を与える。(マタイ11:28)汝らこれを曳け、さればわれより平安と幸福を学ぶであろう。心だに平安温良であれば、汝の生涯には幸福が見出されるであろう。(マタイ11:29)何となればわが教えは、これ汝に合わせて作られたる軛であり、わが教えを行うことは、これ軽き荷車であり、汝に合わせて作られたる軛であるからである。(マタイ11:30)
 ある時人々彼の許に来たり、彼に食うことを欲するかと訊ねた。(ヨハネ4:31)
 彼は彼らに言った──われには汝らの知らざる食物がある。(ヨハネ4:32)
 彼らは、何人かが彼に食物を持って来たものと考えた。(ヨハネ4:33)しかし彼は言った──わが食物とは、われに生命を与えられたものの意志 (みこころ) を行い、そのわれに委ねられたることを成すことそれである。(ヨハネ4:34)収穫を待つ農夫が言うように、まだ時があるなどと言っていてはならぬ。父の意志を行う者は常に満ち足りて、飢えをも渇きをも知らないのである。神の意志を行うことは、常にそれ自らの中に報いを持っている。われはそのうち父の意志を行うであろう、などと言っていてはならぬ。生命ある間は常に父の意志を行うことが出来、また行わなければならぬのである。(ヨハネ4:35,36)われらの生命は、神が播き給いし畑であって、われらの仕事はその成果を集めることである。(ヨハネ4:37)そうしてもしわれらその成果を集めるならば、われらは報い、すなわち永生を受けるのである。われらに生命を与えたものはわれら自らでなく、何人か他の者であることは真実である。もしわれら生命を集めるために労するとすれば、──われらは刈り手の如く報いを受けるのである。われは汝らに、父の汝らに与え給いしこの生命を集めることを教えるのである。(ヨハネ4:38)
 ある時イエスはエルサレムに来た。(ヨハネ5:1)当時エルサレムに水浴場があった。(ヨハネ5:2)そしてこの水浴場についてはこう言う話があった、そこへは時々天使が天降るので、そのために水が動き始める、その水が動き始めた後真っ先に水中に飛び込んだものは、いかなる病でもすぐに癒えると。(ヨハネ5:4)かくて水浴場の周囲には廊が設けられてあった。(ヨハネ5:2)そしてそれらの廊の下には、病める者達が横たわって、真っ先に水中へ飛び入らんものと、水の動き出すのを待っていた。(ヨハネ5:3)
 そこに三十八年病になやむ人がいた。
 イエスは彼に、彼の何者なるかを問うた。
 彼はそこで──自分は病みついて既に三十八年になる、その間絶えず病を癒さんため水の動き始めたとき真っ先に水中へ飛び込む折を待っていたが、既に三十八年、一度も真っ先に飛び込むことが出来ない──いつも彼より先に誰かが飛び込んで浴みしてしまうのである旨を語った。(ヨハネ5:5)
 イエスは彼が老いたるを見て、彼に言った──汝は癒えんことを願うか?(ヨハネ5:6)
 その男は言った──願う、されどわれには水の動く時われを水に入れてくれるものがない。いつも誰かが先に入ってしまうのであると。(ヨハネ5:7)
 そこでイエスは彼に言った──起きよ、床を上げて歩め。(ヨハネ5:8)
 病める者は床を上げて、歩いた。
 ところがその日は安息日であった。(ヨハネ5:9)正教徒達は言った──汝床を上げてはならぬ──今日は安息日であると。(ヨハネ5:10)彼は言った──われを起こしてくれた人が、われに床を上げよと命じたのである。(ヨハネ5:11)
 病める者は行って正教徒達に、彼を癒やした者はイエスである旨を告げた。(ヨハネ5:15)そこで正教徒達は、イエスが安息日にかくの如きことをなせるを怒って、彼を逐った。(ヨハネ5:16)
 イエスは言った──父が常になすところのことを、われも為したまでである。(ヨハネ5:17)われ誠に汝らに言う──子自らは何一つ為すことは出来ない。彼はただ父より教えられたることを為すだけである。父のなすところのことを、彼もまた為すのである。(ヨハネ5:19)父は子を愛し、子を愛することそのことによって、子の知るべきことをすべて教えたのである。(ヨハネ5:20)
 父は死者に生命を与える。同じく子もまたそれを願う者に生命を与える、何となれば父の仕事が生命である以上、子の仕事もまた生命でなければならぬからである。(ヨハネ5:21)父は人々を死に宣告はしなかった、しかし人々に彼らの意志によって生死を選択する力を与え給うた。(ヨハネ5:22)もし人父を敬う如くに子を敬うならば、彼らは生きるであろう。(ヨハネ5:23)
 まことにわれ汝らに言う、わが教えの意味を悟り、万人共通の父を信じる者は、既に生命を得て、死より免れたるものである。(ヨハネ5:24)人生の意義を悟った者は既に死を離れて、永久に生きるのである。(ヨハネ5:25)何となれば、父は自ら生きるが如く子にもそれ自身の中に生命を与え、(ヨハネ5:26)そうして自由を与え給うたからである。これによっても彼は人の子なのである。(ヨハネ5:27)
 これよりすべての人間は二つに分かたれる。(ヨハネ5:28)一方──善をなす者は、──生命を見出し、悪をなす者は、──滅びるであろう。(ヨハネ5:29)そうしてこれはわが定めたることにあらず、父より悟りしことである。わが定めたることは正しい、なぜなら、われはわが欲することを行わんがために定むるにあらず、万人をして万人の父の欲するところを行わしめんがために定むるが故である。(ヨハネ5:30)
 もしわれわが教えの正しきを万人に証明するならば、わが教えは確率しないであろう。(ヨハネ5:31)しかしわが教えを確立するものは外にある、即ちわが教えるところの行いである。その行いは、わが教えるは自らするにあらず、万人の父の名によって教えるのであることを示す。(ヨハネ5:36)そうしてわれを教え給いしわが父また、万人の霊に刻まれたわが戒律の真実なるを証明し給う。
 されど汝らは彼の声を悟ろうとせず、知ろうとしない。(ヨハネ5:37)その声の意味するところを保とうとしない。汝らのうちにあるところのものは、天より降った霊であるのに、汝らはそれを信じようとしないのである。(ヨハネ5:38)
 汝ら汝らの聖書の意味を深く探れ。汝らはそこにわが教えにあると同じ教え、──自分一人のために生きず、人々に善をなせと言う戒律を見出すであろう。(ヨハネ5:39)何が故に汝らはわが戒律を信じようとしないのであるか、万人に生命を与えるところのものを信じようとしないのであるか?(ヨハネ5:40)われは万人に共通なる父の名によって汝らを教えるのに、汝らはわが教えを受容せず、何人にまれ自己の名において汝らを教える時、それを信じるのである。(ヨハネ5:43)
 汝らは人々の互いに語り合うことを信じてはならない。ただ何人の中にも父と同じ子のあることのみは、これを信じることが出来る。(ヨハネ5:44)
 そして、人々が天国を目して何か眼に見えるものであると思ったりしないで、神の国は父の意志の遂行によって成るものであることを悟り、父の意志の遂行は、各人の努力にあることを知らしめんがために、また、生命は個人自身のために与えられたものでなく、父の意志遂行のために与えられたものであって、この父の意志の遂行のみが人々を死から救って、生命を与えるのであることを悟らしめんがために、──イエスが次のような比喩を語った。
 彼は言った──一人の富める人があった、ある時彼はその家を出て、旅に行かなければならなかった。(ルカ19:11,12)出発に当って彼は自分の奴隷どもを呼び集め、彼らに各自十タラントづつを与えて、言った──わが不在中汝らみなわが与えたものをもって働け。(ルカ19:13)然るに、彼が出立した後、この町の住民の中に、われらはもはや彼に仕えないというものが出てきた。(ルカ19:14)
 富める人は旅から帰るや、金を与えて置いた奴隷どもを呼び、命じて彼らがその金をもって何をしたかを語らしめた。(ルカ19:15)
 最初の者進み出て言うには──主人よ、われは汝の一に対して十を儲けたと。(ルカ19:16)そこで主人は彼に言った──よし、善き下僕よ。汝は小なることに忠実であったから、大なることを委そう──われと協同して、わが富のすべてに居れ。(ルカ19:17)
 次の奴隷が進み出て言った──主人ヨ、汝のタラントに対してわれは五つのものを儲けた。(ルカ19:18)主人は彼に言った──よくしたぞ、善き奴隷よ。われと共にわが財産のすべてに居れ。(ルカ19:19)
 次の一人が来て言った──ここに汝のタラントがある、われはそれを布に包んで埋めて置いた。(ルカ19:20)これ汝を恐れたがためである。汝は厳しい人であって、置かぬものを取り、播かぬものを集めるが故である。(ルカ19:21)そこで主人は彼に言った──愚かなる奴隷よ! われは汝の言葉通りに汝を裁くであろう。汝はわれを恐るるにより己が金を地に埋めて、それをもって働かざりしと言う。もし汝われの厳しくして、与えざるにとることを知るならば、何ぞわれの汝に命じたることをしなかったのであるか?(ルカ19:22)もし汝わがタラントをもって働きしならば、わが富は殖え、汝もわが命ぜしことを行い得たであろうに。然るに汝は、そのためにタラントを与えられながらそれをしなかった。故に汝はそれを所有することは出来ない。(ルカ19:23、マタイ25:26,27)
 かくて主人は、それをもって働かざりしものからタラントを取り上げて、それを多く働いたものに与えた。(ルカ19:24、マタイ25:28)その時下僕ども彼に言った──主よ、彼は既に多くを持っていると。(ルカ19:25)主人は言った──多く働きしものにそれを与えよ、なぜなら、持てるものをよく守る者には、その上にも与えらるるものであるからである。(ルカ19:26)わが力の中にあるを欲しない者は、ここにいないようにそれを追い出せ。(マタイ25:30)
 主人とは、これ生命の本源、霊である、父である。その奴隷とはこれ人々である。タラントとは、これ霊的生命である。主人自らは自己の財産をもって働かんとはせず、奴隷どもに各自それをもって働くことを命じたるが如く、人の中にある霊的生命もまた彼らに、人の生命のために働くことを命じて、その為すがままに任せたのである。主人の権力を認めないと言って来た人々とは、これ生命の霊を認めない人々である。主人の帰着と清算の要求とは、これ肉の生命が滅びて、人間の運命の決せられる時──彼らがなお彼らに与えられたる生命以外の生命を持つや否やの決せられる時である。主人の意志を体して、彼らに与えられたものをもって働き、与えられた金に対して金を儲けた奴隷達とは、これ、生命を受けてその生命の父の意志なることと、他の生命に仕えなければならぬことを悟っている人々のことである。自分のタラントを隠し、それをもって働くことをしなかった愚かな悪しき奴隷とは、これ、己が意志のみを遂行して、父の意志を顧みず、他人の生命のために仕えない人々のことである。主人の意志を行って、その財産を殖やすために働いた奴隷は、主人の全財産の協同者となったが、主人の意志を体せず、主人のために働かなかった奴隷は、彼らに与えられてあったものをまで失ってしまう。父の意志を行って生命に仕えた人々は、父の生命の協同者となって、肉の生命の滅ぶるにも拘らず、永遠の生命を受ける。父の意志を行わず、その生命に仕えない人々は、持っている生命をも失って、滅びてしまう。主人の権力を認めようとしなかった人々は、主人にとって存在しない人々である。彼は彼らを追い出してしまう。霊(子)の生命を自身の中に認めないところの人々は、父にとってないものである。
 この後イエスは荒野へ行った。(ヨハネ6:1)多くの人々が彼に従った。(ヨハネ6:2)彼は山にのぼり、弟子達と共にそこに坐した。(ヨハネ6:3)そして多くの人の従い来るのも見て言った──われらいずこよりパンを得て、これら多くの人々を養うべきであるか。(ヨハネ6:5)ピリポは言った──一同に少しづつでも与えるには、二百デナリのパンでも足るまい。(ヨハネ6:7)われらの手には僅かのパンと魚とがあるのみである。──すると、他の弟子が言った──彼らはパンを持っている、われは見た──現にあの子供は五つのパンと二ひきの魚を持っている。(マタイ14:17、ヨハネ6:9)そこでイエスは言った──彼ら一同を卓の上に坐せしめよ(ヨハネ6:10)
 その時イエスは手許にあったパンをとって、それを弟子達に分かち与え、彼らに命じて他のものにも分かち与えしめた。かくて一同は互いにそれを分け始めたところ、一同が満腹してまだ多くのパンが余った。(ヨハネ6:11)
 翌日人々は再びイエスの許に集まった。彼は彼らに言った──汝らかくわが許に来るは、昨日奇蹟を見たが故にあらず、パンを食して満ち足りたからである。(ヨハネ6:26)そして彼らに言った──汝ら朽ちる糧のために働かず、常しえの糧のために働け、それは人の子の霊のみが与うるものであって、神によってしるしせられたるものである。(ヨハネ6:27)
 ユダヤ人達は言った──神の業をなすためには何をなすべきであるか?(ヨハネ6:28)
 イエスは言った──神の業は、彼が汝らに与え給うた生命を信じることの中にある。(ヨハネ6:29)
 彼らは言う──われらにわれらが信じ得るだけの証明を示せ。汝は何を行うか?(ヨハネ6:30)われらの父達は荒野でマナを食した。神が天から彼らに食うべきパンを与えたのである。かくしるされてある。(ヨハネ6:31)
 イエスは彼らに答えた──天の与うる真のパンとは──父の与え給う人の子の霊である。(ヨハネ6:32)何となれば、人の糧、それは天より降れる霊であるからである。世に生命を与うるものもまたこの霊である。(ヨハネ6:339
 わが教えは真の糧を人々に与える。われに従うものは飢えることなく、わが教えを信じる者は決して渇きを知らない。(ヨハネ6:35)されどわれは既に汝らに言った、汝らはそれを見ながら、それを信じないのであると。(ヨハネ6:36)
 父が子に与えた生命はすべてわが教えの中に現われて居り、それを信じる者はことごとく、それに与かる者となるであろう。(ヨハネ6:37)何となれば、わが天より降りしは、己が欲するところをなさんがためにあらず、われに生命を与えし父の意志をなさんがためであるからである。(ヨハネ6:38)われを遣わしし父の意志は、彼のわれに与えし生命を完全に保ちて、その中の何ものをも滅ぼさざることの中にある。(ヨハネ6:39)故に、われを遣わしし父の意志はまた、子を見て彼を信じるすべての人に永遠の生命を持たしむることの中にもある。従ってわが教えは、終りの日(肉の)において新たに生命を与えるのである。(ヨハネ6:40)
 ユダヤ人らは彼の言ったこと、彼の教えが天より降ったものであるということに混乱した。(ヨハネ6:41)彼らは言った──見よ、これはヨセフの子イエスではないか。われらは彼の父母を知っている。何をもって彼、彼の教えが天より降りしものとは言うぞ?(ヨハネ6:42)
 ──われの誰であってどこより来たりしかについて論ずるのを止めよ。(ヨハネ6:43)わが教えは、われモーゼの如く、神シナイ山にてわれに語れりと汝らに告ぐることによりて真理なのでなく、それが同じく汝らの中にあることによって真理なのである。わが戒律を信じる者はすべて、われ語るが故に信じるにあらず、われらが共通の父彼を自らの方へ導き給うが故に信じるのである。そうしてわが教えは彼に、終りの日において新しき生命を与える。(ヨハネ6:44)預言者達の書には、すべての人は神によって教えられるであろうとしるされてある。父を悟り、その意志を悟るべく教えられる人はすべて、そのこと自身においてわが教えに身を委ねたるものである。(ヨハネ6:45)
 では、父を見しものありやと言えば、それは未だかつてないのである。ただ神より来たれる者のみ父を見、また見つつあるのである。(ヨハネ6:46)
 われ(わが教え)を信じる者は、永遠の生命を持つ。(ヨハネ6:47)わが教えは生命の糧である。(ヨハネ6:48)汝らの父達は天より直接降った食物マナを食したが、それでも死んだではないか。(ヨハネ6:49)天より降りし真の糧は、それによって養われたる者をして死ぬことなからしむる底のものである。(ヨハネ6:50)わが教えは天より降れる生命の糧である。それによって養わるるものは、永久に生きる。そうしてわが教うるこの糧とは、すなわち万人の生命のために与うるわが肉である。(ヨハネ6:51)
 ユダヤ人達は彼の言ったことを悟らなかった、そしていかにしてまた何が故に己が肉を人の糧のために与え得るかということについて論議し始めた。(ヨハネ6:52)
 そこでイエスは彼らに言った──汝らもし己が肉を霊の生命のために与えないならば、汝らに生命はないであろう。(ヨハネ6:53)霊の生命のために己が肉を与えざる者には、真の生命はないであろう。(ヨハネ6:54)わがうちにありて霊のために肉を与えるもの、それのみ生きるのである。故にわれらの肉は真の生命の与うる者、それのみがわれであり、真のわれであり、それはわがうちにあり、われまたそのうちにある。(ヨハネ6:56)そうして父の意志 (みこころ) によってわれの肉の中に生きるが如く、わがうちに生きるところのものまたわが意志によって生きるのである。(ヨハネ6:57)
 弟子達のある者これを聞いて言った──この言葉は難解である。それを解することは困難である。(ヨハネ6:60)
 イエスは彼らに言った──汝ら余りに心みだるるが故に、人が過去において何であり、現在何であり、将来いかにあるべきかについてわが言う言葉が難解に思わるるのである。(ヨハネ6:61)人は肉における霊である。そうして霊ひとりよく生命を与え、肉は生命を与えないのである。汝らにしかく難解と思わるる言葉の中にも、われは、霊は生命なりという以外には、何一つ言っては居らぬのである。(ヨハネ6:63)その語イエスは己に近きものの中より七十人を選んで、自ら行かんと欲したところどころへ彼らを送った。(ルカ10:1)彼は彼らに言った──多くの人は真の生命の幸福を知らない。われは彼らを憐れみ、彼らを教えてやりたく思う。されど主人一人ではその畑の収穫に人手が足りぬように、われも一人ではいかんともし難い。(ルカ10:2)汝ら諸々の町へ行って、到るところで父の意志を行うことを宣伝せよ。
 汝ら──父の意志とは、怒るなかれ、放蕩するなかれ、誓うなかれ、悪に抗するなかれ、人に差別を立てるなかれ、これらの中にある旨を告げよ。そうしてこれらすべての戒律を自ら行え。(ルカ10:3,5)
 われ汝らを遣わすは、狼の中へ羊を送るが如くである。汝ら蛇の如く慧しく、鳩の如く清らかであれ。まず第一に──己のものを一つも持ってはならぬ。袋も、パンも、金も何物をも携えてはならぬ、──ただ服と靴とのみをあ帯ぶれば足る。そうして人の間に差別を立てず、立ち寄るべき家の主人を選ぶな。(ルカ10:4)いかなる家なりとも最初に到った家にとどまれ。その家に入らば、まず主人達と挨拶せよ。(マルコ6:10)彼らもし汝らを喜ばば、とどまれ。喜ばざれば、他の家へ行け。(マルコ6:11)
 汝らの言うことに対して、彼らは汝らを憎み、迫害し、追い出すであろう。(マタイ10:22)追い出されたる時は、汝ら別の村へ行け、その村より追われれば、なお次へ行け。彼らは恐らく、羊を追う狼の如く汝らを追うであろう。しかし汝ら臆することなく、終りまで堪え忍べ。汝らは法廷に引き出され、裁かれ、鞭打たれ、自ら弁明するために上司の前へ引き出さるるであろう。(マタイ10:23)しかし法廷に引き出さるるとも臆することなく、また言うべきことを思い煩うな。汝らのうちなる父の霊、言うべきことを言うであろう。(マタイ10:19)汝らがすべての町を廻わらざるうち、人々は早くも汝らの教えを悟って、それに心を奇するであろう。(マタイ10:23)
 されば汝ら恐れてはならぬ。人の霊の中に隠れているものは、いずれは表面へ現われる。(マタイ10:26)汝らの二三の人に告げることは、数千人の間にひろまるであろう。(マタイ10:27)とりわけて──汝の肉体を殺し得る者どもを恐れてはならぬ。汝らの霊に対しては彼らといえども指一本差すことは出来ぬのである。されば彼らを恐れてはならぬ。ただ父の意志を行うことを遠ざかって、肉と霊とを滅ぼすことを恐れよ、──汝らの恐るべきはこれである。(マタイ10:28)五羽の雀は一カペイカ出せば買える、しかも父の意志によらないでは彼らといえども死なないのである。(マタイ10:29)一本の髪の毛だも、父の意志によらずしては頭から落ちない。(マタイ10:30)汝ら父の意志を体する時、また何の恐るることあらんやである。(マタイ10:31)
 すべての人がわが教えを信じるのではない。信ぜざるものはこれを憎む。なぜならそれは彼らの愛するものを奪い、不和を醸すからである。(マタイ10:34)わが教えは火の如く世界を焼く。(ルカ12:49)そうしてそのために世界に不和が醸されなければならぬ。(ルカ12:51)吾々の家にも不和が醸されるであろう。(ルカ12:52)父は子と、母は娘と、一家中の者もわが教えを悟る者を憎みて、彼らを殺すに至るであろう。(ルカ12:53)何となれば、わが教えを悟るものにとっては、父も、母も、子供も、すべての彼の財産も、何の意味をも持たないことになるからである。(ルカ14:26)
 その時正教徒の学者達エルサレムからイエスの許へ来た。イエスはある村にあり、多くの群衆その家に集まって、その周囲に立っていた。(マタイ12:15)
 正教徒らは群衆に向かって、イエスの教えを聞かないようにと説き始めた、イエスは狂人である、もし彼の戒律に従って生きるならば、人々の間には今よりなお多くの悪が行われることになるであろう。彼は悪をもって悪を追い出しているのであると彼らは言った。(マタイ12:24)
 イエスは彼らを呼び寄せて言った──汝らはわれ悪をもって悪を追い出すと言う。されどいかなる力もわれとわが身を滅ぼすことは出来ない。もしその力われとわが身を滅ぼすならば、それはなくなってしまうであろう。(マタイ12:26)汝らは脅迫、刑罰、殺戮をもって悪を追い出そうとしている、しかし悪は依然として滅ぼされない。即ち悪をもって悪を征することの不可能である所以である。しかしわれは悪を追い出すに、汝らの如き方法を用いない、──すなわち悪をもってするのではないのである。(マタイ12:27)
 われは、人々をして万人に生命を当て給いし父の霊の意志を行わしむることによって悪を追い出す。五つの戒律は、福祉と生命を与える霊の意志を表現する。(マタイ12:28)故にそれらこそ悪を絶滅するものである。そうしてこれを汝らに対するその正しきことの証明である。
 もし人々一つの霊の子でなかったならば、悪に打ち勝つことは出来ないであろう、あたかも強き者の家に入りて彼を掠奪することの出来ないが如くに。強き者の家を掠奪せんとならば、まずその強き者を繋縛しなければならぬ。かく人々も生命の霊の調和によって結ばれなければならぬ。(マタイ12:29)
 この故にわれは汝らに告ぐ、諸々の人の過ち、諸々の誤れる解釈は追及を免るるも、万人に生命を与うる聖なる霊についての誤れる解釈は何人にも許されない。(マタイ12:31)
 もし人が人に対して罵ろうとも、それはまだ何でもない、しかしもし人が、人の中にある聖なるもの、霊について罵る場合は、それは彼にとってそのままでは過ぎないであろう。われを罵ることは心のままである、しかしわれが汝らに示したる生命の戒律を悪と名づけてはならぬ。善を悪と呼ぶことは、人にとってそのままでは過ぎないであろう。(マタイ12:32)
 人は生命の霊と一つにならなければならぬ。それと一つにならないものは、それに反対する者である。人は生命の霊に仕えなければならぬ、ひとり自分一個の中のみならず、万人の中にある善の霊に仕えなければならぬ。(マタイ12:30)
 汝らもし生命と幸福とを自己の世界のために善と考えるならば、その時は万人のための生命と幸福とを愛せよ。汝らまた生命と幸福とを悪と考えるならば、その時は自らのためにも生命と幸福とを愛してはならぬ。汝らもし樹を善しと見るならば、その実もよく、もし樹を悪しと見るならば、その実も悪いであろう。何となれば樹はその実によって評価されるからである。(マタイ12:33)

六、偽りの生命

 故に人は、真の生命を受けるためには、この世において肉の偽りの生命を拒否して霊に生きなければならぬ。
 ある時イエスの母と兄弟が彼を訪ねて来たけれども、群衆がイエスを取り巻いていたので、どうしても会うことが出来なかった。(ルカ8:19、マタイ12:46)ある人彼らを見てイエスに近づき告げて曰く──汝の家の者、母と兄弟と外に立ちて汝に会わんとしていると。(ルカ8:20)
 イエスは言った──わが母とわが兄弟とは、乳の意志を悟って、それを行う者である。(ルカ8:21)
 そこで一人の婦人が言った──汝を宿せし胎は幸福である、汝を育みし乳房も幸福である。(ルカ11:27)
 イエスはこれに対して言った──父の言葉を悟ってそれを保つ者のみが幸福である。(ルカ11:28)
 一人の男がイエスに言った──汝どこに行こうとも、われは汝に従うであろう。(ルカ9:57)
 これに対してイエスは彼に言った──われに従って行くべき先はどこにもない──われにはわが住むべき家も場所もない。野獣には巣と穴があるのみであるが、人は、もし霊によって生きるならば、到るところ家である。(ルカ9:58)
 ある時イエスは弟子達と共に小舟に乗ったことがあった。彼は言った──向こう岸へ渡ろうではないかと。(マルコ4:35)──やがて湖上においてあらし起こり、波立ち騒いで、危く彼らを溺らさんばかりになった。(マルコ4:37)然るに彼は船尾に横たわって眠っていた。彼らは彼を呼び起こして言った──師よ、汝にはわれらの滅びるのが何ともないのであるか?(マルコ4:38)かくてあらしのしづまった時彼は言った──汝ら何が故にかく臆病であるか? 汝らのうちには霊の生命に対する信仰がないのである。(マルコ4:40)
 イエスはある人に言った──われに従って来たれと。その人は言った──われには老年の父がある。まずわれをして彼を葬らしめよ、その時われ汝に従って行くであろう。(ルカ9:59)
 そこでイエスは彼に言った──死者をして死者を葬らしめよ、汝もし生きてあらんと欲するならば、父の意志を行って、それを宣伝せよ。(ルカ9:60)
 また一人の人は言った──われ汝の弟子となり、汝の命を受けて父の意志を行おうと思う、されどその前にわれにわが家族を整うるを許せ。(ルカ9:61)
 そこでイエスは彼に言った──もし農夫があとを見ていたら、彼は耕すことが出来ない。いかにうしろを向く度数が少なくても、──うしろを向いている間は耕すことは出来ない。己が耕している畦以外のことはすべて忘れてしまわねばならぬ、その時初めて耕すことが出来るのである。汝にしてもし肉の生命のために起こることを思い煩っているならば、汝は真の生命を悟らず、それによって生きることは出来ないのである。(ルカ9:62)
 この後、ある時イエス弟子達と共にある村へ行った。マルタと言う一人の婦人が彼をその家に招いた。(ルカ10:38)マルタにはマリヤと言う姉妹があった。彼女はイエスの足許に坐して、彼の教えを聴いていた。(ルカ10:39)が、マルタはよきもてなしをしようとして一人立ち働いていた。
 やがてマルタはイエスの許へ来て言った──わが姉妹われ一人を働かしているのを、汝は何とも思い給わぬか。彼女もわれと共に働くよう命じ給え。(ルカ10:40)
 その答えにイエスは彼女に言った──マルタよ、マルタよ! 汝は多くのことに心を用いて思い煩うも、必要なことはただ一つだけである。(ルカ10:41)マリヤはその必要なる一つのことを選んだのである。誰も彼女からそれを取り上げることは出来ない。生命にはただ一つ霊の糧のみが必要なのである。(ルカ10:42)
 そしてイエスは一同に言った──
 われに従わんとする者は、己が意志を拒否し、常にあらゆる欠乏と、肉の苦しみを覚悟しなければならぬ、その時初めてわれに従うことが出来るのである。(ルカ9:23)何となれば、己が肉の生命のために思い煩うものは、真の生命を滅ぼすものであるからである。しかし、父の意志を行って肉の生命を滅ぼすものは、真の生命を救うものである。(ルカ9:24)何となれば、人もし全世界を得るとも、己が生命を滅ぼしまたは害しては何の益もないからである。(ルカ9:25)
 そしてイエスは言った──汝ら富に心許すな、何となれば汝の生命は、持ち物の人より多いということにはよらぬものであるから。(ルカ12:15)
 一人の富める人があった、彼のところでは穀物がよく実った。(ルカ12:16)そこで彼は考えた──納屋を建て直して、もっと大きいものを建て、それへすべてのわが富を集めよう。(ルカ12:17,18)そして自分の霊に言おう──霊よ、ここにあるものはみな汝の自由である、安んじて食い、飲み、そして楽しんで生きるがいいと。(ルカ12:19)そこで神は彼に言った──愚かなる者よ、今宵汝の霊はとられる、汝の蓄えたるものは他の者の手に得られるであろう。(ルカ12:20)
 すべて肉の生命のために備えて、神によって生きぬ者もこの通りである。(ルカ12:21)
 そしてイエスは彼らに言った──汝らはピラトがガリラヤ人を殺したと言う。彼らのかかることにあったのは、このガリラヤ人が何事か他の人より悪しきことありしによるか?(ルカ13:2)決して然らず。われらも皆同然である。もし死よりうも救いを見出さないならば、われらもまた滅ぶのである。(ルカ13:3)また塔の倒れた時それに圧し殺された十八人の人々は、果たしてエルサレムの他のすべての住民達より格別よからぬものであったか?(ルカ13:4)決して然らず。もしわれら死より救われないならば、今日でなければ明日は同じように滅びなければならぬのである。(ルカ13:5)
 もしわれらまだ彼らの如く滅びていなかったならば、われらは自身について次のように考えなければならぬ──
 ある人の庭に一本の林檎の樹が生えている。主人が庭に来てその樹をと見こう見して、そこに実のないことを認める。(ルカ13:6)主人は園丁に言う──われはもう三年来てみるけれども、この林檎は遂に実を結ばない。もはや伐り倒さなければならぬ、でないと、いたずらに地面をそこなうばかりである。(ルカ13:7)園丁は言う──主人よ、今少し待ち給え、われにこの廻わりを掘りて肥料を施さしめ、そうして次の夏の結果を見せしめ給え。恐らくは実を結ぶであろう。が、夏来るも実を結ばなかったならば、その時こそ伐り倒し給え。
 われらもまたこの通りである、肉によりて生き、霊の生命の実を結ばない間は、われらもまた──実を結ばざる林檎である。ただ何人かの情けによって辛くも夏まで生きのびるに過ぎない。もし実を結ばなかったならば、かの納屋を建てた人の如く、ガリラヤ人達の如く、また塔に圧し殺された十八人の如く、なおまたすべての実を結ばざる人々の如く、永遠の死によって滅びてしまわなければならぬのである。(ルカ13:8,9)
 これを理解するには、何の智慧をも要しない。誰しも自分で分かることである。ただに一家内のことばかりではない、全世界に生ずることにおいても、われらは判断し予測することが出来るのである。もし風が西より吹けば、われらは言う──雨であろうと、そして多くの場合その通りである。(ルカ12:5)また風が南より吹けば、われらは言う──晴れであろうと、──そして多くの場合その通りである。(ルカ12:55)われらはかく天候を予知することが出来る、然るに何ぞわれらの皆死すること滅びること、われらにとっての唯一の救いは──霊の生命であり、その意志の遂行であることを悟り得ないのであるか。(ルカ12:56)
 かくて多くの人々イエスに従って行った、そこで彼は再び一同に言った。(ルカ14:25)
 わが弟子たらんと欲する者は、父、母、妻、子、兄弟、姉妹及びすべての己が持ち物を見棄てて、常に万事に覚悟あるものでなければならぬ。(ルカ14:26)わが行うところをなす者のみ、わが教えに従う者のみ、ひとり死より救われるのである。(ルカ14:27)
 何となれば、凡ての人は、何事か始める前まずそのことの有利なりや否やを思考し、もし有利ならばそれを行うし、不利ならば放擲するものであるからである。家を建てる者はまず坐して──金は幾ら要るか、所持の金は幾らあるか、竣工までそれで間に合うや否やを数える。(ルカ14:28)すなわち建て始めてから仕上げ得なくて、人の笑い草になるようなことのないためである。(ルカ14:29)
 これと同じく、肉の生命によりて生きんと欲する者は、まず己が携わり居ることを成し遂げ得るや否やを考慮しなければならぬ。(ルカ14:30)
 またいずれの王にしても、出でて戦わんとする場合には、その前にまず一万人をもって敵の二万人に対し得るや否やを考慮するであろう。(ルカ14:31)そうしてもし対し得ずと思えば、使節を遣わして和を講じ、戦端を開かないであろう。
 これと同じく、凡ての人も、肉の生命に身を渡す前にまずよく、その生命の死に対して戦い得るや否や、もし死にしてそれより強き場合には、闘う前に和睦する方がよくないかどうかを考えなければならぬ。
 かく、汝らも皆、己がものと考えている家族、金、財産等につきまずもって考慮を費やして見なければならぬ。──そしてそれからいかなる利益があるかを計って見て、何の利益もないことを悟った時、その時初めてわが弟子となることが出来るのである。(ルカ14:33)
 これを聞いて一人の人が言った──霊の生命が間違いなくある場合はそれもよい。でなかったら、われらすべてを与えてしまって、この生命もないことになる。(ルカ14:15)
 これに対してイエスは言った──それは間違いである。人は皆霊の生命を知っている。汝ら皆それを知っている、ただ知っていることを行っていないのである。汝らがそれを行わないのは、それを疑っているからではなくて、偽りの心の煩いによって真の生命から遠ざかり、それを避けているからである。
 汝らのしていることはこうである。主人は食卓を用意して客を招いた。然るに客は辞退しはじめた。(ルカ14:16)一人は言った──われは田地を買った、行って見なければならない。(ルカ14:18)他の者は言った──われは牡牛を買った、試して見なければならぬ。(ルカ14:19)第三の者は言った──われは妻を娶った、その式を行わなければならぬ。(ルカ14:20)かくて下僕来たりて、誰も来る者のない旨を主人に告げた。主人はその時乞食どもを呼びにやった。乞食どもは辞退しないで来た。(ルカ14:21)彼らは来たが、まだ席が余った。(ルカ14:22)そこで主人は再び下僕を呼んで言った──行ってすべての人に、わが食卓に集まって、わが家を満たすようすすめて来るがよい。──かくて暇がないからとて辞退した人々は、遂にこの食事に会わなかった。(ルカ14:23,24)
 人はいずれも父の意志を行うことが生命を与えることを知っている、しかもそれに赴かないのは、富の偽りが彼らを誘っているからである。
 父の意志にそう真の生命のために、偽りの一時の富を捨てる者は、一人の賢い番頭のしたと同じことをしているのである。
 ある人が富んだ主人の許で番頭をしていた。この番頭は、自分が遅かれ早かれ主人から追い出されて、パンも家もない身分になるであろうことに気がついた。(ルカ16:1,3)そこで彼は心に考えた──よし、こうしてやろう──主人のものをこっそり百姓等に分かち与え、彼らの負債を少なくしてやろう、すれば主人がわれを追い出した時、百姓どもわが親切を覚えていて、われを見棄てないであろう。(ルカ16:4)番頭はこの通りに実行した──彼は主人の負債者である百姓どもを呼んで、彼らの証書を書き換えてやった。(ルカ16:5)百ルーブリの負債ある者には五十と書き、六十ルーブリの者には二十と書き、その他の者にも同様にした。(ルカ16:6,7)主人はそれを知ると、ひとりで言った──さてさて! 彼は中々うまくやった、こうしなかったならば、彼は食を乞い歩かねばならなかったであろう。われには損失を与えたが、その考えは中々うまい。
 なぜならわれらすべては肉の生命に対しては正確な勘定をよく知っているが、霊の生命に対しては知ろうとしないからである。(ルカ16:8)正しからざる偽りの富に対しては、われらもかくしなければならぬのである。霊の生命を得るためには、それを渡さなければならぬ。(ルカ16:9)われらもし富の如きとるに足らぬものを霊の生命のために惜しむならば、その生命はわれらに与えられぬであろう。(ルカ16:10)われらもし偽りの富を渡さないならば、われらの真の生命も与えられぬであろう。(ルカ16:11)
 一度に二人の主人に仕えることは出来ない──神と富と、父の意志と己が意志と。どちらか一つを選ばねばならぬ。(ルカ16:13)
 正教徒らもこれを聞いていた。しかし彼らは富を愛していたので、イエスを嘲笑した。(ルカ16:14)
 そこでイエスは彼らに言った──汝らは、人が富めるが故に汝らを尊敬するを見て、真に尊敬されているものと考えている。が、それは間違いである、神は外面を見ず、心を見ている。人々の前に高いものは、神の前には低いものである。(ルカ16:15)今や神の国は地上にあり、それに入る者は多い。しかしそれに入る者は富める者ではなく、何者をも持たぬ人々である。そしてこれは、汝らの律法によるも、モーゼによるも、預言者達によるも常に同一であったのである。(ルカ16:16,17)聴け、汝らの信仰による富める者と貧しき者とはいかなる者であるかを。
 一人の富める者があった。美しき衣服をまとって、日々奢り楽しんでいた。(ルカ16:19)またラザロという疥癬かきの浮浪人があった。(ルカ16:20)ラザロは常に富める者の外へ来て、富める者の喰べ残しでもないかと考えた。が、その喰べ残しすらラザロには得られなかった──富める者の犬どもがきれいに喰べてしまって、その上ラザロの痂をも舐め廻した。(ルカ16:21)やがて二人は──ラザロも富める者も死んだ。(ルカ16:22)そして富める者は地獄で遥か遠くよりアブラハムを見、疥癬かきのラザロがその傍に坐っているのを見た。(ルカ16:23)富める者は言った──父アブラハムよ、見れば汝の傍に疥癬かきのラザロが坐っている。彼はわが垣根際にごろごろしていたものである。われは汝を煩わすことを恐れる。何卒疥癬かきのラザロをわれに遣わして、彼の指を水に浸さしめ、もってわが咽喉を冷やさしめ給え──われは今この火の中で苦しんでいる。(ルカ16:24)が、アブラハムは言った──何ぞわれラザロを火の中なる汝の許へ遣わそう? 汝は世にある間欲するものを持っていた、が、ラザロはただ悲しみを見たばかりである。されば彼は今は喜ばされなければならぬ。(ルカ16:25)よしまたわれにその心があっても、それは出来ない、何となればわれらと汝らとの間には大いなる深淵があって、それを越すことが出来ないからであるlわれらは生きているが、汝らは死者であるからである。(ルカ16:26)その時富める者は言った──さらば父アブラハムよ、疥癬かきのラザロをせめてわが家まで遣わすことを許されよ。(ルカ16:27)われには五人の兄弟あり、われ彼らのために悲しむ。彼をして彼らにすべてを語り、富のいかに害多きものなるかを証明せしめ給え。さなくば、彼らまたいかにしてこの苦しみに陥らざるを得べき。(ルカ16:28)アブラハムは言った──彼らは既にその害多きことを知っている。モーゼも、すべての預言者も、このことを語っている。(ルカ16:29)富める者は言った──しかし、死者の中の誰かが甦って彼らの許へ行けば一層よいであろうと思う、彼らも一層よく思い直すであろう。(ルカ16:30)アブラハムは言った──モーゼや預言者達にすら聴かなかったとすれば、よし死者が甦ればとてそれに聴くはずがあろうか。(ルカ16:31)
 兄弟とものを分かち、人に善をなすべきであることはすべての人が知っている。モーゼのすべての律法も、すべての預言者達もただこの一事のみを語っている。汝らそれを知りながら、行うことの出来ないのは、富を愛するが故である。
 そこで正教徒中の富める一人の役人イエスの前に進み出て、彼に言った──善き師よ、永遠の生命を受けるためにわれは何を為すべきであるか?(マルコ10:17)
 イエスは言った──殺すなかれ、姦淫するなかれ、偽るなかれ、盗むなかれ、なお汝の父を崇め、その意志を行い、近きものを己自身の如く愛せよ、これである。(マルコ10:19)正教徒は言った──これらの戒律はすべて幼時よりこれを守っている。わが問うところは、汝の教えによってその外になお何を為すべきかと言うことである。(マルコ10:20)
 イエスはしばし彼の顔と、その豊かな衣服とを見ていてから、微笑して言った──ただ一つの些細なことを汝は行っていないのである、汝は汝の口にするところを行っていない。汝にしてもしこれらの戒律──殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽るなかれ、殊に重きは、己自身の如く近きものを愛せよというこれを行わんと欲するならば、すぐに汝の財産を売ってそれを貧しき者どもに与えよ──その時初めて汝は父の意志を行うのである。(マルコ10:21)
 これを聴くと、役人は眉をひそめて行ってしまった、なぜなら彼には自分の財産が惜しかったからである。(マルコ10:22)
 その時イエスは弟子達に言った──かくの如く、富める者には父の意志を行うことができないのである。(マルコ10:23)
 弟子達はこの言葉を聴いて恐れをなした。が、イエスは更に繰り返して言った──然り、子供らよ、己の財産を持つ者は、父の意志にそうことは出来ない。(マルコ10:24)富に頼る者の父の意志を行うよりは、駱駝の針の穴を通る方むしろ易いであろう。(マルコ10:25)
 そこで弟子達は更に恐怖して言った──然りとすれば、彼らはその生命すら守り難いであろう。(マルコ10:26)
 イエスは言った──人には財産なくしては己が生命も守り難いように思われる、しかし神は何ら財産なくして人の生命を守っている。(マルコ10:27)
 ある時イエス、エリコの街を通った。(ルカ19:1)この街には取税人の長で、ザアカイという富める人が住んでいた。(ルカ19:2)このザアカイはイエスの教えのことを聞いて、彼を信じていた。で、イエスがエリコへ来たことを知ると、彼に会いたく思った。が、彼の周囲には余りに多くの群衆が群がっていたので、その傍へ進むことが出来なかった。しかもザアカイは背が低かった。(ルカ19:3)その時彼は前の方へ走り出て、樹によじのぼり、イエスがその傍を通る時に彼を見ようとした。(ルカ19:4)果たしてイエスは傍を通りながら彼を見、彼の己が教えを信じるものなるを知って、言った──樹よりおりて家に帰れ、われ汝の家を訪れるであろう。(ルカ19:5)ザアカイはおりて家に走せ帰り、イエスを迎える準備をして、歓喜して彼を迎えた。(ルカ19:6)
 人々はイエスのことを非難して言い始めた──見よ彼は取税人の家、詐欺師の家へ入った。(ルカ19:7)
 一方ザアカイはイエスに言った──師よ、われはかく為さんと思う──わが財産の半分を貧しき者に施し、残りの中よりわが苦しめしすべての人に四倍にして返さんと。(ルカ19:8)
 イエスは言った──今こそ汝は自らを救った、死んでいたのが生き還り、失われたのが見出されたのである。何となれば汝は、その子を刺そうとしたアブラハムの如くに行い、己が信仰を現わしたからである。(ルカ19:9)何となれば、人の全生命は、己が霊の中に滅びつつあるものを捜し求めてそれを救い出すことの中にあるからである。犠牲は、その大いさによって計られるべきものではない。
 ある時イエスその弟子らと共に賽銭箱の前に坐っていたことがあった。人々その財を神のためにその箱へ投げ入れて行った、富める人々は来たって多くを投げ入れた。(マルコ12:41)一人の貧しき寡婦来たって、二個のポルーシカ (四分の一カペイカ) を投げ入れた。
 イエスは彼女を指して言った──見よ、あの貧しき寡婦は二ポルーシカを入れた、しかも彼は何人よりも多く献げたものである。(マルコ12:43)何となれば、多くの者は彼らの生活にとって不要なるものを献げたのであるが、あの女は持てる全部を献げたが故である。自己の全生命を献げたが故である。(マルコ12:44)
 ある時イエスはまたシモンという疥癬かきの家へ行った。(マタイ26:6)
 その家へ一人の婦人が入って来た。その夫人は三百ルーブリもする高価な、貴重な油の入った壺を携えていた。イエスは弟子達に自分の死の近いことを話した。それを聞いて婦人はイエスを憐れみ、彼に自分の愛を示そうとして、彼の顔に油を塗ろうとした。彼女はすべてを忘れて、その壺をわり、彼の頭にも足にも、全身に油をそそぎかけた。(マタイ26:7)
 そこで弟子達は、彼女の行いがよくなかったということについて互いに色々と論議し始めた。後にイエスを売った例のユダは言った──ああ何程の宝が無駄にされたことであろう。(マタイ26:8)この油を三百ルーブリに売れば、幾人の貧しき人々に分けてやることが出来たであろう。かくて弟子達婦人を責め始めたので、彼女は混乱して、自ら為したことの善悪をすらわきまえなくなった。(マタイ26:9)
 その時イエスは言った──汝らはいたずらに婦人を悩ますものである。彼女は真によきことを為したのである。汝らは無駄に貧しき人々を云々している。(マタイ26:10)汝らもし貧しき者に善を為さんとならば、するがよい──彼らはいつもそこに居る。何で彼らのことを言うことがあろう? もし貧しき者を憐れむならば、行って彼らを憐れみ、彼らに善をなすがよい。しかし彼女はわれを憐れみて、真の善をなしたのである、何となれば、その持てるすべてを与えたからである。汝らのうち誰が、必要なものと不必要なものとを知り得ようぞ? 何をもって汝らはわれに油をそそぐことの不必要なるを知るか? 彼女がわれに油をそそぎしは、わが肉体を葬る準備のためにもせよ、それは必要なことである。(マタイ26:11,12)彼女は真に父の意志をなしたのである、己を忘れて他を憐れみ、肉の勘定を忘れて、持てるもののすべてを与えたのである。(マタイ26:13)
 かくてイエスは言った──わが教えは父の意志の遂行である、父の意志にそうことはただ行為によって為し得るので、言葉によってではない。もし一人の子父の命に対して常に、「畏る、畏る」と言うとも、父の命じたことをしなかったら、彼は父の意志を行わないものである。(マタイ21:28,30)が、もし、他の子は初め「われは聞かず」というとも、後父の命によって行きそれを為せば、彼は父の意志を行っているものである。人々の間においてもこの通りで──口先にはわれ父の意志を行うと言うもの、父の意志にそうものでなく、父の欲するところを行うものこそその人である。(マタイ21:19,31)

七、われと父とは一なり

 永遠の生命の真の糧は父の意志の遂行である。
 この後ユダヤ人イエスを死刑に処せんと計ったので、イエスはガリラヤに去って、身内の者と共に生活した。(ヨハネ7:1)
 ユダヤ人の仮庵の祭が来た。(ヨハネ7:2)イエスの兄弟達は祭に行く支度をして、イエスにも共に行くべくすすめ始めた。(ヨハネ7:3)彼らは彼の教えを信じなかったので、(ヨハネ7:5)彼に言った──
 汝はいつも言っている、ユダヤ人の神への仕え方は間違っている、行いによる神への真の奉仕を知るは自身だけであると。もし汝が真実、汝の外神への真の仕え方を知る者なしと考えるならば、今われらと共に祭に行くがよい。そこには多勢の人が集まるだろうから、そこで一同の者にモーゼの教えの偽りであることを申し立てるがよい。もしすべての人々が汝を信じたら、その時は汝の弟子達にも汝の正しいことを示すことになるであろう。(ヨハネ7:3)何のために隠れているのか? 汝は言う、汝らの奉仕は偽りである、神への真の奉仕を知るは汝のみであると。いざ、それをすべての人々に示せ。(ヨハネ7:4)
 そこでイエスは彼らに言った──汝らには神に仕えるのに特別な時と場所とがある。が、われには神に仕える特別な時はない。われは常に到るところで神のために働いている。(ヨハネ7:6)われは常にこれを人々に示している、彼らの神への奉仕の偽りであることをも示している、そうしてこの故にこそ彼らはわれを憎むのである。(ヨハネ7:7)汝ら祭に行け、われはわが望みの時に行くであろう。(ヨハネ7:8)
 かくて兄弟らは去り、彼は残って、既に祭の中頃に至って出向いた。(ヨハネ7:9,10)
 ユダヤ人らは、彼が彼らの祭を尊重せず、来たり参じないことによって心をみだされた。(ヨハネ7:11)そうして多くの者は彼の教えについて論議した。ある者は、彼の言うところは真実であると言ったが、ある者は彼はただ人々を惑わすに過ぎないと言った。(ヨハネ7:12)
 祭の半ばにイエス神殿へ入り来たり、彼らの神への奉仕の偽りであること、神に仕えるには神殿においてせず、犠牲をもってせず、霊において行いにおいてすべきである旨を人々に説き始めた。(ヨハネ7:14)
 一同は彼の言葉を聞き、彼が学ばずしてあらゆる知恵を有するのに驚いた。(ヨハネ12:15)イエスは、人々が彼の智慧に驚いたと聞いて、彼らに言った──
 わが教えはわが教えではない、われを遣わした者の教えである。(ヨハネ7:16)人もし汝らをこの生に遣わしし霊の意志を行わんと欲せば、この教えはわれの作り出したものに非ずして、神より出でたるものなるを知るであろう。(ヨハネ7:17)何となれば、自ら作るものは己が頭に浮かぶところを求めるのであるが、彼を遣わししものの頭に浮かぶところを求める者は常に正しく、その中に不正がないからである。(ヨハネ7:18)
 汝らのモーゼの律法は、父の律法でない、その故にそれに従う者は、父の律法を行わず、悪と偽りとを成すものである。(ヨハネ7:19)われは汝らに父の意志のみを行えと教えるのである、わが教えに矛盾はあり得ない。(ヨハネ7:21)然るに汝らのモーゼの律法は徹頭徹尾矛盾に満ちている。(ヨハネ7:22,23)外見によりて判断してはならぬ、霊によって判断せよ。(ヨハネ7:24)
 かくて多くの者は言った──彼は偽りの預言者であると言う、しかも彼律法を非難するに、誰一人彼に抗議するものがない。(ヨハネ7:25)あるいは事実彼は真の預言者であるかもしれない。そうして役人らも彼を認めているのかもしれない。(ヨハネ7:26)ただ一つ彼を信じ難いのは、神より遣わされし者来たる時は、そのいずこより来るかを知る者なしと言われているのに、われらは彼の生まれをも、その肉親をも知っていることである。
 人々はなお彼の教えを悟らずして、その証明を求めて止まなかった。(ヨハネ7:27)
 その時イエスは彼らに言った──汝ら肉によってわれを知り、わがいずこより来たりしかを知る、されど霊によっていずこより来たりしかを知らない。われ霊によって、汝らの知らざる何者より来たれるか、汝らはまずこれを知らなければならぬ。(ヨハネ7:28)もしわれ、われはキリストなりと言わば、汝らは人なるわれを信じたであろうが、わがうちと汝らのうちにある父を信じないであろう。しかも汝らはただこの父のみを信ずべきなのである。(ヨハネ7:29)
 われはわが生命のしばしを汝らと共にここにあって、汝らにわがい出で来たりし生命の本源への道を示している。(ヨハネ7:33)然るに汝らはわれに証明を求めて、われを罰しようとしている。汝らもしこの道を知らないならば、わが居らずなりし暁には、もはやいかにしてもそれを見出すことは出来ないであろう。われを論ずる必要はない。それよりわれに従うべきである。わが語るところを行うものあらば、その人こそわが汝らに語ることの真実なりいや否やを知るであろう。(ヨハネ7:34)肉の生命を霊の糧となさざる人、渇く者の水を求めるが如くに真理を求めない人は、われを解することは出来ない。真理を渇望する者は、われに来たって飲め。そうしてわが教えを信じるものは、、真の生命を得るであろう。(ヨハネ7:37,38)霊の生命を受けるであろう。(ヨハネ7:39)
 ここにおいて多くの人彼の教えを信じて言った──彼の言うところは、神から出た真である。(ヨハネ7:40)ある者は彼を解せずして、なお預言によって彼の神より遣わされしものなるや否やの証明を求めて止まなかった。(ヨハネ7:41,42)また多くの者は彼と論争したけれども、誰一人彼を論駁するものはなかった。(ヨハネ7:43)正教派の学者達はその助手どもを遣わして彼と論議せしめた。(ヨハネ7:44)然るにその助手どもは正教派の祭司の長の許へ戻って言った──われら彼に対してはいかんともすることが出来ない。
 祭司の長は言った──汝らなぜ彼の罪を数えなかったか?(ヨハネ7:45)
 彼らは答えた──今日までまだ一人の人も彼の如く語った者はない。(ヨハネ7:46)
 その時正教徒達は言った──彼を論駁することが出来ず、人民彼の教えを信ずればとて、それは何の意味もないことである。(ヨハネ7:47)われらは彼を信じず、役人は一人もこれを信じない。(ヨハネ7:48)人民こそ呪われたるものである、彼らは無知蒙昧なるが故に、何者をも信じるのである。
 そこで、先にイエスがその教えを説き聴かせたニコデモが、祭司の長に言った。(ヨハネ7:50)──その言葉を聞かず、その導かんとすることの何たるかを語らずして、人を批判することは出来ない。(ヨハネ7:51)
 彼らは彼に言った──判断することも聞くこともない。われらは知っている、預言者がガリラヤから出るはずのないことを。(ヨハネ7:52)
 その後またイエスは正教徒達と語った時に彼らに言った──光に証明の必要がない如く、わが教えの真理にも証明の必要はあり得ない。わが教えは、真の光である、人々はそれによってことの善悪を判別することができるのである、この故にわが教えを証明することは出来ない──わが教えこそそれ以外一切のものの証明なのであるから。われに従う者は暗黒に堕ちずして生命を与えられる。生命と光とは同じものである。(ヨハネ8:12)
 されど正教徒達は言った──それを言うものは汝一人である。(ヨハネ8:13)
 そこで彼は彼らに答えた──これを言うものわれ一人にしろ、とにかくわれは正しい、何となればわれはわがいずこより来たりいずこへ行くかを知るからである。わが教えによれば人生に意義があるが、汝らの教えではそれがない。(ヨハネ8:14)のみならず、われは一人で教えるでない、わが父──霊もまた同じことを教えているのである。(ヨハネ8:18)
 彼らは言った──汝の父はいずれにあるか?
 彼は言った──汝らわが教えを悟らず、この故にわが父を知らないのである。(ヨハネ8:19)汝らは汝らのいずこより来たりいずこへ行くかを知らないではないか。
 われは汝らを導かんとするのに、汝らはわれに従う代りに、われの何者なるかばかりを考究している。この故に汝らは、われの汝らを導かんとする救いと生命とに到り得ないのである。(ヨハネ8:21)汝らこの惑いの中にとどまり、われと共に行かないならば、汝らは遂に滅ぶであろう。(ヨハネ8:24)
 そこでユダヤ人らは訊ねた──汝は何者であるか?
 彼は言った──われは最も初めより汝らに言っている。(ヨハネ8:25)われは霊をわが父と認める人の子であり、父より悟りしところのものを世に伝えているのである。(ヨハネ8:26)故に汝ら自らの中に人の子を崇め讃えるならば、その時初めてわれの何者なるやを知ることが出来る。何となれば、われは人としての己より語りまた行うにあらず、父のわれに教えしことを語りまた教えるのである。(ヨハネ8:28)
 そうして、われを遣わしし者は常にわれと共にある。父はわれを離れない、何となれば、われは彼の意志を行うものであるからである。(ヨハネ8:29)
 わが言葉を守り、父の意志を行う者は、真にわれに学ぶものである。真理を知るためには人に善を施さなければならぬ。人に悪を行うものは、暗黒を愛してその方へ行き、人に善をなすものは、光の方へ行く。この故に、わが教えを悟るためには、善き行いをしなければならぬ。(ヨハネ8:31)善を行う者は真理を知り、悪と死より自由であろう。(ヨハネ8:32)何となれば心に迷いある者は皆、その迷いの奴隷となるからである。(ヨハネ8:34)
 奴隷は常に主人の家に住まず、主人の子は常にその家に住む如く、人もまた、人生の道に踏み迷って、その惑いの奴隷となるならば、永久に生きずして死ぬであろう。ただ真理を悟るもののみは永遠に生きて残る。そうして真理こそは、奴隷とならず子となることの中に存するのである。この故に、汝らもし惑うならば、奴隷となって死ぬであろう。(ヨハネ8:35)されど真理を悟れば、自由の子となりて、永遠に生きるであろう。(ヨハネ8:36)
 汝らは、われこそアブラハムの子であって、真理を知るものと自称している。しかも汝らは、わが教えを悟り得ざるが故に、われを殺さんと欲している。(ヨハネ8:37)そうして結果は、われはわが父より悟りしことを語り、汝らは汝らの父より悟りしことを為さんとしているのである。(ヨハネ8:38)
 彼らは言った──われらの父はアブラハムである。
 イエスは彼らに言った──もし汝らアブラハムの子であるならば、汝らは彼の行いを行わねばならぬ。(ヨハネ8:39)然るに汝らは今われ神より悟りしことを汝らに告げしとてわれを殺そうとしているではないか。アブラハムはかかることはしなかった。して見れば汝らは、神に仕えるに非ずして、自分らの父、他の父に仕えているのである。(ヨハネ8:40)
 彼らは彼に言った──われらは皆一人の父の子である、──みな神の子である。(ヨハネ8:41)
 そこでイエスは彼らに言った──もし汝らの父わが父と同じ父ならば、汝らはわれを愛さなければならぬはずである、何となればわれは父より出でしものであるから。われは己自ら生まれ出た者ではない。(ヨハネ8:42)汝らはわれと同じ父の子でない故に、わが言葉を解せず、わが教え汝らのうちに入らないのである。もしわれも汝らも同じ父より出づるならば、汝らわれを殺そうとはし得ないはずである。汝らわれを殺さんとする以上、われらは同じ父の子ではないのである。(ヨハネ8:43)
 われは善の父神より出で、汝らは悪の父悪魔より出た者である。汝らは汝らの父悪魔の肉欲を行わんと欲している。彼は常に殺人者であり、虚言者であって、彼の中には真理はない。もし彼悪魔が何か言うとすれば、それは己一個のことであって、万人に通ずべきことではない、彼は虚偽の父である。この故に汝らは悪魔の下僕であり、彼の子である。(ヨハネ8:44)
 見よ、汝らの誤りを挙げ数えることのいかに易しいかを。もしわれに誤りあらば、われを罪せよ。もしわれに過ちなくば、何ぞわれを信ぜざる?(ヨハネ8:46)
 そこでユダヤ人らは彼を罵り始めて、彼は狂人なりと言った。(ヨハネ8:48)
 彼は言った──われは狂人ではない、われは父を崇めるものであるのに、汝らはわれを殺そうとしている、して見れば、汝らはわが兄弟ではなく、他の父の子である。(ヨハネ8:49)
 わが正しきことを証明するものはわれではない、真理がわがために語るのである。(ヨハネ8:50)故に重ねて汝らに告ぐ──わが教えを理解してそれを行うものは、死を見ることなしと。(ヨハネ8:51)
 そこでユダヤ人らは言った──われら汝を狂気せるサマリヤ人と言う、これ果たして誤りであろうか? 汝自身自らの罪証をあげているではないか。預言者達は死し、アブラハムも死んでいる、然るに汝は、汝の教えを行う者は死を見ずと言っている。(ヨハネ8:52)アブラハムは死んだ、然るに汝は死せざるか? あるいは汝アブラハムより大いなるか?(ヨハネ8:53)
 ユダヤ人らはなお、ガリラヤ生まれの彼イエスが重要なる預言者なりや否やについて論ずるのみで、彼が彼らに語ったこと、彼は人としての自分については何も語らず、ただ彼の中にある霊についてのみ語っていることを全然忘れていたのである。
 イエスは言った──われは自らを価値ありとする者ではない。もしわれわが身について、自ら感じたることについて言うならば、わが言うところのことはすべて、何の意味をも持たないであろう。しかしここに汝らの名づけてもって神となすところのよろずのものの本源がある。われはそれについて語るのである。(ヨハネ8:54)然るに汝らは真の神を知りしことなく、現在もまた知らない。が、われはそれを知っている。われは彼を知らずということが出来ない。もし彼を知らずと言わば、われもまた汝らと同じ虚言者となるであろう。われは彼を知り、その意志を知って、それを行っている者である。(ヨハネ8:55)汝らの父なるアブラハムはわが教えを見て喜んだのである。(ヨハネ8:56)
 ユダヤ人らは言った──汝は三十歳である。いかにしてアブラハムの時代に生きていることが出来たか?(ヨハネ8:57)
 彼は言った──アブラハムの居りし以前より、わが汝らに語る善の教えはあったのである。(ヨハネ8:58)
 ユダヤ人らは彼を打ち殺すために石を掴んだ。が、彼はそこを立ち去った。(ヨハネ8:59)
 そうしてイエス、道に生まれながらの盲人を見た。(ヨハネ9:1)
 弟子達は訊ねた──この人生まれながらにして盲いたるは誰の罪によるか──彼自身か彼の身内の者彼を教えざりしによるか?(ヨハネ9:2)
 イエスは答えた──彼の両親の罪でもなく、彼自身の罪でもない。ただその中に、闇のあるところに光あらしめんとする神の業があるのである。(ヨハネ9:3)もしわが教えあれば、それは世の光である。(ヨハネ9:5)
 そこでイエスは盲人の前に、彼は霊の神の子であるという教えを啓示した。この教えを知ると共に、盲人は光を知った。(ヨハネ9:6,7)かくて以前にこの男を知っていた人は彼を見まがうまでになった。彼は以前の男に似てはいたが、別の人間になっていた。(ヨハネ9:8,9)彼は言った──われはそれである、ただイエスのわれにわれの神の子なるを示されしより光ひらけ、われはこれまで見ざりしものを見るに至ったのである。(ヨハネ9:11)
 人々この人を正教派の教師の許へつれて行った。(ヨハネ9:13)然るにそれは安息日であった。(ヨハネ9:14)
 正教徒達は彼に、以前には盲人であったものがどうしてすべてのことを悟るようになったかを訊いた。
 彼は言った──どうしてであるかは知らない。ただ今はすべてが分かることだけを知っている。(ヨハネ9:15)
 彼らは言った──汝はそれを神の道に外れて悟ったのである、何となればイエスはそれを安息日に為したのであるから。のみならず世の常の人に人の眼を開くことは出来ないはずである。
 かくて彼らは争い始めた。(ヨハネ9:16)そして眼を開かれし者に訊ねた──汝はかの人のことをいかに思うか?
 彼は言った──われは思う、かの人は預言者であると。(ヨハネ9:17)ユダヤ人らは、彼の両親を呼んでそれに訊くまで、彼が以前は盲人であったのが今は眼が開かれたのであるということを信じなかった。(ヨハネ9:18)彼らは訊いた──これがかの生まれながらにして盲人であった汝らの子であるか? いかにして今はかく眼を開くを得たのであるか?(ヨハネ9:19)
 両親は言った──われらは彼がわれらの子にして、生まれながらに盲いであったことは知っている。(ヨハネ9:20)しかしいかにして眼を開きしや、それは知らない。彼は既に大人である、彼自身に訊ね給え。(ヨハネ9:21)
 正教徒らはまたその人を呼んで言った──真のわれらの神に祈るがいい、汝の眼を開きしかの男、あれは世の常の人である、神より出でた者ではない、われらはよくそれを知っている。(ヨハネ9:24)
 そこで目を開かれた人は言った──かの人神より出でたる者なるや否や、われはそれを知らない。わが知るはただ、前には光を見なかったわれの、今はそれを見得ることだけである。(ヨハネ9:25)
 正教徒らは再び問うた──彼は汝に何をしたか、いかにして汝の眼を開いたか?(ヨハネ9:26)
 彼は言った──われは既に汝らに告げたが、汝らはそれを信じないではないか。汝らもし彼の弟子たることを欲するならば、われ再びそれを汝らに物語るであろう。(ヨハネ9:27)
 ここにおいて、彼らは彼を罵り始めた──汝は彼の弟子であるが、われらはモーゼの弟子である。(ヨハネ9:28)モーゼが語ったのは神その人である。が、彼についてはわれらそのいずこより来たれるかも知らない。(ヨハネ9:29)
 その人は答えて言った──かの人はわが眼を開きくれたのに、汝らは彼のいずこより来たれるかも知らずとは怪しきことである。(ヨハネ9:30)神は罪人に聴き給わず、神を崇め、その意志を行う人々にのみ聴き給うはずである。(ヨハネ9:31)神より出でし人にあらずして、盲人の眼を開き得る人は、いつの世にもあるはずなし。かの人もし神より出た人でなかったなら、何事をも為し得ないであろう。(ヨハネ9:33)
 そこで正教徒らは怒って言った──汝全身惑いの中にひたりながら、なおかつわれらを教えんとするか。──そして彼を追い出してしまった。(ヨハネ9:34)
 イエスは言った──わが教えは生命の覚醒である。わが教えを信じるものは、肉においては死すとも、生けるものとして残る、生きてわれを信じる者は死することなし。(ヨハネ11:25)
 かくてイエスは三度び人民を教えた。彼は言った──
 人々のわが教えに従うは、われ自らをれを証明したが故ではない。真理を証明することは出来ない。真理はそれ以外のすべてのものを証明するものである。しかし、人々がわが教えに従うは、それが人々に知られたる唯一のものであり、彼らに生命を約束するからである。(ヨハネ10:2)
 わが教えは人々にとってあたかも、牧者が扉を開いて羊どものもとへ入り来たり、牧場へ連れ行くために彼らを集める時の、羊にとっての牧者の馴染み深い声の如きものである。(ヨハネ10:3,4)然るに、汝らの教えは誰も信じる者がない、なぜならそれは人々にとって他人であり、人々はその中に汝らの肉欲をのみ見るからである。それは人々にとってあたかも、羊にとっての、扉口より入らずして垣を越えて入り込む人の顔の如きものである。羊どもは彼を知らない、そして彼を盗人であると感知する。(ヨハネ10:1,5)わが教えは、羊にとっての唯一の扉口の如く、唯一にして真実なるものである。(ヨハネ10:7)モーゼの律法なる汝らの教えはすべて、偽りである、羊にとっての盗人、強盗の如きものである。(ヨハネ10:8)わが教えに従う者は真の生命を発見する、あたかも羊が、牧者の後にさえ従い行けば食物を見出すのと同じである。(ヨハネ10:9)何となれば、盗人はただ盗み、掠め、殺すためだけに来るのであるが、牧者は生命を与えるために来るのであるからである。そうしてわが教えのみ独り真の生命を約束し、それを与える。濁10)
 牧者の中には羊を生命の如くに思い、羊のためには自己の生命を与えて惜しまない牧者がある。これは真の牧者である。(ヨハネ10:11)また、自分は雇われたるものであり、羊は自分達のものでないというので、羊のことに心を用いない、その日やといの牧者もある。かかる牧者は、もし狼の襲撃を受ければ、たちまち羊を捨てて逃げ去り、羊を狼の餌食にしてしまう。(ヨハネ10:12)これは真の牧者ではない。これと同じく、世には人々の生命に何ら感心を持たぬ偽りの教師もある。が、真の教師とは、人々の生命のためには己が霊を与えて惜しまない人々である。(ヨハネ10:13,15)
 われはこの種の教師である。(ヨハネ10:14)わが押し家は己が生命を人々の生命のために与えて惜しまないところにある。(ヨハネ10:11)何人もわれよりわが生命を取る者はない、しかしわれは自ら進んで、真の生命を得んがために、人々のためにそれを与えるのである。この戒律をわれはわが父より受けた。(ヨハネ10:18)そうして父のわれを知り給うが如く、われもまた彼を知る、故に己が生命を人のために捨てるのである。(ヨハネ10:15)われ父の戒律を行う故に、父われを愛し給うのである。(ヨハネ10:17)
 やがては、現在のここにある人ばかりでなく、万人わが声を悟り、われと一つになり、すべて一致して、彼らの教えも一つになる時が来るであろう。(ヨハネ10:16)
 ユダヤ人らはkレを取り巻いて言った──汝の言うところはすべて解し難く、われらの聖書と一致しない。われらを惑わすことなく、単純に直接に、汝はわれらの書にあるいつかは世に来るべきかのメシヤなるや否やを語れ。(ヨハネ10:24)
 そこでイエスは彼らに答えた──わが何者なるやはわれ既に汝らに話した、然るに汝らそれを信じないのである。汝らもしわが言葉を信じないならば、わが行いを信じよ──それによってわれの何者であり、何のために来たれるかを悟れ。(ヨハネ10:25)
 しかし汝らは信じない、何となればわれに従って来ないっからである。(ヨハネ10:26)
 われに従い、わが言うところをなす者は、われを解するのである。(ヨハネ10:27)そうしてわが教えを悟りそれを行う者は真の生命を得るのである。(ヨハネ10:28)わが父彼らをわれと一つにしたので、何人もわれらを引き離すことは出来ない。(ヨハネ10:29)われと父とは一体である。(ヨハネ10:30)
 ユダヤ人らはこれによりて怒り、彼を打ち殺さんとて石をとった。(ヨハネ10:31)
 しかし彼は彼らに言った──われら汝を善きことのために殺さんとするのではない、汝人の身をもって自らを神と等しくするが故である。(ヨハネ10:33)
 そこでイエスは彼らに答えた──見よ、これと同じことが汝らの書物にも言われているではないか。それには神自ら他の支配者どもに対して、汝らは神であると言ったと録されてある。(ヨハネ10:34)彼もし既に堕落せる人々をすら神と名づけたとするならば、神が愛してこの世に遣わされしものを神の子と呼ぶを、汝ら何ぞ瀆神と言うか。一切の人は皆霊によって神の子である。(ヨハネ10:35,36)もしわれ神の道によって生きないならば、わが神の子なるを信じてはならぬ。(ヨハネ10:37)されどもし神の道によって生きるならば、わが生命によって、わが神の中にある者なるを信じなければならぬ、その時汝らは父わがうちにあり、われ父の中にあることを悟るであろう。(ヨハネ10:38)
 そこでユダヤ人ら争い始めた──ある者は言った──彼は狂気していると。他の者は言った(ヨハネ10:19,20)──狂気せる者人の眼を開くことは出来ないと。(ヨハネ10:21)
 かくてユダヤ人らは彼をいかにすべきかを知らなかった。そして彼を裁くことが出来なかった。(ヨハネ10:39)そこでイエスはまたヨルダンの向こうへ渡って、そこにとどまった。(ヨハネ10:40)
 そうして、多くの人々彼の教えを信じて、これこそヨハネの教えと同じく真実なるものであると言った。(ヨハネ10:41)かくて多くの者彼の教えを信じた。(ヨハネ10:42)
 ある時イエスはその弟子達に訊ねた──人々はわが神の子と人の子についての教えをいかに解し居るであろうか?(マタイ16:13)
 彼らは言った──ある者はヨハネの教えの如きものと解し、他の者はイザヤの預言の如きものと思い、なお他の者はエレミヤの教えに似たものであると言って、汝を預言者であると思っているようである。(マタイ16:14)
 されば汝らはわが教えをいあに解するや?(マタイ16:15)
 そこでシモン・ペテロが彼に言った──わが解釈によれば、汝の教えは、汝が生命の神の選ばれたる子であるという一事にかかるものである。汝は、神とは人のうちにある生命であると教えている。(マタイ16:16)
 イエスは彼に言った──シモンよ、これを悟れる汝は幸福である。人は汝にこれを啓示することは出来ない、汝がこれを悟ったのは、汝のうちなる神が汝にこれを示したのである。汝にこれを示したのは、肉の考慮でもなければ、わが言葉でもない、わが父なる神直接これを汝に示されたのである。(マタイ16:17)
 そうしてこの上にこそ死を知らざる人々の集まりの基礎が置かれるのである。(マタイ16:18)

八、生命は時間を超越してある

 故に真の生命はただ現在における生命である。
 イエスは言った──一切の肉の苦悩及び喪失に対する覚悟のないものは、われを解しないものである。(マタイ10:38)肉の生命のためにすべてのよきものを得ている者は、真の生命を滅ぼすものである。が、わが教えを行わんがために肉の生命を滅ぼすものは、真の生命を受ける者である。(マタイ10:39)
 これらの言葉に答えて、ペテロが彼に言った──かくわれらは汝に聴き、すべての煩いと財産とを捨てて汝に従ったのである。これに対してわれらはいかなる報いを受けるであろうか?(マタイ19:27)
 イエスは彼に言った──わが教えのために、家、姉妹、兄弟、父、母、妻、子、並びに己が田畑を捨てし者は、姉妹、兄弟、田畑その他肉の生命を支うるに必要なるすべてのものの百倍以上のものを受くる外、時間を超えたる生命をも受けるであろう。(マルコ10:29,30)天国には報償というものはない。天国そのものが目的であり報償である。天国においてはすべてが平等であって、先の者も後の者もないのである。(マルコ10:31)
 何となれば天国は次の比喩に似たものであるからである。ある家の主人朝から家を出て苑で働く労働者を雇いに行った。(マタイ20:1)彼は労働者を一日一グリーヴナづつで雇って園へ行って働かしめた。(マタイ20:2)その後また食事に行って労働者を雇い、それをも園へやって働かし、夕方また雇って、働きに遣わした。いずれのものとも一様に一グリーヴナづつの約束であった。(マタイ20:3-7)勘定の時が来た。主人はすべての者に一様に支払うことを命じた。しかも最後に来た者に先に払い、初めの者を後にした。(マタイ20:8)その時初めの者達、最後に来た者にも一グリーヴナづつ払われたのを見て、(マタイ20:9)自分らにはそれ以上払われるものと考えた。然るに初めの者達にも同じく一グリーヴナづつ支払われた。(マタイ20:10)彼らはそれをとってこう言った。(マタイ20:11)──彼らはほんのひと仕事働いたばかりであるが、われらは皆その四倍も働いている。しかも報酬が同じとはどうしたことであるか? これは不公平である。(マタイ20:12)その時主人が傍へ来て言った──汝らなにを呟くか? 果たしてわれ汝らを侮辱したのであろうか? われは雇っただけの者は払ったのである。われらの契約は一グリーヴナづつではなかったか。(マタイ20:13)己がものをとりて行け。もしわれ最後の者にも汝らと同じものを与えたければ、それはわが自由ではないか?(マタイ20:14)あるいは汝わが善き人なるを見て、羨ましくなったのであるか?(マタイ20:15)
 天国においては先なる者も後なる者もない、──すべて一様である。(マタイ20:16)
 ある時イエスの傍へ二人の弟子ヤコブとヨハネとが近づいて、言った──師よ、われらの汝に願うところをわれらのためになすことを約束せよ。(マルコ10:35)
 彼は言った──汝ら何を欲するか?
 彼らは言った──われらは汝と同等のものたることを願うのである。(マルコ10:36,37)
 イエスは彼らに言った──汝らは自ら求むるところを知らないのである。汝らもまたわれの如く生活し、われの如く肉の生活より清められることは出来るであろう。然れども、汝らをわれと同じものとなすことは、わが力に及ばない。(マルコ10:38,40)各人は己が努力によって、父の権威の下に入り、父の意志を行って、父の国に入ることが出来るのである。(マタイ20:23)
 これを聞いて、他の弟子達は、二人の兄弟が師と同じものとなって、弟子達の長たらんと欲したことに対して彼らを怒った。(マルコ10:41)
 イエスはそこで彼らを呼んで言った──ヨハネとヤコブよ、汝らもし弟子達の長たらんがためにわれと同じきものたらんとわれに願ったとすれば、それは間違いである。また、他の弟子達よ、汝らもしこの二人が汝らの長たらんとしたことに対して彼らを怒るならば、それもまた間違いである。ただこの世においてこそ、上に立つ者をして人民を治めしむるために、彼らを王とか役人とか呼ぶのである。(マルコ10:42、マタイ20:25)が、汝らの間には年若き者も年長っけたるものもあり得ない。汝らの間にて他より大いならんとするためには、すべての者の下僕とならなければならぬ。(マタイ20:26)汝らの中にて最初のものたらんとする者は、自らを最後の者と考えるべきである。(マタイ20:27)何となればこの中にこそ人の子についての父の意志、彼が生きているのは人につかえられんためでなく、自らすべての人に仕え、霊の生命いの償いとして肉の生命を捨てることにあるという父の意志があるからである。(マルコ10:45)
 そうしてイエスは人々に言った──父は滅び行く者の救いを求めているのである。彼は牧者が迷える羊を見出した時に喜ぶと同じようにそれを喜ぶのである。一頭の羊が迷った時、牧者は九十九の羊を残して、その身失われたる一頭の救いに赴く(マタイ18:11,12)もし女一カペイカを失わば、小屋じゅうを掃き、その見つかるまで捜すであろう。(ルカ15:8)父は子を愛し、彼をわが許へと招いている。(ルカ15:9)
 なお彼は彼らに向かって、神の意志によって生きるからとてそれを誇ってはならぬという意味について一つの比喩を物語った。彼は言った──汝もし饗宴に招かれなば、上座に座を占めることを避けよ──汝より尊き人来る時、主人は汝に言うであろう、(ルカ14:8)──そこを立って、汝より尊き人にその席を譲れと。その時汝は恥じなければならぬ。(ルカ14:9)むしろ末席に座を占むるにしかず──その時は主人汝を見出して、汝を上座に招ずるであろう、汝も面目を施すわけである。(ルカ14:10)
 かく神の国には、高慢を容れる席はない。自ら高ぶるものは、それによって自ら貶め、自ら卑下して己を価値なしと思う者は、それによって自らを神の国にて高くするものである。(ルカ14:11)
 ある人に二人の息子があった。(ルカ15:11)弟息子父に言う──父よ、われをして分家とせしめよ。父は彼を分家せしめた。(ルカ15:12)弟は己が分けまえを取り、他国へ行き、財産を浪費して、困窮し始めた。(ルカ15:13,14)かくて彼は、他国で豚飼いとまでなり下がった。(ルカ15:15)そして豚と共に団栗を食するまでに飢えた。(ルカ15:16)そこで彼は己が身の上を考えて、ひとりごちた──なぜわれは分家して父の許を去ったのであろう? 父の許にはすべてのものが豊富にある。父の許では労働者すら飽くほど食している。然るにわれはかく豚と同じものを食している。(ルカ15:17)今こそ父の許へ帰り、彼の足下に身を投げて言おう──父よ、われは汝の前に罪あり、汝の子となる資格はない。雇い百姓としてなりとわれをとれ。(ルカ15:18,19)彼はかく考えて、父の許へ行った。彼が近づくや否や、父はたちまち遠くより彼を認めて、自ら彼を迎えに走り出て、彼を抱いて接吻し始めた。(ルカ15:20)子は言った──父よ、われは汝に対して罪がある、汝の息子たる資格はない。(ルカ15:21)然るに父は聞かんともせず、労働者達に向かって言った──急ぎ最上の衣服と最上の靴を持ち来たって、彼に着せ彼に穿かせよ。(ルカ15:22)また行って肥えた子牛を捕え来たってそれを殺し、われら相共に(ルカ15:23)このわが子の死してまた生き、失われてまた見出されたることを祝おうではないか。(ルカ15:24)──然るに兄息子は畑より帰り来たり、家に近づくと共に家内より歌の声の響くを聞いた。(ルカ15:25)彼は童を呼んで言った──この饗宴は何事であるか?(ルカ15:26)童は言った──さては汝まことに知らないのであるか、汝の兄弟の帰り来たれるを。汝の父これを喜び、その祝いに肥えたる子牛を屠らされたのである。(ルカ15:27)──兄は怒って家へ入らなかった。父は彼のところへ出て来て彼を呼んだ。(ルカ15:28)が、彼は父に言った──父よ、われは幾年も汝のために働き、汝の命令に背いたことはない、然るに汝はかつて一度もわがために肥えたる子牛を裂いたことはない。(ルカ15:29)これに反して弟は家を出、酒飲みどもと共に全財産を飲み尽くしたるに、汝は今彼のために子牛を裂いて与えた。(ルカ15:30)そこで父は言った──見よ、汝は常にわれと共にあり、わがものはすべて汝のものである。(ルカ15:31)汝は決して腹立つべきではない、むしろ汝の弟の死んだものが生き、失せたものの見出されたるを喜ぶべきである。(ルカ15:32)
 一人の主人は園に植えつけをし、それを整理し、準備して、その園から出来るだけ多くの果実を得るために出来るだけのことをした。(マルコ12:1)かくて彼はその園へ労働者を送ったが、それは、彼らがそこで働いて果実を取り入れ、契約により園に対して彼に賃借料を払う約束であった。(マルコ12:2)
 主人とはこれ父であり、園とはこれ世界であり、労働者とはこれ人である。父はただ人々をして彼が彼らに与えた生命を理解せしめ、その果実を持ち来たさしめんがためのみに、己が息子、人の子をこの世へ遣わされたのである。時が来て、主人は賃貸料を集めに人を遣わした。すなわち父は人々に向かって絶えず、彼らは父の意志を行わねばならぬ旨を教えているのである。然るに労働者らは主人の使いに一物をも与えずして彼を追い返し、園は自分らの物である、自分らは己が力でそこのいる者であると考えて、そのまま生活を続けた。すなわち人々は、父の意志についての記憶を自分から追い出して、自分らは肉の生命を享楽するために生きている者と考え、各自自己一身のための生活を続けていた。(マルコ12:3)そこにおいてか主人は、再度その気に入りの家人を遣わし、更にその子を送って、労働者達に彼らの義務を想起せしめようとした。(マルコ12:4-6)しかし労働者らはことごとくその理性を失っていたので、園が彼らのものでないことを彼らに想起せしむるこの主人の子さえ殺してしまえば、自分らはすっかり安心になれるであろうと考えた。(マルコ12:7)そこで彼らは彼を殺した。(マルコ12:8)
 人々は、彼らの中に生きていて彼らに、自分は永遠であるが、彼らは永遠でないということを示す霊については、その記憶すら愛しないのである。そこで彼らは能う限り霊の意識を殺した。彼らに与えられた銀貨を布ぎれに包み、土中へ埋めてしまったのである。
 ここにおいて主人はどうすればよいか? 実を結ぶまで種子を播くのである。彼はそれをやっている。(マタイ21:41)
 人々はその霊の意識──彼らのうちにあるのを、勝手に働く邪魔になるために彼らが隠しているその霊の意識を悟ってもいなかったし、また現在悟ってもいないし、またこの理解こそは彼らの生命であることを悟ってもいなかったのである。彼らはすべてのものの基礎となっている石をとって捨てているのである。(マタイ21:42)そうして霊の生命を基礎として受け容れざるものは、天国に入らず、生命を受けることがない。信仰を保ち生命を得るためには、己が地位をわきまえて、報酬を望まないことが肝要である。(マタイ21:43)
 その時弟子達イエスに言った──われらの信仰を増し給え。われらにわれらが更に強く霊の生命を信じ、肉の生命を惜しまざるようなり得るよう教え給え。霊の生命のためにはどれほど与えなければならぬかしれないのであるから、一切を与えなければならないのであるから、しかも汝自身言っているのであるから、報いはないと。(ルカ17:15)
 これに対してイエスは彼らに言った──もし汝らの心に、あの白樺の小さい種子より大木の生ずることを信じると同じ信仰があるならば、そうして汝らそれと同じく、汝らの中に、それより秦の生命の生長すべき霊の一点の萌芽あることを信じるならば、汝らは事々しくわれに向かってその信仰を増せとは願わないであろう。
 信仰とはある驚くべき事物を信じることにあるのではなくて、自己の地位を悟り、救いの何たるかを悟ることの中にあるのである。汝もし己が地位を悟れば、報酬を期待することなく、汝に委ねられたることを信じるに至るであろう。(ルカ17:6)
 主人労働者と野より帰り来るとも、彼はすぐに彼らに向かって食卓につけとは言わないではないか。(ルカ17:7)そうしてまず家畜を追い込ませ、己が夕食を準備させ、然る後初めて、汝、坐して飲み食いせよと言うではないか。(ルカ17:8)主人は、労働者がすべきことをしたことに対して、彼に謝辞は述べないであろう。労働者また己が労働者なることを悟っていれば、己に相応するものを受くるを信じて、怒ることなく働くであろう。(ルカ17:9)
 されば汝らも父の意志を為したる時、われらは無益なる労働者である。ただ為すべきことを為したるに過ぎずと考えて、必ず報酬を期待せず、汝らにふさわしきものを受くるをもって満足すべきである。
 報いのあるべきこと、生命のあるべきことを信じんがために思い煩う必要はない──これはそれ以外であるはずはない。しかしわれらは、この生命を滅ぼさないために──そのわれらに与えられたのは、われらがその果実をもたらして、父の意志を行うために外ならざることを忘れないために思い煩うべきなのである。(ルカ17:10)
 この故に汝らは、主人を待つ下僕の如く、彼来る時すぐに彼に答え得るよう常に用意していなければならぬ。(ルカ12:35,36)下僕は、主人はいつ帰り来るか、早いか遅いか、それを知らない、故に常に用意していなければならぬのである。彼ら主人を迎える時、彼の意志を行って居れば、彼らもまた快いに違いない。
 人生においても同様である。常に、現在の各瞬間を、過去及び未来を考えることなく、またいつどこであれをするなどいうことを口にすることなく、霊の生命によって生きなければならぬ。(ルカ12:37,38)
 もし主人盗賊の来るべき時を知れば、彼は眠らないであろう。それと同じく汝らも決して眠ってはならぬ、何となれば、人の子の生命にとって時はなく、彼はただ現在に生きて、彼の生命の始め終りを知らないが故である。(ルカ12:39,40)
 われらの生活は、主人その家に留守居の長としてとどめた奴隷の生活と同一である。彼もし常に主人の意志を行い居れば、彼にもよいわけである。(マタイ24:45,46)されどもし彼、主人は早く帰らないであろうと言って、主人の命を忘れるならば、(マタイ24:48)主人は思いがけなく戻って来て、(マタイ24:50)彼を追い出すであろう。(マタイ24:51)
 されば汝ら気をゆるむることなく、常に霊によって現在に生きよ。霊の生命に時はない。(マルコ13:33)汝ら常に己に心して、飲酒、飽食、心労等に惑わされて心鈍ることなく、救いの時をあだに過ごさざるようせよ。救いの時は網の如く、万人の上に投げられる。それはいつの時を選ばぬ。この故に汝らは、常に人の子の生命によって生きなければならぬのである。(ルカ21:34-36)
 天国は凡そ次の如きものである。十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、新郎を迎えに行った。(マタイ25:1)五人は賢く、五人は愚かであった。(マタイ25:2)愚かなる者は、あかりはとったが油を携えなかった。(マタイ25:3)賢き者らはおかりをとった上に予備の油を用意した。(マタイ25:4)新郎を待つ間に、彼女らはまどろんだ。(マタイ25:5)新郎が来た時、(マタイ25:6)愚かなるおとめらは自分らの油乏しきを見て、(マタイ25:7,8)それを買うところを捜しに出掛けた。彼女らが行った間に新郎は来た。油を用意していた賢きおとめらは彼と共に入り、扉は閉ざされた。おとめらはただ、あかりをとって新郎を迎えるためだけに行かねばならなかったのである。然るに彼女らに大切なるはあかりを点けることでなく、適時にそれを点ずることであるのを忘れていた。しかし、新郎の来る時いつでもそれを点じているためには、彼女らは絶えずそれを点じていなければならなかったのである。
 生命はただ人の子をあがめるために存する、しかも人の子は不断に在る。彼は時を超越している、故に彼に仕えるには、時を超越してただ現在に生きなければならぬのである。(マタイ25:10,13)
 この故に汝ら霊の生命に入るためには現在において努力せよ。もし努力せざれば、それに入ることは出来ない。(ルカ13:24)汝ら──われらはかくかくのことを言えりと言うとも、よきことは来たらず、全き生命もまた来たらないであろう。(ルカ13:25-27)何となれば、唯一の霊なる人の子は、人が彼のためになせることによって各人のために顕われるからである。(マタイ16:27)
 すべての人は、彼らがいかに人の子に仕えるかによって区別される。彼らは、群の中にて羊と山羊と区別される如く、その行いによって二つに区別される。そうして一方は生き、一方は滅ぶ。(マタイ25:32,33)
 人の子に仕えし者は世界の初めより彼に属せしもの、すなわち彼らの保持して来た生命を受ける。彼らはまた父の子に仕えることによって生命を保持して来たのである──すなわち彼らは飢えたる者を養い、裸なる者に着せ、旅人を迎え、囚人を訪れた。彼らは人の子によって生き、、万人の中にあるは彼一人なるを感じたので、近きものを愛したのである。
 人の子によって生きなかった者は彼に仕えず、万人の中にあるは彼一人なるを悟らず、従って彼と一致せずして、彼のうちなる生命を失って、滅びたのである。(マタイ25:34-46)

九、誘惑

 時間的生命の欺きは人から現在における真の生命を隠蔽する。
 ある時人々イエスの許へ子供達を連れ来たった。彼の弟子達子供らを追い払い始めた。(マタイ19:13)イエスは弟子らの子供を追うを見て、悲しんで、言った──
 汝らいたずらに子供らを追う。彼らは最もよき人々である、なぜなら子供らはことごとく父の意志を体して生きているからである。彼らこそ既に正しく天国にあるものである。(マタイ19:14)汝ら彼らを追うてはならぬ、むしろ彼らに学ぶべきである。何となれば、父の意志を体して生きるためには、子供らの生きるが如くに生きなければならぬからである。子供らは悪口せず、人に悪意をいだかず、姦淫せず、何事をも誓わず、悪に抗せず、人と訴訟せず、自国人と他国人との区別を知らず──この故に彼らは大人よりもよく、天国にある者である。(ルカ18:17)もし肉のあらゆる誘惑を斥けて、子供らの如くにならなければ、汝らは天国に入ることは難い。(マタイ18:3)
 子供らは父の意志にもとらざるが故にわれらより善良なる者なるを悟る者のみ、ただ彼らのみわが教えを解するのである。(マタイ18:5)そうしてわが教えを解するもののみ、父の意志を悟るのである。(ルカ9:48)われらは子供らを蔑むことは出来ない、何となれば彼らはわれらより善く、彼らの魂は父の前に清く、常に彼と共にあるからである。(マタイ18:10)
 そうして一人の子供も父の意志によっては滅びない。すべての子供はただ人によって滅びるのである、何となれば人が彼らを真理から引き離すからである。(マタイ18:14)故に彼らをよく保護して、父と真の生活より離れしめないようにすることが必要である。彼らを純潔より引き離すものは、悪を為す者である。幼児を善より引き離し、彼を誘惑する者は、幼児の首に石臼をかけて水中に投ずると同じ悪を為すものである。幼児は浮かび出る術を知らず、ただ溺れるばかりである。これと同じく幼児には、大人によって引き入れられた誘惑から逃れ出ることは難い。(マタイ18:6)
 人の世はただ誘惑あるによって不幸である。誘惑は世界到るところに不断にあり、また将来もあるであろう、そうして人はこの誘惑から滅びるのである。(マタイ18:7)
 故に、誘惑に陥らざらんがためには、すべてを与え、すべてを犠牲にするがよい。狐もし罠に落ちれば、足を捩じ切って逃げる、すれば足は癒えて、その生命は救われる。汝もこれに倣うがいい。誘惑に繋縛されないためには、すべてのものを捨て去るがいい。(マタイ18:8,9)
 第一の戒律にもとるべき誘惑を警戒せよ──人われらを侮辱する時、われらは彼らに復讐せんとするものなるが故に、人に対して悪念を抱くな。
 人もし汝を侮辱すとも、彼の同じ父の子であり、汝には兄弟なることを記憶せよ。彼もし汝を侮辱することあれば、行って相対して彼を訓戒せよ。もし聴かるれば、汝にとって喜びである──一人新しき兄弟を得ることになる。(マタイ18:15)もし聴かれずば、彼を説得し得べきものニ三人を招け。(マタイ18:16)そうしてもし悔い改めなば彼を許せ。もし七度汝を侮辱して、七度許せと言わば、彼を許せ。(ルカ17:4)もし聴かずば、わが教えを信じる人の集まりにそれを告げよ。もし集まりにも聴かずば、彼を許し、以後彼との関係を絶て。(マタイ18:17)
 何となれば、神の国は次の如きものだからである。一人の王その納税人らと計算を始めた。(マタイ18:23)王の許へ百万ルーブリの負債 (おいめ) ある納税人がつれて来られた。(マタイ18:24)しかし彼には一門も払う力がなかった。このために王は彼の財産、妻、子、及び彼自身をも売らなければならなかった。(マタイ18:25)しかし納税人は王に慈悲を乞い始めた。(マタイ18:26)王は彼を憐れんで、その全負債を免じた。(マタイ18:27)そこでこの納税人は家路についたが、そのみちで一人の百姓に会った。この百姓は彼に五十カペイカの負債があった。王の納税人は彼を捕え、喉をしめて言った──汝の負債を支払え。(マタイ18:28)百姓は彼の足下にひれ伏して言った──今しばらく待ち給え、必ずことごとく支払うであろう。(マタイ18:29)──然るに納税人は彼を許さずして、全額を支払うまで入れ置くために獄へ送った。(マタイ18:30)他の百姓これを見て王の許に至り、納税人のなしたることを告げた。(マタイ18:31)ここにおいて王は納税人を呼び出して彼に言った──悪しき犬よ、われは、汝われに憐れみを乞いし故に、汝に全税金を許した。(マタイ18:32)わが汝を許せしことに対しても、汝は己が負債者を許すべきではないか。(マタイ18:33)──王は怒ってこの納税人をその税金を完納するまで拷問した。(マタイ18:34)
 汝らもし汝らに対して罪あるすべての人を心より許さざるにおいては、父は汝らに対してこれと同じことを為すだろう。(マタイ18:35)
 汝も知る如く、汝もし人と争いを起こした場合にも、それを法廷に持ち出す如きことをなさず、彼と和解する方が遥かに良策である。汝はそれを知るが故に、そうしている、なぜなら法廷に訴える方がかえって不利が大きいのを知るからである。諸々の悪念に対しても同様である。汝もし悪念の悪しきことなるを知り、父より汝を引き離すものなるを知らば、むしろ急ぎ悪念より離れて、和平の気分を回復しなければならぬ。(マタイ5:25)
 汝らは自らも知っているではないか、汝ら地上にて縛がるるところは、父の前にても縛がれ、地上にて解かるるところは、父の前にても解かるるものであることを。(マタイ18:18)
 汝ら、もしニ三の人この地上でわが教えに結ばるる時は、彼らの願うほどのものはすべて、既にわが父より受くるところなるを悟れ。(マタイ18:19)何となれば、ニ三の者人のうちにある霊の名において結ばれる時には、人の霊も彼らの中に生きているからである。(マタイ18:20)
 汝ら心せよ、第二の戒律にもとる誘惑は、人がその妻を替えることにある。
 ある時イエスの許へ正教徒の教師らが来て、彼を試みながら言った──人はその妻を去ることが出来るか?(マルコ10:2、マタイ19:3)
 彼は彼らに言った──初めより人は男と女とに造られたものである、これは父の意志である。(マタイ19:4)この故に人はその父母を離れて、妻と結ぶのである。そうして夫と妻とは一体となるのである。されば妻は人にとって肉と同じものである。(マタイ19:5)故に人は神の定めた自然の掟を破って、この結合を裂くことは許されない。(マタイ19:6)汝らのモーゼの律法によれば、妻を去って他の女を娶ることを許しているが、これは誤りである。父の意志によれば、それはそうではない。(マタイ19:8)われ汝らに告ぐ、凡そ妻を捨てる者は、彼女と彼女と結ぶものとを姦淫に追い込む者である。己の妻を捨てて、世に姦淫を流布する者である。(マタイ19:9)
 そこで弟子達がイエスに言った──生涯を一人の妻と送ることは余りに困難である。もしどうしてもそうしなければならぬならば、むしろ全然結婚しない方がましである。(マタイ19:10)
 彼は彼らに言った──勿論結婚しないでもよい、しかしその場合にはその意味するところを知っておかなければならぬ。(マタイ19:11)人もし妻なくして生きんと思わば、全く純潔を守って婦人に接しないようにしなければならぬ。もし婦人を愛する場合は、一人の妻と結んでそれを捨てず、他の婦人に眼をくれないようにしなければならぬ。(マタイ19:12)
 汝ら心せよ、第三の戒律にもとる誘惑は、人々をして義務を履行せしめ、誓いを立てしむることにある。
 ある時取税人らペテロの許へ来て、彼に訊いた──汝らの師はどうか、──税金を納めないのであるか?(マタイ17:24)ペテロは言った──いや、納めないであろう。──かくてイエスの許にいたり、人々彼を引き止めて、彼に、人は皆納税の義務ありと言ったことを告げた。
 その時イエスは彼に言った──王はその子らより税を取らない、しかも王以外には彼らは何人にも税を払う義務を持たぬ。そうではないか? 然らば、われらもまたその通りである。もしわれら神の子ならば、神の外誰にも何事にも義務を負わず、一切の義務から自由であるはずである。(マタイ17:25,26)されどもし汝に納税を要求するならば、払うがよい。しかしそれは汝にその義務があるからではなく、悪に抗してはならないからである。悪に抗することは更に大いなる悪を生ずるものであるからである。(マタイ17:27)
 またある時正教徒らカエサルの役人らと共にイエスの許へ来たり、言葉尻を捕えて彼を罠にかけようとして、彼に言った──汝は真理によってすべてを教える人である。(マタイ22:16)われらに教えよ──われらはカエサルに税を納める義務があるかどうか?(マタイ22:17)イエスは、彼らが彼のカエサルに対する義務を認めないのを非難せんとしているのを悟った。(マタイ22:18)彼は彼らに言った──汝らカエサルに納めんとするものを示せ。──彼らは彼に銀貨を与えた。(マタイ22:19)彼は銀貨を見て言った──ここにあるは何か? 誰の肖像、誰の署名か?(マタイ22:20)彼らは言う──カエサルのである。そこで彼は言った。──されば、カエサルのものはカエサルに与えよ。かく神のものたる己が霊は、神以外の何者にも与えてはならぬ。金、財産、己が労力、かかるものはすべてそれを汝に乞うものに与えよ、されど己が霊は神の外何者にも与えてはならぬ。(マタイ22:21)
 汝らの正教派の教師達は到るところに赴き人々を強いて誓わしめ、彼らに律法に従うことを約束せしめる。されどこれは人々を誘惑して、前よりも悪しきものとするばかりである。(マタイ23:15)肉体をもって己が霊について約束することは出来ない。汝らの霊には神がいる、されば人は神について人の前に約束することは出来ない。(マタイ23:16-22)
 汝ら心せよ! 第四の戒律にもとる誘惑は、人が人を裁き、処刑し、また他人の裁きと処刑とに参与するを認める一事にある。
 ある時イエスの弟子達村に入って、一夜の宿を求めた。(ルカ9:52)誰も受けるものがなかった。(ルカ9:53)その時弟子達イエスの許に至り、それを訴えて言った──ああ彼ら雷火に打たれて死ねばよい。(ルカ9:54)
 イエスは言った──汝らはまだ汝らのいかなる霊なるかを悟っていない!(ルカ9:55)わが教えるは人を滅ぼすことにあらず、いかにして人を救うべきかである。(ルカ9:56)
 ある時一人の男イエスの許へ来て、言った──汝わが兄弟に命じてわれに遺産を分かたしめよ。(ルカ12:13)
 イエスは彼に言った──誰もわれを汝らの裁判官とはしなかった。われは何人をも裁くことはしない。汝らも人を裁くことは出来ない。(ルカ12:14)
 ある時正教徒らイエスの許へ一人の女を連れ来たって言うには、(ヨハネ8:3)──この女は姦淫の現場を押さえられたるものである。(ヨハネ8:4)律法によれば石にて打ち殺されるべきものである。汝はいかに言うか?(ヨハネ8:5)
 イエスは何とも答えないで、彼らの思い返すのを待った。(ヨハネ8:6)然るに彼らは彼にうるさく迫って、この女の処置をいかにすべきかを訊ねた。その時彼は言った──汝らのうち過失なき者をしてまず彼女に石を抛たしめよ。(ヨハネ8:7)そうしてそれ以上は何とも言わなかった。(ヨハネ8:8)
 ここにおいて正教徒らは自ら省みて見た、良心が彼らを責めた。かくて前なる者はうしろの者の背後に隠れようとし始めて、皆遠く去ってしまった。
 そこでイエスは一人その女と共に残った。(ヨハネ8:9)彼はあたりを見て、誰も人のいないのを見て女に言った──誰も汝を訴えた者はいなかったか?(ヨハネ8:10)
 彼女は言う──誰も。
 彼は言った──われも汝を訴えることは出来ない。行け、この後再び罪を犯すな。(ヨハネ8:11)
 汝ら心せよ! 第五の戒律にもとる誘惑は、人々が己を自国民にのみ善を為す義務ある者と考え、他国民を敵視することにある。
 一人の教法師イエスを誘惑せんとして言った──真の生命を得んためにはわれ何を為すべきであるか?(ルカ10:25)
 イエスは言った──汝の知る通りである──己が父なる神を愛し、父なる神によって己が兄弟を、その国人なるといかんとを問わず愛することである。(ルカ10:27)
 教法師は言った──もし様々なる国民がなかったならば、それもよいであろう。でない場合、いかにしてわれにわが国民の敵を愛すべきであるか?(ルカ10:29)
 イエスは言った──一人のユダヤ人があった。彼は不幸な目にあった──彼は打たれ、掠められ、道に捨てられたのである。(ルカ10:30)一人のユダヤ人なる祭司は傍を通りかかって、打たれた人を見たが、そのまま通り過ぎ居てしまった。(ルカ10:31)また一人のユダヤ人なるレビ人も、打たれた者を見て通り過ぎた。(ルカ10:32)次に他国人にして敵国民なるサマリヤ人がそこを通った。このサマリヤ人はユダヤ人を見るや、日頃ユダヤ人のサマリヤ人を眼中に置かざるをも考えず、打たれたるユダヤ人を憐れに思った。(ルカ10:33)そこで彼の傷を洗い、包帯を施し、己が驢馬にのせて宿屋へ連れ行き、(ルカ10:34)彼のために宿の主人に金を払い、帰路また彼のための払いをしに立ち寄る旨を約束した。
 ここである──汝らもまた他国人、汝らを軽視し迫害する人々に対してかく行わなければならない、その時こそ真の生命を受けるのである。(ルカ10:35)
 イエスは言った──この世は己のものを愛し神のものを憎む、この故にこの世の人々──祭司、学者、役人──は、父の意志を行わんとするものを苦しめるであろう。今われはエルサレムへ行く、人々はわれを苦しめて殺すであろう、しかしわが霊は殺されることなく、永遠に生きるであろう。(マタイ16:21)
 イエスがエルサレムにおいて苦しめられ殺されるであろうことを聞いて、ペテロあ悲しみ、イエスの手をとって彼に言った──もしそうであれば、エルサレムへはむしろ行かないがよいであろう。(マルコ8:32)
 この時イエスはペテロに言った──言うな、ペテロ。汝の言うことは、これ誘惑である。汝もしわがために苦しみと死とを恐るるならば、それは汝神のこと霊のことを思わずして、人のことのみ思えるを意味するのである。(マルコ8:33)
 かくてイエスは人々を弟子達と共に呼んで言った──わが教えによって生きんとする者をして、その肉の生命より遠ざからしめ、あらゆる肉の苦痛に対し常に覚悟あらしめよ、何となれば、その肉の生命のために恐るる者は、真の生命を滅ぼすものであり、肉の生命を軽んずる者は、真の生命を救うものであるからである。(マルコ8:34,35)
 彼らはこれを解さなかった。そこへ旧信者達が近づいて来たので、彼は一同に、真の生命と死よりの復活との意味を説明した。
 旧教徒らは言った、肉の生命の死の後にはもはやいかなる生命もないと。(マタイ22:23)彼らは言った──どうしてすべての人が死から甦ることが出来ようか? もしすべての人が甦ったら、甦ったものはとても一緒には住めないであろう。(マタイ22:24)ここにわれらの間に七人の兄弟があった。長子は妻を娶って死んだ。妻は二人目の弟と結婚したが、その男も死んだ。彼女は三人目の弟に嫁したが、これも死んだ。こうして七人まで同じことを繰り返した。(マタイ22:25,26)さて、もし一同甦るとすれば、その時この七人の兄弟は、一人の妻といかにして生活すべきか?(マタイ22:28)
 イエスは彼らに言った──汝らは生命の復活の何たるかを、故意に混乱させるのか、それとも悟らないかである。この生活においてこそ人は妻帯し、婚嫁する。(マタイ22:29)永遠の生命と死よりの復活に相当する人々は、娶りもせず嫁ぎもしない。(ルカ20:35)何となれば、もはやその上死ぬことがないからである。彼らは父と一致する。(ルカ20:36)汝らの書中に、われはアブラハムの神ヤコブの神なりと言う神の言葉が録されてある。そうしてこれは神が、アブラハム及びヤコブの既に人にとって死せし時に言われた言葉である。して見ると、人にとって死んだ者も神にとっては生きているということになる。もし神があり、神は死なないものであるならば、神と共にある者は永久に生きているわけである。死よりの復活とは乳の意志における生命の謂いである。父にとっては時はない、故に父の意志を行って、父と一致して行く時には、人も時と死とを超越するのである。(マタイ22:31,32)
 これを聞いて正教徒らは、もはや彼を沈黙せしむべき術を知らなかった、そして一斉にイエスを試み始めた。(マタイ22:34)正教徒の中の一人は言った。(マタイ22:35)
 師よ! 汝の意見によればすべての律法の中にて最も重きはいかなる戒律であるか?
 正教徒らは、イエスも律法についての答弁には混乱するであろうと思ったのである。(マタイ22:36)
 しかしイエスは言った──最も重きは、われらを支配し給う主を全霊をもって愛することである。次の戒律はそこから出る。(マタイ22:37)──すなわち近きものを愛することである。何となれば近きものの中にも同じ王(神)がいますからである。(マタイ22:39)そうして、すべての汝らの書物に録されたることはことごとくこの中にあるのである。(マタイ22:40)
 イエスはなお言った──汝らの意見によれば、キリストとは何者であるか? 彼は何者の子であるか?
 彼らは言った──われらの意見によればキリストはダビデの子である。(マタイ22:42)
 この時彼は彼らに言った──ではダビデはいかにしてキリストを己が主と呼んだのであるか? キリストはダビデの子でも誰の子でもない。(肉によっては。)しかしキリスト──これはわれらがわれらの生命を知る如くに己の中に知るわれらの支配者たる当の主である。キリストとは実にわれらの中にある悟性である。(マタイ22:43)
 そしてイエスは言った──汝ら正教派の教師等の酵母を心して警戒せよ。旧教徒らの酵母と当路者の酵母を警戒せよ。(ルカ12:1、マルコ8:15)されど何より最も警戒すべきは、自称正教徒の教えを警戒せよ。(ルカ20:46)何が故に彼らを警戒すべきかと言えば、彼らは人々に神の意志を宣ぶべき預言者の地位を自ら占めているからである。汝らは人々に神の意志を宣ぶべき権威を勝手に自分にとったのである。彼らは言葉を宣伝とするのみで、何一つ行ってはいないのである。(マタイ23:2)かくて結果は常に、かくかくに為せ、かくかくに行えと言うのみで、何一つ行わないことになったのである、何となれば彼らは善きことは何もなさず、ただ口で言うのみであったから。(マタイ23:)彼らはすなわち為すべからざることを口にして、自らは何もしないのである。(マタイ23:4)そうしてただ己に教師たるの地位を保持せんことをこれ力め、そのため威厳を保つこと──服装を整え、尊大振ることに力めている。(マタイ23:5,6,7)汝らこの故に知れ、何人も己を教師牧師と呼んではならないことを。(マタイ23:8)然るに自称正教徒らは教師の名をもって呼ばれ、その呼ばるることによって汝らの天国へ入るを妨げ、己もそれに入り得ないでいるのである。(マタイ23:13)これらの正教徒らは外的の儀式や誓約によって神に近づき得るものと思い、(マタイ23:15)盲人の如く、外形の無意義なること及びすべては人の霊の中にあることを見ないのである。(マタイ23:16)彼らは最も容易なる外形的のことは行うも、必要にして困難なること──愛、慈悲、真理は捨てて顧みないのである。(マタイ23:23)彼らはただ外形的に律法に従って、他人をも外形的に法律へ導くだけなのである。(マタイ23:28)この故に彼らは、あたかも塗られたる棺の如く、表面は美しく見えるけれども、内部は汚れに満ちている。(マタイ23:27)彼らは外面は聖なる殉教者を崇める。(マタイ23:29,30)しかし事実においては彼らは、その聖者を迫害し殺傷するところの人々である。彼らは過去にも現在にも、すべての善きものの敵である。この世のすべての悪は彼らから出る、何となれば、彼らは善を覆いて、善の替わりに悪を顕わしているからである。かくて何よりも恐るべきは、自称教師らのともがらである。(マタイ23:31)何となれば、汝ら既に知る如く、一切の過ちは改め得るものであるが、(マルコ3:28)もし人善なることにおいて誤るならば、もはやその過ちは改めようがないからである。しかも自称牧師らはこれを為しているのである。(マルコ3:29)
 かくてイエスは言った──われはここエルサレムにおいて真の幸福の理解に人々を一致せしめようとしたのであるが、ここの人々はただ善の教師を刑することを知るのみである。(マタイ23:37)この故に彼は従前通りの背神者として残り、喜んで神の意味を悟ろうとしない間は、ついに真の神を知ることはないであろう。(マタイ23:38,39)
 そうしてイエスは神殿を去ってしまった。
 その時彼の弟子達は彼に言った──この神殿と、人々が神のために献げた多くの装飾品とはどうなるのであろうか?(マタイ24:1)
 イエスは言った──われ誠に汝らに告げん、この神殿とその多くの装飾物とは破壊されて、それからは何一つ残らないであろう。(マタイ24:2)ただ一つの神殿がある──それは人々互いに愛し合う時の人々の心である。
 彼らはまた彼に訊いた──かかる神殿はいつ出来するであろうか?(マタイ24:3)
 イエスは彼らに言った──それは急には来ないであろう。人々はなお長くわば教えの名によって欺かれ、そのために戦争と叛乱が起こるであろう。(マタイ24:4-7)そうして大なる不法来たって愛は少なくなるであろう。(マタイ24:12)されどすべての人々の間に真の教えひろまる時来たらば、その時は罪悪と誘惑も根を絶つに至るであろう。(マタイ24:14)

十、誘惑との闘い

 この故に、誘惑に陥らないためには、生涯の各瞬間にも父と共にあらねばならない。
 この後正教派の祭司の長らは、いかにかしてイエスを滅ぼそうとして、全力を挙げて彼の探索を始めた。(ルカ11:53,54)彼らは会議を開いて、相談した。
 彼らは言った──われらは何とかしてあの男に止めさせなければならぬ。(ヨハネ11:47)彼は恐るべき力をもってその教えを証明している、もし彼をこのままにしておけば、凡ての人彼を信じて、われらの信仰を捨てるであろう。既に今でも、人民の半数は彼を信じているのである。もしユダヤ人ら彼の教えを信じて、万人は一人の父の子であり兄弟である、われらユダヤ民族と他の国民の間にも何の異るところはないなどと言い出そうものなら、われらはたちまちローマ人の征服するところとなって、ユダヤの国は滅びてしまうであろう。(ヨハネ11:48)
 かくて、正教派の祭司の長らと学者達とは長いこと教義を重ねたが、彼をどう処置していいかを決定することは出来なかった。(ルカ19:47)彼らは、思い切って彼を殺す決心もつかなかったのである。(ルカ19:48)
 その時彼らの一人カヤハが、──彼はこの年の大祭司であった、──次のように考えた。彼は彼らに言った(ヨハネ11:49)──われらはこのことを記憶しなければならない──すなわち全国民を滅ぼさないために、一人の人を殺すはよきことである。もしわれらこの男を捨て置くにおいては、国民は滅びてしまうであろう、われはこれを汝らに預言する。故にイエスを殺すが最上の手段なのである。(ヨハネ11:50)もしわれらイエスを殺さない時には、たとえ国民は滅びないまでも、彼らは一つの信仰から離れて、邪道に落ちてしまうであろう。この故にこの際はイエスを殺すが最上の手段なのである。(ヨハネ11:52)
 カヤハがこう言うと、彼らはたちまち、もはや考慮の必要はない、必ずイエスを殺さなければならぬと決心した。(ヨハネ11:53)
 彼らはすぐにもイエスを捕えて殺したであろうが、彼は彼らから荒野へ隠れてしまった。(ヨハネ11:54)しかしその時過越の祭が近づいたので、エルサレムには常に多くの人々が集まって来ていた。(ヨハネ11:55)正教派の祭司の長らは、イエスが人々と共に祭に上るであろうと考えた。(ヨハネ11:56)かくて彼らは人民の間に、誰にもあれイエスを見た者は、彼を彼らの許へ引き来るべしと通告した。(ヨハネ11:57)
 然るに過越の祭の六日前になって、イエスは弟子達に言い出した──エルサレムに行こうと。そして彼らと共に出掛けた。(ヨハネ11:7)
 その時弟子達は彼に言った──エルサレムへ行くことは止まり給え。祭司の長ら今は汝を石にて打ち殺そうと決心している。もし行けば、彼ら汝を殺すであろう。(ヨハネ11:8)
 イエスは彼らに言った──われは悟りの光の中に生きるが故に、何ものをも恐れることはない。人はみちに躓かないために夜を避けて昼間歩くと同じく、何ものをも疑わなければ、何も恐れるものはなく、この悟りによって生きることが出来るのである。(ヨハネ11:9)疑い恐れるは、ただ肉によって生きる人々のことである。悟りによって生きる者には、疑いや恐れは絶対にあり得ないのである。(ヨハネ11:10)
 かくてイエスはエルサレムの近くなるタニヤの村に到って、マルタとマリヤの家を訪れた。彼が晩餐の卓子についた時には、マルタが彼に給仕した。(ヨハネ12:3)イスカリオテのユダが言った。(ヨハネ12:4)──マリヤは高価なる香油をいたずらに浪費した。この油を三百デナリに売って、貧しき者に施せばよいものに。(ヨハネ12:5)
 そこでイエスは言った──貧しき者はなお来るであろう、しかしわれはもはや来ないであろう。(ヨハネ12:8)彼女はよいことをしてくれたのである──彼女はわが肉体を葬う支度をしてくれたのである。(ヨハネ12:7)
 早速イエスはエルサレムへ着いた。多くの人々が祭に集まっていた。(ヨハネ12:12)彼らはイエスと知ると彼を取りまいて、樹の枝を折り、彼のために己が衣を道に投げて、一斉に叫んだ──この人こそわれらの真の王である、われらに真の神を教えた人である。(ヨハネ12:13)
 イエスは若き驢馬に跨って進んだが、人々は彼の前に駆けて叫んだ。(ヨハネ12:14)かくしてイエスはエルサレムへ乗り入った。彼がかくして街へ乗り入った時、全民衆は騒ぎ立てて訊ねた──これは誰であるか?(マタイ21:10)彼を知っていた人々が答えた──これはイエスである、ガリラヤのナザレより出でたる預言者である。(マタイ21:11)
 かくてイエスは神殿に赴き、再びそこよりものを売買するすべての者を追い出した。(マルコ11:15)
 正教派の祭司の長らはこの始終を見て、互いに言った──見よ、この人のなすことを。人民は皆彼に従っている。(ヨハネ12:19)
 しかし彼らも彼を直接群衆の前より引き立てることは得しなかった、群衆が彼につきまとっていたからである。よって彼らは奸計をもって彼を捕えることを思案した。(マルコ11:18)
 一方イエスは神殿の中にいて、人々を教えていた。群衆の中には、、ユダヤ人の外、ギリシヤ人も、異教人もいた。ギリシヤ人らはイエスの教えのことを聞いて、その教えを、彼はひとりユダヤ人ばかりでなくすべての人に真理を教えるのであると解していた。(ヨハネ12:20)そのため彼らは同じく彼の弟子たらんことを願い、このことをピリポに申し出た。(ヨハネ12:21)ピリポまたそれをアンデレに伝えた。
 弟子達はイエスをギリシヤ人らに会わせるのを恐れた。彼らは、イエスがユダヤ人と他国人との間に差別を設けないことに対して、群衆が彼を憤りはしまいかと恐れたのである。そのため長いことそれをイエスに告げるのを躊躇したが、やがて二人一緒に彼に言った。
 ギリシヤ人らが己の弟子たらんと願っていると聞いて、イエスは当惑した。彼は、彼がユダヤ人と異教人との間に差別を設けず、彼自身また己を異教人と同じものと認めることに対して群衆が彼を憎むであろうことを知っていたから。(ヨハネ12:22)
 が、彼は言った──われ人の子として悟れるところを示すべき時が来た。もしわれユダヤ人たると異教人たるとを問わず父の子の意味を説くために滅ぶとも、われは真理を語るであろう。(ヨハネ12:23)麦の粒は、自ら滅ぶ時に、初めて実を結ぶのである。(ヨハネ12:24)肉の生命を愛する者は真の生命を失い、肉の生命を惜しまない者は永遠の生命を受けるのである。(ヨハネ12:25)わが教えを奉ぜんとする者は、われと同じことをしなければならぬ。われと同じことを為すものは、わが父より報いを受けるであろう。(ヨハネ12:26)今わが心悩む──現世の生命の打算にわれを委すべきか、今この時において父の意志を行うべきか。われそのために生きる時至れる今、果たして、父よ、わが為すべきことよりわれを救い給えと言うべきであるか? いや、われにはこれを言うことは出来ない、なぜならわれは今生きているから。(ヨハネ12:27)故にわれは言う──父よ! わが中に汝自らを顕わし給えと。(ヨハネ12:28)
 そしてイエスは言った──人の世は今より滅亡に定められた。この世界を支配するところのものは今より追い出されるであろう。(ヨハネ12:31)そうして人の子地上の生命の上に高められるであろう時、彼はすべての人を一つに結ぶであろう。(ヨハネ12:32)
 その時ユダヤ人らは彼に言った──われらは律法によって永遠のキリストあるを知っている。然るに何をもって汝は人の子高められなければならぬと言うか? 人の子を高めるとは何の意味であるか?(ヨハネ12:34)
 これに対してイエスは彼らに答えた──人の子を高めるとは、すなわち汝らの中にある悟りの光によって生きることを意味する。(ヨハネ12:35)地の上に人の子を高めるとは、すなわち、悟りの子とならんために光ある中に光を信じることを意味する。(ヨハネ12:36)
 わが教えを信じる者は、われを信じるに非ずして、この世に生命を与えたる霊を信じるのである。(ヨハネ12:44)そうしてわが教えを悟るものは、この世に生命を与えたる霊を悟るのである。(ヨハネ12:45)もし人わが言葉を聞いて行わずとも、われはその人を裁かない、わが来たれたるは裁くために非ずして救うためであるからである。(ヨハネ12:47)わが言葉を受けざるものを裁くはわが教えではない、その中にある悟りである。それが彼を裁くのである。(ヨハネ12:48)
 何となれば、わが語れるはわが言葉にあらず、わが父──わが中に生きる霊のわれに示されたるものであるからである。(ヨハネ12:49)わが口にする言葉は、これ悟りの霊のわれに語りしものである。そうしてわが教えるところは、これ真の生命である。(ヨハネ12:50)
 これを言い終わると、イエスは去って、再び祭司の長らから隠れてしまった。(ヨハネ12:36)
 イエスのこれらの言葉を聴いた人々の中で、有力な、富める人々の多くもその教えを信じたが、祭司の長らの前にそれを発表するのを恐れた。なぜなら、祭司の長らの中には、一人もそれを信じたと言うものがなかったからである。(ヨハネ12:42)彼らが信じなかったのは、、彼らは人によって判断することに馴れて、神によって判断しなかったからである。(ヨハネ12:43)
 イエスが隠れた後、祭司の長と長老らは、再びカヤハの庭に集合した。(マタイ26:3)そうして民衆から秘密にイエスをとらえて殺すべき手だてを廻らし始めた。(マタイ26:4)彼らは公然と彼を捕えるのを恐れたのである。(マタイ26:5)
 会議中の彼らの許へ、イエスの最初の十二の弟子の一人イスカリオテのユダが来た。(マタイ26:14)彼は言った──汝らもし民に知られざるようイエスを捕えんと欲するならば、われ彼の傍に人々の少なき時を見て、彼のありかを告げるであろう、その時彼を捕えよ。しかし、これに対して汝らはわれに何を与えるであろうか? 彼らは彼に二十ルーブリを与えることを約束した。(マタイ26:15)彼はそれに同意して、その時より、イエスを捕えるために祭司の長らを手びきすべき機会を窺い始めた。(マタイ26:16)
 一方イエスは人々から隠れて、弟子達だけと一緒にいた。除酵祭の初めの日が近づいた時、弟子達はイエスに言った──われらはどこで逾越節を祝うべきであるか?(マタイ26:17)イエスは言った──どこかの村へ行き、誰かの家へ寄って、われらには逾越の祭を祝う支度をする暇なきことを告げて、われらに祭を祝わせくれと頼むがよい。(マタイ26:18)
 弟子達はその通りにした──村のある人の許へ行って頼んだので、その人彼らを迎えた。(マタイ26:19)
 彼らは行って、食卓についた──イエスと十二人の弟子とであった。ユダもその中にいた。(マタイ26:20)
 イエスはイスカリオテのユダが既に彼を死に売り渡す約束をしていたのを知っていたが、彼の罪を発かず、それに対してユダに復讐することをしないで、生涯弟子達に愛を説いた通り、今も愛をもってユダを叱ったに過ぎなかった。(ヨハネ13:11)彼ら十二人が皆食卓についた時に、彼は一同を見廻して言った──汝らの中にわれを売ったものが坐っている。(マタイ26:21、マルコ14:18)然り、われと共に飲み食いする者われを滅ぼすのである。(マタイ26:23)──そして彼はそれ以上何とも言わなかったので、彼らは彼が誰のことを言ったのかには気づかないで食事にかかった。
 彼らが食事にかかった時、イエスはパンをとりそれを十二にさいて、十二人の弟子に各々一片ずつを与えて言った──とって食え、これはわが肉体である。(マタイ26:26)次いで葡萄酒を盃につぎ、それを弟子達に与えて言った──汝らすべてこの盃より飲め。──かくて一同が飲み終わった時に、彼は言った(マタイ26:27)これわが血である。われはそれを、人々をしてわが教えを悟り、他の罪を赦さしめんがために流すのである。(マタイ26:28)何となればわれは間もなく死に、もはやこの世において汝らと共には居らず、ただ天国において汝らと会うであろうからである。(ルカ22:18)
 かく言って後イエスは食卓を立ち、手拭で帯をしめ、水壺をとって、(ヨハネ13:4)弟子達一同の足を洗い始めた。(ヨハネ13:5)かくてペテロに近づいた時、ペテロは言った──何が故に汝はわが足を洗うのであるか?(ヨハネ13:6)──イエスは彼に言った──何が故にわれは汝の足を洗うか、汝には不審であろう、しかしじき汝はその何が故になされたかを知るであろう。(ヨハネ13:7)わがこれを為すは、汝ら皆清しというとも、すべての者がそうでないからである、汝らのうちにわれを売った者がいる、われはその者にわが手をもってパンと酒とを与え、その足をも洗わんとするのである。(ヨハネ13:10)
 かくて一同の足を洗い終わるや、イエスは再び席について語った──汝ら何が故にわれのこれを為したかを悟ったか?(ヨハネ13:12)わがこれを為したのは、汝らをして常に互いにかくあらしめんがためである。汝らの教師なるわれこれを為すは、汝らをして汝らに悪を為すものに対してとるべき態度を知らしめんがためである。(ヨハネ13:14)汝らこれを悟って、これを行えば、幸福である。(ヨハネ13:17)われ先に汝らの一人われを売るべしと言った時には、汝らのすべてに対して言ったのではない。何となれば汝らの中のただ一人だけ、われその足を洗い、われと共にパンを食いしものがわれを滅ぼすのみであるからである。(ヨハネ13:18)
 かく言ってイエスは心に悩みつつ、再び言い出した──然り、然り、汝らの一人われを売るのである。(ヨハネ13:21)
 弟子達はまたしても互いに顔を見合わせた、そして彼が誰のことを言うのであるかを知らなかった。(ヨハネ13:22)弟子の一人がイエスに近く坐っていた。(ヨハネ13:23)シモン・ペテロ彼に点頭して、売るものの誰であるかを師に問はしめた。(ヨハネ13:24)その弟子は訊ねた。(ヨハネ13:25)
 イエスは言った──われパンの一片を浸して与えるであろう、それを与えし者、すなわち売り手である。──そして彼は、それをイスカリオテのユダに与えた。(ヨハネ13:26)そうして彼に言った──汝為さんと思うことを速やかに行え。(ヨハネ13:27)
 ここにおいてユダは己のもはや立ち去るべきであることを悟り、パンの一片を取るや否や、すぐさま去った、もはや夜だったので、彼のあとを追うことは出来なかった。(ヨハネ13:30)
 ユダが立ち去った時にイエスは言った──今こそ汝ら人の子の何たるかを知るであろう、今こそ汝らには彼の中に神のいますこと、彼は紙そのものの如く幸福であり得ることが明らかになるであろう。(ヨハネ13:31)
 子らよ! われなおしばらく汝らと共にあるであろう。わが正教徒に語った教えについて思い惑わず、わが行う如く行え。(ヨハネ13:33)今われ汝らに新しき一つの戒律を与える──わが常に終りに至るまで汝らすべてを愛せし如く、汝らもまた終りに至るまで互いに相愛せよ。(ヨハネ13:34)汝らはただこれによってのみ他より区別されるであろう。ただこれによてのみ他の人々より顕われよ──互いに相愛せよ。(ヨハネ13:35)
 この後彼らはオリブ山に赴いた。(マタイ26:30)
 そのみちでイエスは彼らに言った──今こそ聖書に、牧者は殺され、羊の群れすべて散るべしと録されたることの事実として生ずべき時は来た。それは今宵の中に生ずるであろう。われは捕えられ、汝らはすべてわれを捨てて、散り去るであろう。(マタイ26:31)
 この答えとしてペテロは彼に言った──もしすべての者恐れて散り去るとも、われは汝を捨てないであろう。われは汝と共に獄にも死にもつく覚悟である。(マタイ26:33)
 イエスは彼に言った──われ汝に告ぐ、今宵われ捕らわれて鶏の鳴くなでに、汝一度ならず三度びまでわれを拒むであろう。(マタイ26:34)
 しかしペテロは拒まないと言った。他の弟子達も同じことを言った。(マタイ26:35)
 その時イエスは弟子達に言った──以前にはわれにも汝らにも何物も必要でなかった。汝らは袋もなく、替わりの靴も持たずに歩いた。われもまたしかく汝らに命じた。(ルカ22:35)されど今、われ咎人と見做されし上は、われらもそうしてはいられない。すべてを用意しなければならぬ、空しく滅ぼされざるために剣も用意しなければならぬ。(ルカ22:36)
 弟子達は言った──ここに剣が二口ある。
 イエスは言った──よし。(ルカ22:38)
 かく言って後、イエスは弟子達と共にゲッセマネの園に行った。
 園へ行きながらイエスは言った──汝らここにて待て、われは祈ることを欲する。(マタイ26:36、ヨハネ18:1)
 そうしてペテロとゼベダイの子なる二人の兄弟の傍に行き、憂いと悲しみに沈んだ。(マタイ26:37)そして彼らに言った──われは今余りに苦しい、──われは死に面して憂い悲しむ。汝らここに待ちて、われの如く悲しまざるようにせよ。(マタイ26:38)
 かくて少し隔たりたるところに行き、地にひれ伏して祈り始めて言った──霊なるわが父よ! 死を避けんとするわが意の如くにはなさしめず、汝の意の如くになさしめ給え。われをして死なしめ給え。されど汝は霊として万能である。われをして肉の試みを超越して死を恐れざるようなさしめ給え。(マタイ26:39)
 やがて立ちて、弟子達に近づき、彼らの憂いに沈めるを見た。彼は彼らに言った──汝ら何ぞわれの如く、一時も霊にて立つこと能わざるか?(マタイ26:40)肉の試みに打ち負けざるよう霊にて立て。霊は強い、肉は弱い。(マタイ26:41)
 イエスは再び彼らの傍を離れて、再び祈り始めて言った──父よ! もしわれ苦しみて死なざるべからざるならば、われをして死なしめよ、汝の意の如くならしめ給え!(マタイ26:42)
 かく祈ってから再び弟子達の傍へ帰って、彼らがなお一入に憂いて、泣かんばかりになっているのを見た。(マタイ26:43)
 かくて彼はまたしても彼らの傍を離れて、三度び祈った──父よ! 汝の意の如くならしめ給え。(マタイ26:44)
 そうして弟子達の許へ戻って彼らに言った──汝ら今は心を安めて静まるがよい、何となれば今は、われ既に世の人々の手にこの身を委すべく心を決したからである。(マタイ26:45)

十一、告別の会話

 個々の生命は肉の欺きであって悪である。真の生命は万人に共通の生命である。
 かくてペテロはイエスに言った──汝はどこへ行くのであるか?
 イエスは答えた──汝には今わが行くところへ行く力はないであろう。しかし後には汝もそこへ行くのである。(ヨハネ13:36)
 ペテロは言った──何が故に汝は、われ今汝の行くところに行き得ずと考えるのであるか? われは汝のために生命をも捨てるであろう。(ヨハネ13:37)
 イエスは言った──汝はわがために生命をも捨てるという、しかし鶏の鳴くまでには汝三度びわれを拒絶するであろう。(ヨハネ13:38)そしてイエスは弟子達に言った──汝ら恐れず騒がず、ただ生命なる真の神と、わが教えとを信ぜよ。(ヨハネ14:1)
 父の生命は地上にあるだけのものではなく、他のものもある。(ヨハネ14:2)もしこの地上の生命の如きもののみならんには、われ汝らに言うであろう、われ死する時はアブラハムのふところに行き、そこにて汝らのために場所を備えるであろうと。そうして行けば汝らを迎えて、われらはアブラハムのふところにて共に幸福に浴するであろう。(ヨハネ14:3)されどわが汝らに示すはただ生命に至るの道だけである。(ヨハネ14:4)
 トマスは言った──されどわれらは汝の行くところを知らない。故にその道を知ることが出来ない。われらは死後そこにあるべきことを知りたいのである。(ヨハネ14:5)
 イエスは言った──そこに何があるべきかは、われも汝らに示すことが出来ない。わが教えは道であり、真理であり、生命である。そうして生命の父と一つになるには、わが教えによる外道はないのである。(ヨハネ14:6)汝らもしわが教えを行わば、汝らは父を知るであろう。(ヨハネ14:7)
 ピリポは言った──しかし父とは誰であるか?(ヨハネ14:8)
 イエスは言った──父、それは生命を与える者である。われは父の意志を行った、されば汝はわが生活によって父の意志のどこにあるかを知ることが出来る。(ヨハネ14:9)われは父によって生き、父はわがうちにあって生きている。わが言うところ行うところは、凡てこれ父の意志によって為すものである。(ヨハネ14:10)わが教えはすなわちわれ父に在り、父われにあるところにあるのである。汝らもしわが教えを解さずとも、われとわが行いとは見得るであろう。そうしてそれによって父の在ますことを悟ることが出来るであろう。(ヨハネ14:11)汝らも知るであろう、今後わが教えをつぐものは、われと同じことを為し得るのみならず、さらに大いなることを為し得るのである。何となれば、われは近く死すも彼はなお生きて残るが故である。(ヨハネ14:12)わが教えによって生きる者は、その求めるもののすべてを受けるであろう、何となれば子は父と同じものであるからである。(ヨハネ14:13)何によらずわが教えによって求めるものは、すべて汝らになされるであろう。(ヨハネ14:14)しかしそのためにはわが教えを愛さなければならぬ。(ヨハネ14:15)わが教えは、わが代りに汝らに庇護者と慰籍者とを与える。(ヨハネ14:16)この慰籍者とは真理の意識である、世人はそれを悟らないけれども、汝らはそれを己がうちに知るであろう。(ヨハネ14:17)もしわが教えの霊汝らと共にあれば、汝らは決してひとりではない。(ヨハネ14:18)われ死なば、世人はもはやわれを見ないであろうが、汝らは見ることが出来る、何となれば、わが教えは生きて居り、汝らはそれによって生きるからである。(ヨハネ14:19)そうしてわが教えにしてもし汝らのうちにあるならば、その時汝らは、われ父にあり、父われにあることを解するであろう。(ヨハネ14:20)わが教えを行う者は、自らのうちに父を感じるであろう、そうしてわが霊またその中に生きるであろう。(ヨハネ14:21)
 その時イスカリオテならざる他のユダ彼に言った──されど何が故にすべての人が真理の霊に生きることが出来ないのであるか?(ヨハネ14:22)
 これに答えてイエスは言った──わが教えを行うもののみ父これを愛し、わが霊もまたその人の中にのみ宿るのである。(ヨハネ14:23)わが教えを行わざる者、わが父はこれを愛することが出来ない、何となればこの教えはわがものならず父のものであるからである。(ヨハネ14:24)これ今わが汝らに告げ得る凡てである。(ヨハネ14:25)されどわが死後汝らのうちに宿るわが霊、すなわち真理の霊は、汝らに凡てを啓示するであろう、そうして汝らはわが汝らに語りしことの中より多くのことを想起し、多くのことを悟るであろう。(ヨハネ14:26)かくて汝らは常に霊によって平安たるを得るであろう。しかもそれは世人に求め止まざる世俗的平安によるにあらずして、汝らもはや何ものをも恐れざるに至る霊の平安によって然るのである。(ヨハネ14:27)この故に、汝らもしわが教えを行わば、汝らにはわが死を悲しむ理由は一つもない。われは真理の霊として汝らに来たり、父の意識と共に汝らの心に宿るであろう。汝らもしわが教えを行うならば、汝らは喜ばなければならぬ、何となれば、われの替わりに父汝らの心の中に汝らと共にあるべく、そうしてこれは汝らのためによりよきことであるからである。(ヨハネ14:)
 わが教えは生命の樹である。父、これは樹を培養するところの者である。(ヨハネ15:1)彼は、出来るだけ多くの実を結ばせるために、実を持った枝を大事にかけて手入れをする。(ヨハネ15:2)汝らわが生命の教えを守れ、然らば生命汝らの中にあるであろう。木の芽がひとり生きるのでなく樹木の中に生きるように、汝らもわが教えによって生きよ。(ヨハネ15:4)わが教えは樹であり、汝らは芽である。わが生命の教えによって生きる者は多くの実を結ぶ、わが教えを離れて生命はないからである。(ヨハネ15:5)わが教えによって生きない者は、乾枯らびて滅びる、枯れた枝の切られて焼かれるが如くである。(ヨハネ15:6)
 汝らもしわが教えによって生き、それを行うならば、求めるものの凡てを持つであろう。(ヨハネ15:7)なぜなら、父の意志は、汝らをして真の生命に生き、求めるところのものを持たしむるにあるからである。(ヨハネ15:8)父がわれに幸福を与えし如く、われは汝らに幸福を与える。汝らその幸福を堅く保て。(ヨハネ15:9)われは父われを愛するによって生き、そうしてわれは父を愛する。汝らも同じ愛に生きよ。(ヨハネ15:10)汝らそれによって生きれば幸福を受けるであろう。(ヨハネ15:11)
 わが戒律は、わが汝らを愛したる如く、汝ら相互に愛し合うことの中に存する。(ヨハネ15:12)わが為せし如く、人兄弟に対する愛のために己が生命を犠牲にする、これ以上に大いなる愛はないのである。(ヨハネ15:13)
 汝らわが教えしことを行う時、われにとって汝らは平等である。(ヨハネ15:14)われは汝らを命を奉ずべき奴隷とは思わぬ、平等なものと考える、何となればわれ父について悟りしことは、ことごとくそれを汝達に説き明かしたからである。(ヨハネ15:15)汝らは汝らの意志によってわが教えを選んだのではなく、われ汝らにこの唯一の真理──汝らのそれによって生き、それによって求めるもののすべてを持つべき真理を示したが故である。(ヨハネ15:16)
 わが教えはすべて──互いに相愛するの一事に存する。(ヨハネ15:17)
 世もし汝らを憎むとも、汝らそれに驚いてはならない──世はわが教えを憎んでいるからである。(ヨハネ15:18)汝らもし世に妥協すれば、世は汝らを愛するであろう。されどわれは汝らを引き離した、これに対して世は汝らを憎むであろう。(ヨハネ15:19)人々もしわれを追わば、汝らをもまた追うであろう。(ヨハネ15:20)彼らがこれらのことを為すは、すべて彼ら真の神を知らないが故である。(ヨハネ15:21)われは彼らに説明した、なれど彼らはわれに聴くを欲しなかったのである。(ヨハネ15:22)彼らはわが教えを悟らなかった、なぜなら父を悟らなかったからである。(ヨハネ15:23)彼らはわが生活を見た、そうしてわが生活は彼らに彼らの過ちを示した。(ヨハネ15:24)ために彼らはますます強くわれを憎んだのである。(ヨハネ15:25)
 汝らに来るべき真理の霊は、これを証明するであろう。(ヨハネ15:26)汝らもこれを証明せよ。(ヨハネ15:27)われは、迫害汝らに至る時、汝らの迷わざるよう、あらかじめこれを汝らに告げる。(ヨハネ16:1)人々汝らを浮浪漢となし、汝らを殺すことをもって神を喜ばすことと考える時来るであろう。(ヨハネ16:2)これらのことを彼らはせざるを得ないのである、これ、わが教えを解せず、真の神を悟らないがためである。(ヨハネ16:3)今われ前もってこれを汝らに告げるのは、それらのこと起こりし時汝らの驚かざらんがためである。(ヨハネ16:4)
 かくして、われは今、われを遣わした霊の許へ帰るのである。今こそ汝らも、われに向かってどこへ行くかを訊くべからざるを悟ったであろう。(ヨハネ16:5)以前には汝らも、わが行く先のいかなるところなるかを告げざりしため、いたく悲しんだ。(ヨハネ16:6)
 しかしながらわれ誠に汝らに告ぐ、わが去ることは汝らにとってよきことであると。もしわれ死なずば、真理の霊は汝らに顕われないであろう、が、もし死なば、霊汝らに宿るであろう。(ヨハネ16:7)霊汝らに宿れば、汝ら何において偽りあり、何において真理あり、何において裁きあるかを明らかにするであろう。(ヨハネ16:8)偽りは、人々霊の生命を信じざることの中にあり。(ヨハネ16:9)真理は、われの神と一つであることの中にある。裁きは肉の生命の権威廃棄せらるることの中にある。(ヨハネ16:11)
 われなお汝らに言うべきこと数多あれど、汝らには悟り難いであろう。(ヨハネ16:12)真理の霊汝らのうちに宿る時には、彼汝らに一切の真実を示すであろう、何となれば、それは新しい自己流のものを語るのでなく、神から出づるものを語るからである、そして彼は生活のあらゆる場合において、汝らに道を示すであろうからである。(ヨハネ16:13)霊は、わが父より出でたるとひとしく、父より出づるものであるから、彼もまたわれと同じことを語るであろう。(ヨハネ16:15)
 されど、真理の霊なるわれ汝らの中にあるとも、汝らは常にわれを見ることは出来ない。時にわれを見ることあるも、決してわが声を聞かないこともあるであろう。(ヨハネ16:16)
 かくて弟子達は互いに語った──これは何を意味するのであろうか? ──師は言った──時にわれを見ることあり、時には見ざることありと。(ヨハネ16:17)時に見、時に見ずとは何の意味であろう、──彼は何を語ったのであろうか?(ヨハネ16:18)
 イエスは彼らに言った──汝らは、時にわれを見、時にわれを見ずと言いし言葉の意味を悟らないのであろう。(ヨハネ16:19)汝ら知る如く、世には常に、ある者は歎き悲しみ、ある者は喜ぶという現象のあるものである。されば汝ら悲しむとも、その悲しみはやがて喜びとなるであろう。(ヨハネ16:20)女は子を産む時、苦しみに歎く。されど産み終われば、世に人の生まれ出でたる喜びのために、その苦痛を忘れ去るものである。(ヨハネ16:21)同じく汝らも歎き悲しむであろうが、思いがけずわれを見──真の霊汝らのうちに入る時は、その悲しみはたちまち喜びに変わるであろう。(ヨハネ16:22)然る時汝らはもはやわれに向かって何事をも訊ねないであろう、何となれば、その時こそ汝らは求めるものをすべて持つからである。その時こそ人は、心に求めるすべてのものを、己が父より受けるのである。(ヨハネ16:23)
 汝らこれまでは霊のために何ものをも求めなかった。が、その時は霊のために欲するところのものを求めよ、すべては汝らに与えられるであろう。従って汝の幸福は充たされるであろう。(ヨハネ16:24)今われは人として言葉をもってはこれを明らかに汝らに告げることが出来ない、されどひとたびわれ真理の霊として汝らのうちに生きる時には、われは父について明らかに汝らに説き知らすであろう。(ヨハネ16:25)その時、汝らが霊の名によって父に求めるすべてのもの、それを汝らに与える者はわれではない。(ヨハネ16:26)父の汝らに与え給うのである、これすなわち汝らわが教えをとり、(ヨハネ16:27)霊の悟りの父よりこの世に出でて、この世より父に帰ると悟りしことに対して、汝らを愛し給うが故である。(ヨハネ16:28)
 その時弟子達はイエスに言った──今こそわれらはすべてを悟った、われらもはや訊ねることなし。(ヨハネ16:29)われらは汝の神より来たれるものなるを信ずる。(ヨハネ16:30)
 そこでイエスに言った──わが汝らに告げしことはすべて、汝らをしてわが教えにおける信念と平安とを得せしめんがためである。この世においていかなる災禍汝らを見舞おうとも、汝ら何ものをも恐れてはならぬ──わが教えは世に勝つであろうから。(ヨハネ16:31,33)
 この後、イエスはその眼を天へ挙げて言った──
 わが父よ! 汝は己が子に、真の生命を得せしめんとして、生命の自由を与え給うた。(ヨハネ17:1)生命とは、われによって開かれたる悟りの真の神を知ることである。(ヨハネ17:3)われは地上の人々に汝を啓示した。われは汝のわれに命じ給いしことをしたのである。(ヨハネ17:4)われは地上の人々に汝の本質を明らかにした。彼らは以前にも汝のものであったが、われは汝の意志によって彼らに真理を啓示したのである。そうして彼らは汝を知った。(ヨハネ17:6)彼らは、彼らの持てるすべてのもの、彼らの生命が、ただ汝より出でたるものなるを悟った。(ヨハネ17:7)そうしてわが彼らを教えしことも、われより出づるにあらず、われも彼らも共に汝より出でし者なるを悟った。(ヨハネ17:8)われは汝を認めし者らのために汝に祈る。(ヨハネ17:9)彼らはわがもののすべては汝のものであり、汝のもののすべてはわがものなるを解した。(ヨハネ17:10)われはもはや世にはいない、汝の許へ帰るのである、しかし彼らは世にいる、願わくば父よ、彼らのうちに汝の悟りを堅く守らしめ給わんことを。(ヨハネ17:11)わが願うは彼らを世よりとり給わんことにあらず、悪より免れさせ給いて、(ヨハネ17:15)汝の真理において堅からしめ給わんことである。汝の悟りは真理である。(ヨハネ17:17)わが父よ! わが願うは、彼らをしてわれと同じものたらしめ、真の生活は世界の創め以前より存在せしものなることを、われと同じく悟らしめんことである。(ヨハネ17:18)彼らのすべてが一つになること、汝父のわがうちにあり、われの汝のうちにある如く、彼らをしてわれらのうちに一つにならしめんことである。(ヨハネ17:21)われ彼らのうちに居り、汝わがうちに居り、万人一つになり、人々をして彼らの生まれたるは己の意志によるに非ずして、汝彼らを愛して、われと同じく世に遣わされたるものなることを悟らしめんことである。(ヨハネ17:23)正しき父よ! 世は汝を認めなかったが、われは汝を識った。そうして彼らはわれによって汝を識ったのである。(ヨハネ17:25)われは彼らに汝の何者なるかを説き示した。汝はすなわち、汝がわれを愛せし愛を彼らのうちにあらしめんとするものである。汝は彼らに生命を与えた、して見れば彼らを愛したのである。われは彼らにこの一事と、彼らに与えられたる汝の愛の彼らより汝に帰るが如く、彼らの汝を愛せんこととを教えたのである。(ヨハネ17:26)

十二、肉に対する霊の勝利

 この故に自己の生命によらず、父の意志における一般的生命によって生きる者のためには、死はない。肉の死は父との一致である。
 そうして後イエスは言った──今こそ立て、われらは行こう、われを売る者既に近づいた。(マタイ26:46)
 彼がこう言うや否や、──突如として十二人の弟子の一人のユダが現われ、彼と共に俸ぎれや剣を携えた大きな群衆が現われた。(マタイ26:47)ユダは彼らに言った──われ汝らを彼の弟子らと共にあるところへ導く、そうしてわれ汝らにその人を示す、わが最初に接吻する人こそその人である。(マタイ26:48)──かくてすぐにイエスに近づいて、言った──ご機嫌よう、師よ! そうして彼に接吻した。(マタイ26:49)
 そこでイエスは彼に言った──友よ、汝はなぜここにあるのか?
 その時審卒らイエスを取りまいて、彼を捕えようとした。(マタイ26:50)
 ここにおいてペテロ祭司の長の剣をとって、彼の耳を斬った。(マタイ26:51)
 イエスは言った──悪に抗してはならぬ。抗うを止めよ。──そしてペテロに言った──その剣を持主に返せ。剣をとるものは剣によって滅びるであろう。(マタイ26:52)
 この後でイエスは群衆に向かって言った──汝ら何が故に、あたかも強盗に向かうが如く、武器をとってわれに来たのであるか? われは毎日神殿において汝らの中にあり、汝らを教えた、然るに汝らはわれを捕えなかったではないか。(マタイ26:55)しかし今は汝らの時、闇の力である。(ルカ22:53)
 その時、彼の捕らわるるを見て、弟子達は皆逃げ去った。(マタイ26:56)
 ここにおいて役人兵士らに命じて、イエスを捕えて彼を縛せしめた。兵士らは彼を縛し、(ヨハネ18:12)まずアンナスの許へ引いて行った。これはカヤハの妻の父であった。カヤハはこの年の大祭司で、アンナスと同じ邸に住んでいた。(ヨハネ18:13)これは先にいかにしてイエスを殺すべきかを画策した当のカヤハであった。イエスを殺すは人民のためによきことである、もしイエスを殺さなければ、全国民のためにきっと悪しきことがあるからと主張した男であった。(ヨハネ18:14)この故に兵士らは、イエスを大祭司の住んでいた家の庭へ引き来たったのであった。(ヨハネ18:14)
 イエスがそこへ引かれた時、イエスの弟子の一人ペテロは、遠くより彼らのあとをつけて、彼を引き行く先を見届けた。イエスが大祭司の庭へ引き入れられるや、事の成り行きを見るために、ペテロは同じくそこへ入った。(マタイ26:58)その時一人の娘庭でペテロを見て、彼に言った──汝もガリラヤのイエスと共にいた人である!(マタイ26:69)ペテロは己も共に罰せられんことを恐れて、一同の人々の前に声高に言った──汝何を言うか、われは分からぬ!(マタイ26:70)──やがてイエス屋内に引かれるや、ペテロは群衆と共に玄関へ入った。玄関には一人の女が火に温まっていた。ペテロはその傍へ行った。女はペテロを見て人々に言った──見よ、この人恐らくはナザレのイエスと共にいた人であると。(マタイ26:71)ペテロはますます驚いて、イエスと共にいたことは決してないこと、イエスのいかなる人なるかをも知らない旨を誓った。(マタイ26:72)しばらくして人々またペテロに近づいて言った──汝もたしかにあの擾乱者の一人である。言葉つきよりして、汝のガリラヤ人なるを知ることが出来る。(マタイ26:73)ここにおいてペテロは、われイエスを絶えて知らず、見たこともないと誓い始めた。
 彼がそれを言うや否や、鶏が鳴き出した。(マタイ26:74)その時ペテロは、先ほど彼がイエスの前に、たとえすべての人彼を拒絶すとも、われは断じて拒絶せずと誓った時、今夜鶏の鳴くまでに、汝三度びわれを拒絶すべしと言ったイエスの言葉を思い出した。そこでペテロは庭から外へ出て、烈しく泣き出した。彼は自分が誘惑に陥ったことについて泣いたのであった。彼はイエスを守ろうとした時に、一つの誘惑──闘い──に落ち、イエスを拒絶した時に、第二の誘惑──死に対する恐怖──に落ちたのである。(マタイ26:75)
 かくて正教派の祭司の長、教師、役人ら大祭司の許に集まった。一同が集まった時、(マルコ14:53)イエスを引き来たり、大祭司彼に、彼の教えの何たるかと、彼の弟子の何人たるかを訊問した。(ヨハネ18:19)
 イエスは答えて言った──われは常に万人の前においてすべてを世に語り、今も語りつつある、かつて何人の前にも隠したることなく、今も隠すことなし。(ヨハネ18:20)汝またわれに何を訊かんとするか? わが教えを聞いてそれを悟りし者らに訊ねよ。彼ら汝に語るであろう。(ヨハネ18:21)
 イエスがこう言った時、大祭司の下僕の一人イエスの額を打って言った──汝は誰と語り居ると思うか? 大祭司に対するそれが返事か?(ヨハネ18:22)
 イエスは言った──もしわが言いしこと悪しくば、何が悪しかりしかを言え! もしわが言いしこと悪しからざれば、何に対してわれを打つぞ。(ヨハネ18:23)
 正教派の祭司長らはイエスを罪に陥れんとして努力したが、初めは彼を宣告するに足る如き証拠を挙げることが出来なかった。(マタイ26:59)その語二人の証人を見出した。(マタイ26:60)これらの証人はイエスについて言った──われらはこの人のかく言いしを自ら聴いた、この人は言った──われこの人の手にて造られたる汝らの神殿をこぼち、神のために三日の中に他の神殿、手にて造られざる神殿を建てんと。(マルコ14:58)されどこの証拠も罪を定めるには足りなかった。(マルコ14:59)よって祭司長らはイエスを呼び出して言った──汝何ぞ彼らの証言に答えないのであるか?(マタイ26:62)
 イエスは黙して、一言も言わなかった。
 その時祭司の長は彼に言った──然らば言え、汝はキリスト、神の子であるか?(マタイ26:63)
 イエスは彼に答えて言った──然り、われはキリスト、神の子である。汝ら自ら今人の子の神にひとしきことを見るであろう。(マタイ26:64)
 ここにおいてか祭司の長は叫び出した──汝神を瀆す! 今こそわれらには証拠は要らぬ。今こそわれらみな汝の神を瀆す者なるを聞いたのである!(マタイ26:65)そうして祭司の長は会議の方へ向かって言った──今汝らは自ら彼の神を瀆す言葉を聴いた。これに対し汝らは彼をいかなる罪に処せんとするか?
 一同は言った──われらは彼を死罪に処す。(マタイ26:66)
 その時早く全群衆と番卒らは、一斉にイエスに飛びかかって、彼の面に唾きしたり、その頰を打ったり、引き掻いたりし始めた。彼らは彼の眼を押さえて、その頰を打って、問うた──いざ預言者よ、言い当てよ。汝を打ちし者は誰であるか?
 イエスは黙していた。(マタイ26:68)
 彼らは彼を罵言したる後、縛して総督ピラトの許へ曳いた。(マタイ27:2)そうしてその政庁へつき出した。(ヨハネ18:28)
 総督ピラトは彼らの前へ出て言った──汝ら何事に対してこの人を訴えるか?(ヨハネ18:29)
 彼らは言った──この人は悪を為している。よってわれら彼を汝の許へ引いたのである。(ヨハネ18:30)
 ピラトは彼らに言った──彼もし汝らに悪を為すならば、汝ら自ら汝らの律法に徴して彼を裁け。
 彼らは言った──われら彼を汝の許へ引きしは、汝をして彼を刑せしめんがためである。われらには人を殺すことは許されていないのである。
 かくてイエスの予期したことが成就した。彼は常々、われは己が死によらず、またユダヤ人の手によらず、ローマ人の十字架にかかって死すべき覚悟を持たなければならぬと言っていたのである。(ヨハネ18:32)
 かくてピラト彼らに、彼らは何によって彼を訴えんとするかを訊ねた時、彼らは、彼の罪は人民を煽動し、貢をカエサルに納めるを禁じ、かつ自らキリストなり王なりと称えしことにあるのであると言った。(ルカ23:2)
 ピラトは彼らの言葉を聞き終わるや、イエスを己が政庁に呼び出すべく命じた。イエス彼の許へ入り来たった時、ピラトは言った──されば、ユダヤの王とは汝のことであるか?(ヨハネ18:33)
 イエスは彼に言った──汝はまさしくわれを王と思うのであるか、それともただ他の汝に言えるを繰り返すのであるか?(ヨハネ18:34)
 ピラトは言った──われはユダヤ人にあらず、されば汝もわが王たることは出来ない。汝をわが許へ引き来たったのは汝の民である。そもそも汝は何人であるか?(ヨハネ18:35)
 イエスは答えた──われは王である。されどわが王国は地のものではない。もしわれ地上の王ならば、わが臣下わがために戦い、われを祭司の長らに渡すことはしなかったであろう。これで汝も、わが王国の地上のものならざることが分かるであろう。(ヨハネ18:36)
 ピラトはこれに対して言った──しかしとにかく汝は、己を王と考えて居るのであろう? イエスは言った──ひとりわれのみならず、汝もまたわれを王と考えないではいられないであろう。わが教えるはただ、万人に天国の真理を啓示せんがために外ならない。そうして真理によって生きる者は皆王なのである。(ヨハネ18:37)
 ピラトは言った──汝は真理という。真理とは何であるか?
 かく言い終わるや、彼は振り向いて祭司の長らの許へ行った。彼は彼らの許へ出向いて、彼らに言った──われ思うに、この人は何も悪しきことはして居らぬようである。(ヨハネ18:38)
 しかし祭司の長らは自説を枉げずして、彼は多くの悪を行い、人民を煽動し、当のガリラヤより全ユダヤを騒がしたものであると言った。(ルカ23:5、マルコ15:3)
 ここにおいてピラト、祭司の長らの前にて再びイエスを訊問し始めた。しかし、イエスは答えなかった。ピラトは彼に言った──汝は汝の訴えられ居るを知らないか、何ぞ自ら弁解せざる?(マルコ15:4)
 されどイエスは沈黙を続けて、もはや一言も答えなかったので、ピラトも彼に一驚した。(マルコ15:5)
 ピラトは、ガリラヤはヘロデ王の権下なるを想起して、訊ねた──彼はガリラヤ人であるか?
 人々は彼に答えた──然り。(ルカ23:6)
 その時彼は言った──彼もしガリラヤ人ならば、彼はヘロデの権下にある。われは彼をヘロデの許へ送るであろう。──ヘロデはその時エルサレムにいた。ピラトは彼らからのがれるために、イエスをヘロデの許へ送った。(ルカ23:7)
 イエスがヘロデの許へ送られた時、ヘロデはイエスを見ることをいたく喜んだ。彼は彼のことをよく聞いていたので、それがどんな人物であるかを知りたく思ったのである。(ルカ23:8)
ヘロデは彼を呼び出して、彼に、かねて知りたく思っていたすべてについて訊ね始めた。しかし、イエスは彼には一言も答えなかった。(ルカ23:9)然るに祭司の長らと教師らとは、ピラトの許におけると同じく、ヘロデの前に手いたくイエスを訴えて、彼は叛乱者であると言った。(ルカ23:10)ここにおいてヘロデ、イエスをただの愚か者と思い、彼を嘲弄せんがために、命じて彼にあかき衣を着せ、ピラトの許へ送り返した。(ルカ23:11)ヘロデは、ピラトが彼を重んじてイエスを彼の法廷に送り寄越したことに満足した、かくて前には不和であったにも拘らず、このために彼らは和解した。(ルカ23:12)
 かくてまたイエスをピラトの許へ引き来たった時、ピラトは再び祭司の長らとユダヤの役人らを呼び出して、(ルカ23:13)彼らに言った──彼らこのものを人民を煽動するものとしてわが許へ連れ来たったにより、われ汝らの面前にて彼を訊問したが、彼が叛乱者であった点は少しも見られなかった。(ルカ23:14)そうしてわれ彼を汝らと共にヘロデに送りしに、見る如く、どこにも彼に悪しきことあるを見出さなかった。よって思うに、彼を死刑に処すべき理由は少しもない──むしろ懲らしめて放免すべきではないであろうか。(ルカ23:15,16)
 祭司の長らはこれを聞くや、一斉に叫び出した──いや、彼をローマの風によって罰せよ! 十字架につけよ。(マタイ27:23)
 ピラトは聞いて、祭司の長らに言った──さらばよし! しかし汝らには逾越の祭のために一人の悪人を許す習慣がある。今わが牢舎にバラバなる殺人者叛乱者がある。されば二人のうち一人は赦さなければならぬ──イエスかバラバか?
 ピラトはイエスを救いたく思ったのであるが、祭司の長ら人民をはかって、彼らをして叫ばしめた──バラバ、バラバ。(マタイ27:21)
 ピラト言う──さらばイエスはいかにすべきか?
 彼らは再び叫んだ──ローマの風により十字架に、十字架に。(マタイ27:22)
 そこでピラトは彼らを説得し始めた。彼は言った──汝ら何が故にかく彼を苦しめるのであるか? 彼は、死刑に処すべき程の罪は何も犯して居らず、また汝らに対しても何の悪事を働いたのでない。(マタイ27:23)われは彼の中に罪を見出さない、われは彼を赦すであろう。(ヨハネ19:6)
 祭司の長らは答えた──われらは律法によって定められたるところを要求するのである。律法によれば、彼は己を神の子と言いしかどによって、死刑に処せらるべきなのである。(ヨハネ19:7)
 ピラトはこの言葉を聞くと当惑した、なぜなら彼は「神の子」なるこの言葉の意味するところを知らなかったからである。(ヨハネ19:8)かくて政庁へ帰ると、ピラトはまたしてもイエスを呼び出して、彼に訊ねた──汝は何者で、どこから来た者であるか?
 しかし、イエスは彼に答えなかった。(ヨハネ19:9)
 その時ピラトは彼に言った──何が故に汝はわれに答えないのであるか? 汝はわが権下にあるを知らないのであるか、汝を十字架につけることも、また許すこともわが思いのままなるを知らないのであるか。(ヨハネ19:10)
 イエスは彼に答えた──汝は何の権力をも持たない。権力はただ上より来るもののみである。(ヨハネ19:11)
 ピラトはなおイエスを赦さんと思った。(ヨハネ19:12)そうして言った──汝らいかにして汝らの王を十字架につけんとするか?(ヨハネ19:15)
 されどユダヤ人らは彼に言った──汝もしイエスを赦さば、汝はそれによりてカエサルに対し不信の臣たるを示すようなものである。何となれば、己を王となすものはカエサルの敵であるからである。(ヨハネ19:12)われらの王はカエサルである。さればこの者を十字架につけよ。(ヨハネ19:15)
 ピラトはこの言葉を聞くと共に、もはやイエスを刑さざるべからざることを悟った。(ヨハネ19:13)そこでピラトはユダヤ人らの前へ出て、水をとって己が手を洗い、そうして言った──この正しき人の血に対してはわれに罪なし。(マタイ27:24)
 全群衆は叫び出した──彼の血をわれら及びわれらの子の上にあらしめよ。(マタイ27:25)
 かくて祭司の長ら勝ちを制した。(ルカ23:23)その時ピラトは己が審判席についた。(ヨハネ19:13)そうしてまずイエスをむちうつことを命じた。(マタイ27:26)
 兵士らがイエスをむちうった時、──彼をむちうった者どもは、彼の頭に冠をきせ、その手に杖を持たせ、背に赤きマントをはおらせて、彼を愚弄し始めた──彼らは戯れに彼の足下に低頭して言った──ユダヤ人の王、安かれ! そうしてまたある者はその頰を打ち、その頭を打ち、その頭に唾吐きした。(マタイ27:28-30)
 祭司の長らは叫んだ──彼を十字架につけよ! われらの王はカエサルである! 彼を十字架につけよ!
 ここにおいてピラトも、彼を磔刑に処すべく命じた。(ヨハネ19:15,16)
 その時人々イエスより赤き衣をとり、彼自らの衣服をまとわせて、磔刑を受くべきゴルゴダの山へ十字架を運ぶことを命じた。かくて彼は、己が十字架を負うてゴルゴダの刑場へ上った。(マタイ27:31)そこにて人々は、イエスと外に二人の男をも十字架につけた──その二人を左右に、いえすを中央に。(ヨハネ19:18)
 彼らイエスを十字架につけし時、彼は言った──父よ! 彼らを赦し給え──彼らはその為すところを知らないのである。(ルカ23:34)
 かくてイエス既に十字架につけられた時、群衆は彼を取りまいて罵った。(ルカ23:35)彼らは彼に近づき、点頭して、彼に言った──見よ、汝はエルサレムの神殿を取りこぼって、三日にして再建せんとした人である。(マルコ15:29)いざ、十字架よりおりて自ら救え!(マルコ15:30)祭司の長、牧師らもそこに立って彼を嘲弄して言った──彼は人を救いても、己を救うことが出来ない。(マルコ15:31)今こそ汝のキリストなるを示して、十字架よりおりよ、その時はわれらも汝を信じるであろう。彼は言った、彼は神の子であると。また言った、神彼を見棄てないであろうと。然るに何ぞや、今神は汝を見棄てたではないか? 人民も、祭司の長も、兵士らも彼を罵り、彼と共に十字架につけられている強盗の一人まで、彼を罵った。(マルコ15:32)
 強盗の一人は、罵りつつ彼に言った──汝もしキリストならば、己とわれらとを救え。(ルカ23:39)
 されど他の強盗はそれを聞いて言った──汝神を畏れないのか。自身十字架につけられながら──罪なき人を罵るとは。(ルカ23:40)われと汝とは罪あって刑を受けるのであるが、この人は何の悪しきことをもしたのではない。(ルカ23:41)
 そうしてイエスの方を向き、この強盗は彼に言った──主よ、汝み国に入りし時はわれを思い出し給え。(ルカ23:42)
 そこでイエスは彼に言った──汝は今既に我と共に祝福されたるものである。(ルカ23:43)
 八時を過ぎて、イエスは苦しみの余り声高く言い出した──エリ、エリ、ロマ、サバク!──この意味は──わが神、わが神! 汝何ぞわれを見捨て給いし?(マタイ27:46)
 人々の中にこの声が響いた時、彼らは罵り笑い始めた──預言者エリヤを呼んでいるのだ! いかにしてエリヤの来るかを見ようではないか。(マタイ27:47,49)
 その後イエスはまた言った──飲ませよ!
 一人の男海綿をとり、それを酢に浸して──そこに小桶が立っていたのである──葦にのせてイエスに与えた。(ヨハネ19:28,29)
 イエスは海綿を吸って声高に言った──事終った! 父よ、汝の手にわが霊をゆだねる!──そうして頭を垂れて、息は絶えた。(ヨハネ19:30、ルカ23:46)

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