李舜志著『ベルナール・スティグレールの哲学──人新世の技術論』の「はじめに」を公開します!
はじめに
本書は、フランスの哲学者ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler 1952〜2020)の哲学を取りあげる。スティグレールは現代においてもっとも重要な哲学者のひとりである。その哲学は、技術を哲学の対象のひとつとして見なすのではなく(つまり技術哲学を展開するのではなく)、まさに哲学の対象そのものと見なすところに特徴がある。スティグレールにとって技術とは、政治や経済、教育といった数ある分野のうちのひとつではなく、それらを包括するテーマなのである。
技術について考えることは、人間、社会、そして地球について考えることに等しい。スティグレールはそう考えた。そこから、地球環境だけでなく、人間の精神にとっても危機的な局面をむかえている現代社会を治癒する方途を探った。その壮大なスケールは、「人新世(ひとしんせい/じんしんせい)の技術論」と称されるべき試みである。
本書の目的は、スティグレールの哲学から、技術とは何か、そして私たちは技術とどう付き合っていけばいいのか、考えることである。ただしスティグレールは多産な哲学者であり、単著だけでも20冊に及び、さらにさまざまな社会実験にも取り組んでいるため、その仕事の全体像を把握するのは容易ではない。またスティグレールの著作は、目下の課題への応答として書かれたものが多いため、その思考の道筋は曲がりくねっており容易に要約を許さない。
したがって、本書は「人新世の技術論」という軸を据えることによって、スティグレールの議論を読み解いていく。それを通して、技術とは何か、私たちは技術とどう付き合っていけばいいのかという問いに答えることにしたい。
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まずはスティグレールの経歴を簡単に紹介することで、人新世の技術論という看板の妥当性を示そう(1)。
スティグレールは電気技師の父と銀行員の母との間に生まれ、フランスはイル=ド=フランス地域圏、ヴァル=ドワーズ県のコミューンであるサルセルで育った。電気技師であった父ロベールの影響の下、哲学よりも早く技術に興味を持ったスティグレールは、高校生のころから政治・哲学的な事柄に関して唯物論的な見方をとるようになる。そして1968年を過ぎてから共産党に入党するが、スターリニズムへの拒否感から1976年に脱退する。
その後いくつかの職を転々とし、トゥールーズでジャズ・バーを開く。このときジャズ愛好家である哲学者ジェラール・グラネルと出会う。しかし経営は厳しく、困ったスティグレールは銀行を襲ってしまう。その結果、銀行強盗の罪で1978年から83年にかけてトゥールーズのサン・ミシェル刑務所に投獄される。監獄の中で過ごした5年の間に、友人であったグラネルの援助を得てスティグレールは哲学に目覚める。
そして出所後、ジャック・デリダに師事し博士論文を提出する。ユク・ホイによると、スティグレールが刑務所で書いた文章を見たグラネルは「これが君の哲学になる」と言ったらしい(2)。この文章はスティグレールの博士論文に含まれており、論文の審査委員会の一員であったジャン=リュック・マリオンはその部分を独立させて出版することを望んだが、スティグレールはそれを拒否した。この文章は『技術と時間』の第七巻として発表される予定だった。
その後国際哲学コレージュの研究プログラム・ディレクターや、ポンピドゥー・センターで開催された「未来の記憶」展の企画・キュレーションなどをつとめ、コンピエーニュ工科大学やロンドン大学のゴールドスミス・カレッジで教鞭をとった。
スティグレールはただ論文を書くだけでなく、フランソワ・ミッテランによる新しい国立図書館の電子アーカイブ化構想を担当し、INA(国立視聴覚研究所)、IRCAM(音響・音楽研究所)の要職を歴任し、ポンピドゥー・センター内にIRI(研究とイノヴェーション研究所)を設立するなど、デジタル革命下で新しい文化的・認知的実践を開発するために活動した。また2005年にはArs Industrialisという産業変革運動を組織する。この団体は、産業資本主義と技術の未来について議論する討論会やシンポジウム、ワーキンググループを組織し、これらの取り組みを書籍やネット上で公開している。またArs Industrialisは、2016年からパリの北に位置する自治体連合プレーヌ・コミューンで「協働型経済」という社会実験を行っている。
2018年には、国際連盟百周年となる2020年に向けて、人新世の喫緊の課題に対処する新しいマクロ経済モデルを考案し実験するインターネーション(Internation)という組織を立ち上げた(3)。この活動は後にトゥーンベリ世代友の会(Association des Amis de la génération Thunberg, AAGT)に引き継がれた。この会は、気候変動の危機を訴えるグレタ・トゥーンベリや若者たちの呼びかけをうけ、スティグレールと作家のル・クレジオが共同で設立したものである。
2020年1月にはジュネーブで記者会見を行い、アントニオ・グテーレス国連事務総長に宛てた書簡を発表した。書簡では、今のままでは国家も企業も人新世の課題に対応できないことが指摘され、その理由の分析と、現状を克服するための方途が提示された。その後、スティグレールは自ら創立にかかわったArs Industrialisをトゥーンベリ世代友の会に引き継ぎ、その目的と研究分野を刷新することに決めた。産業資本主義がもたらす危機の克服を目指すArs Industrialisの活動は、トゥーンベリ世代友の会と統合することによって、人新世、科学研究の危機、世代間関係の破壊という文脈の中に位置づけられることとなった。
以上のように、監獄からはじまったスティグレールの哲学は、人新世の破局的な状況に立ち向かうための理論的・実践的プロジェクトにまで拡大深化した。その根幹には技術がある。ただし、スティグレールにとって人新世とは自然環境の危機だけを意味するのではなく、したがってその技術論も環境保護の文脈に限定されない。スティグレールの人新世の技術論は、自然という制約のなかで技術を駆使し、文化や民族といった集団的生を営むと同時に、この世にたったひとりしかいない「私」として生きる、私たちについての哲学なのである。
注
(1) スティグレールの経歴については、各インタビュー記事を参照した。
(2) Hui 2021, p. 77.
(3) インターネーションとはマルセル・モースに由来する概念である。モースは、国際主義の発展が領土や文化の特異性を犠牲にしてはならないと提言し、それぞれのネーションが持つ個性を尊重しつつ、諸国家が協調するインターネーションという概念を提起した。
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