見出し画像

村上春樹が自身のルーツを通じて語る「一滴の雨水」としての責務とは

自分が自分自身について語ることは、そう気が進むことではない。他人の噂話、最近のニュース、おもしろかった動画など、自分から距離のあるものについては進んで話せるものの、自分自身のこととなると、どうにも、難しいのだ。

村上春樹が自身のルーツについて綴ったノンフィクション、『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んだ。

『猫を棄てる』感想文コンテストの存在を知ってから読んだので「感想文を書こう」という思いで読んだのだけど、困ったことに、読み終えて思ったことは「これは書くのが難しい」だった。

なにせ、「こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、僕にはわからない。」と村上春樹自身が語っているように、あまたある村上春樹作品の中でも、ここまで「歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語として、できるだけそのままの形で提示」された“個人的”な文章はなかったから。“個人的”なことがらについて触れることの難しさは、自分自身に限らず、他の人についてもそう。村上春樹自身の“個人的”なエピソードについて、僕が語ることの気恥ずかしさが、少しある。


村上春樹が語る、自身の父親像

村上春樹は、自身の父親のことを、こう表現する。

僕の父親は、息子である僕の目から見ればということだが、本質的には真面目で、それなりに責任感の強い人だった。家庭内ではときどき、特に酒が入るとかなり気難しく、陰気になることがあったが、普段は健全なユーモアの感覚を持ち合わせていた。人前で話をするのも得意だった。いろんな意味合いで、たぶん僧侶に向いていただろうと思う。祖父の豪放磊落な側面はあまり引き継がなかったが(どちらかといえば神経質な方だったと思う)、温厚な見かけと物言いで、人に安心感を与えることができた。

村上春樹の父親は、京都の浄土宗の住職の息子として生まれ、戦争に徴集され、無事帰還。その後、国語教師となった。「僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間──ごく当たり前の名もなき市民だ──の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということ」と村上春樹自身が綴るように、本書の中では「父」と「戦争」の関係についてよく触れられている。


村上春樹が「いちばん語りたかった」と語る、「偶然がたまたま生んだひとつの事実」のこと

村上春樹が「いちばん語りたかった」として、書いている箇所がある。

いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。

たとえば、僕が仮に自分の父親について書こうとしたときに思うことは、きっと「こんな『ただひとつの当たり前の事実』を書くことって、誰が面白いとおもうのだろう?」ということだろう。もちろん、それなりなエピソードはあるものの、なにか先ほどの「気恥ずかしさ」に加えての「若干の申し訳なさ」があるのだ。

ただ、その“事実”のとらえ方が大きく変わったのは、続く以下の箇所を読んだときだった。

我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか

「偶然がたまたま生んだひとつの事実」。──そう感じられるのは、その箇所までに、村上春樹が父親に対して一定の“距離間”をもって描写していたからだろう。「父親とのエピソード」と聞くと、いかにも「唯一無二の事実」としてのストーリーが語られる予感がある。しかし、村上春樹はその「事実」を少し離れたところから見つめ、「腰を据え」、「掘り下げて」いく。

そうする中で、徐々に村上春樹という「他人の物語」から「自分自身の物語」として受け取れるようになっていく変化が、本書の後半へと進むにしたがって立ち上がってくる面白さがあることは、特筆すべき点のひとつだろう。


「一滴の雨水」としての責務と、「壁と卵」の比喩

そして本書の最後は、以下のようにまとめられている。
(※文字の上の「傍点」部分もセットで読んでほしい意図で、本文のスクショを掲載しています)

画像1

「言い換えれば我々は」とエピソードの普遍化への伏線をもって、文章が綴られる。私たちは「交換可能」な「一滴の雨水」にすぎないが、「一滴の雨水」としての責務があるのではないか、と。


ここで、いくつか気がつくことがある。村上春樹はこれまで発表してきた多くの作品の中で表現してきたのは、内田樹さんの言葉を借りれば「『正しさ』についてではなく、人間を蝕む『本態的な弱さ』」にある。

村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチでも、「弱いものの味方である」ことについて本人の口から語られている。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」


ここからは推測。上記のスクショの箇所を読んでおもったのは、村上春樹自身がこの本を書こうと“以前から”思っていたのは、人間を蝕む『本態的な弱さ』を幼少期からたしかなものとして感じていたから。そして、これまでの作品を通じて「『正しさ』についてではなく、人間を蝕む『本態的な弱さ』」を表現してきたバックグラウンドとして、父親の存在があることが腑に落ちた瞬間があったから──そのような動機が少なからずあったのではないかとぼんやりとおもった。


おわりに

これまでいろんな村上春樹作品を読んできましたが、とても自分に近いところにあると感じた一冊でした。「戦争」というテーマをひろえば小説『ねじまき鳥クロニクル』ともリンクする、村上春樹が自身のルーツについて語っている……などという感想を持つことは簡単ですが、noteに書きながらより深ぼった見え方がしてくる楽しさがありました。

「文藝春秋digital」さんの「#猫を棄てる感想文」企画ですでにこれまで投稿されていた、他の方のnoteを読んだことも、このnoteを書くヒントになっています。

また、いろいろな村上春樹作品を、あらためて読んでみたいとおもいます。




参考)


村上春樹の小説に登場する3442曲が収められたプレイリストを聴きながら書きました


この記事が参加している募集

読書感想文

(最後まで読んでいただけただけで十分です…!ありがとうございます!)