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さざんか (全文無料)

 さざんか さざんか さいたみち
 恭一は振り向いた。今すれ違った女性。赤いセーターの背中が遠ざかり、垣根の向こうを曲がるところだった。黒く長い髪が名残のようにひらりと消えた。彼女は囁くように歌っていなかったか?
 懐かしい童謡だ。目の前を花びらが横切り、顔を向ける。傍らの民家の庭に赤い山茶花が。そうか、だから歌を。
 彼女は笑んでいたか? あぁそんな気がする。
 恭一は同じように笑んだ。垣根を曲がった向こうには、彼女の家があった。
 たきびだ たきびだ おちばたき
 歌の続きを口ずさむ。曲がればきっと焚火があるのだ。
 あたろうか あたろうよ
 しもやけおててが もうかゆい
 何気なく手を見る。黒い皮手袋に包まれた手を。速足で垣根を曲がる。すでに彼女の姿はなく、恭一はそこに幻の焚火を見た。
 ばかだな。いるわけはないのだ。焚火がもうないのと同じに。代わりに真新しいアパートが建っていた。一軒家はすでにない。火遊びの痕跡は──。
「恭一さん」
 見れば女性が外階段の中ほどに立っていた。黒く長い髪、赤いセーター。
 直美、と咄嗟に言いそうになり、恭一は口をつぐんだ。
「恭一さんですよね? 姉の……」
 思い出す。直美には妹がいた。この場合、何と言うべきか。女性はゆっくりと階段を下りながら、恭一に笑いかけた。
「今日が命日だから……いらしたんです?」
「そうです。もう3年経ったのかと」
 地面に降り立った女性はゆっくり歩いてくると、恭一の前に立った。直美よりは小柄だ。曇りのない目が、恭一を歓迎するように輝いていた。
「あなたは来ないと、両親は言ったんです。でも私は信じていた。あなたがいつか、ここに戻ってくると」
「ここは……思い出の場所ですから」
 そう言った瞬間、赤いセーターが不意に動いた。ずしりと重く、女性の体が恭一を押し倒す。後頭部が地面に叩きつけられ呻いた時、腹に鋭い痛みが走った。
 当たりどころが悪かったか。ぼんやりと思いながら女性を見上げた。右手に赤く、包丁が光っている。
「きっと来ると思って、私待ってたんです。ねぇ……恭一さん」
 呆然と彼女を眺める。ずくんと腹が蠢く。温かい液体が腹から滲みだしていく。
「どうして、こんなこと」
「とぼけないで。姉はずっと私に相談してたの。あの火事は事故じゃない。保険金までかけて……今ものうのうと暮らしてるなんて。許さない、あなただけは。父に頼んで焼け跡にアパート建ててもらったの。あなたを待つために」
 女性は輝く瞳で笑った。直美の目だ。自分を見上げるひたむきな目。不品行を諫める一途な目。気持ちが悪いほど純粋な目。
「あれは、事故だった」
「嘘つき」
 彼女が右手を振りかぶった。止めようとかざした手が切られる。黒い手袋が破れ、火傷の痕に赤い線が走る。
 火の粉のように刃が閃く。焚火の黒ずんだ『痕』が転がる地面には、冬の風が吹いている。

(初出 ネップリ創作文芸同人誌『鯨骨生物群集』vol.4 2021年冬号)

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