デカルト『方法序説』

我が身については慎み深くするのが常だけれど、哲学者の目で見てやると、わたしの成果にくらべれば人類全体のいろんな分野や探求は、ほとんどすべてが無内容で役立たずに見えてしまう。だから、わたしは、真理の探究で自分が達成したと思う進歩には満足しきっている。将来への期待もついつい高まってしまっていて、人の人としての職業のなかで、どれか本当に優秀で大事なものを一つ選ぶとすれば、それはわたしが選んだこの仕事だと思うほどだ。
それでも、学校での学問への敬意をなくしたわけではない。そこで教えられる言語は、古人の書いた著作を理解するのに必要だというのはわかる。寓話の優雅さは心ときめくものだ。歴史上の印象的なできごとは精神を高めてくれるし、注意して読めば、判断力の形成にも役立つ。すぐれた本を読み込むのは、それを書いた過去の最高の偉人たちの話をきくようなもので、しかもただの話ではなく、その人たちのえり抜きの思考だけを伝えてくれる。雄弁は比類なき力と美しさを持っている。詩は、すばらしい優雅さとよろこびをもたらす。数学には、探求心の旺盛な者を満足させるにじゅうぶん足るだけの洗練された発見がたくさんあって、しかもそれは人のあらゆる技芸を進歩させ、人々の労働を減らせるものだ。道徳律には、美徳について無数のとても役に立つ知見や訓戒が含まれている。神学は天国への道を指し示す。哲学は、あらゆる事柄について、真実ぶった対話を可能にしてくれて、単純な人々の崇拝を獲得できる。法学や医学などの科学は、それを探求する者たちに名誉と富を確保してくれる。そして結局は、このすべてに少しは関心をはらっておくといいだろう。なかにはえらく迷信やあやまりばかりの分野もあるけれど、でもそういうのを見ておけば、その真価も見定められるし、だまされないようにすることもできるわけだ。
神学は崇拝したし、天に到達しようとしてほかのみんなと同じように努力はしてみた。が、その道は、最高に教養ある者にも、まったく無知なる者にも等しく開かれていることを確実に理解するに至り、さらには天国にいたるものとして明かされた真実が、われわれの理解を越えていることがよくわかったので、それをわたしの無力な理性の対象にしようなどという気は起きなかった。そういうのをちゃんと検討するには、天国からの特別な助けが必要なのだと思う。そして、人間以上のものにならなくてはならないのだろう。

哲学については何も言わないでおこう。ただし、幾世紀にもわたって、非凡な人々によって探求されてきたというのに、いまだにその領域で議論に片が付いたものは何一つないし、だから疑問の余地のないものも何一つないというのを見ると、自分がやってもほかの人より成功する見込みがあるとは思えなかった。そしてさらに、教養ある人たちが掲げるたった一つのことについて、真実は一つしかないはずなのに、矛盾する意見が山ほどあることを考えると、まあそういう意見はどれも実は正しくなんかなくて、「そういうこともあるかもしれない」程度のものでしかないんだな、と思ったわけだ。

それ以外の科学となると、みんな原理を哲学から拝借しているということから見ても、そんな貧相な基礎のうえにまともな建物が建てられるわけがないと判断した。そしてそうした分野が掲げる名誉も富も、その道の探求を決意させるほどのものではないと思った。というのもありがたいことに、わたしは科学を商売にしてお金を儲けたりしなくてはならない立場ではなかったから。そして名誉も、皮相的なものだなんて言わないにしても、空疎な肩書きだけから得られるような名誉なんか、大したものとは思わなかった。そしてインチキ科学については、じゅうぶんに値打ちがわかっていたので、錬金術師の仕事や占星術師の預言、魔術師のおどしや、知りもしないことについてきいたふうな口をきく連中の大風呂敷にだまされるようなこともなかった。

こうした理由のため、年齢があがって教師たちの配下から抜け出せるようになるがはやいか、わたしは完全に文献の学習をやめて、自分自身の知識以外や、世界という偉大な本の知識以外を求めるのはやめようと決意した。その後の若い時期は旅行に専念し、宮廷や軍を訪ねて、いろいろな立場や地位の人たちとつきあって、さまざまな経験を集めた。そして、運命がなげかけてくるいろいろな状況において自分の力を証明し、そして何よりも、自分の体験について考えてみることで、自分を確実に改善しようとした。というのも、現実的な力を持たず、その人自身には何の利害ももたらさない(ただし、常識ばなれしていればしているほど、虚栄心を満たす役にはたつのかもしれないけれど)、純粋に頭の中だけの事柄について、学者たちの理由づけよりは、それぞれの人が個人的に利害関心を持っていることがらや、まちがった判断を下したらすぐに罰を受けるようなことがらについて行う理由づけのほうが、ずっと多くの真理を含んでいるだろうからだ。そういう現実の利害ある状況での理由づけのほうが、それをなるべく確実なものとするような慎重さと技を行使することが必要となる。さらに、わたしはいつも真実を虚偽から区別する方法を知りたいと心から思ってきたのだけれど、それは人生の正しい道をはっきりと見分けて、安心してその道を進めるようになりたいと思ったからでもある。
わたしは大学時代というごく早い時期からすでに、どんなにばかげた奇々怪々な見解であっても、どこかの哲学者が掲げなかったようなものはないということに気がついていた。そしてその後、旅行して気がついたことだが、われわれにとって明らかに不愉快な見解を持つ人々であっても、それだけで野蛮人だということにはならない。それどころか、こうした国民の多くは、われわれ以上とはいわないまでも、同程度にはきちんと理性を使っているのだ。さらに、フランスやドイツでそれぞれ幼少期を過ごした人物を考えてみよう。シナ人や蛮人たちの中でずっと育ってきた場合や、あるいは 10 年前のわれわれが好んだような環境で育てられたり、あるいは 10 年後に好まれるであろう環境(これらはおそらくいま現在のわれわれから見ると、とんでもない非常識な環境に見えることだろう)で育てられたりした人とは、とてもちがった性質を示すはずだ。これについても考慮した。こうしてわたしは、われわれの見解のベースというのは、ある特定の英知に基づくのではなく、慣習や事例に根ざした部分のほうがずっと大きいと考えるしかなかった。そして結論として、そういう英知がわれわれの見解のベースになっているとしても、むずかしい発見の場合には、多数決をとってみたところで、それが正しさの保証とはならないのだと気がついた。むずかしい発見というものは、みんなが見つけるものではなく、たった一人の人物が発見する可能性のほうがずっと高いからだ。しかしながらわたしは、群衆の中からその見識を評価すべき人物を一人として選ぶことができなかった。そこで、いまのように、自分の人生を仕切るにあたって、自分自身の理性を使うよりほかに手がなかったのである。
第一に、自分がはっきり真だと知っていないことは、何一つ受け入れないこと。これはつまり、慎重に軽率さと偏見を避けるということだ。そして、あらゆる疑問の余地なしにはっきりと明確に、自分の意識に提示されたもの以外はいっさい判断にとりこまないということだ。

第二に、検討している問題のそれぞれを、きちんとした解決に必要なだけ、なるべく細かい部分に分割すること。

第三に、いちばん単純で知るのが簡単な対象から手をつけてゆくように、思考を順序だてること。こうすることで、ちょっとずつ前進して、一歩一歩、もっと複雑な知識に到達できるようになる。そして頭の中で、こうした優先順位や序列の中に性格上として位置づかないような対象にも、なんらかの順番を与えてやる。

そして最後に、すべての場合に番号づけを完全にして、さらに見直しを徹底することで、見落としが何もないと確信できるようにすること。
他の科学分野での知識は、哲学から拝借した原理に依存している。そして哲学分野では、わたしは確実なものはなにも見つけだせなかった。だから、まず哲学の原理を確立するように努力すべきだな、と考えた。そしてこの種の探求がほかの何にも増して最大の力を持っており、だからせっかちさと予断がいちばんこわい部分でもあるな、と思ったこともあって、この問題については、もっと成熟した年齢に達するまで手をつけないほうがいいだろうと考えた(当時のわたしは23歳だった)。だからまず、時間のほとんどを割いてその作業の準備を行い、一方で、それまで自分が受け入れてきた、まちがった見解を頭からどんどん捨てていった。さらには、自分の理論展開のための材料を得るため、さまざまな経験を積んで、絶えず自分を、選んだ手法にしたがって実践するようにうながして、その適用のスキルを増そうと努めたのだった。
住んでいる家を建て直す場合、それを取り壊して、建材や建築業者を手配したり、あるいは自分が事前に慎重にひいた設計図にしたがって自分でその作業を行ったりするだけでは、事前準備としては不十分だ。工事中にも自分たちが不自由なく暮らすために、別の家を手配しなくてはならない。同じように、理性から考えて判断を停止すべき状態でも、優柔不断にならずにすむように、さらには最大限の幸福な暮らしをあきらめなくてすむように、わたしは一時的な道徳コードを作っておいた。これは三,四つの原則からできているので、是非ともみなさんに紹介しておこう。

最初の原則は、自分の国の法律や習慣を守り、神の恩寵によってわたしが子供時代以来教わってきた信仰をしっかりと遵守することだ。そしてそれ以外の点に関する行動はすべて、いちばん穏健な見解にしたがい、なるべく極論からは遠ざかること。その判断基準としては、自分がその中で暮らしている人々の中で最も判断力のある人たちの、一般的な合意を受けて採用されている行動を使う。というのも、どの頃から自分の見解を全部否定して、それをすべて検討しなおそうとはしていたけれど、でもその間のやり方としては、いちばん判断力のある人たちの見解にしたがっておくのがいちばんいいと思ったからだ。
わたしの二つ目の原則は、できるだけ自分の行動について断固として決意をもって臨み、怪しげな意見であっても、いったんそれを採用したならばいい加減なことはせず、それがもっとも確実な見解だった場合と同じようにふるまうということだった、これと似ている話というと、森の中で道に迷った旅人は、あちこちふらふらしたりすべきではなく、まして一ヶ所にじっとしているべきではなく、同じ方向に向かってできるだけまっすぐに進み続けて、ちょっとやそっとでは方向を変えたりしないことだ。その最初の方向を決めたのがただの偶然だったとしても。なぜならこうすれば、希望の地点にたどりつくことはないにしても、いずれどこか、森のど真ん中よりはましなところに出るはずだからだ。同じように、行動の途中では遅れが許されないことがしょっちゅうあるので、何が真実かを見極めるだけの力がない場合には、いちばんありそうな方向にしたがって行動すべきなのはおそらく確実であろう。そしてこっちの意見があっちの意見より可能性がありそうだと思わないにしても、どちらかは選ぶべきなのであり、そして選んだら、実践に関わる範囲内ではそれがもはや疑わしいものであるようにはふるまわず、はっきりと真実で確実なものとして行動しなくてはならない。というのも、われわれが選択を行ったときの理性ある判断は、それ自体がこうした性質を持っているからだ。われわれの弱々しくて自信のない精神は、はっきり決然とした選択方針がないときには後悔や逡巡にさいなまれて、おかげである日には、最高の行動はこっちだと思って行動したものの、その次の日は、やっぱりその反対だと思って行動したりしてしまう。この原則を採用したことで、そういうことが以後まったくなくなったのである。

第三の原則は、常に運命をねじふせようとするより自分自身を抑えるようにして、世界の秩序を変えるより自分の欲望を変えるようにしよう、そして一般論として、われわれの持つ力の中には、自分の思考力以外には絶対的なものはなにもないのだ、という説得に自分を慣らそうということだった。
いまのべた場所で行った最初の思索について、ここで述べてしまうのが適切かどうか、実は自信がない。というのも、これはあまりに形而上学的で、えらく風変わりなので、だれもが認めるようなものではないかもしれないからだ。でも、自分が敷いた基礎というのがじゅうぶんにしっかりしているかを決めるためには、それを否定せざるを得ないような立場に自分を置かなくてはならない。さっき述べたように、実践との関連でいえば、非常に不確実なものとして退けるような見解であっても、それが疑問の余地なく、確固たるものであるかのようにふるまうことが必要となることもある。でもわたしは、真理の探究だけに関心を向けようと思っていたので、その正反対の手続きが必要となるな、と思った。つまり、ちょっとでも疑問の余地のあるものはすべて、まったくの偽であるとして棄却すべきだということだ。そうすることで、わたしの信念の中に、完全に疑問の余地のないものが残るかどうかを確かめたかった。同じように、感覚もわれわれをだますときがあるから、こうして感じられるものすべてが、何一つ存在しないと仮定してみようと思った。そして、幾何学の一番単純な問題でも理由づけをまちがえて、まちがった論理に陥る人もいるから、わたし自身だってほかのだれにも負けず劣らずまちがえやすいのだと確信して、これまで証明につかってきた理由づけをすべて、まちがいとして棄却した。そして最後に、われわれが起きているときに経験される、この思考(表象)とまったく同じものが、眠っているときにも体験できるのに、実はその時に体験されるものは何一つ真ではない、ということも考えた。だから、起きているときにわたしの精神に入ってきた、すべての対象(表象)ですら、自分の夢の中の幻影のように、本物ではないのだと考えてみた。しかしこのときすぐに見て取ったのだが、すべてが非現実だと考えたくても、そのように考えているこのわたしは、なんらかの形で存在しなくてならない。そしてこの真理、われ思う、故にわれあり(COGITO ERGO SUM)がまったく確実で、確固たる証拠を持ち、どんなにとんでもないものであれ、疑問の余地はないことがわかった。だから、疑念なしにこれを、わたしの求める哲学の第一原理として受け入れようと結論づけたわけだ。

次に、自分がなんであるかを素直に検討すると、自分にはからだがないと考えることもできるし、自分が存在できるような世界も場所もまったくないと考えたっていいことに気がついた。でも、だからといって自分自身が存在していないとは想定できない。それどころか逆に、ほかのことの真実性を疑おうとわたしが考えたというまさにそのことから、わたしが存在するということはきわめてはっきりと疑いなく導かれるのだった。一方で、わたしが考えるのをやめただけで、わたしが想像してきたものがすべて現実に存在するとしても、わたしは自分が存在すると信じるべき理由を持たなくなる。だからわたしは、自分というのは、その本質や性質が考えるということだけからできあがった存在なのであり、それが存在するにあたっては、場所や物質的なものには一切依存する必要がないのだ、と結論した。だから「わたし」、つまりわたしがわたしであるところの精神は、肉体からは完全に独立したもので、肉体よりもずっと簡単に知り得るもので、肉体が存在しなかったとしても、いまとまったく同じように存在し続けるということになる。

この後で、わたしはある仮説の真実性と確実性にとってなにが本質的かを一般的に考えてみた。というのも、真実なのが確実な仮説を一つ見つけたので、わたしとしては、その確実性の根拠を見つけられるはずだと思ったからだ。「われ思う、故にわれあり」ということばの中には、それ自体を越えるような形で真実性を確信させてくれるようなものはなにもない。単に、考えるためには存在しなくてはならない、というのがはっきりわかるだけだ。したがって、一般原則としては、われわれが非常にはっきりと、疑問の余地なく受け入れられるものは真実だと考えていいという結論に達した。ただしここで、われわれが疑問の余地なく受け入れられるものとは何なのかをきちんと決めるのは、やはりむずかしいということは理解できた。

次に、自分が疑問視した状況を考え、さらにわたし自身の存在が完全無欠ではないことを考えると(というのも、疑うよりも知る方が完成度が高いことははっきりとわかったからだ)、どうして自分があるものについて、自分よりもっと完全だと考えるようになったのか、ということを検討するにいたった。そしてはっきり認識したのは、そういう考えは現実に自分よりもっと完全なものの性質から得たにちがいない、ということだ。自分の外にあるほかのいろいろな対象、たとえば空とか、大地とか、光や熱など無数のものについての考えがどこからきたのかを考えると、もっと迷いは少ない。それらの中には、自分より優れていると考えるべきものは一切みられないので、そういうものが実在するならば、それはある程度の完成度を持っているので、わたし自身の性質に従属しているものなのだと信じることもできるし、もしそれが実在しないなら、自分がそれを無から作り出した、つまりはわたし自身の性質がある種不完全なために、そうしたものが自分の中にあるのだと信じることができるわけだ。でもこれは、自分より完成度の高い性質については言えない。それを無から作り出すことは、明らかに不可能なことだ。そして、より完璧なものが、完成度の低いものの結果であり、したがってその従属物だというのは、それが無からでてきたというのと同じくらい気持ち悪い。だからそれがわたし自身から生じたと考えることもできない。すると結局、それはわたし自身よりも実際にもっと完成度が高いものによってそこにおかれたのだと考えるよりほかにない。そしてその存在は、わたしが考えもつかないようなあらゆる完成度を中に持っているはずだ。つまりそれを一言でいうなら、それは神だ。そしてこれにわたしとして付け加えたいのは、わたしは自分が持っていない完成度について知っているので、わたしは単に存在しているだけでなく(ここでスコラ学派の用語をかなり我流で使うのをお許しいただこう)、もっと完全な存在があってわたしはそれに依存して存在しているのであり、そこからわたしは自分の持っているものすべてを与えられたのだ、ということだ。というのも、もしわたしが単独で、ほかのすべての存在から独立して存在していたのなら、わたしは実際に持っているのがどれほど少量であったとしても、すべての完全さを自分で備えていることになるわけで、同じ理由から、完全さの残りもすべて自分で獲得できるはずで(獲得したいのは自分で意識できている)、すると無限かつ永遠で、遍在し、全能で、つまるところ神の中に認められるあらゆる完成度を自ら身につけられたはずなのだ。というのも、神(その存在についてはいままでの理由づけで確立されている)の性質を、わたしの性質が許す限りにおいて知るためには、自分の頭の中で多少なりとも理解している性質すべてについて、それを持つことが完全さの印となるかどうかを考えてみればよいだけだからだ。そして、不完全さを少しでも示すような性質は、神の中には一切ないことが確認できて、その他の性質も一切不要であることが確認できた。したがってわたしは、疑念や非一貫性、悲しみなどの性質は、神の中には見いだせないと理解した。わたし自身、そういったものがなければもっとうれしいからだ。それに、わたしは感覚的なことや実体的について、いろいろな考えを持っている。自分が夢を見ていると想定することも可能で、自分が見て考えることすべてが存在しないと考えることもできるけれど、そうした考えが実際に自分の頭の中にあることは否定できないからだ。でもすでに自分の中で、知性は肉体的なものとは別だというのをはっきり認識していて、部分から構成されているのというのはすべて依存の証拠であり、依存した状態は明らかに不完全な状態を示すものなんだから、肉体と知性という二つの性質でできているのは、神の完成度とは相容れないものであり、したがって神はそのようには構成されていないことになる。しかし、もしこの世に完全無欠でない物体や、知性や、その他の性質があるなら、その存在は神の力に依存していて、神なしには一瞬たりとも続くことができないであろう。

わたしはすぐにほかの真理を探すのに取りかかった、そして幾何学的な対象を考えてみた。ここでわたしはそれを、長さや幅、高さ/深さが無限に続くような連続対または空間だと考え、それを様々な形や大きさにいろいろ分割でき、あらゆる形で移動させたりひっくり返したりできるようなものだと考えることにした(というのも、幾何学者が考える対象はそういうものだとされているからだ)。かれらのいちばん簡単な証明を考えてみた。そしいてこうした証明については、一般的な合意に基づいて、非常に確実だとされているけれど、それが確実なのは、わたしがすでに敷いてきた原則にしたがう形で考察されているという点にのみ基づいていることを認識した。次に、こうした証明の中には、そうした対象物の実在性について保証してくれるようなものは一切ないことも認識した。たとえば三角形が与えられたとすると、その内角の和が直角二つ分になることは疑問の余地なく認識できたけれど、でもそれだからといって、三角形なるものが存在することを保証してくれるものは、一切認識できなかった。ところが逆に、完全なる存在という概念の検討に戻ると、その完全な存在の実在性は、三角形という概念の中に、内角の和が直角二つ分に等しいということが含まれているのと同じように、あるいは球面上のすべての点がその中心から等距離にあるということが、球という概念にふくまれているのと同じように(いやそれよりもっとはっきりと)、完全な存在という概念自体に含まれていることを発見した。だから完全な存在たる神がある、または存在しているということは、少なくとも幾何学の証明が確実なのと同じくらい確実なわけだ。

でも、多くの人が、この真実を知るのは難しいと思いこんでしまう理屈、そしてさらには、自分の精神が何であるかを知るのが難しいと思いこんでしまう理由というのは、かれらが感覚的な物体のことばかりを考えていて、それ以上のものに思考を向けないからだ。だからすべてを想像以外の方法で考えるのになれていない。想像というのは物質的な対象に限られた思考の様式なのだ。そして、想像できないものについては考えることができない、とかれらは思っている。これが事実であるのをはっきり物語っているのが、スコラ学派の哲学者たちの採用している公理で、それによると、理解の中には、もともと感覚の中に含まれていなかったものはないということになる。ところが、神や魂の概念がもともと感覚の中にはあり得ないのは確実だ。するとわたしには、想像力を使ってこうした概念を理解しようとしているかれらは、音を聞いたりにおいをかいだりしようとして、いっしょうけんめい目を使って苦心している人と同じことをやっているように思えるのだ。そういう区別がない限り、視覚は、嗅覚や聴覚に対してはさしたる保証にはならないのだ。同じように、われわれの想像力も感覚も、われわれの理解力が介入しない限り、なにごとをも保証はしてくれないのだ。

最後に、わたしがこれまで示した理由でもまだ神と魂の存在について納得できない人がいるなら、わたしとしてはかれらがもっと確信を持って真実だと考えているような、その他すべての説――たとえばわれわれに肉体があり、星や地球が存在するなど――は、神や魂の存在よりも不確実なのだということは、是非知っておいてほしいと思う。われわれはこうした事柄について道義的な確信を持っていて、それがとても強いために、その存在を疑うなんてやりすぎだと思えるかもしれない。でも同時に、形而上学的な確実さにまできちんと検討するつもりなら、そういう確信をすべて排除すべきだということは、知性に欠陥があるのでもない限りだれも否定できないのだ。それは、われわれが寝ている時に別の肉体を持っていると想像できたり、別の星や別の地球をみることができるという観察結果からもわかる。実際にはそんな別の肉体や星や地球はありはしないのだ。起きているときに経験することではなく、夢の中で起こることのほうが偽物であるとなぜわかるのだろう。夢の中のできごとは、しばしば起きているときのできごとに比べても、鮮明さや明瞭さの点で勝るとも劣らないではないか。そして、最高の才能を持った人たちは好きなだけこの疑問を考えてくれればいいのだけれど、わたしはかれらが神の存在を前提としない限り、この疑問をぬぐい去れるだけの理由は一切提出できないだろうと信じている。というのも、そもそもわたしがすでに規則として採用した原理、つまりわれわれがはっきりと疑問の余地なく受け入れられるものが真実だという原理も、神があるかまたは存在していて、そして神が完全な存在であって初めて確実なのであり、われわれが持っているものがすべて神から派生するものだからこそ確実なのだ。そこから言えるのは、われわれの考えや概念は、それがはっきりしていて疑問の余地がなく真実であり、神から派生しているという限りにおいて真実なのだ、ということだ。同じように、われわれはしばしば、まちがいを含んだ思いつきや考えを抱くけれど、これはある程度までは混乱して不明瞭なものがあって初めてあり得るのであり、そしてそれが無から出てきたなら(participate of negation)、 つまりはわれわれの中にそのように混乱したものがあるのは、われわれが完全ではないからだ、ということになる。そしてこうした誤りや不完全さは、不完全であるがゆえに、それが神様からでてきたと思うのは、真実や完全さが無から生じたと思うくらい気持ち悪い。でも、われわれが持つ真実で本物なものがすべて完全で無限の存在から派生しているのだと知らなければ、われわれの思考がいかにはっきりと疑問の余地がないものであっても、それが真実であることの完全性を備えているということを保証してくれるような根拠というのはいっさいなくなってしまう。

でも、神と魂の実在がわかってこの規則が確実となったからには、われわれは目を覚ましているときに経験する思考のほうが実在するものであり、夢の幻などを理由にみじんも疑うべきものではないのだ、ということは用意に理解される。もしある個人が眠っているときにでも非常にはっきりした考えを持ったとしよう。たとえば幾何学者が夢の中で新しい証明を発見したとしよう。それでも、かれが眠っているという状況は、その証明の正しさを否定するものにはならない。そしてわれわれの夢によく見られるまちがいというのは、外部に対する感覚と同じような形で、いろいろなものをわれわれに提示してしまうことからくるので、これは偏見ではない。むしろ、しごくまっとうに、われわれの感覚という概念を疑うことにつながるのだ。われわれは目を覚ましている時にも、同じようなかたちでだまされてしまうことが多いからだ。黄疸にかかった人間にはすべてが黄色かがって見えるし、星などずっと遠くにある物体は、実際よりもずっと小さく見えたりする。結局のところ、寝ていようと起きていようと、理性の証拠に基づかない限り、何事も真実だと納得したりしてはいけないのだ。そしていま、「理性」といったのであり、「想像力」とか「感覚」とかいったのではないことに注意してほしい。たとえば、太陽はとてもはっきり見えるけれど、だからといって、太陽が目に見える大きさでしかないと判断してはならない。ヤギの体にライオンの頭がくっついたところを明瞭に想像できるからといって、そんなキマイラが存在するという結論を黙々と受け入れなければならないわけでもない。見たり想像したりするものが実際に存在するというのは、理性が告げるものではない。それは単に、われわれの概念や発想にも同じように真実が多少は含まれている、ということを教えてくれているだけだからだ。というのも、もし真実が含まれていないなら、全く完全で正直な神が、それをわれわれの中に置くはずがないからだ。そしてわれわれの理由づけは、起きているときに比べて寝ているときには、あまり明瞭でも完全でもない。想像力のほうは、起きているときと同じくらい、あるいはそれ以上に生き生きと明瞭だ。そこから理性が導き出す結論とはつまり、われわれの思考は、われわれの不完全さのせいですべてが真というわけではない以上、真理を含む思考というのは、夢を見ているときではなく、起きているときの経験の中に見つかるのはまちがいない、ということなのだ。
神がいまの世界を維持するためのふるまいというのは、神がそれをもともと作ったときのふるまいと同じだというのは確実であり、これは神学者たちも一般に求めている見解だ。だから、神がはじめに世界に混沌という形しか与えず、そこにいくつか自然法則を与えてあとは物体がそれに従って動くに任せたとしても、創造の奇跡をおとしめることなしに次のように信じることはできる。つまりそのような形でも、純粋に物質的なものが時間を経るにつれて、いまわれわれが見ているようなものとなることは可能だ、ということだ。そして万物の性質は、それが一発で完成された完全な状態で作られたと想定するよりも、だんだんと現在のような存在になってきたと考えれば、もっとわかりやすくなるのである。
こうしてわたしは、まともな魂というものを説明し、それがほかのところで説明したような物質の力だけからは、絶対に導けないのを示した。それは独立に創られなくてはならないのだ。そして、単に四肢を動かすだけならともかく、それが船の航海士のように肉体の中に置かれるだけでは不十分だということも示した。人間のような感覚や欲求を持つ、本物の人間をつくるためには、その魂が肉体ともっと密接に結びついて統合されなくてはならない。結局わたしがここで、魂のことについて長々と書いてきたのは、それがいちばん火急の問題だからだ。神の存在を否定する者たちの誤り(この誤りについては、すでに十分に反論をしたつもりだ)をのぞけば、獣たちの魂がわれわれの魂と同じ性質のものだという思いこみほど強力に、弱い精神を惑わして美徳のまっすぐな道からはずれさせてしまうものはないからだ。そういう思いこみがあるとすぐに、この人生が終わってしまえば、ハエやアリと同じでその後にはなにも期待できず、またおそれるものもないのだ、という考えが出てきてしまう。ところが、人間と獣の魂がどんなにちがっているかがわかれば、魂がその性質からして肉体とはまったく独立している理由がはっきりわかり、だから肉体といっしょに死んでしまうようなこともないのもわかる。というのも魂を破壊できるような力を持つ原因は一つも観察されていないからだ。よってわれわれは、魂が不死であるという判断にたどりつくことになる。

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