『オーケストラを観に行こう』2

2/
 「アイス食べたい」
 何の脈絡もなく唐突にその言葉が呟かれた。
 言海は机の上の参考書に固定されていた視線を言葉を発した人物の方に動かした。
 ふと口から出た言葉だったのだろう、呟いた本人――宇野耕輔は相変わらず机の上に視点を合わせたままであった。
 
この日も言海は宇野耕輔と共に風島清景の家を訪れていた。
 いつも通り、3人で勉強する為だ。
 
 言海が真緒からチケットを譲り受けてから数日が経過しており、今日は既に金曜日になっていた。
 しかし、言海は不思議と清景にチケットの事を告げられないでいた。
 誘うタイミングなかったわけではない。
 あれからもこうして3人で勉強はしていた。
 しかし、言海は誘えていなかった。
 コンサートは日曜。
 誘うのであれば、今日中には誘いたい。
 そう思って、今日も清景の家に来ていたのだが、未だ告げることは出来ていなかった。
 清景の部屋の窓から見える空の色は橙を帯び始めていた。

 言海は視線を手元の参考書に戻した。
 筆記用具を持ちなおして、ノートに向かい、数式を書き始めた。

 清景を誘えていないのは、耕輔の居る手前では誘いにくいというわかりやすい理由もあった。
 チケットは二人分。
 耕輔の前で二人で遊ぶ約束をする、というのはどうにも気が引けた。

 さて、どうしたものか。
 目の前の数学の問題を解きながら、頭を巡らせてみるがいいアイデアは浮かばない。
 このままウダウダと考えていると勉強の方にもイマイチ身が入らない。
 チラリ、と清景の方を見る。
 清景は先ほどの耕輔の言葉も大して気にしていないようで目の前の問題集に集中しているようだった。
 数秒間、じっと見つめても見たが清景は言海の視線には気づかなかった。
 ……もういっそ能力を使ってテレパシーで伝えようか。
 なんて考えが過ぎるが、実行に移すことなく首を振る。
 そんな事に能力を使うのは言海のポリシーに反している。
 
 考え出すと、やはりどうにも勉強に身が入らなかった。
 深呼吸をして気分転換を図る。
 手持ち無沙汰な視線が耕輔の方に向いたところで、耕輔と目が合った。
 数瞬、視線が交わって、耕輔は小さく頷いた。
 ……テレパシーは使ってないが?
 テレパシーを使った覚えはないが、耕輔には何かが伝わったらしい。
 もしかしたら顔に出ていて、気づいてくれたのかもしれない。
 なんせ長い付き合いだ、そのくらいはあり得ない仲ではない。
 
 耕輔は持っていた筆記用具をテーブルに置き、おもむろに広げていた参考書を閉じた。
 「アイスが食べたい」
 言った。
 もう一度、改めて耕輔はそう言った。
 耕輔は言った後、言海の方をもう一度見て笑顔で頷いた。
 言海の思いが伝わった、というのは思い過ごしだったらしく、言海が珍しく集中できずに手持ち無沙汰であったのを自分の意見に同意した、と捉えられたようだった。
 安堵とも、呆れともつかない笑みを耕輔に返すしかなかった。
 
 「は? アイス?」
 流石に2回目ともなると無視をする気にならなかったらしく清景も参考書から顔を上げた。
 「そう、アイス。食べたい」
 耕輔に言われて、清景は数瞬考える素振りを見せて、口を開く。
 「ウチに無いな」
 「じゃあ、買いに行こうぜ。コンビニ」
 耕輔が親指を立てて外に行こう、というジェスチャーをする。
 清景は耕輔に親指で指された窓の外を見てから、耕輔の方に顔を戻した。
 「はぁ、まぁいいけど。勉強は?」
 「今日ずっとやってたし休憩ついでにいいだろ。それに言海も食べたいってさ」
 「言海もか」
 清景が驚いたように言海の方に顔を向けた。
 普段、一番集中して勉強しているので意外だったのだろう。
 しかし、一言もそんなことを言っていない言海も驚く。
 「いや、待て。私は別にそんなこと言ってないぞ」
 「えー、さっき同意してくれただろ」
 「あれはたまたま目が合っただけでだな……」
 「おい耕輔、嘘つくなよ」
 「嘘じゃねぇよ」
 どうにも話がこじれだした。
 ここは耕輔に同意しておく方が良いだろう。
 「まぁ、でも。アイスは悪くないな」
 言海が助け舟を出すと、耕輔はニヤリと笑った。
 「だってよ」
 「はいはい」
 清景は諦めた様に両手を上げた。
 「じゃあ、誰が買いに行くかゲームで決めようぜ」
 耕輔はその調子のままゲーム機を指さした。
 アイスは食べたいが、暑い外には出たくない。
 そういう思惑なのだろうが、どうせ休憩ついでという事もあり、言海も清景も反論することなく、ゲーム機が起動された。


3/
 「……今日も暑いな」
 「ふふふ、そうだな」
 空が橙に変わり始めた夏の道を清景と言海の二人がコンビニ袋をぶら下げながら歩く。
 日が傾き始めても、気温は大して下がりはしない。
 袋の中のアイスが溶けないように少しだけ急ぐ。
 コンビニでついでに買った缶コーヒーを飲みながらボヤく清景に、言海は笑う。

 ゲームに負けたのは言海と清景だった。
 勝利した瞬間、耕輔は力一杯にガッツポーズを決め、言海と清景は思わず苦笑いで顔を見合わせた。
 「まさか二人とも耕輔に負けるとはな」
 「思わず驚いてしまったよ」
 クスクス笑いながら清景に言葉を返す。
 普段なら耕輔に負ける事は滅多にないので、やっぱりどこか上の空なのかもしれない。
 でも、そのおかげでこうして清景と二人で歩けているのだから、悪くはない。
 コンビニ迄の短い道のりもこうして肩を並べて歩いているだけでも楽しい。
 空を見上げる。
 雲の少ない晴天。
 きっと今週は晴れ続きだろう、とテレビの中の天気予報士が告げていたのを思い出す。
 上空に浮かんでいる小さな雲を見て、なんとなく、高校生の夏ももう残り少ないのだな、と思った。

 「そういえば」
 空を見上げてると、清景から声が掛かった。
 清景の方に顔を向ける。
 「今日、妙に集中出来てなかったみたいだけどなんかあったのか?」
 「あ……。あー……。ふふふ」
 見抜かれていたらしい。
 恋人、という前に幼馴染。
 幼馴染、という前に恋人。
 どちらで言うべきかはわからないが、相手の些細な変化も簡単に感じ取れるような長い時間と特別な関係を共有している相手だ、簡単に隠し通せるはずもない。
 それが嬉しくてつい笑ってしまった。
 先を歩いていた清景が立ち止まって振り返って、苦笑した。
 「なんだよ」
 「いや、何。少し幸せを噛み締めただけだよ。ふふふ」
 笑う言海に清景は息を吐いて、振り返って、また歩き出す。
 「深刻な悩みじゃなさそうで良かった」
 「ふふふ。安心していいぞ、今の私の悩みは世界を左右する様なものではないよ」
 「……笑えないなぁ」
 笑えないと言いながら清景は苦笑した。
 そんな清景を見て言海はまた笑う。
 
 穏やかな日常。
 その光景はまさに、琴占言海が護ったものだ。

 言海は持っていた自分の分の缶コーヒーを開けて、口をつけた。
 程よい苦みと甘味が口に広がる。
 「キヨ」
 「ん?」
 清景が振り返る。
 言海は悪戯っぽく口角を上げた。
 あぁ、缶コーヒーを開けるぐらい気楽に伝えられたらいいのに。

 「私の悩み。なんだと思う?」
 問いかける。
 清景は数瞬の間をおいて、苦笑した。
 「あー……、難問だ」
 言海も清景の言葉に満足したように笑みを強める。
 「そう、難問だな。当てられないとキミの彼女が悲しむぞ」
 意地悪な質問だな、と自分でも笑ってしまう程だった。
 伝えづらくて、どうにも遠回りな質問をしてしまったが、きっとこの関係になってなかったら、この時間もなかったし、こんな言い方もしなかっただろう。
 清景は考える様に頭上の空を見上げた。
 夏の空は高く、まるで広大な海のようにも見える
 「あー……。最近師匠に会えてない、とか?」
 「私の師匠は年中忙しくて、元々たまにしか会わないからそんな事では悩まないなぁ」
 「……今度出るゲーム買うかどうか迷ってる」
 「私は買うつもりだから、特に悩んでいないぞ」
 「……俺は正直迷ってる。この受験期に買うべきかどうか……」
 清景は別の事で悩みだした。
 おそらく答えが浮かばなくて、半分諦めたのだろう。
 このままではきっと正解に辿り着かないだろうと、言海は自分のカバンの中からチケット取り出して、清景に突き付けた。
 「正解はだな……」
 「正解は?」
 「……で、デートに、行かないか? 二人で」
 思った以上に伝えにくいもので、思わず一瞬言葉に詰まってしまった。
 顔も赤くなっている気もするが、きっと、暑さのせいだろう。
 清景は、そんな言海を茶化すようなこともせず、ヒョイと言海から差し出されたチケット受け取った。
 「喜んで」
 
 橙色に染まり始めた空には時々雲が浮かんでいるだけ。
 今週いっぱい晴れが続くだろうという、朝のニュースで天気予報士が告げていたのを思い出す。

 日曜もきっと晴れるだろう。

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