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「不登校」ではなく「教育疎外」と表現すべきもの

「不登校」という言葉は「子どもが登校していない状態」を意味している。

「なんだ、何をそんな当たり前のことを言っているのだ。」と思われるかもしれない。しかし、この表現こそが問題の本質をとても分かりづらいものにしてしまっていると思う。

もしかしたら、かつて、この国では、そうした子どもたちを「登校拒否」だとか「学校恐怖症」だとか強い言葉で表現してきた歴史があり、それゆえに、学校に行けない子どもたちの状況をもっと中立的な言葉であまり傷つけずに表現したい、という思いが大人の側にあったのかもしれない。しかし、残念ながら、それがかえって問題の輪郭を不明瞭なものにしてしまっている。

では、その輪郭を明確に描くとすれば、なんと表現すればいいのか。

「教育疎外」

結論から言うと、今、不登校の子どもたちが置かれている状況は、あきらかに「教育疎外」とか「学習疎外」のような言葉で表現されるべき状況だと思う。言い換えるなら、これは「子どもたちが教育を受けることから社会的に排除されてしまっている」という方向で言語化されなくてはいけないはずのものだ。

もう少し砕けた言い方をすると「登校していない」という登校状態を表す表現ではなく、「社会的に解決しなくてはいけないものがここにあるぞ」と伝わる表現を使うべきなのだ。

今後も、これを「不登校」という風に呼び続けるとすれば、それは「貧困家庭」を「金欠家庭」と表現することに近いと思う。

「貧困」という言葉からは「社会的に是正をしてなくてはいけないもの」という含みを多くの人は読みとるはずだが、これを「金欠」という単に「お金がない」という言葉で表現するなら、どうだろうか。

「うちは貧困状態です」

「うちは金欠状態です」

「貧困」を「金欠」と言い換えた瞬間に、「社会的になんとかしなくてはいけないもの」という含みは消えてしまわないだろうか。そしてそれを解決するならば「家庭でどうにかすべき」という面が強くならないだろうか。

「不登校」という言葉も、これと類似の問題点を含んでいる。「教育疎外」の状況を「不登校」という言葉で表現した瞬間に、そこから「社会」という視点がごっそりと抜け落ちてしまうのだ。

「社会問題」であるはずのものから「社会」の視点がなくなると、当然だが、一体どこに責任の所在があるのか曖昧になり、それを語る側の価値観によって、「親のせいだ」とか「その子の特性のせいだ」とか言った風に、その原因や責任の追求先を、家庭にも、そしてその子自身にも!いかようにも設定できてしまう。家庭や本人に不登校になる要因がないとは言わないが、前にも述べたように、個人の内部要因の存在は、学校の改善責任を免責することは一切ない。


「見えない教育疎外」

この「教育疎外」状況は、実は「不登校=年間30日以上学校を休んでいる」学校に行かない選択をしている子どもたち(あるいは家庭)の方が、はっきりと見える。彼らは学校の外にいて、欠席をカウントされ、文部科学省や教育委員会が「数字」として、目に見える形で把握している。その意味で「見える教育疎外」だと言える。

だが「本来教育的にケアされなくてはいけないのに放置されている子どもたち」は、「学校の外」にだけいるのではない。いわゆる、「保健室登校」や「別室登校」などの子どもたちのことを考えてみると、「毎時間先生たちが別室に一緒にいてくれて、必要な教科を教えてくれること」は、まずない。その時間に手のあいている先生が、ちゃんと(問題なく静かに)しているか見に来るだけ。そういう学校が大半だ。言い換えれば、そうした子どもたちは、学校にはいるが十分な授業や学習機会を得られていないのである。学校の外からはとても見えにくい状態で、ある意味で「合法的に」放置されてしまっている、と言ってもいい。

親は子どもが学校に行ってくれさえすれば安心し、「不登校」になるよりはよっぽどいいと考えるかもしれないが、彼らは学校には行っているが授業を受けているわけでもなければ、個別に学習を見てもらっているわけでもない。単に学校内部で放置されてしまっている。学校側としても「目に見える」形で不登校を生じさせて、自分たちの評判が下がるより、よっぽどいい。こうして学校は、自分たちの学校内部に外部(学校の外と同じ状況)をつくりだし、外に見えづらいようにして、子どもたちを教育から排除している。先生たちとしては、もちろん、そういうつもりはないだろう。しかし、これは先生がどう「意図」するかとはまったく別の話だ。先生側の意図や思いがどうだろうと、客観的に見た場合に子どもたちにとっての「教育疎外」状況は、そこに厳然として存在する。

こうして学校の外であれば「見える」はずの教育疎外が学校の内部で外部化されることで、「見えない教育疎外」となり、問題の深刻さを(と言っても不登校の小中学生は19万人以上いるのだけど)社会から覆い隠している。実際、こうした「見えない教育疎外」と言えそうな子どもたちの数を、2018年に日本財団が調査しているが、結果は、50万人とも60万人とも伝えられている。

どのように手当てするか。

「見える教育疎外」に対しては、各家庭に、あるいはその子たちが利用する施設への公費助成から始めるべきだろう。特に「貧困家庭」の子どもたちは、学校に行かなくなった瞬間に経済的な問題で学習機会から疎外される。先に「貧困」という言葉を用いたが、経済的な「貧困」は「教育貧困」でもあるのだ。

「見えない教育疎外」に対しては、教員の増員がまずもって必要だが、地域や保護者も十分に活用できるはずである。PTAの中に、新しく「学習支援部」など作ってもいいはずである。勉強内容を教えられなくても、子どもたちの自習学習の進み具合をしっかりと管理してあげるだけで、つまり「自分に関心を持って接してくれる誰かがいる」ことで、少なくない子どもたちが、気持ちはすすまないながらも学習を進めてくれる。これは、フリースクールで実感している。子どもたちの多くは、自分から勉強はしない。だが、見てくれる誰かがそこにいると、進まない勉強もちょっとずつ進めていくことができる。つまり、伴走してくれる他者がいることが大事なのだ。そして、それは必ずしも「先生」でなくてもいい。

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