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「青春ヘラ」とは何か?

「青春ヘラ」は、2021年6月12日に大阪芸大哲学コミュニティすみれの会の織沢さん、京都大学感傷マゾ研究会の竹馬くんと共にツイキャスで行った対談企画で初出した言葉である。


 とはいえ、言語化したのが初めてと言うだけでこの構想自体はずいぶん前から頭の中にあった。感傷マゾを知った上でこの新たな概念を作らざるを得なかった理由は、他でもない私が感傷マゾに対して完璧に符合する人間ではなかったからである。


 まず一番の問題は、感傷マゾを自分に当てはめた際の「マゾ」性の希薄さであった。確かに、自分が感傷的になって自傷行為を重ねることに快感を見いだしていることは間違いない。しかし、そのマゾヒズム的な快感の得方が、従来の感傷マゾの語り手であった上の世代と比べると微妙に違うように思い始めた。

 さらに、マゾヒズムの研究と称してジル・ドゥールズの『ザッヘル=マゾッホ紹介』のレジュメを読み進めていくうちに、自分が真にマゾヒズムを語り得る人間ではないことも明らかになった。要は、マゾヒズムにも多様なレベルがあり、自分はその初級レベルでしかないということだ。この理由を考えると、私が感傷マゾに触れるきっかけが「感傷」からの経路だったからというのが挙げられる。


 「感傷」から感傷マゾに入った人間と、「マゾ」から感傷マゾに入った人間では根本的な部分が大きく違っている。案外、この入り口の違いは虚構エモとの区別においても関わってくるのかもしれない。「虚構エモ」は、『感傷マゾvol.1』でスケア氏が発案した造語である。自虐的なマゾ要素が薄く、作り物っぽいエモ(例えば、ヨルシカのMVやloundraw氏のイラストのような)ものに対しても感傷マゾと名前をつけることを疑問に思い、区別されるために作られた単語である。

わく  「「感傷マゾ」という言葉で検索してみると、単純に「概念っぽくて偽物っぽいエモさ」を「感傷マゾ」と呼んでいる人が多い気がして、自虐的なマゾ要素を持つ人は少ない気がする」
スケア 「感傷マゾというか、感傷エモみたいな」
たそがれ「作り物っぽいエモを、感傷マゾと呼んでいる人が多い気がしますね」
スケア 「多分、それは「感傷マゾ」より「虚構エモ」と呼んだ方が腑に落ちるね」


 感傷マゾと虚構エモの区別の話はここでは深掘りしないが、虚構エモは理想的な青春への羨望を糧にしているために感傷マゾより純粋なイメージがある。ともかく、私の抱いている感情は、感傷マゾよりは少しマゾ要素が薄く、虚構エモよりは不純といった具合に、ちょうど中間項として存在している。敢えて中間項という言葉を使ったが、この考え方自体も余り適切ではない。虚構エモと感傷マゾは対立概念ではないし、連続するスペクトルでもないからだ。では、どうすればよいのか。先日、ひょんなことからわく氏にインタビューをさせていただく機会があったのだが、そこでいただいた助言をもとに考えを固めた。三次元のグラフを用いればいいのだ。

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 X・Y・Z軸にそれぞれエモ、マゾ、感傷を割り当てた。「虚構」を抜いたのは、3次元の限界ゆえではなく、今の若者にとってもはや虚構かどうかは問題にならないからだ。ごく一般的な感傷マゾ的エピソード(夏休みに田舎に帰省するなど)すらも気候変動などの影響でフィクションになっている。現実と虚構の区別など意味をなさない昨今ではこのグラフにおける虚構性は問題にならない。空間a,b,cをそれぞれ感傷マゾ、虚構エモ、青春ヘラと分類できる。(引用の通り、虚構エモも最初は感傷エモと言う名前だったので、ここでは感傷エモ=虚構エモとして扱う)


 さて、ここで改めて青春ヘラという概念について詳しく記述したいと思う。そもそも私が感傷マゾ研究会というサークルを作ろうと思った理由は、「自分と似たような人間と知り合いたい」という単純な理由だった。要は、傷のなめ合いである。感傷マゾは共有すべきでないという意見もあるが、個人的には他人のエピソードも自分の感傷の材料になり得るので、積極的に交流すれば良いと思う。

 本題に戻ろう。意を決してサークルを作り、自分と似たような境遇の人間が来るのを待ち望んだ。結果、集まったのは感傷マゾヒストというより、「青春敗北者」達だった。会員と話していると、「感傷は好きだけれどマゾまではいかない」という声をよく聞く。感傷の部分が強調されている時点で虚構エモではなさそうだが、マゾまではいかないので感傷マゾでもない。ちょうど仲介する存在が必要だった。その結果生まれたのが、青春ヘラだ。名前をつけて言語化すると、次第に自分も青春ヘラのきらいがあることに気づいた。自分で考案した概念なので当然だが、驚くほどしっくり自分に当てはまるのである。


 青春ヘラはその名の通り、過去に青春できなかったことに対する後悔が軸となっている。そこから自己嫌悪に繋がり、感傷、快楽といった経路は感傷マゾと変わらない。異なる点は、「ヒロインに本質を見抜かれて罵倒されたい」といった、性的な要素(マゾヒズムが性的嗜好であるという意味で)が少ないこと、また、より厳密な自己完結ができる点にある。青春ヘラの場合、ヒロインという装置を利用せずとも、ダイレクトに自己愛に帰着することができる。感傷マゾがヒロインからの糾弾を通して自己愛を満たしたのに対し、青春ヘラは完全な自己完結を特徴とする。

 これができるのは、基本的に青春ヘラが「自意識の化け物」だからである。例えば、高校の文化祭中に教室でラノベを一人読んでいた経験があり、それが「自分が拗らせていたせいで青春できなかった」と嘆く大学生がいたとする。しかし、心のどこかで「他人と違うことをしている自分がかっこいい」、「文化祭ではしゃいでいる奴らと違って俺は大人だな」という、自己愛を感じてしまっているのだ。アイデンティティだとすら思っているかもしれない。


 このように、「○○がないこと」ことをアイデンティティにするのは本当に危険で、青春ヘラに直結してしまう可能性がある。「インスタをやってない」、「友達が少ない」、「スタバにいったことがない」といった消極的事実をアイデンティティにしてしまうと、自虐を自己愛に変換することに慣れてしまい、拗らせているなんて言葉じゃ救えなくなってしまう。感傷マゾが切実に存在しない青春を希求する一方、青春ヘラは「最悪、存在しなくてもいいや。それがアイデンティティになるし」と言った具合に、より強度の諦念を生み出し得る。異常なまでの自己愛こそが、感傷マゾと区別されるべきポイントではないだろうか。


 では、虚構エモとの違いは何か。これは簡単で、一般的な高校生と拗らせている高校生をそれぞれ考えてみて欲しい。理想的な青春像を見たときに、「こんな青春したかったな」と憧れのまなざしをむけるのが一般的な高校生である一方、憧れだけでなく諦念やルサンチマンまで抱くのが拗らせた高校生である。そしてそれらが最終的に自虐に繋がる。なぜなのか。自分が大好きだからだ。
 そもそも自虐という行為自体、自分が大好きでないと行えない。自己防衛の一種とも言える。他人に自分の弱さを指摘されることを恐れ、封じるための行為だ。毒で殺される前に弱体化した毒を飲んでおく行為にも似ている。ワクチンみたいだ。

 とにかく、自虐とは自己愛の裏返しである。自虐を行うために口から出る妬みや諦めの言葉は、自虐に至るための材料のようなものだ。その点を、私は青春ヘラ特有の不純さだと思っている。

 最後に、青春ヘラという名前の由来を話しておこうと思う。(本来は最後に話すべきではないが……)

「ヘラ」というのは、「ヘラる」というミームから拝借した。「ヘラる」という言葉自体、メンタルに異常のある人を指す「メンヘラ」という単語から派生しているので、正確には「メンヘラ」から拝借したというのが正しいかもしれない。

 そもそもの「メンヘラ」の由来が、「メンタルヘルス」に異常がある人間に対して、人物を表す”er”がついてできた造語であるが、次第にヘラーの部分のみが独立し始めて、「ヘラる」といった単語が生まれた。

 結果、「ヘラる」=病む、落ち込む などの意味が付け加えられた。


 これらの事情を基に、「青春を拗らせている状態」として造った言葉が、「青春ヘラ」であったというわけだ。我々の追い求める青春の動向に、今後も目が離せない。

P.S.
青春ヘラは、最終的な姿勢のあり方で「青春コンプレックス」と区別される。試しに「青春コンプレックス」で検索をかけると、トップには以下のような記事が見つかる。

 これらの記事に共通してみられる「克服」「解消」のワードは、「コンプレックス=最終的には解決した方が良い」という前向きな姿勢である。過去に青春をできなかった自分に対してコンプレックスを抱き、それを解消するために躍起になる……という、非常にポジティブな姿勢が最終的には見て取れる。

 一方、自虐の話からも分かるとおり、青春ヘラは最終的に消極的行動に繋がる。青春できなかった自分をコンプレックスに感じはするものの、そんな自分を自虐という形で肯定し、ややもすればアイデンティティにすら感じてしまう。これはある意味ポジティブとも言えるかもしれないが、青春コンプレックスの「青春をつかみ取るために頑張るぞ!」という行動を伴ったポジティブさと比べると大きな差がある。

 青春ヘラには常に「諦念」が先行する。我々は臆病で卑怯だから、自虐や諦めを用いてしか自分を肯定できないのだ。本当、つくづく最低な性癖だと自分でも思う。




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