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学びの解像度について

ポッドキャスト番組で話された、為末大さんの言葉が印象的だった。次のようなことを語られていた。

走るという行為を、最初にやっていくと足が回っている感覚くらいしかない。
選手がだんだん(成長を)重ねていくと、「(足が)地面についている瞬間」、「空中に浮ている瞬間」と二分割できるようになり、さらに上の段階に行くと最終的には10個ぐらいのフェーズがある。足が回る0.2秒間の間に。そうなるとどの部分のどの問題かがわかってきて、それをいじればこうなるというのがわかってくる。それが分割されていない段階ではよくわからない。

「超相対性理論」#123

以前に、趣味でランニングをしていた時期があった。
始めのうちは、少しでもタイムが速くなるのがうれしかったことを覚えている。
どうしたら速く走れるのかと、動画を観たり本を読んだりしてみるが、うまくできない。
結局は意識の持ちよう?というところで、技術は向上しないままに、なんとなく足が止まってしまった。

一流のスポーツ選手は鍛錬の先に、研ぎ澄まされた感覚が身につくのだと知った。微細な差を検知し、それを一瞬で修正する能力が磨かれていくということに脱帽した。

「わかる」 ことは 「分ける」 こと

以前からよく耳にしていたが、実感がなかった言葉を思い出した。
わかることは分けること。

ニュースなどを聞いても、「へぇ~そんなことがあったんだ」と気になることはある。ただ、その社会的な意味や、歴史的な意義まではわからないため翌日には忘れている。
そこから突っ込んで、「どうしてその事件や現象が起きたのか」などと考え調べることで、より理解は深まる。
理解をする(わかる)ためには、よりその事象についてより細かい情報を得るということ、つまり解像度を上げることなのかもしれない。

具体と抽象を行き来する

何かを学ぼうとするとき、まずは全体像をつかみ、その次に中身を章立てに分けた文献や参考書を手にし、「分けられた」情報に接触しようとする。
内容をセグメント化することで、自分の理解しようとしている地点を確認し、そこと前後の情報を結びつけることで、また全体像を把握する。

たとえば英語学習であれば、構成要素の最小単位ともいえる「単語」が基本となり、それが2・3語でできる「イディオム」、そしてそれらの点を線でつなぐ「文法」(5文型や時制や仮定法など)に進み、面として文章の「英文解釈」に進むようなイメージがある。

先のポッドキャスト番組は、具体と抽象を行き来した議論が一つの魅力になっている。一見すると異なる分野の視点が、抽象化することによってアナロジー的に理解できる。
同じ一つの事象でも、切り取られる視点によって解釈が異なったりするのが面白い。

対話が得意な人の特徴

いろいろな話についていけるようになるためには、幅広い知識を持つことが重要なのか。
身の回りにいる(メディアで接触する)、対話が上手いと思える方を見てみると、何か特定の分野にものすごく精通した人が多い、と最近特に感じる。
それは、専門職(家)や研究者と呼ばれる、専門分野について解像度が高い方々は、具体的な話をより抽象化して話すことにも長けていると思えるからだ。
特定の分野における軸足がしっかりしている人は、どの異分野の人とであっても、横断的に対話ができるという能力をもっているのだろう。

このAIの時代に「知識を持つこと」の意義は変わりつつある。
広ければよいわけでも、深ければよいわけでもない。
とするならば、知識を持つことを超えた「思考力」が問われることになるだろう。
それは、一流選手が鍛錬により獲得できる、研ぎ澄まされた感覚から育つのだと信じたい。


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