映画「望み」は倫理を語る〜ネタバレ注意
ポトレもできないGWってことで、映画を観ることにする。
「望み」
建築士であり、父である主人公は、仕事も家族も、いわゆる幸せな生活に見える。
モデルルームにも使えるくらいのおしゃれな自宅と中流以上の生活を送れるくらいに。息子と娘の塾、部活動も応援してあげられるくらいに。
そして、息子が事件に巻き込まれる。息子を含む4人の少年たちが消息を立った。物語の進展の中、二つの可能性が示される。しかし、家族には、過酷なものであった。
1 息子は生存 → ただし、立場は加害者。
2 息子は生存していない → ただし、立場は被害者。
無論、生存を願うのが家族であろう。しかし、一度の過ちも許さない傾向にある世間は、更生に対しても厳しく、本人だけでなく、家族も世間の厳しい風にさらされることを意味する。さらには、被害者家族からは、民事上の損害賠償請求がなされるはずであり、億単位の負債を負うであろう。
いったいどちらがよりよい結末なのか。選択できるわけではないが、思考実験としてどちらかを選ばなければならないとすれば、どうだろう。
どちらが「倫理的」であろう。また、どのような条件があれば、再スタートを許せる社会となるのだろう。
少なくても選択肢1の場合は、家族に相当程度の「覚悟」を要求する。これから世間から容赦無く浴びせられる罵声、排除から耐える覚悟が。これまでの延長上の生活は難しくなる。
また、選択肢2の場合は、少なくても「残された」家族は、これまでの水準の生活を送ることができる。ただし、全ては息子と引き換えになる。
本稿では、どちらの選択肢が良いかを結論することはしない。
経済学では、極端な条件で思考実験を行うことで、選択の際の課題やそもそもの問題設定条件を考えさせることができる。
さて、結論することはしないが、補助線を引いておこう。
ア) 人命を手段にしてはならない。
イ) 社会を生きにくくする条件は何か。
人々が人命を軽んじ、抽象的な目的のため動員されるとき、大きな政治の失敗を引き起こすことは、第二次世界大戦で経験済みである。今の政府の対応は、大丈夫だろうか。人命を優先しているだろうか。「やってる感」は、問題外だが、権力闘争や省益を優先していないだろうか。
一見当然そうな選択肢を躊躇させるのは、同じグループに所属していないものに対し、寛容でない考え方である。それが再スタートを困難にし、ときには突出した才能を出る杭として潰しかねない。
最後に、家族写真が語ることは多い。更新が家族の歴史を刻むのだから。
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