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静かなる異変


 

 

2023年もあと数日で終わりとなる年の瀬。

僕は狩猟で山に入った。

北海道での狩猟は10月1日が解禁であるにもかかわらず、

銃を持って山を歩くのは、この日が初めてだった。

狩猟採集生活に軸足を置きたいと北海道に移住したものの、

まずは自宅を居住可能な状態にするために

多くの時間と労力を費やしていたからだ。

 

 

 

遅々として進まないリフォーム作業だったが

12月に入ってようやくトイレが使えるようになった。

しかしドアがない。

目隠しの布を吊るして誤魔化していたが、

やはり限界を感じていた。

せっかくのトイレも、

ドアがなくては臭いものに蓋はできない。

 

そこでお願いした助っ人が、

フリーランスの大工で建具の造作もこなす友人、Sだ。

どの柱や壁をとっても直線や直角が存在しない歪んだ我が家に

ぴっちりとしたドアを取り付けるのは至難の業。

木材を削って微調整しながら壁や天井に枠を取り付け、

既製品ではなく手作りのドアを嵌め込む。

Sには未完成の我が家に泊まり込み

丸3日間にわたって作業していただいた。

僕も微力ながら作業を手伝ったり、

台所のスパイスラックの細かい造作を行ったりしていた。

そして4日目。

僕はSを山に連れ出した。

以前から彼は狩猟を体験したいと言っていたし

何より僕の禁断症状が限界を迎えていたからだ。

 

 

本当に久しぶりの忍び猟。

使い慣れた林業長靴を履き、

狩猟専用のバックパックを背負う。

一歩目を踏み出した瞬間から足裏が熱い。

その熱は喜びとなり

脳天に向かって体を縦に貫く。

心の中でずっと燻っていた熾が

ボッと音を立てて燃え始める。

静かな興奮と共に感じる安心感。

やはり獣道こそが、

僕が歩く道なのだ。

 

波乗りでバックカントリーも好きなSは

体力も気力も十分。

あまり心配しなくていいだろう。

意識を獲物に集中させる。

 

何度も歩いてきた山。

木々に、沢に、土手に、山肌に、

久しぶりだね、と挨拶しながら歩を進める。

 

 

 

この辺りからが本番、というところで

尾根の向こうから鹿の甲高い鳴き声が響く。

足音だけで僕らの存在を察知されてしまったのだ。

どんなに注意深く歩いても、

足音を完全に消すことは不可能だ。

気にし過ぎていては進めない。

ゆっくりと山奥を目指した。

 

本当なら

撃つ場所は車から近ければ近いほど

体力的には楽だ。

何時間もかけて入った深い山から

重い肉を背負って帰るのは苦行でしかない。

でも野生動物の気持ちになって山を歩きたい僕は

鹿が何万年も生きてきたであろう

彼ら本来の生息環境に入り、

そこで鹿を仕留めることに大きな喜びを感じる。

肩に食い込むザックの痛みも、

持ち帰った肉を美味しい美味しいと食べる

家族や友人の笑顔を前にすれば

いずれ有り難みへと昇華することは分かっている。

何度か警戒音を浴びながら

撃てる鹿と出会うことがないまま、

3時間以上が経過した。

 

この日歩いた山には、特別な思い入れがある。

初めて訪れたのは2021年1月15日。

最初に出会ったのは、

横原に赤いスプレーで1.15と書かれ

肉には一切手を付けられていないままに放置されていた

子鹿の亡骸。

有害駆除の補助金申請のためだけに命を奪われた犠牲者だった。

直後、僕はその子鹿の母親ではないかと思われる雌を撃った。

彼女は心臓を射抜かれながらも

数百メートルを走った後に息絶えた。

彼女が横たわっていた場所に立っていた木には

ちょうど心臓くらいの高さに血がベッタリとついていた。

もう一歩も脚を踏み出すこともできない瀕死の雌鹿は、

意識を失って倒れるまでの数十秒の間、

決して倒れるものかと

その木にもたれかかっていたのだ。

最後の最後まで生きることを諦めない執念に触れた僕は

自ずとそこに跪き彼女を讃えた。

 

その瞬間を捉えた写真は

初めて出版した本の表紙を飾ることとなり、

彼女のことは講演会でも何度も話してきた。

北海道に移住して

初めて狩猟で歩く山にここを選んだのは、

彼女への御礼参りがしたかったからだ。

 

あの日の記憶を紐解きながら

尾根筋を辿る。

鹿がよく寝ている日当たりの良い斜面。

濃い笹藪の向こうから

またもや警戒音が響く。

白い尻が軽やかに跳ねながら消えていくのを見守った。

導かれるように更に奥に入る。

 

左に折れる特徴的な稜線のカーブ。

3年近く前に雌鹿を見つけた場所だ。

気高く僕を見据えていた彼女の眼差しが

鮮やかに脳裏に蘇る。

数秒後に胸に弾を受けた彼女は

尾根筋を下る方向に走り去った。

もう、あと少しだ。

 

斜め上に突き出したその幹は

すぐに分かった。

念の為、

携帯電話に保存していた過去の写真とも見比べる。

やはり、間違いない。

 

僕はあの日同様、地面に座った。

温かい鹿が横たわっていた大地は冷たく

無論、木の幹についていた血痕も

風雪に洗い流されている。

でもあの時の心の鳴動は

今も確実に僕の中に在る。

それが感謝となって溢れ出た。

 

「貴方のことを、たくさんの人間に伝えてきました。

それが、人間が野生動物とどう向き合うべきかを考える

きっかけとなることを祈りながら。

涙を流しながら聞いてくれる人も少なくありませんでした。

貴方の生き様は多くの人たちを奮い立たせ、

確実に力を与えてくれています。

僕はこれからもずっと、貴方のことを語り継いでゆきます。

これからも、どうぞ宜しくお願いします」

 

心ゆくまで、彼女と語り合った。

 

記録として、Sに写真を撮ってもらった。

持ってきたおにぎりをザックから取り出し、

早めのランチを食べながら2枚の写真を見比べる。

ある違いに気付いた。

以前の写真では

鹿は雪に覆われていた地面に横たわっていたが、

今はその一帯に落ち葉が露出している。

前回は1月中旬で、今回は12月下旬。

2週間以上の開きがあるせいなのか。

或いは、気候変動が原因なのだろうか。

 

 

 

帰路に着く頃には、時刻は11時を回っていた。

日差しは暖かく

鹿たちは昼寝をする時間帯だろう。

往路とは違うルートをとり、

藪をかき分けて進む。

どうしても足音は大きくなってしまうが、

寝屋に入った鹿は動くのが面倒なのか

或いは熟睡して気付かないのか、

突然近くで立ち上がるものもいる。

 

一気に見晴らしが開ける曲がり角や

稜線の天辺へのアプローチは慎重に行う。

気配の濃いポイントでゆっくり頭を上げたところ、

親子の鹿が走り出た。

 

走っている鹿を正確に狙い澄ますのは無理、

少なくとも僕には不可能だ。

それでもチャンスはまだある。

驚いた鹿は一気に遠くまで走る場合もあるが

こちらから見える範囲で足を止めることもある。

諸先輩方の中には

「コラッ!と大声出すとびっくりして止まるぞ」

という人も多いが

僕の経験ではそれで止まったためしはない。

だからいつも

「止まれ、止まれ」

と念じるだけだ。

 

Sと彼の家族のためにも肉を持ち帰りたい。

僕は銃に弾を装填し、

止まってくれ、と必死に祈った。

すると向かいの稜線を越える直前、

薮の影で彼らは走るのをやめた。

うまく身を隠せたと思ったのかもしれない。

銃を構えたまま身動きせず、

彼らが再び動き出すのを待つ。

 

数十秒後、まずは母親が慎重に辺りを見回しながら

斜面を登り始めた。

藪が濃く、体は完全に見えない。

一瞬だけ胸元が見えたが、そのまま向こうに消えた。

 

続いて子どもが動き出した。

母親と同じルートを辿っている。

体が見えるとしたら、

先ほど母親を目視できた

藪が少しだけ開けた一点のみ。

僕はそこに照準を定め、子鹿を待ち受けた。

小さな頭が見えた。

眺望が開けたからか、子鹿が動きを止めた。

的は小さいが、撃つなら今しかない。

僕は引き金を引いた。

子鹿は銃声がこだまする中を軽やかに走り去った。

 

引き金を絞る瞬間、

スコープの中に引かれた十字の線、

要するに照準が少しだけブレたことを感じていた。

“ガク引き”と呼ばれる現象。

銃がしっかりと保持できていなかったり

気負い過ぎた結果であったり、

原因は様々だが、

要するにハンターの腕が悪いということだ。

1ミリに満たないブレが、

数十メートル先では10センチ以上のズレとなる。

念の為、子鹿が立っていた場所まで行ってみたが

案の定血痕はない。

標的が小さかったこともあり、

掠りもしなかったのだ。

 

北海道に移住して最初の一発は

残念ながら失中だった。

山での狩猟に百発百中は存在せず、

過剰な落ち込みはその後の狩猟に悪影響を及ぼす。

気持ちを切り替えながらも、

今の射撃が安易なものであったと

強く心を引き締める。

 

 

 

正午。

少々歩き疲れた我々は歩みを止めた。

バックパックを一度下ろして小休止。

残っていた食料を平らげることにした。

 

フカフカの落ち葉の上で仰向けに寝転ぶ。

降り注ぐ陽光に眠気を誘われる。

心地良くはあるが

これが本当に年末の北海道なのか、とも思う。

あと少しで

一年で最も寒い時期を迎えるはずの山並みが

どこか春先の雪解けと共通した景観となっている。

大きな違和感を抱えたまま、

僕は一旦下山して

午後は場所を変えると決めた。

 

次は、夕暮れ時に向けて

獣が動き出し始める頃を狙いたい。

発砲が許されているのは日没までだが、

日が暮れる直前に撃っては

解体中に真っ暗になってしまい危険を伴う。

一年で最も日が短いこの時期、

日の入りは16時過ぎだ。

撃つとしたら日没の1時間前の15時くらいまでか。

駐車位置から鹿をよく見るポイントまで歩くのに30分、

そこから30分以内に獲物を探し出す。

逆算し、14時に再び歩き始めることとした。

 

 

 

車を降り、最初は開けた場所をしばらく進む。

大きな足跡が随所に見られる。

立派な雄鹿のものだ。

しばらくして森の中に入った。

以前来た時には多少整備されていた林道は

今はもう全く手入れされておらず、

ササやススキが生い茂っていた。

 

とても歩きにくくはあるが、

人が入っている形跡もない。

この状況が吉と出るのか、凶と出るのか。

どちらにせよ、前進あるのみだ。

 

15時前。

大きな木の下に

鹿が寝ていたであろう形跡を見つけた。

草が倒れ、雪が溶けて大きく窪んでいる。

そこに散らばっているフンも立派だった。

ストックでつついてみると

コロコロと転がってゆく。

地面に凍りついていないのは、

まだ新しいという証拠だ。

巨大な雄鹿が近くにいる可能性が高いことを

Sに伝える。

 

日はどんどん翳ってゆく。

もうあまり時間はない。

これが今日のラストチャンスだろう。

 

ゆっくりと藪を漕ぎながら

30メートルほど進んだところで

視界の端に真っ黒なシルエットを捉えた。

即座に座り込んで銃を構える。

午前中に子鹿の小さな頭を狙って外した記憶が蘇る。

デカい雄だ。

距離は結構あるな。

今日はなんとしても獲りたい。

瞬間的に色々な考えが脳内で交錯し、

僕は雄鹿の心臓を目掛けて弾を放った。

 

血の跡を追って笹藪を進む。

唐突に、巨体が目の前に倒れていた。

その姿を見て、僕は言葉を失った。

角が両方とも、根本から落ちているのだ。

雄鹿の角は毎年生え変わるが、

それは春以降だ。

左の角の付け根だった部分は生々しく血が滲んでいた。

もしかするとさっき僕が撃った時、

或いは走って倒れるまでの過程で落ちたばかりなのかもしれない。

右側はかさぶた状になり、赤黒く固まっていた。

栄養失調や病気などが原因なのだろうか。

これまで何十頭も鹿を獲ってきたが

こんなことは初めてだ。

 

体格を見ると肉付きは良く、

特に健康に問題があるとは思えない。

だとするとやはり

気候が狂っていることが原因なのだろうか。

時に花が狂い咲くように、

厳冬期を経ずに小春日和が訪れたことで

この鹿も季節を取り違えてしまったのではなかろうか。

 

夜明けと同時に歩き始め

日没前にようやく鹿を仕留めることができた喜びに

素直に浸ることができないまま、

僕は解体を進めた。

 

ヘッドライトの明かりを頼りに車に戻る。

肉はほぼ全てSに背負ってもらった。

狩猟を始めて体験した彼は

「鹿が獲れて良かったです。

 忘れられない1日となりました」

と素直に喜んでくれていた。

 

僕の中に安堵と喜びが芽生えたのは、

帰宅後に精肉を始めてからだった。

味見として少量焼いてみたロースが、

途轍もなく美味かったのだ。

Sも喜んで家族に肉を持ち帰ってくれた。

 

 

 

それから1週間近くが経ち、

この文章は年が明けてから書いている。

なんと1月に入っても

最高気温はプラスとなり、

雪ではなく雨の予報が出ている。

 

地球温暖化の時代は終わり

地球沸騰化のフェーズに入ったというニュースも耳にする。

 

人類はどれだけ

母なるガイアに負荷をかけ続けてきたのだろう。

 

北海道の山奥でも大地が雪に覆われることなく、

雄鹿の角は12月に落ちるようになり、

これからの地球にどんな未来が待ち受けているのか。

僕らはそれに対し

一体どのように行動してゆけばいいのだろう。

大自然が途絶える時。

それが人類の終焉をも意味するのは明白だ。

 

 

 

北海道移住して初めての狩猟で突きつけられた

衝撃的な異変の兆候。

 

今こそ、我ら人類が現実を正しく謙虚に見据え、

目先の利益や利便さだけを追うことなく

自らを律すべき時だ。

 

今こそ、自然と美しく共生してきた

狩猟採集民族の教えを学び直す時だ。

 

今の時代を生きる者として、

次の世代に責任を持つ者として、

僕はこの地で野生動物と共に山を歩きながら

彼らの悲鳴に耳を傾け、

それを世に伝え続けるだろう。

 

 

 

僕のこれからの記録が、

そして僕がこの世を去った後も

誰かが引き継いで書き続けてくれるであろう記録が、

破滅への黙示録となってしまわないことを、

起死回生の奇跡の物語となることを、

心から祈っている。

 

それは鹿の、熊の、山の祈りでもあり、

そしてきっと、

あなたの祈りでもあるはずだ。

 

 



 

 

 

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