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これからの新海作品の話をしよう。―新海誠はなぜRADWIMPSを選んだか―

 この文章は、『青春ヘラ ver.2「音楽感傷」』に掲載されたものです。完全版は会誌に載っていますのでぜひお買い求めください。


……ずっとなにかを、誰かを探している
そういう気持ちに取り憑かれたのは、たぶん、あの日から
                                                                                         ――『君の名は。』

 Ⅰ 新海誠に人生を狂わされた

 中学2年生の夏、地元の小さな劇場で『君の名は。』を観た。
 監督の名前は知らなかったが、熱心なファンらしい友達に誘われて、半ば付き添いという形で観に行った。
 けれど、ラストシーンで三葉と瀧が再会し、『なんでもないや』が流れ始めた瞬間、誇張なしに「人生が変わった」と思った。劇場公開日に観に行ってその日から絵を描き始めたというこむぎこ2000氏[1]ほどではないにしろ、新海誠の創る世界があまりにも美しくて、それを自分でも生み出したいと考えた僕は、数ヶ月後に小説を書き始めた。今では、生活の節々に新海作品の影響が染み出ている。
 新海誠に人生を狂わされた者の代表などと大それた事を言うつもりはないが、あれから5年以上経って大学生になった今なら、当時の感情をうまく言語化できるのではないかと思った。もしかしたら、これまで学んできた全てはあの時の感情を言い表すためだったのかもしれない。
 本稿の目的は2つある。
 1つ目は、既に世に出ている新海評はそのほとんどが評論や批評の場数を踏んだ大人たちによって書かれた秀逸なものであり、自分ほどの年齢である人の書いた新海評が(僕の観測する限りでは)少なかったためである。特に、初めて触れた新海作品が『君の名は。』であった人間の新海評は少なく、さらに「Z世代」に当てはまる人間まで絞ればほとんど存在しないように思える。よって、たとえ未熟で荒々しくとも、これまで嫌というほど語られてきた新海作品を自分なりに見つめ直すことには公私ともに一定の価値があると考えた。
 2つ目は、新海作品 ── 特に『君の名は。』と『天気の子』── を扱う際に、音楽に着目した文章が比較的少なく、その中でもRADWIMPSの歴史や特徴に焦点を当てて考察した文章がごく少数であったためである。RADと新海の両ファンとして今こそ思いの丈を語るべきではないかと奮い立った。


 Ⅱ 新海誠との出会い、『君の名は。』の衝撃

 前章でも触れた通り、僕が新海誠と出会ったのは中学2年の夏だった。
 かなりのレアケースだと自覚はしているが、僕は劇伴・主題歌を担当したRADWIMPS(以下、RAD)から『君の名は。』を知った。中学1年の夏に『有心論』を聴いてすっかりRADにハマっていた僕としては、「RADが主題歌やるなら観に行くか」という軽いノリで映画を観に行った。
 アニメを観る習慣のなかった僕は「新海誠」という文字列を人生で見かけたことがなかった。感傷マゾを研究するような環境に身を置くと当然のように「全人類は『秒速5センチメートル』を履修済みである」と錯覚するが、これはもちろん間違っている。Twitterのアンケートで「『君の名は。』『天気の子』『言の葉の庭』以外の新海誠作品を見たことがありますか?」という質問を大学生以下にしたところ、約60%が「ない」と回答していた。
 本題に戻る。初視聴は友達3人と劇場で観たわけだが、同伴した彼らは『君の名は。』を絶賛していた。もちろん僕もあの映画を褒め称えたし、帰り道に円盤の購入を決意していた。
 しかし、同時に妙なひっかかりを覚えていた。『君の名は。』は作画も綺麗だし、ストーリーも好みだし、音楽も最高だった。だが、映画を観てからどこかおかしい。
 朝起きると、自分が泣いていないか確認する癖がついた。自分がずっと何かを、誰かを探しているような気がした。これらを「中二病」という言葉で片付けられれば簡単なのだが、話はフィクションに留まらず確実に僕の日常生活に浸食していた。
 そしてさらに不思議だったのが、一緒に劇場に赴いたはずの友人たちは何の症状も出ておらず、ただ1人、この世界で僕だけが違和感を抱えていたことだ。だからこそ、この感覚が後に「新海ウイルス」と名付けられて言語化されたときは鳥肌が立ったし、それ故に僕は感傷マゾに惹かれたのだと思う。『感傷マゾ vol.01』の座談会を引用してみよう。

スケア 「『君の名は。』の瀧君の“いつもどこかで何かを探している気が  する”という感覚を全員に植え付けている」
わく  「新海ウイルスだ」
スケア 「新海ウイルスに感染すると、“朝起きると何故か泣いている”状態になってしまう」[2]


 Ⅲ 逆流新海誠論

 これからの時代、新海誠を初めて知ったのが『君の名は。』からという人間はどんどん増えてくるはずだ。そしておそらく、そちらの方が被害はずっと甚大である。
 映画を観た後、ひとまず僕は『言の葉の庭』を視聴した。「『君の名は。』とは少しテイストが違うけれど、少し切ないハッピーエンドって感じで良いなぁ」くらいの感想だった。中学生の感想なんてその程度だ。順当にいけば次に取るべき行動は近くのTSUTAYAで『秒速5センチメートル』を借りることなのだが、田舎のTSUTAYAは品揃えが悪く、レンタルを行っていなかった。
 (二重の意味で)誠に申し訳ないのだが、その後の僕は結局、『言の葉の庭』以外の映像は観なかった。もちろん観たいと思ってはいたのだが、田舎在住も相まってどうしても手に入らない。インターネット配信で観るという選択肢は考えもしなかった。
 やがて時が流れ3年後、高校2年の夏に『天気の子』が公開されることとなった。すっかり『君の名は。』の虜になっていた僕は、それをきっかけにこれまでの新海作品をすべて観ることに決めた。そしてせっかくならばと貯金を使い、これまでの新海作品を全て購入し、『君の名は。』、『言の葉の庭』と公開が遅い順に遡り始めた。
 もうお分かりかと思うが、僕は最悪な流れで『秒速5センチメートル』を観る羽目になった。前章の座談会をもう少し引用しよう。

スケア 「今までの新海誠作品を見ていた人とそうでない人で、ラストの緊張感が全然違うよね」
わく  「ラストの雪の日に瀧君と三葉がすれ違ったシーンは、サメ映画で船の外に鮫がいるのに「こんな場所にいられるか!俺は海を泳いで家に帰るぞ!」と叫ぶおじさんが出てきた感じで、あ、ヤバいヤバいってなっちゃう」
スケア 「今まで、新海誠作品で、最後に再会する作品はなかったよね」

 以前から新海誠を知っていたオタクたちは『君の名は。』の最後、雪降る歩道橋で瀧と三葉がすれ違うシーンで「緊張した」と語るが、僕はまったく逆だった。
 〈瀧と三葉〉、あるいは〈ユキノとタカオ〉の例しか知らない僕は、新海作品では最後に男女が出会ってハッピーエンドがセオリーだと思っていた。だから、秒速のラストシーンでは当然のように明里と目が合うと思っていたし、いなくなった明里を追いかけると思っていた。緊張感とは無縁。むしろホッとしていたかもしれない。
 結果として僕の期待は盛大に裏切られたわけだが、それにしてもあの結末には腰を抜かした覚えがある。鬱々とした内面描写は山崎まさよしの『one more time, one more chance』によってかき消され、緻密に描き込まれた美麗な背景に、桜吹雪く穏やかな春の日。そんな舞台設定で、どうしてあんなに気味の悪い顔ができるのだろう。一体なぜ、瀧くんのように追いかけないのだろう。遠野貴樹という人間が急激に怖くなってきた。どこか腑に落ちないまま終わってしまう美しい世界を目の当たりにして、頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。「ごめんね、これが僕の本性なんだ」と、不気味な笑み交じりに喋りだす新海誠の顔を容易に想像できた。そこで僕の人生が少し狂ってしまった。
 初めから『秒速5センチメートル』で新海誠を知っており、その後で『君の名は。』を知った人間と、その逆を辿った人間。どちらの方がショックが大きいのか、僕の必死の言い訳で少しでも納得して頂けただろうか。ゆっくりと天に昇るのと、天から急激に落下するのでは後者の方が心臓に悪い。
 現在、僕が最も好きな新海作品は『秒速』だ。大学生になってから通算50回はこの映画を観た。『秒速』が一番好きと言えてしまう自分が死ぬほど嫌いで、死ぬほど大好きだ。

 Ⅳ RADWIMPSと新海誠

 さて、ここまで新海ショックについて自分勝手に語ってきたが、そもそも『君の名は。』を観る直接的なきっかけとなったのは音楽を担当したRADWIMPSというバンドである。念のため説明しておくと、RADWIMPSは4人組のロックバンド(ドラムの山口が2015年9月、ギターの桑原が2021年9月より活動休止を発表している)であり、僕は彼らの『有心論』という曲を中1で聴いて以来、今でもずっと信奉している。
 『君の名は。』に関する論考はこの世に数多あれど、「なぜRADWIMPSだったのか?」という根本的かつ不可避な問いに言及したものは比較的少ない。
 2021年秋に刊行された同人誌『ferne』において柴那典氏は、「いわば音楽とアニメの関係をめぐる転換点が、山崎まさよしとRADWIMPSの間にあった」としながら、山崎まさよしが新海と共同制作を行うに至らなかった理由を「物語(アニメ)と音楽の関係を大きく変えた」BUMP OF CHICKEN(以下、BUMP)よりも以前のミュージシャンだったからとしている[3](つまり、RADが選ばれた理由はBUMP以降のミュージシャンだからとなる)。
 本稿はBUMPについて深掘りしないが、BUMPとRADの対比については藤田華子氏による「『君の名は。』の主題歌はなぜBUMPでなくRADWIMPSなのか?」[4]に詳しい。
 この記事で藤田氏は、BUMPが老若男女に向けられた〝みんなのロック〟を歌うバンドである一方、RADは「君と僕」にフォーカスしたいわゆる「セカイ系」的なバンドであり、それこそがRADが選ばれた理由だと述べている。セカイ系的な要素が新海とRADを結びつけたという点は、僕も大いに同意する。
 他方で、新海とRADを「セカイ系」というワードのみで結びつけるのはやや不充分に思える。そこで提案したいもう一つのテーマが、「身体性・触覚性」である。
 北出栞氏による「そこに「孤独」の位置はあるか?――新海誠とRADWIMPS、そして『天気の子』」というブログ記事では、

 RADWIMPSはライブ――オーディエンスとの「いま、ここ」における接触的経験――に重きを置いたバンドであるということはもちろん、楽曲単位でも触覚性を強く喚起させるバンドである。それはとりわけ歌詞表現に顕著だ。ソングライティングを手がける野田洋次郎の紡ぐ言葉は言葉遊びに満ち溢れており、ラップ調の歌唱で膨大な言葉が矢継ぎ早に掃射される。またラブソング(恋人同士だけでなく、母子の関係も含む)において「遺伝子」という単語を多用し、(恋)愛と生殖を直結させることに象徴的だが、その言葉の感触は非常に「即物的」である(言い換えれば、迂遠なほのめかしによる「エロさ」はほぼないと言っていい)。[5]

 とRADが評されており、彼らの接触性、あるいは(物理的な身体・接触への強い執念という意味での)フェティシズムが新海誠と重なったと語っている。
 この一文を手がかりとし、以下では ①触覚性 ②セカイ系 の観点からRADと新海誠の共通点を探りたい。

 1 触覚性

 前章で引用した北出氏の文章には、以下のような記述も見受けられる。

  新海が触覚性へのフェティシズムを前面に押し出し始めた時期(2010年代前半)というのは、スマートフォンが十分に普及した時期と重なる。タッチパネルによる情報の送受信、「触覚性の時代」に対応させるようにしてキャラクター描写にも自然描写にも触覚性を充溢させていき、それを前提とした上で新たな作劇を模索しているように見えるのだ。すると、『君の名は。』における身体の入れ替わりや時間のズレというアイデアも、こうしたメディア環境的な現状認識への対応として生み出されたものだと考えられる。「身体はそばにいても、心は離れている」ことは『言の葉の庭』でやった。では次は? というように。

 新海の「触覚性」とは、いわば「離れていてもどこか繋がっている、不可視だけれど確かな感覚」と言い表せる。この感覚は、西田谷洋氏の著書『ファンタジーのイデオロギー』にて解説されている「新海様式」にかなり近い。

  主人公は常に一定の抒情で世界を把握=表象し、他者の存在を意識化・方向付ける。主人公と恋の相手は顕在化された現実世界ではなく内的世界で予め接続し、その紐帯を確認することで主人公は生きられる。[6]

 当然、それは『ほしのこえ』の〈ノボルとミカコ〉、『雲の向こう、約束の場所』の〈浩紀と佐由理〉でも充分に描かれてきたわけだが、北出氏の文章の通り『君の名は。』ではより分かりやすい形でテーマとして描かれている。田舎の女子高生と東京の男子高生の身体が入れかわるという設定は物理的断絶を埋める役割を果たし、相手を他者として認識できない(相手の姿は入れ替わった状態でしか認められない)ためにそれは「不可視」である。重要なテーマの一つである組紐は、それを手渡した三葉と覚えていない瀧を繋ぐ「不可視な繋がり」である。
 ただし、注意しておきたいのは、新海作品においてその強い繋がりを少年と少女の両者が必ずしも認識している必要はないことだ。有り体に言えば、「片想い」でも「両片想い」でも成立する。新海作品というラベルが貼り付けられた時点で、作品内のキャラクターは「最終的には純粋に繋がりを信じている」前提条件が付与されるため、その上で「彼女はきっと僕のことなど歯牙にもかけていない」と振る舞うタカオは何ら新海様式から逸脱することはない。もちろんタカオも最後にはユキノを信じ抜いている。相互的認識の不必要性は、『新現実』に収録されている『塔のむこう』という短編漫画のフレーズが分かりやすい。

 高校は楽しい。
 彼氏はいないけど、好きな人はいる。
 その人は他校の生徒で
 話したこともないけれど、
 でもあたしは、
 その人から誰かを好きになるっていう気持ちを
 もらえているだけで幸せだな、って思う。[7]

 天気の良い6月の朝。いつも通学に使う電車に乗らず、遠くに見える塔まで歩いて行くことがテーマとなっているこの作品は新海誠のコアを描いたような作品で、彼の作品の多くがこの短編をベースに派生していることが分かる。引用の通り、本当に重要な点は「信じられる誰か」ではなく「誰かを信じている自分」であり、この点は感傷マゾの姿勢にも似通っている。

 また、もう一点重要な観点として、新海誠の「現実」の捉え方に着目したい。
 SF感の強かった『ほしのこえ』、『雲の向こう、約束の場所』、『星を追う子ども』を終え、『秒速5センチメートル』以降は一貫して現実に拘った作品を出し続けている。インターネットやスマートフォンの発達の流れに乗る細田守とは異なり、『君の名は。』でスマホはほとんど日記としてしか使われず、オンライン・リアルタイムでの使用はほとんど描かれない。『天気の子』では、SNSではなくYahoo!知恵袋を使うなど、やはり現代的なスマートフォンの使用とはズレを感じる。
 『ほしのこえ』、『秒速』では鍵となっていた携帯端末による結びつきは、インターネットを兼ね備えたスマートフォンの登場以降は鳴りを潜めている。
 その代わり、瀧は三葉に新幹線で直接会いに行くし、帆高は審判を受けた後も陽菜と連絡を取らずに直接再会しようとする。まさに〝「いま、ここ」における接触的経験〟を重視した作品作りが、特に『君の名は。』以降色濃く意識されており、その意味でRADの与えた影響は多大だったと言える。
 では問題の、RADにおける触覚性・繋がりとはなんだろうか。そもそもRADの歌詞は、ボーカル/ギターの野田洋次郎がすべて担当している。ここで、印象的な歌詞をいくつか引用したい。まず、「目には見えないけれど確実に繋がっている」という新海の感覚に近いのは以下のものがある。

 大切さを教えてくれるのはこの距離です
 だってこの距離を無限にすら感じるのです
 悔しいけどこの気持ちがあなたを好き
 な何よりもの証明なの
                            ――『遠恋』

 六星占術だろうと 大殺界だろうと
 俺が木星人で 君が火星人だろうと君が言い張っても
 俺は地球人だよ
 いや、でも仮に火星人でもたかが隣の星だろ?
 一生で一度のワープをここで使うよ
                         ――『ふたりごと』

 『遠恋』では「君が好きだと言えるこの気持ちは遠く離れた距離によって実感できた」といった、いかにも新海誠の言いそうな歌詞が組み込まれている。新海作品を鑑賞する際にRADの歌詞を思い出すことが多い僕は、『ほしのこえ』を初めて観た時も『ふたりごと』の歌詞を想起していた。離れていても絶対に繋がっていると愚直に思い込むことこそが新海作品及びRADの重要なエッセンスではないだろうか。
 一方、不可視な繋がりとはまた別に、野田の歌詞は、腕や目など身体の一部を何かに喩えて「君と僕」の繋がりを表現し、愛情を歌うことが多い。この意味で、RADは単に繋がりを意識するだけでなく、身体性の絡む繋がりが歌詞に多く登場する。

 またまた僕はお願いしたんだ
 「恐れ入りますがこの僕には
 右側の心臓はいりません
 わがままばかり言ってすいません」
 僕に大切な人ができて
 その子抱きしめるときはじめて
 二つの鼓動がちゃんと胸の
 両側で鳴るのがわかるように
                       ――『オーダーメイド』
 この眼で この腕で 君のこと見つけたんだよ
 そして君で 君の手で
 ねぇそうだよ僕は僕の形が分かったよ
 僕は僕と はじめて出会えたの
                         ――『ものもらい』
 今からあなたのもとへ走るよ
 足がちぎれ落ちるのも忘れるよ
 五体が届かなくとも この脈打つ心臓を見てくれ
 あなたがいるから鼓動を刻みあなたがいるから紅く染まるよ
 あなたがいるから僕は生きられる 
 あなたがいなけりゃ僕は…死んでるよ
                            ――『心臓』


 あるいは、本来ならば親子愛を伝える際に用いられそうな「遺伝子」という、よりスケールの大きい単語も扱われる。「君と僕」というミクロな関係性を「遺伝子」などのキーワードをもとにレベルを拡大し、最終的に「宇宙」や「世界」などの巨大な存在と接続する手法は野田の得意とするところだ。

 僕が例えば他の人と結ばれたとして
 二人の間に命が宿ったとして
 その中にもきっと 君の遺伝子もそっと
 まぎれこんでいるだろう
                         ――『me me she』
 いつか生まれる二人の命 その時がきたらどうか君に
 そっくりなベイビーであって欲しい
 無理承知で100%君の遺伝子
 伝わりますように 俺にはこれっぽちも似ていませんように
 寝る前に毎晩 手を合わせるんだ
                       ――『25コ目の染色体』

 『25コ目の染色体』は遺伝子で愛を伝えようとしていながら、同時に母親に対する愛情を恋人に重ねて二重の愛を伝えようとしているように見える。野田の歌詞ではしばしば(ほとんどが母親に対する)親子愛と恋人に対する愛が同列のものとして扱われることがあり、『Tummy』ではいずれ母となる恋人に対する愛情の変化が「生まれてくる子供に嫉妬する」という形で表現されている。

 個人的な解釈では、『言の葉の庭』よりも前の新海作品で露骨に「身体的繋がり」が見られた作品は少ないように思える。靴という直接的に身体に関わるアイテムが登場する『言の葉の庭』では、主人公のタカオがヒロインであるユキノの素足に触れるシーンで音楽も相まって壮大な情景描写がなされた。しかし、『君の名は。』は物理的・時間的に三葉と瀧が断絶されているため、直接的な触覚性・身体性を描くことは難しい。だからこそ、これまで触覚性・身体性を意識した曲作りを続けてきたRADWIMPSという文脈を借りることによって、「離れていても繋がっている」を表現しようとしたのではないか。
 例を挙げるならば、糸守町を救うために瀧が三葉と入れ替わった際、三葉の胸を触りながら号泣するシーンではRADの影響を如実に感じたし、口噛み酒を飲んでタイムスリップするシーンでは、『ブレス』の

 その瞳から零れる涙は落ちるには勿体ないから
 意味がなくなら異様に そのコップに溜めといてよ
 それを全部 飲み干して みたいよ

 という歌詞を思い出した。なお、瀧は口噛み酒を飲む際、「三葉の半分」と言っており、これはある種の ―『オーダーメイド』的な― 身体性が絡む繋がりと言ってもいいかもしれない。そういった発見が多々あったからこそ、『君の名は。』はRADが音楽を担当していることに充分納得できる。特に、新海誠は『君の名は。』以降、音楽のために本編を改編するほどの音楽重視スタイルに移行している。[9] 
 とすれば、RADのコアである野田洋次郎の影響が分かりやすく新海作品に染み出ているのは当然と言え、もはや「脚本:新海誠&野田洋次郎」としても不自然ではない。

 2 セカイ系

 この文章をお読みの方に改めて説明するまでもないが、新海の作品群はしばしばセカイ系の代表例とされる。軽く定義を確認しよう。Wikipediaの説明では、『美少女ゲームの臨界点』を引きながら以下のように定義している。

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと[10]

 本人の思惑はともかく、新海作品をセカイ系の文脈で考察することは、先行研究が多すぎてもはや無意味のように思う。であれば、RADWIMPSにセカイ系的要素を見いだしてみよう。まずは2つ、歌詞を引用したい。

 あなた一人と 他全人類
 どちらか一つ救うとしたら
 どっちだろかな?
 迷わずYOU‼‼
                           ――『ます。』
 君がいなくなったら
 きっと世界も終わる
 だって世界は 君の中でしか廻れないから
 君が楽しいんなら
 きっと世界も笑う
 だって世界は 君の中にしか映れないから
                           ――『救世主』

 『ます。』ではセカイ系の「決断」的要素、『救世主』では「君と僕」の関係が「世界」という巨大な存在に結びつく様が見られる。
 そもそも、野田は『有心論』のリリースまで、RADのことを「オレが彼女に好きと叫ぶ装置だった」と断言している。[11]
 しかし、そんな彼女との関係が不安定になり出し、野田はスランプに陥る。しばらくして諸々のプライベートが変化し、苦悩の末に生み出された新境地が先程も歌詞を引用した『オーダーメイド』だった。
 RADの才能を見出し、長年導いてきた渡邉雅敏氏は『オーダーメイド』の歌詞を読んだ当時の様子を、

 ずっとRADは、「僕」と「君」の一対一の世界を究極まで突き詰めてきたけれど、ここでは「僕」と「世界」の一対一を突き詰めようとしているようだった。[12]

 と語っている。『ます。』が発表されたのは2006年で、『救世主』は2011年。その間に挟まるように『オーダーメイド』が2008年にリリースされている。
 かねてよりセカイ系と呼ばれる作品を読んだり見たりして、主人公がセカイではなくヒロインを選んだとき、僕はその強さに愕然とすることが多かった。
 その時の感情を敢えて言語化するならば、それは嫉妬なのかもしれない。その強さが欲しくて、立場とか被害とか、些末な損得勘定抜きで好きと言えるのが、僕には羨ましかった。
 だからこそ言えるが、「君」を選ぶというのはかなりの「強さ」がないと難しいことだ。そして、前までは迷わず「君」を選べていたはずのRADも、次第に向き合う対象が「君」ではなく「世界」に傾いていく。2011年には東日本大震災が起こり、2015年にはドラムの山口が持病の悪化により休止となった。RADの強度に限界が見え始めていたのだ。[13]
 そんなRADが再びその「強さ」を取り戻したのがまさに2016年の『君の名は。』だったのではないだろうか。改めて「君」を選べるまでに回復したのだ。劇中歌である『なんでもないや』では「君のいない世界」を「夏休みのない八月のよう」と喩えて「君」を選んでいる。
 『君の名は。』の主題歌が『前前前世』であることは言うまでもないが、本来ならば主題歌は『光』という曲になるはずだった。野田の意向に反し、最終的には監督判断で『前前前世』が主題歌として採用されたわけだが、『光』が逃避行を意識した歌詞である一方、『前前前世』では「君を探し始める」といった、より「君」を選ぶことが重視されている。
 RADのセカイ系的な要素(「君と僕」の関係性に代表される)を見出して新海が音楽担当に抜擢したのは一因として間違いないが、それはRADにとっての救いでもあり、再び「君」を選ぶことができるようになった契機でもあった。同時に、新海はRADのそんな部分を求めていたのだろう。言ってみれば、『オーダーメイド』以前のRADをオーダーメイドした映画を作りたかったのだ。
 かくして映画は大ヒットを記録し、RADは再び前を向き始める。その証拠に、より深層で共鳴し合った両者は、次作である『天気の子』でさらに分かりやすくセカイ系の構図をとり、ラストではより強かにヒロインである陽菜を選んでいる。その余波は歌詞にも如実に表れ、劇中歌である『大丈夫』では、

 世界が君の小さな肩に 乗っているのが
 僕にだけは見えて 泣き出しそうでいると
 「大丈夫?」ってさぁ 君が気付いてさ 聞くから
 「大丈夫だよ」って 僕は笑って言うんだよ

 と歌う。野田にとってはもはや「世界」など問題ではなく、「君」の肩に乗るほど些細な話でしかない。『ます。』で迷わず「君」を選べていたあの「強さ」を、RADはようやく取り戻したのだ。そこには、彼女と喧嘩して音楽ができないと嘆いていた野田洋次郎や、いつまでも感傷に浸って自省を続ける主人公はいない。


 Ⅴ これからの新海誠の話をしよう

 ところで、僕は2019年8月23日に地元の映画館で行われた『天気の子』の舞台挨拶に足を運んだ。そこで新海は、「あと2・3作だけ出したら昔のような落ち着いた作品に戻すかもしれない」という風なことを述べていた。先日告知された2年ぶりの新作である『すずめの戸締まり』はそこに至るまでの軌跡としてどのような役割を果たすのか今後も要注目である。
 一方、RADは2021年秋に史上最高との呼び声も高いアルバム『FOREVER DAZE』をリリースし、人気も技術も留まることを知らない。
 しかし、忘れてはならないのは、両者の根底に見られる「どこかで僕らは繋がっている」という意識であり、最後に戻ろうとしている場所はそこであるという事実だ。それは新海が「昔のような落ち着いた作品」をほのめかしたところにも見て取れるし、なにより「RADWIMPS」の意味は〝かっこいい弱虫〟である。バンドがどこまで大きくなっても、根っこには矮小な「僕」がいる。それこそがRADらしさであり、彼らの背負ったカルマなのだと思う。
 今回改めて感じたのは、自分は新海誠とRADに心底惚れ込んでいるという事実だった。彼らの描く世界が、日常が、人間が美しくて、どうしても憎い。ここまで両者の共通点などについて好き勝手語ってきたが、根本にあるのはアーティストとして両者が「好き」という純粋な気持ちだけだ。

 準備は整った。さて、
 これからの新海誠の話をしよう。


【注】
1「NEE くぅ×こむぎこ2000 対談 「不革命前夜」MV制作から紐解く“好奇心を刺激するものづくり”とは?」(Real Sound)、https://realsound.jp/2021/09/post-849580.html(二○二一年一二月二四日最終閲覧)。
2わく/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン、スケア、たそがれ、かがみん「感傷マゾ4周年記念座談会」、『感傷マゾ vol.01』、私家版、二〇一八年。
3柴那典、渡邉大輔、北出栞「「セカイ系文化論」は可能か?――音楽・映像の交点からたどり直す20年史」、『ferne』、私家版、二○二一年。
4藤田華子「「君の名は。」の主題歌はなぜBUMPでなくRADWIMPSなのか?」(GetNavi web)、https://getnavi.jp/entertainment/72856/(二○二一年一二月二四日最終閲覧)。
5北出栞「そこに「孤独」の位置はあるか?――新海誠とRADWIMPS、そして『天気の子』」(Hatena)、https://sr-ktd.hatenablog.com/entry/tenki-no-ko(二○二一年一二月二四日最終閲覧)。
6西田谷洋『ファンタジーのイデオロギー』、ひつじ書房、二〇一四年、一一六頁。
7新海誠「塔のむこう」、『新現実 Vol.01』、角川書店、二○○二年。
8『新海誠の世界』で榎本正樹氏は〝新海作品のほとんどが、「『半分』が『半分』と出会う物語」の形式をとる。〟と述べ、その特徴が「僕」(半分)と「彼女」(半分)の二項によって成立するセカイ系とリンクする、としている。
9『特集*新海誠――『ほしのこえ』から『君の名は。』へ』、(「ユリイカ」、青土社、二○一六年)にて新海は、〝RADWIMPSの音楽がかかる瞬間のためにシーンを積み上げているようなところも多分にあります。〟と述べている。
10「セカイ系」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB(二○二一年一二月二四日最終閲覧)。
11渡辺雅敏『あんときのRADWIMPS』、小学館、二○二一年、一七八頁。
12同書、二三四頁。
13『マイウェイムックRADWIMPS~軌跡~ デビューから「君の名は。」そして「人間開花」まで、珠玉のエピソード集』、マイウェイ出版、二○一七年、三一頁。

【参考(引用以外)】
『新海誠監督作品 君の名は。 公式ビジュアルガイド』、KADOKAWA、二○一六年。
前島賢『セカイ系とは何か』、星海社文庫、二○一四年。
野田洋次郎『ラリルレ論』、文藝春秋、二〇一五年。
新海誠『小説 言の葉の庭』、KADOKAWA、二〇一六年。
新海誠『小説 君の名は。』、KADOKAWA、二〇一六年。
新海誠『小説 秒速5センチメートル』、KADOKAWA、二〇一六年。
新海誠原作、加納新太著『小説 雲のむこう、約束の場所』KADOKAWA、二〇一六年。
新海誠原作、大場惑著『小説 ほしのこえ』、KADOKAWA、二〇一六年。
新海誠原作、あきさかあさひ著『小説 星を追う子供』、KADOKAWA、二〇一七年。
新海誠『小説 天気の子』、KADOKAWA、二〇一九年。
ムジカ 二〇一八年一二月号、FACT、二○一八年。
ムジカ 二〇二一年一二月号、FACT、二○二一年。
『秒速5センチメートル十周年記念本 タイムカプセル』、私家版、二○一七年。

※縦書きを想定した論考であったため、RAD、BUMPなどの表記及び数字は半角に修正したほか、都合により構成が一部変更されております。

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