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善い心を育てる(全訳)

アチャン・チャー

 最近、世間では功徳を積むことが流行っているようです。ここ、ワット・パー・ポンにも、連日多くの人々がやって来ます。旅行のついでに、この僧院に立ち寄る人もいるようです。そうした人たちは大変忙しくしているので、私と会って、ゆっくりと話をする暇もありません。なぜ、そんなに忙しいのにわざわざこの僧院へとやって来るのか? どうやらほとんどの人々は、功徳を期待して、このワット・パー・ポンを訪れているようです。反対に、悪行為から離れようとこの僧院へやって来る人は、ほとんどいません。悪行為は継続したまま、功徳だけを欲しがる。それは、汚れた布を洗濯することをせず、染めて誤魔化すような行為です。
 
 私は比丘なので、ついついこのようにストレートな表現をしてしまいます。まぁ、世間の人々には、仏法を実践するのは難しいでしょう。まず、教えが理解できません。理解できれば、そんなに難しい話ではないのですが。地面に穴が開いているのを想像してみてください。その底に、何かがあるとしましょう。底にある物を取ろうとして、皆が穴に手を入れます。ですが、手は物に届きません。すると、誰もが皆、
「穴が深すぎるから、手が届かないのだ」
と言うのです。千人の人がいたら、その千人全員が、「穴が深すぎるから」と穴のせいにします。
「自分の腕が短いので、手が届きません」
と言う人は、千人の中で一人もいないのです!
 
 功徳を求める人は、たくさんいます。ですが、もし功徳を求めるなら、いつかは悪行為から離れなければなりません。けれども、悪行為から離れようとする人は、ほとんどいません。ブッダの教えはとてもシンプルで、難解なものではありません。しかし、世間のほとんどの人々は、このワット・パー・ポンにわずかな時間滞在をして、すぐに立ち去ってしまう人達のように、ブッダの教えに深い関心を抱きません。世間の人々にとって、ダンマとはちょっと立ち寄るためだけの、一時休憩所みたいなものなのです。
 
 たった三つの偈で、仏教の教えのすべてを表すことができます。
 
Sabba pāpassa akaranam
すべての悪行為から離れる
 
これは、過去の諸仏が説いた教えです。これこそが、ブッダの教えの核心です。しかし、世間の人々は、このような教えは実践したがりません。身体と言葉と心(身・口・意)によっておこなわれる、あらゆる悪行為から離れること――それこそが、諸仏の教えなのです。
 
 きちんと布を染めようと思ったら、まずは使用する布を洗濯して、きれいにしなければなりません。けれども、ほとんどの人々はそのようなことはしません。彼らは汚れた布を、そのまま染料に浸けてしまいます。それでは、布を染めてもきれいになりません。大体、皆さんは汚れた布を染めて作った服を、着たいと思いますか?
 
 ブッダの教えに対しても、これと同じことが言えます。ほとんどの人々は、悪行為から離れることなしに、功徳だけを求めているのです。それはちょうど、
「穴が深すぎるから、手が届かないのだ」
と文句を言っている人と同じです。誰もが穴が深すぎると言い訳をし、自分の腕の短さのせいにはしません。私たちは、自分自身を見つめ直さなくてはなりません。ブッダの教えでは、一旦立ち止まり、自らを観察することが大事なのです。
 
 ときには、バス一台に大勢の人たちが乗って、この僧院へと功徳を求めてやって来ることもあります。その中には、酔っぱらっていたり、道中バスの中で口喧嘩をしてきた人もいる始末です。そんな人たちに、
「あなたたちは、ここに何をしに来たのですか?」
と問うと、功徳を期待してやって来たと言います。彼らは、功徳は欲しいが、悪行為から離れるのは嫌なのです。けれども、そんなことでは決して功徳を得ることはできません。
 
 世間の人々とは、この程度のものです。しかし、皆さんは自分自身をよく見つめ直さなければなりません。ブッダは、いついかなる時でも自分自身に気づき(サティ)を向けることの大切さを説きました。私たちの身・口・意を通して、悪行為はおこなわれます。あらゆる善行為と悪行為は、身・口・意を源として生じます。身・口・意は、いついかなる時でも、私たちと共にあります。ですから、私たちが観察しなければならないのは、自らの身・口・意なのです。観察する対象を、どこか遠くに探す必要はありません。自分自身の行動や言動、思考を観察すればいいのです。そして、自分の行いに間違いがないかどうか、確認をしてください。
 
 世間の人々は、自らの身・口・意を観察しようとはしません。しかめっ面で皿洗いをする主婦を想像してみてください。彼女は皿を洗うことに夢中で、自分の心が汚れていることに気づいていません。彼女はただ、食器だけを見ており、自分自身の心を観察していないのです。皆さんも、こうした経験があるのではないでしょうか? 私たちは遠くではなく、「今、ここ」を観察しなければなりません。世間の人々とは、皿を洗うのに夢中になって、自らの心が汚されているのに気づかない主婦と同じです。完全に気づき(サティ)を失っているのです。それでは、いけません。
 
 自分自身を観察していないため、私たちは様々な悪行為を犯してしまいます。私たちは悪いことをするとき、まず周囲を見渡して、誰も見ていないかどうかを確認します。
「お母さんが見ていないかな?」
「夫が見ていないかしら?」
「子どもたちに見られないかしら?」
「妻は見ていないだろうか?」
そして、誰も見ていないことを確認すると、悪事を実行します。これは、自分自身を欺く行為です。「誰も見ていない」と言いますが、本当に誰も見ていなかったのでしょうか? 「自分」は目撃者の中に入らないのでしょうか?
 
 このように、自分自身を観察しないために、私たちは人生の本当の価値を見出すことができないのです。私たちの人生に真の価値をもたらすものは、ダンマを探求することです。自分自身を観察すれば、自分という人間が理解できます。悪行為をしそうになっても、自分を観察していれば、実際に行為をする前に止めることができます。また、善い行為をしたいと思ったときも、自分の心を観察する必要があります。自分を観察することを身につけていければ、善い行為と悪い行為、有益な行為と有害な行為といったものを、見分けることができるようになります。こうしたことは、私たちが知っておくべきことです。
 
 それにもかかわらず、世間の人々の大半は、こうしたことを知りません。私たちの心の中には、通常、欲(ローバ)や無知(モーハ)といったものがありますが、ほとんどの人々はそれに気づいていません。自分の外側で起こっていることにばかり気を取られ、内面には目を向けません。そうして自分の心を観察しないから、私たちは人生において様々な問題を引き起こしてしまうのです。自分の心を観察するようになると、善と悪の区別がつくようになってきます。何が善であるか理解できれば、善に基づいて行動をすることができるようになります。
 
 悪行為から離れ、善行為をおこなうこと。これが、ブッダの教えの核心です。身・口・意において、一切の悪行為から離れること( Sabba pāpassa akaranam )こそが、正しい仏道修行のあり方です。悪行為から離れることによって、私たちの心は清らかになるのです。
 
Kusalassa upasampadā
善を身につける
 
 次にご紹介する真理の言葉は、「Kusalassa upasampadā」です。私たちの心が道徳的で、善を身につけていれば、バスに乗ってタイ中をまわり、功徳を求める必要はありません。どこへも行かず、家にいたまま、功徳を積むことができるのですから。ですが、世間のほとんどの人々は、悪行為から離れずに功徳だけを欲して、お寺参りに励みます。彼らは寺にいるときは満足そうな顔をしていますが、家に帰ればまたムスっとした顔に戻ります。そして、自分の心を観察することをせずに、イライラした顔をしたまま、皿洗いを続けるのです。私たちは自分の心を観察しないかぎり、功徳を得ることはできなのです。
 
 こうしたことを知識として知っていても、心から腑に落ちていなければ、本当の意味で知っていることにはなりません。ブッダの教えを聞いても、心に響かないのです。善い心を持ち、道徳的な生活を送る人は、皆幸せです。そうした人の心は、笑顔に満ち溢れているのです。しかし、世間のほとんどの人々は、ムスっとした顔をしながら生活をしています。世間の人々が笑顔を見せるのは、自分の思い通りに物事が進んだときだけです。彼らの幸せは、物事が自分の思い通りに進むかどうかにかかっています。世の中の人々が、自分にとって耳ざわりのいいことだけを言ってくれることを望んでいるわけです。しかし、そんなことが本当に可能なのでしょうか? それは、見果てぬ夢なのではないでしょうか?
 
 私たちはダンマを学び、幸福にならなければなりません。善いことでも、悪いことでも何であれ、それに盲目的に執着してはいけません。何が起きようと、ただ対象に気づき(サティ)、それを手放すように。そのように生活をし、心がリラックスすれば、自然と微笑んで毎日を過ごすことができるようになるでしょう。反対に、何かに対して怒った瞬間、心は汚れます。怒ったところで、私たちの人生にとっていいことは何もありません。
 
Sacitta pariyodapanaṃ
心を清らかにする
 
 心から汚れが取り除かれると、私たちは不安から解放されます。そして、心は常に平安で、道徳を兼ね備えたものになります。悪行為を離れた心は、いつでも安らかで、光り輝いています。こうした平安な心こそが、私たちが人生で目指すべき目標なのです。
 
 他人からいい気分になるようなことを言われれば、私たちは微笑みます。反対に、不愉快なことを言われれば、ムスっとした顔になります。しかし、他人から常にいい気分になるようなことを言ってもらうことは、可能でしょうか? 皆さんは、自分の子どもからさえ、不愉快なことを言われたことがあるのではないでしょうか? 自分の両親を怒らせるようなことを言ったことはありませんか? 私たちは、他人の言ったことだけでなく、自分の考えたことに動揺することさえあります。自分自身、不愉快なことを考えてしまうこともあります。一体、どうすればいいのでしょうか? 歩いていて、木の根に躓いたとします。
「痛い!」
と思っても、誰かに蹴られたわけではありません。他の誰のせいでもなく、自分のせいです。自分の心が、自分自身を不愉快にさせているわけです。そのようなときは、他の誰を咎めるわけにもいきませんから、
「畜生!」
とでも言って、諦めるしかありません。
 
 仏道修行において「徳を積む」とは、悪行為から離れることを指します。悪行為から離れれば、人生において間違いを犯すことはありません。そのようにして生活をすれば、ストレスを感じることもなく、心は穏やかになります。そのとき、私たちの心は清らかです。清らかな心には、怒りは存在しません。
 
 では、心を清らかにするには、どうすればいいのでしょうか? ただ、現象に気づけば(サティ)いいのです。例えば、
「今日は本当に機嫌が悪い。見るものすべてが気に障る。食器棚の皿さえムカつく」
と思ったとしましょう。食器棚の皿を、一枚残らず叩き割ってしまいたい気分になることもあるでしょう。何を見てもイライラします。鶏もアヒルも犬も猫も、何もかもムカつきます。夫の言うことはすべて不快です。自分自身さえ、嫌になってきます。そんなとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか? この苦しみはどこから来るのでしょうか? こうした状態を「徳がない」と言います。最近、タイでは、誰かが亡くなると「その人は徳が尽きたのだ」と言います。でも、その言い方は間違っています。徳が尽きた状態で生きている人も、たくさんいますからね。そのような人たちは「徳を積む」ことの意義を理解していないのです。そうした人たちの心は、どんどん悪くなっていくばかりで、向上をするということがありません。
 
 御利益を求めて寺院巡りをすることは、計画性もなく、家を建てようとすることと同じです。無計画に家を建てようとすれば、ちょっとした災害で倒壊してしまうでしょう。家の設計がちゃんとしていませんからね。そうして結局、家を建てることを一からやり直す羽目になるのです。そうならないためには、自らの身・口・意に問題がないかどうか、観察をしなければなりません。私たちが観察すべきものは、自らの身・口・意なのです。それ以外に、何を観察する必要があるでしょうか? 世間の人々も、迷いの中にあります。ですから彼らも、ワット・パー・ポンのような森林僧院で、瞑想実践をしたいと思っているのです。ですが、ワット・パー・ポンは本当に心安らぐ場所でしょうか? 違いますよね。私たちが本当に心から安らげる場所は、自らの身・口・意の中にしかないのです。
 
 智慧(パンニャ)さえあれば、世界中どこへ行こうと、安らいで、リラックスして過ごせます。どこへ行こうと、そのありのままの姿を受け入れられるわけです。森の木にも、高い木、低い木、幹に空洞のある木など、様々な木々がありますが、そのどれもがありのままでいいわけです。
「この木は短すぎる! この木には、空洞があるじゃないか!」
などと感じるのは、私たちの側の思考にすぎません。ですが、私たちは自然というものの本質を知らないため、自らの見解(ディッティ)を押し付けてしまう。実際には、それらは木々のありのままの姿であり、私たちよりも豊かな存在なのです。
 
 そのようなわけで、私はワット・パー・ポンの周囲に生えている木々に、「これらの木々から学びましょう」と書いたプレートを設置しています。皆さんはもう既に、森の木々から何か学びましたか? 少なくとも1つくらいは、森の木々から何かを学んでください。森にはたくさんの樹木があり、そのどれもがあなたに何かを教えてくれることでしょう。あらゆる自然の中に、ダンマが潜んでいます。このことを、よく理解してください。「穴が深すぎる」と文句を言うのではなく、自らを省みて「自分の腕が短いのだ」と理解すべきです。このことが分かるのなら、私たちは幸せに暮らすことができるようになるでしょう。
 
 徳を積んだら、その徳を心の中に保つようにしてください。今日、皆さんはここへやってきて、徳を積みました。そのこと自体はよいことですが、最善とは言えません。「お寺を建てる」ことは善行為ではありますが、最善の行為とは言えないのと同じです。最善の行為とは、自分の心を清らかにすることです。自分の心が清らかなら、お寺にいようと、家にいようと、心の中に「善」を保つことができます。ぜひ、ご自分の心の中に、「善」を見出してください。この瞑想ホールのような建築物は、木で言えば「樹皮」のようなもので、「心材」ではないのです。
 
 智慧(パンニャ)があれば、どこにいてもダンマと出会うことができます。もし私たちに智慧(パンニャ)がなければ、善きものに触れても、それは悪しきものに変質してしまいます。その悪は、どこから生み出されたのでしょうか? 私たち自身の心から、その悪は生み出されたのです。心が変化すれば、私たちを取り巻くすべてのものが変化します。ある夫婦は、以前は仲が良く、会話も弾んでいました。しかし、ある日突然、夫婦仲は険悪なものとなり、互いにパートナーの言うことすべてが不快に聞こえるようになりました。こうしたことは、心が悪に変化することによって生じるのです。
 
 悪から離れ、善を養うために、どこか遠くへ行く必要はありません。もし、自分の心が悪に染まりつつあるのなら、それを他人のせいにするわけにはいきません。その時は、ただ自分の心を観察し、その思いがどこから去来したのかを確認すればいいだけです。なぜ私たちの心は悪に傾く傾向があるのでしょうか? あらゆるものは無常(アニッチャ)であると理解することが大事です。「好き」という感情も、「嫌い」という感情も、一時的なものです。皆さんは、自分の子どもを愛していますか? もちろん、愛していますよね。では、子どもたちに対して、一度でも「嫌だな」という感情を抱いたことはありませんか? これまでの人生において、何回かはそのような感情を抱いたことがあるのではないでしょうか。ですが、かといって自分の子どもを捨てられますか? 無理ですよね。子どもは銃弾とは違いますからね。*1 銃弾は一度発射したら戻ってきませんが、子どもは親の元に戻ってきます。そして、子どもが悪に染まれば、その影響は親に跳ね返ってきます。「子どもとは、その親のカルマである」ということが言えるかもしれません。世の中には、善良な子どももいれば、悪い子どももいます。しかし、善良であろうと、悪かろうと、皆さんの子どもなのです。たとえ悪い子どもであろうと、大切な存在であることには違いありません。ある子はポリオの影響で、身体に障がいがあるかもしれません。ですが、そうした子供は親にとって、健常な他の兄弟より愛おしいものです。しばらく家を空けるときは、必ず書き置きを残します。
「あの子の面倒をちゃんとみてあげてね。あの子は身体が弱いのだから」
他のどの兄弟よりも、その障がいのある子を慈しんでいるのですね。
 
 私たちの心には「好き」という感情と「嫌い」という感情の双方があります。それらを、上手にコントロールするようにしてください。どちらか一方の感情だけ、というわけにはいきません。それらは、一体のものなのです。あなたの子どもは、あなたのカルマです。あなたのカルマにふさわしい子どもが、あなたの家にやって来たのです。子どもたちはあなたのカルマなのですから、責任を持って育て上げる必要があります。もし、子どもの行動によって悩まされるようなことがあったのなら、
「これは私のカルマだ」
と自分に言い聞かせるのです。反対にもし、子どもがあなたを喜ばせるようなことをしたときにも、
「これは私のカルマだ」
と自分に言い聞かせるようにしてください。家庭の中では、時には家を飛び出したくなるような、嫌な出来事が起こることもあるでしょう。自殺を考えるくらい、辛いこともあるかもしれません。ですが、それも皆、自分のカルマなのです。事実ですから、それを受け入れざるを得ません。まずは、悪行為から離れることが重要です。そうすれば、自分自身の心をよりはっきりと観察することができるようになるでしょう。
 
 物事をよく観察することは、とても重要なことです。通常、私たちは瞑想をするとき、「ブッドー」「ダンモー」「サンゴー」などと、特定の言葉を唱えたりします。ですが、もっと簡単な言葉を唱えることもできます。イライラしたり、心がざわついたら、ただ一言「それで?」と唱えればいいのです。反対に、気分がいいときも、
「それがどうしたんだ? これだって確実なことではない」
と唱えるのです。誰かを好きになっても、「それで?」と唱えます。誰かに怒りを感じても、「それで?」と唱えます。分かりましたか? この修行を実践するのに、三蔵経典を熟読する必要はありません。ただ、何があっても、「それで?」と唱えればいいだけのことです。この「それで?」という表現は、「一時的なもの」という意味で使っているのです。愛も、憎しみも、善も、悪も、すべて一時的なものです。永続するものではありません。無常ではないものなど、この世界のどこにも存在しないのです。
 
 この世で「変わらないもの」というのは、「常に無常である」という事実のみです。このことだけは確実であり、例外はありません。ある物を好きになるときもあれば、嫌いになるときもあります。それが現象の性質なのです。それだけが、「変わらぬ」事実です。ですから、何かを「好き」と感じても、「それで?」と唱える必要があるのです。簡単ですよね。いちいち、「無常・苦・無我」などと唱える必要はありません。このシンプルな言葉を覚えておけば十分です。誰かを好きになったら、心の底から夢中になる前に、「それで?」と唱えてください。それだけで十分です。
 
 すべては無常です。そして、その事実だけが「変わらないもの」です。このことを理解すれば、私たちはダンマの核心を掴んだことになります。
 
 どんなことに出会っても、ただ「それで?」と唱えるようになれば、執着はどんどんと減っていきます。そうすれば、私たちは欲(ローバ)や怒り(ドーサ)に囚われることもなくなっていきます。現象への執着心が減ってきたため、そのような心境になるのです。これは、真理に対する信(サッダー)が確立したために生じることです。仏道を修行するにあたっては、これだけ知っていれば十分です。これ以外に、何を知る必要があるでしょうか?
 
 法話を聴いたのなら、その内容をきちんと憶えておく必要があります。では、どのようにして憶えればいいのでしょうか? 正しく内容を理解すれば、教えを忘れずに憶えておくことができます。そして、ダンマを正しく理解しているのなら、ダンマはあなたの心の中で、自然と働くようになるでしょう。心に怒りが生じたら、即座に「それで?」と唱えればいいのです。そうすれば、すぐに怒りの感情は止まります。このことが理解できないのなら、より物事をしっかりと観察をする必要があります。そして、物事の無常についてしっかりと理解できるようになったら、心に怒りが生じても、ただ、
「それで? これもまた無常にすぎない」
と唱えて、怒りを止めればいいのです。
 
 今日の法話は、テープレコーダーにも録音しています。それと同時に、皆さんの心にも刻まれたはずです。もし皆さんの心に何も残っていないのなら、このワット・パー・ポンで法話を聴いた時間は無駄だったということです。テープに録音した法話は、それほど重要ではありません。本当に大切なのは、皆さんの心の中にある「レコーダー」です。テープに残した記録もまた、無常です。いつかは消え去ります。ですが、ダンマが皆さんの心に残れば、それは決して失われることはありません。ありがたいことに、電気代もかかりませんしね。
 
【注】
*1 タイ語で子どもを意味する「luuk」と、「銃の子ども」つまり「銃弾」を意味する「luuk peun」に掛けた言葉遊び。

アチャン・チャー『Living Dhamma』より
 
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .
 

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