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AIに仕事を奪われる事より私達の”AI化”の方が百倍ヤバい

近年のAIの進歩には驚かされるばかりです。今回は、時系列マネジメント術 ロジラテ思考マネジメント教室 飯田利男様の記事をきっかけに「AIでの代替」の本質ってなんだろうかと考え直してみた話です。ちなみに飯田様の記事はこちらです。

では早速。
単純作業がどんどん機械化されていく事は分かっていましたが、今や学習、分析、記憶といった高度な作業もAIで出来てしまうわけです。これは、頭を使う事が大好きな私にとって正直耳障りの良い話ではないです。何か用なしと言われた気分です。少し、うんざりしたような気持ちで、じゃAIで代替出来ないものとはなんだろうと考えてみると、やり方が全く解明されていないものと考えましたが、極論を言えば、人間という有限のリソースで出来ている事なんて遅かれ早かれいずれAIで代替出来ると言えると思うわけです。
ただ、こんな極論を言っても仕方がないので、一般的には、「どのタイミングでどういった部分がAIで代替されていくのか?」や「どういった仕事が代替されやすいのか?」といった事を議論しているのかと思います。ただ、その議論を一個人としてする場合、結局何のための議論なのだろうか?と考えるわけです。「この類の職業は将来AIに取って代わられる」と分かったから「こういう道に進んでおいた方が将来くいっぱぐれない」といった合理的な結論が導き出されるんでしょうかね?確かに将来を考え、合理的に行動する事は、計画的で、賢く、効率的かと思います。ただ、私たちは計画的で賢く効率的に行動するために生きてるんでしたっけ?

いつの間にか私たちの思考が機械化していないでしょうか?合理性を優先し、計画的で、賢く、効率的な行動を選択するなんて機械そのものではないでしょうか?
私たちは、幸せに生きたいだけじゃなかったんでしたっけ?その実現方法の一つに合理性を使うだけでしたよね?であれば、「AIが何を代替出来るようになるから私達はどうすべき」みたいな議論って的外れではないでしょうか?まず、大前提として自分が何をするのが楽しいから何をしたくって、何が嫌いだから何をしたくないかという点からスタートするのが自然だったはずです。そして、楽しいことをして、嫌いなことをAIにやらせて生きていく方法を考える。そこで初めて合理性を使い、実現可能な計画を立てるのが自然だったはずです。

まるで「機会様」と言わんばかりに迎合するなんて情けないです。せっかく感情で動き、愚かで、非効率的で、おまけに命に限りがあるという欠陥だらけで、愛しい人間という形で生まれてきたのだから、機械のものまねなんてやめて、人間らしく生きたいものです。

機械化が進む人間たちに届く事を願っております。

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