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世俗と解脱(全訳)

アチャン・チャー

 世間の物事というものは、人々が作り出した慣習にすぎません。私たちは自分自身が作った慣習に縛られ、それらを握りしめ、様々な見解(ディッティ)に固執しているのです。こうした執着に、終わりはありません。そして、この終わりのない執着こそが、輪廻(サンサーラ)なのです。もし、私たちが世俗諦というものをはっきりと理解しているのなら、解脱とはいかなるものかということが分かるはずです。反対に、解脱とは何かがきちんと理解できているのなら、世俗諦が何かもしっかりと分かるはずです。これが、ダンマを知るということであり、このことを実践することにより、私たちの修行は完成します。
 
 例えば、名前というものについて考えてみてください。現実の人間には名前などなく、まったくの裸でこの世に生まれてきただけです。私たちが名前を持っているのは、それが慣習で決まっていることだからなのです。私はこのことを観察し、こうした世俗諦について理解を深めないことは、有害であると気づきました。世俗諦とは、ただ便利だから私たちが使っているものにすぎないのです。世俗諦がなければ私たちはコミュニケーションをとることができず、言語も成立しないのです。
 
 私は以前、西洋人の男女の瞑想修行者が、一緒に座って瞑想をしているのを見たことがあります。瞑想が終わって、立ち上がるとき、その男女はときおり、互いの頭に触れたりしていました。それを見たとき、私は
「あぁ、世間の習慣に執着しておっては、心が汚れるな」
と思いました。世間の慣習や見解(ディッティ)を手放すことができれば、私たちは平安でいられます。
 
 私のところにも、将軍のような軍の高官たちが来て、
「頭を触ってください」
と頭を下げてくることがあります。そういう場合は、何の問題もありません。*1けれども、往来で人の頭に触るのなら、話は別です。そのようなことをするのは、執着があるためです。ですから、執着を手放すことこそが、真に平安への道なのです。タイでは一般的に人の頭に触るのは不作法だと考えられていますが、本来はそんなことは何でもないことです。もし皆が頭を触られることに同意をしているのなら、キャベツやジャガイモに触るのと同じくらい、どうということは無い話です。
 
 物事を受け入れ、手放せば、身軽に人生を生きていくことができます。物事に執着すれば、そこからしょうが生まれる可能性があります。そこに、危険が潜んでいるのです。ブッダは正しい方法で世俗諦から解き放たれ、解脱に到達する道を説きました。真の自由とは、世俗諦にしがみつくことではありません。この世間に存在するあらゆるものが、世俗諦を前提としています。ですが、世俗諦に惑わされると、苦しむことになります。世俗諦や世間の慣習といったものについては、この点が最も重要なポイントです。世間の慣習を乗り越えられるものこそが、苦しみ(ドゥッカ)をも乗り越えられるのです。
 
 ただし、そうは言っても世俗諦というものはこの世界の性質でもあります。例えば、ブーンマ氏は、以前はただの一市民でしたが、今では県知事です。こういった肩書というものは世俗諦ですが、私たちが社会生活を送るにあたって、尊重すべき慣習です。そうした慣習によって、世間の平和は保たれています。もし、あなたがブーンマ氏に対して
「あぁ、あいつは昔俺の友達で、仕立て屋で一緒に働いていたよなぁ」
と考え、人前で彼の頭を撫でたら、彼はきっと怒るでしょう。それは非常識な行為であり、そのようなことをすれば、恨みを買うのは当然です。ですから、むやみに他人から恨みを買ったりしないためにも、慣習に従うのが無難です。世間の慣習を理解することは、大変有用です。世間で生きていくというのは、結局そういうことなのです。時と場所、そして相手の立場をわきまえた行動をすることが大事です。
 
 なぜ、慣習を破るとトラブルが起こるのでしょうか。私たちが「人」というものを実在するもののように考えているため、そうした諍いが生じるのです。ですから、私たちは慣習(世俗諦)と解脱の両方について理解し、より賢くなるべきなのです。それぞれに従うべき、適切なタイミングを知ること。ルールや慣習を適切に扱うことを身につけていれば、私たちはより善く生きることができます。それを理解せずに、適切ではないシチュエーションで勝義諦に従った行動をとろうとすると、間違いを引き起こすことになります。なぜなら、世間の人々には煩悩がありますから。私たちは状況に応じて、慣習(世俗諦)に従う場合と、勝義諦に従う場合を使い分けなければなりません。私たちは慣習の中で生活しているのですから、その裏表を知っているはずです。問題が生じるのは、いつでも私たちが慣習に固執するときです。私たちは、様々な物事を決めつけて考えがちです。しかし、究極の観点(勝義諦)から観察してみると、そこには何も存在していないのです。
 
 いつも言っている話ですが、私たちは以前は在家で、今では出家として生活していますね。出家する前は、「在家」としての慣習の中で生活していましたが、今では「比丘」としての慣習の中で生活をしています。私たちは世俗の決まりごとの上で比丘と呼ばれているだけであって、解脱をしたから比丘と呼ばれているわけではありません。まずは世間の決まり事として出家したわけですが、ただ出家しただけでは、煩悩を克服したことにはなりません。もし、世間の決まり事として一握りの砂を塩と呼ぶことにするとしたら、それは本当の塩になるでしょうか? 本当の塩とは言えませんよね。もちろん、料理に使うこともできません。本当は塩なのではなく、ただの砂なのですから。その場合、私たちが単に決まり事として砂を塩と名付けているだけのことなのです。
「解脱」という言葉も、それ自体は単なる言葉にすぎず、慣習として使われているものです。ですが、それが指し示しているものは、慣習を超越しています。仮に私たちが解脱をしたとしても、それを他者に伝えるためには、慣習(世俗諦)である言語を使わざるを得ません。慣習(世俗諦)なくして、私たちのコミュニケーションというものは、成り立たないのです。
 
 私たちは、皆それぞれ違う名前を持っていますが、同じ人間です。もし、それぞれを区別するための名前がなければ、人混みの中で特定の人を呼ぶ際に、
「おい! そこの人!」
と呼ぶことになってしまいます。それでは、相手は気づかないかもしれませんし、別の人が応えてしまうかもしれません。しかし、
「おい! ジョン!」
と呼べば、反応するのはジョンで、他の人が間違って応答することはありません。このように、名前とは有用なものです。名前があることによって、私たちはコミュニケーションをとることができます。名前は、社会的生活の基盤となるものなのです。
 
 ですから、私たちは慣習(世俗諦)と解脱(勝義諦)の双方を理解しておく必要があります。世俗諦は世間で生活していく上において有用なものですが、究極の次元においては何も存在しないのです。「人」というものも、存在しません。人は単なる四大(地・水・火・風)の集まりであり、原因によって生じ、縁によって育ち、やがては消えていくものにすぎません。けれども、慣習(世俗諦)がなければ、私たちは物事に名前すら付けられませんから、それでは仕事になりません。世間のルールや慣習といったものは、私たちが言語を使いこなし、世の中を便利にするために形成されてきたものであり、それ以上のものではないのです。
 
 たとえば、お金というものも慣習です。大昔には、硬貨や紙幣といったものは無く、そんなものには何の価値もありませんでした。人々が交易をするときには、物々交換でおこなっていたのですが、それでは不便なので、お金というものを発明したのです。ですから、もしかすると将来、新しい国王が
「これからは紙のお金は使わない。蝋を溶かして塊にしたものを、貨幣とするのだ」
と宣言したら、私たちはそれに従わなければなりません。そのときは、蝋を貨幣として使用するのです。お金になるのは、蝋に限った話ではありません。そのうち、鶏の糞をお金として使うようになるかもしれません。鶏の糞が貨幣になれば、人々は鶏の糞をめぐって争いあい、人殺しさえするかもしれません。慣習(世俗諦)を説明するために、このように多くの例を使うことができます。お金が価値を持つのは、ただ単に私たちがそう取り決めた慣習だからです。私たちが、それが貨幣であると取り決めたから、貨幣として使用されているのです。しかし、実際のところ、お金とは何なのでしょうか? それに答えることができる人は、誰もいません。何かについて私たちが同意をし、取り決めをすれば、それが慣習になります。私たちの暮らす世間とは、そのようにして成り立っているのです。
 
 このように普段、私たちは慣習(世俗諦)によって生活しているため、解脱(勝義諦)について理解するのは本当に難しいです。お金、家、家族、子どもたち、親戚といったものは、人間世界の決まりごとである慣習(世俗諦)にすぎません。ダンマの観点から見れば、それらはどれも、自分のものではありません。そのようなことを言われると、あまりいい気分はしないかもしれませんが、それが真実です。それらのものは、慣習によって、決まり事としてのみ価値を持つものです。ですから、その前提が変わって、価値がないという取り決めになれば、価値は無くなります。私たちは、社会を円滑に動かすための必要に迫られて、慣習(世俗諦)を利用しているだけのことなのです。
 
 この身体でさえ、本当は私たちのものではなく、自分で思い通りになると思い込んでいるだけなのです。ですが、それはまったくの仮定の話です。私たちの身体の中に、「本当の自分」といったものを見出そうとしても、それは無理な話です。そこにあるのは、生じてはしばらく持続し、やがては滅する四大(地・水・火・風)だけのみです。これは、あらゆるものに通じる原理です。現象には実体はありませんが、道具として使うことは可能です。道具はいつかは壊れてしまうものですが、壊れたら厄介だから、大事に使うというのは当然の話です。私たち比丘は、在家者から四資具(衣・食・住・薬)をサポートされて生活していますね。これらは、私たち比丘が修行を続けるために必要なサポートです。生きている以上、私たちはそれらに頼らなければなりません。けれども、私たちはこの四資具に執着し、心に渇望を生じさせてはならないということを、決して忘れないようにしてください。
 
 慣習(世俗諦)と解脱(勝義諦)は、常にこのように関連しています。慣習を活用することは問題ありませんが、それを真理であると誤解してはいけません。慣習に執着すれば、苦しみ(ドゥッカ)が生じます。善悪の判断は、その良い例です。一部の人々は、間違ったことを正しいと思い、正しいことを間違っていると思い込んでいます。しかし、最終的に、何が正しくて何が間違っているのか、誰に分かるというのでしょうか? 私たちには、それを知ることはできません。様々な人々がそれぞれの慣習(世俗諦)を持ち、各々の善悪の基準を持っています。けれども、ブッダが修行の指針、ガイドラインとしたのは善悪ではなく、苦しみ(ドゥッカ)です。善悪について私たちが議論をしたところで、きりがありません。ある人はあることを「善」と言い、別の人は「悪」と見做す。また、ある人はあることを「悪」と言い、別の人は「善」と言う。結局、私たちは善悪について、何も理解していないのです。しかし、実用的な観点から見れば、「善」とは自分も他人も害さないことだと言えます。このことが理解できていれば、日常生活においては十分です。
 
 結局のところ、慣習(世俗諦)も解脱(勝義諦)も、ダンマだと言うことです。どちらが上で、どちらが下、ということはありません。それらについて「絶対にこうだ」と保証できるものはないのですから、放っておきなさい、というのがブッダの教えです。ただ、不確かなものとして、放っておけばいいのです。好きだろうが、嫌いだろうが、世の中のものはすべて不確かなのです。
 
 最終的には、ダンマの修行は時間や空間を超越した地点で完結します。そこは、私たちがすべてを手放し、完全に人生の重荷を下ろした、空なる場所です。そこで、修行は完成です。今、私が話そうとしていることは、風にはためく旗を見て、その原因は風にあるのか、旗にあるのかと議論するようなものとは異なります。そのような議論には終わりはありません。「卵が先か、鶏が先か?」といった、昔からある謎かけと同じようなものです。そうした話には、結論の出しようがないのです。
 
 こうした話は、すべて慣習(世俗諦)です。慣習(世俗諦)とは、私たち自身が作り出したものです。ですが、智慧の眼で見れば、それらの中に無常、不満足(ドゥッカ)、無我を見出せるはずです。それが、悟りへと至る道なのです。
 
 理解度の異なる人々に瞑想指導をするのは、本当に大変です。ある人々は修行に対して既に自分の見解を持っており、指導をしても、中々聞き入れてくれません。真理と説いても、それは違うと否定されてしまいます。
「正しいのは私です。間違っているのは、先生のほうです」
このようなやり取りには、終わりはありません。もしあなたがそうした見解を手放さないのなら、そこに待っているのは苦しみ(ドゥッカ)だけなのです。以前、四人の男が森に行った話をしたことがありましたね。男たちは「コケコッコー!」という鶏の鳴き声を聞きました。男たちの中の一人が、
「あれは雄鶏か? それとも雌鶏か?」
と言いました。男たち四人のうち三人は「雌鶏だ」と言いましたが、一人は納得せず「雄鶏だ」と言い張ります。
「雌鶏があんな風に鳴くわけないだろう」
と言って譲りません。三人は逆に、
「そりゃあ、口があるんだから、あんな感じに鳴くだろう」
といって取り合いません。彼らの議論は果てしなく続きますが、結局はすべて間違いです。雌鶏と言おうが、雄鶏と言おうが、それは単に名前に過ぎません。私たちは
「雄鶏とはこのようなものである」
「雌鶏とはこのようなものである」
「雄鶏とはこのように鳴くものである」
「雌鶏とはこのように鳴くものである」
といった慣習(世俗諦)を作り、そうして世間から抜け出せなくなるのです。いいですか、このことだけは覚えておいてください。真理という観点から見れば、雄鶏も雌鶏も存在しないのです。慣習(世俗諦)の支配する俗世間では、どちらかが正しく、どちらかが間違いになりますが、意見の異なる双方が納得することはないでしょう。ですから、興奮して議論をしても、無駄なのです。
 
 ブッダは、何事にも執着しないことを説きました。皆さんは、どのように「執着しない」ことを実践していますか? 私たちは、執着を手放すことを実践していますが、この修行の意義を理解することは大変難しいです。無執着を完全に達成するためには、物事をよく観察し、智慧を育てることが必要です。私たちの人生が、幸福なものになるか、不幸になるかは、智慧の有無にかかっています。すべての苦しみ(ドゥッカ)は、智慧の力を通じて、現象の真の姿を観ることによってのみ、克服することができるのです。
 
 ですからブッダは、私たちに現象を観察することを説かれたのです。観察することによって、物事を正しく解決できるようになります。これが、私たちがするべき瞑想実践です。生、老、病、死は、私たちにとって、最も身近な出来事です。ブッダは私たちに、生、老、病、死を観察するようにと説きました。ですが、このことをよく理解できない人々がいます。
「何を観察するっていうんだ?」
と言うわけです。彼らは、この世に生まれてきますが、しょうとは何かを知りません。彼らは、やがて死にますが、死とは何かを理解していないのです。
 
 生老病死を繰り返し観察することによって、分かってくるものがあります。観察を通じて、私たちは徐々に自分の問題を解決できるようになっていきます。たとえまだ執着が残っていたとしても、智慧の眼によって、老、病、死といったものは自然の摂理であると分かれば、苦しみ(ドゥッカ)は消えていきます。私たちは、この苦しみ(ドゥッカ)を乗り越えるために、ダンマを学ぶのです。仏教の教えはシンプルです。私たちの人生とは、ただ苦しみ(ドゥッカ)のしょうめつがあるのみです。そして、そのことをブッダは真理と呼びました。生、老、病、死は苦しみ以外の何物でもありません。ですが、世間の多くの人々は、この苦しみ(ドゥッカ)という真理に気づいていません。真理を知るとは、苦しみ(ドゥッカ)を知るということなのです。
 
 個人的な意見に基づく議論には、終わりはありません。心を休め、平安に至るためには、過去に経験したことや、今起こっていること、また生、老、病、死といったものを、よく観察しなければなりません。こうしたものに悩まされないためには、どうすればいいのでしょうか? たとえ今はそれほど人生の困難に直面していないとしても、真理に従って、観察を続けることです。そうすれば、やがてすべての苦しみ(ドゥッカ)は消滅し、もはや何物にも執着しない境地に達することでしょう。
 
【注】
*1 タイでは、高僧に頭を触られることは縁起が良いとされている。


アチャン・チャー『A Taste of Freedom』より
 
"A Taste of Freedom", by Ajahn Chah. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/atasteof.html .
 
 
 

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