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友人Kについて

楽器を演奏する友人が身の回りに増えたせいか、中学時代に挫折したエレキ・ベースを弾き始めている。
「できそうだな」と思うものから、「これはどうやってるの?」と不思議なものまで。前項であれば、完璧に弾けることに対して喜びを感じるし、後項ならYoutubeの演奏動画を見て、だいたいの抑える位置やニュアンスを想像しながら音を探すのが楽しい。

楽器を演奏することへのコンプレックスからDJへの興味に視点が向いた結果、パーティを継続してやらせてもらえたり、それに乗じたフライヤーの作成も新たなやりがいになった。没頭や自我の離散に喜びと感じるようになった。何かを行っている最中の事はわからないが、やってない時間しきりに「私は今何もやっていないんじゃないか」と思う。意識から自分が消えることに飢えている。戻ってくるともう不安なのだ。

人と楽しく会話できた経験があまりない。自分が話し始めると独りよがりな会話になったり、空間を圧迫してしまう。何より、相手に何を伝えるか組み立てて話ができる人間ではないので、大勢の前で喋るのはうまく喋れないため緊張するし、それがグループワークでの話し合いを総括するタイミングなら尚更引け目を感じる(うまく喋れないのは諦めて話すけれど)。
自分が意識されるとても苦痛な時間だ。
早く忘れたい。

相手の立場や趣向を考えながら話すことも、大変なカロリーを消費する。適切な答えを返す前に軽口を叩いてしまう。その軽口も大抵はゲームバグのような言動ばかりで、本当に支離滅裂である。人の5倍軽口を叩き、その後5倍後悔する。やめたい。

この文章を書いている時間、私は寝ていなくてはいけないはずだ。何故書いているかといえば、何もしていないんじゃないかと不安になったからであるが…。

どうやっても不安になる。忘れるために、何かをする。何かをしたあと、また不安になってしまうことがわかっていても。

サン=テグジュペリ「星の王子さま」に登場する呑んだくれも、忘れるために酒を飲んでいた。酒を飲んでいるのが恥ずかしいことを忘れるために。今の私には呑んだくれの行動が理解できる。

忘れることは、もしかすると一番大きな快楽になる可能性があるのかもしれない。変化を望む者と変化を望まないもののどちらにも快楽を与えている。

Kという、気のおけない友人がいる。私のことを何かと気にかけて応対してくれる。彼自身の表現も小学校時代から「良い」と思っていた(好き、ではない、「良い」なのだ)、現在でもその見解は変わらない。大学で再会できたのはかなり夢みたいな話なのだ。
Kと一緒にいる時間はモラトリアムそのものだ。大学に入ってからというもの、これまでの学校社会で醸造されてきた捻くれ根性が、とりとめのない議論や近況報告、課題への取り組みその他諸々で洗い流されていく。そんな中でどうにも疎外感を感じるときもあるが、経た時間を鑑みればそれは贅沢というものだろうか。

こんな私も、社会に順応することを夢見てアルバイトをしていた時期がある。ある理由でそのバイトを辞めるときも、私の背には彼の手が添えられていた。なんて良い環境の中で生きているのだろうかと気づいた。

嫉妬はしない質だが、彼に対しては自然とないものねだりを手繰り寄せていることに気がつく。おどけるタイミングや音色、大潟村の道路のようにまっすぐで澄み切った視線。
私は、どう頑張っても彼にはなれないが、もたついたタイミングでの言動や、濁りきった瞳がうつす靄のかかった世界の形容なら何度もやってきた。彼もどう真似しても私にはなれない(しないだろうが)。

さて、こんな時間に寝たら朝が苦しい。朝に寝て朝に起きるようだ。半開きの私の顔を見て彼はなんと言うだろうか。少し楽しみだ。寝る気になってきた。


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