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技士長紹介(臨床経験一つ目の病院)

◇公立病院で社会人となる


2000年に臨床工学技士資格を取得し、公立病院で就職した。ここでは約6年勤務した。
透析業務が中心の職場で、透析室は20床、看護師は7名くらいいたかな。臨床工学技士は2名だった。技士室には昔使っていた動物実験の研究台が残っており、透析では熱心に研究が行われていた病院だった。私が勤めたころにはそういったことはしていない💦
透析業務だが、初めて穿刺したときは緊張はさほどなかったが、非常に不安だったことは覚えている。穿刺が嫌で仕事に行きたくないなーと思ったことは何度もあった。けど、頑張って通い続けて克服したことは自信にもなった。高校の野球部で培った根性と忍耐がここで活かされたんだろうと思う。穿刺では、患者に怒られ透析をしないと出て行った患者もいた。6年間穿刺させてもらえない患者もいた。自身決して下手ではないのだが、、。患者と向き合うことは本当に難しいと思った。

今では想像もつかないが、当時オフラインHDFやHFの透析療法は、透析補液を生成するためのA液とB液は分かれていた。しかも、両液共にアンプルだった。B液を1瓶注射器で吸ってはA液に混合し調剤する。それを10本前後透析装置に吊るして、連結管で繋ぎ荷重で管理し、血液回路に持続注入していく。本当に今じゃ考えれない手間だった。また、輸血の際にGVHDを回避させるのにセパセルという白血球除去をする専用点滴セットなんかもあった。透析回路も接続がロック式ではないため、危なかった💦
沢山の医療の技術が進歩し、安全性が向上して今があると日々つくづく思う。
院外活動では、1年目に技士会に入り、2年目で大阪透析研究会で発表した。発表はさほど緊張はしなかったが、質問に的確に返答できなかったため、質問者の顔と名前は今も覚えている。今となっては、研究会などでその方とよく話をする(笑)。透析技術認定士を取得したのは3年目だった。東京で講習会、東京で試験だった。今ではオンラインが普及しているから、便利になったなと思う。20年たった今でもこの資格の更新はしている📓

◇仕事以外でのこと

職場は実家から1時間以上かけて遠いなーと思って通っていたのを覚えている💦
公立病院だったため、公務員だった。公務員は必然と互助会に入会するようで、関連施設などのジムを利用し、仕事帰りによく通っていた。よくジムのプールで泳いでいたなー。もちろんプロテインも飲んだ。学生時代一応甲子園を目指し野球をやっていたこともあり、自治体の野球チームに誘ってもらった。チームは野球経験者が少ないのこともあり、なぜか私がエースでピッチャーしていた(笑)。高校時代ピッチャーしたことないのに(笑)。けど、野球は好きだからとても楽しかった。役所の人たちとも知り合いも多くできて、仲良くしていたな。チームのユニホームは当時マリナーズに居たイチローがカッコよくて、それに近いデザインのユニホームをみんなで考えた。結構カッコよくて気に入ったユニホームだった。未だに持っている(笑)。
また、今の時代はないだろうが当時は全国の自治体が集まる会合があった。公務員は毎年役所や病院などの職員から執行委員を選出し、各自治体の取り組みなどを報告するため、毎年全国の開催場所にいく。執行委員をやった年もあり、北海道にいった。なかには病院勤務の執行委員もいてたので、他職種の方とも何人か話した。執行委員になると職員の正月手当の交渉なんかもする。賞与もそうだったかな?💦

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