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百姓一揆の話し足りない「茶道とDJの共通性についてニ、三」

またまた名著「茶の本」岡倉覚三 を引用させてもらい、noteをかく。

花の独奏はおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲となれば、そのとりあわせには人を恍惚とさせるものがある。石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥の描いた鴨の空を飛ぶ絵をかけた。紹巴という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌を持ってした。その客人の一人はその全配合の中に晩夏の美風を感じたとしるしている。

え?これって、DJにも言えるんじゃね?

こんなことを夏休み前に思いついてしまい、早く書かねばとメモをとっていたのだが、いつしかこんな日付になっていた。恐ろしい。

まずは「花の独奏、彫刻、絵画」について。

これは「トラック(一曲)」を指す。
どんな曲でも、美しいもので、あと、好き嫌いもある。別に興味ないってことも。
この色、花弁の膨らみ、棘、育てやすい、希少価値があるなどなど。
トラックに当てはめれば、メロディがいい、プロユースだ、誰もかけていないであろうオリジナリティ、どんなメッセージを込めるかなどなど。

その個体自体の素晴らしさがあるわけ。

岡倉覚三は、「花、彫刻、絵画」の取り合わせが「協奏曲」となり、その取り合わせが人を魅了すると言っている。

あれ?これってまんまDJのことじゃね?

現代の空間芸術としてDJがそこに位置するのであれば、茶道の精神がピッタリと、その間を縫うようにハマるのではないかと仮定した。

DJという職業、趣味自体は0から1を生み出す作業ではない。1をいかに自分の解釈、お客さんの解釈によって倍々にしていくか、できるかという体験である。

茶道も、お茶をたてる行為のみが(曲を聴く行為のみが)茶道なのではなく、茶室に入り、茶人が推敲した流れ、話、茶、掛物、風、すべての自然の作為的なものを無作為な状態で佇ませることにより、茶道体験が完成するのだろう。

空間を、プロデュースしている。


DJも、音楽という作為的なものを無作為に(或いはとても傲慢に、ごく作為的に)抽出することによって空間をプロデュースしていると言えるのである。

つまり、クラブとは「茶室」である。

岡倉覚三はこの第6章「花」の結においてこうも言っている。

花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野嵐山のかおる雪崩の前に立ったことのある人は、誰でもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら

「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く」

というようである。

クラブDJという特性上、私達は曲を繋いでいく。

次の曲に繋ぐとき、前の曲は終わる(またひょっこりと出てくるテクニックも存在するが、稀である)。

「繋ぐ」という行為は「永遠に終わり続ける」ことと同義だ。

「終わりがないのが、終わり」

これはゴールド・エクスペリエンス・レクイエムだが、

「死に続ける」こと、「桜がまたこの春も散る」ことの、何と儚くて、そして永遠なのだろうか。

曲も、DJでかけ続けることで、一回ずつ死んでゆく。

この空間からいなくなる。

しかし、曲は、いなくなったりしない。

これは、永遠だ。そして繋がっていく。

ターンテーブルの形が円形なのは、廻っていくイメージなのかもしれない。

その現象にエフェクトをかけたり、スクラッチをしたりすることに、自然に対し人工的に手を加えられる面白さ、自分が自然の中にいるような不思議さがある。

私も、いつかは永遠の旅に出る。

その間、誰かに作為的な工作をされてもよかろうという気がしてきた。

その時だけは永遠で、儚い。

誰かの茶室の全配合になって、永遠に生き続けたい。

そういう小狡い魂胆である。

結局、全部欲しいのだ。

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プレイリスト「茶道とDJの共通性についてニ、三」

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