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韓国生まれ育ちの僕が『日本への恩返し』と言っている理由_前半

自己紹介とご挨拶

はじめまして!
ユーグレナという会社で
・上席執行役員
・ヘルスケアカンパニーCEO
として日々奮闘しているふぁな(本名:金 城煥)です。

これまで、
・なんで日本に来たの?
・これまでってどんなキャリア?
・どんな想いで日々やってる?

など、ありがたい事に質問をいただく事があり、自己紹介を兼ねてその想いもお伝えたいしたいと思います(拙い文章力・日本語力なので違和感や間違いなどはあるかと思いますが、ご了承いただけると幸いです)。

さて、経歴からですと、僕は
・韓国で生まれ育ち
・大学から日本へ(留学)
・新卒でロート製薬(経営企画、営業企画、投資企画)
・その後にファーストリテイリング(社内社長室・社内コンサルの仕事)
・楽天(EC事業企画)を経て
・ユーグレナ(CEO室→ヘルスケアカンパニーCOO→CEOへ)
となりますが、

一つポイントにしたいのは『ずっと日本企業で頑張ってきている事』です

日系企業にこだわる理由

これまで、キャリアの話や僕自身のコンサルタントっぽい考え方・働き方などからして、度々『外資系が向いてそうなのになんで外資系行かないの?』と、よく質問をいただきます

外資系の方が年収や昇給の速さが早いケースもあるからだと思いますが、そこには明確に『年収や昇給以上に大事な理由』があり、その理由で僕は『日本企業でのキャリア』にこだわりを持っております。

じゃその理由って何?というところですが、まとめると
・来日後、数多くの日本の皆さんに助けていただいて、今の自分がある事
そこから日本、日本の方々になんとか恩返しをと強く思うようになった事
・お返しと言っても直接にお返しできないほどの恩があり、仕事を通じて間接的にでも返していきたい!と強く思うようになった事
が挙げられます。

文字にするとかゆいですね・・本当に?となりそうだな・・と
ただ『日本への恩返し』が自分自身の強い原動力になっているのは事実で、最後まで読んでいただいたら、少しは伝わる部分があるかもしれないと思います。

話それますが自分で設立した会社『ZINTO』には『尽くす人』を略した『尽人』の読み方を英語にしていて『周り方々に少しでもためになるように尽くす』という意味を社名にしており、社名にも『恩返し』への気持ちを込めております(事業内容は経営や事業コンサルティングがメインになります)。

幼少期に体験した天と地

まずは何故『日本への恩返し』と思うようになったかを少しでもご理解いただくように、僕の生い立ちから話をさせていただきます。

生まれ育ちが韓国の僕は幼少期は韓国で、建築会社を経営していた父親の元で育ちました。記憶からはかなりの裕福な家庭だったと思います。日本で言う六本木・麻布・広尾のような高級住宅地に大きい家を何棟か持ち貸しながらなど文字通りの豊かな生活を送っていたと思います。加えて父親はいつも人に囲まれていて冗談を言ったりして場を盛り上げる、羽振りがよい人気者だったので僕も父親の知人に可愛がられる日々でした。ところが、ある日からこの順風満帆な日々が180度。小学校1年生の時に父親の会社が倒産する事で何もかもが変わってしまいました。

小学校から帰宅すると、いわゆるドラマで見るような、家具と家電全てにシールが貼られ、取り上げられて家の中がガラガラになったり、先週まで優しくしてくれていた父親の知人たちに『お前の親父はどこだ!!』と胸ぐらをつかまれて持ち上げられ、怒鳴られる日々が続く。

その後は今までとは天と地ぐらい違うところに引っ越す、父と母は事業倒産と経済的な理由で離婚、転校してからかわれるなど・・今考えても中々カオスな経験をしたと思います。

そこからは母親がシングルマザーとして僕と兄を育ててくれるようになりました。その後ぐれてしまい、中学、高校は『学校は寝るところだ』と勉強もせずでしたが、母親が必死に僕と兄を育てているのを見て『いい加減、僕も大きくなってきたし母親に頼るのも申し訳ない。自立しなきゃ』と高校を辞めて働く事を真剣に考えるようになりました。

とにかく自立したかった高校時代

とにかく自立したい、学費も生活費も母親に頼りっぱなしでは申し訳が立たない、母親も辛そうで迷惑をかけたくないという思いから『高校を辞めて働こう』となり、学校にも申し入れを入れるようになりました。母親と今も挨拶に行ったりする恩師が『高校まではでよう、そんな焦るべきではない』と言って止めて下さったりしましたが、中々僕の意思は変わらず…。最後に父親とも話すべきと母から出されたのは、子供の時以来会ってない、会いたいと言っちゃったいけないと思っていた父親の連絡先でした。

そこから電話をかけ、10年ぶりぐらいに話す父親に『学校を辞めようとするのは父親のせいでもある、責任も取れないくせに子供作るとか無責任すぎるから!』と、かなりキツい事を長々と言い散らかしました。これまでぶつけ先がなくて溜まりに溜まった怒りを全部ぶつけたんだと思います。もう十数年も過ぎた今も思い出したらなんて事を言って父親に傷をつけたんだろと恥ずかしくて申し訳なくなります・・。

ただ、そんな事を言ったにも、夜遅い時間でも父親は車を飛ばして来てくれて『高校までは卒業しよう。自分の人生をなんだからもっと大事にしよう。瞬間の感情で投げやりになるな』と言ってくれました。そこからまずは『学問の道』を歩みながら自立する事を考えるようになります。ただ『学校は寝るところ』と勉強とは無縁だった僕が『勉強で道を切り開くにはこれまでの遅れを挽回するように周りの何十倍の努力が必要と思うようになります。

学問の道からキャリアを形成する決意

そう思った僕は
①返済不要の奨学金があるところが良い
 ー地元韓国はほとんど返済必要
 ー自立=学費も生活費も自分で賄う事と認識
②勉強の遅れを取り戻すべく、第二言語が身につけるべき
と思い、韓国国内ではなく自立するための海外留学を決めます

最近はスウェーデン、デンマークなど学費支援が厚い国もありますが、当時は①②を考えるとイギリス、アメリカ、日本が選択肢としてあり、その中で
・日本と韓国は社会、経済の構造が似ている
 ー人口ピラミッドが近く、少子高齢化の環境下でのビジネスが展開される
 ー原材料を輸入し、付加価値を付けて輸出する等
・日本は就労ビザがアメリカ、イギリスよりは出やすい
という理由で日本でやっていこうと決めました。
地域は東京、名古屋、大阪の候補がある中、生活費が東京より安く、地元と性格・雰囲気が近いと聞いた大阪にしました。

『これから自立するんだ』と意気込んでいた僕は、日本に来るまで一生懸命アルバイトでお金を貯めましたが、当時の韓国の時給は日本円で200円ぐらいだったので
物価は日本が韓国の5倍くらい高い
・日本語学校の授業料は大学並みに高い
という事で日本語学校の半年分の学費を払った後に財布を見ると・・生活費は恐らく後2か月分。これが切れたら韓国に戻るか飢え死にだな・・という今考えても先行き暗い、無謀な状況でした。

今もそうだと思いますが、日本語学校は1日4コマぐらいのカリキュラムで休憩を入れると1週間に16~17時間・・。普通留学生は大学入学まで2年間、日本語学校を通いますが『そんなの払ってられるか』と思い、4月来日から11月入試の6ヵ月だけ通う、それで合格する!と決めました。

日本に来た4月時点では『こんにちは』ぐらいの日本語力。しかも生活費が無かったので食べていくためのアルバイトも合わせてやらないと飢え死にする・・という状況でした。今考えてみると『無茶な目標設定をして自分を追い込むところ』はその時により火が付いたかもしれないなとも思います。笑

生きるか死ぬかの覚悟で、眠くても寝てはいけないと夜から朝方まで窓を開けて、立って座ってを繰り返して必死で勉強して半年間死ぬ気でとにかく勉強・勉強・勉強の毎日。そこに生活費を稼ぐための朝方までバイト・バイト・バイトと必死。当時の日本語学校の友達からは必死の目つきでだいぶ引かれていたんだと今思い出して思います。余裕が全くなかったんで・・笑。幸いにも本当に運よく受験ではめちゃくちゃいい成績がとれまして(400中386点)短期間でそこまでいけた事を大学でも良く見てくれて希望大学に無事合格することができました。

余談ですが、幼稚園から父親の会社が倒産する小学生2年生まで水泳をやっていまして全国大会でメダルを3つ取るぐらいまでずっとやっていました。その後、中高時代はサッカー漬け。競技をずっとやってきているからかとにかく『勝ちたい』という想いが強く、良くも悪くも『負けず嫌い』に育ってきていました。その事経験が今でも『自分で無茶なぐらい高い目標を立て、その自分に負けないぞ!と思って取り組むことに繋がっている』と思い、これまでの経験に心から感謝しております。

辛い時代を支えてくれた周りの日本の方々

日本に来て間もない時、日本語学校から大学時代、そして社会人になってからも、僕はいつも、多くの方々に助けていただいて、支えていただいてきていると思います。

日本語ができない時には厨房の皿洗いから始めていますが、キッチンの方にはいつも『今日は何食いたい?言ってみー』と毎回美味しいものをお腹がいっぱいなるぐらい作っていただきました。お金が無くて一日一食だった僕は本当にありがたかったです。

大学時代は韓国語教室を経営しながらグループ・個人レッスンもしたりしましたが、その時に繋がった生徒の皆さんには『日本のお父さん、お母さんと思って良いからね!』と息子のように可愛がっていただいたんだと思います。『ついでに買ってきたよー』と下さるパンの袋の大きさが明らかに僕にくれるための大きさだったり、色んなところでご飯をご馳走してくださったり・・。ありがたみで泣きながら食べていたのも鮮明に覚えています。

今もに連絡を取り合って伺ったりしますがその時の物理的、心理的な助け・支えがなければ、今の僕はいない。どこかで飢え死にしているか、韓国に戻って怒涛に迷っているんだろうな・・と思います。
この経験が
日本の方々に恩返しがしたい
・仕事を通じて間接的でも恩を返していきたい
僕が強く思う理由、背景になります。

その後、僕は新卒でロート製薬に就職。そこからまだ様々な苦労があり・・と、少し長くなってしまいそうなので、この後は社会人編に分けて後半に続けようと思います。書いてみると案外長くなるものですね・・長い文章にお付き合いいただきありがとうございますm(_ _)m

後半のキャリアの話は、今大事にしているマインドセットにも繋がるので、よければ是非読んでいただけると幸いです!前編はここまでで失礼いたします!


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