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12年目の2011年3月11日の話

12年経った。あの3月11日の14:46のその瞬間が来た時、僕は西新宿にいてカメラの前にいた。僕の顔を捉えていたその日のカメラは、僕が怯えるその瞬間の顔を写していたはずだ。残念ながらその後の混乱もあり、その映像は手に入れることができなかった。

その頃、2010年から2012年にかけて、アラブの春とのちに表現された、前例にないような大規模反政府デモが世界に蔓延していた。
2010年にチェニジアのジャスミン革命から始まった革命は、アラブ各地に飛び火し、チュニジアやエジプトでは大統領が退陣,リビアでは反体制派との武力衝突を経た政権交代が行われるなど、大規模な政治変動が起きていた。

自分はあの頃ツイッターに釘付けになりエジプトのタハリール広場を占拠した大群衆の動きを伝えるアルジャジーラや欧米のメディアの報道を日本語に訳して毎晩真夜中に発信していた。僕の時間はすっかりエジプト現地のものになり、今は親の仇のように表現するツイッターがそのホームグラウンドになった。日本の風景は脳裏からは消え失せており、行ったこともないタハリールの路地の隅々の匂いまでが目の前に現れていた。

エジプトの情勢の一進一退に拍手を送り、あるいは絶望してうなだれ、それを繰り返した。何万キロもの彼方にいる人たちの息遣いが近くにあるように思える。血と喝采と悲鳴。ツイッターのおかげだ。一つひとつのツイートに命がかかっていた。必死に日本語にした。
日本のメディアは、この大変動にほとんど無関心だったから、周りに共有体験を持つ人はいなかった。ネットの中を除いては。我々は狂ったように翻訳した。(機械翻訳なんて思いつきもしない頃の話だ)

何十年に一回の大変な変動が起きている。何かが変わるとあの頃は思った。その活動を聞きつけたあるネットメディアが、自分を取材したいと連絡をくれた。取材日は2011年3月11日の午後。13時半からだった。

ネットメディアの関心は、こんなに夜昼なくエジプト革命、特にタハリールの状況を日本語で伝えようとする人物はどこの何者で、何を考えてそんなことをしているのか、聞き出そうというのが目的だった。

その頃独自にエジプト革命を伝えようとしていた日本人はもちろん僕以外にもいて、ネットメディアはその人たちのところにも、取材に行く予定だった。(もちろんそのすべての企画は潰れることになった)
打ち合わせが終わり、カメラがセッティングされてインタビューが始まって間もなく、カメラが小刻みに揺れていることに気がついた。と思ったら激しくなった。始まりだった。カメラマンは途中で僕を捉えている映像を止めた。
会議室の机の下にみな潜り込んだ。長い長い揺れが終わって真っ先に考えたのは、ついに関東大震災が来たのかということだった。SNSのダイレクトメールで娘にはすぐ連絡がついたが、自宅への電話は繋がらなかった。やがて奥さんと犬の無事がわかった。親しい友人の無事を次々と確認した。幸いみなTwitterかFacebookで繋がっていたので、次々と返事が返ってきた。

そして震源が関東ではなく福島沖であることを知った。大変なことになったと思いこの時点で絶望した。この激震の震源が福島沖??会津の奥さんの実家には電話連絡がつかなかった。

その頃になると会議室に人が飛び込んできて「テレビあるよテレビ」と言われ、初めて会議室にテレビがあることに気がついた。地震から30分以上は経っていたろうか。テレビをつけた。津波が起きることは予想していたがそこにあるのは信じられないような数字だった。
テレビはやがて仙台平野を駆け上がっていく波を捉えた。たくさん人が死ぬと思った。取材に来た女性が悲鳴を上げた。僕たちは何か叫んでいたと思うが記憶にない。

娘をピックアップした奥さんは、会社まで迎えに来ようとしたが渋滞でとても動けず、西新宿のオフィスから世田谷の家まで歩いて帰ることにした。(先日NHKでも報道されたがその晩は本当に月の美しい夜だった)まだことの重大性が僕にはわかっておらず、ツイッターで知人と話しながら(スマホは電話回線はダメでもネットは大丈夫だった。これも陰に大変な努力があったことを後から知った)月を見ながらゾロゾロ歩いて帰った。コンビニにはトイレの行列ができていたが、何やら非日常の高揚感も満ちていたのは否めない。まだ何がどうなっているのかわからなかった。

あの日のツイート(1)2011年3月11日(金)地震・徒歩帰宅・原発事故第1報 

家に着くと近くで娘の友人が彼女と2人で立ち往生していることを知り、近くまで車で迎えに行った。2人は何だか呑気な笑顔で現れた。その夜は、その高校生カップルも一緒に、リビングでみんなで雑魚寝した。何だか遠足の夜のようだった。あの2人にどれだけあの時救われたかと、今でも振り返る。身震いするのはその時かの地で何が起きていたか知らなかったことだ。どうしようもないことなのに、あの日に彼の地がどんなことになっていたか。それを知らずに過ごしていたあの夜の自分の「平和」とのギャップに身震いする。それは結局今でも埋まらない。どちらがどちらではないし、おそらく仕方が無いことなのだろうけれど、12年経ってもそこに行き着けない。

原発事故に気がついたのはその日の21:49だった。この日のツイッターの自分の記録は全て残してあって、そこでどんないい加減な情報が流れていたか知ることができる。ツイッターはこの日の自分の宝のような記録であるし、ツイッターがそんな役割を果たせていたことがあったのが、今となっては奇跡のようだ。

あの日のツイート(2)2011年3月12日(土)<メルトダウン・1号機水素爆発> 

ことの深刻さがわかってきたのは午前2時すぎ。眠れなくなった。東京と福島第一原発の距離について考えたが、そんなことをしても何もわからない。沿岸部の皆さんが津波に加えて原発事故の避難を呼びかけられ大変なことになっていることももちろんわからなかった。

当然ながら、この日からアラブ革命の翻訳どころではなくなった。活動を通じて知り合ったエジプトの友人から次々とお見舞いの言葉をもらい、感激した。「俺たちのことは良いからあなたの国を助けてやってくれ」と言われた言葉が忘れられなかった。

(多くの人たちと同じように、今でこそ僕はツイッターを全く信用できなくなってしまったが、この時にツイッターがなかったらと考えてもぞっとする。遠い異国の声を届けてくれていたのもツイッターだったし、あの日の夜の不安な職場からの帰り道を月と一緒に照らしてくれたのもツイッターだったし、原発事故のこともツイッターがなかったらわからなかった。それも、今改めて認識した)



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