見出し画像

「終焉のヤン」第五話

「序章開幕」

1419年3月25日 夜半。
ボヘミア西部の都市ピルゼン・パビアンコフ邸。


屋敷の奥、人払いをした部屋に居るのは、女主人のアンナと娘のカテジナ、そして、プラハでカテジナの付き人をしていたマグダレナの三人だけである。
そのうち、マグダレナは入口付近で部屋の外に向かって殺気を放ち、立ち聞きを牽制していた。

煌々と焚いた蝋燭に照らされた室内には、パビアンコフの母娘が対峙している。

カテジナは乱れた服を着替え直し、語気を荒くして母親にさきほどの一件の事情を説明していた。
母アンナは肘掛け付きの豪華な椅子に腰掛け、静かな表情で娘の訴えを聞いている。

「母さん!私は何もされてないの!彼は運悪く、私の服におしっこをひっかけてしまっただけなのよ!だから彼はあんまり悪くないの!本当は許したくないけど、服の弁償ぐらいで許してあげて!」

カテジナの言う彼とはシモンのことだが、この時はまだ名を知らない。その彼は、今は屋敷の別の部屋に監禁されているようだった。

彼が男たちによって捕縛・連行されて行く姿を見たとき、カテジナは事の重大さに初めて気づいた。
そしてカテジナは、自分のせいであらぬ罪を着せられようとしている彼を、自分が救わねばならないとの責任を感じていたのだ。

「はしたない言葉は控えなさい、カテジナ。貴方が何もされていないのは、見れば分かります。彼が粗相の後、貴方を守ろうとした行為もまあまあ賞賛できるでしょう。彼については拷問などはさせていませんから、安心なさい。
しかし。今の問題は貴方が何をされたか、彼が何をしたかではなく、あの状況を幾人の人々に見られたか、なのです。分かりますか?カテジナ。」

アンナは冷静に、しかし力のある声で娘に言う。

ピルゼン いちの富豪令嬢が家出をし、松明を持った男たちが捜索に出て、しばらくして半裸の男女を連れて屋敷に戻る.......などという一連の騒動は、夕暮れ時とは言え目撃者もいくらかは居たであろう。

アンナは、それが噂話となって、カテジナの婚約相手であるネクミージ卿の耳に入るのは時間の問題だと言っているのだった。

市民は噂話が大好きである。特に金持ちや貴族、成功者らの失敗談や不幸譚などは、流行り病よりも勢いよく庶民の間に広まるものだった。

まして、近日中に貴族との結婚が決まっている令嬢が、薄暗い橋のたもとで若い男と裸同然の格好で居たなど、誰がどう見ても「そういう事をしていた」ようにしか見えないし、その過剰なまでの状況証拠の前では、たとえ真実を訴えても出来の悪い言い逃れにしか聞こえない。

「それは!もとはと言えば母さんが、いきなり片目の白ヒゲおじさんを私の父親だなんて言うから!」

カテジナは、自分のしたことの発端と責任を、母親のせいにしようとして叫んだ。

「そうね、もっと早く教えておくべきだったわ、ごめんなさいね。」

それに対して母親はあっさり謝罪するが、その言葉には悪びれる感情が微塵も込められていなかった。

「で、貴方はこの状況をどうするつもりなのかしら?後先を考えない浅はかな行動のために、パビアンコフ家は滅亡……。それも悪くないわね。」

間髪入れず、アンナは娘が保とうとしている精神的優位をもぎ取っていく。

「そんな!滅亡だなんて大袈裟な.......」

カテジナの語気は弱まっていく。
娘とは対照的に、アンナは余裕を含んだ声でさらに続ける。

「商売において、相手に弱みを見せたら負けだ、と普通の商人は考えるものです。だから皆、自分の弱みは隠そうとするし、他人の弱みをどんどん探そうとします。」

カテジナは、母親の言葉が自分を責めるものだと感じながら聞いていた。

「しかし我らパビアンコフにおいては、自身の弱み、不祥事すら商機であると思いなさい。否、いかなる状況にあっても、それを商機に転じてみせてこそ、ピルゼンのパビアンコフは成るのです。」

アンナ・パビアンコフのその声は、もう既に次の手を打ってあるかのような、もしくはこの件の突破口を知っているような、そんな響きを持っていた。

カテジナは気圧され、返す言葉が見つからない。
かろうじて、自分は責められていたのではないという事だけは理解できた。

「バルボジーナ家は、近々プラハの市政にに復帰するそうです。思わぬ拾い物ですが、まずはバルボジーナに恩と借りを与えます。マグダレナ、シモン坊やを解放しなさい。それから.......」

目の端で娘を見遣りながら、アンナはマグダレナに指示を出す。

「ネクミージ卿にこの手紙を。」

アンナは小さな羊皮紙の巻物を、マグダレナに差し出す。
アンナが言うより先に、意を察したマグダレナはアンナのもとへ歩み寄っていた。
マグダレナは流れるような所作で手紙を受け取ると、無駄のない動きで部屋を出てく。

一連のやりとりを呆気にとられて眺めていたカテジナは、まだ頭の回転が追いついていない様子だ。

(バルボジーナ?シモン?……それは捕まった彼の名前か。市政?復帰?坊や?彼はプラハの政治家の息子だったってことなの?)

それでも自分なりに、母親の言葉の断片を整理してみる。
まだ話の全体像は見えてこないが、母親の言動から察するに、既になんらかの政治的なからくりが動き出しているという事だけは感じ取ることができた。

カテジナにはまだ洞察することができないが、このときアンナ・パビアンコフは、フス教団の急進派勢力内において、近い将来にヤン・ジシュカが台頭するであろうと予見し、彼が政治的にも軍事的にも動きやすくするための土台づくりに尽力していたのであった。

具体的にはピルゼン周辺のカトリック貴族の調略で、、特にピルゼン北部の交易路上に領地を持つネクミージ家を味方に引き入れることが、目下最大のミッションであった。

しかもなるべく弱体化させ、こちらに従わざるを得ない状況に持ち込んでからの調略だ。

金銭面に関しては、パビアンコフの得意とするところであった。
既に数年前からネクミージ家の債務権を複数買収し、財政を逼迫させることに成功している。

あとはネクミージ卿のカトリックへの信仰心をへし折り、フス教に改宗させるための一撃が必要であった。

アンナの当初の予定では、婚姻前の娘を暴漢に襲わせるふりをし、その犯人をカトリック貴族の関係者だということに仕立て上げ、それをネクミージ卿に討伐させるというシナリオであった。

冤罪で刃を向けられたカトリック貴族とネクミージ家の間には亀裂が生じ、ネクミージはカトリックの勢力圏から去らねばならなくなる、ということまで考慮してある。そこを拾うのがパビアンコフであり、フス教団というわけだ。

そのシナリオを遂行する前に、バルボジーナ家のシモンのほうから、勝手にアンナの思惑通りの行動をしてきた、という流れである。予定外ではあったが、シモンは演者としてこの上ない逸材であった。
奇しくも、没落したバルボジーナ家に、プラハ参事会への復帰が囁かれたばかりのタイミングであったのだから。

マグダレナを見送ったアンナは椅子から立ち上がると、未だ言葉を発せないでいるカテジナに向き直った。
そして、謎解きのヒントを与えるような口調で娘に告げる。

「カテジナ。さきほどのネクミージ卿への手紙には、貴方がバルボジーナ家の者によって傷物にされた、と書いておきました。
たとえ貴方が事実を訴えたとしても、もはや世間の真実には抗えません。真実の筋書きというのは、常に力あるものが描くものです。力ある者の振る舞いを、しっかり見ておくのです。」

カテジナの目に戦慄が走る。

シモンが危ないのでは!?

カテジナが動くより早く、アンナは既に部屋を出ていた。
カテジナの目の前で扉が閉まり、がちゃり、と錠をかける音が静かに鳴る。

「貴方はよくやりました。しばらく、ゆっくりお休みなさい。」

ボヘミアに吹き荒れる動乱の序章は、こうして始まるのだった。


(第五話 了)





















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?