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アイドルファンでない私が『日向坂で会いましょう』を垂れ流す理由。

3日もかからなかった。完敗である。
私は今『ひらがな推し』『日向坂で会いましょう』を一気見している。いまさら、である。


事の経緯

『ひらがな推し』とは、2018年4月〜2019年3月にかけてテレビ東京で放送されていたけやき坂46(現:日向坂46、以下人名・グループ名すべて敬称略)の冠バラエティ番組で、彼女たちの他にオードリーの2人がメインMCを務める。グループの改名に伴い2019年4月〜現在は『日向坂で会いましょう』と名称のみ変更して放送されている。つまり、私は名称変更前の番組から一気にアーカイヴを掘り(どのように見たかについては触れないでほしい)、3日で半年分の放送を消化した。すでに『日向坂で会いましょう』に突入しており、この調子でいけば5月末には放送にも追いつくだろう。

私は、アイドルの楽曲を頻繁に聴いたり握手会に足繁く通うようなファンではない。むしろそうしたカルチャーに一定の距離を置いている人間だ。音楽を聴くときは楽曲の構造やサウンドアプローチに新しさを感じたいし、手を握るのは恋人とだけで充分。そんな私が、アイドルのバラエティ番組にハマったのである。
きっかけはTwitter上の友人達だ。日付が変わりしばらく経つと、タイムラインが騒がしくなる。身バレを防ぐため文面は加工するが、『日向坂で会いましょう』の最新回(2020年5月17日放送)を視聴した彼らは口々に「リモートでも可愛い日向坂46とおもしろいオードリー偉い」「推しの頑張りが結果に出たので嬉しい」と漏らす。放送時刻になるや否や「時間だ!」と狂喜し、番組が終わりに近づけば「この30分以外は地獄」と乱舞する友人もいる。最後の彼だけ精神状態がいささか穏やかでないのは否定できない。私と同じく一気見した友人もいて「こうやってガンガン行けるようになるんだなって感動した」とこぼしていた。彼らの熱に押されるように、私も『ひらがな推し』から視聴スタート。最初4回は自己紹介。これでは何もわからない。スワイプしては再生、スワイプしては再生。少しずつメンバーの様子が掴めてくる。スワイプしては再生。スナック眞緒は当たり企画。スワイプしては再生。収録で大人しい彼女は楽屋でうるさい。これを幾度か繰り返し見つけた推しにニヤつけば、立派な視聴者いっちょあがりだ。しかし、私が『ひらがな推し』『日向坂で会いましょう』を一気見できたのは、推しのお陰だけじゃない。
実は、坂道グループのバラエティーにハマるのはこれが初めてではない。以前には、乃木坂46のメンバーが出演する『乃木坂工事中』や、欅坂46のメンバーが出演する『欅って、書けない?』を一気見したこともあった。これらは同局で連続して放送されているが、推しの卒業やグループのモードが合わなくなったことが理由で現在は視聴していない。しかしいずれも沼に落ちるのは一瞬だったし、その理由も『ひらがな推し』『日向坂で会いましょう』を一気見したのと同じものだ。
アイドルを大して知らない、なんならあまり好きでもない人間が、なぜ坂道グループのバラエティにハマるのか。それはきっと、バラエティ番組の中でトップクラスに優しさ・安心感が感じられるからだ。箇条書きっぽくなるが、そう感じたポイントをいくつか書き残しておく。『ひらがな推し』および『日向坂で会いましょう』鑑賞時に感じたことがベースになるが、『乃木坂工事中』や『欅って、書けない?』に共通するフィーリングも多数あるだろう。また『ひらがな推し』『日向坂で会いましょう』双方のエピソードを取り上げるが、これ以降は混乱を避けるため『日向坂で会いましょう』にタイトルを統一する。褒めの感想がメインではあるものの、気になった点も記述するのでご容赦願いたい。なお、すべて個人の見解である。

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復活めでたい!


1. 誰にも手酷く体を張らせない

未だに「バラエティ番組の収録でお笑い芸人が骨折」というようなニュースを耳にする。いつまで経ってもこの手の事件がなくならないのはどうなんだろうと思う。対して『日向坂で会いましょう』の運動系企画は穏やかだ。様々な企画を1週〜数週にわたって行うが、怪我に至るほど体を張るものはない。三輪車レースや押し相撲、椅子取りゲームなど、そのほとんどが和やかなものばかりだ。もちろん、現在この国で放映されているバラエティがすべて過激であるとは思わない。むしろ少数派だとすら思う。だがそれでも『日向坂で会いましょう』の穏やかさは私を安心させる。押し相撲で倒れた先にマットが敷いてある様が、こんなに気持ちを鎮めてくれるとは思わなかった。
とは言えこれは回によってバラつきがある。特にアルバムやシングルをリリースするたび、ヒット祈願と題してバンジージャンプや駅伝をやらせるのは感心しない。怪我こそしない程度の企画ではある。しかし、本人達にとって心身ともに負担になるだろうそれを感動のダシに使うのは、残酷ショーとしか言いようがないものだ。秋元康がプロデュースした様々なアイドルグループで起こるこの事象に、私ははっきりと辟易している。企画の大部分がゆるゆる見るのにふさわしい楽しさ・穏やかさであるだけに、この点だけは残念だ。だって今日び三輪車レースや押し相撲でキャッキャしてるの最高すぎません??それでブチあがれるの平和じゃないですか!!それでいいんだよ!!それだけで!!!浮島の上で綱引きしあっても落ちた先に小麦粉プールがある、この平和な心地良さが最高なんですよ……カメラの真ん前で顔から落ちた佐々木美玲が好きです。

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初落ちにしてこのクオリティの高さ


2. トラウマや主従関係を笑いの種にしない

ドッキリ企画が苦手だ。見られないくらいに。自分がその状況に追い込まれたらと考えると、目を向けることすらできなくなる。ましてやドッキリにかかった当人からすれば、ネタバラシまでの時間は地獄そのものだろう。下手すればトラウマにもなりかねない。加えて「笑う/笑わせる」側としての仕掛け人と「笑われる」側としてのドッキリ対象者が明確に区別されているのにもモヤモヤする。それは主従関係と何が違うんだ?と思う。おそらく、ドッキリを見るのに私は向いていない。だけど、トラウマを植え付けかねないコンテンツが「笑い」のツールとして用いられ、それで笑う人もいるという事実に、どうしてもやり切れなさを覚えてしまう。
『日向坂で会いましょう』にはそうした負の感情を笑いの種に使う場面がほとんどない。代わりに原動力となるのはメンバー自身のパーソナリティだ。ステージ上からは窺い知れない個々人の言動や挙動を取り上げ、相手のプライドを傷付けないように笑いに昇華する。そうした非常に繊細な笑いが積み重なることでメンバーも自信を持ち、MCのオードリーと対等に向かい合えるようになる。そう、ここに主従関係はない。オードリーもメンバーをイジるし、その逆も当然存在する。特に春日と渡邊美穂のやりとりは回を追うごとに激しくなるが、そこにも相手のプライドを傷つけない絶妙なバランスが存在している。FRIDAYに撮られた直後の春日を追求しているのか……?と見せかけて全く違う文脈の憤りをブチこむ渡邊の掛け合いはその最たるものだ。どれほどイジろうと相手へのリスペクトを欠かさない。そうした雰囲気を時間をかけて作り上げている印象が『日向坂で会いましょう』にはある。だからこそ、上村ひなのにメンバーが行った初対面ドッキリを、若林正恭が優しくたしなめた場面が忘れられない。あのイジりは数少ない、他者へのリスペクトに欠けた一幕だった。きっちり笑いに変換していたけれど、あの若林の一言は本心だと思うのだ。

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愛のムチと受け取りました


3. メンバーらしさを重んじるオードリーのMC

「ダメでもいいんだから。そういう場だから。」
メンバーの意外な一面を発掘する企画の際、春日俊彰が井口眞緒に向けて言った一言に『日向坂で会いましょう』の何たるかが詰まっていると思う。1.や2.の要素にも通じるが、この番組は日向坂46のメンバーに対して優しい。ここで語るべきはやはり、MCであるオードリーの活躍だろう。若林と春日の2人はその方法こそ違えど、メンバーのポテンシャルを引き出すために尽力している。まあ、そんなの当たり前の話ではある。しかし同時に、MCのスタイルからメンバーへの配慮が感じられもする。簡単に言うなら、2人とも受け身だ。
若林は主に「頭ごなしにディスらない」手法を取る。積極的に発言するメンバーはもちろん、そうでないメンバーに話題を振るときも「苦手である」ことをネタにして華を持たせる。不得手なものに強い口調で非難を加えたりはしない。対して春日は「あえてけしかける・憎まれ役になる」アプローチが得意だ。例えば大喜利企画。お題が出されるや否やトップバッターを買って出て、大してウケない様を見せつける。また春日に奢らせるための企画ではあえて憎まれ役になり、背筋や腹筋、腕立てでムキになってみせる。こうした姿を見せることで「完成度が高くなくても発言していいんだ、ツッコんでいいんだ」というハードルの低さをメンバーに提示していく。そうして引き出した発言に全力で立ち向かうのが春日だ。振る舞いゆえアグレッシヴに見えるが、それはメンバーの発言を引き出したいがためである。やはり彼も受け身の立場だ。
「ディスらず穏やか」な若林と「ハードルを下げるためにけしかける」春日。『乃木坂工事中』のバナナマンも『欅って、書けない?』の土田晃之・ハライチ澤部佑のコンビも「メンバーのポテンシャルを引き出す」点においては共通しているが、ここまで綺麗に役割が分担されているのはオードリーだけだ。そうした2人のMCによって、日向坂46のメンバーには「お互いの尊重」と「活発なコミュニケーション」の両方が身についていく。少なくとも私にはそう映る。苦手なものがあっても構わないし、それがその人らしさだ。だから萎縮せず、思うようにやればいい。当たり前だからこそ意識しづらい理想的なコミュニケーションを、この番組では感じられる。『日向坂で会いましょう』がメンバーらしさを重んじるシェルターにも自由な遊び場にも見えてくるのは、オードリーのMC力によるところが大きい。みんなの振る舞いにホッとしたり癒されたりするのは、単に彼女達が可愛いからか?否、「この番組では個性が尊重されている」と肌で感じるからだ。

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春日、あんたは偉いよ


おわりに

ここまで、『日向坂で会いましょう』の好きなポイントについて書いてきた。「優しさ・安心感」に焦点を絞ったため3点のみの記述となったが、他にもこの番組を好きな理由はある。テロップがやたらと気が利いていたり、これまでの文脈を踏まえていたりする点。時折登場するどきどきキャンプの2人もいい味を出している点。そして何より、メンバーのチャーミングさが回を増すごとにどんどん増えていく点。『欅って、書けない?』時点で気になっていた齋藤京子や宮田愛萌はもちろん、だんだんと表情にバリエーションが出てくる丹生明里や、逆に最初の名乗りから完成度が高かった上村ひなのが愛おしくてしょうがない。はたまた「富田鈴花のキャラは定まるんだろうか」とハラハラもする。最新回には追いついていないので早く見なければ。2020年5月現在で卒業してしまったメンバーについては認識しているので、柿崎芽実が穏やかに過ごせているのかどうかに思いを馳せたりもする。在籍中のメンバーもそうでないメンバーも健やかに生きていてほしいし、先に挙げた「お互いの尊重」と「活発なコミュニケーション」の両方をしっかり携えていてほしいと思う。まあ、これは余計なお世話か。
これから先、私が日向坂46のライヴや握手会に行くかはわからない。冒頭でも伝えた通り、私はアイドルカルチャーに距離を置きがちな人間だ。メンバーや現場に通うファンからすれば私はただのフリーライダー、悪しきいち視聴者に過ぎない。それでも『日向坂で会いましょう』のなんとも言えない優しさに、どうしようもなく癒されている。オンライン・オフラインを問わず、今は思想信条の違いでギスギスしがちな時期だ。心ない人の心ない声で落ち込んでいる誰かを、いったい何度見たことか。そんな中、より良いコミュニケーションとは何かを思い出させてくれた『日向坂で会いましょう』はちょっとした救いだった。いつか機会が訪れたら、握手会に足を運んでみたいと思う自分がいる。この番組を通して、彼女達のことを好きになれたからだ。だけど、レーンに並んで直接声をかける日はまだ遠そう(いろんな意味で)。だから今は、手を握りながら言うべき言葉をここに置いておく。
本当にありがとう。あなた達のおかげで、私はこれからもやっていけそうです。

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