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【小説】カーテンコールを走り抜け

 大丈夫、大丈夫。よくある気の迷いです。

 男はやけに自信満々に言い、私は隠れて爪を噛んだ。前歯が揺らぐ。気の迷いで済んだら苦労しない。名前が欲しいと訴える私を、男は笑い飛ばす。わざわざカテゴライズしなくてもいいんですよ。貴方は貴方です。いとも簡単に、私の意思を無視する。

「確かに」

 男は考え込む仕草をみせた。確かに、なに? 私は微かな光に望みをかける。

 血糖値は出ていますが、その他は平常です。いつものを出しときますね。

 肩を落とす私に、妙齢の天使が扉を開ける。本日も進展はなし。追い出されるようにして、私は立ち上がった。扉の先には何がある?

「それでは、また」

 退職したらしたいこと、なんてリストを作っていたくせに、一個もクリアしていない。膨大な時間を与えられ、途方に暮れてしまったのだ。会社初の女性による満期定年退職だ、と騒がれ、社長ましてや名誉会長さえも見にきたのが、だいぶ過去のことに思える。

 私の退職日は、葬式かと間違うほどに盛り上がった。朝からデスクには花が生けられ、挨拶だけで一日が終了した。経理のモーゼ、歩けば道が開いた。

「井上さんに死ぬほどしごかれて、今の私はあるんですっ」

「泣かないで、貴方まだ二週間目でしょう。それにそんなことしてないわよ」

 会社という舞台から降りる私を、みんなは笑顔で見送った。幕は勝手に閉められていた。
 もちろん退職しても、エンドロールは流れやしない。私の人生はまだ終わっていないからだ。かと言って、これから先に山場もないだろう。九十九パーセントの確率で観客満足度は落ち込んでいく。独身女性の老後だ、カテゴリーは自動的にドキュメンタリーになってしまう。やはり幕はそこで閉じられるべきだ。
 年々身長は縮んでいくし、血糖値に至っては毎回再検査に引っかかる。医師の背後に佇む看護師は微笑む。甘いものは、控えてくださいね。唯一課せられたのは、なかなかに残酷だった。
 みなさまのご活躍とご健康を心よりお祈りしております。使い古された台詞を私も用いる。ショートカットキーを駆使したコピーアンドペーストはお手のものだ。お先に失礼します。手持ち無沙汰な私は舞台挨拶をてきぱきと済ませてしまって。紙袋にありったけの荷物を突っ込み、ポップコーン片手に新たな物語を楽しみにする。毎週水曜日はシニアデー。

「君の長所は頭がとても回ることで、短所は頭がとても回ることだね」

 短大時代の講師は教えてくれたものだ。落ち着きたいときは息をゆっくりと吸えばいい。そして吐き出す。簡単だろう?

 でもね、言わせてください。不器用はいつになっても不器用ですよ。年を取って締まりがなくなった唇から、唾液が垂れる。いつの間にか貴方よりも年を重ねてしまった。

「それって面白い話?」

 改めて息をゆっくりと吐き出す。今度はできた。口元を指先で拭う。本のページが一向に進んでいないことを察した『それ』は、私をじっと見張っていたようだった。浮き出た肋骨が痺れている。ずっと乗っかられていたから当然か。腹の上に居座るのは、猫ではない。もちろん犬でもない。女だ。ブラトップと短パンだけの若い女。隙間からはレースのパンツが覗いている。嘘つきのベビーピンク。

「あんたには、つまらないかも」

 拾い物をした、してしまった。勝手についてきたのだ、野良猫とは訳が違う。人間なのだから。
 つい先日のことだ。私はデパートの上階にある本屋から帰るために、駅を通過しようとしていた。早道は利用しなければならない。
 夕方の小宮駅はベッドタウンらしく人でごった返していた。可もなく不可もなく、名産も何もないが、住むには適している街。クローンのように家が爆発的にうまれ、妻の腹が膨らみ、赤子がいつの間にか小学生になっている。次に瞬きをしたときには、家が新たに背を並べている。
 人波に呑み込まれないように、居酒屋の客引きも、コンクリートにへばりついたガムも避けていく。すぐに、ぽかりと不自然に空いた空間に行き当たる。改札前だった。
 ちょっとした騒動が起きていた。簡単に言えば、女性が酔っ払いに絡まれていた。
 女性は肩に腕を回されて、白い頬にキスをされている。セクシャルハラスメント間違いなし、一発レッドカード退場。鈍い私にだって痛いほどに分かる。女性は逃げようとするが、酔っ払いには連れがいた。もうひとりの男は、女性の細い腰をいやらしく撫でている。気色悪い。ホテルに連れていこうとしているのは、明らかだった。改札前には大勢の人がいるのに、みなが見て見ぬふりをしていて、警察もいない。必要なときにはいなさいよ。思うが仕方ない。どうすればいい、どうする? 

 幹ちゃんは頼り甲斐があるねえ。脳裏に囁くは、誰。次には、叫ぶ勢いで声を張り上げていた。

「あら、なおちゃん。母ちゃん放って男と遊ぶのかい!?」

 そのときの酔っ払いの顔といったら。このときばかりは、年を取っていてよかったと思った。途端に静かになる雑踏だった空間。母親で無理があったならば、今度はおばあさんと孫にしよう。私は必死に頭を回転させる。
 一瞬で酔いが冷めたのだろうか、それとも最初から違ったのだろうか。男たちはそそくさと女性から離れた。つまらなそうに唾を吐き捨てる。最後まで汚らしい。
 解放された女性は、乱れたブラウスを整えた。どちらにしろ引き締まったウエストは出ていたし、まつげは空高く天を目指していたが。薄い肩が印象的だった。
 女性はゆっくりとこちらへ近づいてくる。偽物のグレーの瞳がこちらを見つめる。私は思わず口内に溜まっていた唾液を飲み込んだ。緊張していた。女は言った。

「あたし、なおちゃんじゃないんだけど?」

 最初はありがとうでしょ、と思わず返してしまったのは仕方ないだろう。女は図太かった。私の腕からエコバッグをぶんどって、犬のようにそのまま私についてきたのだ。お茶を飲むだけだと考えていたら、女は堂々と部屋に居座った。グッチのハンドバックひとつで、二週間を過ごした。バックの中には、Suicaと口紅が二本だけ入っていた。
 ソファーを陣取り、お気に入りのブランケットに涎を垂らす。チャンネルの選択権も奪う。着る服がない、とクローゼットを勝手に開ける。似合わない、と苦情を訴え、若者向けの服屋にさえ連れてかれる。趣味が合うわけがない。キョーコは世間で言うギャルなのだろう。私は剥がれたマニキュアに癇癪を起こさないし、コンタクトレンズをハンドソープの容器に貼らない。

 帰りなさい。何度も言った。しかし、へっちゃらな顔で笑うのだ。帰る家、ないんだよねえ。

 私は何も言えなくなってしまった。ただそれだけだ。

「いや、あんたと会ったときのこと思い出してたんだよ」

 なおちゃん改めキョーコは、豪快に手を叩いて笑った。何がそんなに面白いのだろうか。私の胸に置いてあった文庫本を抜き去って放り投げる。こら、まだ終わってないのよ。

「幹さんが本当にお母さんだったら、キスなんてしないよ」

 そうして、私のしわだらけの顔に唇を寄せる。私は慌てて距離を取った。これには困っていた。キョーコは、私に惚れてしまったらしかった。キョーコ本人が言っているのだ。人様にとやかく言うつもりはないが、レズビアンというものだろうか。聞けば、性別はどうでもいいらしい。器用なのか、大雑把なのか。私には未知の世界だ。悩みは尽きないどころか増えてしまった。

「キョーコさんだけだよ、助けてくれたの。あんなの惚れるなって方が無理だよ」

 心なしか赤い顔をしている様子に何も言えなくなってしまう。重いエコバッグをぶん取った後、ありがとう、と本当に小さくつぶやいたキョーコを思い出す。

「服をちゃんと着なさい、だから絡まれるのよ」

 私はソファーの上にあるブランケットをキョーコの肩にかける。照れ隠しはどちらも下手。初めて会った日も、彼女は薄着だった。腹を出していたら風邪を引いてしまう。キョーコは途端にムッとし、立ち上がる。向かう先はきっとキッチンだ。ほら、冷蔵庫を開けた音がする。バタン、八つ当たり。静かに開けろ、と毎回言っているが、キョーコに改める気はない。

「どんな服を着てても、あたしが襲われる理由にはなんないね。あっ、プリンあるじゃん」

 ご機嫌取りに買ったプリンにまんまと引っかかるキョーコを見て、息をつく。退職金一括で買った(小宮駅徒歩七分、素晴らしい立地だ)新築のマンションは、猫とでも一緒に暮らそうと思っていたのに。実際は、親子以上の年の差の若い女。まったくの予定外だ。一階に住む大家は、じろじろとこちらを不躾に見やる。

「あら、お孫さん? ずいぶんと派手なのね」

 血縁関係はない、と叫んだら最後、マンションから浮くのは目に見えていた。そもそも独身とだけで目立っているのだ。
 キョーコは私にどこまでも着いてきた。腕を絡ませ、るんるんとクリニックにまで足を弾ませる姿は、傍から見たら仲睦まじいことだろう。もしかしたら、介護に見えるかもしれない。診察室にまで入ってくるのだ。間違いなく介護に見えるだろう。

「はい、気を付けさせます。ね、幹さん」

 いつもは笑顔な医師が、訝しげな顔をしていた。キョーコが部屋に上がり込んできてから、生活リズムが更に崩れている。キョーコの衣食住は経費では落ちない。私の預金通帳から直。ぺろりとプリンを平らげたキョーコが叫ぶ。

「幹さぁん、洗濯機が鳴いてるよお」

 私は聞こえないふりをして、ごろんと横になる。考えるのが億劫だ。どのようにキョーコを追い出せばいいのか、そもそも追い出していいのか。分からないことばかりである。私の身体を跨いでいくキョーコは知らないだろうが。

 いつの間にか作られた合鍵。いつの間にかお揃いにされていたキーホルダー。悩みの種は、無限に生み出される。みるみるうちに酒が進んでしまう。アルコールで脳をふやかしていなければ、やっていけない問題だ。胃袋の中を液体が蠢く。瞼を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。液体は胃袋から溢れ出し、私の身体をも包み込む。沈むのだ。

「あは、ウケる」

 キョーコがバチバチとテレビのチャンネルを変える。CMに入ったら他の局に回すから、のんびりと見ていられない。それでも、キョーコは若手のお笑い芸人のよく分からないギャグで笑っていた。

「この歌手、浮気してるんだよねえ」

 ゲストの個人情報まで教えてくれる。どうでもいい知識だ、会話は一向に弾まない。空気の抜けたボールのように、腑抜けたカーブを描く。整形しまくっているから、手入れが大変らしいよ。このお寿司、美味しそうだね。脈絡のない軌道。キョーコは私の顔を覗き込む。幹さんはどんな歌が好き? まさに消える魔球だ。

「ない」

 泡が唇に付き纏う。喉を通っていく炭酸は猛毒。キョーコがテーブルの上を指さす。今し方、気がついたかのように尋ねてくる。

「いつもこれだけど、好きなの?」

 今日のメニューは、レンジで温めるだけの餡かけチャーハン。昨日も同じものだった。正しく、適切に述べるならば、一昨日も先週もずっとチャーハンだった。

「普通」
「はあ?」

 すっぴんのキョーコが、ほぼ消失している眉を寄せる。キョーコの化粧は、もはや工作の域に達している。素晴らしい技術だ。

「どうして」
「何でもよ」
「なんで?」

 駄々っ子のようだ。なんでなんで、どうして。諦める様子はなかったから、私は懇切丁寧に説明した。質問されたら答えなければならない。私はそう教えられた。
 料理という行為が好きではないこと。買い揃えたはいいが使っていない新品のままの道具たちは、恨めしそうに私を睨みつけてくる。適当に済ましていたら、血糖値がまずい数値を叩き出し、病院で怒られたこと。単純な話だ。このチャーハンは、カロリーが制限されている。味付けが薄いが、致し方ない。

「他のシリーズは、美味しくなかったのよ」

 餃子、鍋、パスタ、その他エトセトラを羅列する。特に鍋は酷かった。あんなもの病院食でしかない。ほぼ限りなく味がしないスープ。そぼろは本物の肉ではない、と続けたところで、キョーコが言った。

「あたしが作るよ」
「は」

 間の抜けた声が出てしまう。何の話だ。途端に理解ができていなかった。キョーコはテーブルに身を乗り出して胸を寄せた。

「あたしが作る。腹から掴めるってわけ? 最高じゃん」

 名案のように言い張るが、私には何が最高なのか分からなかった。スプーンを思わず握りしめる。銀のカーブが震えていた。

「別にいいわよ、しなくて」

 面倒だし、時間の無駄。言い訳染みているが、紛れもなく事実なのだ。キョーコは真面目ぶって、私の目を真っ直ぐに見る。

「あたしがしたいの、いいでしょ」

 どうして口ごもってしまうのだろう。私は間違っていないはずなのに。キョーコは楽しそうに口角を上げていた。歌うように口調が弾んでいる。

「鉄板は肉じゃがかなあ、幹さんは何がいい?」

 勝手にしなさい。私はそう答えるので精一杯だった。薄味のチャーハンは、さらに味がしなくなってしまった。
 キョーコは本気らしかった。散々いびきをかいて忘れるかと思ったが、そんなことはなかった。朝には、スーパーで大量の具材を買ってきたのだ。開店に合わせて、まつ毛を空高く伸ばし、コンタクトを装着し、突撃しに行った。キョーコが朝に起きていることは貴重である。寝床のソファーから貞子のように這いつくばって脱出する姿に、私は仰天した。そこまでするとは思わなかったのだ。
 今では、ふんふんと機嫌良く鼻歌が聞こえる。キッチンには入らないで、と鶴でもあるまいし。キョーコの恩返し。そもそも一夜の食事程度で済まされる迷惑の量ではないが。私は仕方なくリビングに引き返す。文庫本を少しだけ読み進めて、いつの間にか眠っていた。
 目を覚ましたときには、とっくに空は暮れていた。大きな欠伸をひとつ。キョーコはまだキッチンにこもっているようだった。明かりがドア越しに漏れている。腹が鳴る。もう少しの辛抱だ。私は欠伸をまたひとつ漏らした。
 しかし、いつになっても料理もキョーコも出てこなかった。何を勿体ぶっているのだ。私は段々と苛立ってきた。腹が空いているのだ。イライラするに決まっている。私は立ち上がった。歩幅は自然と広がっていた。ズンズンと進んで、開かずのドアに手を伸ばす。ノックはしない。当然だ、私の部屋なのだから。

「いたっ」

 ドアを開けた瞬間に、寄りかかっていたのだろう物体が目の前に倒れてくる。キョーコだ。床に打ち付けた額を押さえているが、それよりも注目すべきことがあった。鼻が違和感を訴える。焦げ臭い。
 見回せば、キッチンは大惨事だった。シンクには焦げついたフライパンが放置されている。床には、細切れとなった野菜が落ちていた。白い皿の上には、何かが乗っている。ぐちゃぐちゃの黒が汗をかいている。

「なにこれ」

 聞けば、キョーコは顔を真っ赤に染めた。視線を私から逸らす。ばつが悪いらしい、キョーコのくせに。まるで迷子みたいに不安そうな顔。しばしの静寂の後、幼児は口を開いた。

「クリームシチュー……」

 クリームシチュー!? いつから黒の固形物に進化したのだろうか。驚く私に、キョーコはさらにうつむいてしまった。捨てるから、と本当に小さくつぶやく。
 キョーコとクリームシチューを何度も見返す。料理が苦手なのだろうか。聞けば、できると思ったんだもん、とのお返事。できないのなら、最初から言えばいいものを。ため息をつけば、キョーコの肩が揺れた。
 クリームシチューを睨みつけてみる。何度目をこらしても、そこには名付けようのない物体しかいなかった。
 私は手を伸ばしてみる。まな板の上に置きっぱなしだったスプーンを手に取って、物体に伸ばす。やっとの思いでメスが入るが、恐ろしく固い。断面にも白はいなかった。クリームシチュー要素がない。
 思い切って、口に含んでみた。ダークマターは、すべからくダークマターの味がした。飲み込んで、もう一口と手を伸ばす。かつては人参だったろう個体からスポンジのように苦味が溢れ出る。まずい。

「食べなくていいよ」

 キョーコは慌てて私を止める。目が潤んでいる。構わずに、口に入れた。まずい。この世の食べ物ではない。酸っぱいし、塩っぱいし、中は生焼けだ。地獄の住人たちだって、もっといいものを食べている。最高にまずい、まずいけど。

「ビールのつまみにはちょうどいいわ」

 捨てられるのは嫌だった。ゴミ箱にぽい、なんてしたくなかった。いくらまずくても。キョーコは眉間に皺を寄せた。

「そっか」

 吐息にも満たない声だったけど、十分届いた。

 ついにきた。きてしまったのだ。キョーコが孫ではないと、マンション内でバレたのだ。そもそも一度も孫などと紹介したことはないのだが。しかし、隣人たちには関係ない。孫でないならなんだ。私も知りたい。
 楽しみのない住民たちには格好の餌食だったのだろう。そこに、我関せずのキョーコがプラスされる。私の腕に構わず絡みつく女。

「幹さあん、大好きぃ」

 決まりだ。大家からは厳しい視線がやってくる。もしかして……? 意味ありげに注がれるのは、随分と不愉快だった。構わずに挨拶をしていても、容赦無く私は削れていく。元はと言えば、キョーコが勝手に住み着いているから。
 外を歩く度に、喉が軋んだ。あちらこちらから突き刺さる視線は、私を仲間に入れてはくれない。
 ねえ、私をのけものにしないでよ。出て言ってくれ、今日こそ言おう。ねえ、大丈夫よね。言うしかないのだ。線からはみ出してないよね、ねえったら。

「幹さぁん、できたよお」

 キョーコは言う。眩しいくらいの笑顔に、私は意味もなく決まりが悪くなる。どうしてなのだろう。ひとりごちるが、それが誰に向けられたものなのかさえ、私には分からない。私はどうすればいいの。

「ねえねえ、美味しい? 自信あるんだ」

 今度でいいじゃないか。今度ったら今度だ、キョーコにだって都合はある。そう、言い訳をする。うつむきながら、視線を彷徨わせる。そこにはカレーにも肉じゃがにもなれない、新種の料理がいた。

「今日もカレーなの?」

 皮肉を言うしかできない自分が恥ずかしい。キョーコはそんな私に気づいているのかいないのか、今日こそは肉じゃがだ、と自慢げだった。クリームシチューは難易度が高いと知ったらしい。しかし、残念ながらキョーコには料理のセンスがない。七割方カレーの肉じゃがは、隠し味のチョコが利いていた。

「幹さあん、暇だよお」
「寝なさい」

 にべもなく言うが、キョーコには効果がない。朝も昼も関係なく寝るから、キョーコは意味の分からない時間に起きている。時計の針は、てっぺんをとっくに過ぎた。シンデレラはもう帰った。

「コンビニでも行こうかな」
「やめときなさい」

 えー、と足をバタバタとさせて抗議する。落ち着きのない女だ。

「幹さんも行こうよ。それならよくない?」

 何もよくない。無視をするが、キョーコには決定事項みたいだった。私の腕を引っ張って、無理矢理に廊下へ連れ出す。トイレのドアノブにしがみついて格闘三分、私は敗北した。
 ブラトップに短パンのままで行こうとするから、流石にカーディガンを着させた。迷わずに、真夜中への扉を開くキョーコ。するすると侵入してきた夜風が頬を撫でる。着ていたコットンのパジャマの裾が揺れた。こわい。

「やっぱりいやよ」

 私は玄関に引き返す。傍から見たら、疑問に思うだろう。キョーコだって、不思議そうな顔でこちらを見ている。

「行こう、大丈夫だよ」
「怒られるわ」

 自分で言いながら、馬鹿らしいと呆れていた。もっと言うべきことはあった。危ないだとか、もう眠いだとか。悪事をする感覚だったのだ。誰に見られているわけでもないのに。誰も私たちを叱る人などいないのに。駄目よこんなこと、と咎める私を、キョーコが咎める。得意げに鼻を鳴らすのだ。

「誰が決めたの?」

 キョーコは構わずに階段を降りていった。ズンズンと迷うことなく進む彼女に、私はどうしようもなくなってついていく。無視できなかった、それよりもひとりで取り残される方が怖かった。駐車場を無作為に進み、芝生を踏み荒らす。
 気が付けば、マンションの敷地内などとっくにはみ出していた。街灯が少なくなっていく。どれだけ歩いたかは分からなかった。見回しても、街に昼の様子はなくて、どこにきたのかすら分からなかった。永遠に戻れないように思えた。

「ここに行こう」

 キョーコが指を差すのは塀の中。コンクリートのブロックに足をかけて、身軽にもキョーコは塀に上ってみせる。キョーコがこちらに手を伸ばす。

「待って」

 藁にも縋る思いで、私は手を取ってしまった。必死だったのだ。置いていかないで欲しかった。よいしょ、と小さく声に出して、キョーコは私を持ち上げた。世界が反転する。こんなにも簡単に。
 着いた先は、学校の動物広場だった。へにょへにょの握力のない字で案内板に記してある。これは絶対に悪いことだ、と私は確信した。うろきょろと視線を彷徨わせる私に、キョーコは平然としていた。

「見て、うさぎが可愛いよ」

 金網越しに小動物を見かけ、しゃがみ込むキョーコ。近くにあった雑草を千切って、うさぎにやっている。口に食むがすぐさま捨てるうさぎ。生意気、とキョーコが不貞腐れるが、うさぎには関係ない。ろくな餌をくれないと理解した途端に、軽い足取りで退散していく。
 真夜中の学校は昼間の喧騒もどこへやら、薄気味悪い。駆け回るキョーコと反対に、私は手持ち無沙汰でのろのろと足を動かした。行く先がない。ふと右を向く。影が動いた、目が合う。

「うあっ」

 思わず声を発してしまった。鳥だった、孔雀だった。今の小学校には、孔雀もいるのか。孔雀はこちらをじっと見つめた後、翼を大きく広げる。優雅な姿、威嚇だった。

「ひっ」

 怯んだ私を何かが照らす。照らす?

「誰だっ」

 警備員だった。巡回していたのだろう。懐中電灯片手に、こちらを睨みつけてくる。

「にげよ」

 キョーコが伸ばした手を、今度は迷いなく掴む。剥がれかけたマニキュアが指に引っかかる。ぐいぐいと引っ張って、キョーコがこちらを見てくる。その顔は楽しそうだった。耐えられないように、口元が緩んでいる。何故?

「待てっ」

 警備員が追いかけてきて、私たちはなりふり構わずに駆け回った。普段は子供たちの遊び場なのだろう雑木林をくぐり抜ける。フカフカの腐葉土に足を取られそうになる。でも、もう少し。もう少しで逃げられるはずだ。キョーコが短く叫ぶ。

「あそこだ」

 錆びたドアを破る勢いで開ける。緑色を隠すように白く塗られたそれは鈍い音を立てながら、私たちを招いた。校庭の外に出たら、警備員は役目を果たしたと、追いかけてはこなかった。
 息を枯らしている。膝に手を置いて、肩で息をする。心臓が焼き切れそうだ。足を縺れさせながら、キョーコは笑っていた。笑い過ぎて腹を抱えている。私のパジャマはびしょびしょに濡れて、肌に張り付いていた。

「大丈夫だったでしょ」

 得意げなキョーコ。ついに、私は笑ってしまった。こんなことで笑いたくなどないのに。震える肺が苦しい。せっかく吸い込んだ酸素を吐き出してしまう。唾液で喉を潤すが、間に合わない。舌を震えさせながらも、必死に答える。

「何がよ」

 笑うのは、久しぶりの感覚だった。キョーコは珍しくはにかんだ表情で、顔を手であおいでいた。こめかみに汗が伝っている。
 今なら答えてくれるかも、と私は考えた。ただ聞く勇気がなかっただけだ。思い切って、どさくさに紛れて、私は勇気を出す。

「キョーコはどこからきたの」

 ずっと気になっていたことだった。キョーコは目をパチパチと瞬きさせる。そして、ゆっくりと笑みを作った。目尻が垂れる。足を一歩前に踏み出す。ラーメン屋のネオンが薄く光り、小蝿を呼び寄せる。

「ふふ、聞いて驚くな。横浜の恋人の部屋からだ」

 ちなみに女の人だよん。キョーコが付け加えるが、私は驚かなかった。今更キョーコの正体がどうでも不思議ではない。間髪入れずに、私は尋ねた。

「どうして別れたのよ」

 キョトンとした表情をした後、数回長い爪を弾く。尖った蛍光ピンクが揺れる。

「別れたのかな、一応そうなるか」

 曖昧に頷くキョーコ。どういうことだ。私が訝しんでいると、女は言った。

「怖くなって逃げてきちゃったの」

 キョーコは初めて見た情けない顔で笑っていた。坂から転げ落ちるように、言葉は続いた。その人はいつも正しくて、曲がったことが嫌いで、そこが大好きだった。でも。

「でも?」

 私は次を求めた。キョーコはしんどそうに目線を下げた。隣にいるのがしんどくなっちゃった。だって、いつでも正しいんだよ。
 キョーコの言いたいことが私には分からなかった。正しいのは、間違っていないじゃないか。正しいは、すべからく正しいではないか。キョーコが俯く。薄い身体。細いにしても、こんなにも頼りない背中だったろうか。コンタクトを入れていない瞳は、感情を繊細に伝えてくる。

「東京で降りるつもりが寝過ごしちゃった。だから、幹さんと会えたのは偶然」

 もしかして、運命じゃない? 強引に結論付けたキョーコに、私は何も言わなかった。言えなかった。朝は、まだ迎えにはきてくれない。じっと待たなければならない。分かっている。でも、今会いたかった。
 終電を逃したサラリーマンや、道路脇の雑草にも。もちろん私たちにも。誰にでも平等に、朝日は射すはずだ。

「どこいくの?」

 素顔のキョーコが私を見上げる。きちんと整えた私が珍しかったらしい。ずっと寝ているくせに、私がどこか行こうとすると、目敏く見つけてくるのだ。目尻を擦りながら、こちらに駆け足でやってくる。化粧するから待って。

「面白くないわよ」
「幹さんとだったら、どこでも楽しいよ」 
「どうだか」

 西口から、バスで十五分ほど揺られた場所。どうしてこんなに近い距離にいるのだろう。もっと不便な場所ならよかったのに。もっと遠くて、行けない場所ならよかった。決めたのは私なのに、理不尽にも思う。
 真夏の日差しは鋭い。キョーコに日傘に持たせて、影に滑り込む。アスファルトが熱を発している。空気が緩く停滞しつつも揺れている。
 着いたのは老人ホームだ。自動ドアは、私たちをも迎え入れる。車椅子が無造作に散らばっているのを避けて、無機質な廊下を突き進む。
 受付のベルを鳴らせば、きっちり五分待たされた。明らかな人員不足。トイレに行こうかと考えた矢先に、エプロンを付けた女性が小走りでやってきた。息が揺れている。

「井上です」

 挨拶すれば、女性は満面の笑みをみせた。

「お待ちしておりました」

 カツカツと音を立てて、廊下を進んでいく。充満する消毒液の匂いに、胃が灼かれていく。建物はしっかりと、私たちを異物だと理解していた。

「こちらですね」

 部屋の奥には老人がいる。いつも決まって、肌に馴染んだパジャマを着ている。袖から出ている腕に、筋肉の存在は感じられない。もう性別も分からないほどに痩せてしまった姿。母だった。スタッフは老人の耳に唇を寄せ、ゆっくりと話す。

「井上さん、娘さんがいらっしゃいましたよ」

 娘というワードに、老人の肩が揺れる。瞼の深い窪みが、こちらを見つけた。

「幹ちゃん、幹ちゃんかい?」

 しかし、そこに私はいない。老人は、私のすぐ隣にいるキョーコに手を伸ばす。キョーコの顔を、若い女の肌をーーかつて私もそうだったーー包んで、言うのだ。

「今すぐ俊樹さんに謝ってっ」

 老人は続ける。私があちらのご両親に謝りに行くから。あんたは俊樹さんに会いに行きなさい。
 意味の分からない言葉を繰り返す。しかし、私は慣れてしまった。慣れてしまったのだ。私は自分に言い聞かせるように声を出す。

「大丈夫、大丈夫ですよお」

 キョーコがびっくりしている。動けなくて固まっている。そりゃ当然だ。私は老人とキョーコをやっとの思いで引き剥がす。砕けてしまいそうな骨に、精一杯の遠慮をする。そして、わざとらしく一字一句丁寧に告げた。

「おばあちゃん、その人は幹さんじゃないのよお」

 その後は、分かっていた。

「わあああああん、わああああん」

 人目も憚らず、大声で泣き始めた老人に心底うんざりする。ぽぽぽぽぽぽ……。振り向かずとも分かる。誰かが押したナースコールだ。次は、施設の人間が駆けてくるのだろう。キョーコがうろきょろと辺りを見回している。私は立ち上がって、バッグを手に取った。チューリップ型のバッジを胸につけた介護士がくるのと、同時に病室を出る。

「待ってよお」

 バスに乗る気分にはならなかった。振り返ると、キョーコが息を切らしていた。ビュンビュンと車が行き交う県道は、歩くには適さない。うるさいな。ヒールを履きながらも、揺れない身体。どれだけ街が騒然としていても、キョーコの存在は鮮烈だ。眩しくて、ずっとは見ていられない。

 父が死んだのは、ずっと前のことだった。私は声を張り上げる。飲み込めない唾液が溢れ出そうだった

「あんたぐらいの子供がいたっておかしくない」

 それに孫もね。付け足して、私は自分に棘を刺す。せめてトドメは自分で決めたかった。

「私は母親とキスしないよ」

 キョーコは、分かっているのか分かっていないのか。ただ、決まり文句にもはやなっている台詞を言った。ああ、本当に嫌だ。うんざりする。キョーコは、私の棘なんかに気付かない。棘ごと撫でてくる。
 私は前を向いて、足を進めた。誰にも気取られないように。キョーコが何か言っているが、頭には入ってこなかった。私はただ、真っ直ぐに、顔を上げる。自分は大丈夫なのだ、と証明するように。

「待って、てば」

 私は、ひとりで立っている。舞台の真ん中で、途方に暮れている。私に主役は張れない。でも、スポットライトは容赦なく私に降り注いでくる。私は勝手に追い詰められていく。足が凍ったみたいに動かない。咄嗟にアドリブをしてみせる器用さもない。
 観客はつまらなさそうに足組みをして、こちらを品定めする。何もできない私に、観客の数は徐々に減っていった。観客の顔が認識できるまでになった頃、私は目を見開く。
 母がいる。母さんがこちらを見ている。真っ白な顔をした、気丈に背筋をピンと伸ばした、以前の母。母さんの口元が動く。聞こえなくたって、頭には響く。かつて言われ続けた言葉だった。

「あんたはいい子なのにねえ」

 聞いてる? 何度も言ったでしょ。母さんはねえ、あんたに幸せになって欲しいの。大丈夫よ、母さんが幹を守るわ。

 少しだったら、いいんですよ。少しではないんです。私は懺悔するように縋り付く。医師はふふ、と声を出して笑った。私には『丁度』に見えますがね。
 クソッタレ。吐き出したいが、医師は見向きもしない。羨ましい限りだ。自分の判断に狂いがないと断定している。私とは大違い。

 いつも通りでいいですね。白い錠剤たちが脳裏に浮かぶ。羅列されるカタカナには、何の意味があるのだろうか。考え出したらキリがない。ああ、嫌だ。今日もアルコールで頭を鈍らせなければ。決めて、私は白い部屋を出た。小宮駅前クリニックは、気休めを提供してくれる。

「はあ」

 やめられない。あと一杯と言って、永遠と続けてしまう。意志が弱い、散々な有り様。自嘲するが、アルミ缶が増えていくだけ。ソファーが寝床の居候は眉を顰めた。

「お酒やめなよう」
「無理」

 即答。私にできるはずがない。キョーコは、私の飲んでいた発泡酒を奪い取る。もう空っぽじゃん。つぶやいて、 残液を口に流し込んだ。苦っ。

「アル中じゃん」

 返事はしない、自覚はあるのだ。医師は否定するが。定義には満たしていないんですよ。定義ってなんだ。私は病室と同じように白いリビングの壁を睨みつける。新築の壁には傷ひとつない。

「アル中でも幹さんは格好いいけどね」

 キャー、と喚いて、私の腕に絡みつく。ため息をついて、私はもう一缶と手を伸ばした。ぬるい炭酸が、ぶくぶくと気泡を弾けさせる。黄金色の殻がうまれ、一瞬で溶けていく。瞼が重く感じる。幾重にも刻まれたしわ。流れるように、出て行く言葉。

「あんなの誰でもできるわよ」

 定義というものが、目に見えたらよかったのに。ここから入らないでください。線は見当たらない。そして、ここが内側なのか、外側なのかも分からない。私はどこにいるのだろう。

「幹さんには、パワーがある」

 馬鹿げている。もっともらしく宣うキョーコに呆れる。手で髪をかき上げたついでに頭皮を揉む私に、キョーコはくすくすと笑った。だって。だって、何?

「あの日、あのまま男について行ったって、本当はよかった」

 咄嗟に、全身の産毛が逆立った。動揺を乗せないように私は気取った。馬鹿?

「そんなことないもん」

 キョーコは唇を尖らせる。それでさあ。普段と変わらず突拍子のないリズムで話は変わった。私には、それどころではなかった。むかついていた、むかついていたのだ。酔いが冷めてしまった。最悪だ。何故私が苛立たなければならない。私はキョーコの何者でもない。手の中のアルミ缶はいつの間にか潰れていた。

 母はキョーコを見定めたみたいだった。甘ったるく名前を呼んだかと思えば、突然泣き始めて訴え始める。キョーコの腕をしっかりと握って離さないのだ。骨が浮き出る手のどこに、そんな力が隠されているのだろうか。

「幹ちゃあん」

 私とキョーコには、どこにも共通点などないだろうに。金髪に染めた記憶はないし、グレー色の瞳でもない。老人ホームに週に二度だけやってくる若い医師は、やけに真面目な人物だった。家族との面会は刺激になるんです。確かに事実かもしれない。私はこんなにもぐったりしている。母に兆しは見られないが。もう三十年になるだろうか。私たちは決して交わらない。平行線のまま、ずっと進む。
 母は主婦として、文字通り家を守っていた。眩しいくらいに美しい、自慢の母だった。父は東京に働き詰めで、私たちはほとんどをふたりで過ごしていた。高校を卒業して、短大を出て、就職しても、小宮の実家が帰る場所だった。
 父は定年してすぐに亡くなった。父方の叔母は仕事を辞めて張り合いがなくなったのだろう、と結論を述べた。張り合い、不思議な表現だ。家とは別に、帰る場所が父にはあった、と知ったのは、葬式のときだった。悲しかった。父が死んだことが悲しいのか、裏切られたことが悲しいのか、私には分からなかった。でも、私も母も泣かなかった。母の凛とした喪服姿が綺麗で、隣で私は見とれていた。母の声も背筋も、ぴんと伸びていた。

「これからも、ふたりで生きてきましょうね」

 必死に頷いた。それから歯車がずれていった。母は異様なまでの情熱で、私の夫となろう男性を探し始めたのだ。三十路を越えても仕事熱心な私が気に食わなかったのだろうか。貴方にも家庭があるといいの。父さんみたいな優しい人を探してくるわ。正直戸惑った。しかし、私は何もしなかった。娘の見合いを勝手に推し進める母を眺めるだけ。母が納得するのならばと半ば勢いで私は嫁いだのだ。 
 結果は散々だった。耐えられたのは、一年だけだった。離婚したいと相談する私に、母は言った。

「どうして、幹ちゃん」

 二度目のずれだった。母の瞳には、光が射していなかった。私は気付けなかった。母にはとっくに光が消えていたのだ。当時の私にはそれどころではなかったのだろう。浮気されただとか、子供ができないのを私のせいにされたとか、その他エトセトラ。無限に湧き出る理由を述べていた。

「私は我慢したんだから、あんたもしなさい」

 まさに死刑宣告。口が勝手に動いていた。必死だった。だって、血が出てるんだよ。幼子のように喚いた。何の意味も持たなかったが。

「ねえ、どうして?」

 母はぼやいた。どうして。そこには表情というものがなかった。私の背中が強張る。瞼の筋肉が震えていた。

「どうして失敗したの」

 紛れもなく落胆だった。私は母に失望されたのだ。声は出なかった。一番恐れていたことだった。どうやって動いていたのか分からないほどに、私は固まってしまった。正座している足が冷えていく。泥濘に沈んでいく感覚。泥は化石になった私を優しく包み込む。

「いつもいい子だったじゃない」

 祈りのように聞こえる言葉は、母の唯一の願いだったのだ。私は俯いた顔を上げられず、いつの間にか母はいなくなっていた。固まった身体を必死に動かしてふたり暮らしだったはずの部屋に戻ると、夫はやっぱり帰ってこなかった。先週末に机に置いといた離婚届に、記入がしてあったのはありがたかった。
 離婚届けは私が出しに行った。逃げるようにして実家に帰った。今まで私が見ていたのは、氷山の一角にしか過ぎなかったのだと思い知った。

「幹ちゃんったら、ちゃんと聞いてる?」

 ハッとする。視界には、キョーコと母がいる。聞いてるよ、キョーコは言う。母は、キョーコを離そうとはしない。髪を愛おしそうに撫でている。キョーコは仕方なく、母の膝に頭を乗せていた。ふてくされているような、複雑そうな表情。

「もうやめてよ」
「いいじゃない、幹ちゃん」

 私は今、どのような感情であれば正しいのか。羨ましい、悲しい、不甲斐ない? 合っているようで、正しくない。答えは分からない。娘でなくなった私は何になったのだろう。母に私は見えない、存在しない。都合の悪いものなど消えていいのだ。

「今日も、お母さんインパクトすごかったなあ」

 今日も今日とて、ふたりでぐったりとして帰ってきた。着いてこなくていいわよ。分かりきったことを何度も言っているのに。あれは他人に見せるべき光景ではない。

「幹さんのお母さんに会えるの嬉しいよ」

 キョーコは、そんな頓珍漢なことを言う。私だけ損をしているみたいだ。調子が狂う。何が母に会えて嬉しいだ。そんなことあるはずがない。私が喜ぶとでも思っているのだろうか。もしかしてこれを可愛げと呼ぶのか。なるほど、私にはないものだ。くしゃくしゃのポリ袋を破る勢いで漁って、「効きやすい」と噂の缶チューハイを開ける。スーパーで手に入る薬、税込八十八円也。ちなみに三本目。
 踵に引っ掛けたままのストッキングを放置する。そのうち伝線して破れるだろう。足がフローリングに吸い付く。脳が水気を帯び、電気が素早く回る。角が削れたバインダー。中身を開けば、申請書。確認したと判子を押して、すぐに隣の細胞に渡してしまう。間違いには気付けない。

「私にも会わせなさいよ」

 ぽつりと零れ落ちた言葉に、キョーコは不思議そうな表情をする。言いたいことは分かっている。誰に? 

「あんたの元恋人とやらに」

 私はわざとらしく舌ったらずに答える。少しの間があった。しばし私たちは見つめあう。ゼリーみたいに空気が揺蕩っていた。意地悪にスプーンで突けば、ゆっくりと跳ね返ってくる。
 キョーコは苦笑いをした。腕を伸ばして、私からチューハイを奪おうとする。

「酔い過ぎ、今日はもうそれだけだよ」

 私はただ見つめて、もう一口。玄関では、パンパンに入ったゴミ袋が首を傾げて、空き缶を吐き出した。

「嫌よ、行きたい」

 私は引き下がらなかった。据わった目で睨みつける。キョーコは緩く笑みを浮かべながら、こちらを眺めた。真っ直ぐにこちらに視線が注がれる。細く白い指が私の髪を撫でた。まるで駄々っ子のようだ。私はただ、自分だけが晒すのは嫌なだけ。補正下着が隠しているのは、弛んだ肉だけではない。

「いいよ」

 キョーコは目だけで笑った。穏やかな表情に、途端に気まずくなる。自らのささくれだった幼稚さをまざまざと見せつけられたのだ。キョーコはどうでもよさそうだが。

「明後日でいい? 美容室で髪を染めてくるよ」「……誰の金でやんのよ」

 それしか言えなかった。しかし、キョーコの突拍子もない竜巻に助けられていた。黒い根本が伸びた髪は、バランスの悪いプリンになってしまっている。ひひ、と笑うキョーコ。時間は着実に過ぎているのだ。

 燦々と光が差して、背筋が曲がる。日傘を差しても、コンクリートから跳ね返ってくる。眩しい、暑い。キョーコは呟いた。

「やっぱりやめない?」
「今更?」

 有言実行だと、昨日五時間もかけて染めた髪が綺麗に風に靡いている。幹さんも白髪染めに行く? 私は口をへの字に曲げるだけに済ませてやった。今更ただでは帰られない。汗を拭って、わざとらしく笑顔を作ってやる。

「私もキョーコが前に住んでた家見たいのよ」

「ぜったい嘘でしょ」

 坂道では、呼吸が自然と荒くなっていく。横浜ではそこらかしこが坂道だ。喉が乾く。目の前には、青々とした草木たち。きちんと管理されているのであろう庭には、犬さえも付属している。小宮とは大違いだ。

「あんた結構いいとこ住んでたのね」

 暑さで朦朧とする頭は、どうでもいいことを弾き出す。

「ヒモだったしね」

 珍しくそっけない女は、緊張しているのだろう。表情がいつもより乏しかった。場がもたなくなるのが何となく気まずくて、矢継ぎ早に続ける。

「あんたも働きなさいよ」
「なあんか、上手くいかないんだよね」

 キョーコはやけに真面目ぶった。いつも何故か駄目なんだよね。どこかしら絶対失敗する。だから、もうやんなっちゃった。

「それなりに職歴はあんだよ。でも、だんだん呼吸ができなくなっちゃう」
「ふうん」

 自分から聞いたくせに、適当に聞き流していた。どこか足りていないから、それが響いているのだろう、とぼんやりと考えた。仕事をするキョーコが一切浮かばない。もしかしたら私が想像できないだけで、長い爪で素早く電卓を叩くのかもしれない。私がキョーコに対して知っているのは一握りだ。それでいいと思うし、進んで知りたいとも思わない。過不足はない。

 辿り着いたのは、小綺麗などこにでもあるアパートだった。ここの二階の角部屋だと言う。階段に足を踏み出そうとすれば、途端にキョーコは怖気付いた。私の腕を引っ張って、道まで出る。そのまま大きな植木がある近所の庭に逃げ込む。私は呆れていた。

「何してる……」

 最後までは言わせてもらえなかった。

「やっぱりやめようよっ」

 キョーコの顔はびっしょりと濡れていて、滲んだマスカラが下瞼を黒く染めていた。目が潤んでいるどころではない、脂汗もかいているようだった。私は内心驚いていた。いつも飄々としているキョーコがこんなことで。踵からヒールのストラップが外れている。ハンドバックが地面に落ちる。次第に呼吸が荒くなっていって、私は静かに慌てた。そのときだった。

「あっ」

 ともちゃん、と零れ落ちた名前。キョーコが目を見開く。視線の先を覗けば、ひとりの落ち着いた雰囲気の女性がいた。キョーコよりも幾分か年上に見えるのは間違っていないだろう。ともちゃんは、ちょうど帰ってきたところだった。私たちは息を殺して、木の影に隠れる。ともちゃんは先程の私のように、階段を大きい音を鳴らしながら上っていった。カンカンカン、高々と響く帰宅のファンファーレ。

 キョーコはその様子をただじっと見つめていた。ともちゃんが階段を上っていくのを一瞬たりとも見逃すことができないらしい。こちらに気がつく様子はない。いや、本当は違うのかもしれない。キョーコは理解しているのだろう。ともちゃんはそのまま角にある部屋の扉を開けた。こちらに視線は寄越さない。気休めの一瞥すら与えてくれない。私たちにはただ、暑い空気が漂っている。
 扉が閉まっても、私たちは暫くの間動けなかった。やっとの思いで、こちらに振り向いたキョーコの顔がひしゃげている。無理矢理に作る笑顔が痛い。

「帰ろっか」

 何故だろう。私たちは取り残される、置いていかれる。こんなにも簡単に。

 帰りの電車は、どちらも声を発しなかった。発せなかった。キョーコは丁寧に整えていた髪をくしゃくしゃにかき混ぜて、ずっと俯いていた。化粧が崩れても、気にする様子はない。いつもだったらアイシャドウがよれるだけで、癇癪を起こすのに。

「シューマイ食べないの?」

 今はフローリングに横たわって、ピクリとも動かない。話しかけても、反応はない。しょうがなく私はひとりで食事をした。崎陽軒はビールによく合う。キョーコの分は冷蔵庫に入れた。
 風呂から出ると、キョーコは上半身を起こしてはいたけれど、まだぼんやりとしていた。

「ともちゃん気付いてたね」

 ぽつりと呟いた声は小さかったが、私には聞こえた。やはりそうなのか。分かるもんなの? 適当な言葉で、場を縫い合わせる。パッチワークだらけの歪な真夜中。キョーコは大袈裟に頷いた。

「あの人のことは、あたしが一番知ってる」

 私は返事をしなかった。馬鹿馬鹿しいと内心思っていた。呆れていたのだ。出て行かなければよかったじゃないか。それだけが頭の中をぐるぐると回る。キョーコは続けた。

「あの人、あたしがいなくても生きていけるんだ」

 ともちゃんの名前を呼ぶのも嫌になったのか。繰り返される「あの人」という言葉。馬鹿馬鹿しい。

「あんたもそうじゃない」

 素っ気なく返せば、キョーコは黙り込んだ。私は畳みかける。

「キョーコが選んだんでしょ」

 感傷に浸るキョーコにうんざりしていたのかもしれない。私の言葉に、キョーコは明らかに傷ついた顔をした。

「なんでそんなこと言うの!?」

 取り憑かれたようだった。途端に役にでも入ったのだろうか。キョーコは立ち上がって、勢いよく涙を流した。涙が飛び散って、きらきらと女を照らす。細い手が握り拳を作って震えていた。私は悲劇を餌にビールを飲む。

「幹さんにはわかんないよっ、分かってほしくないし」
「当たり前じゃない」

 私に分かるはずがない、分かりたくもない。キョーコは理不尽に怒鳴る。

「分かろうとしろよっ」

 女は千切る勢いで、ボサボサの髪を掴む。ヒステリックな女は最低だ。私は冷静に考えていた。

「あたしがいけないのっ?」

 自分を傷つけようとして、他人を傷つける。自分を傷つけるふりをして、他人に刃を向ける。キョーコは、私の握っていた缶を強引に奪い取って、頭から被った。照準が定まっていないそれは、私の顔にいくらか零れ落ちてきた。汚い、最悪、頭にくる。熱くも、冷えた視線が私に突き差さる。女は言う。

「叱ってよ」

 何もかも面倒だ。

「叱って正してよっ。あたしが間違ってると言ってよっ」

 缶を床に叩きつける。黄金色の炭酸を吐き出して、フローリングに転がった。それを合図に、キョーコはしゃがみ込んでわんわんと吠えるように泣き始めた。野生の狼みたいだった。純粋で、愚かで、悲しい。

 少しの間観察していたが異文化交流は無駄だと思い知った。諦めることが最善策だ。私はしょうがなく身体を起こして缶を拾う。このままではゴミ屋敷になってしまう。明日の私が絶望しないためにも、タオルを持ってきて床を拭いた。乾いた綿は、みるみるうちに吸い取っていく。私は今更答える。

「しないわよ」

 しない、絶対しない。私は自分にも言い聞かせる。そんな資格は持っていない。迷子の手を引っ張ることもできない。期待には沿えなかったのだろう。キョーコは鼻水を垂らしながら、また泣いた。
 私はビールを拭いたタオルで、そのまま彼女を拭う。なされるがままのキョーコ。私は、女の手に刻まれた爪の跡を撫でた。

「あんた馬鹿ね」

 空いた隙間に、声がぽつり落ちていく。

「しってる」

 鼻声のくせに、やけに堂々としていた。キョーコはもう涙を流していなかった。思う存分泣いてすっきりしたのか、目には生気が戻っていた。キョーコは憎まれ口を叩く。

「幹さんもだよ」

 私は鼻で笑った。

「経理の重鎮になんてこと言うのよ。とても恐れられていたんだから」

 私が職場を歩けば、モーゼの如く道が開けたのだ。成績のいい営業マンだって退いたのだ。しかし、それは過去のこと。

「幹さん、それ褒められてないよ」

 呆れている。キョーコの顔に熱が帰ってきた。そして照れ隠しの言葉。

「それに崎陽軒はシウマイなんだよ、シューマイじゃないよ」

 一緒でしょ。言えば、キョーコはやっと笑った。

「最近どうですか」
「お酒はやめられてませんが」

 それが適量なんですよ。医師が微笑む。やけ酒に適量などあるものか。私は曖昧に笑みを作っておいた。

「一緒に住んでいる方は?」

 キョーコのことだ。たっぷり一拍置いてから、私は告げた。

「どうしようもないですよ」

 医師は声を出して笑った。看護師もつられて微笑む。私はなんだか気まずくなってしまう。女は今、今度こそ肉じゃがを作るのだとキッチンに立てこもっている。いつになってもカレーから抜け出せない。もうとっくに飽きたというのに。

「お薬はいつも通りで構いませんね。血糖値を下げるもので」 
「はい」

 確かに、肉が種族問わずゴロゴロと入ったカレーには必要だろう。そそくさと荷物をまとめる私を見る目が生暖かい。くすぐったい心地だ。慌てて付け加える。

「ありがとうございます」
「ええ、それではまた」

 自分で扉を開ける。急がなければならない。スーパーで買い物を任されているのだ。キョーコが待っている。
 糸蒟蒻入りのカレーの出来上がり。

* 

 キョーコは母の扱いが上手くなってしまった。今では、買ってきたお土産の煎餅をぼりぼりと食べている。図太い女だ。かつて母さんの好物だった。そんな母は今現在泣いている。

「幹ちゃあん、どうして」
「うん、そうだね」

 キョーコはもう慣れてしまった。母とキョーコの会話は成り立たない。お互いに気にしてなどいない。これが丁度いいのだろう。私は尊敬していいのか呆れていいのか悩んでいた。そのときだった。

「井上さん」 

 病室にやってきた看護師が私を呼んだ。キョーコと目配せをして、私は立ち上がる。いってらっしゃあい。間伸びした声が私を送り出す。看護師に連れられて、向かった先は診察室だった。以前話した事のある、若い医師がいた。矢継ぎ早に彼は言った。

「症状が悪化しています。他にご家族はいらっしゃいますか?」

 上手く息が吐けなかった。男は続けた。認知症は合併症を起こしやすいんです。

「精密検査をしたらもっと詳しく分かると思うのですが」

 勝手に続けられる報告。暗に検査をしろ、と迫られていることには気付いていた。風がが吹いている。元からいた、気付かないふりをしていただけ。

 私は大きな海にぽつんと置いていかれていた。舵のない船、碇も忘れてしまった。ただ、荒れた海を彷徨う。自由だが、漂流だ。遭難でもある。

 結構です。どうにか察してくれないか願ったが、はっきりと口にしなければならないらしい。舌が縺れそうになる。

「結構です、今の通りで」

 医師はデスクからこちらを向いた。しっかりと私を見据える。

「娘さんがしっかりなさってくださいね」

 ただそれだけ。追い出されるように診察室を出る。どうしようもなく途方に暮れた。私はどうすればいいのだろう。どうすれば正しいのだろう。冷房がやけに寒く感じる。背中に伝っていた汗が冷えていく。キョーコと母はまだ頓珍漢なキャッチボールをしているのだろうか。あちらに戻るのが億劫だ。帰りたいが、動きたくない。節操なく動き回る頭の中。もう滅茶苦茶だ、感情にまとまりがない。
 私はやっぱり私でしかないのだ、と思い出す。キョーコに塗られた蛍光ピンクのマニキュアが欠けていた。

「幹さん、大好き」

 それしか言葉を知らないようにキョーコは言う。馬鹿なインコ、喜ぶとでも思っているのだろうか。帰りのバスでも遠慮なくされる愛の告白、 聞くのさえ面倒になってしまった。私はゆっくりと息をつく。

「あんたもいい加減飽きなさいよ」

 思いの外、冷えた声が出てしまった。普段だったら適当に受け流すのに。キョーコも違うと気づいたのだろう。どうしたの、と私を心配する。

「どうしたもこうしたもないよ」

 自分が苛立っているのだと知ったときには遅かった。私の口は勝手に動いていた。皺に溜まったファンデーションが、私を曝け出す。覆い隠すには無理があった。腕に絡みつくキョーコを振り解く。禿げたマニキュアを爪で更に剥がしていく。汚れていく、惨めになっていく。

「私じゃなくていいじゃない」

 巻き爪が締めつける指先が苦しい。ささくれが引っかかる。息をつく間もなく、私は続けた。

「あんたもさ、適当に相手見つけなさいな。私みたいなおばさんじゃなくてさ。若いし、相手は選び放題でしょ」
「好きでいちゃ駄目なの?」
「そうじゃない、こんなおばさんに現を抜かしてどうするのって話よ」

 私はキョーコに畳みかける。キョーコは不満そうに唇を尖らせる。ああ、頭皮も痒い。身体が異物を受け入れない。今の私はきっとマンションの人間達と同じ目でキョーコを見ている。

「後悔していることがある」

 突拍子もなく話を変える。嫌だ、キョーコの癖が移っている。塗り替えられていた私を思い知らされて、更に嫌になる。若い女は純粋な目で訊ねる。口の動きだけで分かった。リコン、したこと?

「子どもよ」

 子どもが欲しかったの。私も母みたいになりたかった。母が与えてくれたものを、私も子どもに与えたかった。母だって、孫がいたら状況が変わっていたかも知れない。まあ、全ては架空の空論でしかないが。

「あたしは後悔しない」

 キョーコは言い張る。

「私は後悔したっ」

 声が車内に響き渡る。こんなにも大きな声が出るとは思わなかったが、後に引けなかった。私は叫ぶ勢いだった。否、叫んでいた。

「離婚したってだけで、出来損ないの烙印を押されるのよ? あんたに分かる、分かるわけがないね。結婚しなければ結婚しろ。したらしたで、子どもはいつだ。別れたのは私のせい。馬鹿らしい」

 本当に馬鹿らしい。風の噂で聞いた。元旦那だった男には、もうすでに孫がいるらしい。どうしてよ、私はあんたのせいで。吐き捨てるが、支離滅裂だった。バスの運転手はマイクを使用した。

「他のお客様にご迷惑になる行為はおやめください」

 頭に血が上っていた。ここがどこだか知らないが、降車ボタンを押す。すぐにバスは止まった。進む私にキョーコはついてこなかった。運転手がこちらを睨みつけてくる。バスから降りて、街の喧騒に巻き込まれる。みるみるうちに私は世界に馴染んでいく。歩いていれば、すぐさまバスに追い越された。久しぶりのひとりは安心した。

 部屋に帰ってきて、もつれるように座り込む。ゴミ袋にぶつかって、缶が転がっていく。むかつくから無視をした。寝室で服を脱ぎ捨てて、ベッドの中に潜り込む。誰も私に干渉しないように、足も手も出さなかった。息がだんだん苦しくなっていく中で、私は眠った。

 その日、キョーコは帰ってこなかった。

 インターホンは意味の分からない時間に鳴った。時計を見やれば朝の四時、まだぼんやりと薄暗い。無視を決め込むが、永遠に鳴るから私が諦めた。近所からクレームがきたらどうしてくれる。合鍵だって勝手に作っていたくせに。ドスドスと物音を立てながら、私は廊下を進む。鍵を開けて、勢いよくドアを開ける。

「もう何時だと思っているのよ」

 キョーコがいた。前髪が表情を隠す。隙間からするりと身体を滑り込ませてくる。いつも履いているヒールを乱雑に脱ぎ捨てて、勝手にリビングに戻る。何も返事もしないキョーコに苛立った。

「返事しなさいよ、ねえ」

 背後を責めるように着いていっても、振り向きはしない。キョーコはフローリングにショルダーバッグを突き落とした。前の恋人の部屋からくすねてきたグッチ。傷付くわよ。叱るように言っても、どうでもいいらしい。うん、ああ。曖昧な反応が返ってきた。キョーコは首を傾げる。その背中に、勝手にこめかみに汗が流れた。

私は気付くのがいつだって遅い。キョーコはようやく言葉を発した。幹さん。

「幹さん」

 こちらを振り返ったキョーコ。私は唖然とする。キョーコだけど、キョーコじゃなかった。私の知らない女。女は口角を上げた。得意げに鼻を鳴らす。

「抱かれてきたよ、中出しさせてやった。子どもできちゃうかもね」

 崩れる音がした。言葉の意味が他にもあっただろうか。そういう表現があっただろうか。しかし、言葉はその通りの意味をもっていた。キョーコは見せつけるように服を脱いでいく。白く綺麗な肌には、生々しい傷がそこらかしこにあった。キョーコは続ける。

「でも、安全日だったのが惜しかったね」

 へらへらと発せられる言葉たち。私は過去を思い返していた。私とキョーコは違う、分かっている。キョーコは知らないのだ。女性の周期は簡単に変わることを。安全日に避妊しなかった場合の妊娠率は三割近いと言われていること。それをキョーコは知らない。妊娠する女は妊娠する。妊娠しない女は妊娠しない。単純な話だ。
 行為の後すぐに帰ってきたのだろうか。皺くちゃになったパンツが脱ぎ捨てられる。裸になったキョーコの股からは何かが伝っていた。

「だから幹さんの願いも叶えられるよ」

 後悔であって、願いではない。中に出したからって、必ず妊娠するわけではない。分かっている、理解はできない。どうしてこんなことに。考えるが、原因は私だった。

「どうして幹さんが泣いてるの」

 音を立てて鼻を啜る。喉が引き攣る。いつの間にか、涙が溢れていた。それはお互い様だろう。キョーコの大きな瞳が潤んでいる。綺麗だなと今更ながらに思う。ボロボロの姿でもキョーコは綺麗だ。私は強引にキョーコの腕を引っ張り、顔を近づけた。
 たかが一瞬だ。されど、すべてだった。私には永遠にも感じられる時間だったのだ。最大限五感を研ぎ澄ませて、キョーコを知りたかった。脊髄反射に近かったのだろう。緊張した、心地よかった。相反するくせに上手に私の中でバランスを取る感情。この瞬間を私は永遠に覚えているだろう。それほどまでに十分だった。
 獣みたいに鼻を鳴らして、匂いを確かめる。なんて野蛮なのだろう。これは気の迷いだ、違いない。分かっている。でも、気の迷いでも意志だった。
 はじめて自分からキスをした。今まで付き合ってきた男には一度もしなかったのに。私は裸の女を抱き寄せる。頭のてっぺんから足先まで染みわたって私の一部になればいい。私の細胞ひとつひとつに新種の生物として組み込まれればいい。そんな無責任なことを私は考えていた。

 風呂場で隙間を残すことなく、キョーコを丁寧に洗った。温かい湯船に突っ込み、私は横で風呂椅子に座って、ビールを開けた。労働後のビールはいつだって美味い。もう片手はキョーコと繋がっていた。手を繋ぐ行為も久しぶりだった。キョーコは伸びをする。

「いやあ、困っちゃうね」

 やけに明るい口調が不自然だった。私は仕方なく頷く。確かにそうだ。

「あんた、予想以上に意味わからないことをするのね」

 言えば、頬を膨らませる女。全く緊張感がない。

「思い切りのよさが長所」

 私は息を吐く。反省の色が見られないキョーコに呆れていた。でも、私の方が幼稚だった。成長しちゃいない。忘れようとしても、思い出は化石のように発掘されるのを待っている。過去のタラレバにしがみついて、崖から落ちる。
 母はどうだったのだろう。考えても、きっとどうしようもないのだろう。母には母の、私には私の苦しみがある。そして、キョーコにも。
 私は母にはなれない。なれなかったし、ならなかった。母の期待通りになれなかった。母を傷つけた。私も傷ついた。キョーコを傷つけた。過去には戻れない。ならどうするか。生きるしかない。生きて生きて、生き抜くしかない。私を生きるしかない。祈りはいずれ呪いになる。課された祈りは、私が断ち切るしかない。
 キョーコの髪の毛足が揃っていない。私が切ったからだ。しかし、本人は気に入っているらしかった。 一回好きな人に切ってもらいたかったんだよね。そんな減らず口を言っていた。乱雑なおかっぱに切られたキョーコは、今まで以上に若く見える。
 昨日使用した妊娠検査薬は何も反応を示さなかったので、ふたりして安心した。キョーコは、幹さんの赤ちゃんだったら産む、などと回答に困る発言をした。
 ぼんやりと母とキョーコを眺めながらそんなことを思い出す。母は変わらず、キョーコに泣きついている。キョーコが背中を撫でながらなだめているが、状況は悪化するばかりだ。

「俊樹さんところに戻ってよお。幹ちゃんならできるよお」

 またか。幾度となく繰り返された祈り。私は咄嗟に言ってしまった。

「ありえない、あんなクソ男とよりを戻すわけないじゃない」

 部屋中のいるみんなが固まった。何だか面白い。 何故か私は誇らしかった。

「それに、この子はキョーコよ。私の恋人」

 母は油の切れたロボットのようにぎこちなくこちらを振り向いた。私はにっこりと微笑む。何年ぶりかしら。こうやって目を合わせて話すのは。ゆっくりと息を吸って、吐き出す。染み付いた癖は私を支える。大丈夫。私は自分に言い聞かせる。

「母さん。私やってみるわ」

 母を久しぶりに「母さん」と呼んだ。母さんは、濁りのない瞳で私を見る。その中に映る私はどう?

「そうですか、先生。幹をよろしくお願いいたします。頑張り屋なんです」

 母さんは私の手を祈るように触れた。私も母さんの手を強く握りしめる。私はここにいるよと伝えるように。私よりも皺くちゃの手。この手で私を守ろうとしてくれたのね。でも、もういらないの。ごめんなさい。喉を詰まらせながらも、必死になって言った。母さんの好きなお菓子を買ってくるよ。

「また会いにくるね」

 本当は頑張ったね、と頭を撫でて欲しかった。老人ホームを出たところで、キョーコが駆け寄ってくる。息が荒かった。

「あたしでいいの?」

 そこにはまだ幼い女がいる。迷子がいる。私は自信満々に言ってやる。握った手に、力を込める。

「気の迷いでも、あんたを選んだ、あんたがいた」

 キョーコはべそをかきながらも微笑んだ。綺麗な顔、好きな人。

「一階の大家にも言ってやんないとね」

 雨が降っている。雫が黄金色に輝いている。濡れる度に私は嬉しかった。私は水たまりだろうと関係なく足を踏み出す。足が濡れるがどうでもいい。おかげで私は汚れていく。

「幹さんっ、どこへ行こう」
「キョーコとならどこへでも」 

 これからは分からない。分からなくていい。私たちなら大丈夫だろう。どこから自信が湧いてくるのだろうか。私はくすくすと笑った。傘をささずに、私たちは歩く。こそこそと耳打ちしながら全力で笑っていた。右手に感じるキョーコの左手の感触だけが全てだった。
 履いていた靴はスポンジみたいに水たまりの水をぐんぐんと吸っていたから、私は裸足になった。光る雨の中を裸足で笑いながら歩く私を、キョーコは受け入れていた。ごくごく自然のことだとして。左手には靴、右手にはキョーコ。なんて最高なのだろう。
 幕はまだ閉じられていない。キョーコが強引に開けてしまった。客席に座るのは、私たちだけだ。みんなには教えてやらない。ふたりだけのシアタールームで、ふんぞり返る私たち。マナー違反はとっくにおかしていた。ポップコーンはバター醤油がいい、とキョーコがはしゃぐ。私はシナモンがいい。ハーフアンドハーフ。どちらも選んでしまえ、と教えてくれたのはキョーコだった。
 結末くらい自分で決める。私は過去の私に言ってやった。


#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 #小説


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