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アチャン・マハーブーワ小伝

 昨年十月、サンガより『手放す生き方』に続き、アチャン・チャーの書籍の第二弾『無常の教え』を翻訳させていただいた。幸い『手放す生き方』は読者の支持に支えられ、廉価な文庫版も刊行されたため、当初単行本を刊行した頃に比べ、アチャン・チャー自身の知名度も高まってきた。

 『無常の教え』には、原書である英語版の訳者、ポール・ブレイターによる丁寧な「英語版訳者まえがき」が付されており、この箇所を読むことによって、読者はアチャン・チャーの教えがタイ仏教の中でどのような位置づけにあるのかを知ることができるようになっている。

 その中には、アチャン・チャーの他にも、アチャン・マン、アチャン・キナリー、アチャン・トン・ラー、アチャン・サオといった、二十世紀のタイ東北部における森林派の代表的な瞑想指導者たちの姿が魅力的に活写されている。これらの様々な瞑想指導者から自分は影響を受けたとアチャン・チャーは言うが、中でも決定的な影響を受けたのは、やはり、アチャン・マンからであったと語っている。本書の中でアチャン・チャーが語っているように、アチャン・マンから直接指導を受けたのは数日であったということだが、その教えはアチャン・チャーが修行を行っていくにあたって、決定的なものであったようだ。 

アチャン・マン

 アチャン・マンの略伝については、『手放す生き方』(文庫版)に収録されているエッセイ「アチャン・チャーと二十世紀のタイ仏教」の中で詳述したので、ここでは簡単にその経歴を振り返るに留める。アチャン・マンは、一八七〇年、タイ東北部イサーン地方ウボンラチャータニーの農村に生まれました。二十二歳で比丘出家、出家先の寺にいたアチャン・サオを修行上の友とし、共に瞑想修行に励んだ。しかし、己の修行にこれという手ごたえを感じることができなかったアチャン・マンは、瞑想の師を求め、遠くビルマにまで及ぶ、遊行の旅に出た。

 しかし、それほどの苦労にもかかわらず、結局、アチャン・マンは最後まで良師と呼べるような人物に巡り会うことはできなかった。けれども、アチャン・マンは決して諦めることなく、自分の知る瞑想法の実践を必死に続け、ついに四十三歳の頃、カオヤイの山中にある洞窟の中で、不還果を得たと伝えられている。その後、郷里に帰ったアチャン・マンは、瞬く間にその修行の力量を示し、その下には多くの弟子たちが集まった。そして、その指導は七十九歳で亡くなる、一九四九年まで続けられた。周囲から「阿羅漢ではないか」とまで噂をされるようになったアチャン・マンには、先述したアチャン・チャーを始め、多くの弟子たちがいたが、中でも、長年にわたってアチャン・マンの元で学び、その教えを深く理解し、自身も二十世紀のタイを代表する瞑想指導者となったのが、本稿の主役であるアチャン・マハーブーワ(Ajahn Maha Bua)だ。

若き日のアチャン・マハーブーワ

 アチャン・マハーブーワは、一九十三年、アチャン・マンと同じウボンラチャータニーに生まれた。生家は、裕福な農家で十六人もの兄弟がいる内の一人だった。アチャン・マハーブーワが二十一歳になった頃、彼の両親は、彼に短期出家をすることを勧めた。タイの伝統では、息子が寺に比丘として短期出家をし、その功徳を先祖、両親に回向することはよいことであるとごく当たり前に考えられていたため、彼もその両親の意向に従い、近所の寺で短期出家をすることになった。一九三四年のことであった。お寺の和尚は彼にニャーナサンパンノ(Ñāṇasampaṇṇo)という出家名を付けた。パーリ語で、「智慧のある者」という意味である。

 当初、アチャン・マハーブーワは、この出家は短期間のみで、一生続ける意思はなかった。だが、寺に入って、ゴータマ・ブッダとその弟子たちの生涯について学んだ彼は、その話に大変な感銘を受け、自分も、ブッダやその弟子たちのように悟りを開きたいと考えるようになった。

 そうして、アチャン・マハーブーワは、初めは短期出家で終わらせるつもりだったが、その考えを改め、まず、パーリ語の基礎から学ぶことにした。経典を読み、ブッダの教えを学ぶためである。同時に律(vinaya)の勉強も始めた。それが、これから長く出家者として生活をしていくうえで、欠かせない知識であると思ったからである。

 七年間、アチャン・マハーブーワは、パーリ語と律(vinaya)の勉強に励み、それらについての知識を十分に身に着けた。そして、いよいよ瞑想実践の修行に入りたいと思った彼は、その時代最も高名な瞑想の師であったアチャン・マンの元で瞑想を学びたいと考えた。

アチャン・マンの弟子となる

 アチャン・マハーブーワは、出家をした寺を離れ、アチャン・マンを探す旅に出た。ほどなくして、幸運なことにアチャン・マハーブーワは、アチャン・マンと出会うことができた。やっと出会えた師は、彼の期待を裏切るような存在ではなかった。アチャン・マハーブーワと面談をしたアチャン・マンは、いとも簡単にアチャン・マハーブーワの修行上の疑問に答え、彼を涅槃へと導く修行の道を、明快に示してくれたからである。

 アチャン・マハーブーワは、アチャン・マンに出会う前に、いくつかのサマタ瞑想に習熟し、それによって深い嘉悦感を感じることができるようになっていた。しかし、アチャン・マンは彼に対して、そのような嘉悦感は悟りの智慧とは明確に異なるものであり、より一層の修行が必要であると、彼を森へと送り出した。

 アチャン・マハーブーワは、やっと自分は真の師と呼べるような存在と出会えたのだと感じ、感動した。彼は、アチャン・マンから瞑想法の指導を受け、その修行に専心した。

 アチャン・マハーブーワの瞑想修行の苦闘は、それから何年も続いた。その間、アチャン・マンは彼に厳しく指導を与え続けたが容易には真のサマタ(静寂)、集中の状態に入ることはできなかった。しかし、最後にアチャン・マハーブーワはついに深いサマタ(静寂)の境地に達し、それは悟りの智慧を生み出す源泉となった。強力な定(サマーディ)の力を持って、現象を観察したアチャン・マハーブーワは、そこに無常・苦・無我の三相を観て取り、ついに己の修行に決着を着けたのである。

自身の僧院の設立へ

 自らの修行に決着を着けたアチャン・マハーブーワは、師の元を離れ、遊行の後、タイ東北部のウドーンターニーの地に身を落ち着けた。そして、その地において弟子たちを教導する僧院の設立を決意したのである。一九五五年、アチャン・マハーブーワは自らの僧院であるワット・パー・バーン・タッド(Wat Pa Baan Taad)を設立した。

 ワット・パー・バーン・タッドは、およそ100エーカーほどの広さの森林僧院である。ここでは、比丘たちが暮らすクティ(小屋)の数は少なく、その数は二十を超えることはない。僧院の戒律は非常に厳格であり、アチャン・マハーブーワの指導もまた、苛烈なものである。

 ワット・パー・バーン・タッドの西洋人の弟子たちは十数人ほどであり、中には長年にわたって彼の元で修業に励んでいるものもいる。アチャン・マハーブーワは、外国人の瞑想修行者に対して、短期間の修行ではなく、もし学ぶのなら最低数年はこの僧院に留まって修行を行うことを求めた。僧院における比丘たちの生活は極めて質素なものであり、食事は一日に一食だけである。簡素なクティに暮らし、シャワーの代わりに井戸水で水浴びをし、日が昇ると共に托鉢にでる。無駄なおしゃべりは禁じられ、沈黙行が推奨されている。僧院での生活はシンプルなものであり、世俗の生活に慣れたものにとっては、スローライフと感じられることだろう。

 ワット・パー・バーン・タッドは、瞑想修行に特化した僧院である。そこでは、作務は必要最小限に抑えられ、日常生活のほとんどの時間は瞑想実践に充てられる。現在、ワット・パー・バーン・タッドの周囲の土地は開墾のため森林伐採が進み、森はほとんどなくなってしまっているが、僧院の中には豊かな自然が残っている。僧院内の比丘や瞑想修行者たちは、その豊かな自然に守られた静寂の中で、修行に専念できる。

アチャン・マハーブーワの説いた瞑想法

 アチャン・マハーブーワは、自身の瞑想指導においては、智慧を生み出すためのサマタ瞑想の修習を重視する。また、彼は仏道の伝統的な修行法である三学、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)を順番に習得するものではなく、相互に相補い養っていくものであると説く。それぞれの人の機根によって、慧(パンニャ)のある行動が、定(サマーディ)を導くこともあるし、定(サマーディ)のあることが、戒(シーラ)に満たされた行動を促すこともあるというわけだ。

 具体的な実践方法としては、四十種類あるサマタ瞑想の中から、主に五つの業処(カンマッターナ)を修行者の性格や資質によって選択し、修行をさせている。その五つの業処(カンマッターナ)とは、
 
①身起念(カーヤガタ・サティ)
②仏随念(ブッダ・アヌッサティ)
③法随念(ダンマ・アヌッサティ)
④僧随念(サンガ・アヌッサティ)
⑤アーナパーナ・サティ
 
の五つである。それぞれ、詳しく見てみよう。
 
①身起念(カーヤガタ・サティ)
身起念(カーヤガタ・サティ)とは、自らの皮膚、毛髪、爪、歯、筋肉、骨、内臓、大小便、血液、脳などの身体の32の部分を対象にして、繰り返し念じる瞑想のことである。
 
②仏随念(ブッダ・アヌッサティ)
③法随念(ダンマ・アヌッサティ)
④僧随念(サンガ・アヌッサティ)

仏随念(ブッダ・アヌッサティ)とは、姿勢を正して座り、息を吸うときに「ブッ」、吐くときに「トー」と心の中で唱えながら呼吸をしていくものである。法随念(ダンマ・アヌッサティ)のときは、言葉が息を吸うときに「ダン」、吐くときに「モー」となり、僧随念(サンガ・アヌッサティ)のときは、言葉が息を吸うときに「サン」、吐くときに「ゴー」となる。
 
⑤アーナパーナ・サティ
アーナパーナ・サティとは、入息、出息に対する気づきの瞑想のことである。パーリ経典、中部経典の118番目「アーナパーナサティ・スッタ」に詳細な修行法が記述されている。16種類の考察対象に従い、呼吸を観察していくことにより、心身の静寂さ、無常、苦、無我の三相の真理を理解し、観察することができるようになる。

智慧の開発

 このようなサマタ瞑想を実践していくことにより、私たちは智慧を養い、無常・苦・無我の三相を観察するヴィパッサナー瞑想に入っていくことができる。

 ヴィパッサナー瞑想を実践することにより、私たちは自分が存在するという誤解、有身見(サカーヤ・ディッティ)を打ち砕き、真理に到達することができるのである。

 また、アチャン・マハーブーワはその法話の中で、サマタ瞑想に打ち込むことにより、私たちが禅定状態に入ると、様々なニミッタ(相)が見えることがあるが、それらのイメージに惑わされたりすることのないように戒めている。また、ニミッタ(相)が見えることが瞑想の進歩の証であると勘違いをし、無理にそれを見ようとすることもまた無意味であると指摘している。瞑想の進歩とは、あくまで自然なスピードで為されるものなのである。

 このような間違いを防ぐためにも、瞑想修行は熟達した正しい指導者のもとで行うことが望ましい。よほどの天才でない限り、独習による進歩はあまり期待できず、時には危険ですらある。

アチャン・マハーブーワの晩年

 アチャン・マハーブーワは、法話の名手として有名であった。それは、法話の内容が彼自身の体験に支えられたものであること、煩瑣な仏教用語に頼らず、直接的で簡明な言葉遣いで法を説いたからだといえる。

 こうして、アチャン・マハーブーワが比丘たちや在家の瞑想修行者に与えた法話は書籍化され、現在、タイでは数百冊以上が出版されている。だが、その内英語に訳されたものはごくわずかであり、邦訳された書籍はまだない。法話のような口述ではない書籍としては、アチャン・マハーブーワが自身の師であるアチャン・マンの評伝を自ら執筆しているが、こちらも未訳である。また、書籍化されていない法話のテープは、数百巻以上にものぼるといわれている。

 アチャン・マハーブーワは、説法のため、イギリスを訪れたこともあった。また、彼は多くの国民に敬愛され、タイ国王や女王に謁見し、法(ダンマ)を説いたこともあった。「阿羅漢ではないか」と人々から噂されるような名僧の内、多くが二十世紀中に亡くなっていくなか、アチャン・マハーブーワは二十一世紀に入っても、孤高の存在として法(ダンマ)を説き続けた。だが、二〇十一年、多くの人々に惜しまれつつ、アチャン・マハーブーワもこの世を去った。だが、彼の説いた法(ダンマ)は、今も脈々と彼の弟子たちに受け継がれているのである。

参考文献

Kornfield, Jack, Living Dharma: Teachings and Meditation Instructions from Twelve Theravada Masters , Shambhala, 2010
 
 
初出:『サンガジャパンVol.18』
 
 

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