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立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』について考える 6.目的としての読書、手段としての読書

「こんな本を読んだ」の番外篇として、立花隆の『ぼくはこんな本を読んできた』からいくつかのテーマを選び、それらについて考えています。
この本を選んだ理由は、「知の巨人」と呼ばれた立花隆が。「知」をどうとらえていたかを明らかにしたかったからです。

今回は、「目的としての読書、手段としての読書」

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6.目的としての読書、手段としての読書


【結論】読書は読書。分類する意味はない。


今回から第二章となります。タイトルは『私の読書論』。その最初の節となるのが『<人類の知の総体>への挑戦』です。
今回は、その最初の項目となる『目的としての読書、手段としての読書』について。

立花さんは、読書を二つの種類にわけます。 一つは「目的としての読書」。もう一つは「手段としての読書」。

「目的としての読書」とは、文学や教養など、本を読むこと自体が目的、それが楽しみであるような読書。
「手段としての読書」とは、目的が別のところにあり、読書を通じて、本の中にある知識なり情報を獲得したいという目的で読む読書。料理の作り方や、ビジネス書などを例にあげています。

立花さんは、学生のころは文学などをたくさん読んでいたが、社会人になってからはほとんどそのような本を読んでいない。
出版社に入ったこともあって、ノンフィクションの面白さにめざめます。
で、いろいろと書いてありますが、つまりは現実をもとにしたノンフィクションと、取材活動そのものこそが面白いとしています。

じゃあ、最初に分類した「手段としての読書」はどこに行ったのか?仕事のためにノンフィクションを読むのかというと、そうでもない。面白いから読んでいるのだという書き方なので、それは「目的としての読書」なんじゃないかな?


ここからは私の感想です。
立花さんは次のように語っています。

<それ(ノンフィクション)を読んでいるうちに、文学者の想像力といのは、生きた現実に比して、いかに貧困かということがわかり、どうして、ああいうつまらないものに、あれだけ熱中できたんだろうと逆に思いはじめたわけです>

<貧困な想像力の産物たるフィクションなぞ、全くものの数ではない。>

「いまの人たちをとらえるような作品を現代文学が生んでいない」という言い方には、同意する部分もあります。

しかし、立花さんの興味がノンフィクションに移ったということだけで、それでもって文学を攻撃したり、おとしめたりするのはすじちがいではないか。立花さんは、本当の意味では文学を読んでいない、誤解している、理解していないのではないか。

単にノンフィクションが面白いといえばすむところを、ああこういって、意味のない文章だと思いました。

私は「手段としての読書」にも、読む楽しみや学びがあり、分類する意味はあまりないと思います。

結論。読書は読書。分類する意味はない。


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すみません。今、体力がなくてお返しのスキができておりません。ご了承くださいませ。

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