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ベートーヴェンと少年ミキオ


 
 

 

2022年12月31日。

一年を締め括る大晦日に、かねてより興味をそそられていた、

「ベートーヴェン全交響曲演奏会」を聞きに行った。

 

演奏は13時に始まる。

ベートーヴェンの生前に最も売れたという

「ウェリントンの勝利」を前座的に演奏した後、

ベートーヴェンが残した9つの交響曲全てを

1番から順に演奏してゆく。

かの有名な第9が終わるのは23時30分で

コンサートは実に10時間以上にわたる。

指揮者は一人、オーケストラのメンバーも

管楽器を除いて交代はないという、

演奏家にとっては耐久レースのような過酷なイベントだ。

無論、聴衆側にもある程度の覚悟が求められる。

 

 

 

2003年に始まったこのコンサート。

20回目の節目を迎える今回の指揮者は、広上淳一氏だった。

以前、氏がタクトを振った

ムソルグスキー「展覧会の絵」のコンサートに行ったことがあったが、

音楽の楽しさや生の歓びを

天真爛漫に表現する氏の指揮には、非常に好感を持っていた。

私にとって、ほぼ10年ぶりとなる広上氏は

一体どんな演奏を見せてくれるのだろうかと楽しみにしていたが、

期待が裏切られることはなかった。

 

ベートーヴェンに於いても氏のスタンスは変わらず、

そのアクションは無邪気そのもの。

純粋に音楽を堪能すべき場には

ふさわしくない行為かもしれないが、

私は心の中で、氏の動きの一つ一つを

「縄跳び」

「カチャーシー」

「エアギター」

「正拳突き」

などと名付けて、密かに楽しんでいた。

長丁場のコンサートで

観客を飽きさせないようにする為には、

広上淳一氏の抜擢は

最高のキャスティングであったと思っている。

 

 

 

オーケストラは、この演奏会のために特別に編成された

岩城宏之メモリアル・オーケストラ。

ここにも嬉しいキャスティングがあった。

ティンパニの植松透氏(NHK交響楽団首席)と

コントラバスの池松宏氏(元NHK交響楽団首席・現東京都交響楽団首席)だ。

お二人とも、僅かではあるが、ご縁がある。

 

私は、中学・高校・大学と

クラブ活動は全て音楽系のものに所属していて、

中学時代は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。

 

高校でも同じく、吹奏楽部に入った。

植松透氏は、部活の先輩で、

音大に進学した稀有な才能の持ち主として

我らのヒーローだった。

私は中学同様、トランペットを吹きたかったのだが、

花形楽器の希望者は多く、

私が入部を希望した頃には既に枠は埋まっていた。

そこで選んだのが、コントラバス。

当時、ウィスキーのテレビCMで

ロン・カーターの弾くジャズベースに憧れてのことだった。

 

3年間の部活動で大いにコントラバスに魅了され、

より本格的に取り組んでみたいと思った私は、

大学ではオーケストラに入部した。

 

当時N響にいらっしゃった池松宏先生は、

毎夏に行われる合宿練習に一度だけ来てくださり、

数日間に渡って懇切丁寧なご指導を賜った。

後に首席にまでなられた先生の

卓越した技術と、あまりに豊かな響きには度肝を抜かれた。

ご趣味は渓流釣りで、

ニュージーランド交響楽団に在籍されていた時には、

なんと、ニュージーランド・ナショナル・フライフィッシング・ペア大会で

優勝を飾られたとのこと。

音楽家としてはもちろん、狩猟採集民としても超一流という、

私の憧れの存在だ。

9曲全ての交響曲を、疲れの気配も見せず情熱的に弾き切るお姿を

1階席の奥から、最後まで見守らせていただいた。

 

 

 

実は、大晦日にベートーヴェンの交響曲全てを鑑賞する、というのは

私の大学時代の恒例行事でもあった。

我が大学オーケストラのコントラバス部門を

メインでご指導いただいていたのは、

東京シティフィル首席(当時)で読売日本交響楽団の首席も務められた

西澤誠治先生だった。

地鳴りのように響きわたる、力強く豪快な音色同様、

お人柄も豪放磊落で、

大晦日は決まって教え子である我々をご自宅に招いてくださり、

特製のスタミナ鍋を皆で囲んだ。

西澤先生はいつも、

ベートーヴェンの交響曲のCDを1番から順にかけられ、

我々はそれを聞きながら鍋の下準備に勤しむ。

私は先生の命により、ニンニクを何玉もすりおろし、

ひたすら鍋に投入した。

3番か4番に差し掛かった頃には鍋は沸々と煮立ち、

最初の乾杯が行われ、宴が始まる。

そして、9番の4楽章が終わると同時に年が明けるようにと、

厳密なタイムスケジュールが組まれていた。

先生が第9のCDのどの盤を選ばれたかは覚えていないが、

仮に、そのバージョンの演奏時間が65分43秒だったとすると、

ステレオの再生ボタンは、22時54分17秒きっかりに

確実に押される必要がある。

何時間にも及ぶ飲酒によって、へべれけになっていた面々も

「ここだけはミスってはならない」と、

気持ちを引き締める。

壁にかけられた時計を全員が凝視し、

「3、2、1、スタート!」と声を合わせる。

大学時代、大晦日の23時より少し前に発せられるこの掛け声が、

私にとっての年越しのカウントダウンだった。

今から30年以上前の、古き良き思い出だ。

先生も、私たちも、皆若かった。

生のベートーヴェンを聞きながら、

そんな日々の記憶が次々と蘇ってきた。

 

 

 

思い起こせば、数多いるクラシックの作曲家の中でも、

ベートーヴェンは、私にとって本当に特別な存在だった。

交響曲を聞き始めたのは小学生の時。

それは自発的ではなく、強制によるものだった。

 

ある日、父が突然

交響曲第3番「英雄」と、第6番「田園」の

カセットテープを買ってきた。

そして気が向くと、

学校から帰ってきた私にそれを聞かせるようになった。

厳格で、体罰も激しかった父に対し、

それを「聞きたくない」と言う勇気は私には無かった。

2本のカセットテープのどちらを聞くか、

それを選ぶ権利だけは、私に与えられており、

私は、語感だけを頼りに

大概は「英雄」を選んでいた。

そのうち演奏時間が「英雄」の方が長いことに気付いた後は、

「田園」の頻度が大きく増した。

 

音楽室に飾ってあった

ベートーヴェンの気難しそうな肖像画と、

目の前で眉間に皺を寄せ、

その交響曲に聴き入る父の姿が重なって見えた。

実際に、顔のつくりも何となく似ていた。

 

自分で聞きたいわけでもなく、

ベートーヴェンの何たるかも分からないままに

ラジカセの前に座らされ、

あくびが出ると怒られる40〜50分の時間は、

小学生にとっては苦痛だった。

それでもベートーヴェンを嫌いにはならなかったのは、

その音楽が未熟な感性と魂にさえも

訴えかける力を持っていたからに違いない。

 

 

 

父のベートーヴェン熱は増すばかりで、

やがてカセットテープのコレクションには

交響曲第9番が追加された。

繰り返しそれを聞き、感動冷めやらぬ父は

「第9を歌いたい」と言い出した。

そして、地元で行われる第9のコンサートのステージに立つ

アマチュア合唱団のメンバーに、

自分だけでなく、母と私を加えた3人で申し込んだ。

 

当時、小学3年生だったろうか、まだ声変わりをしていない私は

ボーイソプラノとして、女性ばかりのソプラノパートに入った。

珍しさもあり、団員の皆様にはとても可愛がってもらったが、

私はとにかく、恥ずかしかった。

 

父も母もいわゆる音痴で、

練習時も、ピアノ伴奏に合わせて

きちんと音程を取って歌うことができなかった。

合唱団にとっては、単なるお荷物でしかなかっただろう。

練習への行き帰りの車の中で

「3人で合わせて歌ってみようか」と父が言い出すのが嫌で、

私はその日の学校での出来事などを矢継ぎ早に話すなど、

父の意識がそちらに向かないようにしていたが、

完全に第9にのめり込んでいる父を前にして、

大概の場合、その努力は水泡に帰した。

出鱈目な音程で歌われる両親の歌は

完全に和音が崩壊しており、

それに合わせるなどということは、土台不可能な話だった。

ガラクタをひたすらかき混ぜるような時間に

息が詰まりそうになると、

意味も無く車の窓を開け、外の空気を吸った。

 

町内会の皆でバスを貸し切り、

行き先はもう忘れたが

どこかの景勝地に観光旅行に行った時のこと。

バスに備え付けてあったのか、

誰かがカセットとラジカセを持ち込んだのかは分からないが、

カラオケ大会が始まった。

近所のおじさんやおばさんたちが演歌を熱唱する中、

私にもマイクが回ってきた。

その時父は、こともあろうに

「未来雄はベートーヴェンの第9を歌います」と誇らしげに宣言した。

私は無伴奏のまま、男声のみで歌われる行進曲の部分を歌わされた。

満足そうに聞いているのは父のみだった。

「なんだ、この嫌味な子供は」と言わんばかりの

父以外の大人たちの視線が痛かった。

「カラオケ大会の優勝は… 未来雄くん!」とアナウンスされ、

おざなりの拍手の中で

うまい棒がたくさん入った袋を商品に貰った。

皆の前で父が得意満面に袋を開け、

手渡されたスナック菓子を

私は喜んだふりをして頬張った。

 

そんな私にとっての最大の恐怖は、

第9合唱団への参加を、学校の皆に知られることだった。

コンサート当日も、上手く歌えるかどうかなどは二の次で、

私は同級生が聞きにきていないか、

ステージの上から客席を隅々まで入念に確認していた。

 

プロのオーケストラと共に

人類の至宝とも言える素晴らしい音楽を歌うという、

小学生にしては類まれな幸運を、

素直に喜ぶことができていない自分がいた。

 

 

 

小学6年では、「将来の夢」を聞かれたり、

それを書かなくてはならないことが増える。

私はまだ、自分の将来の夢が全く見えていなかった。

父はそんな私に「オーケストラの指揮者はどうだ?」と勧めた。

それはアドバイスというよりは、命令に近いものだった。

自分にそんな才能はないことは、既に百も承知だったが、

父の言いなりだった私はそれに従った。

 

 

 

父が私に注いでくれた情熱と愛情は、

まごうことなき本物だったと感じている。

強制的であったとはいえ、

様々な本質的な体験をさせてくれたことについて、

深い感謝の念もある。

今の私があるのは、確実にそのお陰だ。

 

しかし息子には、息子なりの考えも感情もあった。

 

 

 

 

 

ベートーヴェンという天才と、

音楽の持つ力が為せる業なのか。

2022年の大晦日。

私の意識は10時間以上をかけて

徐々に幼少時代へタイムスリップし、

セピア色の世界へと入り込んでいった。

 

そこにいた少年は、

真面目で、素直で、控えめで、健気な頑張り屋。

「歓喜の歌」をドイツ語で全て諳んじているが、

それを学校ではひた隠しにしている。

同級生の中では明らかに浮いていて

溶け込むことができない。

彼は父を尊敬し、必死にその期待に応えようとしながら、

同時に父を憎んでもいた。

 

 

 

それから40年の歳月が過ぎた、大晦日の夜。

 

絶えなる調べに心を浮かべながら、

私は、上手く自然に笑うことができず

いつも少し寂しい目をしているその少年に、

「よく頑張ったね」と心の中で語りかけていた。

そして彼を、ようやくしっかりと受け止め、

抱きしめることができた気がしていた。

 

 

 


 

 

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