《備忘録》国外脱出などについての対話

 2024年3月27日、HIさんとの対話より。〔誤解のないように断っておくと、これはあくまで私が再構成した内容であって、以下のような内容が実際に話されたわけではない。〕

 研究者は良い仕事だ、とHIさんは言う。彼女は他者の痛み(痛みの可能性)に敏感だから、現実の研究者を理想化しているわけではない。研究者にも研究者にしか分からないような苦労と痛みがあって、それはもちろん彼女も承知している。だからその言葉は、研究者という仕事を理想化して羨んでいるのではなく、上手く言葉にならない想いを「研究者」という言葉に託している、と解釈すべきだろう。

 それでは、私が彼女の想いを記述することはできるのか。それには少なくとも二つの制約があって、いくら私が努力しようとも極めて不完全な記述にしかならない。

 一つ目の制約は、私が彼女ではないという単純なことである。私と彼女は異なる存在なのだから、彼女の想いをそのまま私が理解できるなどと思いあがってはいけない。対話を重ねていけば、私が彼女の想いに近づいていくこともできるだろうが、その過程で彼女の想いは変容を被るだろうし、彼我の距離がゼロになることもない。

 もう一つの制約は、記述することそのものに内在している。想いというのは、漠然とした感覚が複雑に混ざり合っているものだろう。しかし、それをテクスト〔文字列〕に出力すると、まず一列に連なったものとして形式が単純化され、そして社会に通用する言葉の組み合わせとして内容が単純化される。複雑な想いを「想い」として捉えたところで、それを文章化しようとすると、元の複雑さが失われてしまうのである。

 私には、できるだけマシなテクストを生みだすことしかできない。豊かな内容をもって生きていた他者は、文章化の過程で生気を抜かれてしまう。いや、他者の生気を奪い去るのは、研究者〔社会学者〕である私なのだ。

 社会学者はたしかに「良い仕事」かもしれない。だからこそ、その仕事が必然的に含んでしまう暴力性から逃げずに、それを背負って立つことが求められる。その倫理を失えば、知性はエゴの道具に成り下がってしまう。研究そのものの楽しさや歓びの背景に、他者への透明な暴力があることを認識したうえで、それでも研究を楽しめることが、社会学者の素質だと思う。

 誰にも干渉されたくない。誰かと深く関わりたい。IHさんのもつ二つの欲求は、一見すると矛盾しているが、しかし現代社会に生きる人間にとって普遍的な欲求だと思われる。

 IHさんにとっては、まず姉からの干渉が負担になっていた。姉からの干渉は〈カテゴリーの暴力〉とも言うべきもので、IHさんを一定のカテゴリーに押し固めたうえでカテゴリーの規範を強要する、という形式をとった。たとえば、高校時代に運動部に所属していたIHさんを「アスリート」というカテゴリーで把握し、リビングでくつろいでいる彼女に「アスリートなのにそんなんで良いんだ」と吐き捨てる、という調子である。

 もう一つ特筆すべきは、彼氏〔元彼〕からの干渉だろう。IHさんは、彼氏に冷めた原因として「彼氏面してほしくなかった」と語ってくれた。彼氏が彼氏面することには一見すると何の矛盾もなく、彼女も私にそれを説明する言葉が見つからなくて苦労していたが、これも〈カテゴリーの暴力〉の一種に違いない。すなわち、その彼氏は「自分の彼女」というカテゴリーでIHさんを把握し、カテゴリーの規範を彼女に押し付けたのであって、彼女にとってそれが耐え難い苦痛であったことは言うまでもない。

 IHさんにとって「誰にも干渉されたくない」という欲求は、「私にカテゴリーを押し付けるな」という叫びである。「アスリート」や「○○の彼女」であるまえに私はひとりの人間だ、という感覚を彼女はもっており、その感覚は職業選択の仕方にも強く影響している。

 ところで、「干渉」という言葉が用いられるときには、たいてい〈カテゴリーの暴力〉が作用していると言えるだろう。たとえば親から子への「過干渉」が批判されるときには、親と子がそれぞれ人間として対等に関係することではなく、親が「親」として子に「子」を押し付け、非対称的に関係することが批判されているのである。

 このような〈カテゴリーの暴力〉の裏返しとして、互いをひとりの人間として関係することへの欲求が生みだされる。「誰かと深く関わりたい」という欲求である。

 どれだけ「私はひとりの人間だ」と叫んだとしても、その声に耳を傾ける人がいなければ、自分の存在感の希薄さは解消されることがない。具体的な他者から「そうだ、君はひとりの人間だ」と承認されることで初めて、人間としての社会的存在感が安定する。他者をカテゴリーとしてまなざしあう社会の中で、IHさんはひとりの男性に期待を寄せたが、その男性も「自分の彼女」というカテゴリーで彼女をまなざしたため、彼女の期待は裏切られてしまった。

 専門学校での授業のつまらなさについても、IHさんは語ってくれた。たとえば、フラワーアレンジメントの授業で先生に花束を見せると「あなた、センスいいわね」の一言だけで済まされてしまった。センスがいいとは具体的にどういうことなのか、さらに改善するとしたらどうすればいいのか、先生に訊きたいことはたくさんあったが、彼女は何も言えなかった。このとき彼女を叩きのめしたのは、先生にとって自分は専門学校の規格を満たした生産物でしかないという事実であり、すなわち自分がひとりの人間として見られていないという事実だった。

「それから、授業がつまらなくなっちゃって。」

IHさんの語り

 たくさんの人に囲まれているはずなのに、どうにも現実感がない。「私はここに生きている」という叫びが誰にも届かないとき、そこに存在しているはずの他者こそが地獄である。他者たちが自分にカテゴリーのまなざしを突き付けると、ひとりの生きた人間であるはずの私は、カテゴリーに閉じ込められた囚人となってしまう。〈カテゴリーの暴力〉は、私の師匠の言葉を借りれば、類型の神話によって相手の人間性を剥奪することに他ならない。

人間が生きてゆく以上、あるていどの類型化はやむをえない。だが、直接にむかいあいながら少しずつ類型をつくる努力を怠り、わずかな接触の衝撃にすら耐え切れずに神話の形成に逃避し、一つの物語で世界を覆いつくそうとすることは、相手を無化しようとする抑圧である。

小熊英二『単一民族神話の起源』

 IHさんは、海外に一縷の希望を抱く。オーストラリアへの半年間の留学経験が、海外で生活していくことへの現実感と自信をもたらしたようだ。日本からの脱出は、彼女にとっては〈カテゴリーの暴力〉からの脱出であり、剥奪された人間性の回復を意味する。

 その是非は問わない。私にその資格はない。実際に、彼女も現在進行形で悩んでいる。

 私に言えることがあるとすれば、海外では「日本人」というカテゴリーを背負うことになる、ということである。このカテゴリーは、そう簡単に乗り越えられるものではない。人間は目的地を理想化する傾向にあるので、目的地で絶望しないためにも、ある程度の覚悟はしておくべきだ。

 最後に、私の感想を少しだけ。私は、IHさんの話を聞いて、逆説的だが安心してしまった。まだ日本にも、〈カテゴリーの暴力〉をまさに暴力として捉える感受性が残っていた。日本社会が内部から変わるとすれば、その感受性こそが足場となるだろう。



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