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悪い男~神の沈黙を描いた隠し絵

「私をこんなにして無責任じゃない!今すぐに出てきなさいよ。ひどいやつね。」「出てきて。今すぐに」というソナの叫びは、神の出現を願う人々の声そのものである。

キム・ギドク 監督、脚本
2001年11月1日 韓国公開
2002年2月16日 第52回ベルリン国際映画祭コンペティション部門上映
2004年2月28日 日本公開
原題訳 悪い男
英題 BUD GUY
宣伝文「最悪最上の純愛に世界は騒然とした…。」

 韓国は学歴社会で、階級社会です。女子大生とヤクザという別の世界を生きている二人が、同じ人間であると示そうと思って、私はこの映画を作りました。~「キム・ギドクの世界 野生もしくは贖罪の山羊」白夜書房刊

 表層は、ヤクザのハンギが自分を侮辱した女子大生ソナを誘拐軟禁し、処女を娼婦に貶めてしまうという物語。話は破綻しているようにみえるのだが、おおよそ夢と現実が交差しているからと考えれば充分楽しめる。ただ深く味わうためには、我々は自分が観たものを再構築しなければならない。
 このようなきわめて実験性の高い傑作が、『受取人不明』からわずか5か月後に発表されていることに驚嘆させられる。

 『魚と寝る女』(2000年)の主人公が言葉を奪われていたのは<人ならぬものー化け物>の属性を付与し、二次的には映画を絵画にする役割と、スリラーとコメディという認知を反転させるトリックのためであった。
 ハンギの場合は、物語のうえでは喧嘩で喉を負傷したことになっているが、ソナとのコミュニケーションを不能にするためで、やはり<人ならぬもの>の意味を付与されている。

 それは何か、結論を急ぐ前に男女の「究極のラブストーリー」と謳われる映画である、そこから出発しよう。
 コミュニケーションの困難さ、裏切りや嫉妬、劣等感をヤクザと娼婦を使って象徴的に描いているのである。つまりキム・ギドクは男女の恋愛は苦しいといっているのである(愛を傷つけあう痛みとして表現した劇作家<つかこうへい>との類似性を指摘しておきたい)。
 従って映画のなかに観るべき男女のラブストーリーはない。我々は「この世界で男女の愛が残酷でなかったことがあっただろうか。誰か苦しまなかった者はいただろうか」という深淵をみるのであって、物語はそれに応じた観客の感応により個別に生成されることになる。

 次にタイトルの『悪い男』を考えてみよう。
 女性を軟禁し娼婦に貶めるのはまぎれもなく犯罪<悪>である。しかしハンギの悪業はそれ以外に見当たらず、舞台となる売春街においては、むしろ、モラリスティックに行動する善の人として描かれている。ここでは娼婦が肉体を売るのも、ヤクザが地まわりするのも、ただの労働であり<悪>を意味しない。つまり「ハンギのソナへの愛だけが悪だ」といっているようにみえるのである。これはどういうことか。

 ソナの債務は拉致された時点で、金融業者からハンギに移ったはずだが、ハンギがソナを店に売って債権回収したのかというと、金銭授受の場面はなく、女主人もソナに借金の話をもちだすことはない。ソナに債務はないのだ。
 つまり彼女を拘束しているのはハンギの監視だけということになるのだが、この男は搾取するどころか、客を追い返し、女主人から叱責されるのである。ではなぜこのヤクザは一銭の得にもならないことを続けるのか?これを<愛>とよぶなら、なぜソナに手を出さないのか。公衆のただなかで無理やりキスした男が、今更プラトニックもなかろうに、なぜ見つめるだけなのか。
 それは売春街が悲惨な世界の暗喩だからだ。ソナが罪人(つみびと)の暗喩だからだ。ハンギが創造主の暗喩だからだ。それがソナはどこにも逃げられない理由である。

 この作品の主題は「神の沈黙」なのである。
 神が創造した世界になぜ悲惨なできごとが絶え間なく起こっているのか?神はなぜそれを黙って見ているのか?獄中のハンギに向けたソナの「私をこんなにして無責任じゃない!今すぐに出てきなさいよ。ひどいやつね」「出てきて。今すぐに」という叫びは、神の出現を願う人々の声そのものなのである。
 日本には終生「神の沈黙」を追い続けた作家に遠藤周作がいるが、正体不明のでくの坊と負傷したヤクザの逃亡劇を書いた『おバカさん』と『悪い男』は同音異曲なのである。

 慎重にみればわかるが、ソナは罠に嵌められたのではなかった。
財布を落とした男も、身体拘束契約をした金融業者も、ハンギの共謀者ではない。ハンギは金融業者からソナを強奪しているのである。娼婦にしたければはじめから拉致するほうが早いではないか。つまり落とされた財布によりソナは試されたのである。その結果、貧しくとも盗みをするなら働けとヤクザは命じた。別のフェーズでいえば、財布から金を盗ったから苦界に落とされたのであって、この出来事は、ソナが原罪を背負った人間であることを表現したとみなければならない。

 売春宿を脱出し夜の歩道を歩くソナの肩に、謎の女性が後ろから近づきカーディガンをかけるという、不可解なシーンがある。カメラが引いていくと、車のなかから見つめるハンギが現れるのだが、私にはこの女性が神の使いで、世界には神の愛が実現していることを描いた場面と考える以外にない。どこにいても神は見ておられ、愛されていると。

 ソナは、なぜ夜の街を徘徊していたのか。
帰りたかった世界が、もはや孤独な場所でしかなかったからである(「誰が金を貸してくれるっていうのよ」というセリフがあり、親兄弟はないと暗示されていた)。彼女は1日中歩いていたのだ。ことによると売春街で懸命に生きる女たちを知り、他人の金を盗った自分を見つめ、苦界に落ちた理由に気づいたのかもしれない。

 貧しさとは何かと言い換えてもよいが、人が生きるとはどういうことかを知ったソナに、世界の様相は変わって見えたのである。そのあとの海辺のシーンでハンギに「私を元の場所に返して」と翻訳されたセリフは、韓国語なら「私に元の場所を返して」と同じになるはずである。

 海に連れて行くのは、つかの間彼女を慰めようとしたハンギなりのデートとみてよいが、そこでもまた不可解なシーンがある。ソナは、波間に消える赤いワンピースの女を見て反応のないハンギの様子を訝る。ハンギには見えていないのか、それを見せるために連れてきたように描かれているのである。普通なら彼女の幻覚か、内面描写ということになろうが、ここでは結論は保留しておきたい。

 連れもどされたソナのいる、雨降るいつもの売春街。
酒に酔ったハンギがふらふらと立ち上がり、ぽつんと店の前に立ち客を待つソナの手を取り、彼女の仕事部屋に入る。デートのあとの場面だ、いよいよふたりの関係が進展するのかと観ていると、ベッドにソナを横たえたハンギは、体を縮めるようにして隣で眠ってしまう。

 なるほどソナが聖母マリアの暗喩で、ハンギが求めたのは母の愛だったのである。娼婦を母に持ちこの街の人々に育てられたであろうハンギの半生が立ちあがってくるという仕掛けだ。

 ヤクザにキリストを投影し、娼婦にマリアを投影し、キリストの愛は娼婦に注がれ、マリアの慈悲はヤクザに注がれるという、ルビンの壺のような多義図形を、ヤクザが女子大生を誘拐監禁し娼婦に貶めるという残酷な物語に落とし込み、男女の純愛を暗喩するというのだから、キム・ギドクの才能は底が知れない。

 顔のない写真に重なったソナとハンギの顔。
 マジックミラー越しにハンギを見つけた時のソナの驚き。
光と影の間に溶け込むように互いの姿を確認し、愛が成就する。
一組の男女が抱き合う姿から、苦しむ女が神の胸に抱かれた歓喜と震えが伝わり、爆発的な感動がある。これまで書いたように、この物語にはヤクザと娼婦、底辺に生きる善良な男女、キリストとマリアという3つのフェーズがあり、どこがどう見えるのかは観客次第だが、私にはこの場面が悲しい娼婦と神に見えるのである。さらに3つのエンディングが用意されている。

1(ソナも、ハンギも生きていた)
 翌朝、初めて出会った公園のベンチに黙って座ったふたり。ソナを置いて立ちあがるハンギ、残されたソナもやがてどこかへ歩き出す。純愛を成就させたヤクザと女子大生ふたりの別れの物語。

2(ハンギは殺され、ソナは自殺した)
 ヤクザを愛してしまい、もはやこの世界に生きる場所はないと知っていた女子大生ソナは、ベンチを去ったあと思い出の海に向かう。そこで顔のない写真が自分たちであったことを知った彼女は、赤いワンピースを探しあてると入水自殺し、浜辺でハンギを待つ。殺されたハンギも写真のなかで自分が着ていたシャツをみつけて海に向かう。
 遠い海を見つめるふたりは、神の慈悲により最早ヤクザでも娼婦でもないものとして甦り、永遠の愛と生命を得た。それが最後に、撮られたはずのない写真、つまり時間が止まった世界のなかにいる意味である。いわば神の祝福を受けた男女である。これが謎の赤いワンピースの女の伏線が回収される結末。

3(ソナもハンギも生きていた/最初からハンギは存在しない)
 ハンギは死を免れ、ソナと旅をしていると考えると、愛が成就した以上、最早ヤクザと女子大生ではなく、ただの男と女として幸福になったという結末。
 ただこれだと、ベンチのシーンからつながらないので、もう少し深読みをするなら、娼婦に身をやつしたソナは、絶望の底にあったあの夜、神に出会い信仰する者といしてこの世界を生きることを選んだ。死んだはずのハンギが立ち上がるのはキリストの甦りを暗示しているのであり、漁村の場面は孤独な娼婦と彼女を見守る神の姿が暗喩されている。こう解釈すれば、雑踏を描いたプロローグからみごとにつながるのである。貧困にあえぎ、いずれ娼婦になる以外になかった女子大生ソナを、神の暗喩としてハンギは最初から見守っていたのである。

 コラージュされた物語を丹念につなぎあわせると以上のようになる。キム・ギドクのファンの多くが最高傑作として選ぶのは、私がそうだったように無意識に、これだけの物語を感じ取っているからだと思える。作家としての主題は遠藤周作との共通するが、作風はメタファーの作家といわれる村上春樹と極めて近しい。死者を生きた人間と同列に書く『羊をめぐる冒険』等と、手法は同じなのである。両者とも夢のようで辻褄が合っていないような話が多いことも共通している。

 さて、本作も韓国でヒットした半面、批判の嵐にもさらされたようだ。おそらく「男に都合がよい幻想をまき散らした」と非難されたのではないか。おおおかた観てもいない人間によるものだと思うが(村上春樹も読んでいない人間に批判されることが多い)、酷評はキム・ギドク自身、過去の経験からわかっていたはずなのだ。ソナが神に試されたように、おそらく韓国人もキム・ギドクに試されたということになるだろう。誠に我々人間というものは、相手が人であれ芸術であれ、自分のなかにあるものしか読み取ることができないものである。

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