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吉田兼好の優しさが身に沁みた夜

 眠れない夜には、脳味噌から次から次へと断片的な考えや思いが溢れてくる。やがてそうした断片的なフキダシのどれかひとつに心がとらわれ、ますます目が冴えて眠れなくなるという悪循環に陥る。

 先日の夜はどうしたわけか、中学校の国語の教科書に出てきた「徒然草」の中で、筆者の吉田兼好が山奥にあるあばら家を見つけた時の話がぽっと浮かんできた。なにぶん、中学の授業中にぼんやりと聞いていた話なので、詳細な話の内容は憶えていないが、概して次のようなものであったと思う。

 そのあばら家は見た目こそ決して立派なものではないが、周囲はきれいに掃き清められており、木でできた棚には季節の花などが飾られていて、吉田兼好は「こんな山奥にも風流な人がいるものだ」と感心したのだが、その家の庭に生えている大きなミカンの木の周りに柵が張り巡らされているのを見て、一気に興ざめしてしまった、ということである。

 吉田兼好自身は、自分が興ざめしてしまった理由を一切書いていないのだが、これが国語の授業の題材としてうってつけなのだろう。

 学校の教師としては、どうして吉田兼好は興ざめしてしまったのか、生徒に活発に議論させようとするのだが、そんなことは中学生にとっては「どうでもいい」の一言で片付けられるような些末な問題である。

 まあ教師も教師で、「俗世間のくだらないあれこれから抜け出して山奥にひっそりと籠もっているような人であっても、なおミカンの木に執着するのかということに落胆した」みたいな予め用意された答えに強引に着地しようとするので、議論が盛り上がるはずもない。

 眠ることができなかった僕は、「さて、吉田兼好はこの話をどのような言葉で結んでいたかな」ということが気になって仕方なくなってしまった。

 こういうものは考えていても埒が明かない。便利な世の中になったもので、ネットで検索すれば、世間が寝静まった真夜中であっても一発で答えが出てくる。おそらく吉田兼好はこういうお手軽な世の中になってしまったことにこそ興ざめすると思うが仕方ない。

 それはさておき、この話の締めくくりは次のような一文であった。

 「この木がなかったら良かったのになあと思った。」

 「この柵がなかったら・・・」ではなく、「この木がなかったら・・・」である。ただ一文字の違いではあるが、それによってこの話の真意は大分違ってくる。

 「この柵がなかったら・・・」としてしまうと、柵を設置したこの家の主人を責めるような話になってしまうが、「この木がなかったら」とすれば、この家の主人に柵を設置するような気を起こさせた木が悪い、ということになり、主人を被害者のような位置に置くことができる。

 俗世間の煩わしさに嫌気が差して山奥でひっそりと隠遁生活を送っているような人でも自分の庭に生えているミカンの木には執着してしまう。吉田兼好はそんな人間を責めることなく、それをミカンの木のせいにすることにより、むしろそれを肯定していたのである。

 30年近くの年月を経た眠れない夜にささやかな感動を与えてくれるとは、学校で見聞きしたこともたまには役に立つものだと思った。

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