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ダンマの性質(全訳)

アチャン・チャー

●この法話は、1977年の雨安居において、ワット・パー・ナナチャットで修行をしている、西洋人の弟子たちに向けて語られたものです。

 風が吹くと、木に咲いている花は散ります。その中には芽が残って、小さな青い実になるものもあります。ですが、風が再び吹くと、そんな実のうちいくつかは落ちてしまう。それでも、最後まできちんと熟してから、地面に落ちる実もあります。
 
 私たち人間の場合も同じです。風に吹かれる花や実のように、人生の様々な場面で死を迎えることになります。ある人は母親の胎内にいる間に、亡くなります。またある人は、生まれてから数日で死を迎えます。成人に達することなく、子どものまま死んでいく人もいます。男性であれ、女性であれ、若くして亡くなる人はいるものです。もちろん、大半の人は高齢になってから死を迎えます。
 
 結局のところ、風に吹かれる花や実のように、私たち人間の生は、極めて不確実なものなのです。
 
 物事の不確実性というものは、この僧院の生活の中にも見出されます。出家するつもりでこの僧院にやってきたのに、気が変わって家に帰ってしまう人もいますし、きちんと頭を剃って出家をする人もいます。沙弥になったのに、還俗してしまう人もいます。たった一度の雨安居の間だけ出家をして、雨安居が終わると同時にすぐに還俗してしまった人もいました。風に吹かれる花や実のように、すべては不確実なものなのです。
 
 私たちの心というものも、それと同じようなものです。心に何か対象が生じると、それに惹かれ、まるで木から果実が落ちるように、その対象に引きずり込まれてしまうのです。
 
 ブッダは、このような現象の不確実性をよく理解していました。ブッダはまず、木の実が風に吹かれて飛んでいく様を観察し、それから自分の弟子である比丘や沙弥たちのことを想像してみました。そして、彼らもまた不確実性という同じ性質を持っていることに思い至ったのです。この不確実性こそ、万物を貫く真理なのです。
 
 常に気づき(サティ)を保っている修行者には、物事を理解するための助言者は必要ではありません。例を挙げましょう。ブッダが前世でジャナカ・クマーラ王だったときのことです。その王は、それほど熱心に勉強をしなくても真理を理解することができました。マンゴーの木を一本観察するだけで、彼は真理を悟ることができたのです。
 
 ある日、ジャナカ・クマーラ王は大臣たちと公園を訪れました。象の背中に乗った王が公園を散策していると、熟したマンゴーがたわわに実った木を見つけました。しかし、王はそのときは立ち止まることはせず、後でここに訪れたときに、マンゴーを採って食べようと心の中で思い、その場を立ち去りました。ところが、後からやってきた大臣たちは、マンゴーの実を見つけると、強欲にもそれらをすべてかき集め、食べつくしてしまったのです。王は、その出来事にはまったく気づいていませんでした。
 
 夕方になって、マンゴーの木のある場所に戻ったジャナカ・クマーラ王は、マンゴーを食べるのを楽しみにしていましたが、マンゴーの実がすっかりなくなっていることに気づきました。しかも、マンゴーの木の枝や葉はすっかりなぎ倒され、散らばってしまっているあり様です。
 
 マンゴーが食べつくされてしまったことを知った王は、心底がっかりしました。そのとき、王は近くにあったマンゴーの木が、葉も枝もそのままの状態で残っていることに気がつきました。王が不思議に思い、その木をよく観察してみると、その木にはまだマンゴーの実がなっていなかったのです。果実が無いおかげで、その木は誰にも荒らされることなく、無事でした。王宮への帰路、王はずっとこの出来事について考えていました。そして、
「王であることは不快であり、面倒なことだ。王として、常にすべての国民に気を配らなければならない。もし、他国が我が国に対して襲ってきたら、どうすればいいのだろう?」
という考えが思い浮かびました。王の心は休まるときがなくなり、眠っているときですら、悪夢にうなされるようになりました。
 
 そのとき、王の脳裏に、以前に見た実のなっていないマンゴーの木と、その周囲の荒らされていない枝や葉が思い浮かびました。そして、
「もし、私自身が実のなっていないマンゴーの木のような存在であるならば、誰にも害されることはないはずだ」
と考えたのです。
 
 王は自室に籠り、瞑想に取り組むことにしました。そして最終的に、実のなっていないマンゴーの木の例から学んだことに啓発され、出家を決意しました。王としての自分の人生をマンゴーの木になぞらえて、世間の物事に関わらなければ、厄介事や不安から解放され、真の自由を得られると結論づけたのです。もはや、精神的に不安になることはない。そう確信して、王は出家をしたのです。
 
 それ以来、出家をした王は誰かに
「あなたの師匠は誰ですか?」
と聞かれると、
「一本のマンゴーの木です」
と答えるようになりました。王は、出家を決意するために、たくさんの仏法を学ぶ必要はありませんでした。一本のマンゴーの木の存在が、王にとっての「修行者を涅槃に導く法(オーパナイコー・ダンマ)」だったのです。王は一本のマンゴーの木の存在によって導かれ、比丘となり、少欲知足の者となりました。王という身分を捨て、ようやく彼は心の安寧を得たのです。
 
 この物語の中で、ブッダはまだ悟りを開く前の菩薩でした。ブッダとなる以前の、ジャナカ・クマーラ王のように、私たちもよく周囲を見て、観察する必要があります。なぜなら、世の中にあるすべてのものが、私たちにとって学びのきっかけとなるからです。
 
 少しでも智慧(パンニャ)のある人は、世の中の道理をはっきりと見抜くことができます。そうした人は、世の中のあらゆるものが、私たちにとって教師であるということを、理解しています。木や蔓といった私たちにとって身近なものを観察することによっても、ものごとの本質を理解することができます。智慧があれば、誰かに質問したり、勉強したりする必要はありません。ジャナカ・クマーラ王のように、悟りを開くのには、私たちの周囲の自然を観察すればよいのです。なぜなら、あらゆる自然のものは、真理の法則に従っているのですから。自然は、真理の法則から逸脱することはないのです。
 
 智慧(パンニャ)、戒(シーラ)、定(サマーディ)の3つが揃えば、自然の法則をよりよく理解できるようになります。そのように修行を進めることによって、私たちは究極の真理である、無常(アニッチャ)・苦(ドゥッカ)・無我(アナッター)を理解することができるのです。森の木を例に挙げてみましょう。地球上のすべての木々は、無常(アニッチャ)・苦(ドゥッカ)・無我(アナッター)という真理を通して見ると、どれも等しく、ひとつのものなのです。生まれ、成長し、絶えず変化し、最後には枯れる。どの木であっても、この法則に例外はありません。
 
 動物や私たち人間も、森の木々と同じです。生まれ、成長し、絶えず変化し、やがて死んでいく。この誕生から死までの間に起こる様々な変化は、ダンマの法則によるものです。言い換えるなら、すべてのものは無常(アニッチャ)であり、衰え、最後には消え去ることが自然の法則だということです。
 
 気づき(サティ)を保ち、智慧(パンニャ)を育てれば、ダンマを現実のものとして見ることができるようになります。人間とは、生まれ、絶えず変化し、最後には死ぬものであると、受け入れられるようになるのです。この輪廻という生と死のサイクルを免れる人はいません。その観点から見れば、宇宙の生命は皆、平等です。したがって、一人の人間を徹底的に観察することは、世界中のあらゆる人間を観察することと同等だと言えます。
 
 それと同じように、この世界のあらゆるものがダンマであると言えます。肉眼で見えるものだけでなく、心の中に生じるものも、ダンマです。ある思考が生じ、やがて変化し、消え去っていく。それを名法(ナーマ・ダンマ)と言います。それが、私たちの心の本当の姿です。こうしたものこそが、聖なる真理なのです。このように現象を観察しないのなら、真理を理解することはできません。反対に、このように現象を観察するのなら、ブッダが説いたダンマを理解する智慧が得られるでしょう。
 
 ブッダは今、どこにいるのでしょうか?
 ブッダはダンマの中にいます。
 ダンマは今、どこにあるのでしょうか?
 ダンマはブッダの中にあります。
 まさに今、ここにあるのです!
 サンガは今、どこにあるのでしょうか?
 サンガはダンマの中にあります。
 ブッダ、ダンマ、サンガは、私たちの心の中に常に存在しています。しかし、そのことは注意深く観察しなければわかりません。この言葉を安易に受け止めて、
「私の心の中にも、ブッダ、ダンマ、サンガがあるのだ」
と思っている人たちがいます。しかし、正しく、真剣に修行に取り組まなければ、ブッダ、ダンマ、サンガを自分の心の中に見出すことはできません。なぜなら、その場合の「心」とは正しくダンマを知った心でなければならないからです。
 
 ダンマを知った場合にのみ、
「この世にダンマは存在し、それゆえダンマを実践することができる。そして、実践をすれば悟りを開ける」
という確信を持てるのです。
 
 例えば、感情、思考といった名法(ナーマ・ダンマ)は、すべて不確実なものです。私たちの心に怒りの感情が生じるとき、それは成長し、変化し、最後には消えます。喜びの感情も、生じ、成長し、変化し、最後には消えます。すべては、くうなのです。それはいかなる「物」でもありません。これは精神的なものであれ、物質的なものであれ、あらゆる現象に通じる法則です。私たち自身の心や身体を観察しても、周囲の環境にある木々や蔓を観察しても、そこに見出されるのは不確実性という不変の法則だけなのです。
 
 山も木も動物も、あらゆるものがダンマです。では、このダンマというものは、どこにあるのでしょうか? 端的に言えば、ダンマではないものは、この世界には存在しません。ダンマとは、自然のことなのです。このことを、サッチャ・ダンマ(正法)と呼びます。私たちが自然を見るとき、そこにダンマを見ます。私たちがダンマを見るとき、そこに自然を見ます。ですから、自然を観察することによって、私たちはダンマを知ることができるのです。
 
 私たちの人生の究極の現実が、瞬間瞬間の行為における「生」と「滅」の無限のサイクルに過ぎないのなら、たくさんの勉強をしても意味があるのでしょうか? 座る、立つ、歩く、横になるといった、あらゆる姿勢のときに、気づき(サティ)が確立していれば、智慧(パンニャ)が自然に生じます。そしてそのとき、今、ここに既にあるダンマという真理を知ることができるのです。
 
 今でも、真のブッダは生きています。なぜなら、ブッダはダンマそのものであり、サッチャ・ダンマ(正法)という形で生き続けているからです。サッチャ・ダンマは、私たち普通の人間が、ブッダになることを可能にするものです。それは、今でもここにあり、消え去ることはありません。
 
 ブッダは弟子のアーナンダ長老に、
「修行を通してのみ、真のダンマを理解することができる」
と語りました。ブッダを見るものは、ダンマを見ます。なぜでしょうか? ゴータマ・シッダッタは、ダンマを悟って初めてブッダとなったのです。ブッダも、悟りを開く前は、私たちと同じ人間でした。ダンマを悟れば、私たちもまた、ブッダとなります。これを心の中のブッダ、またはナーマ・ダンマ(名法)と呼びます。
 
 善い行為であれ、悪い行為であれ、私たちは自分のすべての行いの報いを受けることになります。ですから、あらゆる行動に対して、気づき(サティ)を保つことが必要です。善い行為をすれば、善い報いがあります。悪い行為をすれば、悪い報いがあります。私たちの日常生活を観察してみれば、それが事実であると分かるでしょう。ゴータマ・シッダッタは、この真理を悟り、この世にブッダが現れることになったのです。それと同じように、私たち一人ひとりが、この真理に達するために修行をすれば、その人もまたブッダとなることができるのです。
 
 ですから、ブッダは今もなお存在しているのです。私がこのように言うと、
「ブッダが今でも存在しているのなら、私もダンマを学ぶことができる!」
と喜ぶ人々もいます。私たちも、そのように受け止めるのがいいでしょう。
 
 ブッダが見出したダンマは、この世に永続するものです。地中にずっと存在する地下水を想像してみてください。私たちが井戸を掘るとき、地下水に到達するためには、穴を十分に深く掘り下げなければなりません。地下水は、以前からそこに存在するものです。私たちは水を新たに作り出すのではなく、ただ発見するだけのことです。それと同様に、ブッダはダンマを発明したわけではなく、以前からあったダンマというものの存在を、明らかにしただけなのです。瞑想をすることによって、ブッダはダンマを見たのです。そうして、ブッダは悟りを開きました。悟りとは、ダンマを知ることです。ダンマとは、この世界における真理です。ダンマを知ったからこそ、ゴータマ・シッダッタは「ブッダ」と呼ばれるようになったのです。そして、私たちも、「ダンマを知る者」になれば、ブッダとなれるのです。
 
 善い行いをし、仏法に忠実に生きれば、善と徳に満たされます。このことが理解できれば、私たちは決してブッダと離れているのではなく、常にブッダと共にあるということが分かるでしょう。ダンマを理解したまさにその時、私たちはそこにブッダを見るのです。
 
 真剣に修行に取り組んでいる修行者は、木の下に座っていようが、横になっていようが、どんな姿勢でもブッダのダンマを聞くことができます。これは、思考として頭の中に生じたものではありません。それは、清浄な心から生じたものなのです。ブッダの言葉を記憶し、思い出すことが重要なのではありません。重要なのは、ダンマそのものを見ることです。ですから、私たちはダンマを見ることが可能になるように修行をしなければなりません。そうすれば、私たちの修行は完璧なものになります。どこに座っていようが、立っていようが、歩いていようが、横になっていようが、ブッダのダンマが聞こえるようになるのです。
 
 ブッダは私たちに、静かな環境で暮らすことを勧められました。そうすることによって、「眼、耳、鼻、舌、身、意」といった六つの感覚器官(六根)を観察し、制御することができるようになるのです。六根の観察は、修行の土台となるものです。すべての現象は、六根を通して生じます。ですから、常に六根を観察し、制御することが重要なのです。善であれ悪であれ、一切の現象は六根を通して生じます。眼は見ること、耳は聞くこと、鼻は嗅ぐこと、舌は味わうことによって外界の対象を認識します。また、身は熱い、冷たい、硬い、柔らかいといった外界の感覚を認識します。そして、意は心に生じた印象を認識します。私たちは、これら六つの場所を中心に、観察の実践を続けていくのです。
 
 必要なことはすべてブッダが示してくださっているのですから、修行をするのに難しいことはありません。ブッダが果樹園を作り、私たちをそこに招いて果物を勧めてくれている様子を、想像してみてください。その場合、私たち自身が果樹園を作る必要はないのです。
 
 戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)のどれを学ぶときでも、私たちは新たに何かを作ったり、定めたりする必要はありません。必要なものは、すべてブッダの教えの中に含まれています。ですから、私たちはただそれに従えばよいのです。
 
 ブッダの教えに触れる機会を得ているということは、私たちに徳があり、幸運である証拠です。ブッダが作ってくださった果樹園は既に存在し、果物はもう熟しています。修行をするための、準備は万端なのです。この後必要なのは、その果物を食べる人、すなわち修行に取り組む信念を持った人物がいるかどうかということだけです。
 
 自分が過去において徳を積んできたことによって、仏法に巡り合えたことを、大変幸運なことだと思わなければなりません。犬や豚、蛇など他の動物たちが、どれほど大変な思いをして生きているか、想像してみてください。動物には、ダンマを知り、学び、実践する機会はありません。これは、カルマの法則によるものです。ダンマを知り、学び、実践する機会が無ければ、私たちは苦しみ(ドゥッカ)から解放されることはないのです。
 
 私たちは幸運にも人間に生まれることができました。ですから、戒律を破ったり、悪い行いをすることによって、悪業を作ってはいけません。涅槃への道を諦め、徳を積むこともしないような人になってはならないのです。自分には仏道修行など無理だと、希望を捨ててはいけません。そのように考えていては、動物たちのように不幸な人生を歩むことになってしまいます。
 
 私たちは、ブッダの教えを受けられる、人間と言う存在に生まれてきました。ですから、私たちは既に十分な徳と資質を備えていると言えるのです。私たちが自らの智慧(パンニャ)を育てるなら、それは今生のうちにダンマを観て、知ることへとつながっていくに違いありません。
 
 このように、私たち人間は他の生命と異なり、ダンマを学ぶことができる存在なのです。ブッダは今この瞬間、ダンマは私たちの目の前に存在していると説きました。ということは、ブッダもまた、今ここで私たちと向き合って座っているのです! 修行をするのに、これ以上うってつけの時があるでしょうか?
 
 普段から正しい考えを持ち、正しく修行に取り組まなければ、動物や餓鬼、または地獄の世界に生まれ変わることになってしまいます。自分の心を観察するのです。怒りが生じたら、それを観察してみてください。ただ、そこにあるものを見つめるのです。無知が生じたときも、欲が生じたときも、ただひたすらそれを観察するのです!
 
 このように常に心の状態を観察しなければ、人間界以外の場所に生まれ変わってしまいます。いかなる瞬間も、有(バワ)の状態にあることを知ってください。そのときの有(バワ)の状態によって、生(ジャーティ)が決まります。このように、私たちは心の条件通りに生きていく存在なのです。

アチャン・チャー『Bodhinyana』より
 
"Bodhinyana: A Collection of Dhamma Talks", by The Venerable Ajahn Chah, (Phra Bodhinyana Thera). Access to Insight (BCBS Edition), 1 December 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/bodhinyana.html .
 

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