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「普通に考えておかしくない?」の可笑しさ

その考えは普通じゃないよ、とか、普通そんなことしなくない?、とか。
毎夜酒場におりますと、そんな言葉で誰かを否定する場に出くわします。
みなが当然のように口にする”普通”
実は私、この言葉が大嫌いです。

たとえば、多くの人と同時に関係を持つことは普通ではないでしょう。
同性を愛することも普通ではないですね。
次のあてもなく突然仕事を辞めることも普通ではありません。

では、それは悪いことですか?

相手を騙して多くの人と同時に関係を持つのは悪いことです。
同性を愛するのは悪いことではありません。
あてもなく仕事を辞めて誰かに迷惑をかけるなら悪いことです。

上の例は、あくまでも私の基準による判断です。
人によってはまた違った善悪の基準があるでしょう。

彼女を何人も作って遊ぶ人に対して、苦言を呈したとします。

「なんで駄目なの?俺はちゃんと一人一人向き合ってるよ」
「そんな関係、普通にだめだよ」

確かに普通ではないですね。
けれど、普通じゃないからだめ、は思考停止です。
相手を否定する理由にはなりません。

「普通じゃない」という言葉の裏に、”複数人と付き合うのは悪いこと”という自分の個人的な価値観があります。
普通であるかどうかと、それが善か悪かは全く別の話です。

「それが普通だから」

この考えを常用していると、思考の浅い人間になります。

そもそも、なぜ人々は普通でありたいのでしょうか?

普通とは、多くの人が共有する認識です。
そして巷ではよく、

普通であること=正解
普通でないこと=不正解

と捉えられますね。

多くの人が理解できることは正しいことなのでしょうか。
最大多数の最大幸福を考えるのであればそうでしょう。

あなたが民主主義社会において多くの人を動かす立場にいるならば、”普通”を重視しなければなりません。
可能な限り多くの人を幸せにするためには、時に少数派を切り捨てることも必要でしょう。

では、あなたがあなたの人生について判断するとき、”普通”を重視することにはどれほどの意味があるでしょうか?

少数派であることは多少の不便さを伴います。
民主主義の社会に生きる以上、社会は多数派が暮らしやすいように構成されているからです。

ただ、それだけなのです。

あなたの人生の決断において、最大多数の最大幸福を考える必要なんて一ミリもありません。
普通に従ったところで、誰が褒めてくれるわけでも誰が幸せにしてくれるわけでもない。
あなたの人生の責任はあなたしか負えない。

不便さを背負って自分の意思を貫くか、利便性をとって自分の意思を曲げるか、それはあなたの自由です。
ただあなたがより幸せになれる決断を下すだけでいい。

普通とは便利な言葉です。
あなたが望まぬ選択をするとき、とても便利な言い訳になります。

「本当はこれを選びたかったけど、普通はこっちだから」
「違うと思ったんだけど、みんながこっちを選んでいたから」

「普通じゃないから」と自分の望みを諦めてきた人ほど、普通じゃない選択をする人を目の前にしたとき、
「それは普通じゃない」と否定したくなるもの。

自分の考えの根拠が「普通かどうか」にある方、物事をもう少し深く考える癖をつけた方がいいですよ。
「それが普通だから」の奥には、必ず何かあなた自身の経験に基づく考えがあるはずです。

そしてあなたの考えを「普通じゃない」と否定する人が現れた時には、思い出してください。
たった一人の個人的考えを、あたかもこの世の道理であるかのように見せる言葉、それが”普通”です。

多くの人が共有している認識だからと言って、それが正解ではない。
多くの人と同じように生きたって、あなたが幸せである保証なんてない。

なんてくだらない言葉でしょう。普通。
けれどこの言葉に意外と振り回されてしまいがちなのが人生。

普通であることよりも、自分が幸せに思える時間を大事に生きていきたいものですね。

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