「生んでくれてありがとう」と言えるか

小学校4年生の半成人式の記憶。
クラスメイトがたどたどしく「そだててくれてありがとう」「うんでくれてありがとう」のメッセージを声に出して次々に発表する。それぞれの親が見守る。そんな光景を横目にみて、疑問と違和感が拭えなかった。
「そんな重い言葉、なんで軽々しく言えるんだろう」と。

子として「育ててくれてありがとう」は言ってもいいけど、「生んでくれてありがとう」とは絶対に言いたくない。そうはっきり言語化して頭に浮かべるようになった。だって私は「生んでくれ」なんて親に頼んだ覚えはない。

人間は、どうしようと生老病死の苦しみが付きまとう社会のなかにいる。それがわかっているはずの親は20年前わざわざ妊娠し、私を産んだ。親ってなんて変な生き物なのだろう。苦しみがいっぱいの世界に、わざわざいろいろな苦労や痛い思いをして、わざわざ自分に似た半身のような存在を生み出す。だれもかれも同じことをする。それを何万年も、ときに何代も。こうして考えると人類の歴史って生き物って、相当にやばい。極論私や親も、ほかの生きものと同じ、先代のエゴで勝手に生み出された地球の生物にすぎないけれど。

なんだかひどいことを考えつづっているという自覚はある。私は親を心の底から嫌っているとか、憎んでいるとかでは決してない。いや、まあ、好きでもないけど。
でも、そんな矛盾してみえるこころをだれかに知ってほしい。

子は親になれないし、親は子になれない。それは当たり前のこと。でもその意味を本当に理解したうえで、徹頭徹尾子どもと相対する親はいない。親にとって子どもは紛れもなく半身であり、人生を共にするための存在のはずだからだ。時にどうしようもなく思い通りにいかなくて「あんたなんてうむんじゃなかった」と口走ってしまったりするだけだ。というか、そんな面倒くさいことに考えを巡らせる暇なんて親にはない。自分の人生を歩むだけでも大変なのに、わがままな別の個人が日々の生活、人生に介入してきて挙句の果てにその子の責任を負わなければならないとくる。想像するだけでも大変だ。
一方で「大きくなってほしい」と「早く手を離れてほしい」という親の矛盾した胸中を、子はうっかり知る。あるいは、大人がもつ能力や自由さに憧れて「はやく大人になりたい」「大きくなりたい」としゃべり、あるときは全身全霊で、文句や愚痴を垂れ、態度で親の気持ちに反抗する。その営みの繰り返し。

私には、いわゆる10代のとき特有の「反抗期」をやる気力がなかった。そういうことができる親でも環境でもなかった。片方の親の精神がどうしようもなく幼いことがわかったから。親と雑談や会話が成立しないから。親が何前何万回話す数種類の愚痴をスピードラーニングして、仲の良くない親類との関係を理解して、自分の心をいかに平静に、どう整理するかに費やしたから。10代らしい元気がなかったから。自分がつかれるとわかっていたから。ひとを嫌っていたのに傷つくことが嫌だったから。
だからか、親を傷つけた記憶はたくさんあっても「親を傷つけた」という加害意識はもうずっと前から希薄だ。裏返しに、なにか感謝しようと思っても、言葉が自然と出ない。素直になれない。心から親とぶつかりきったと思える、満足できた記憶がない。だから遅めの反抗期はきっと一生続く。

でもいつか、人として「育ててくれてありがとう」くらい言葉で伝えられるようになりたい。私は生かされているし、生かされてもきた。
でも頑として親に「生んでくれてありがとう」は言うべきではない、と思う。なんだろう、子としてのプライドにかけて?とにかくそこだけは譲れないと思う。

小さくて弱い私はあのとき確かに、本能からだとしても生きることを選んだはずだ。私は生まれ生きるんじゃなく、今までもこれからも「生きること」を自分で「選んで」いく。

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