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沖縄が好きかときかれたら

2011年3月14日。JALの那覇行き最終便に飛び乗って、私はそのまま沖縄に移住してしまった。もうすぐ丸11年を迎える。

最初の1年、「いつまでいるの?」「いつ帰ってくるの?」と、親しい友人たちが「なんだか知らないけど彩が自由気ままに沖縄にいるうちに」と何度も遊びにきた。自分が旅行ではなく沖縄にいて、そのことを自分も周りも珍しがっていることが楽しかった。最初の冬、あたたかいはずなのに、2回続けてひどい熱風邪をひいた。どうやら主人は帰らなさそうだと気づいた体が、水や空気の違いに適応して調整に乗り出したのだと思う。

2年目になると、「いつ帰ってくるの?」は「帰ってこなさそうだね」に変わった。差し迫った情熱に突き動かされたのか、ただぼんやりと目の前にやってくる機会を受け入れていただけなのか。たぶん両方なのだけど、沖縄に移住して2年目にして沖縄内2拠点生活を送った。沖縄本島の宜野湾にあった家賃27,000円のボロアパートと久高島の宿泊交流館の裏庭にあるプレハブ小屋の2拠点。まだ32歳だった冒険心に支えられて、地縁血縁コミュニティの洗礼をもろに受けながら仕事をさせてもらった。地域メディアをつくる仕事だった。

とはいっても、決められたやるべきことがないから毎日が退屈で、自転車で島の中を動き回った。動き回ると、人に会う。例えばある日、浜に出かけたら、潮の引いたイノーを遠くから歩いてくるおじさんに会った。近寄ってみると、ミーバイをたくさん釣ったところだった。その場で手際よくさばかれたミーバイの血で赤く染まった潮溜まりの色をよく覚えている。海蛇(イラブー)の手づかみ漁や燻製の準備を手伝わせてもらったこともあった。イラブーを待ち受ける深夜の岩間の暗さ、どぷんどぷんと岩にぶつかりはね返る水の音。イラブーのおしっこのレモンイエローとくさい匂い、もうもうと湯だつ鍋にイラブーを投げ入れるおばあの豪快な仕草。あの年の八月マティは台風で停電していたから、島じゅうが真っ暗で月がものすごく綺麗だった。スク(アイゴの稚魚)漁に連れて行ってもらったこともある。スクの群れがいなくて暇を持て余した海人の遊び心で、船から水中に垂らしたロープの端っこに掴まって、水深3メートルくらいのエメラルドグリーンの世界を船でビュンビュン引っ張ってもらった。最高の遊びだった。あれ、どうやって息継ぎをしていたんだろうか。沖縄では刺身は酢味噌で食べると知ったのも久高島の漁港だった。1年たらずの久高島生活だったけれど、とても静かな日々の中に思い出がたくさんある。人びとの個性も夜の闇も、ひとり泳ぎ出た真夏の海の青も、すべてが濃かった。神の島と呼ばれるほど神行事が多く、琉球創世神話の舞台にもなっているところだけれど、私にとっては目の前で繰り広げられる自然とがっぷりよつの暮らしが面白かった。たくさんの神行事は、自然とともに暮らしているからこそ心に宿る畏怖や感謝から生まれ出た必然なのだとわかった。自然がなくては成り立たない暮らしあっての祈り。暮らしを涵養する自然あっての神なのだ。

めちゃめちゃ端折るけれども、それから10年の時を沖縄で生きてきて、いまだに好きなのかどうかわからない。2015年に東京との2拠点生活を始めてからは、沖縄の所在地も入った名刺を渡すたびに100%の確率で「沖縄ですか。いいですね」と言われ続けてきた。言われるたびに、「いいですか?それはなぜ?」と訊きたい気持ちを堪えてきた。すごく興味があるわけではなく、なんとなく言っているに違いないから。だけれども、「なんとなくいい」って、ブランドとして最強だ。同じシーンで、「沖縄、行ったことないんですよ」とわざわざ申し出る人も多い。だいたい残念そうだったり、「富士山、登ったことがないんですよ」に近いトーンでするべきことをしていない感じを出している。なんとなくよくて、一度は行かないと残念と思われている。沖縄ブランド、最強すぎる。

好きなのかどうかわからないとわざわざ言いたくなるこの気持ちは、その「みんなが思ってるブランドとしての沖縄」が好きなわけではないという、居住者の変なプライドなのかもしれない。あ、いや違うな。「みんなが思ってるブランドとしての沖縄」には「いいです。いいんですよ。いいですよね。間違いなくいい。青い海青い空最高。ほしのやとかハレクラニ、泊まりたい!」と同調できるのだけれども、その「いい」が住んでいる理由だと思われると、「それはちょっと(違う)」と唇の端が微かに歪む。

別に「あなたよりも私の方が沖縄を知っています。なんたって住んでますから。住まなきゃわからない部分を理解しないで勝手に『好き』って解釈しないでください」なんて暑苦しいことを思うわけでもない。なんなら私は、11年住んでいるのに沖縄のことを全然知らない自信がある。「沖縄って楽園みたいに思われてますけど、貧困とか米軍基地とか特有の問題を抱えてるんです」だなんて、常日頃解決策を真剣に考えているわけでもないビッグイシューを盾にして「沖縄ってなんとなくいい」と思っている人の無知を指摘する気持ちも(ひょっとしてあるのではないかと自分の心を探してみたけれど)見当たりません。大切にするべきことだとは思うけれど。

書きながらだんだんわかってきたのだけれど、沖縄が好きかときかれるとちょうどいい答えが見つからない感じがするのは、私にとっては「好きかどうか」よりも11年経っても離れていないという事実の方が重いから。11年の間には、いろんなことがあった。それなのに、なまじ沖縄がブランドとして好感度が高いばっかりに、「好きなんです」という答えを期待した「好きなんですか?」がどこからともなく飛んでくることに、面倒くささを感じているのです。

もはや好きとか嫌いとかじゃない。確固たる「いる理由」や「狙い」があって、いるわけでもない。でも、とにかく、ご縁が続く。これはもう、なにか役目があるんだろうと納得している。

行きがかりじょう沖縄で生きてきたら、いろんな人や仕事との出会いがあって、それがけっこう面白くて、東京みたいに過剰にひしめき合ってるせいで大声を出さないと誰にも何も聞こえない感じとか、人ごみに邪魔されて歩きにくいみたいなこともそういえば少なくて。沖縄で生きてるわたしのことを、わたしはけっこう好きだなと思っています。

今いる場所にいる自分が好きって幸せなことだと思う。最初にサクっと移住できたのはフリーランスだったからなので、フリーランスってやっぱり、目指す価値がある働き方です。


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