アフタースクール

「上履きは揃えて下さい」

先生のほとんど怒鳴り声のような注意が響く。わたしの学校は、全校集会のとき、体育館の入り口で上履きを脱いでいかなければいけない。思えば、昔から体育館というのは上履き禁制だけど、それはなぜだろう。汚れるから?ワックスが剥がれるから?
なんにせよ、気持ちの問題ではないかと思う。一度上履きで踏み入ってしまえば、大して気にせずに、その上を落ち着いて歩くことが、きっとできる。

全校集会だから、当然体育館には全校生徒が集まる。そんな中でみんな一斉に入り口で上履きを脱がされるのだから大変だ。混むのが嫌だからと、大分前からもう上履きを脱いで、手に持った状態の靴下履きの子もいる。
入り口から見て、右の壁に3年生。左に2年生。南側、入り口がある壁が1年生と、上履きを置く場所が決まっていて、それぞれ右から順に1組2組…と上履きを並べていく。あまり早く来て、壁の近くに上履きを置いてしまったが最後、他の上履きの大群に邪魔をされて、うんと手を伸ばさないと自分の上履きを取れなくなってしまう。だからわたしはいつも、遅めに体育館に入って、手前側に自分の上履きを配置できるように心がけていた。

集会が始まるまでの、生徒達のざわめき声。
声は大きな集合体になって、体育館のドーム状の天井を這うように膜をつくっていた。
近くの声に意識を集中する。漆原さんと江本さんの話し声が聞こえる。どうやら昨日観たテレビの話をしているらしい。
今は冬だから、寒い体育館での集会には女の子が思い思いのマイ膝掛けを持ち込んでいる。目の前の江本さんはピンクや水色のクマが描かれたふわふわのブランケットを持っていた。江本さんがブランケットを肩に羽織り直すと、勢い余って端の方についているポンポンがわたしの顔にぶつかった。江本さんは気づいていない。
二人の会話から意識を外し、今度は大きく外に意識を集中してみると、もう漆原さんや江本さんがどこにいるのか分からなくなった。
声というのは個人で聴くと、時にその人の性格や好きそうなものまでわかるくらいなのに、それが幾重にも重なると一気にただの声にしか聞こえない。

校長先生が登壇する。
そのことに気づいた生徒から、だんだんと話し声を出すのをやめていく。
家の近くの市営プールには人工的に波が出るプールがあって、作り出された波は一定時間経つとゆっくり少しずつ引いていき、また次の機会を待つ。それと似ていた。
「皆さんが静かになるまで3分掛かりました」
体育館に掲げてある大きな時計を見ると、午前8時48分。大体、朝にやる全校集会は8時45分ぐらいから始まるから、確かに校長の言う時間は正確だ。

「今日は、皆さんにお知らせがあります」
校長が言った。
勘のいいわたしは、すぐに誰かの訃報だとピンと来た。
そしてそれに気づいたのは勿論わたしだけではなくて、周りには一気に張りつめた緊張感が漂った。
誰だろう。あの高齢の家庭科の先生か。こんなことを考えるのは失礼だけど。

「1年3組の、小野ユウイチくんが亡くなりました」
隣の1年3組から、ざわっとどよめきが起こる。
そのどよめきは、一瞬だけ起こって、その後はまたシンと静まりかえった。皆、次の校長の言葉を待っていた。恐らく、卒業式の激励のことばなんかよりも、皆この時に一番、校長のことばを待っていた。

「皆さんをよけいに悲しませたり、困惑させたくないのは重々承知ですが、これから学校に警察の方が来るので、今のうちにちゃんと説明をしておこうと思います。小野くんは昨日の放課後、自宅までの帰り道で何者かにナイフで腹部を刺されました。犯人はその後どこかに逃げて、まだ捕まっていません」
元々寒い体育館の中が、更にヒヤッとしたのを感じた。誰かが、今にも体育館から飛び出しそうな気もした。私たちはまるで、ライオンに見つめられている鹿のような感じだった。

「ユウイチくんは、その時近くに居た人が救急車を呼んでくれて、すぐに病院に運ばれましたが、到着する頃には亡くなっていたそうです」
やがて近くから、女の子のすすり泣く声が聞こえてきた。
体調が悪くなったのか、うずくまる生徒も出始めた。
やがて、機会を待っていた波のように、ざわめきが各所で徐々に起こり始める。
「皆さん、落ち着いてください。もちろん、大切な生徒であり、皆さんの大切な友人であるユウイチくんを亡くして、私も悲しいです。体調が悪くなった人は、無理をしないでくださいね。先ほども言ったように、これから警察の方が来てくれます。犯人が捕まるまでしばらくは、学校の周辺に何人か見回りのかたを配置してくれるそうです。クラス毎にも連絡を入れますが、可能な方は、なるべく家族のかたに車での送り迎えなどをお願いしてください」


その後、集会は諸連絡を足早で済ませ、すぐに終了した。
いつも集会が終わると声の波は一気に増幅して頭が痛いくらいなのに、その時はさわさわとした風のように毛羽立つのみだった。
わたしは帰る時を見越して上履きを手前に置いていたから、すぐに手に取れば押し寄せる生徒たちに飲み込まれることなく体育館を抜け出せる。

体育館の入り口で上履きを履く。
わたしのではない上履き。
そこに書かれた「小野」の文字を見る。
わたしのではない上履き。
これは小野くんの上履きだ。


「小野さん、それ俺の」
振り返るとそこにいたのは3組の小野くんだった。
「それ俺の上履き」
「えっ?」
自分が履いている上履きをよく見ると、確かに書いてある「小野」の文字がちょっと違う。
「あ、わたし。ごめん」
急いで上履きを脱ごうとする。
「いいよ。大丈夫」
上履きを壁側に置いていたから、出るときに色んな人ともみくちゃになったせいで、すぐ隣の3組の場所に置いていた小野くんの上履きを自分のだと思って咄嗟に取ってしまったのだと気づく。
わたしの学校の上履きはスリッパの形をしているタイプだから、履いていてもあまりサイズに違和感を抱いていなかった。たぶん小野くんはそんなに足が大きくなくて、わたしとあまり変わらないのかもしれない。
小野くんはよく見ると靴下のままで、代わりにわたしの上履きを手に持っている。
「ごめん、廊下、冷たいのに」
「別に、もう少しで夏だからそんなに」
小野くんがわたしの名前を呼べたことに今更びっくりし始めている。3組とは合同授業も行ったことがあるから、そこで同じ教室にいたことはあるけど。ちゃんと人の名前を覚えられる人なんだろう。
その場で上履きを交換する。小野くんが手に取った上履きには私の足の裏の温度が残っていて、それがいやに恥ずかしくて嫌だったけど、小野くんはそんなこと気にしていないようで、無駄のない動きで上履きを履いてから「ありがとう、じゃあね」と言って去っていった。
たったそれだけのやり取りだったから、それからは特に話を交わしたりすることもなかった。廊下で小野くんを見かけるたび、彼の「ありがとう、じゃあね」がなんとなく頭の中で再生されるようになった。

しばらくしてまた行われた集会のあと、私は性懲りもなく壁側に置いてしまっていた自分の上履きがないことに気づいた。
どこかに飛ばされてしまったのだろうか、と辺りをきょろきょろしていると、ぽつんと3組のエリアに残された上履きがあった。
まさか、と思い近づくと、見覚えのある「小野」の文字があった。
小野くんの上履きだ。

今度は彼が間違えて私の上履きを履いていってしまったのだと気づき、私はしばらく考えて、小野くんがそうしたように上履きを手に持って体育館を出た。
校舎までの吹き抜けの通路を歩く。足の裏にコンクリートの硬さが伝わる。わたしの靴下はきっと土埃で汚れているだろう。校舎に入って廊下に立つと、少しだけひんやりとした冷たさを感じた。
小野くんもあのとき同じような感覚を抱いただろうか。

ふいに、遠くから声が聞こえる。
そちらに目を向けると、小野くんが友達とふざけているのが見えた。
あ、上履きを渡さなきゃ、と思ったのに、なぜかわたしの足は動かない。
きっと小野くんひとりなら、頑張れば声を掛けられた気がする。なんだか、友達と一緒にいる小野くんには近づく勇気がなかった。

わたしはそのまま、その場にしばらく固まってしまった。
隣を通り過ぎた女の子たちが、上履きを手に持って靴下のまま佇んでいるわたしをちらりと見た。その子たちの口角が少しだけ上がったのも見えた。

わたしは手に持った上履きをその場で静かに履いて、自分の教室へもどった。
結局、それからずっと小野くんに上履きのことを言い出せずに、小野くんもわたしに何かを言ってくることもなく、お互いがお互いの上履きを履いたまま、時間が過ぎていった。


体育館の外に出ると寒かった。
地面がいまどんな温度になっているのかは分からない。たぶん相当に冷たいだろう。上履きを脱いで確かめようとしたけど、結局、やらなかった。
もう彼が廊下を通ることはないから、あれだけ何度も頭の中で再生していた「ありがとう、じゃあね」をわたしはやがて、忘れていくんだろう。



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