悲夢~愛は女が持っていたと警官は言った
キム・ギドク 監督、脚本、編集、製作
2008年10月9日 韓国公開
2009年2月7日 日本公開
原題訳 夢うつつ
英題 DREAM
宣伝文「狂おしいほど切ない、愛しい人に出会う夢」
「夢ではないかもしれないし、悲しい夢かもしれない。二重構造になっている。複雑に思うかもしれないが、とても分かりやすい映画。難しく考えず、気楽に見てほしい。ただし1回ではなく2回。2回見ることで、いろいろなとらえ方ができる」とキム・ギドクが自ら多重性を明らかにした殺人事件の謎を解く。
キム・ギドクに素直に従うなら登場人物は4人の男女。
主人公ジンの夢が、ランの夢遊病を誘発し現実化させるという。そこに、彼らの過去の恋人が現れると、悲劇の歯車が回りはじめやがて殺人事件へと発展する。
本当に起こったことはなんだったのか。4人は誰だったのか、彼らの愛はどこにあったのか。
不肖の安楽椅子探偵が、殺人事件の犯人と被害者を推理する。
1 証言者たち
事件解決の糸口は、4人が一度に登場する湿地帯。ここ以外にないだろう。
痴話喧嘩は途中で相手が交錯する争いになるが、奇妙なことに会話は一貫している。男が女の不倫を責め、女がそれを男の妄想だと否定しているようだ。どちらの言い分が正しいのか。
最後の場面で、倒れたふたりに手をさしのべるように、ジンがランの元恋人の、ランがジンの元恋人の脱げた靴を履かせている。なぜか?
2 殺人事件
ここも4人が一堂に会する場面。
夢遊病のランが寝屋に入っていく。するとジンらしき影が追って入り、中にいた誰かを襲撃する。慌ててランの元恋人が逃げ出してくる。
車で眠っていた実体のジンが、女の悲鳴を聞いて目を覚まし飛び込んだ寝屋で見たのは、ぐっすり眠ったランと逃げ出したはずの男の死体。
しかし現場をよく見ると布団に乱れがない。頭に血がついた男も、抵抗した跡がなく安置されたかのようだ。
死体は命を持たない=存在しないものの暗喩。つまり殺人事件はジンの妄想なのだ。ベッドにはひとりでランが寝ていただけだ。湿地帯でのランの言い分は正しく、ジンは妄想性障害だったのである。
ところが、ランは駆けつけた警官に殺人犯として逮捕されている。殺人事件はあったはずだ。となると被害者は現場で悲鳴をあげたジンの元恋人以外にない。警官が彼女に犯人を聞いたのは、まさに「犯人は死体に聞け」だったのである。
重要なのは「誰がやった」と問われ、はじめはラン、あとでジンを指さしていること。真犯人のキム・ギドクが、観客を混乱させ真実の隠蔽を図ったわけだが、悪魔のようなこの男の真のねらいは<もうひとつの死>を隠すことにあった。
3 秘密の手錠
逮捕後の取り調べ室。動機を聞かれたジンが「ほかの男と会っていたので、カッとなって僕が殺しました」と庇っている。彼は同性愛者ではなく、被害者が女なのは明らかだ。
続けて「この手錠はどこで手に入れた」と質問され「軍用品の店で買いました」と答えると、警官はものすごく怒る。なぜか?
このときカメラは「彼らを互いに繋ぐ腕の手錠」を映し、警官は押収した凶器を取り出すふりをするが、それを見せない。警官が言う手錠とは彼らを繋いだものだ。宿命的な愛、否定的にいえば束縛の暗喩だろう。
つまりジンは「束縛が愛を殺したんです。愛が凶器なんです。軍用品の店で買いました」と答えたことになる。「デタラメ言うな!」と警官がつかみかかるのも当然である。
警官が「凶器は女が持っていた」と言ったのは「愛はランが持っていた」と情状を酌量したのである。
3 精神病棟の怪
精神病棟に収監されたランを病室で待っていたのは、殺された女の幽霊である。何事か耳元で言っているのはランを侮辱する言葉で、殺害直前の様子を再現している。「死んで楽になれ」と囁いている。
この部屋でランは裸足になって首を吊り、蝶に転生することになるのだが、そのまえに一度「靴を履いたぶらんとした脚」のカットが挿入されている。死んだ女に抱かれ、面会の声にも応ぜず、ベッドに横たわり動かないランを映した映像もあった。これが<もうひとつの死>である。
3 仏教寺院の謎
夢を主題にした映画なのだから、陽射しの下というだけで、何らかの意味があると疑うべきだ。
仏教寺院でのランとジンの親密な様子は、急接近のようにみえるが、ふたりが嘗て恋人同士だったことを示した、思い出のデートシーンなのである。
ところがジンが石を積んで祈祷すると、ランは消えてしまう。月に照らされて輝く大仏が夜空に出現すると、山門の石段を降りてジンが待つ車に戻ってくる。「ランは霊界にいる」と考えざるを得ない。ジンがこの寺に来たのは供養のためだろう。
4 2台のランドローバー
ジンが路上に止めた車の運転席でランの帰りを待っていると、もうひとりのジンが窓から中を覗き込むシーンがある。奇妙な場面だがジンは妄想の人、ランの夜半の外出を男と会っているのではと疑い、尾行する姿がコラージュされているのである。助手席に座ったはずのランが運転席に変わっているのも同様、時制が異なる出来事が混然一体になっているのだ。
ランが運転する車にジンは乗っていない。プロローグのようにこのときジンは彼女を追跡する車の運転していたはずだから。そしてランはひとり寝屋(ホテル)に行き、自殺したのである。
これが、殺害現場に隠された<もうひとつの死>だ。ジンが見たのは、死体となって横たわる彼女の無残な姿だったのである。
5 預言者
女性カウンセラーが精神科医というより預言者、巫女にみえるのは、作品の解説者だからだ。
「夢は過去の記憶である。また未来の不安でもある」は、この映画の時間の混在を説明したのであるが、もうひとつ、結婚生活を言ってはいまいか。
彼らのスタジオは別々の場所にあるように見せてはいるが、ひとつの家のなかにある。
まだ会って間もないランの家をジンが訪れた場面でのこと。口論の最中に、ワインのボトルを勝手に開け、帰るなら自動ドアからはずが引き戸から「はける」のである。タクシーの場面も、オダギリジョーは飲んで帰宅する亭主を演じている。翌朝「一緒に暮らせるといいですね」というオダギリに、はあ?というあきれ顔の演技をするイ・ナヨンは同居している。
6 白黒同色の秘密
預言者はふたりが愛し合えば夢は消えると予言し、「白黒同色」という謎のお告げをする。
白と黒といえばふたりのファッション。もう一度湿地帯の場面を振り返ってみよう。黒いコートを着ていたのはランだ。色彩感あふれるスタジオでは、ジンが黒、ランが白の衣装を身に着けていたのに、ここ無彩色の葦原では逆転させている。この鮮やかな演出に意味がないはずはない。
シロ、クロは無罪有罪のときに使う言葉(韓国も同じかは未確認)。それを預言者は同色だと言っている。
証拠は揃ったと思う。物語の語り手であるジンを通して事件のあらましを再構築してみよう。
7の1 真相(男の罪の物語)
恋人のランと自分の夢を捨てて結婚したジンは、単調な生活に倦み、別の女性との関係を持ってしまう。あるとき夫の裏切りに気づいたランは女と会い、別れを詰め寄るが、相手の態度に逆上してしまい殺害逮捕される。
その夜から一週間、自責の念に囚われ一睡もできなくなったジンは、全てを終わらせようと決意し、収監されたランと最後の面会を済ませ、凍結した漢江の橋から身を投げた。
同じころランもまた自分の罪の恐ろしさに震え、警察の精神病棟で首を吊ってしまう。
血を流し氷に横たわるジンのもとに冬の蝶が舞い降りたのは、仏の慈悲で身を変えたランが、極楽浄土に一緒に行きましょうと迎えに来たのだった。
7の2 真相(女の罪の物語)
恋人のランと結婚したジンだったが、妻を顧みず夢を追い続ける日々を送っていた。寂しかったランは、別の男性との関係を持ってしまう。それを知ったジンは嫉妬と猜疑心が捨てられず彼女を責め監視するようになる。追い詰められ自責の念に耐え切れなくなったランは、ひとりホテルで自殺してしまう。
その夜からジンの夢のなかにランの亡霊が現れる。夢か現か、恐怖で眠ることができないジン。寺での供養も何の慰めにもならなかった。とうとう一睡もできなくなった一週間後の朝、身も心も疲弊させ凍結した漢江の橋のうえから落下してしまう。血を流し氷に横たわったジンのもとに、仏の慈悲で冬の蝶に身を変えたランが、極楽浄土に行きましょうと舞い降りる。
推理脚色すると、キム・ギドクが考えたであろうシナリオは上記のようになる。
8 判決
ランの狂気がジンを殺し、ジンの狂気がランを殺した物語でもある。
預言者が「遺伝子レベルの記憶さえある」と言ったのは、男女の関係は太古の昔から変わらないという意味だろう。ふたりは有罪であろうか。
キム・ギドク判事は「男女の愛は狂気である」としたうえで、心神喪失として無罪判決を出している。
『悲夢』の錯誤、断片化は、ジンが見たひと晩の夢(回想)として語られるという構造にあるのではないか。物語全体が、朝の街で煙草を吸っていたジン(プロローグ)が動き出し、橋までたどりつき身を投げる(エピローグ)までの回想にみえる。映画の現在時間は、そこだけではないか。
確実なのは「ふたりが恋愛関係にあったこと。少なくとも一度は一緒に暮らしていたこと。愛が破綻していたこと。ランがジンの恋人を殺したこと。ふたりとも自殺したこと」だけなのである。
彼らの元恋人とは、お互いのことでもあり、それぞれが抱いていた夢の暗喩と読めば、『悲夢』にはもっとシンプルな物語が隠されていることになる。
「結婚生活に入った恋するふたりだったが、夢をあきらめられないジンがランを追い込み(自殺、他殺は夢を捨てる暗喩)、関係は破綻したが、ジンが反省してランと向き合い、夜をともに過ごし、同じ夢を見ることで、互いの愛を再発見した」という話である。
この作品は<愛の破局>を描いたものではない。はじめに破局があり最後に手が触れあう<愛の再生>を描いた、物語の総てが暗喩であり、この一点に収束する、そういう映画なのである。
日本語と韓国語の会話も、言われているようにオダギリジョーが日本語オンリーだった結果ではない。キム・ギドクには当初から「恋愛は言葉を越えたコミュニケーション」だと示す演出意図があったはずだ。
南北問題に心を痛めていたように、日韓関係に無関心でいられたはずもなく、ジンとランの関係は併合から独立へという日本と韓国の歴史として極めて暗示的ではないか。この点からみても<愛の再生>がテーマであり、私の夢なんだけどなあと言っているのである。
『悲夢』は美しい色彩だけでも充分観る価値があり、ただのメロドラマとして観るだけではあまりに惜しい、キム・ギドク最重要作のひとつだと再評価されてよいと思う。
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