ド年末のAnother World Stranger

 「お疲れー」
 間の抜けた挨拶をしながら、男ーー八代陸人(やつしろ りくと)は重い扉をくぐって室内に入った。
 だらだらと歩いて常設のギターアンプの前に立つと、アンプのパワースイッチを押してからのろのろと左手に持ったエフェクターボードと右手に持ったギターケースを床に降ろす。
 そこまで来て、陸人はこの貸しスタジオの同じ部屋にいるはずの仲間から返事がないことに気付いて、顔を上げた。
 陸人の所属するバンド――Another World Strangerの二人、ドラムセットに座った古幡光史(ふるはた みつふみ)は苦笑を、ベースを肩から下げた南綾(みなみ あや)は眉間に皺を寄せ不機嫌そうな表情を浮かべているのが見えた。
 状況は分かった。
 触らぬ神に祟りなし。
 陸人は顔を逸らしてしゃがみ込み、エフェクターボードを開いて、練習の準備を始めた。
 「……ちょっと」
 「あー?」
 そう簡単に逃れられるわけもなく、いつも通り不機嫌そうな綾が低い声で陸人に声を掛けた。
 これ以上、機嫌を損ねる訳にもいかない。
 仕方なしに陸人は綾を見上げた。
 「アンタ、自分が何分遅刻したか分かってんの?」
 びしり、と綾がスタジオの壁に掛けられている時計を指差した。
 時計は、本日が十二月の三十一日であることと、それから今の時刻が十五時半であることを指していた。
 練習の開始予定時刻は十五時。
 数日前、年末のこの時期に何とか集まれる時間を捻出しようと話し合っていたバンドのグループチャットでそう決まった。
 当然、陸人も開始時刻を知っていた。
 「……三十分ぐらい」
 ここで喧嘩腰に出れば綾の説教が長くなるだけだ、といい加減陸人も学習しているので素直に答えた。
 『成人男性』八代陸人は『未成年女子』南綾に口論で勝てない。
 「じゃあ、最初に謝るべきじゃないかしら? 普通ならそうすると思うけれど?」
 「……俺が遅刻するのなんていつものことじゃねぇか」
 「あ?」
 「なんでもないですぅ! 遅れてしまって申し訳ございません!」
 とりあえず頭を下げてみた陸人を数秒眺めたあと、綾は鼻から息を吐いてベースのチューニングを始めた。
 陸人の言う通り、遅刻はいつものことなので気にするだけ無駄なのだ。
 二人の様子を見て、それまで見守っていた光史が口を開いた。
 「じゃ、練習始めようか」
 「おう、ちょっと待っとけ」
 開いていたエフェクターボードから電源を取り出してコンセントに繋ぐ。
 一瞬の間を置いてLEDが明るく輝いた。
 「早くしなさいよ」
 「わーってるよ。うるせえな」
 「あんたが遅刻するからでしょう」
 「はいはい、俺が悪いですよ」
 綾からの小言を受け流しながらシールドケーブルをアンプ、エフェクターボードそれぞれに繋ぐ。
 それからギターのハードケースを開く。
 おもむろに中に入ったギターを掴み、引き上げ、ストラップを肩から通す。
 シールドのプラグをギターに差し込み、立ち上がる。
 最後に、アンプのスタンバイスイッチを入れて、適当にアンプのイコライザーを弄って、弦を弾く。
 歪んだ爆音がスタジオに響く。
 「オッケー!! やるぞ!!」
 気合い充分。
 早速、光史のカウントから一曲目を始めるーーハズだった。
 「ちょっと、待ちなさい」
 「なんだよ!? やろうぜ!! さあ! さあ!」
 「うるさい! ちょっと落ち着きなさい」
 「なんだとー!? おい、ミツ、始めろ!」
 「いやー……。陸人」
 異様なテンションの陸人が光史にカウントを頼むが、光史も苦笑してカウントを始めなかった。
 「なんだよ?」
 「そのギター、どうしたの?」
 陸人が構えていたのは、いつものヴィンテージのギターでは無かった。
 陸人が構える落ち着いた赤色のギターはいつもよりボディが格段に小さく、そして尖っている。
 綾も光史もみればわかる。
 それは明らかにお高いギターだった。
 「どうしたって、買ったんだが?」
 「……いくら?」
 「……別に値段はお前らに関係ないじゃん」
 「言えないぐらい高かったのかい?」
 「ね、年末セールだったから……」
 「あんた、いつものギターのローンもまだ残ってるんじゃなかったの?」
 「おうよ! まだまだ残ってるぜ!」
 元気よく答える陸人を前に、白けた目の綾と苦笑したままの光史は顔を見合わせた。
 陸人に金がある、というのを聞いたことがない。
 なんなら、今日こうしてド年末のスタジオ練習になったのは日々金が無いと嘆く陸人のバイトがびっしりと入っていて、この日以外空いてなかったからだ。
 つまり、陸人が今自慢気に掲げている新ギターもおそらくローンで買ったのだろう。
 これから陸人に毎月いくらの支払いがいくのだろう。
 それでも嬉しそうにギターを掲げる阿呆を前に綾は大きなため息を吐いた。
 これ以上、言うだけ無駄。
 「ミツさん」
 「……そうだね」
 「お、やるか!」
 光史は苦笑を浮かべたままドラムスティックを持ち上げた。
 カウントが始まり、Another World Strangerの練習は始まるのだった。

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