萱草

 部屋の隅で雨の音を味わう。
食事をゆっくり咀嚼するかの様に雨の音を耳の奥へと連れていく。 今日も雨が降っている。

「いただきます。 」

モグ。 モグ。

部屋の真ん中に置かれた広いテーブルとひとつの椅子。その椅子に座る中学生の少し髪が肩ぐらいまである長さの男は、礼儀正しく顔の前に手を合わせ挨拶をした。 挨拶をすると手をテーブルの上に動かし、冷蔵庫の中に入っていた昨日の残りの肉じゃがをゆっくり食事した。

「……今日、雨、みたいだよ」

 部屋の隅で声をあげる。
か細くて、でも芯がある声を。
お願い、こちらを見て。という意志を込めて。 

「……」

無言で箸を動かし、ゆっくり咀嚼している。舌に染みる味をかみ締めながら、美味しいのか美味しくないのか分からない表情をしながら。そして決してこちらを見ない。 絶対に見ない。

「昨日も、雨だったじゃん。ほら、雨ってさ、本当に危ないからさ!今日は家に居てもいいんじゃないかな、日曜日だし。ね?」

箸が止まる。
お皿の上に残された人参は意味もなく取り残される。男は箸を箸置きの上に音を立てず置くと椅子から立ち上がり、隅の方に近寄ることはなくひとつ女の子用であるクローゼットへと足を運んだ。

クローゼットの中にある花の柔軟剤を使用し洗濯した白いパーカーは、少し綺麗な紅みを残して絵の具でアレンジされたかのように仕立てられていた。男はそれを見ると手を伸ばし、白いパーカーに着替える。  ゆっくりと。ゆっくりと。 急いでる雰囲気はなかった。
そして決して隅を見ない。

「…なんで、見てくれないの。帰って来なかったこと、怒ってる?」

その声にも返答しない。 
悔しくて歯を食いしばる。 

 この家に、彼とふたりで住み出して1年が経とうとしていた。逃げるように実家から飛び出し、小学生の時にちょこちょこ親の財布を漁り貯めてきたお金でアパートを契約して住み込んで過ごしていたのだ。

自分、そう、彼の姉である私は、双子の弟の彼とアパートでふたりで過ごしてきたのだ。 私は食事と買い出しを担当し、彼は洗濯を担当していた。

 実家は酷い所だった。 逃げ出せたのが本当に幸運であるぐらい、酷いところだったのだ。 まず男女差別が激しい。 私と彼の対応の差は傍から見ても分かるぐらい激しかった。 

両親は私にとても甘かったのに、彼には躾という名のものを何度もしていた。見ていられなかった私は彼を連れ出し、そして今に至ったわけだった。 

 連れ出した時の彼の顔をよく覚えている。まるで周りに花が咲いたかのような花笑みだった。 幸せそうな顔で、解放されたかのような顔で。私はずっと彼を守っていこうと思っていた。思っていたのに。

「……ああ」

手をみて、自覚する。
私は透明人間になってしまった。

 昨夜は凄雨だった。 しとりしとりと降る雨はそこまで強くない為、彼女は買い出しのとき傘を持たずに外出したのだ。 お会計をし、 早く帰って冷蔵庫に入れておいた肉じゃがとこれを温めて__。 そう考えていたとき、 雨の粒が車の窓ガラスを塗っていたせいか、またはボーッとしていたせいか、スピードを緩めない車が歩行者と信号が赤になってることに気づかず彼女に衝突したのだ。

猛烈な痛み。 覚醒する脳。 遮られる視界。

アパートまであと数歩。ほんの数歩。あと少しで着くところだった。家で待っている彼の近くで彼女は眠りに落ちる。数々の人々の視線の中に鋭い視線があったことに気づかず堕ちていく___。

 目を開けるとアパートの前だった。 あれ、生きている? そう錯覚してしまうほど自然な光景だった。 雨は止み、夜明け時。 彼女は急いで帰宅しようと歩を進めた。 扉の前まで息を荒くし走り、ドアノブをひねろうとした所で嫌でも気づいてしまった。 自分の手の色が薄く、そして微かに扉が手のひらが透けてみえることに。

 家の中にドアノブを捻らず入ると、廊下の奥の部屋で彼がベランダに立ち外を見ていた。 外を、みていた。 彼の背中をみて、胸が痛かった。 
胸を、痛くした。痛かった。痛い。痛い。

「……ごめんね……」

ごめんね、貴方を救えなかった。
幸せにしたかった。 幸せになって欲しかったのに。

 今日も彼を見ている。白いパーカーに着替え、黒くて長いズボンを履いた彼はゆっくり足を動かし外へ繋がる玄関へと向かっていった。彼女は部屋からはでない。彼の外出を見て、そしてここでゆっくり彼の帰宅を待つ。せめて幸せになるところを、私の後を追わないかだけを。 溢れ出す気持ちと出てこない涙に寂しさを残し、部屋の隅で声を殺してうずくまった。


















 ___昨夜、ベランダからこれからについて考えていた。 灯る星たちは今回は休ませてと雲に隠れ、その雲の後ろで泣いているかのように雨がしとりしとりと降っていた。 

「あの人、傘もってってないよなー」

長くなったボブの髪。着慣れない彼女の黒いパーカー服。傍から見たら女の子に見えるかもしれない。いや、見えるだろう。彼女の服を着てる理由は、自分の服が実家に置いてあるからだ。急に彼女から腕を引っ張られ連れ出されたので何も持ち出せなかった。持ち出せなくて仕方なかった。そう、仕方ない。仕方ないんだ。……仕方ない。にやけた顔でそう言っても、仕方ないで済ませられるだろうか。

「傘、もってって、なかったよな」

仕方ないんだ。 
仕方ない。







「事故で死なねーかな。」






この思考も、仕方ないんだ。

鼻歌を歌い、夜を合唱する。
帰りを待つ。帰りを待つ。  かえりを_______

違う。
斃(たお)れるのを待つ。待っている。
早く、早く早く。 早くしろ。 まだか。 
何て考えを遮るかの様に、歩道に彼女が立つのを無意識に視界に映した。

「……クソが」

視る。全て。ベランダから。
仕草、歩き方、走り方。 性格、私情、情緒、好物。 呼び方、接し方。 

そして映す。 車が彼女に衝突するドラマのような一部始終を。 この時の心情は覚えてない。

いや違う。 覚えている。 

高揚する心拍数。 跳ね飛びそうになる身体。 右手で口元を抑え、止められないニヤけと現実を受け止めるかのように目を見開き、彼女の遺骸に眼を、視線を弓矢で捕らえたのように突き刺す。 

止められない興奮をゆっくり抑え、ゆっくりベランダから部屋に戻り玄関へ向かった。 外はザワザワしてるが自分のやることはひとつだった。

パーカーのフードを被り、黒いマスクをし、雨の中、信号機の光を舞台照明にしながら彼女の遺骸に近づいた。 そして

剥ぎ取る。
服を、その白いパーカーの服を、少し赤く汚れてるそのパーカーを、そして綺麗な髪の毛も。 2本ちぎる。 剥ぎ取り千切る。 

剥ぎ取る。

千切る。

乱暴に。 皮を剥がすように。

焼肉で食べたい肉を蝕むように。
歓笑(かんしょう)しながら。

「ちょっとそこのひと!? なにを……!」 

甲高い老婆の声に青筋を立て、目を配らず声だけを張る。

「黙ってろババアが」

乱暴な口調は興奮している心情をあらわしている。常に冷静の自分がこんなに取り乱しているんだ、少しぐらい黙っててくれ観客。 お前らにこの物語を揺らされる訳にはいかないんだよ。

 服を剥がし、 無言で家に持ち帰っては洗濯機を作動させた。洗濯機をまわすとき、音が物凄く嫌いだったのに今この時はそうではなかった。そういえば遺骸を蝕んでいた時に降ってくる雨も憂鬱さを感じなかった。何故か。何故だろう。


 洗濯が止まり、肺いっぱいに柔軟剤の香りを実食する。美味しい。甘い。ついにくる。 物干し竿で洗濯したての白いパーカーを干すことをせずにロッカーにパーカーをしまう。 足取りは軽い 明日を楽しみに瞳を閉じる。

__迎えた朝は憂鬱さを全く感じなかった。むしろ幸福。この日を待っていたという感じ。 自然と笑みがこぼれる。閉じ込められていた感情が外に出る。 これを幸福というのだろうか。

 美味しくない食べかけの肉じゃがを皿の上に残し、ロッカーから白いパーカーを取り出す。すると、ふわっとした柔軟剤の匂いが鼻を擽った。

幸せなのに先程から聞こえてくる幻聴と幻覚が視界にちらちら映り、「今日は家に居てもいいんじゃないかな」とか訴えてくる。 狂った脳みそに幸福と呪いがついてきたようだ。 そんなこと気にしない。 白いパーカーにいそいそと着替える。いそいそと。いそいそと。そして、風に背中を押されるように外出する。まるでステップを踏むかのように地面を歩く。 気持ちの高揚に不思議と身体も適応していた。






「今までどこにいたの……!?」
「おい! あいつには何もされなかったか!?あいつに脅されたんだろ?そうなんだろ?心配していたぞ……!!!」

 焦った表情で冷や汗を垂らしながらこちらを見やる。 涙を溜め込んだその瞳をみて光悦に溺れた。
花の香りを漂わせ、彼女のような歩き方。彼女と同じような両親の接し方。 彼女の表情。 全てリスペクトしている。そう、この日の為に。

「お母さん、お父さん、"私"なら大丈夫だよ。 」

その一言にひとつの身体を2人分の重さに上乗せされる。 ああ重い、けどこの苦しさを待っていた。

「あなたの好きな肉じゃがを用意している。 あなたを待っていたの。早くきて、食べましょう。」 
「髪短いのも似合っている。自慢の"娘"だ。早く来るんだ、ご飯が冷える。」

苦しみから解放された彼女は、花笑みをこぼし、温められた家の中へ戻って行った。 

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