作家業とチョコレート

 作家、なんて職業をしていると、そこには必ず締切というものが存在している。
 締切というものが存在していると、その直前にはいわゆる修羅場というものも存在していて、よほど特別な作家でもない限りはそれに追われる生活をすることになる。
 当の私はと言えば、自分で言うことでもないが、色々な面でそれなりに優秀な方の作家であるのだと思う。
 大抵の場合、締切というものには作家の尻を叩く意味もあっていくつかのラインが設定してあり、当然本当に取り返しのつかない締切というものは最後に来る。
 私は基本的には最後の最後の締切まで行くということは無いし、大体は一回目の締切には間に合わせる様にしている。
 のだが、やはりそれでも締切は締切で、頭では大丈夫だとわかっているし編集者にも「まだ大丈夫ですよ」と暗に伝えられたりもするのだが、焦るものは焦るし、そうなれば修羅場というものに突入するわけだ。
 そして、そんな事を考えている今が正しくそんな修羅場を駆け抜けた直後であった。

 私――琴占言海はやっと回転を緩めだした頭を落ち着かせるように手元に置いておいたすっかり温くなったコーヒーに口を付けた。
 「……はぁ」
 ため息とともに緊張を吐き出すと一気に体が疲れを意識しだす。
 疲れ、というものには普通の一般的な人々に比べれば幾分か耐性はあるつもりだ。
しかし、創作の疲れというのは戦闘の疲れとは全くと言って種類が違い、そう簡単に対応できるものではないな、と思う。
 そんな疲弊した心と体を意識しながら何気なく窓の外に目を向けた。
資料が散乱し、積まれている机の奥にはめられたガラスを越して、東の空が徐々に白みだしているのが見えた。
 まだ深夜の気分だったが、どうやらもう世界は明け方らしい。
 ぼんやりと白く染められる穏やかな街並みを眺めながら残ったコーヒーを流し込んだ。
 冬の時期も緩やかながら過ぎつつあり、それに伴うように日が長くなっているのを実感する。
 きっと今日は穏やかないい天気だろう。
 澄んだ空の色がそう告げていた。
 「……ふぅ」
 空になったコーヒーカップを机に置き、深呼吸を一つ。
 それで心体の緊張が完全に解いた。
 そこまで来て、私はふと思い出した。
 そういえば今日は何日だったか。
 ここ一週間程を修羅場の中で進行してきたせいか、どうにも日付が曖昧だった。
 私は宙を泳がせていた視線を、目の前のPC画面へと落とした。
 画面はメールの送信が完了したことを告げたままだったが、用があるのは画面の右端、小さな日付の表示だ。
 時刻と西暦と月と、それから――
 「! な、今日はもう18日だったのか」
 表示されていた日付は2月18日。
 2月14日、バレンタインデーからは既に4日も経過していた。
 大きな溜め息が漏れた。
 バレンタインといえば、恋人の居る人間にとっては簡単に見過ごせるイベントではない。
 のだが、完全に忘れていた。
 チョコレートやお菓子の用意はおろか、恋人である清景と会う約束すら取り付けていない。
 とりあえず、手元に置いたスマートフォンで取り急ぎメッセージを送ることを考えたが、なんせ早朝。
 いつでも寝付きのいい清景は未だ深い眠りの中にいることは想像に難くなく、それを遮ることは憚られた。
 「くっ!」
 今度はとりあえずチョコレートやお菓子を用意することを考える。
 最寄り駅から数駅先のデパートが開くのは何時だったか。
 いや、そもそもだ。
 バレンタイン商戦がすっかり終わった今日、果たしてそういった商品が置いてあるのか?
 というか、今日は午後の講義が必修なので昼前には大学へ登校しなければならない。
 そのあとも『協会』の方で片付けておきたい仕事があるので時間が取れない。
 どうする。
 思考を必死に回そうとしているのだが、修羅場で疲弊した心身がそれを阻むようだった。
 チョコレートやお菓子については作るという選択肢も浮かんでは来たのだが、それ程調理が得意というわけではない私に製菓は幾分ハードルが高く、諦めた。
 ぼんやりとした思考で考えても答えは出ない。
 ここはFPを駆使してでも動くべきか、この程度の疲弊の回復など私にとっては容易だが……。
 やがて、頭の中に浮かんできたのはそんな私を見て苦笑を浮かべる清景の顔だった。
 きっと清景はバレンタインに気付いていたのだろうが私が修羅場の只中であることを気遣って何も言わなかったのだろう。
 そして、そんな清景は私が無理を押してまでチョコレートや時間を用意することを良しとはしないだろう。
 清景ならきっと――

 「……ふふ」
 いつの間にか、私の口元にも笑みが浮かんでいた。
 目を閉じて、もう一度私の大切な人の顔を思い浮かべる。
 清景が今の私に求めるのはゆっくりと休息することだろう。
 ぼんやりとした思考の中でも、付き合いの長い幼馴染みで恋人の考えは明確に想像出来た。
 私は目を開けた。
 目の前のPCをスリープに入れ、コーヒーカップを片手に席を立つ。
 幸い、講義まではまだ時間がある。
 一眠りぐらいは出来る。
 背筋を伸ばし、欠伸をひとつ。
 バレンタインの埋め合わせはゆっくりと考えることにしよう。
 それを考えながら堕ちる微睡みは、きっと幸せだ。
 

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