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17年前に2秒見えた海を探す
この文章は、ヤマハ発動機とnoteで開催するコラボ特集の寄稿作品として主催者の依頼により書いたものです。
17年前、海が2秒見えた。
あの海の記憶
大学進学のため上京したのは、2006年の3月。山々に囲まれ育った18歳の僕は、さらなる刺激を求めて、東京行きの新幹線に乗り込んだ。予想もできない未来が待っている都会で、新しい人生が始まるのだ ー そう意気込んで列車の座席についたはずが、気づいたら涙を流していた。
過疎化の激しい田舎から出るということは、もう一生ここで暮らすことがない、ということを意味していた。その事実が、意外なほどに僕を悲しませたのだった。新大阪発・東京行きの「こだま」の列車で、しゃくりあげるくらい泣いた。「のぞみ」や「ひかり」ではなく、時間のかかるこだまを選んだのも、後ろ髪を引かれていたからだと思う。
悲しくて心細くて、ただごはんが喉も通らないということは全然なくて、車内販売の弁当を二箱食べた。嗚咽しながら弁当二箱をかっこむ様子は、異様だったと思う。
腹が膨れたら気持ちも落ち着いてきて、じっと車窓を眺めて過ごした。景色に集中していれば、余計なことを考えずに済むと思った。
東海道新幹線の座席には「山側」と「海側」があって、富士山が見える山側の方が人気だと教わったけど、僕は海側の座席を選んでいた。生粋の山育ちの僕にとって、海、というのはまだ見ぬ遠い景色の象徴のようで、憧れを持っていたのだ。だが誤算があった。
実際のところ、東海道新幹線の海側からは、あまり海は見えない。基本的に、海岸からある程度の距離をおいて走るためだ。災害対策を考えれば当然の設計だが、当時の僕は落胆した。
名古屋駅までは住宅と田んぼ、そしてむしろ山ばかり。たまにチラッと水辺が見えるが、川だったり湖だったりして、僕の期待していた景色ではなかった。もっとこう、奥の奥まで青が続いて、世界の広さを匂わせるような、そんな海を見たかったのだ。
「海、見えへんのかあ」
がっかりしていると、新幹線は長いトンネルに入った。外の景色が真っ暗になって、車窓に自分の姿が映った。
目が赤く腫れて、ひどい顔である。
初日からこんな表情で、果たして大丈夫だろうか。東京に知り合いは一人もいない。ただでさえ人付き合いが苦手なのに、やっていけるだろうか。友達はできるだろうか。居場所はつくれるだろうか。
自分の顔に問いかけていたら、また不安が押し寄せてきた。そして視線を逸らそうとしたそのとき、突然景色が変わった。
トンネルを抜けた列車の窓には、海が映っていた。
手前にはどこかの街があって、背の低い建物が並んでいる。その奥に、青い海がふっくらと広がっていた。太陽の光をキラキラと反射して、泣き腫らした目に染みるようだった。大きな海だった。
待望の海が見えたのも束の間、新幹線はまたすぐに次のトンネルに入った。海が見えたのは、わずか2秒間くらいだったと思う。でもたしかに、あの海は僕の瞼の裏に、チカチカと焼き付いていた。
遠くまで、来たのだ。これからもっと、遠くへ行くのだ。
そんなことを思った。
その後も車窓からは、トンネルの黒と海の青が、点滅するように交互に見えた。特に熱海駅付近では、もっとのんびりと、海を眺めることができた。
でもやっぱり、思いがけず見えたあの2秒間の海が、今でも心に残っている。
◇
あの海を探す
あれから17年が経ち、僕はまだ東京で暮らしている。地元で育った時間と、同じくらいの年月を、東京で過ごしていることになる。
一度思い切って地元を出てしまえば、どんな遠くへ行くのにも抵抗がなくなった。大学に入ってから、あるいは社会人になってから、海を越えて色んな国々を訪れた。
地中海を渡ってアフリカに行ったこともあれば、イスラエルで死海に浮かんだことも、南極の海に飛び込んだこともある。
でも、どの海よりも鮮烈な遠さを感じたのは — 僕が人生ではじめて「越えた」海は — こだまから見えた、あの2秒間の海だったように思う。
あの海は一体、どこの街の景色だったのだろう。
ふと気になって、調べてみることにした。
手がかり①記憶
記憶を辿ると、おそらく「あの海」は、熱海駅より手前だったと思う。熱海イコール海、というブランドイメージは、当時から持ち合わせていた。あの海が見えた後に、熱海で期待通りの景色が見えたことを覚えているから、おそらく合っているはずだ。
また、あの海は、名古屋を通過した後だったとも思う。これに関しては、正直根拠はない。「そんな気がする」としか言えない。
だからきっと、このへんのどっかだ。
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さらに、「東海道新幹線 海」といったキーワードで検索してみると、東海道新幹線から海が見えるエリアは、熱海駅および小田原駅付近に集中している、という情報が多数ヒットした。だとすると、熱海の直前の駅たちが、より可能性の高い激アツ区間と言えるのではないか。
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こんな調子で、エリアを絞っていこう。大丈夫だろうか。
手がかり②海との距離
さらに目ぼしをつけるために、今度は地図を頼ることにした。東海道新幹線の線路を指でなぞって確かめてみたところ、大阪を出て以降、名古屋まではほとんど海岸に近づかないことがわかった。良かった、記憶と整合していている。
※ちなみに名古屋駅を通り過ぎたのち、いちど浜名湖でかなり海に近づく。だが地図によると浜名湖の先には陸地があり、国道が走っていた。記憶の海は、水平線の向こうまで何もない景色だったはずだから、これも違うと判断した。
そんなふうに地図上でシミュレーションを続けたところ、ターニングポイントとなるのは、静岡駅の直前だった。静岡駅付近で駿河湾に近づき、また離れ、静岡駅を出た後に再び接近する。「海に近づいたり離れたり」の絶妙な距離感は新富士駅あたりまでキープされ、そのあと熱海までは、しばらく海を離れてしまう。
つまり静岡駅付近から新富士駅付近の間の、駿河湾の海域と「つかず離れず」のどこか、ということになる。記憶に基づいた激アツ区間と、一致している。
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そしてこのエリアの中でも特に海岸へ接近するポイントを絞り、そこからトンネル区間を差し引いてみた。すると以下のA〜Dの4つの区間に限定された。いいぞ。
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手がかり③見晴らし
最後に、A~D区間における標高を調べてみる。単純に、高い場所を走っていれば、見晴らしが良く、海が見えやすいと考えたからだ。
国土交通省の地理院地図の電子版を使えば、指定したルートの標高を表現する「標高断面図」を作成できる。試しに静岡駅付近から新富士駅付近まで、新幹線が通るルートの標高図断面図を作って、前述のA~D区間を当てはめてみた。
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すると、静岡駅と新富士駅の間にあるC区間が平均して30メートルを超える標高を有し、突出して高いことがわかった。そして次点で静岡駅寄りのB区間が続く。いずれも、トンネルに近い区間である。
さらにおまけとして、「スーパー地形*」という登山用のアプリを使って、実際の「見晴らし」を推測してみる。このアプリでは周囲の地形や建物情報をもとに、「対象物を見通せるかどうか?」を推測できるのだ。
結果、やはり標高の高いC区間が、最も海を見渡せそうだという判定が出た。他の区間では、視界が丘や建物に阻まれてしまうみたいだ。
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以上、ここまでで、新富士駅の手前に存在するC区間が「僕の見た海」である可能性が高いことがわかった。本当か?全然自信がない。そもそも手がかりの始まりを古い記憶に頼っているので、そこから破綻している可能性もある。
手がかり④肉眼
そんなとき、たまたま関西へ出かける用事があったので、実際に新幹線に乗って、自分の目で確かめることにした。最初からそうすればよかったのでは…という考えがよぎったが、30代半ばの僕に、もう2時間半車窓に集中する自信はない。わずか2秒を見逃さないためには、予め仮説があることが重要なのだと、自分に言い聞かせた。
新大阪駅発、東京行きの新幹線。座席はもちろん、海側に座った。寿司を頬張りながら、車窓を眺め続ける。
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まず、新大阪から名古屋まで。「ここは無い」とはじめに切り捨てていた区間では、僕が見逃していない限り、はっきりと海が見えることはなかった。そして浜名湖も予想通り、奥に陸地の見える「湖」の景色であり、あの海の記憶とは違っていた。危なかった。この付近で見えていたら、全ての調査が無に帰すところだった。
浜名湖を過ぎ、静岡駅に近づいてくると、車窓から山が減って海の気配が漂い始めた。だが海そのものは、まだ見えない。港にあるような大型クレーンの先端が見えて、身を乗り出したけど、列車はやはり肝心なところでトンネルに入ったり、柵に遮られたりした。
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そして列車は、静岡県の焼津市を通過しはじめた。いよいよ僕の厳選したA~Dの4区間が近づいてくる。
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見逃すまいと、カメラを握りしめた。記憶が正しければ、海が見えるのはたった2秒。瞬きすら惜しい一瞬だ。
静岡駅手前、見えない。A区間は違った。
静岡駅通過後、見えない。B区間も違った。
そのまま新幹線は、トンネルに入った。外が暗くなって、代わりに窓に映った自分の顔は、やっぱり17年前よりも老けていると思う。当時と同じく目が若干充血しているが、これはアルコールのせいである。
トンネルをしばらく走ったあと、景色がひらけた。
「あ」
思わず口に出た。
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海だ。
曇っているし、それ以前に写真を撮るのが下手すぎるが、肉眼ではたしかに、建物の向こうに海が見えたのだ。
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感慨に耽る暇もなく、慌てて現在地を確認した。現在地は、静岡駅と新富士駅の間。近くに「由比(ゆい)」という駅名が見える。
その地名にも、山に挟まれぽっかり開いた街の地形にも、僕には見覚えがあった。
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これ、C区間じゃん。
なんと予想が的中してしまった。当たるとは思っていなかったので、自分で動揺した。トンネルとトンネルに挟まれた高い標高、そして海岸にも比較的近い立地を列車が走ることで、一瞬だけ海が見渡せるのだ。
由比駅の正式な住所は、静岡市の清水区由比。2008年に静岡市に吸収合併されるまでは、由比町という自治体だったらしい。
17年前、僕が目にしたのは、当時の「由比町」の海だった。
列車はすぐに、またトンネルに入った。僕はスマホを開いて、会社へ有給を申請し、それから新幹線の切符を予約した。由比に足を運んで、同じ海を、2秒より長く眺めたいと思ったのだ。
◇
あの海へ行く
一週間後。僕は静岡駅から鈍行列車に乗り、由比へ向かっていた。20分ほど経って、由比駅で降りた乗客は、僕だけだった。
ホームに降りた時点で、かすかに潮の香りが漂ってくる。だが海は見えない。道路に沿って走る巨大なガードレールに、視界が阻まれているのだ。
この付近は、東海道本線と東名高速道路、それから国道1号が並行していて、交通の大動脈が一箇所に集中している。災害時のリスクの高さから、「東海道のアキレス腱」とも呼ばれているらしい。
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駅の改札を出て、案内所に挿してあった「ゆい便利マップ」を広げてみた。一見してマップにも、海を眺められそうな場所は見当たらない。ネットで「由比 浜辺」と調べてみたが、鎌倉の由比ヶ浜が出てくるばかりで、由比はひとつもヒットしなかった。どうやら浜辺はないようだ。だとしたら、どこから海が見えるだろうか。
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案内所では「薩埵峠」というスポットがお勧めされていて、歌川広重も描いた景勝地とのことだった。富士山をバックに駿河湾を臨む絶景のようだが、僕は山を見たいわけではない。何より、本日は35度を越える猛暑日である。峠まで歩いていくと、生命の危機に関わる。広重が描くとも僕は行かず、と強い意志を持って、反対方向へと歩いていく。
由比の名産は、サクラエビだ。そこら中にエビの看板やモニュメントがあって、エビの王国のようである。
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国産のサクラエビの、ほぼ全てが駿河湾でとれるらしい。なんでも、100年前に由比の漁師がアジを獲ろうと深く潜ったところ、偶然サクラエビが取れたことが始まりだという。
王国を築いた名もなき漁師に敬意を表し、サクラエビの干物でも買って行こうかと思ったが、残念ながら付近の店はどれも閉まっていた。月曜日の昼下がりというタイミングが、悪かったのかもしれない。
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飲食物を売っているのは自販機くらいで、大容量の麦茶を2本購入して、浴びるように飲んだ。暑い。暑すぎる。異常な暑さだ。汗でTシャツがまだら模様に変色していく。飲んだそばから、麦茶がそのまま皮膚から噴出しているようだ。
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少しでも涼みたくて、食堂や土産物屋に入ろうとしたが、
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閉まっている。
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閉まっている。
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閉まっている。
観光名所である歌川広重の「東海道広重美術館」も、その向かいにある「おもしろ宿場館」も、
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総じて閉まっている。閉まりすぎている。
閉店の文字がスタンプラリーのようにカメラに溜まっていくばかりで、海は一向に見えない。有給をとってひとりで、何をやっているんだろうと思う。交通のアキレス腱たちが、どこまで行っても視界を遮ってくるのだ。せめて道路の向こう側に渡りたい。
痺れをきらした僕は、海の方角に向かって、住宅街の細い路地に入ることにした。経験上、こういう抜け道が、旅の活路を開いてくれるのだ。
しばらく路地を彷徨ってみると、不意に小さなトンネルが現れた。
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恐る恐る、身を屈めて進んでいく。異世界への抜け穴みたいで胸が躍る。汗が滴る。屈んだ腰が痛い。上から振動が響いてくる。この小さなトンネルは、鉄道と道路の下を潜り抜けているようだ。ということは、この先に海が見えるはずである。
ようやく出口にたどり着いて、視界が開けた先には、漁港があった。
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海は......見えない。
たくさんの船が停泊していて、釣り人が糸を垂らしていて、これは間違いなく漁港の風景なのだが、僕の記憶にあった海は見えない。国道の奥には、津波から街を、そして東海道のアキレス腱を守るための、巨大な堤防があったのだ。
端っこまで歩いてみても、海というよりは陸地に囲まれた「湾」の印象に近い光景しか見えなかった。「真一文字に水平線が広がる光景」という僕の理想にはまだ遠い。漁港の直売所に立ち寄ろうとしたら、やっぱり閉店していた。
◇
帰宅の時刻が、迫っていた。
17時に新幹線に乗って東京に戻り、子どもの保育園の迎えへ行かねばならない。由比に居られるのも、あと30分ほどだ。この辺りで引き返すのが安全だが、この街ではまだ閉店の張り紙しか見ていない。どうしても海が見たい。
「ゆい便利マップ」を30秒ほど睨み、悩んだのち、僕は早足で歩き出した。新幹線の線路のすぐそばに、「見晴らし良」と書かれた公園があったのだ。
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そもそもこのC区間から海が見えたのは、標高が高かったからだ。ならば上まで登れば、鉄道も国道も高速道路も、それから堤防をも越えて、海を見渡せるのではないか。灼熱の太陽の下、坂を登るのは全く気が進まないが、他に手段は残されていない。
行こう。
僕は急な上り坂を、小走りで行く。地元の人々と、すれ違っていく。
黙って池の亀を眺めている、おばあさんたちがいた。本を読みながら歩いている、丸刈りの少年がいた。葬式会場の場所を示した看板を取り外している、喪服姿の女性がいた。道に広がって歩く女子中学生を追い抜こうとして、追い抜けなくて、もどかしそうな男子中学生がいた。
誰とも会話することはない。でも18歳の時に一瞬見えた海の街には、人々の生活があり、日常があった。そんな当たり前のことが、なんだか少し嬉くなった。
10分ほどで到着した「見晴らし良」のスポットは、陣笠山公園という公園だった。「ジャンボローラーすべり台」が名物らしい。
僕は最後の麦茶を一気飲みしてから、覚悟を決めて、階段に一歩を踏み出した。
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滝のような麦茶汗を噴き出しながら、ヘトヘトになって登り続けると、ようやく広い空間に出た。誰もいない。草が生い茂り、腰の位置まで伸びきっていて、ぱっと見は「見晴らし悪」である。あまり管理されていないのだろうか。
肝心の海も、また見えない。
海どこ、海どこ、と呟きながら草をわけわけ、海の方角へ歩んだ。短パンで来てしまったため、脛に無数の擦り傷ができた。蚊が飛び回っていて、すでに両腕にむず痒い感覚がある。
それでもなんとか公園の奥に回り込むと、開けた景色が飛び込んできた。
海だ。
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海だ!
それは紛れもなく、海だった。
南国のビーチのように、美しい浜辺はない。絶景というほどでもない。だがX軸いっぱいにゆらりと揺れる水平線が、たしかに世界の広さを物語っている。
17年前、列車から眺めた海 ー かつて最も遠かった場所に、僕は立っていた。
ゴオ、という音が後方から鳴り響いた。新幹線だ。陣笠山公園の下を走る車両は、弾丸のようにまたトンネルに吸い込まれていく。あの列車には、当時の僕のように、どこかで新しい生活を始めようとしている人が乗っているのだろうか。
◇
思い出の景色をいつまでも眺めていたいが、時間が迫っていた。1分間くらいは海をみていたから、2秒の30倍は楽しめたことになる。そういうことにしよう。
疲労で階段を降りるのも億劫だったので、僕はマットを敷いて、ジャンボローラーすべり台に飛び込んだ。
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ローラーが勢いよく回り、予想の倍のスピードで滑っていく。怖い。尻が熱い。腰が痛い。途中で蜘蛛の巣のトラップがあって、見事に顔面から突っ込んだ。さっきまでの感傷的な気分は吹っ飛んで、早く帰ってシャワーを浴びたいと願う。
滑り台を降りて、そのまま滑るように駅へ急いだ。走らないと、間に合わない。汗だくの擦り傷だらけで、顔に蜘蛛の巣をはり付けて、下り坂を駆け抜けた。すれ違った小学生が「汗やば」と言った。老夫婦が不思議そうな顔で、こちらを見つめていた。自分でも、なぜこんな状況になっているのかわからない。
予想もできない未来を夢見ていた、かつての僕へ。君の夢は、無事叶いました。
結局、時刻ぴったりに到着して、静岡駅から新幹線に乗ることができた。急いでいるので、「こだま」ではなく、「ひかり」に乗った。全ての店が閉まっていた由比では何も口にしていなかったので、キオスクでビールと、おつまみのわさび漬けを買った。
ビールを喉に流し込んで、ようやく一息をつく。虫刺されのあとを掻きむしりながら、数時間ぶりにスマホを開くと、由比町のWikipediaを開いたままだった。そして何気なく町の歴史を読み返してみて、驚いた。
由比町は静岡市に吸収合併された自治体の中でも、最後まで「独立」を維持しようとしたらしい。その結果、2006年には東西を静岡市に囲まれる「陸の孤島」になったという。だが僕が注目したのは、その事実よりも、日付だった。
「2006年3月31日に静岡市が庵原郡蒲原町を編入したことにより、(由比町は)東西両隣を静岡市に挟まれる形になった」
2006年3月31日といえば、僕が上京した、まさに当日ではないか。
僕がひとりで地元を離れた日、窓から見えたあの街もまた、ひとりを志そうとしていたのだろうか。観光地も名産品も味わえなかった由比への親近感が、またひとつ増した。
◇
スマホ片手に偶然へ思いを馳せていると、しかし、保育園からの通知が届いて、物思いは中断された。夕方になると、毎日アプリで連絡帳が送られてくるのだ。
今日の子どもはご飯をおかわりして、3時間も昼寝して、花火の絵を描いたらしい。真剣な表情でクレヨンを握る写真を、いつものようにスマホに保存した。
17年前の春、僕は東京に着く時間を遅らせたくて、こだまに乗った。
今の僕は、東京で待っている子どもがいるから、急いでひかりに乗る。
17年前の春、僕は腹ペコだったから、弁当を二つ食べた。
今日の僕もかなりの空腹だけど、ビール缶とおつまみに留めておいた。家に帰ったら、一緒に晩御飯を食べる人たちがいる。
17年経って、東京はすっかり、帰る場所になっていた。
新幹線が轟音と共にトンネルを抜け、また由比の海が一瞬見えた。相変わらずの、2秒間の海。だが17年前と違って、今では浜辺のない海の街で、暮らす人々の日常が想像できる。
男子中学生は女子たちを追い抜かせたかなあとか、おばあさんは今日も亀を眺めているのかなあとか、いくらでも妄想が膨らんでいく。閉店の張り紙やアキレス腱のガードレール、スリリングな滑り台を思い出す。これから新幹線に乗る度に、同じようなことを考えるのだろう。
心細さに押し潰されそうだったあの日、最も遠い場所だった「あの海」は、今ではすこし近い存在になった。
由比だけではない。海を探すために地図と睨めっこしたり、地形を調べて遊んだりしているうちに、すっかり東海道の海岸にも詳しくなった。B区間には清水港という国際港があって、世界最高の掘削能力を持つ巨大な探査船が停泊するらしい。D区間の新富士駅にも、そういえばまだ降りたことがない。近いうちにまた有給を取って、どちらも訪れたいと思う。
見知らぬ景色と遊ぶことで、単なる記号だった地名に、汗と記憶が付着していく。ゆかりのなかった土地へ、想像を巡らせられるようになる。海に、自分だけの波色がつく。そういう場所が、17年間で数えきれないほど増えた。きっとこれからも増えるだろう。
この過程が病みつきになるほど面白いことを、そしてそんな楽しみがこれからたくさん待ち受けていることを、未知の世界に怯えていた17年前の自分に、教えてあげたい。
走り回った疲労からか、じきにビールの酔いが回ってきた。わさび漬けを口に放り込んで、座席に身体を預けた。列車は再び、トンネルへと入った。車窓に映った顔を確認した僕は、まだ頬にひっついていた蜘蛛の巣を、べろりと剥がした。
※本記事は、特集「#わたしと海」への寄稿として執筆しました。
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